こころの同志

  ロンドンからさほど離れていないバークシャー州、ウィンザーの町に、淑女を育成することで有名なオーブリー女子寄宿学校は静かな佇まいを見せている。
 大通りに面して建つ煉瓦造りの校舎は、年頃の娘たちが教育を受け、寝起きするのに、ゆったりとしたスペースを備えている。外側からは窺い知れないが、中庭には気持ちの良い木陰がそこかしこに落ちている。少女たちはここでたっぷりと日光を浴びることもできるし、中庭の一角に面して建つ礼拝堂では、敬虔な祈りを神様へ捧げることができる。見学に訪れる父兄は、オーブリーの近代的な設備と、落ち着いた環境に満足して、自分の娘を入学させようと決意するのだ。

 テムズ川を渡って対岸のイートンにある名門男子校イートン・カレッジには、英国中から選りすぐった名家の子息たちが集まっており、彼らに相応しいレディを育てるべく、志を高くして厳格な女子教育を施すのが、この女子寄宿学校のモットーだった。

 英国でも最高の花嫁修業を受けることができ、卒業後すぐに社交界デビューしても、十分にやっていけると評判のオーブリーには、様々な事情を背負った少女たちが送り込まれている。
 非の打ち所がない名家に生まれ、潤沢な資産を持つ両親がいれば、家庭教師をつけ、社交界デビューまでを家で過ごすのが普通だ。オーブリーに集まる少女たちは、両親の希望をその双肩に背負い、玉の輿を実現すべく、日々、粛々と規律に従い、生活を送っている。

 少女たちの日常生活は、監督生と呼ばれる最上級生が上に立ち、年下の少女たちが規則正しい毎日を送れるよう指導している。同年代の娘たちが集まれば、賑やかになるのは、いつの時代、どこの国でも変わらぬ光景で、このオーブリーでも同じだった。就寝時間になれば、ベッドに潜りこんでも熱心に話し込む少女たちを、見回り、寝かしつけるのも、最上級生のお姉さまたちの仕事だ。
 監督生は最上級生の中から1人選ばれ、副監督生がそれを補佐する。監督生のお姉さま方は、少女たちの憧れの的だった。
 その監督生たちも、交代の時期にきている。クリスマス休暇を前に、最上級生は卒業を迎えていた。

 卒業を迎えた少女たちは、それぞれの実家に戻ったり、保養地に向かったり、向かう先は様々だ。明日、大多数の最上級生は退寮をする。寄宿舎で生活を共にした友人たちとの別れを惜しむと共に、荷造りに精を出しながら、オーブリー最後の夜は更けていこうとしていた。
 最上級生に割り当てられた部屋の1つで、ソフィア・エルディングは、荷物を整理する手を止めずに、同室のウィニフレッド・フォレスターと、寄宿学校入学以来の思い出話に花を咲かせていた。

 昼間、卒業式典はつつがなく終えていた。最後の夜は、舎監の先生の配慮で、毎年食堂を下級生が綺麗に飾りつけ、特別な献立のパーティーが行われる。最上級生から教師に花束が手渡され、下級生から最上級生に花束が贈られる。それも盛況のうちに終わり、消灯までの残り時間を、各最上級生はスーツケースと格闘して過ごしていた。今宵ばかりは、蝋燭の減りが早くとも、舎監の先生も大目に見てくれるのだ。
 ウィニーはベッドの上に足を組んで、白いナイトドレスの背中に垂らしたマホガニー色の髪を、慎重な手つきで梳っている。艶やかな色が蝋燭の灯りを受けて、つやつやと輝く様子を眺めるのが、毎夜、ソフィアの楽しみだった。自分の蜂蜜色の髪は、別段人目を惹く色合いでもなく、平凡だと思っているので、ウィニーの燃えるような色合いに憧れているのだ。
「フィリップス先生、物凄いしかめっ面だったわね」
 話題に上るのは、パーティーの最後に花束を手渡した時の、学校一厳しいといわれている老女性教師の顔つきだった。容赦なく厳しいミス・フィリップスが、花束を渡された時に、くしゃくしゃに顔を歪めていたのだ。
「ウィニーが殊勝にお礼の言葉を添えたから、感激してらしたのよ」
 老女性教師に花束を渡したのは、監督生のウィニー自身だ。一部始終をすぐ隣で、他の教師に花束を渡しながら見ていたソフィアが、たしなめるように言った。

「素直に泣いてしまっても良かったのに、大人はそれができないのね」
 やれやれと肩を竦めて、ウィニーはブラシをシーツの上に置いた。仰向けにがばっとシーツの上に倒れこみ、誰にともなく呟く。
「ここを出れば、わたくしたちも大人として扱われるんだわ。ミス・フィリップスですら、ほろりとするぐらい、思い出多き学び舎を後にして、我らはいざ、果敢に未知の世界へ旅立たん、てところね!」
「希望に若き胸を燃やして?」
 芝居がかった台詞を忌々しげに吐き出したウィニーに、クスクス笑いながらソフィアが追い討ちをかける。顔をソフィアの方へ向けて、ウィニーは、老女性教師も驚くくらいのしかめっ面をしてみせた。
「希望というより、野望っていう方が正解だわ。オーブリーを出たってことは、花嫁修業は完璧に終えましたっていう免許状をもらったって意味ですもの。これからわたくしたちは、『オーブリー仕込みの完璧な花嫁候補です』って札をぶら下げて、花婿探しをするんだわ」
 ウィニーの刺激的な物言いは、入学当初から変わらない。むしろ、女性だけの学び舎に暮らすうちに、いっそう磨きがかかったといっていい。彼女の置かれている状況を思えば、男性に対して厳しい見方をしてしまうのも無理はない。最初は辛らつな口振りに驚いたソフィアだが、今ではすっかり慣れている。

「ご両親から、何か言ってきているの?」
「――英国の社交界デビューに備えて、この冬はパリにいる叔母様のところへ行って、磨きをかけてこいって言ってるわ。英国のシーズンが始まる前に、うまいことパリで花婿候補を見つければ、その方で手を打ったって構わないのですって」
「そうなの・・・」
 最後の荷物を詰め終え、スーツケースの蓋を閉めてから、ソフィアは顔を上げ、ベッドに横たわって天井を見つめる親友へと視線を移した。
 ウィニーが身につけているナイトドレスは、もとは上等なものであったが、今では何度も繰り返した洗濯のせいで、すっかりみすぼらしくなっていた。上に羽織るガウンは、母親のものを仕立て直したそうで、夜間の見回りに行く時は、それを羽織ってナイトドレスを隠している。同じく実家の家計が豊かといえないソフィアは、裕福な大叔母が親切に細々としたものを送ってきてくれるので、ウィニーよりはましな身なりをしている。

 ウィニーの実家は、もともとは名家といわれる家柄だが、すっかり没落してしまい、両親は手狭なテラスハウスに暮らしている。娘のウィニーが、華やかな顔立ちをしているため、彼女の将来に家運をかけて、オーブリーに入れたのだという。優秀な花嫁学校を終えた娘が、玉の輿で裕福な花婿を捕まえられれば、実家にも支援してもらえる。ウィニーの肩には、両親と家族の期待がかかっているのだ。
 パリにいるという叔母は、裕福な紳士を夫とすることに成功していた。卒業後に磨きをかけるというのは、身近な成功例である彼女のところで、玉の輿のコツを掴んでほしいということなのだろう。
 ウィニーが言うように、オーブリーを出れば、ソフィアたちにも現実が否応なく襲いかかってくる。今夜は、世間から守られた居心地の良い繭の中で過ごせる、最後の夜なのだ。

 ベッドの上で、ウィニーが視線だけソフィアに送ってきて尋ねた。
「あなたはどうするの?ロンドンに帰るの?」
「わたくしは、一旦父の家へ戻るわ。その後すぐに、サマセットの大叔母の家へ移ると思うけれど」
 父が特に反対をしなければ、の話だ。ソフィアは確信は持てなかったが、エミリー大叔母の熱心な誘いを断る理由は、父にもないはずだ。社交界デビューの話については、大叔母が随分と心を砕いてくれている。
「そして来年には社交界デビューっていうわけね。わたくしが未婚のままパリから戻ってくれば、どこかの夜会で顔を合わせるでしょうよ。そうしたら、一緒に花婿探しを楽しみましょう」
「そうね、前向きにね」
 皮肉を交えたウィニーの言葉に、ソフィアはやんわりと返した。ウィニーのようにプレッシャーがかかっていれば、物事を斜めに捉えがちになるのも無理からぬことだが、それでは彼女本来の性質が損なわれてしまう。

 オーブリーに入学して、最下級生時代から同室になって以来、ソフィアとウィニーは固い友情で結ばれてきた。物事を冷静に見、大胆な言動も辞さない肝の据わったウィニーは、どこか達観したような節があって、同世代の少女たちに混じってはしゃぐことはなかった。ソフィアのように、父との希薄な親子関係を抱え、人との距離の取り方をあまり知らず、世間にも疎い少女にとって、ウィニーのように忌憚なく物を言える友人を得たことは、貴重な財産だ。
 次第にソフィアは、ウィニーが置かれている家庭の事情や両親の期待を知り、それに反発するかのような彼女の言動を、黙って受け止めるようになった。その頃にはソフィアも鍛えられ、きちんと自分の意見をぶつけられるようになっていたから、過ぎた場合はたしなめることもあった。
 時にきつさを持ち合わせるウィニーが監督生として、それを穏やかで素直なソフィアが補佐する副監督生として、この1年務めてきた。2人の息はぴったりで、下級生たちからも憧れのお姉さまたちとして慕われ、絶大な人気を誇ってきた。妹たちから、様々な選別の品が2人に贈られ、部屋を訪れる者も途切れず、そのためにソフィアの荷造りは、予定より大きく時間を食うことになったのだ。

 ソフィアもウィニーの真似をして、ベッドに倒れ込み、天井を見上げた。毎晩数えた天井の木目も、これで見納めだ。まだ最後の消灯見回りまで時間がある。蝋燭はそれまで消さないでおこう、と考えたところに、ウィニーが興味津々に声をかけてきた。
「ねえソフィア、あなたの大叔母様のところに行くってことは、又従兄さんが迎えに来るのかしら?」
「トムのこと?彼なら明日、ここに迎えに来てくれるわ。彼もロンドンの子爵邸に寄ってからサマセットに向かう用事があるそうだから」
 トーマス・ダグラスは、エミリー大叔母の孫息子で、スタンレー子爵家にとっては将来の跡継ぎだ。ソフィアにとっては幼馴染で、兄代わりの存在である。

 そういえば1度だけ、ウィニーにトムを紹介したことがある。イースターの休暇をサマセットのエミリー大叔母のもとで過ごすことになったソフィアを、寄宿学校まで迎えにきてくれたのだ。イートン校出身の又従兄が来たという話に、ウィニーが飛びつき、挨拶を交わしたのだった。
「イートン校出身者と知り合いになっておくのは、将来への重要な布石」というウィニーに、ソフィアが押し負けた形になったが、ウィニーはそつなく名家令嬢らしく振舞い、トムも随分と好感を持ったようだ。ウィニーは華やかなマホガニー色の髪に負けず、はっきりした目鼻立ちをしている美少女で、まだ決まった相手のいないトムには好印象に映ったらしい。
「少し話をする時間くらいはあるわ。彼も喜んでお相手をするわよ」
 スタンレー子爵家は、資産も十分にあるし、家柄も良い。幼い頃から良く知っている従兄は優しく温厚で、ウィニーにとっては良い相手だと思う。キューピッドの役目を果たせるかも、と、わくわくする胸を抑えて尋ねたソフィアに、ウィニーは、クスリと笑いを零した。
「ありがとう、ソフィア。そうね、せっかくだからダグラス卿とお話してみようかしら。イートン出身のお友達の噂が手に入るかもしれないし」
「ウィニー」
 あっさりと躱されて、ソフィアはがっくりして、縋るように親友の名を呼んだ。隣り合った寝台の上で、2人の眼差しが交差する。

「トムではダメかしら?とてもいい人なのよ。落ち着いてるし、頼りがいがあると思うわ」
 又従兄の肩を持とうとするソフィアは、熱心に言葉を継いだが、親友は艶やかな微笑を浮かべ、小さく首を横に振った。
「ダグラス卿がいい方なのはわかるわ。でもねソフィア、わたくし、自分の夫は自力で見つけたいと思うの。誰かの奥方にならなくちゃいけないのは変わらないのだもの、せめて相手ぐらい、自分で納得する人を選びたいじゃない?」
 凛とした眼差しが、天井を見上げている。真っ直ぐな視線は、ソフィアには見えないどこか遠いところをはっきりと捉えている。
「もちろん、お父様たちは、どれだけ年上だろうがやもめだろうが関係なく、早く夫を決めろっていうと思うの。我が家は余裕ないしね。だけど、納得できる人が現れるまで、わたくし、誰のところにも嫁がないわ」
 迷いのないきっぱりした口振りで言い切ったウィニーの横顔は、とても美しかった。彼女に比べて、自分はどうだろうか。途端に気分が沈んだ。それを見透かしたように、ウィニーがすらりと問いかけてきた。

「ねえソフィア、あなたはどなたか、気になる殿方はいるの?」
「いいえ。残念だけど、そういう方はいないわ」
 即答するソフィアに、ウィニーはきらきらと瞳を輝かせて畳みかけた。
「ダグラス卿のお知り合いに、社交界でも屈指の花婿候補が何人かいるはずよ。皆、イートン校の出身者ですもの。そうね、バリー伯爵家のヒューズ卿とか、とても人気があるという話じゃない?きっと紹介してもらえるわ」
「社交界のことはわからないけれど、わたくしもあなたのように、心から愛せる方を夫にしたいと思うわ」
 ウィニーの希望は、世間知らずの少女らしいロマンチックな願いだと、大人たちには一笑に付されるかもしれない。今の上流階級では、当人同士の気持ち云々ではなく、周囲の思惑で縁組させられるのが普通だからだ。恋愛結婚をするなんて、小説の中だけでしか実現しない夢物語だと、大抵の人は言うだろう。
 ソフィアよりも厳しい状況に置かれ、冷めた目で物事を見るウィニーが、それを承知していないはずはない。けれど彼女は敢えて口にする。怖れず、逃げず、自力で立ち向かおうとする彼女の強さを、ソフィアも見習いたいと熱く思った。
「同志がいると思うだけで、心強いわ」
 にやりとウィニーが笑った。それに力を得て、ソフィアも声を立てて笑った。
「挫けそうになっても、あなたのことを思い出して戦うわ」
「手紙も忘れないでね?」
「もちろん。学校を離れても、わたくしたちは親友ですもの」
 2人は寝台の上に起き上がり、手を取り合った。真剣な表情で頷き合ってから、顔を綻ばせ、花のような笑顔を浮かべる。明日からたった1人で世間に船出するのではない。同じように戦う同志がいることを思い出して、願いを現実にできるよう、祈り続けよう。

「素敵な男性がいたら、必ず情報を送るわ」
「わたくしも」
 悪戯っぽく笑いあってから、ソフィアが壁の時計に目をやって、小さく叫んだ。
「いけない!もうこんな時間よ。見回りに行かなくては」
 慌ててガウンを着込み、立ち上がったソフィアを横目に、ウィニーは小さく欠伸をかみ殺しながら伸びをした。それでも手際は良いので、ソフィアが蝋燭を手に取り、ドアのノブに手をかけた時には、ウィニーもガウンを身に付けてやってくるところだった。下級生たちはベッドの中に入ってはいるだろうが、最後に監督生たちの勇姿を目に焼き付けようと、目を凝らしているに違いない。今夜の見回りは、いつも以上に時間がかかりそうだ。
「では、行きますか。最後の見回りに」
 再びにやりと笑ったウィニーに、ソフィアも「そうね」と頷き返して、ドアを開けた。廊下の冷気が身体をぶるりと震わせたが、すぐに親友が腕を組んで身体をぴたりと寄せてきたので、さほど気にはならない。
 2人は最初の部屋へ向けて、ゆっくりと廊下を歩き出した。

2009/05/06up

時のかけら2009 藤 ともみ

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