Sugar Sugar

 黒髪の少女が、抜き足差し足で、絨毯の上を滑るように進んでいる。2階の廊下の端から端まで敷き詰められた毛足の長い絨毯は、少女の足音をしっかり吸収しており、コトリとも靴音がしない。壁に掛かった額縁の中から、綺麗に着飾った女性たちが彼女の動きを見下ろしているが、生身の人間は、廊下を進む少女だけだ。

 社交界シーズンも真っ只中の昼下がりのひと時、屋敷内の人間たちは、それぞれの仕事を片付けるのに忙しい。その隙をついて、少女は屋敷内のある部屋へ向けて歩を進めている。ロンドンの高級住宅地セント・ジェームズ・ストリートに面した屋敷の中は、ひっそりと静まり返っている。

 艶やかな巻き毛は左右に分けてリボンで結ばれ、くるくると輪を描きながら肩に流れている。整った顔立ちの中でひときわ印象的な灰青の瞳は、屋敷の者たちに「妖精のよう」と評される通り、きらきらと悪戯っぽく輝いている。年の頃は8歳9歳といったところか。身につけたドレスの質も品も良く、ひと目でこの屋敷の主の娘だと知れる。
 それなのに彼女は、なぜ人目を避けているのだろうか。

「まぁっ!お嬢様!」
 背後で押し殺したような悲鳴が聞こえ、少女は一瞬だけペロリと舌を出すと、何食わぬ顔で振り向いた。
 1階から通じている階段の踊り場で、侍女のアリスがあんぐりと口を開けている。そこからはちょうど、通り過ぎていく少女の姿が丸見えだったらしい。見つかったのがアリスでよかった、と少女は胸の中で呟いた。これが執事や家政婦だったら、お小言を食らうところだが、母に昔から仕えている侍女は、少女には甘いのだ。少女が産まれた時からの付き合いになる。

 呆れた様子で何事かを言い募ろうとしたアリスの機先を制して、少女はしぃっと人差し指を口元に当ててみせた。それだけでアリスは、少女の意図を察したようだ。栗色の髪を綺麗に編み上げた頭を呆れたように左右に振って、アリスはやれやれと嘆息した。
「グレースお嬢様ったら……他のお子様方は、皆様お利口にお昼寝なさってますのに」
 両手を腰に当てて嘆く侍女に、グレースは小さく舌を出して見せた。このような生意気な仕草も、グレースにかかると途端に愛嬌たっぷりになってしまうのだから不思議だ。それがこの少女の持つ魅力であった。こうした仕草は、活発でやんちゃだった子供時代の父にそっくりだと、曾祖母はいつも目を細めてグレースを眺めるのだ。

「だって、自分のことを話題にされているのに、黙ってベッドに入ってるなんて、できっこないわ」
 アリスに届くぎりぎりの、抑えた声できっぱりと言い切ってから、少女はくるりと踵を返した。その前に、フォローしておくことも忘れなかった。
「お父様たちのお話を聞いたら、ちゃんとお部屋に戻るから。ナニーのことは適当に誤魔化しておいてね」
 ニコリと笑顔を向けるのも忘れず、アリスが渋々頷いたのを確認してから、グレースは目的地への進軍を再開した。これで乳母のフォローはアリスに任せたから大丈夫。注意深く歩を進める横顔は、父親そっくりだ。父親の顔立ちに、母親が持つ繊細な美しさを併せ持つ、フォード伯爵令嬢グレース・ポートマン・ヒューズ。彼女が目指すのは、2階の端にある母の居間だ。そこで、両親がグレースの今後について意見を戦わせているはずだ。

 自分の将来が変わるかもしれないという時に、大人しく昼寝するなど、我慢ならない。母譲りの強情さを発揮して、グレースは目的地に漸くたどり着いた。静かに深呼吸をしてから、ドアの鍵穴を覗こうとして、僅かにドアが開いていることに気がついた。天は私に味方しているのかも。ドキドキする胸の鼓動を宥めながら、グレースは隙間から室内を覗き込んだ。


 このままでは埒が明かない。

 ソフィアは何度目になるかわからないため息をついて、肩を竦めた。繊細な面立ちに、はっきりと呆れが滲んでいる。辛抱強い彼女にしては、珍しいことだ。ただ、ソフィアの肩を持つならば、平行線の討論を30分以上続けているのだから、無理もない。
「考えを改める気はないのね?」

 話し合いを開始してから、一向に頷こうとしない相手に向かって、ソフィアは疲れ切った様子で尋ねた。真っ青の瞳を煌かせて見返してくる相手には、疲れの色は見られない。それどころか、サファイアの眼差しは、楽しげに輝いている。
「もちろんだよ、ソフィア」
 肝心なところでは頷いてくれないくせに、あっさりと首肯を返して、ブラッドは口角を上げた。ソファに腰を下ろす彼の姿は、相変わらず気品があり、すらりとしている。時間は、この夫婦の上を優しく通り過ぎているようだ。最近特に、自信を深め、男性らしい魅力を増した彼に、常ならばソフィアもうっとりと見惚れることが多いのだが、今はただ、がっくりと寝椅子に背中を預けるばかりだ。

 どうしたものかと、視線を上に向けると、天井の幾何学模様が飛び込んでくる。ぼんやりとそれを眺めながら、ソフィアは大きく息をついた。
 不幸なすれ違いを経て、運命的な再会を果たした2人が夫婦の誓いを交わしてから、4年になる。リンズウッド伯爵家を義理の甥に無事譲り渡してから、ソフィアはフォード伯爵夫人として新たな生活のスタートを切った。義理の姉バリー伯爵夫人レベッカ・ヒューズと、義理の妹サラ・ヒューズの協力を得て、ソフィアは順調に、新しいポジションに馴染んでいった。フォード一族においても、社交界においても、人気と信頼を勝ち得たのは、ブラッドたちの祖母レイモンド侯爵夫人の後ろ盾によるところも大きかった。
 フォード伯爵家の使用人たちにも、賢く思いやりがある女主人は、たちまちに受け容れられた。ソフィアの連れ子としてフォード伯爵家に共に入ったグレースも、生来の愛らしさと、ブラッドが示す愛情の深さにより、伯爵家の長女として、それに相応しい待遇を受けている。

 社会的地位にも恵まれ、温かく穏やかな家庭生活を送っているソフィアは、誰よりも深く支えてくれたブラッドに、以前よりも更に深い愛情を抱くようになった。彼と共に在る人生が、どれほど彩り豊かで、幸せであるか、言葉ではとても言い尽くせない。
 ブラッドも、ソフィアが側にいることで精神的にいっそう安定し、事業でも成功を続けている。彼がソフィアに強く深い愛情を示し、彼女もそれに応えた結果、今では2人の間には、グレースの他に2人の子供が生まれている。

 仲睦まじい2人ではあるが、活発に意見を戦わせることも多い。ブラッドは、この時代の男性にしては珍しく革新的な考えの持ち主で、「女性は父親に、結婚してからは夫に従うべき」という通念を、よしとしてはいなかった。ソフィアに意見を求めることも多いし、彼女がはっきりと自分の考えを述べても、真剣に耳を傾けてくれる。
 伯爵未亡人として、家の切り盛りを1人でこなし、事業投資の世界にも足を踏み込んだソフィアにとって、ブラッドとの結婚生活で、息が詰まるということはなかった。こちらの意志を尊重してくれるのはありがたい。ただし、今日のように互いが頑として意見を譲らないと、疲労でぐったりとしてしまうのだが。

 明日には、ハウスパーティーの準備のために、ハンプシャーへ発たなくてはならない。今年もゴールド・マナーでのパーティーは盛大に開催される予定であり、ベッキーからは協力要請がきている。その荷造りもまだ終わっていないのだ。いつまでもここで時間を浪費するわけにはいかない。出発準備のために、今日は予定を入れずにおいたのだ。夫と延々、居間で向かい合っているためではない。

 のろのろと顎を下ろし、ソフィアは憂いを浮かべた眼差しで夫を見つめた。彼の情にも訴えかける作戦を取ることにしたのだ。
「一体どうしてそこまで反対なさるのか、残念だけれどわたくしには理解できないわ」
 前の夫をグレースの誕生前に亡くしていることもあり、通常、世間の父親が娘にどのように接するのか、心もとないソフィアである。自身も相変わらず実父との関係が断絶しており、父と娘の関係について経験から来る意見を述べられないというのが、痛かった。

「グレースに、同年代の友人を多く作る機会を与えるのは、そんなに悪いことかしら」
「同年代の友人というなら、バリー伯爵家のジェフリーやレイチェルがいるじゃないか。あの子たちが役不足とは思えないな」
「もちろんあの子たちはいい友人だけれど、身内だわ。血の繋がりがない他人と、友情を育む機会を与えることも重要でしょう?」
 ソフィアが小首を傾げ、見つめると、ソファの上で夫は居心地悪そうに身じろぎした。正論だと解ってはいるらしい。ここが攻めどころとばかりに、ソフィアは一気に攻勢をかける。機を逃すと、彼に言いくるめられてしまうのだ。

「オーブリーで学ぶのは、何もマナーや知識ばかりではないわ。生涯の友を得るのは、人生にとって何よりも素晴らしいことよ。わたくしはグレースにも、わたくしにとってのウィニーのような親友を得て欲しいと願っているの」
 グレースは今年、オーブリー女子寄宿学校に入学できる年齢に達する。前々からソフィアは、娘もオーブリーに入学させたいと秘かに思ってきたので、漸くその機会が訪れたというわけだ。ソフィア自身は、父親に無理やり入学させられたようなものだったが、ウィンザーにあるあの学校で得たものには、大変感謝している。あそこできっちりとマナーや知識を叩き込まれ、大勢の女の子と生活を共にしたことで、その後に世間に出ていく時にもまごつかずに済んだのだ。
 ソフィアが学んだ教師の幾人かも、まだ教鞭を取っているらしい。それを聞いて、是非娘もオーブリーにという想いはいっそう強くなり、夫にもその考えを打ち明けたのだが、思いがけず強硬な反対にあった。数日前から続く意見の衝突は、終わりが見えないまま、膠着状態に陥っていた。ハウスパーティーが始まる前に決着をつけてしまいたいと思い、こうして夫を居間に招いたのだ。

「それを言われると弱いんだが、我が一族の娘は、代々家庭教師をつけて屋敷で教育を受けてきたんだ。サラだってそうだよ。それで十分だという気もするがね」
「わたくしは自分がオーブリーを出ているから、是非あそこで娘にも素晴らしい教育を受けさせ、友人を作らせたいと思っているの。まさかこんなに反対されるなんて……」
 瞳を潤ませ、俯くと、ブラッドは少々慌てたようだった。ソファから立ち上がり、ソフィアの脇に腰を下ろすと、肩に手を回して胸に抱き寄せる。それから、渋々といったように口を開いた。
「君の意見はもっともだと思うよ。ただ、まだ幼い娘が、家族のもとを離れて寄宿舎で生活するのはどうかと思うね」

 今度こそソフィアは、呆れたようにため息をついた。
「グレース自身は、楽しそうだから是非行ってみたいと言っているのに?」
「言うのと実際にやってみるのでは違うよ。初日の晩にホームシックにかかるのがオチだ」
「あの子は大丈夫よ、そういうことを乗り越えていくのが、成長でもあるのでしょうし。あの子よりもむしろあなたの方が心配だわ」
 ずばりと指摘し、間近から顔を見上げると、サファイアの瞳に動揺が浮かんでいるのが見て取れた。こみ上げてくる笑いを押し殺し、ソフィアは優しく言った。
「グレースと離れるのが、寂しいのでしょう?」

 心もとなげに、真っ青な眼差しがゆらゆらと揺れる。が、それを押し隠すように、口元にぎゅっと力が入った。
「あの子のこと、とても愛してくれているのは感謝しているわ。だけどブラッド、子供にとって絶好の機会を、親が奪い取るのはよくないと思うの。わたくしだって、あの子が手元を離れるのは寂しいわ。けれど親って、そうやって子離れをしていくのでしょうね」
 そっと手を伸ばして、肩にかかる彼の手に触れる。ブラッドがグレースを心から愛しているのは知っている。彼の中に、生まれてからの4年間、娘と一緒にいられなかった時間の埋め合わせをしたいという悔恨の想いが強く渦巻いていることも。

「わたくしはあなたと一緒にいるわ。子供たちが皆巣立っていっても、側に残っているから。忘れないでちょうだいね」
 返事の代わりに、肩にかかる手に力が込められた。2人は暫くそうして寄り添っていたが、やがてブラッドが深々と息を吐いた。

「――わかったよ、ソフィア。グレースがオーブリーに入学するのを許そう。ただし、休暇のたびに帰ってくるのが条件だよ」
「ありがとう、ブラッド!」
 灰青の瞳がパッと明るく輝き、ソフィアはブラッドの頬に唇を寄せた。くすぐったそうにそれを受け止めたブラッドが、今度はお返しとばかりに妻の唇をキスで塞いでしまう。続けて感謝の言葉を告げようとしていたソフィアは、完全にその機会を失ってしまった。

 甘く深い口づけが終わる頃には、ソフィアはぐったりとして、ブラッドに抱き抱えられるようにして寝椅子に座っているのがやっとだった。どこかで小さな物音がしたような気がしたが、疑問に思う余裕もない。ソフィアの全身の感覚は、目の前の夫だけに向けられている。とろんとした瞳で、軽く息を弾ませている妻の耳許に、ブラッドは低く囁いた。
「さっき君は、『生涯の友を得るのは、人生にとって何よりも素晴らしいこと』だと言ったね。本当にそうかな?」

 耳朶を軽く啄ばまれ、背中をぞくぞくとした快感が駆け抜ける。ぶるりと身震いしたソフィアに、ブラッドは更に囁いた。
「人生にとって何よりも素晴らしいことは他にあるってことを、君にもう1度教えなくてはならないようだね」

 サファイアの瞳に、見覚えのある艶めいた光が浮かぶのを見て、ソフィアの身体に切ない疼きが走る。頬を上気させて訴えかけるように見上げてくる妻から一度手を離し、ブラッドは唇の端に苦笑を浮かべた。
「ブラッド・・・?」
「その前に、覗き見はマナー違反だということを教えなくてはならないな」

 夫の言葉の意味が解らず、全身の熱い感覚を持て余してぼうっとしたまま、ソフィアは彼が廊下へ繋がるドアへと向かうのを眺めていた。軽い足音が廊下を走っていく音が、ぼんやりとソフィアの耳にも届く。ブラッドがドアを開け、顔を廊下に出して何かを確かめた後、「お転婆娘め」と呟くのが聞こえた。
「ブラッド?誰かいるの?」
 どうにか事態を把握して、ソフィアがか細い声で尋ねたが、ブラッドは首を横に振り、肩を竦めてドアを念入りに閉めた。ご丁寧に鍵までかけてから、ソフィアのもとへと戻ってくる。
「一足早く逃げ出したようだ。ソフィア、やはり君の意見に賛成するよ。グレースはオーブリーに入れよう。寄宿学校に入って、きちんとマナーを叩き込んでもらう方が、あの子のためにもいいようだからね」
「・・・・・・グレースったら」
 今は他の子供たちと、お昼寝をしているはずの時間なのに。ソフィアはやれやれとため息をついた。フォード伯爵家にやってきてからというもの、皆がグレースを甘やかしていると、ソフィアはたびたび主張していたが、ブラッドを始め、誰もが気にしすぎだよと笑って相手にしてくれなかった。そのためか、グレースはやんちゃな娘に成長しつつある気がする。両親の部屋を盗み聞きするとは、淑女にあるまじき振る舞いだ。あとできちんとお灸を据えなくては。

 手で額を押さえるソフィアに、ブラッドは困ったように笑いかけた。
「今夜の夕食は、グレースだけデザートを抜くように、あとで厨房に指示しておくよ」
「そうね。お願いするわ」
 力なく微笑むソフィアに、ブラッドは悪戯っぽくウィンクしてみせた。それはグレースそっくりで、ふたりが血の繋がった親子であることを、いやでも認識させられる。
「あの子へのマナーレッスンは後に回すことにして。まずは君とのレッスンだ」
 柔らかな唇が落ちてきて、深いキスがソフィアの疼きをいっそう強くする。ブラッドが顔を離した時には、ソフィアは崩れ落ちるように寝椅子に身体を預けた。
「さあ、大人の時間だ」

 力の抜けた身体を軽々と抱き抱えられ、ソフィアは頬を赤く染めた。予想通り、ブラッドの足がドア越しに繋がっているソフィアの寝室へと向かう。眉尻を下げて夫を見上げたが、色っぽい微笑みを返されてしまう。
 ソフィアを抱き抱えたまま、器用にドアを開けて、ブラッドは寝室の中央に置かれたベッドへと向かった。
「ま、待ってちょうだい。明日の荷造りをしなくてはならないの」
「そんなことは、後でいいよ。今はこっちの方が重要だ」
 弱々しい抗議はあっさりと拒否され、気づいた時にはベッドの上に横たわり、ブラッドが覆いかぶさってきていた。こうして悪戯っぽい笑みを口元に浮かべていると、ブラッドは初めて逢った時のように、少年の面影を残したままのようだ。そこにどきりとするような色気が不意に浮かび、虚をつかれた隙に、ソフィアの唇は再び塞がれてしまった。

 うっとりするような深いキスが続き、ソフィアは降参の意味を込めて、彼の首に両手を回した。すると、愛撫が更に深まった。全身を心地よい疼きが刺激し、堪えきれずにソフィアは身体をぴたりと夫に密着させた。ドレスの布越しに感じる夫の熱が、じりじりとソフィアの身体の奥に火をつける。
 長くキスの合間にうっすらと目を開けると、サファイアの光がじっとこちらの反応を窺っている。観念して瞼を閉じ、ソフィアは彼の愛撫に身を委ねた。長女が手元を離れて寂しいと思う間も、ないかもしれないという想いがちらりと頭を掠める。この分なら、近々家族が増えることも大いにあり得るわ、と胸の裡で呟いて、ソフィアは夫との濃厚な時間に、没頭していったのだった。

2009/10/18up
2010/06/27 改訂

時のかけら2010 藤 ともみ

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