あたたかな朝

 夢と現との境目が曖昧なひと時。手繰り寄せようとしてもすぐに遠のいていく意識の波間に揺られながら、ブラッドは、温かく柔らかな感触が頬に当たるのを楽しんだ。シルクのような滑らかさと、花の香りが、ぼんやりとした意識の中に入り込んでくる。
 腕の中にある温もりが、僅かに身じろぎをした。それを感じ取り、夢の淵に沈みかけたブラッドの意識も、ゆっくりと覚醒していく。

 瞼を押し上げると、ぼんやりとした視界に、明るい輝きが飛び込んできた。濃い金糸が、軽やかにブラッドの頬を擦る。

 ブラッドの腕の中で、柔らかな白い身体が、再び身じろぎをした。けれど、こちらに向けられた眼差しはいまだぴたりと閉ざされ、薄いナイトドレスを身につけた身体は、規則正しい呼吸を繰り返している。いつもは白い頬にも、うっすらと赤みがさしており、ふっくらした唇は、こちらを誘うように軽く開いている。
 そこに触れたくなる衝動を堪え、ブラッドは、腕の中で休むソフィアを眺めながら、朝のひと時を楽しむことにした。

 結婚して以来、ソフィアのベッドにブラッドが潜り込み、朝まで体温を分け合って眠るというのが、日課になっていた。夫婦の寝室は、扉で繋がっており、どちらの部屋からでも行き来できるようになっている。それを有効に活用しない手はなかった。ブラッドがフォード伯爵位を相続してからというもの、伯爵夫人の寝室は主不在の状態が続いていたのだが、今ではその役割を十分に果たしている。夫を誰よりも近くで支える、伯爵夫人の居室という役割を。

 ソフィアとの結婚は、ブラッドにかつてない幸福な日々をもたらした。

 一族の次男として、己の責任と役割を全うするために受け継いだ爵位だった。ヒューズ一族は英国貴族きっての名門であり、レイモンド侯爵家を頂点に、幾つもの爵位や称号を、古くは中世から保持している。王族や公爵家とも近しい関係にあり、議会でも影響力がある権門なのだ。一族の男子には、生れ落ちた瞬間から、一族に貢献することが義務付けられている。長いこと、そうして続いてきたのだ。ブラッドも例外ではない。

 年老いてなお、一族のトップには祖父が君臨しており、頑強な彼はいまだ現役で一族全体の事業を監督しているが、肉体に押し寄せる衰えは隠せなかった。十年来患っている痛風が、彼の身体を苛んでいるのだ。祖父が精神を強く持ち、気を張って、己を奮い立たせて一族の長の役目を果たしていることを、アーサーとブラッドの兄弟はよく知っていた。長男を事故で失い、その妻は後遺症がもとで長く病床に伏し、数年後には次男とその跡取りを船の事故で亡くした。本来ならば、高齢の彼は、一族に対する責務や役割を跡取りに譲り、隠居してもおかしくはない。しかし、いまだに現役に座り続けているのは、長男の息子たち――特に、若くしてバリー伯爵家を継いだアーサーを、少しでも援助してやりたいという心遣いゆえだ。
 老練な祖父に比べれば、思いがけず突然に父の跡目を継いだアーサーは、まだまだ世慣れず、苦労が多い。生まれついての長男気質、真面目で、融通がきかないところもある彼は、ブラッドに言わせれば「余計な苦労」まで背負い込んでしまいがちだ。その点、下の子に生まれたブラッドは、幼い頃から、兄にはない要領のよさを持ち合わせていた。軍隊で精神的にも肉体的にも極限まで鍛えられた彼にとっては、事業の経営など、他愛もないことだった。危険な戦場で身を縮ませている必要もないのだ。安全な場所で、世渡りを要領よく済ませれば、相応の利益が入るのだから。

 自然、彼は進んで一族の経営に参画するようになった。
 フォード伯爵家は、亡き叔父と従兄のためにも、繁栄させなければならないのはもちろんのこと、生家であるバリー伯爵家、更にレイモンド侯爵家にとっての利益ももたらさなければならない。飲み込みの速い彼に任される仕事は次第に多くなり、ブラッド自身も、仕事で忙殺されることを望んだ。ブラッドにとって、日常は何の面白みもないものだった。義務を果たすために、仕事に没頭した。過労で、面やつれしようと、体重が減ろうと、頓着しなかった。

 一族の資産は、兄弟の尽力もあって、連続する当主急死による損失を最低限に止めた上、幾らか上積みすることもできた。若手実業家として辣腕を振るいながらも、ブラッドの目に映る世界は、いつだってモノクロームだった。かつて、大陸から戻ったあの日からずっと、彼の周りは灰色の世界と化していた。義姉のレベッカや妹のサラが、そんな彼を心配していることも知っていたが、社交界に出、人と交わることを善しとはしなかった。
 幸い、アーサーにはふたりの子供がある。サラだって、いつかは誰かに嫁ぎ、子をなすだろう。ブラッド自身が結婚しなくても、フォード伯爵家の跡取りには、一族の血縁者を据えれば何とかなる。

 失った情熱を取り戻すのは、永久に不可能だと思われた。誰かを激しく愛し、一生添い遂げようと想うくらいにのめりこむなど、考えられなかった。

 予期せぬ再会が、そんな未来への青写真を塗り替えた。

 今こうして目の前に横たわり、無邪気な寝顔を晒すソフィアを眺めていると、手にした幸せな時間がするりとすり抜けていくような恐怖に、不意に襲われることもある。毎日毎朝、彼女のすぐ傍らで目覚める幸せに震える一方で、真実彼女を手に入れたのかどうか、危ぶむ気持ちが生まれるのだ。
 あまりにも幸せすぎて、自信が持てないのだともわかっている。何しろソフィアは、1度失った女性なのだ。再びこうして共に生きることができるなんて、考えもしなかったのだから、現実なのかどうか不安になっても、仕方ない。

 世間からは、凄腕の青年伯爵として一目置かれ、次々に実績を積み上げる若手実業家として尊敬されているブラッドの姿は、傍から見ればさぞ、自信に満ちているように見えるのだろう。実際、人との折衝や、事業の運営に関しては、もともとの勘の良さもあり、不安を感じたことはあまりない。家庭を持った後はいっそう順調で、仕事では目を瞠る成功を収めているし、復帰した社交界でも、際立った存在感を放っていると評判なのだ。堂々とした青年伯爵が、その実、ソフィアを本当に自分の妻にできたのかどうか、不安に思っているなどと、誰も想像もつかないだろう。この手の力を緩めれば、あっという間に彼女は荒れ野へと飛び去っていってしまう。怖れが芽生えると、そのように思えてならないのだ。
 このようなことは、誰かに気軽に打ち明けられる内容でもない。アーサーにはいえないし、ケヴィンに言えばからかわれるのがオチだ。ソフィアに関することだけに、ウィルにも話せない。

 幸せだという実感はあるのだ。毎日ソフィアを抱きながら目覚める瞬間の、何と甘美なことか。自分の腕の中で彼女が安心しきって眠っている様子を見ると、愛おしくてたまらなくなる。無防備に寝顔を晒すのも、ブラッドを信頼していればこそだ。規則正しい寝息を聞き、柔らかな花の香りを吸い込み、腕の下に息づく温もりを感じる。ひとり、広い寝台で眠った日々を思えば、寄り添う確かな存在があるのは、心強いことだ。長く求めてやまなかった存在が、この手の中にあるという幸福と、夢ではないかという不安に揺れ動く心を、穏やかに鎮めてくれるのもまた、腕の中の彼女なのだ。
 じりじりと引き攣れていく心を、重ね合わせた肌から伝わる温もりが、静かに宥めてくれる。不安のように、目に見えない、実体のないものに引き寄せられる心を、現実に戻してくれるのが、肌越しに伝わってくる体温や、彼女の規則正しい鼓動だ。とくとくと動く鼓動を聞いていると、この幸せな日々は現実のものなのだと、漸く信じられる。
 意識は眠りの底に引き摺られていても、ソフィアの肉体は、確かにここにあるのだ。

 そうして安心すると、ブラッドはまた、彼女の眠る様子を飽きもせず眺め始める。結婚してから毎朝、それを繰り返しているのだ。

「ん・・・・・・」
 ほんのりと紅を差したように色づいた唇から、くぐもった声が漏れる。僅かに身じろぎしたソフィアの頬へ、金色の輝きが一筋、はらりと零れ落ちてきた。眉間には微かに皺が寄っており、彼女の目覚めが近いことを教えてくれる。カーテンの隙間から差し込む朝日が、金糸を鮮やかに煌かせた。まるで誘っているような輝きに惹かれ、ブラッドは慎重に手を動かすと、滑らかな頬からそうっと髪をどけてやった。すると、眉間の皺が消え、再び穏やかに寝息を立て始めた。

 かなり疲れていたのだろう、ぐっすりと眠り込むソフィアを、妨げたくない。彼女の疲労には、ブラッドも心当たりがあるのだ。
 床を共にするようになってから、ブラッドの求めをソフィアは拒んだことがない。やむを得ない期間は除き、自身に昼間の疲れが残っていても、夫をやわらかく受け入れてくれる。そんな彼女の優しさが嬉しくて、ブラッドもついつい情熱的に求めてしまうのだが、こうして眠りが深いのを見ていると、申し訳なさも覚えてしまう。充実した夫婦の時間があるからこそ、仕事でも存分に力を発揮することができるのだが、ソフィアも日中を遊び暮らしているわけではないから、あまりに夜の負担が過ぎるのは、考えものだ。

 フォード伯爵夫人になったソフィアは、新しい家の采配と、一族の付き合いに、忙しない日々を送っている。名門一族に仲間入りするのは、容易いことではない。古くからの名家ゆえに、一族に連なる者や付き合いのある者は多いのだ。貴族、職業人ばかりでなく、王族との付き合いもある。ソフィアに伯爵夫人の経験があるとはいっても、ヨークシャーの領地でひっそりと生活をしてきたから、英国社交界の中心に突然置かれても、戸惑いが大きい。予定をこなすことで精一杯だ。
 無論、家事に関しては熟練の執事と家政婦がいるから、ソフィアは監督をするだけで良い。けれど、一族の付き合いに関してはそうもいかない。レベッカやサラが気を配り、力になってくれるとはいえ、名門の嫡流の嫁として、彼女自身が立ち回らねばならないことばかりだ。祖母だけでなく、今ではレベッカも、嫡子の嫁として重きをなすようになってきたから、ふたりで睨みはきかせてくれている。が、ソフィアの気苦労が皆無になることはないのだ。

 そんな彼女を一番に支えなければならないのは、ブラッドだ。彼女の心が枯れないように、光と水を与え続けなければならない。ソフィアが疲れにもかかわらずブラッドを受け入れるのも、夫との親密なひと時で、裡に溜まった澱を吐き出し、時に挫けかける気力を充電させたいからかもしれない。言葉は要らない。肌で、心を感じてくれればいい。そうして必死に縋ってくる妻の姿は、愛しさを掻きたてるばかりで、そろそろ彼女を休ませてやらなくてはと思いつつ、つい手を動かしてしまうのだ。

 それにしても、このところのソフィアの眠りは、以前よりも長く、深いものになった気がする。その理由に思い当たり、ブラッドは、静かに手を動かして、彼女の腹部に当ててみた。まだ目立った変化は表れていないが、いずれ、ここがぷくりと膨らんでくるのだ。

 グレースに妹か弟が生まれる。
 考えるだけで泣きたくなるほどの幸せに襲われる。妊娠を打ち明けられた時には、呆然として、声も出なかった。眇めた視界に、ソフィアの瞼が震えるのが映った。ゆっくりと瞬きを繰り返してから、灰青の瞳が現れる。まだ寝ぼけたようにぼんやりとした眼差しを覗き込み、ブラッドは微笑みながら声をかけた。

「おはよう」
 すると、やっと意識の靄が晴れたのだろう。ぱちりと目を見開いてから、ソフィアも照れたように微笑んだ。
「おはよう、あなた。またわたくしを眺めていらしたの?」
 恥ずかしそうにシーツに顔を隠そうとするより先に、ブラッドは素早く動いて、彼女の頬に唇を寄せた。うらめしそうに見上げてくる瞳を見つめ返してから、ブラッドはおもむろに頭の後ろへと手を回し、柔らかな唇を塞いだ。最初は軽く合わせるだけだったものが、次第に深く、熱を帯びたものへと変化する。

 唇を離したときには、ソフィアの頬は、寝起きだからというには大げさなほど、赤く染まっていた。ブラッドの手が、ナイトドレスの上から、ゆっくりと身体の線をなぞると、朱はいっそう深くなった。肩口から胸の辺りへと手を滑らし、ブラッドは、確認するように軽く膨らみに掌を重ねた。ぴくりと身体を震わせるソフィアに、ごく真面目な顔つきで呟きを漏らした。
「妊娠してから、胸が大きくなったね?」

 ソフィアの白い首元までが、真っ赤になった。口角を上げると、ブラッドは手を腹部まで滑らし、先ほどと同じところにそっと当てた。ここに、新しい命が息づいているのだ。
「君に逢うのが、待ち遠しいよ」
 赤ん坊に聞こえているかどうかはわからないが、語りかけてみる。
「君には、きちんと知っておいてもらいたいんだ。君の両親が、心から愛し合っているということをね」
「大丈夫よ、ブラッド」
 ソフィアがそっと身体を摺り寄せてきた。その唇にも、温かな笑みが浮かんでいる。
「きっとこの子には伝わっているわ。毎日こうして一緒にいるんですもの。きっと解ってくれているわ」
 妻の顔をじっと見つめてから、ブラッドはその首筋へ顔を寄せた。そうだね、と囁いてから、以前よりふっくらとした妻の身体を抱きしめる。細い腕が、応えるように背中へ回され、確かな力で抱きしめ返してくる。

 花の香りに埋もれながら、ブラッドは、手にした幸せの大きさを噛みしめた。どんな努力をしてでも手に入れて、放すなという親友の忠告は、もっともだったと今更ながらに知る。この温もりが傍らにある限り、ブラッドはどんな逆境でも乗り越えていける。心地よい活力が心身に漲るのを実感しながら、今しばらく、温かな花に寄り添うことに決めた。触れ合っているだけでも十分だ。夜、再び彼女のもとへ戻ってくるまでの間、存分に働けるように、もう少しだけ充電したい。ジャックたちがやってくるまで、まだ猶予はあるのだから。

2009/10/31up

時のかけら2009 藤 ともみ

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