番外編 Dreaming, Everyday Dreaming

 さらさらという、筆がキャンバスを擦る音が、部屋の中に流れている静けさを破る。落ち着いた美しい調度の部屋には、油彩独特の匂いが漂っている。今描いている絵の他にも、いくつものキャンバスが並べられており、その様相は、遠いリンズウッド・パークのアトリエを髣髴とさせる。
 ロンドンきっての高級住宅街のひとつ、セント・ジェイムズ・ストリートに面した屋敷の一室を、ソフィアはアトリエ代わりに使っている。趣味の油絵を描くだけのスペースがあれば良いという彼女に、夫が専用の部屋として与えたのは、2階の東南にある居心地の良い部屋だった。壁紙や絨毯も舶来の上等品で、汚してしまうのは申し訳ないとソフィアは躊躇ったものの、夫の主張に押される形で、この部屋に油彩道具を運びこむことに決めたのだった。居心地の良さでいえば、1階の居間から間続きの温室も、絵を描くには良い場所だったのだが、湿度の関係もあり、結局は2階に落ち着いた。ロンドン滞在中は、空いた時間を縫うようにしてこの部屋に足を運び、何かしらの絵を描くというのが、ソフィアの楽しみとなっていた。

 現在イーゼルにかかっているのは、まだ木炭で下絵が入っただけの肖像画だ。大部分が白いままで、ほんの一部にだけ、色が入っている。
 完成までには、今しばらくの時間がかかりそうだ。

 順調に走らせていた手を不意に止めて、ソフィアは誰にも気づかれないように、こっそりと小さく息をついた。だがそれも、目の前にいる相手にはお見通しだったようだ。
「疲れた?」

 彼にはかなわないわ。
 胸の裡で呟いて、ソフィアは顔を上げると、目の前のソファに座る青年に向かって、首を横に振ってみせた。
「いいえ、わたくしは大丈夫よ。あなたこそ疲れているのではなくて?随分長い時間、そうしていらっしゃるのですもの――」
 言外に、思いの他作業が長引くことになった原因は、あなた自身にあるのだけれどと匂わせたが、彼は面白そうに片方の眉を跳ね上げて見せ、全く気にした様子はなかった。

「いや、私は気にしていないよ。君とこんなに楽しい時間を過ごせるのだからね」
「まぁ」
 思わず呆れた声が唇から零れ落ちてしまい、ソフィアは慌てて、筆を握ったままの手で、うっかり口元を押さえようとした。すると素早く身動きした彼が、ソフィアの腕に軽く触れて、油絵の具が顔についてしまうかもしれないということを思い出させる。

「ソフィア、君の美しさは絵の具がついた程度で損なわれたりはしないが、顔につけるのは賛成できないな。もっとも、私に拭って欲しいというなら別だが」
「ブラッドったら!」
 どのような方法で拭うことを彼が好むのか思い出し、頬を赤らめて眉尻を下げたソフィアを、低い笑い声を漏らしながら、楽しそうに愛しそうに見つめてくる困った人物。彼の座る左側に大きく取られた窓から、やわらかな春の日差しが降り注ぎ、宝石のような青い瞳を、普段よりもいっそう輝かせている。誰よりも愛しい夫、フォード伯爵は、左手をソファの背に置き、ゆったりと座っていた。光に包まれた青年伯爵の姿は、見慣れているはずのソフィアでさえ、うっかりと見惚れてしまいそうなほど、美しかった。

 彼の見事な黒髪も、午前の日差しを浴びると栗色に見える。いつもはきちんと前髪を後ろへ流しているが、今朝の彼は、額に垂れたままにしている。起き抜けの気だるさを漂わせたようなラフな姿が、若々しい彼が持つ色気を、強調していた。ブラッドが無造作に前髪を額へ垂らしたままにしている姿が、ソフィアは好きだった。やわらかそうに見える髪が、実際に触れるとベルベットのような感触であることを、彼女はよく知っている。時々頬ずりしたくなる柔らかな髪と香りを思い出し、ソフィアは頬が火照りそうになるのを感じて、急いで視線を下げた。
 が、それがまたいけなかった。目を合わさないよう一気に下げた視線が止まったのは、彼の胸元だったのだ。きちんと身繕いする前のブラッドは、いつも肌触りのよい白いシャツを身に着け、決まって黒いズボンを穿く。そのシャツも、胸元深い位置までボタンが外されて、引き締まった身体がちらちらと見える。

 昨夜あの胸に頬をぴたりとくっつけて、やっと眠ることを許されたのが、夜もかなり更けてからだったことを思い出し、ソフィアはそわそわと目を逸らした。情熱的な夜の記憶というものは、感動的な結婚式から数ヶ月たった今でも、未だに彼女を落ち着かなくさせるのだ。そこから下に視線をやるなどもってのほかで、更に余計なことを思い出しかねない。
 こんなことを繰り返していれば、絵が完成するのは一体いつになるかしれない。

 雑念は捨てて、絵に集中するのよ。
 自分自身に言い聞かせ、ソフィアはきっと顔を上げ、キャンバスへと集中したが、じっと熱く注がれる視線を無視するのは難しかった。すっかり慣れてもいい頃だと自分でも思うのだが、うまく対処できずにいる。

 涼しげな印象を与えるサファイアの瞳が、炎より激しい熱を帯びてソフィアの顔に注がれるのは、今に始まったことではない。運命的な再会を果たした昨年の舞踏会以来、ふと気づくと、ブラッドから熱い眼差しを向けられていることが多々ある。親友のウィニー曰く、「恋焦がれていることを隠しもしない眼差し」だそうだ。
 そうして見つめられると、ソフィアは頬と身体の熱を持て余してしまい、俯くしかなくなるのだ。一度は諦めた恋だった。彼とは結ばれることはないと何度も自分に言い聞かせ、胸の奥底に仕舞いこんだ。それが思いがけず再会し、結ばれる日が来るなんて、今でも時折、夢ではないかと思うくらいだ。
 ブラッドの視線を浴びると、そうして積み重なってきた様々な感慨がいちどきに溢れ出し、全身を熱くする。恥ずかしくて居たたまれないというのではなく、泣きたくなるほどの幸福が波のように押し寄せ、ソフィアを落ち着かなくさせるのだ。

 ソフィアが困惑する様子を見かねて、ベッキーにせっつかれたアーサーが、弟をそれとなくたしなめたことがある。あまり妻に見惚れるのは、紳士の作法としてかなっていないのではないかと。すると、ブラッドは渋々打ち明けたそうだ。ソフィアと結婚できたことが、夢なのではないかとまだ思う時がある。目を少しでも離した隙に、彼女の姿が消えてなくなりそうな気がして、怖いのだと。

 それをベッキーから伝え聞いたソフィアは、ブラッドの気の済むようにさせておくことに決めた。今の幸せが夢なのではないかと不安になる気持ちは、よく理解できる。もう少しこのままの生活が続いていけば、不安も次第に和らいでくるのだろうが、まだ結婚後半年も経っていないのだ。
 ブラッドのこうした変化は、アーサーとベッキーたちにとっても、好ましく受け止められている。一時は女性を遠ざけ、仕事に打ち込む冷たい紳士として振る舞っていたブラッドが、妻や娘への愛情をあからさまなほどに見せる様子を、彼らは温かく見守ってくれている。

 それはよいのだが、この絵を描き終わるのはいつになることだろう。
 目の前のキャンバスは、白い面が多く、ちっとも色が増えていない。かれこれ半月ほど取り組んでいるわりには――普段のソフィアの作業速度と比べても、遅々としてはかどらないのだ。

 困ったわ、という思いが、顔に出てしまったらしい。すかさずブラッドが、声をかけてきた。
「何か問題が発生したのかい?」
「なかなか作業が進まなくて・・・・・・どうしたものかしら」
「焦らないで進めればいいよ」
 ブラッドの声は、どこか楽しげだ。

「けれど、そろそろあなたを解放しなくてはならないわ。毎日わたくしに付き合ってばかりもいられないでしょう?」
「何を言っているんだ、ソフィア」
 心外だとばかりに、ブラッドが大仰にため息をついた。
「君以上に大切なものはないんだよ?君を最優先するのは当然だ」
「それはありがたいのだけれど、あなたを待っている仕事が、そろそろ山積みになっているのではなくて?」
 ソフィアが追及の手を緩めずに尋ねると、ブラッドは軽く肩を竦めて、余裕たっぷりに微笑んだ。

「優秀な執事たちがいるから、大丈夫。親愛なる兄上殿も、協力してくれているからね。それよりこの機会を逃せば、またいつ君に絵を描いてもらえるかわからないだろう?」
 それはそうなのだが、かといって、夫がおおっぴらに仕事を放棄するのを、どこまで黙認して良いものか。ソフィアは曖昧に微笑むだけにした。

 今朝など、朝食の席で顔を合わせた執事が、縋るようにソフィアへ視線で訴えてきたのだ。きっとそろそろ、ブラッド不在で仕事を回すのも限界に違いない。兄のアーサーが手伝ってくれているのも事実だが、彼には彼で、本来の仕事が山積みのはずである。たまには弟の手伝いをすると言ってくれたものの、ブラッドのサボリがこれほど長くなるとは思わなかったに違いない。昨日の午後訪ねてきたベッキーが、アーサーもイライラしてきたわと苦笑していた。
 他のモデルたちと同じように、ブラッドが大人しくしてくれてさえいれば、ここまで時間がかかることはなかったのだ。ソフィアは軽く頭痛を覚えた。

 そもそものきっかけは、結婚式前にソフィアが描き上げた1枚の油彩画だった。
 昨年のシーズン中、ハンプシャーでスケッチしたブラッドとグレースの素描をもとに、キャンバスに描き直し、色をつけて仕上げたものだ。1度水彩画に仕上げ、リンズウッド・パークに置いていたものを、ブラッドが目撃し、グレースとの血の繋がりについて確信を持ったという絵だ。
 それを水彩ではなく、油彩で写し、書斎に飾りたいというブラッドの希望に応え、ソフィアは結婚式の準備の合間に描き直し、ロンドンの屋敷に持参した。今は同じ屋敷内の、ブラッドの書斎の壁に架けられている。

 それを目にしたベッキーとアーサーが絶賛し、結婚式の準備に骨を折ってくれた義姉への感謝も込めて、ソフィアが新たにベッキーとその子供たちをモデルに、絵を描いた。グローブナー・スクエアのバリー伯爵邸に飾られたその絵が、今度は社交界の面々や、やがてレイモンド侯爵夫人の目に留まり、評判となった。レイモンド侯爵夫人の依頼で、ソフィアは新たに肖像画を描くことになり、それを仕上げたところで、今度は自分も描いてくれないかという依頼が、あちこちから舞いこんだ。
 とてもソフィアには捌ききれない量だったので、丁重にお断りしたのだが、義姉や祖母がソフィアに絵を描いてもらう様子を側で見ていたブラッドが、次は自分を描いてほしいと言い出したのだった。夫である自分が1枚も描いてもらっていないのに、不公平だと。

 それで描き始めたのだが、のろのろとしか筆が進まない。その原因は明白で、ソフィアにじっと注がれる視線が、全てを物語っている。
 本当に困ったわ。
 眉根を寄せて顔を上げると、ブラッドと真正面から視線がかち合った。真っ青な瞳が、いっそう濃さを増す。それは紛れもない欲望の印で、ソフィアの中心がきゅんと疼いた。

 これだから、ダメなのだわ。
 ソフィアが胸の中で漏らした独白をしっかり聞き取ったかのように、ブラッドが唇の片端をくいと上げた。

「ソフィア、そんな困ったように、潤んだ目で見つめないでくれ。誘われていると思っていいのかな?」
「まぁ・・・・・・」
 筆を脇へ置き、頬の火照りを鎮めようと、ソフィアは両手で頬を押さえた。これではいつものパターンに持ち込まれ、再び作業が進まなくなってしまう。が、ブラッドの行動の方が素早かった。

 いつの間にかソフィアの目の前に移動していたブラッドは、細い右手を捕らえ、残った手をソフィアの背中に回して、ぐいと立ち上がらせ、胸に引き寄せてしまう。こうなると逃げる術はなく、ソフィアは観念するしかない。シャツが肌蹴た胸に、頬を押し当てると、いつもより速く脈打つ鼓動が聞こえる。自由な方の手をそっと夫の胸に当て、綺麗な肌にうっすらと痕を残す、白い傷跡を撫でた。ごく近くで見なければわからないほど薄くなっているが、ブラッドの身体には、こうした古い幾つかの傷跡がある。

 ソフィアと別れた後に入隊した軍隊で、負った傷跡だった。
 その頃の荒んだ彼の精神状態を思うと、ソフィアの胸は酷く痛む。彼女が裏切ったと信じ、憎しみと失望の炎を、過酷な軍隊生活を送るエネルギーに変えて生きた日々の名残だ。彼自身は何とも思っていないようだが、これを見るたびに、ソフィアは胸が締めつけられてしまう。

 そっとなぞっていると、夫の息遣いが荒くなった。左手を絡め取られた途端、熱い口づけが落ちてくる。
 アトリエに長い沈黙が落ち、次にそれが破られた時には、ふたりの呼吸はすっかりと乱れていた。ソフィアは足に力が入らず、崩れ落ちかけたところを逞しい腕に掬われ、抱き上げられた。夫の首に両腕を回しながら、ソフィアは苦笑した。

「また作業が進まないわ」
「いくら時間がかかっても、構わないよ」
 妻の頬と額にキスを雨のように降らせ、ブラッドは軽々と妻を抱き上げたまま、アトリエを出て、夫婦の寝室へと真っ直ぐに向かう。夫の胸元に頬を寄せ、ソフィアは目を瞑りながら、満足そうに呟いた。
「明日からは、作業が進まない限り、ベッドでの楽しみはお預けにしましょう」
 すかさず夫からは、盛大な抗議の声が漏れる。ソフィアはクスクスと笑いながら、夫の腕に安心しきって身を任せ、どうやって作業を進めるかの算段を、ひとまず頭から追い出すことに決めたのだった。  

2010/05/05up

時のかけら2009 藤 ともみ

inserted by FC2 system