第1章 思いがけない再会[2]

  呆然と立ち尽くすブラッドの意識を現実に引き戻したのは、右肩に置かれた力強い手だった。低く押し殺した声が、耳元で名前を囁く。

「ブラッド」

 再び視界は色を取り戻し、オーケストラが奏でる音楽が耳に飛び込んでくる。釘付けになった視線を無理やり引き剥がし、のろのろとブラッドは兄を振り返った。眉を顰めて探るように見つめてくるアーサーと目が合う。灰色の瞳には、深い気遣いがあった。

「ブラッド、疲れているんだろう?公爵夫人への挨拶は済んだし、無理しなくていい。今日はもう帰って休め」
 夫の言葉に、椅子に腰掛けたままのベッキーも頷いて、言葉を添えた。
「そうよ、ブラッド。サラにはきちんとわたくし達から言っておきますから、何も心配はいらないわ。あまり顔色もよくないみたいだし」
 弟を案じる二人に、ブラッドは素直に頷けなかった。

 ブラッドと、今はリンズウッド伯爵夫人となっているソフィアとの間に何があったのか、兄夫婦は知らないはずだ。あのときのブラッドは、誰かに打ち明けるつもりもなかったし、何より、誰かに同情されるのは耐えがたかった。例えそれが家族であっても。

 バリー伯爵家のハウスパーティーに招待したことをベッキーは覚えているようだが、その場で何があったのかまでは把握してはいまい。ベッキーがソフィアと親しくなったわけではないし、その後、家同士の間で交際が続いたわけではないのだから。

 だが、兄夫婦は決して鈍くはない。ソフィアと出逢ったあのシーズン中、ブラッドとの仲を取り沙汰する噂は幾度か囁かれたし、幾つかの夜会に二人が連れ立って出かける姿を目撃もしていた。

 そしてあの年、彼女は突然結婚してロンドンを去り、ブラッドは軍への入隊を決めた。

 ソフィアがブラッドに何らかの影響を与えたと、兄夫婦が考えているのは間違いない。けれど、ブラッドはそのことについて、今でも口を割るつもりはない。

「兄さんたちは心配しすぎだよ。こんな時間にベッドに入るほど、私もまだ老いぼれてはいないさ」
 どうにかからりと笑ってみせたが、兄夫婦は心配そうに顔を見合わせるばかりで、すぐに引き下がってくれるような気配はなかった。

(参ったな・・・・・・)

 今しがた胸に閃いた作戦を実行に移すには、ここで素直に帰宅するわけにはいかなかった。先ほどは思いがけない人物の登場に不意をつかれ、確かに呆然としてしまったが、今は一つの欲求が、ブラッドの全身に奇妙な高揚感をもたらしている。今のブラッドは、欲望が命じるままに、行動してみたかった。

 助けを求めてウィルに目配せをすると、察しのいい友人は、ポン、とブラッドの両肩に手を置いて、にこりと微笑んだ。
「先ほどよりは顔色が良くなってるし、本人がこう言ってるんだ。心配いらないんじゃないかな?」
「ウィル」
 苦虫を噛んだように、アーサーが顔を顰めたが、ウィルは気にすることなくブラッドを誘った。
「古い知り合いが来ているなら、挨拶を是非しなくちゃね。私も一緒に行くから、アーサー達はここにいてよ。もう2曲目が終わるから、サラが戻ってくるだろうし」
 にこりと笑ってそう言うと、ウィルはブラッドを促してそそくさとその場を離れた。アーサーが抗議をする間もなかった。後を追ってこようにも、確かにダンスが終わる頃合だ。サラとベッキーを放って、ブラッドについてくるわけにもいくまい。

「悪かったな、ウィル」
 人混みを避けながら、横を歩く友人に短く感謝を伝えると、ウィロビー伯爵は食えない笑顔を見せた。
「いや、実際君の顔色は蒼白だったからね。赤みが戻ってきたからああ言ったけど、そうじゃなければ馬車に押し込んでたよ」
「・・・手間を省けてよかったよ」
 憮然とブラッドが呟くと、ウィルはからかいの色を消し、表情を改めて友人を見上げた。

「で、君をそこまで動揺させたご婦人は、一体どなたなんだい?」
「・・・まさか本当についてくるつもりだったのか?」
 てっきり兄夫婦への表面的な牽制だとばかり思っていたが、ウィルはついてくる気満々のようだ。

「当然。私は面識がない方のようだからね。一人だけ仲間はずれにされるのは、つまらないものだよ」
 ウィルを仲間はずれにできる強者がいるなら、是非ともお目にかかりたいものだ。

 そう言いたいのをぐっと堪え、ブラッドは足を止めて、壁際に立つ一人の女性を見つめた。視線を追ったウィルも、彼女の姿を捉えたようだ。間にどれだけ人がいても、彼女の容姿は目を惹きつける。
「薄紫のドレスを着た、金髪の女性か?」
「ああ。あれがリンズウッド伯爵夫人だ。その脇の椅子に座っているのが、彼女の大叔母君で、我が祖母君の友人だよ」

 もっとも、と、嘲るような口振りで、ブラッドは続けた。
「伯爵夫人となってから逢うのは、これが初めてだ」

 横に立つウィルがじっと見つめてくるのをわかっていても、ブラッドは口元に浮かぶ歪んだ笑みを堪えられなかった。相手の心を察する術に長けているウィルになら、何かを気取られても構わなかった。

 社交家であっても、口にしていいことと悪いことをきちんとわきまえている彼だ。兄のようなものといっても、実兄のアーサーのように、弟に忠告するのが自分の勤めと思い込んで、実行に移すタイプではない。対照的に、何を察しはしても、黙って弟分を見守るのが、ウィルだった。勿論、よほどのことがあれば彼も忠告はするけれど、無闇にブラッドに干渉したりはしない。
 リンズウッド伯爵夫人との間に何があったのか、細かく聞いてきたりはしない。

「おかしいなあ・・・あれほどの美人なら、一度目にしたら忘れないはずだけれど、やっぱり私とは面識がないようだな」
 ウィルが首を捻っている。友人の横顔を見遣って、ブラッドは小さく息を呑んだ。言うべきかどうか暫し躊躇ってから、ブラッドは重い口を開いた。
「彼女がゴールド・マナーに来たのは5年前のシーズンだった。だから、君が知らないのも無理はない」

 5年前という言葉に、ウィルの茶色の瞳が束の間揺れた。微かに双眸を伏せて、口元に微笑を浮かべ、何気ない風を装う友人を、ブラッドは痛ましい想いで眺めた。

「そうか・・・・・・それなら頷けるよ」

 5年前の春先、ウィルは婚約者を病で失った。幼馴染だったという彼女を心から愛おしんでいた彼は、病がちだった彼女を案じて、前年のクリスマスからずっと病床に付き添って、バースに留まっていた。

 ゴールド・マナーというのは、バリー伯爵家がハンプシャーに持つ領地で、そこに建つ城館の名称でもある。ブラッド達兄弟も、そこで生まれ育った。
 ハウスパーティーもほぼ毎年伯爵主催で催され、ウィルも常連客として毎回招待されている。その彼が欠席したのは、5年前のシーズンだけだった。婚約者の臨終を看取り、心身ともに憔悴しきった彼は、ケントの領地に篭ってその年を過ごしたのだ。

 翌年からは、再びゴールド・マナーに滞在するようになったウィルだが、彼の心にはまだ失われた婚約者が住みついているのだろう。どんな女性にも心を動かすことはないようだ。

 伯爵家の当主として、ウィルもいずれは花嫁を迎え、跡継ぎをもうけなければならない。いつかは他の女性を娶ることになるだろう。
 それは、ブラッドにも同じく課された使命だ。特にブラッドが継いだフォード伯爵家は、本来、従兄が継ぐはずの跡目だった。当主である叔父と、次期当主である従兄が相次いで亡くなったため、親族の中からブラッドが家を継いだのだ。

 だが、戯れの恋を楽しむくらいの時間はあるはずだ。

 ブラッドの心の声を読んだかのように、ウィルが顔を上げた。
「勿論、彼女に紹介してくれるよね、ブラッド」
「・・・・・・お望みとあらば」
 本当は気が進まないのだが、断る適当な口実がない以上は仕方がない。
 ブラッドは一つだけため息をつくと、気を取り直して、リンズウッド伯爵夫人に向かって歩き始めた。



 久しぶりの社交界は、相変わらず華やかで、うんざりするほど軽薄だった。外はまだまだ凍えるような寒さだというのに、ホールには熱気が篭り、ご婦人方が身につけた香水や、紳士方が身につけたポマードの臭いが、むっと立ち込めている。
 ヨークシャーの田舎の空気に慣れた身には、どんなブランドの香水も、無闇に嗅覚を刺激する異臭でしかない。

 少しでも気を抜くと零れてしまいそうになるため息を堪え、ソフィア・ポートマンは、扇で口元を隠して、熱心に話しかけてくる中年の紳士に、にっこりと微笑んだ。早く外に出て新鮮な空気を吸いたいが、ちょうど2曲目のダンスが終わったところだ。アンが戻ってくれば、約束通り3曲目のダンスにはソフィアも出なければならない。

「お誘いは光栄なのですが、わたくしは付き添いに過ぎませんので・・・・・・ミス・ウェルズを差し置いて、わたくしが踊るわけにはまいりません」

 今宵、一体何度この台詞を口にしただろう。そろそろうんざりしてくるが、それなりに効果がある台詞なので、使わないわけにはいかない。案の定、人の良さそうなグレシャム卿は、落胆しながらも頷いてくれた。
「仕方ありませんね・・・・・・付き添い役の面目を潰すわけにはいきません。ミス・ウェルズと踊ってから出直すとしましょう」
「恐れ入ります、グレシャム卿」

 横の椅子に座っている大叔母が眉を顰めていようが、構わない。ソフィアが申し訳なさそうに微笑みながら頭を下げると、グレシャム卿の顔つきも明るくなった。エミリー大叔母が、すかさずフォローを入れる。
「本当にこの子は義理堅くて・・・・・・控え目な性質ですのよ、グレシャム卿」

 余計なことを言わないで欲しいと口を挟みたいところだが、新しい人生を楽しんで欲しいという大叔母の心遣いを無碍にするわけにもいかない。またため息を堪えたところで、頬を上気させた娘が近づいてくるのが目に入った。瞳をきらきらと輝かせた彼女を見て、ソフィアから自然な微笑が零れた。
「楽しんだようね、アン」
「ええ、レディ・リンズウッド。ハガード大尉はとてもダンスがお上手だったわ」

 リンズウッド伯爵家の隣人で、今シーズンが社交界デビューとなるアン・ウェルズは、内気な彼女にしては珍しく、興奮を抑えきれない様子で口を開いた。ダンスで身体を動かしたせいか、それとも会場の熱気にあてられたのか、頬がピンクに染まっている。

 癇癪持ちの父親を怖れ、家ではビクビクしているアンが、17歳という年齢に相応しく、今宵のパーティーを伸び伸びと楽しんでいるのが嬉しくて、ソフィアの微笑みは、彼女を楽しませてくれた青年へも向けられた。
「素晴らしいダンスでしたわ」
 アンの不在をいいことに群がってくる紳士たちを捌くのに忙しかったが、ちらりと見た限り、ポール・ハガード大尉は見事にアンをリードしてくれていた。賞賛を込めて見上げると、まだ20代半ばといった大尉は、息を乱しもしていない。大きめの口に、ゆったりと笑いが浮かんだ。

「ミス・ウェルズもお上手でしたよ。これがデビューとは思えないくらいです」
 大尉の言葉に、アンが頬を赤らめて俯いた。大尉は中肉中背だが、軍人なだけあって、がっしりした身体つきをしている。女性にしては長身なアンを、危なげなく支えていたのはさすがだ。

(デイヴィーは気の毒だったわね・・・・・・)

 会場へのエスコートと1曲目のダンスのパートナーを務めた義理の甥は、ハガード大尉たちの迫力に気圧されたのか、1曲目が終わるとアンの相手をそそくさと譲り、友人を見つけてどこかへ行ってしまった。女性とどう接していいのかわからないと言っていたデイヴィーだから、世慣れたハガード大尉やグレシャム卿を前にすると居心地が悪かったのだろう。

 うっとりとハガード大尉を見上げるアンに、エミリー大叔母がグレシャム卿を紹介しようとしている。それを一瞥して、ハガード大尉はソフィアに親しげな微笑を投げかけた。
「レディ・リンズウッド、約束通り、次の曲の相手をしていただけるのですよね?」
 再び零れそうになるため息を堪えて、ソフィアは当たり障りない微笑を浮かべ、頷いた。
「ええ、お約束ですもの」
 今日の主役はアンであって、自分ではない。一晩壁の花でいてもいい。そう思っていたソフィアだが、アンの父親の知己であり、アンの相手をきちんと務めた相手を、冷たくあしらうわけにはいかなかった。

 ソフィアはまだ22歳だが、既婚者で子供もいる。若くて初々しい女性の相手をする方が男性も喜ぶのではないかと思うのに、自分に声をかけてくる男性が多いのは意外だった。

 社交界の恋愛遊戯に巻き込まれるのはうんざりだ。

 荒れ野に囲まれた館での田舎暮らしは、必要以上に気を張ることもなく、厳しい気候に慣れてしまえば不便は感じなかった。領地での暮らしに飽きてロンドンへ移り住むなど、夫が死んでから一度も考えたことがなかった。5年前に結婚し、ヨークシャーの領地へ移ってから、ソフィアが遠出をしたのはほんの数えるほどだ。エミリー大叔母に強く誘われ、バースにある彼女の屋敷へ滞在したのが、一番の長旅だった。

 今回重い腰を渋々上げたのは、亡き夫と親しかった隣人ウェルズ大佐に頼みごとをされたからだ。
 ウェルズ大佐の一人娘が、アンだった。
 今年17歳になった娘を、ロンドン社交界にデビューさせたい。いずれかの上流階級に嫁がせたいという野望はないが、一生に一度なのだから、田舎の社交界だけでなく、首都の社交界を体験させてやりたい。
 大佐の親心は、ソフィアにもたやすく理解できた。
 夫を亡くしてから男手が必要な時には手を貸してくれた、気難しいけれど本当は気のいい隣人への義理もあり、社交界デビューの手助けを引き受けたが、早くも心はヨークシャーの館へと飛んでいた。早くゴミゴミしたロンドンを離れ、荒れ野を歩き回りたい。

 ハガード大尉に罪はないのに、あとからあとからこみ上げてくるため息を何とか飲み込んで、ソフィアは差し出された手を取ろうとした。が、彼女の身体が、不意に強張った。

「失礼」

 バリトンの声が割って入り、大尉が眉を顰めて声の主へと顔を向ける。ソフィアは動くこともできずに、耳だけを澄ましていた。あの声を聞き間違えるはずがない。ロンドンを離れた時からずっと、片時も忘れたことのない声なのだから。

「先に挨拶だけさせてはくれないか」

 やはり、彼の声だ。

 ハガード大尉はすぐに場所を譲ったらしく、ソフィアの目の前に新たな男性が立った。今すぐこの場から逃げ出しそうになるのを堪え、ソフィアは静かに顔を上げた。果たして、ソフィアが思った通りの人物が、そこにいた。

「レディ・ソフィア、お久しぶりですね」
 5年前と同じ声が、自分の名を呼ぶ。黒髪に、サファイアのような濃い青い瞳。間違えようのない色彩が、記憶と重なる。あの頃よりも少し疲れたような表情が、確かに年月が過ぎ去ったことを教えている。

 だが、ソフィアの背筋を凍らせたのは、その瞳に浮かぶ冷たい光と、口元に浮かぶ歪んだ笑いだった。彼はあのことを忘れてはいない。それを思い知らされる。
「ミスター・ヒューズ・・・・・・」
 震えそうになる声を叱咤して、何とか彼の名を呟くと、ソフィアは礼を返した。そのまま双眸を伏せたソフィアに、ブラッドの自嘲に満ちた言葉が降ってきた。

「いや、今はリンズウッド伯爵夫人でしたか。私も今は、フォード伯爵となっているのですよ」
 彼の口から「リンズウッド伯爵夫人」という言葉が出るとは。その一言に、何という汚らわしさを込めるのだろうか。弾かれたように顔を上げたソフィアの手を取り、フォード伯爵は、優雅に口付けを落とした。

「お逢いできて嬉しいですよ・・・・・・レディ・ソフィア」

 ニヤリと笑う彼の瞳は、獲物を追い詰めた野生の動物のようだ。危険だと頭の中で囁く声がある。早く離れるべきだと思いながらも、ソフィアは魅入られたように、あの青い瞳から目を逸らすことができなかった。

2009/01/12up
2009/01/31改訂

時のかけら2009 藤 ともみ

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