第1章 思いがけない再会[3]

 ブラッドの手が放れたあとも、ソフィアは凍りついたように動けなかった。ブラッドの双眸に浮かぶ酷薄な光は、ソフィアが知るあの頃のブラッドにはなかったものだ。彼に負わせた傷の深さを思い知らされる。
 こうして見つめられると、一歩も動けない。息をすることすら忘れてしまうようだ。ソフィアの全身は、ただ一人、ブラッドだけを意識して、感じ取ろうとしている。
 5年前の快活さが影を潜めた代わりに、今のブラッドに加わった落ち着きが、端正な面立ちに眩しさを与えていた。大人の男性の持つ威厳が彼の美貌に深みを加え、いっそう魅力的にみせている。
 ヨークシャーを離れず、ロンドンへ決して足を向けようとしなかったのは、彼との再会を何よりも怖れたからだったというのに。よりにもよって、5年前をそのまま再現したかのように、オルソープ公爵家の舞踏会で、彼に出逢うなんて。昔と似通った状況が鍵になったのか、過去の思い出がソフィアの胸に溢れ、つまらせる。
 人形のように固まってしまったソフィアを解放したのは、見知らぬ男性の、穏やかな声だった。

「ブラッド、私にも紹介してくれないか?」
 長身のブラッドの横に、にこにこと微笑んでいる男性がいる。茶色の瞳が穏やかな光をたたえて、ソフィアを優しく見つめている。
「レディ・ソフィア、こちらは私の友人でウィロビー伯爵だ。伯爵、こちらはリンズウッド伯爵夫人」
 渋々といった風に、どことなくおざなりにブラッドは紹介したが、全く気にした様子はなく、人懐こい笑顔でウィロビー伯爵が頭を下げた。
「はじめまして、ウィリアム・ナイトレイと申します。以後お見知りおきを」
 人好きのする微笑みにほっとして、ソフィアは自然な笑顔を浮かべ、礼を返した。
「こちらこそ。リンズウッド伯爵夫人ソフィア・ポートマンと申します」
「レディ・ソフィアとお呼びしてもよろしいですか?」
「ええ」
 ソフィアには断る理由もないし、ウィロビー伯爵は非常に感じの良い青年だ。何より、ブラッドの不意打ちを受けて身動きができなかったところを助けてもらった。本人には無意識だろうが、ソフィアは大いに助かったのだ。

(いけない。ここは人目があるのだから、しっかりしなくては)
 無防備に感情をさらけ出してしまいそうだった自分を戒める。自分の感情に浸るのは、自室へ帰ってベッドの中に入ってからでも十分だ。

 意を決して、ソフィアは顎を上げ、ブラッドを真正面から見つめた。が、てっきり敵意をむき出しのままだと思っていた相手の、意外な反応に目を丸くする。
(ブラッド?)
 ちゃっかり名前を呼ぶ許可をもらったウィルに、ブラッドはつまらなそうな表情を向けていた。何かしら気に入らないことがあったらしい。しかし、ソフィアが自分を見つめていることに気づくと、ふと何かを思いついたようにニヤリと笑った。またあの皮肉げな微笑だ。ソフィアが息を呑んで立ち尽くしたのを幸い、彼女が手に提げたダンスカードへと手を伸ばしてきた。

「失礼」

 驚いて声も出ないソフィアをよそに、ブラッドはカードの中身を確認していくと、何やら書き込んでから、漸く手を放した。
「4曲目は私と踊っていただきますよ」
 最初からソフィアの許しを取るつもりはなかったのだろう、ぶっきらぼうに言い切って、ブラッドはソフィアをじっと見下ろした。他の紳士方には口をついて出てきたお断りの文句は、どこへ行ってしまったのだろうか。声を出すことも忘れて、ソフィアはただ、こくりと頷くしかなかった。すると彼の目元が、微かに和らぐのがわかった。

 この真っ青な瞳を前にして、拒否の言葉を口にするには、とても強い意志が必要だわ。

 その現実が、ソフィアを打ちのめした。彼を前にすると、この青に吸い込まれてしまう。彼の思うままの行動を取りたくなってしまう。そこに近づくのは危険だとわかっていても、青い中で暗い光が不穏な瞬きをするのを認めても、彼の魅力に抗うことはできなかった。
 5年前と変わらずに、引き合う力が、確かに二人の間には存在している。

「それじゃあ私も」
 嬉々としてウィルがダンスカードに名前を書き込む。それを見たブラッドの表情からやわらかいものが失われ、再び冷たい仮面へと戻った。真横から冷ややかな眼差しで見つめられても、ウィルは全く気にしていないようで、ソフィアに向かってにこりと微笑んだ。
「レディ・ソフィア、5曲目は是非私と踊って下さい」
「ウィロビー卿」
 困ったように眉尻を下げて首を傾げたソフィアは、本人は無意識にしろ、清楚ながらも女らしい媚があった。正面からそれを浴びせられたウィルだけでなく、真横でそれを見てしまったブラッドも思わず息を止めた。

 3人の間に訪れた沈黙は、ほんの僅かな時間だった。

(どうしたのかしら、お二人とも)

 ソフィアは不思議に思い、物問いたげに2人の男性を見上げる。自分よりも背が高い相手に、しかも2人も揃ってまじまじと見下ろされるのは、居心地が悪かった。久しぶりの社交界だし、何か粗相をしてしまったのかしらと、ソフィアが不安に思い始めたとき、ちょうど良いタイミングで、ハガード大尉がそっと手を取った。

「レディ・リンズウッド、そろそろ行かないと、ダンスが始まってしまいます」
 それまでは遠慮して引っ込んでいてくれたのだが、さすがにやきもきしてきたようだ。
「ハガード大尉・・・」
 そういえばすっかりこの人のことを忘れていた、と、ソフィアは自分の迂闊さを腹立たしく思いながら、何とか気持ちを切り替えた。ここはヨークシャーの自邸ではない。誰が見ているのかわからないのだから、気を抜いてはいけないのだ。

 どこに目が耳があるかわからないのが社交界。それはかつてのソフィアが身をもって経験している。落ち着きある伯爵未亡人として、今のソフィアには若い娘だった時よりも節度のある行動が求められているのだ。
 ソフィアの評判が落ちれば、彼女を付き添い役としているアンや、後見のエミリー大叔母の評判まで傷つきかねない。
 小さく息をつくと、様々な香料が人いきれと混じった熱気が鼻をついたが、それをどうにか堪えて、ハガード大尉に頷いた。
「それでは、後ほど・・・・・・」
 にこやかに微笑んで、大尉に導かれるまま、ダンスに参加する人々の輪に消えていくソフィアに会釈を返して、彼女とそのパートナーが視界から消えたのを確認してから、取り残された二人の紳士は大きな息をついた。ブラッドにとっては忌々しいことに、ウィルが小さく吹き出しながら、余計な一言を付け加えた。
「彼女、君が動揺するだけのことはあるね」
 フンと鼻先で笑い飛ばせないところが、痛かった。



 軽快なポルカの音楽に合わせて、着飾った男女がリズミカルに拍子を取り、夢中になって踊っている。
 賑やかな会場を尻目に、ブラッドは、すぐ側の椅子に腰掛けた貴婦人に近づいていった。ソフィアがいなくなったのだからどこかへ消えるかと思ったウィルも後をついてくるのは計算外だが、無闇に追い払うわけにはいかず、そのままにしておいた。

 ゆったりと腰を下ろした貴婦人は、豊かな銀髪を後ろで大きな髷にまとめ、手にした扇子でゆっくりと顔をあおいで、ダンスに興じる人々を眺めている。
「ごきげんよう、スタンレー子爵夫人」
 ブラッドが礼をしながら声をかけると、束の間驚いたように扇子を操る手を止めたが、すぐに笑顔で挨拶を返したところはさすがだ。人の良さそうな年配の婦人は、ほとんど黒といっても良い濃い茶色の双眸を煌かせ、いかにも楽しげに口を開いた。
「まぁまぁまぁ、お逢いできるとは思いませんでしたよ!ごきげんよう、フォード伯爵」
 手袋をはめた手を差し出し、ブラッドがそれを取って口づけするのを許してから、子爵夫人は声を弾ませた。
「オルソープ公爵夫人が招待されたとは仰っていたけれど、まさかお逢いできるとは。随分とお見限りではありませんこと、伯爵」
「思いがけず跡目を継いでから、ずっと忙しくしておりましたもので。すっかりご無沙汰しておりました」
 社交界への無沙汰をちくりと皮肉られ、ブラッドは決まりきった言い訳を営業スマイルで包んで返した。間髪を入れずに、ウィルを引き合わせて子爵夫人の話題を逸らす。
「子爵夫人、こちらは私の友人で、ウィロビー伯爵です。伯爵、こちらは私の祖母君の友人で、スタンレー子爵夫人」
「はじめまして、子爵夫人。ウィロビー伯爵ウィリアム・ナイトレイと申します」
 ブラッド以上に社交慣れしているウィルのこと、マナー教本のレッスンよろしく、完璧な挨拶を優雅に述べると、スタンレー子爵夫人は嬉しげに目を細めた。
「素敵な殿方がお2人もいらして、とても光栄ですよ。あなた方に是非ご紹介したいご婦人が2人いるのだけど、生憎どちらもダンスに出てしまっているの」
 いかにも残念そうに呟く子爵夫人に、ブラッドは悪戯っぽい笑みを向けた。
「そのうちのお一人には、先ほどお逢いしましたよ。随分と懐かしい方でしたが・・・・・・」
「あら、もうソフィアにはお逢いになったのね?ああ、ソフィアというのはわたくしの甥の娘ですの」

 予測通りブラッドの話題に食いついてきた子爵夫人は、後半の台詞をウィルへ向けて、事情を説明するのを忘れなかった。ウィルがそれに感じの良い微笑を返す。
「私も先ほど、紹介していただきましたよ」
「まぁ。それは話が早くて助かりますわ」
 扇子で口元を覆って、子爵夫人はほっとしたように頷いた。それから問わず語りに、今はこの場にいない伯爵未亡人のことを話し出す。

「5年前に結婚して以来、領地に引きこもってしまって社交界には顔を出そうとしなかったのですが、今回は知人の娘さんのデビューを手助けするよう頼まれましてね。それでやっと、ロンドンに出てきたのですよ。
 ――全く、あの子ときたら、バースに避暑にくるようにどれだけ誘っても、なかなか応じなくて。やっと去年の夏に出てきましてね、その時にはあなたのおばあ様にも可愛がっていただきました」
「へえ、それは知らなかったな」
 思いがけず祖母の名が出てきて戸惑ったが、ブラッドはそ知らぬ風を決め込んだ。

 祖母であるレイモンド侯爵夫人は、今宵の舞踏会の主であるオルソープ公爵夫人と連れ立って、例年、夏をバースで過ごすことにしている。スタンレー子爵夫人がバースに別荘を持ち、そこで他の老貴婦人方と親しくなったことは既に知っていたが、まさか祖母が、ブラッドの知らないところでソフィアに逢っていたとは思いもよらなかった。

 オルソープ夫妻とは異なり、レイモンド侯爵夫妻は社交界の行事にはあまり積極的に顔を出さないし、こうした夜会を主催することも近年はめっきり減っていた。特にブラッド兄弟の両親が不幸な事故に遭い、父は亡くなり、母はその時の後遺症がもとで病みついてからは、あの壮麗な侯爵家の城館で華やかな集いが催されることはなかった。
 痛風持ちの祖父に従って、どちらかといえば城館にこもりがちな生活を送っているはずの祖母だったが、毎年夏の避暑だけは恒例で、バースまで出かけている。その祖父母とは、フォード伯爵家を継いで以来ブラッドが顔を合わせることは稀で、互いの生活にもほとんど干渉はしていないから、ソフィアと遭遇していたことなど耳にするはずもないのだが。

 定期的に祖父母を訪問している兄夫婦なら、何かのついでに耳にしていたかもしれないが、ブラッドの耳には届いていない。とにかく、冷静な表情を取り繕っていても、自分の知らないところで身内がソフィアと逢っていたという事実は、奇妙な不快感をもたらした。ソフィアがブラッドの前から姿を消してより、これまでソフィアの生活を知ろうともしなかったし、興味を覚えたこともない。自身でも戸惑いながら、ブラッドは沸き起こる感情を外に出さないよう、意志の力でねじ伏せて、子爵夫人の話に耳を傾けた。

 幸い、ブラッドの目論見通り、世話好きなご婦人はソフィアについて色々と語ってくれるようだ。すっぱりとロンドン、及びロンドンの上流社会と関わりを絶っていたソフィアが、なぜ突然舞い戻ってきたのか。彼女の姿を目にして以来ブラッドの心を捉えて放さない疑問に、何かしらの回答を与えてくれるだろう。

「あの子は付き添い役に徹するつもりのようだけど、それではもったいないとわたくしは思うのですよ。あの子はまだ22歳・・・・・・子供がいるとはいえ、まだまだ若い盛りです。第2の人生を楽しむべきだと思いますね」

(子供がいるのか?死んだ旦那との間に・・・・・・)

 子供の存在を知ったことより、ブラッドは、そのことに思いがけなく衝撃を受けている自分に驚いた。ソフィアは既婚者なのだし、健康な若い女性なのだから、子供がいても何ら不思議はないというのに。咄嗟に子爵夫人に返す言葉が浮かばず、立ち尽くすブラッドの背筋を、冷たい汗がひとすじ伝い落ちていった。

 声を出すこともできず、ただ耳を傾けることしかできない今は、スタンリー夫人のひとり語りに愛想よく相槌を打ち、先を促すウィルの存在が有難かった。
「お子さんがいるのですか?」
「ええ、今年4歳になる女の子がいます。まぁまぁの子なのですけど、父親は結婚して半年も経たないうちに亡くなっていますからね、父親を知らない可哀想な子ですよ。ソフィアが一人で産んで育てたようなものです」
 甥の娘が一人で立ち向かわなければならなかった過酷な人生を思って胸が塞がったのか、スタンレー子爵夫人は、双眸を潤ませて、そっと言葉を詰まらせた。この親切そうな大叔母が近くにいれば、色々と手を貸してやっただろうが、サマセットとヨークシャーは、気軽に行き来できる距離ではない。

 確かに18やそこらの娘が、見知らぬ土地で男手もなく、領地と館を切り盛りしながら出産と育児をこなすのは、並大抵のことではない。5年前と変わらずたおやかな彼女のどこに、そのような芯の強さがあるのだろう。
 ブラッドが知っているのは、少々頑ななところがあっても、世間知らずで初心な、朗らかに笑うソフィアだけだ。ブラッドが知らない素顔を、亡き夫や、他の連中には見せていたということだろうか。
 その考えは、彼の胸をちくりと刺した。

 黙り込んでしまったブラッドをよそに、ウィルは再び適切な意見を述べた。無論、心にもないことを口にしているわけではなく、彼なりの根拠に則って出てくる言葉なのだが、相変わらずそつがなく、沈み込んだ子爵夫人を立ち直らせるには、十分適切だった。
「それはお気の毒に。子供には父親が絶対に必要ですよ」
 伯爵夫人は大変な苦労をされましたね、と、ウィルが眉を曇らせると、スタンレー夫人は我が意を得たりとばかりに扇子をピシリと閉じ、大きく頷いた。つい今しがたまで潤ませていた瞳が、今度は黒々と煌いている。
「おっしゃる通りですよ、ウィロビー伯爵。あの子は、今度こそ幸せになって良いと思うのです。ですからこのシーズンで、是非素敵な出逢いに恵まれて欲しいと思っていますのよ」

 彼女の目が、ウィルからブラッドへと順に向けられる。あまりのわかりやすさに、さすがのウィルも少々苦笑気味だ。主催者である公爵夫人の機嫌を損ねては大変と、強力な友人を持つ子爵夫人の語らいを邪魔する者はいなかったけれど、隙あればブラッドとウィルに自分の娘を紹介したいと考えているご婦人方は、大勢この会場にもいるはずだった。

 兄も伯爵で、ゆくゆくはレイモンド侯爵家の跡継ぎ。名門の一族に名を連ねている上、本人も若くして伯爵位を継ぎ、特に決まった相手もいない独身で、順調に資産を増やしていると噂のフォード伯爵ブラッド・ヒューズ。
 一方は、やはり代々続いてきた由緒正しい伯爵家を若くして継ぎ、独身のウィロビー伯爵ウィリアム・ナイトレイ。社交家だが浮いた噂がなく、身辺はいたって清潔。ヒューズ兄弟と共同で投資に励み、こちらも着々と財産を蓄えているというもっぱらの噂。
 2人とも容姿も優れており、まだ20代の若さという非常な優良物件である。今シーズンきっての最有力花婿候補といってよい。いや、最優良花婿候補の方が適切か。

 名門の貴族といっても、扶養すべき親族は数多く、小作人の生活も保障しなければならないとあっては、受け継いできた領地から収穫できる作物だけでは、とても生活が成り立たない。商売を卑しいことと考える風潮がある貴族社会に、商才のある者が乏しいのは当然で、なけなしの金をはたいて投資したところ、倍以上の負債となって還ってくるという話も珍しくない。
 伝統ある田舎の城館を維持するだけでも相当な費用がかかるし、体面を保つために雇う使用人の給料にも気を配らなくてはならない。優雅に狩猟や舞踏に明け暮れていればいいといった、今の貴族が理想とする貴族像は、見果てぬ夢でしかないのだ。

 いよいよ身動きが取れなくなった貴族の中には、先祖伝来の領地や城館を手放して、借金の返済にあてようとする者も出てくる。そこを手に入れるのは「成り上がり」として伝統的な貴族からはつま弾きにされるジェントリーや裕福な商人、外国貴族である。彼らと手を結ぶと同じ階級からは軽蔑の目で見られることになるし、どこの家でも窮状を何とか隠そうと必死なのが、英国社交界の実情だった。

 そうした中で数少ない貴族だけが、領地や城館を手放すことなく、投資を成功させている。1代だけの努力ではなく、祖父の代から先見の明を持って職業人たちと手を組み、投資の成果を確実に挙げてきた結果だ。フォード伯爵もウィロビー伯爵も、その僅かな人々の中に入っている。
 娘を嫁がせれば、お金の心配をしなくていいし、もしかしたら実家の借金も肩代わりしてくれるかもしれない。お嫁さんの両親が苦労している姿を見て、手を貸さない婿はいないものだから――そう夢見るご婦人方にとって、ブラッドとウィルは正に格好の餌食なのだ。勿論、一筋縄ではいかないと承知の上で。

 バリー伯爵夫妻と一緒にいれば、あからさまな母親連中が声をかけてくることはなかったし、今もスタンレー子爵夫人の話を聞いている限りは、安全だ。子爵夫人自身が、2人の伯爵をソフィアの花婿候補と考えるのも当然のこと。しかしウィルはともかく、ブラッドは決して花婿候補にはなり得ないことを、この善良な夫人は知らないのだ。
 ソフィアが、いくら親しい大叔母でも、5年前のブラッドとの交際について話すはずはない。ブラッドを裏切ったのはソフィアで、非難されるべきは彼女なのだ。
 何も知らない子爵夫人を哀れにすら思いながら、ブラッドは更なる夫人の説明を傾聴した。
 おそらく細かな過去を語りたがらないだろう本人に代わって、ロンドンを去ってからのソフィアについて、親切にも語ってくれた夫人の話の概要は、こうだった。

 5年前の社交シーズンで、デビューしたばかりのソフィアは年上のリンズウッド伯爵に見初められ(「伯爵は、わたくしと幾つも年が違わなかったのですからね」と、子爵夫人は皮肉げにいった)、ヨークシャーにある領地に赴き、結婚式を挙げた。ところが、重い病に冒されていた伯爵は、結婚後半年も経たずに死んでしまう。
 残された若い新妻は身重の身で、慣れないながらも領地を管理し、女主人としての役割を果たしてきた。翌年娘が生まれ、彼女の役割には「育児」も加わったが、隣人たちの力を借りながら、何とか領主の役割をこなしてきた。
 伯爵夫人の称号は彼女の手元に残るが、年若い義理の甥がいよいよ成年を迎えるため、家長代理としての彼女の役割は終わる。相続した領地の館に暮らすのもいいが、大叔母としては是非もう一度青春を取り戻して欲しいと願っている。

 タイミングの良いことに、亡き伯爵の友人で、良き隣人の大佐が、一人娘の社交界デビューを手助けして欲しいと依頼してきた。ロンドン社交界と縁を絶っていたソフィアは、大叔母に相談し、後見役を願い出てきた。もちろん子爵夫人は、「付き添い役」という名目でソフィア自身も社交界に再び顔を出すよう、約束を取り付けた。
 ロンドンでは、ソフィアは独自に住まいを借りたそうで、そこに娘と、アン・ウェルズという隣人の娘と一緒に腰を落ち着けたそうだ。このままどこまで腰が落ち着くのか、身内である大叔母にもはなはだ疑問のようだが。

 ブラッドが関心を持っていた事柄は、これで大体それなりの情報が集まったのだが、誤算というべき特報が、子爵夫人の話の中には混じっていて、ウィルともども、暫し言葉を失って顔を見合わせたほどだ。

「領地の経営といっても、ヨークシャーは荒れ野が多いと聞いています。農作物だけでは運営も骨が折れるでしょうね」
 と、例によって適切な相槌をいれたウィルに、子爵夫人は、彼女の年代の貴族のご婦人にしては、非常に進歩的な考えを示したのだった。すなわち、鉄道――鉄鋼業への投資が、これからの鍵となると。
「ヨークシャーという土地柄でしょうか、あの子も地元の名士と共同で、鉱山や鉄道への投資を始めているんです。それがあまりに遣り甲斐があるというので、恥ずかしながらわたくしも、少し手ほどきを受けてみましたのよ」
 夫を亡くして以来、一人気ままにサマセットで暮らしているだけという子爵夫人は、これがなかなか面白いのだと、微笑んだ。さすがに周囲を慮って、ヒソヒソ声ではあったが。

 全く邪気のない夫人を前にして、本日幾度目になるかわからない不意打ちの衝撃から漸く立ち直ったブラッドは、ウィルと素早く目配せをして、いかにも感心したように、
「それは素晴らしい!実は我々も、鉄の製造などに関心があったのですが、生憎橋渡しをしてくれる知己がおらず、手を出しかねていたのです」
「ヨークシャー以外の土地から、あそこの鉱山に出資するには、敷居が高くて。既に地元のリストに名を連ねている方の紹介がないと、なかなか新規には参入しにくいのです。ここは是非、子爵夫人に教えを乞いたいところなのですが・・・・・・いかがですか?」
 ウィルがすっかり感銘を受けたという様子で囁くと、スタンレー夫人はクスクスと笑った。扇がパタパタと動いているところをみると、かなりご機嫌のようだ。
「まあ、わたくしがお教えすることはございませんわ。もしよろしければ、ソフィアに申し付けましょう。ヨークシャーの方々とは、付き合いがあるはずですから、その方がお話もスムーズでしょう」
「恐れ入ります、子爵夫人」
 声を揃えて礼を述べる若い伯爵2人に、スタンレー子爵夫人は満面の笑みを送りながら、考えた。

(年齢もほどよく釣り合うし、ヨークシャーの産業に興味を持っている殿方なら、あの子にはぴったりだわ)

 ブラッドとウィルの言葉は、嘘ではない。英国の産業の常識を大きく覆そうとしているのが、まさに鉄道の敷設なのだ。この技術は、国内だけでなく、大陸や新大陸でも大きな武器となる。そう睨んでいる進取の気質に富む貴族は、彼らだけではない。だが、鉄道というものへの専門知識や、つてといったものはなかなか手に入りにくく、深い知識を持つ先達とのコネクションを欲する者は多い。

 ウィルと子爵夫人が他愛無い会話を続けるのを聞き流しながら、ブラッドは、ダンスの輪の中でひときわ輝く女性へと目を向けた。多くの紳士淑女が組になって踊る広い会場で、ただ一人の人を見つけ出すのは難しい。それなのに、彼女の蜂蜜色の髪が、華奢ながら女性らしい丸みを帯びた姿が、向こうから勝手に、ブラッドの視界に飛び込んでくるのだ。
(あの頃と、ちっとも変わっていない)
 艶やかで豊かな髪も、夢想に耽っているかのように見える、灰色がかった明るい青い瞳も、ふっくらした赤い唇も、ブラッドの記憶にあるソフィアの姿と完全に一致しているように思える。
 少々の違和感を覚えるのは、あの頃の初々しい無邪気な雰囲気が抜け、物腰に落ち着きが加わったからだろう。もっともそれも彼女の年齢にふさわしい程度で、子供っぽすぎもせず、老成しすぎてもいない、ちょうどよい調和を形作っている。

(ゲームの相手としてはぴったりだ)

 かつて彼女が仕掛け、勝ち逃げした恋愛ゲームを、今度はブラッドが仕掛け、彼女に同じ想いを味わわせるには、今のソフィアが相手としてはちょうどよさそうだ。5年前の彼女のままでは、あまりに無防備で邪気がなさすぎだ。恋愛遊戯をもちかけるこちらが全面的に悪い男となってしまう。
 結婚を経験し、未亡人となった現在の彼女なら、大人の男女が楽しむべき恋愛遊戯の相手に相応しい。人妻だったのだから、こちらの方面でも様々な経験を積んでいるはずだ。無論、最後に勝つのはブラッドでなくてはならない。

 先ほど、ウィルにダンスを申し込まれたソフィアが見せた仕草と表情は、世慣れた2人の伯爵が思わず見入ってしまうほど、魅惑的だった。彼女のあの瞳――煙るような青の中に吸い込まれそうな気がしてくる色彩が、物問いたげに見つめてくると、健全な男性ならぼうっとしてしまうはずだ。何かを訴えたいようでいて、何かを問いかけてくるような、言葉よりも多くを想像させるあの眼差しは、5年前から彼女が持つ、変わらない癖だった。本人に言わせると、幼い頃からの癖なのだそうだが、22歳になった今は、年頃の女性らしい成熟した魅力が加わっている。
 ブラッドと違う意味で世慣れているウィルでさえ、息を呑んで佇立するくらいなのだ。
 ソフィアに備わった色っぽさは、亡き夫の手によって目覚めたものなのだろうか。

 ちらとでも想像するだけで、ブラッドは、見たことのない彼女の夫に、激しい嫉妬を覚えた。とうに死んでしまったリンズウッド伯爵だけでなく、その怒りはソフィアにも向けられる。あの当時、初心なソフィアに、恋を教え、愛に目覚めさせたのは自分だという自負があった。男としての充実感に酔っていた。ソフィアを手に入れ、身ごもらせ、女として目覚めさせたのが亡き伯爵だという事実は、ブラッドに再び敗北感を味わわせる。5年前にソフィアが去った時、散々に飲まされた煮え湯を、もう一度味わうのは、許しがたかった。
 その上、もしかしたら鉄道への投資も、彼女の夫君の遺命かもしれない。時代の機を見、領地を切り盛りする家長へと世間知らずの彼女を育てたのも、亡き伯爵かもしれない。そうなれば、実業家としてもブラッドは亡き伯爵に大きく立ち遅れていることになる。

 踊りながらハガード大尉が何やらソフィアに囁きかけているらしく、彼女が目を伏せる様子が見える。ダンスの腕前は衰えていないのだろう、話しかけられてもステップは僅かも乱れない。的確にリズムを踏みながら揺れる身体の動きに合わせて、鈍く光る薄紫のスカートが、ふわりと花が開くように舞った。
 花びらに守られて、甘い蜜をたたえた花弁が、ひそやかに身をさらし、蜂の訪れを待っている。そんなイメージがブラッドの脳裏に閃いて、心の底にひっそりと落ちていった。甘美な予感を伴いながら――。

2009/01/12up
2009/01/30改訂
2010/07/16再改訂

時のかけら2009 藤 ともみ

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