第2章 こころの楔[2]

   時間は数日前に遡る。

 バリー伯爵夫人レベッカ・ヒューズは、眉尻を下げて、窓際に立つ義弟を見上げた。すらりとした長身の立ち姿は、いつもベッキーの目を楽しませるのだが、今日ばかりは困惑の眼差しを向けるしかなかった。
 整った顔立ちは、憎らしいほどにすましている。ベッキーが困っているのを承知で、窓ガラスの外に視線を向け、そ知らぬ風だ。ブラッドがこういう態度を取る時は、義姉を困らせてでも自分の要求を通すと決めている印。
(こういうところは、アーサーとそっくりね・・・・・・)
 部屋の中心に置かれたソファに、深々と身を沈めながら、ベッキーはこみ上げてくるため息をかろうじてこらえた。

 この義弟とは5年以上家族として付き合っているが、小憎らしいと一瞬思うことはあっても、本気で腹を立てたことはない。姉弟としての親愛の情は、互いにきちんと持っているし、信頼関係も築いてきた。弟の要求を、姉としてはできる限り叶えてあげたいと思い、そうしてきたのだが、今回ばかりは戸惑いが先に立つ。
 領地の視察に出かけた両親が不幸な馬車の事故に遭い、父が亡くなり、母が後遺症で療養生活を送ることになって以降、ヒューズ家の兄妹は力を合わせて様々な難題を解決してきた。生真面目なアーサーが、一家の長としての責任を果たすために過保護になりすぎるきらいはあるが、対照的な性格のブラッドと、末っ子のサラ、妻のベッキーがうまく家長を補佐し、絶妙のコンビネーションで、バリー伯爵家の崩れかけた屋台骨を支えてきたのだ。
 それは、ブラッドがバリー伯爵家の次男坊という立場から、フォード伯爵家当主へと転身した後も変わらない。

 フォード伯爵位は元来、バリー伯爵位同様、レイモンド侯爵家が持ついくつかの爵位の1つである。レイモンド侯爵家の跡継ぎが、代々バリー伯爵となる慣習に対し、それより下位の称号であるフォード伯爵位は、一族の分家に与えられてきた。
 先代バリー伯爵と先代フォード伯爵は兄弟で、レイモンド侯爵の息子だったが、一族の嫡流は、兄の方だった。フォード伯爵位は、弟の息子が継ぐ予定だったが、この父子は船の事故でいちどきに亡くなった。先代フォード伯爵には他に子供がいなかったため、後継がブラッドに回ってきたというわけだ。
 2つの伯爵家は、当主が2代続けて実の兄弟ということもあり、両家の資産運営について、密に連携を取って、レイモンド侯爵家を盛り立ててきた。特にブラッドは、これまで跡継ぎとしての教育を受けてこなかったこともあって、アーサーに助言を仰ぎながら、体当たりで当主役をこなすことになった。
 元々要領が良く、頭の回転も速いブラッドは、みるみるうちに実力をつけ、今ではフォード伯爵家を見事に切り盛りするようになったが、兄と共同出資した事業など、家の枠を超えて取り組んでいる投資については、相変わらず頻繁にバリー伯爵家を訪れ、意見交換を欠かさない。

 そのため、ブラッドが今日の午後も唐突に、グローヴナー・スクウェアにあるバリー伯爵家のタウンハウスにやってきた時も、伯爵夫人は別段驚かずに弟を迎えた。生憎アーサーは所用で出ていたが、ベッキーに相談があるというので、こうして書斎に招じ入れたのだ。ベッキーはベッキーで、夫の書斎を借りて、片付けなければならない仕事があったのだ。

 兄弟の父が使っていた書斎を、アーサーはそのまま使用している。幼い頃から出入りし、勝手知ったる部屋に、執事の案内なしでやってきたブラッドは、いつもと様子が違っていた。彼の涼しい目元には、このところ見られなかったハリがあり、真っ青な双眸が生き生きとした光を宿していたのだ。
 ソファに座って、テーブルに書類を広げていたベッキーは、義弟の来訪を喜んだ。それはつい先ほどのこと。

 それが今は、ブラッドの、相談というよりも要求という方が正しい発言が、ベッキーを困惑させている。そして本人は、知らん振りを決め込んでいる。

 このままでは埒があかない。

 ベッキーは、ソファに座りなおして姿勢を正した。背筋をピンと伸ばし、この家の女主人に相応しい態度で、黒髪の青年に話しかけた。
「ブラッド、ハウスパーティーの招待状はまだ発送していないわ。そういう意味では、あなたのいった通りよ。招待客は確定してはいない」
 義弟がこちらを注視しているのを確認し、一旦言葉を切って、テーブルの上に広げられた書類を手で示した。紳士淑女の名前が、びっしりと書き連なっている。
「ただしそれは、最終的な確認が済んでいないからよ。わたくしは今日中にこのリストをチェックして、皆様のお名前や称号に不備がないか最後の確認をするの。それが終われば、あとは招待状を発送するだけ。つまり、お呼びする方々はもう決まっているのよ」
 招待状に記す宛名に、スペルミスや漏れがあっては、大変失礼だ。貴族の称号は、ヒューズ家のように、一族で複数所持していたりするから、複雑になっている。アーサーと相談して決めた招待客に失礼がないよう、バリー伯爵家の女主人として、ベッキーが最後の確認をするのが、この夫婦の役割分担となっていた。

 ブラッドはもちろんそれを知っていて、ベッキーに逢いにきたのだ。

 客人をもてなすのは主人・女主人双方の役割だが、どの客人にどの部屋を割り当てるとか、晩餐ではテーブルの席次をどうするとか、細々とした配慮をするのは、通常、女主人の役割だ。招待客をリストアップした時点で、ベッキーの中では大まかに、部屋割りのイメージができている。カントリーハウスの1室1室の特徴と、招待客1人1人の性質を熟知しているから、できる技だ。
 バリー伯爵家のカントリーハウス――ゴールド・マナーは、大規模な城館で、30を超える部屋がある。日当たりの良い部屋、見晴らしの良い部屋、小部屋がついている部屋・・・・・・部屋の数だけ個性がある。どの個性が、どの客人に適しているかを見極めることが、真っ先に女主人が把握すべきことだった。
 つまり、ベッキーがその気になれば、既に部屋が満室であろうと、追加客の1人や2人、どうにでもねじ込めるというわけだ。

「だからあなたにお願いしているんですよ」
 ブラッドが口元をほころばせ、ベッキーを見つめる。冷たい眼差しを向けられたわけではないのに、なぜか追い詰められているような気がして、ベッキーは乾いた唇を舌で湿らせた。

 ブラッドのやり方は正しい。客人の追加を希望するなら、アーサーではなく、ベッキーに話を持ち込むのは正解だ。
 招待客を数名追加するのは簡単だし、ブラッドが望むなら、拒否するつもりは毛頭ない。ベッキーが賛同すれば、アーサーも反対はしない。

 だがなぜ、その名前をここで出すのだろう。

「――わかったわ、ブラッド」
 意を決して、ベッキーはペンを手に取った。リストに残りの手を添えて、目線だけを上げてブラッドに確認を取る。
「レディ・リンズウッド、彼女の娘さん、それからミス・アン・ウェルズの3人を、ゴールド・マナーに招待します。リストに追加しておくわ」
 用箋の下の方に、さらさらと書き加えていく間、自分に注がれるブラッドの視線を痛いほど感じていた。家政婦にも客人の人数変更を伝えなくてはならないし、肝心なアーサーにも報告しなければならない。ペンを置くまでに、やるべきことを胸の裡で数え上げてしまってから、ベッキーの関心は、実務的な問題から目の前の義弟へと引き戻された。

 5年前の秋、祖父の用向きで足を運んだ大陸から戻って以来、ブラッドの心は周囲に対して閉ざされてしまったように見える。彼が何を考えているのか、家族でさえわからない。
 軍隊へ入ると決めた時も、周囲への相談は一切なかった。フォード伯爵位を継ぐために退役した弟を、家族は以前と変わらず温かく迎え入れたが、物憂げな眼差しは変わらなかった。

 様々な相談はするが、それは全て、「公私」の「公」に関することに限られていた。伯爵家を維持管理するにあたって生じた問題は、兄夫婦に対して常に明らかにされ、意見を交わしてきた。しかし「私」の領域となると、ブラッドは壁を作って、誰も寄せ付けようとしないのだ。
 どれだけ兄夫婦が心を痛めても、ブラッドは頑なに距離を置いている。

 明るく開放的だった彼の突然の変化に、ある人物が関係しているのではないかと、夫が睨んでいることを、ベッキーは知っていた。5年前の社交シーズンにただ1度きり、ブラッドと関わったさる貴族の令嬢。2人が見交わす視線に、熱い想いが溢れているのを、アーサーもベッキーも気づいていた。だから微笑ましく見守っていこうと決めていたのに、2人は別れ、ブラッドは変わってしまった。
 できることなら、誰であってももう二度と、ブラッドの心をこれ以上かき乱さないで欲しい。
 兄夫婦の願いもむなしく、2人は再会してしまった。

 オルソープ家の舞踏会で、ブラッドは彼女と踊り、どこかへ姿を消してしまった。心配して気を揉むアーサーに、やがて戻ってきたウィルが、「彼、疲れが出たみたいでね。先に帰宅するといって、馬車を呼んでいたよ」と告げたとき、バリー伯爵夫妻は顔を見合わせたものだ。
 あの日以来ブラッドは再び仕事に没頭し、サラが誘っても、社交の場に現れようとはしなかった。たまには休暇を取らせなければと、アーサーの厳命で、ゴールド・マナーのハウスパーティーには顔を出すことになっていたが、必要最低限の顔出しだけすれば、あとは自由に過ごさせる手筈になっていた。
 やけに素直にアーサーの言いつけを受け入れたと思ったけれど、そのときには既に、ブラッドはこの企みを胸に抱いていたに違いない。
 確信を持って、ベッキーは顔を上げ、義弟を見つめた。窓枠に肩をもたせかけて、両腕は身体の前で組んだゆったりした姿勢で、ブラッドはこちらを見返してくる。窓から差し込む午後のやわらかい日差しを浴びて、すっかりくつろいでいるように見えるが、その口元に浮かぶ微笑は、完璧に整いすぎている。

(以前のように、感情をさらけ出してくれたらよいのに)
 表面を取り繕うことに長けてしまった義弟を、ベッキーは悲しく眺めた。
「アーサーには、わたくしからいっておくわ。招待状も、他の方たちの分と一緒に発送します」
「ありがとう、ベッキー。手間をかけさせてすまない」
 目を伏せた彼の、真っ青な瞳の中に、底意地の悪い光が灯ったように見えたのは、気のせいだろうか。満足そうに微笑む彼の口元に滲むのは、まぎれもない皮肉の色だ。リンズウッド伯爵未亡人に、ブラッドは何を仕掛けようとしているのだろう。

 無意識のうちに立ち上がり、不安な心が急かすままに、ベッキーはブラッドへと近づいていった。深刻な顔つきで、黙りこくったまま近づいてくる義姉に、ブラッドは笑いをおさめ、眉を上げた。
「ベッキー?」
「ブラッド、あなたは何を企んでいるの?」

 意志の強い緑の瞳が、下からじっと覗きこんでくる。翡翠のような深い色合いの瞳は、彼女の性格を表すようにいつもきらきらと輝いていて、ブラッドの心を軽くしてくれる。しかし今、慈しみと心配を色濃く宿した緑の宝石は、見せたくない心の裡までも暴き出してしまいそうで、彼は僅かに目を逸らした。
 動揺を悟られないよう、不自然にならない程度に目を逸らしたままで、ふっと微笑みを返す。
「人聞きの悪い。何も企んでなどいませんよ、ベッキー」
「それならいいのだけれど」
 義弟の自然な笑みに毒気を抜かれ、ベッキーは小さく返すしかできなかった。ブラッドは落ち着き払っていて、ベッキーの揺さぶり程度では尻尾を出しそうにない。

(何も企んでいないわけがないじゃない)
 彼がどこまで本心からいっているのかはわからないけれど、アーサーは心配して色々と勘ぐるに決まっている。社交界から距離を置いてきたフォード伯爵が、ある特定の女性を気にかけていると知れれば、様々な憶測が飛び交うのは間違いない。下手をすれば、ブラッドだけでなく、リンズウッド伯爵未亡人も傷を負う羽目になる。

 だがベッキーには、肩を竦めて憎まれ口を返すのが精一杯だった。やり手の事業家で、交渉力には絶対の自信を持つ義弟が相手では、仕方がない。
「久しぶりに逢ったというわりに、随分リンズウッド伯爵未亡人を気にかけているようだから」
 ちくりと仕込んだ針は、確かにブラッドの喉元に刺さったはずだったが、憎らしいことに彼は平静そのものだ。
「ええ、彼女が大変に苦労してきたと聞きましたからね。嫁いですぐに夫を亡くし、女手1つで領地を管理し、ヨークシャーに籠もりきりで子供を育ててきたと聞けば、誰でも同情するでしょう?」
「それはお気の毒だと思うけれど・・・・・・」
 至極真面目な顔つきで、若い未亡人の身の上を語られれば、ベッキーとて頷くしかない。するとブラッドはたたみかけるように、
「久しぶりに出てきたロンドンで、社交界を楽しむのも良い気分転換になるのではないかと思ったのでね。それは本来、彼女に許されているはずの権利ですよ。だがこの町の空気は不味い。ハンプシャーの自然の中なら、母子揃ってくつろげるでしょう?それぐらいのお楽しみはあってもいいんじゃないかな」
 古い友人として、手を貸したかっただけですよ。

 どこか遠くを見るような物憂げな眼差しで、ブラッドは最後にそういい足した。彼の表情には深い陰りが落ち、先ほどまであった微笑みは、欠片も残っていなかった。窓ガラスの向こうに視線を外して、黙りこんでしまったブラッドの身体を、拒絶のベールが覆っている。こうなってしまうと、彼は誰も受け入れない。

 これ以上の追求は不可能だ。

「レディ・リンズウッドは、お子さんのことで気を遣う必要はないわよ。他に子供連れのお客様はいないから、我が家の子供たちと一緒に遊べばいいのだから。乳母やナース・メイド(子守女中)がついていますから、安心していただけるわ」
 ため息を零す代わりに、ベッキーは、にこりと笑って義弟を見上げた。義姉の、明るくてきぱきとした言葉は、ブラッドの気持ちを多少は和らげたようだ。ゆっくりと義姉に向き直った彼の整った顔から、色濃く漂っていた陰りが、いくらか消えていた。
 霧の濃い夜空にじわりと滲む朧月のように、ぼんやりとした微笑が、口元にそっとのぼった。
「それは彼女も喜ぶだろう。ジェフたちにもいい友人ができるね」

 その言葉が、潮時となったようだった。素早い身のこなしで窓際から離れたブラッドは、長い腕を伸ばして義姉を抱擁し、彼女の白い頬に親しみをこめた挨拶のキスを贈った。そのままベッキーの両肩に手を置いて、彼は1歩後ろに下がった。エメラルドの瞳を、サファイアの瞳がじっと覗き込み、やわらかい光を宿して、細められた。
「本当にありがとう、ベッキー」
「あなたのお役に立ててよかったわ、ブラッド」
 手を外して身を翻すブラッドに、心からの想いをこめてベッキーは告げた。アーサーが帰宅する前に暇乞いをするつもりのようだ。兄に捕まればまた何だかんだと質問攻めにされるからだと見当はついたが、書斎を出て行こうとする広い背中に、ベッキーはダメもとで声をかけた。
「もう行ってしまうの?せめて晩餐を一緒にしていけばよいのに。サラも喜ぶわ」
 振り向いた顔には、申し訳なさそうな微笑が浮かんでいたが、返ってきた言葉はきっぱりしたものだった。
「お誘いは嬉しいが、まだこれから寄らなければならないところがあるんだ」
「そう・・・それは残念ね」
 表情を曇らせたベッキーに、彼はきっぱりとした口調は変えないまま、言葉を添えた。
「アーサーやサラにはよろしくいっておいてくれ。ゴールド・マナーには、早めに帰るようにするから」
 休暇は必ず取るという宣言だ。それを聞いたベッキーの表情が晴れたのを確認してから、ブラッドは慌しく馬車に乗り込んでいった。

 玄関ホールで見送ったベッキーが、書斎に戻ろうと階段を上がりかけたとき、入れ違いにアーサーが帰宅した。再び玄関ホールに下りて夫を出迎え、夫妻は揃って書斎へと上がっていった。
 妻の口から、弟の来訪と客人の追加を聞かされたバリー伯爵は、予想通り顔をしかめたけれど、反対はしなかった。伯爵家の女主人が承諾しているのだから、今更彼がとやかく口を挟むことはないと考えているのだ。生真面目で口うるさい性分なのに、夫はいつも肝心なところで、ベッキーの決断を尊重し、彼女の顔を潰さないよう気遣ってくれる。
 感謝の気持ちをこめて抱きつき、長身の胸に顔を埋めたベッキーの背中に、力強い腕が回される。夫のベストにぴたりと頬をつけていたから、彼が口を開くのに合わせて、振動が肌を震わせる。彼の声が、いつもよりも深いところに落ちてきた。

「何事もなければいいのだが・・・・・・」
「アーサー、ブラッドはもう一人前の大人よ。わたくしたちは、見守っているしかできないわ」
 夫の眉間には、間違いなく皺が刻まれている。彼の言葉には深く頷きたいところだが、気持ちを引き立てるように、頬を寄せたまま、さばさばした口振りでベッキーはいった。夫の手が、やわらかな金髪をそっと撫でている。安心させるように、背中に回した腕にぎゅっと力をこめて、ベッキーはいっそう深く頬を擦りつけた。
「ブラッドは大丈夫よ。信じましょう、アーサー」
 言葉が返ってくる代わりに、夫の腕にも力がこもるのを感じながら、ベッキーは、1人きり馬車に乗り込んでいった義弟の背中を思い出した。

 相変わらず他人を寄せつけたがらない彼が、リンズウッド伯爵未亡人に興味を示したのは、心配でもあり、好ましくもあった。この5年の間、ブラッドが誰かに関心を持ち、執着を露わにしたことなどなかったのだ。それを思えば、あの2人の再会は、彼に変化をもたらずきっかけとなるかもしれない。ブラッドの本心がわからない以上、良い方か悪い方か、どちらに転ぶかは予測できないけれど、少なくとも、他人と関わりを持とうとするのは、良い兆候だ。
 残念ながら、ベッキーも夫も、リンズウッド伯爵未亡人と面識はほとんどない。5年前も祖母とスタンレー子爵夫人の繋がりで、ハンプシャーに招いただけなのだ。今回のハウスパーティーで、彼女の人となりを確かめてみよう。おそらく夫もそうするつもりだろうとは思ったが、大切な義弟が関心を示す女性は、是非ともこの目で確かめなくては。夫の胸にぴったり寄り添いながら、ベッキーは満足げに微笑んだ。
 楽しいパーティーになりそうだ。



 セント・ジェイムズ・ストリートの家へ戻るよう御者に告げると、馬車は滑るように動き出した。座席のシートに背中を預け、窓の外を流れていく夕闇の街を眺めながら、ブラッドは小さく息を吐き出した。身体が重く、鈍い頭痛がずっと続いている。

 休暇を得るためだから、仕方ない。

 両手の人差し指で、こめかみをマッサージするように揉みながら、ブラッドはこれから出発までに済ませておくべき用事を頭の中でリストアップした。帰宅したら、執事に指示しておかなくてはならない項目もいくつかある。今宵もまた、寝台に潜りこむのは日付が変わった後になりそうだ。
 身体の不調は、事業に没頭するようになって以来、馴染みのものになってしまっている。軍隊で鍛えられているせいか、調子が悪くてもある程度精神力で持ちこたえられるから、ついつい無理をしてしまう。
 兄夫婦だけでなく、執事も家政婦もブラッドの健康を案じてくれるが、今回は、休暇を得るために様々な予定を前倒しでこなしているのだ。時間を捻出するにはこうするしかないのだから、仕方ない。

 ハンプシャーで過ごす休暇を思うと、ブラッドの表情は和らぎ、このときばかりは頭痛も軽くなる。豊かな自然に囲まれたゴールド・マナーを愛していたし、久しぶりにそこで寛げるのは素直に嬉しかった。そして、今回はソフィアがくるのだ。
 招待状を受け取ったら、ソフィアはどんな顔をするだろう。オルソープ家の舞踏会で、欲望に負けてキスをしてしまった時のブラッドのように、激しく混乱するだろうか。

 あの時のことを思うと、ブラッドの胸には苦いものがこみ上げる。
 初めは、余裕を忘れてはいなかった。ダンスを利用して、彼女が動揺するような体勢に持ち込んだりしたのは、いちいち些細なことに正直な反応を返す様子を眺めて、自分が優位に立っているのを確認したかったからだ。それが思いのほか、うぶな反応が返ってきて、こちらの調子も狂ってしまった。5年前と同じ、無垢なままのソフィアが、目の前にいるのだと錯覚してしまいそうになるほどだ。
 その上、気分が悪くなった彼女は、この腕を信頼しきって、身体を預けてきた。蒼白な顔で助けて欲しいと訴えてくる彼女をバルコニーへ連れて行き、優しく介抱してやったのは、計算した行動ではなかった。真っ青な顔の中、大きな瞳を苦しげに潤ませて、縋るように見つめられたとき、何も考えられなくなった。胸を占めたのは、彼女を守らなければならないという強烈な庇護欲だけだった。

 衝動的に彼女の唇を奪ったのは、全くの誤算だった。微かに首を傾げるように見上げてくる、濡れた瞳。本人は無意識だろうが、あれを目の当たりにしたら、大抵の男は、理性を焼ききられてしまうだろう。
 一度彼女に裏切られているブラッドでさえ、瞬く間に欲望の虜になってまったのだ。瑞々しく甘美な唇を味わうのに夢中で、彼女が反応を返してくるまで、自分が何をしているのかわかっていなかった。まるで手管を知らない初心な少年に戻ったかのように。
 彼女にゲームを仕掛けるなら、こちらの真意を悟られないよう、十分に気をつけなければならない。そう考えていた矢先に、感情が先走ってしまった。動揺に気づかれないようにするには、彼女をあの場から追い払うしかなかった。打ちひしがれて小さくなる背中に胸が痛んだが、教訓と、良い兆候を得られたのは収穫だった。

 ソフィアは嫌がってはいなかった。

 抱きすくめられても、キスをされても、戸惑ってはいても、拒否反応は示さなかった。熟練した既婚婦人らしく、誘いかけることもしなかった。この腕に閉じこめた彼女は、ブラッドの誘いをしなやかに受け止めながらも、微かに身体を震わせていた。

 奇妙だった。

 ブラッドの眉間に、薄っすらと皺が寄る。
 子供もいる立派な既婚者のはずなのに、ソフィアの反応は初々しくて、5年前のブラッドの記憶にある彼女を、そのままなぞっているかのようだ。時間は確かに流れ、互いに年齢と人生の経験を重ねているはずなのに、落ち着いた淑やかな貴婦人の影から、男性の熱に怯える無邪気な娘が顔を覗かせたような気になってしまう。

 いくら考えても、明確な解は出てきそうにない。まぁ、いい。ブラッドはクイと口角を上げた。直にゴールド・マナーで、リンズウッド伯爵夫人の真実を知ることになるだろうから。
 思い出が煌く館で、ブラッドを前にして、ソフィア・ポートマンは今度こそ本当の彼女をさらけ出すことになる。彼女はブラッドへの不実を詫び、裏切りを償う義務があるのだ。
 ブラッドの誇りを傷つけ、約束を反故にしたことへの贖罪は、名誉を重んじる貴族社会に生きる人間として、ソフィアもきっちりと果たさなければならない。次に逢うときには、彼女の喉元にそれを突きつけるつもりだった。そうしなければ、ブラッドは5年前の別れを真実乗り越えることができないまま、生きていくことになる。
 終わらせなければ、と小さく呟きながら、ブラッドは、馬車の揺れがかきたてるまどろみの中へと、意識を滑らせていった。

2009/02/06up

時のかけら2009 藤 ともみ

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