第2章 こころの楔[3]

  これまで幾度も繰り返されてきたように、その年も、霧の都の社交シーズンが、幕上げを告げた。



 目に映るきらびやかな世界に圧倒されて、ごくりと唾を飲み込んだ。綺麗に紅を差した唇は、緊張で乾いてしまっている。それを舌先で無意識に湿らせようとして、唐突に舌を噛みそうになり・・・・・・ソフィアは慌ててごまかした。先導して歩いている大叔母が、不意に振り返ったところだった。
「あそこにいらっしゃるのが、今日のホスト役。オルソープ公爵夫妻よ。さあ、ご挨拶にいきましょう」
 エミリー大叔母が目で指し示したところは大階段の上で、そこには大勢の紳士淑女に囲まれている小柄な老夫婦の姿があった。彼らのところにたどり着くには、長蛇の列に並ばなければならない。
 エミリー大叔母に手で示されるまま、ソフィアは大人しく、彼女の後について列に加わった。ちらりと後ろを見ると、既に最後尾は見えなくなっている。これだけ沢山の紳士淑女を一度に目にするのは初めてだったし、誰もが華やかな色彩を身につけていることに驚いた。話には聞いていたけれど、実際目の当たりにすると迫力が違う。

 母のいないソフィアが肩身の狭い思いをしないようにと、エミリー大叔母が、ロンドンに着いてすぐ、衣装など細々したものを整えてくれていて良かった。ピンク色のシフォン地のドレスを着た自分は、何とかうまく、この空間に紛れ込めているようだ。  それに力を得て、ソフィアは名高い公爵夫妻をもう一度眺めようと、首を伸ばして目を凝らした。社交界きっての実力者で、王族にも影響力を持っているといわれる著名な老夫婦の話は、世話好きな大叔母から散々聞かされていたが、これほどとは思わなかった。何しろ、この巨大な城館に到着した大勢の客が、列をなして彼らに挨拶をする瞬間を待っているのだ。威厳たっぷりの老紳士や、貫禄のある貴婦人も、誰もがあの老夫婦に頭を下げ、言葉を賜る機会を待っている。
 公爵夫人と親しいという大叔母が、ついていてくれるのが心強かった。社交的な彼女は、夏は保養地のバースに、冬は領地のあるサマセットを出てロンドンの社交界に顔を出しているから、顔がきくし、世慣れている。

 妻をとうに亡くしている甥が、一人娘の社交界デビューを気遣ってやれるほど細やかな神経をしていないと決めつけて、エミリー大叔母がロンドンのアトレー男爵家に乗り込んできたのは、ソフィアにとっては幸いだった。

 アトレー男爵は、サマセットにあった先祖伝来のこじんまりとした館とささやかな領地をさっさと手放し、祖父や父が出した損失を穴埋めしようと、慣れない事業にかかりきりで、幼い娘のことを思い出しもしなかった。ロンドンのタウンハウスで生まれたソフィア・エルディングは、父に大して関心を持たれないまま成長した。ロンドン郊外の女子寄宿学校へ入学し、3年間みっちりと淑女の素養を仕込まれて、前年のクリスマスに父の家へ戻ってきたところだった。父は特に反対もせず、ソフィアは大叔母のサマセットの家とロンドンの家を往復する生活を送った。
 男爵家代々の家と土地をあっさり手放した甥を、エミリー大叔母は信じようとはしなかった。父親が頼りにならない代わりに、素敵な婿を得て、幸せな生活ができるようになさいといって、腕によりをかけて、ソフィアのデビューを手伝ってくれたのだ。
 社交界に属する人間なら皆欲しがるという、オルソープ公爵夫妻主催の舞踏会への招待状を手に入れてくれたのも、気のいい大叔母だった。この舞踏会に出れば、社交界で名士といわれる人たちに逢うことができる。アトレー男爵位は、親戚の適当な男子に譲られることになっていたから、実家のことは気にせず、ソフィアは未来の夫探しに励めばいい。心遣いには感謝するものの、17歳のソフィアにとって『夫探し』はまだ身近な問題ではなく、無邪気にも、華麗な社交界を体験できる喜びと期待の方が、大きな比重を占めていた。
 さすがに社交シーズンを3回体験しても未婚のままだと、オールドミスの烙印を押されるそうだが、これが1シーズン目なのだから、最初から焦るつもりはなかった。実家を早く出たい気持ちはあるが、当面エミリー大叔母のもとに居候する予定になっているし。

 そうこうしているうちに、今宵の主人夫婦の前へと押し出された。高価そうなティアラを白銀の髪に留めている小柄な老婦人は、エミリー大叔母と言葉を交わした後、ソフィアにも人の良さそうな笑顔を向けてくる。
「あなたがレディ・スタンレーご自慢の娘さんね。楽しんでいってちょうだい」
「恐れ入ります」
 ロンドンに出てくる前、場慣れするため、サマセットでも小さな夜会に顔を出していたけれど、高貴な方の前に出るのは生まれて初めてだ。緊張しながらも、何とか主人夫婦への挨拶を終えて、ホールへ降りてから漸く息を吐いた。

 エミリー大叔母は、次々と知人を見つけて談笑しているが、ソフィアに話しかけてくる人はいない。ロンドンでの知り合いは、女子寄宿学校時代の友人ぐらいだが、この広い会場では見つけ出すのも困難だ。
悪目立ちしないよう大叔母の横にぽつんと立って、大人しく話を聞くふりをしながら、会場を観察していたソフィアの視界に飛び込んできたのは、1人の若者だった。最初のダンスのパートナーを務めることになっているスタンレー子爵家のトーマスと一緒に、ソフィアたちの方へ近づいてくる彼から、視線を外すことができない。目の前に立ち、優雅に礼をする姿を、ソフィアはぼうっと眺めているしかできなかった。
「こちらはブラッドレイ・ヒューズ卿。バリー伯爵家の次男で、私とはイートンの顔見知りなんだ」
 トーマスの台詞が、頭の中をぐるぐる回っている。目の前の若者の、真っ青の瞳に見つめられて、ソフィアは身動き1つできなかった。
「こちらはソフィア・エルディング嬢。アトレー男爵の一人娘で、これがデビューなんだ。私もあまり社交界に詳しくないし・・・・・・良かったら相手をしてやってくれないか」
「ええ、喜んで。次のダンスのお相手をお願いできますか?」
 華やかに微笑んで、ブラッドが右手をそっと取り、甲に唇を近づける。手袋越しにやわらかな感触が押付けられるのを感じると、恥ずかしくて頬が赤くなるのがわかった。上目遣いに見つめられると、自分1人が特別扱いされているようで、どぎまぎしてしまう。
 トーマスがダンスフロアへ誘うまでの間、ブラッドは親しく言葉をかけてくれたけれど、ソフィアはあまり満足に受け答えできずに、縮こまってしまっていた。あれでは、田舎臭い娘だと呆れてしまったのではないだろうか。自己嫌悪でいっぱいになった心も、カドリールの陽気な音楽に触れた途端、羽が生えたように軽くなる。
「相変わらずダンスは絶品だね、ソフィア。君ほど上手く踊るレディは、ロンドンにだってそうはいないよ」
 幼馴染で気のいいトーマスが、息を切らせながら賛辞をくれる。軽やかなステップを踏みながら、こちらは息を乱さずに、ソフィアはにこりと礼をいった。
「ありがとう」

 ダンスを踊ること、絵を描くこと。
 幼い頃より才能を発揮した、この2つの趣味に没頭している間は、ソフィアの心は現実のあらゆる問題から解放される。今も心は浮き立って、旋律を追うことに夢中になっていた。ソフィアのダンスの腕前はサマセットでは有名で、大抵の紳士は彼女の優美で身軽な動きについてこれずに、途中で息切れしてしまうのだ。

 カドリールを終えて、トーマスにエスコートされながらエミリー大叔母のもとへ戻ったときも、ソフィアの頬はうっすらと赤く色づき、灰色がかった青い瞳は星のように輝いていた。その輝きは、黒髪の長身の若者が向ける深い青い瞳とぶつかっても、色あせることはなかった。
 トーマスからソフィアを譲り受け、長い手足を優雅に使ってエスコートしながら、ブラッドは横を歩く蜂蜜色の髪をした令嬢をそっと見下ろした。色白の頬に朱が差し、長いまつ毛が被さっている瞳は、キラキラと楽しげな光を宿して、夕暮れの空に輝く明星のようだ。すっきりとした横顔のラインを下に辿ると、ふっくらとした唇が、誘うように小さく開いているのが目に入った。
 瑞々しい唇の味を試してみたい。よこしまな衝動が沸き起こるのを、何食わぬ顔をして抑えこみ、ブラッドはダンスフロアの真ん中に到着すると、ソフィアに腕を回して、音楽が始まるのを待った。
 オーケストラの旋律が鳴り始めるまでの、短いひと時だった。それまで伏し目がちにしていたソフィアが、ふと顔を上げ、ブラッドを仰ぎ見たのだ。おずおずと、上目遣いに見上げてくる、夢見るような物問いげな眼差しが、自分に注がれるのを意識した瞬間、ブラッドの心臓は、一時動きを止めたような気がした。
 令嬢たちの誘惑には慣れていたし、かわす自信もあるけれど、ブラッドはこのとき、甘美な苦痛を持ってソフィア・エルディングの瞳に魅入られたのだった。そしてソフィアも。心の中を見透かすように見つめてくるサファイアのような瞳から、目を逸らすことができない。2人は、息をするのを忘れたまま、じっと見つめ合った。

 凍りついたような2人を現実の世界に引き戻したのは、オーケストラが奏で出した旋律だった。はっとした2人は、どちらからともなく微苦笑を浮かべ、音楽に乗って滑るように踊りだした。
 1度2度とターンしてすぐに、ソフィアは驚きに目を瞠って、涼しい顔をして自分をリードする若者を見上げた。
(この方・・・・・・とてもお上手なのだわ)
 ソフィアの軽快な動きに遅れることなく、すらりとした身体を活かして、ぴたりとついてくる。これまでダンスの相手が気後れしないよう、気を遣って踊ってきたソフィアも、この相手には安心してリードを預けることができそうだとわかり、感謝の微笑を向けた。
 息を乱さずに微笑みを返してくるブラッドは、ソフィアの華奢な身体を上手く支え、2人は息がぴったりと合ったダンスを見せた。生き生きと踊る若々しいカップルの様子は、瞬く間に噂になり、ロンドンに不慣れなアトレー男爵令嬢は、いつの間にか、令嬢たちの嫉妬の的となっていた。



 ドアからちょこんと首を出し、きょろきょろと左右を伺って、誰もいないことを確認すると、ソフィアはそっと戸外へ滑り出た。身軽なモスリンの外出着に、同じ生地で仕立てたボンネットは、顎の下で結んだリボンで蜂蜜色の頭にちょこんと止まっている。他家の屋敷だけれど、この2週間ほどで地図は頭に入っている。予想通り、召使用の出入り口から外へ出たソフィアを見咎める者はなく、そそくさと使用人棟の脇を通り抜けて、庭園のはじへ出ることに成功する。
 巨大な温室の前に出て、ソフィアはほっと息をついた。手に提げたバスケットをぎゅっと握り締めて、左右に続く小道に人影がないかどうか確認する。砂利が綺麗に敷き詰められた小道は、ひっそりと静まり返ったままだ。
 午餐の後のこの時間は、夜に備えて昼寝をする者が多い。ソフィアはこっそりと部屋を抜け出してこれたのも、エミリー大叔母が休憩するといって寝室に引き取ったからだ。廊下を歩いていても、すれ違ったのはメイドくらいで、1人きりでボンネットを被ってバスケットを下げたソフィアに声をかける者はいなかった。

 唇の端を上げて、ソフィアは悪戯っぽく瞳を煌かせると、温室の横を抜ける下りの小道へと足を向けた。緩やかな傾斜を描きながら、温室をぐるりと回りこむこの道を辿ると、屋敷の裏手に広がるこんもりとした森と、花々が咲く草原に抜けることができる。
 裏に続く丘を越えたところに、古い僧院の遺跡があるとメイドがいっていたのを聞いてから、こっそりと行く機会をうかがっていたのだ。幸い、昼下がりの空は雲が多いものの、太陽の熱を伝えてきており、パラソルを持参するまでもない。身軽く屋敷を抜け出すには絶好の機会だった。

 ソフィアに甘いエミリー大叔母なら、1人きりで外出するという計画を聞いても、眉を顰めはするものの、止めないだろう。けれどこの午後、ソフィアは誰にも何もいわずに、決行した。どうしても1人になる必要があった。

 ゴールド・マナーは蛇行する川に沿った傾斜の上にそびえており、温室の裏手からは、ハンプシャーの豊かな大自然を貫いて流れるテスト川が一望できる。しかし今のソフィアは、一心に目的地に着くことだけを考えていた。軽い靴を履いた足を励まし、温室を過ぎて緩やかな上りになった坂道を黙々と進んだ。やがて正面に緩く連なる丘を、左手に森へ続く小道と分かれるところに出て、漸く、深い息を吐き出した。
 右手には低い柵が続き、牧草地となっている。そちらにも人影はなく、丘の向こうを目指すソフィアを妨げる者はいなかった。
 ぐいと顔を上げ、珍しく瞳を青に燃え立たせて、ソフィアは足を進めた。バスケットを持つ手を持ち替えると、籠の中でスケッチブックがバサリと音を立てた。

 バリー伯爵家自慢のカントリーハウス、ゴールド・マナーで開かれているハウスパーティーに招かれて、2週間。華やかな催しを楽しんではいたけれど、うんざりする気持ちを持て余してもいた。

 ソフィアが招かれたのは、エミリー大叔母がオルソープ公爵夫人経由で口を利いてくれたからだ。そうでなければ、サマセットのしがない男爵令嬢が、この名誉ある滞在を許されるはずがない。招かれているのはいずれも名家の紳士淑女ばかりで、気後れしそうになるソフィアを支えてくれたのは、同行したエミリー大叔母と、バリー伯爵家のブラッドの存在だった。
 例えば友人のウィニーもここに招かれていれば、多少のことは笑い話に昇華させて、我慢できたかもしれない。だが彼女は、ここにはいなかった。エミリー大叔母に心配をかけるのは嫌だったし、ブラッドに愚痴るのはもっと躊躇われた。だから1人きりで抱え込んでいたのだが、2週間が過ぎると、そろそろそれも限界だった。
 他愛もないことなのだ、1つ1つは。ゴールド・マナーに滞在している他の令嬢たちが、これみよがしにソフィアをのけ者にするのも、聞こえよがしに悪口をいうのも、1つ1つは些細なことで、思い悩むほどのことではない。けれど、それが毎日・・・・・・朝食室に始まり、晩餐の後の談話室に至るまで、ネチネチ続けられると、気丈に振舞っていても、疲労が蓄積してくる。

 更にこの頃では、ソフィアが見境なくブラッドを誘惑しているふしだらな女のようにいう者まで現れて、好色そうな中年紳士が、ちょっかいを出そうと寄ってきたりするのだ。そういう陰湿な噂を中心になってばらまいているのは、名家のご令嬢だというレディ・アイリーンで、彼女とその取り巻きが、滞在当初からソフィアを目の仇にしているのだ。
 彼女たちがブラッドを熱烈な眼差しで見つめ、追いかけているのを知っているから、夜会のたびにブラッドがソフィアとしか踊らないのを、面白く思っていないのも理解していた。
 それに彼女たちのほとんどは、どんなことをしていても、ソフィアよりも由緒正しい上流の家の娘なのだ。社交界デビューに当たって、女王陛下に拝謁することを許される身分。身分を厳正に規定する社交界のルールにおいては、どれほどブラッドがソフィアに関心を寄せようと、所詮身分違いでしかない。男爵家の令嬢といっても、領地や館を失って久しい家の娘だ。イギリス貴族でも指折りの旧家というレイモンド侯爵家の嫡流とは、どうやっても釣り合わない。そこを突かれると、ソフィアは黙り込むしかない。

 一方で、ブラッドの考え方は違うようだった。

 オルソープ家の舞踏会以降、ブラッドはソフィアを頻繁にエスコートするようになり、このゴールド・マナーでも、ソフィアとしかダンスを踊らなかった。全曲ソフィアと踊るのはさすがに避けているものの、彼女とワルツを踊った後は、他のご令嬢から逃げるようにカードルームやビリヤード室に逃げ込み、ソフィアに悪戯をする不届きな紳士がいないよう、監視の目を光らせている。
 朗らかで優しいブラッドの存在は、日に日にソフィアの中で大きくなっていた。最初は、遊び慣れた名家の子息だからと警戒する気持ちもあったけれど、ハンプシャーに来て以来いっそう距離を縮めた彼には、数日前に抱擁とキスを許していた。愛しい人との接触は喜びを生むのだということを、ソフィアは新たに学びつつある。
 だからこそ、他の令嬢たちのことで悩んでいるのを、彼に相談するわけにはいかなかった。ソフィアの表裏のない笑顔がいいといってくれた彼を、このようにつまらないことで、困らせるわけにはいかなかった。

 曇りなき太陽のような彼が、その裏で、重責を負っていることを、ハンプシャーに来てから徐々にソフィアは知っていった。2年ほど前に父親を事故で失い、母親は後遺症に苦しんで寝たきりだという。イギリスでも屈指の名家を若くして継いだ兄を、片腕として支えるのが、ブラッドに与えられた役割だった。イートンを出て、オックスフォード大学の学生になったばかりだったが、彼は講義に出て単位取得に勤しむ傍ら、兄の代理で領地を回り、実情を把握する役目を買って出ていた。
 身軽な独身者の役回りにちょうどいい、とからりと笑っていた彼は、2日前から近隣の領地に外出している。昨夜遅くに帰宅するはずだったが、朝食室でも午餐の席でも姿を見かけず、午餐の後に彼専用の書斎を覗いたけれど、使用した痕跡はなかった。

 大丈夫。わたくしだって、寄宿学校でお姉さま方に鍛えられているわよ。

 令嬢ばかりが集まる寄宿学校では、女性特有のいじめや喧嘩など、日常茶飯事だった。勿論、舎監の先生や上級生のお姉さま方に監督され、優しくも厳しい指導を受け、次第に皆、仲間意識が芽生えて仲良くやっていくようになる。自分が上級生になると、寮の副監督生になり、下級生たちの仲裁に回るので忙しかった。
 今はちょっと、疲れているだけなのだ。名家のご令嬢に混じって生活するのは慣れてないし、連日の夜会で、少し気だるさを覚えていた。気分転換すれば、またいつもの自分に戻れる。
 僧院の遺跡がある辺りは、とても美しいとメイドがいっていたから、スケッチブックに向かえば、余計なことを考えずに済むはずだ。踊ることと、絵を描くこと。この2つは、ソフィアにとって、心の洗濯に必要な手段なのだ。



 愛馬を駆けさせながら、ブラッドは目当ての人影を探して、四方に気を配っていた。厩から引き出した栗毛の愛馬を、屋敷の裏手側に回り込ませ、通用門を抜けて、牧草地と丘陵、森への3方向へ道が分かれる辻を目指していた。
 錘をつけたように重かった全身が、十分に休養を取った後のように軽い。瞼を閉じると2度と開かないのではと思うほど、ズキズキと痛みを訴えていた双眸が、今はらんらんと輝いている。
 つい先ほどまで、午睡を貪る気満々でいたのが、嘘のようだ。

 身動きの取れない兄に代わって、近隣の領地の定期巡回に出たのが2日前の早朝だった。いつもより日程を詰めたから、強行軍となり、珍しくくたくたになった。
 帰宅したのが夜更けだったため、兄への挨拶は後回しにして自室へ直行したのが、半日ほど前のこと。ベッドへ倒れこんで、睡眠を貪っていたところを、今度は執事に叩き起こされたのが、早朝だった。産み月が近づいている義姉のベッキーの体調がすぐれず、心配のあまり蒼白になった兄の命令で、隣村まで医師を呼びに馬車を走らせ、連れ帰ったのが、午前も半分が過ぎたところだった。薬を処方されたベッキーは寝入り、兄と2人やれやれと胸を撫で下ろした。それから診察を終えた医師を村に送り届け、帰宅して食事を済ませた時には、客人たちが休憩を一斉に取る昼下がりになっていた。
 朝食と午餐の席で、ソフィアに逢う機会を逃してしまったが、寝不足の顔で逢うのもみっともない。そう思って、午睡を取ろうと3階の自室に戻り、カーテンを引こうと窓辺に寄ったら、目に入ったのだ。中庭を抜けていく想い人の背中が。いつでもどこでも彼女の姿を鮮明に思い浮かべられるくらいだから、他のご婦人と取り違えることはない。蜂蜜色の髪の持ち主は、彼女しかいなかった。何やらバスケットを提げ、周囲を窺いながら、どこへ行くというのだろう。皆寝入っている時間に、侍女も連れずに1人きりで出歩くつもりらしい。
 バルコニーに出て手すりから身を乗り出し、彼女の行く先に見当をつけて、ブラッドはすぐさま階下へと駆け下りていった。良い夢を見ている方々の邪魔をしないよう、ゲストルームのある2階を通る時は、猫のように足音を消すのを忘れなかった。途中ですれ違った執事が、珍しく動揺を顔に出していたのを目の端でちらりと捕え、笑いを堪えて玄関ホールを駆けた。
 その勢いのまま厩に駆け込み、驚く馬丁を急かして鞍をつけさせ、ひらりと飛び乗った。乗馬服も着ていなかったが、敷地内を愛馬で駆けるだけだからと、気にならなかった。

 分かれ道に出たところで、1度足を止めた。いななく馬を宥め、馬上で背中を伸ばしてぐるりと周囲を確認すると、丘の上に青いドレスが翻るのが見えた。あんな遠くまで行くとは、随分早足で歩いたに違いない。1人きりで屋敷を抜け出し、どこへ行こうというのだろうか。この丘の先には僧院の遺跡があるから、おそらくそこへ向かっているのだろうと予想はつくものの、逃げるように急ぐソフィアの後姿が、ブラッドの胸に引っかかった。何がソフィアを急かすのかわからないが、彼女が離れていくのを、ここで黙って見ていることはできない。
 部屋を飛び出した時には、ソフィアと2人きりで逢えることへの喜びが全身を支配していたが、他人を拒絶するような彼女の背中は、一抹の不安を呼び起こしていた。いつか同じ光景を、再び見るのではないかという奇妙な予感と共に、それは身体の奥底から囁きかけてきた。

 彼女は、いつかブラッドのもとから去っていってしまうのではないか。

(そんなはずはない!)
 強く打ち消して、頭を勢いよく振る。過労で、神経過敏になっているだけだと自分に言い聞かせると、気を取り直してブラッドは再び手綱をぎゅっと握った。丘の上の人影は、青い点のように小さくなっている。絵のように牧歌的な風景の中に、動く人間はソフィアとブラッドの2人きりだった。森にも丘にも牧草地にも、誰も出ていないようだった。
 バリー伯爵家の敷地内だし、昼間でもあるから、あまり危険はないとは思う。が、彼女から目を離さず、且つ、驚かさない距離を保って、暫くは後をついていこう。
 そう決めて、ブラッドは馬に合図をやると、ソフィアの後を追って丘へと進みだした。



 こんなに歩いたのは、久しぶりだ。

 目的地にたどり着いたとき、ソフィアは軽く息を切らせて、薄っすらと汗をかいていた。4月になるかならないかという時期の空気は、まだ肌寒さを漂わせているけれど、丘を越えて休まず歩いてきたソフィアには、心地よい涼しさだった。
(今日は雲があるからまだ気温が低いけど、これで晴天だったら、汗だくになっていたわね。今日の午後に決めて正解だったかも)
 屋敷を出たときよりもどんよりと厚みを増した雲に、感謝の眼差しを向けてから、ソフィアはバスケットを草の上に置き、そこからクロスを取り出した。ちょうど僧院の全容を眺められる位置に陣取って、草の上に広げたクロスを敷くと、そこに腰を下ろす。今度はバスケットからスケッチブックと鉛筆を出して真っ白なページをめくると、自分の膝を机代わりにして一心に手を動かし始めた。

 長い年月の間、風雨にさらされてところどころ崩れかけた僧院は、ひっそりと窪地に佇んでいる。訪ねる者もあまりいないのか、荒らされた形跡もない。メイドの話では、敷地内にあることから、バリー伯爵家が時折、崩落などないか確認しているということだった。
 長く人の手を離れているためか、色あせた煉瓦の隙間から、ところどころすっくと空に伸びる草がある。名も知れない草の青さが、冬は確かに終わり、春へと季節が移り変わりつつあることを教えていた。
 窓枠も外れ、ドアもとうに朽ちて、がらんとした遺跡の中に、かつてそこに暮らし、祈りを神に捧げた人々の姿が、想いが、目に見えない力となってソフィアの感性を刺激する。彼女の目には、空虚な廃墟ではなく、人の想いに包まれ、年月に優しく愛された古い建物は、素描の素晴らしい題材として映っていた。
 この場に残る思い出を確かな形になぞるように、白い紙の上に、丹念に鉛筆で描き出していく。濃淡の差を加えると、平坦だったスケッチは魂を吹き込まれ、たちまち生き生きとしてくる。

 こうなると、ソフィアの全身の感覚は素材に対してのみ研ぎ澄まされ、木々にさえずる小鳥の声も、微かに遠くに聞こえるカウベルも、一切遮断されてしまう。輪郭の最後の一筆をなぞり終えるまで、飲まず食わずスケッチに没頭するのが、彼女の性分だった。視覚から受け取る情報が、全身の感覚を席巻してしまうとでもいうべきか。
 視覚に追いやられてしまった他の感覚を取り戻すには、本能に働きかけてくるような危険が迫るほど、切羽詰った状況に追い込まれなくてはならないだろう。この時も、ソフィアの意識を引き戻したのは、馬の蹄の音といななきが、すぐ後ろに聞こえたからだった。びくりと手を止めると、草を踏みしだく靴音までが近づいてくる。

 誰かが背後から近づいているのだ。

 不自然に思われぬよう、何気なく立ち上がり、ゆっくりと後ろを振り向いた。何かあれば、右手に握り締めた鉛筆で反撃するつもりだった。ソフィアの瞳が相手を認めたのと、声をかけられたのはほとんど同時だった。
「ミス・エルディング」
「――!!」
 驚きに声も出ず、大きく開いた喉からは、ヒッと息を吸い込んだような音が漏れただけだった。生温かい鼻息がソフィアの顔にかかるほどすぐ側に、栗毛の馬の賢そうな目が近づいていて、手にしていたスケッチブックも鉛筆も放り出して、反射的にソフィアは後ずさった。馬は苦手ではないけれど、突然至近距離に出現されるのは、心臓に悪い。動揺したせいか、左足を地面に取られて、ぐらりと上体が傾いだ。このままでは背中から地面に激突する――と、目を瞑ったとき、力強い腕に抱きとめられた。

「すまない、驚かせたね」

 耳元で、心地よいバリトンの声が響いた。この声は、あの方のもの。顔を輝かせて目を開けると、ブラッドの穏やかな微笑がそこにあった。至高の宝石のような深い青をした双眸が、こちらを覗きこんでいる。どこまでも果てしなく吸い込まれそうな、深い淵のような色の中に吸い込まれそうな錯覚を覚えて、言葉が出ないままに見つめ返すと、ちらりと青い炎が踊るのが見えた。あ、と思った時には唇が近づき、溶けるようなキスを交わしていた。
 赤い唇をたっぷりと堪能してから顔を離したブラッドは、ソフィアをきちんと立たせてから、長身を屈めてスケッチブックと鉛筆を拾い上げ、恭しく恋人に差し出してみせた。
「どうぞ、お嬢様」
「ありがとう」
 頬を赤らめて花のように微笑むソフィアが眩しくて、ブラッドは目を細めた。分厚い雲の向こうにある太陽よりも明るく輝く星を、眺めるように。

2009/02/11up

時のかけら2009 藤 ともみ

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