第2章 こころの楔[4]

  ちょっとでも身じろぎをすると、左の足首に鋭い痛みが走る。眉を寄せたソフィアに、両腕を差し伸べながら、ブラッドは表情を曇らせた。
「ミス・エルディング?」
「大丈夫です」
 心配かけまいと笑顔を取り繕おうとした努力も虚しく、真っ青な双眸は、患部がソフィアを苛んでいることを簡単に看破しているようだった。細く華奢な腰に両手を添え、軽々と鞍から抱きかかえて降ろすと、彼女の左足に負担がかからないよう、支えてくれた。
「もう少しの辛抱ですよ」
 耳元で親密そうに囁かれ、ソフィアの白い頬が一気に赤くなる。それを好ましげに見遣ってから、ブラッドは素早く彼女の膝裏に左腕を回し、抱き上げてしまった。思わぬことに、ソフィアは耳まで赤らめて、上ずった声を上げる。
「ヒューズ卿!」
「大人しくしてなさい」
 しっかりと抱え上げる腕はびくともしなくて、危なげない足取りで、幹に手綱を結びつけた愛馬から離れ、目の前の狩猟小屋へ向かう。ブラッドが器用に片手でドアを開けたとき、雨粒が頬に落ちてきた。ソフィアが見上げた空は、すっかり厚い雲に覆われて、太陽の熱さえも遮られている。

 古い僧院の立つ窪地から、ゴールド・マナーの森に隠れているこの狩猟小屋まで、馬で移動してきたからさほど時間がかからなかった。だが、僅かな距離の間でも、ソフィアの心臓はいつもよりずっと激しく鼓動を打っていたから、現実の倍以上の時間が経ったような気がする。
 楽しい写生を中断し、憧れの貴公子に抱きかかえられる羽目になったのは、窪地でブラッドに声をかけられたソフィアが、左足を草に取られ、挫いてしまったことが原因だった。
 バランスを崩して倒れることだけは、ブラッドの力強い腕に抱かれて防いだものの、運悪く妙な方向に足首を捻ってしまったらしい。最初は無自覚だったソフィアも、直に、足首に違和感を覚え、立つことも座ることもままならず、ブラッドに縋っていることしかできなくなった。
 乙女らしい恥じらいから抵抗はしたものの、否応なくクロスの上に座らされ、強引にドレスの裾をまくったブラッドが診察したところ、彼女のほっそりとした足首は、ぷくりと腫れていた。薄手のストッキングの上からでもはっきりとわかるくらいに。

 すぐに手当てをしなければと、窪地から一番近く、好奇の目のない狩猟小屋へ、反論する間もなく連れてこられて、今に至る。ゴールド・マナーの北西に広がる森へは、窪地から丘を越えればすぐにたどり着く。分かれ道までは戻らず、丘からそのまま森へ馬を進めれば、うっそうと木々が生える中を、人が漸く辿れるような細い小道が、奥へと続く。徒歩でいけば、地面をうねる木の根っこを避けて歩かねばならず、かなり厳しい道のりだが、馬に抱え上げられたソフィアは、ただ大人しく揺られていればよかった。
 馬の蹄が地面を蹴る振動が、鞍を伝って患部にビリビリとした刺激を与えてくるのが辛かったが、ソフィアが唇を噛んでいるのに気づいたブラッドが、ゆっくり穏やかに馬を進ませたので、我慢できないほどではなかった。

 ゴールド・マナーの広大な森には、狩りに出た人々がいざというとき困らないよう、小さな狩猟小屋が幾つか点在している。それらは伯爵家の使用人によって定期的に手入れされ、日保ちのする食料や飲み物、寝具なども取り替えられているので、大雪に閉じこめられたとしても、数日は持ちこたえられるように配慮されていた。
 狩猟時に怪我を負っても、屋敷に戻るまでに応急処置が施せるよう、薬草なども備えられているため、ブラッドは真っ先にこの小屋を目指したのだった。

 小屋の中は思ったよりも広く、薄暗かったが、蜘蛛の巣が張っているようなことはなく、ごく最近誰かが掃除をした跡があった。窓際に置かれた簡易ベッドに下ろされた時も、白い麻のシーツは石鹸の香りが微かに残っており、ソフィアは安心して身体を預けることができた。
 その時になってやっと、ソフィアは雨粒が窓ガラスを叩く音に気づいた。首を捻って背後の窓を確かめると、青々と茂った葉の向こうに、どんよりと鉛色の雲が垂れ込め、透明な粒がパラパラとガラスに当たるのが見えた。

 ブラッドは、ベッドに腰を下ろしたソフィアに背を向け、一旦外へ出て行ったが、すぐに水の入った桶を提げて戻ってきた。小屋の外、急な傾斜を下りると、テスト川が流れているのだという。
「今日はこんな天気だが、晴れたらとっておきの場所に連れて行こう」
 脇に抱えた薪を暖炉にくべ、ポケットからマッチを取り出して火をつけるまでを、きびきびと済ませて、ブラッドが口元を緩ませた。野外での活動を好むだけあって、こうした作業の手際は見事だ。

 器用な手元にいつの間にか見惚れていたことに気づき、どぎまぎしながら、ソフィアは首を傾げて、たらいと桶を持って目の前に移動してきたブラッドを見上げた。
「とっておきの場所が、あるのですか?」
「そう。この森の奥に、あまり人が立ち入らない場所があってね。そこだけぽっかりと、木が途切れていて・・・・・・川辺の、とても美しいところなんだ」
 桶からたらいに水を移し、それをソフィアの足元に置いて、ブラッドは膝をついた。

「ゴールド・マナーは、館の周りだけでももう十分に美しいのに――きゃあっ!」
 腕まくりをしたブラッドが、「失礼」と断ってから、ソフィアのドレスの裾を、膝辺りまで持ち上げたのだった。思わぬことに心臓は飛び跳ね、頭のてっぺんまで真っ赤になって、ソフィアはドレスのスカートを足元まで下ろそうとした。この時代、女性が男性に足首を見せることだけでもはしたないとされているのに、膝まで露出してしまうなんて、未婚の無垢な乙女であるソフィアには、大変恥ずかしくてたまらない出来事だ。しかも、目の前にいるのは心惹かれている男性なのだ。
 無論、ふくらはぎまではドロワーズ(下ばき)で覆われているし、ドレスのすぐ下にはペチコートを着けているから、素肌が直接覗くことはないけれど、普段はドロワーズを人目に晒すことさえない。ソフィアが動転するのも無理はなかった。なぜ憎からず想う殿方に、ペチコートごとスカートをまくられなければならないのだろうか。神様、一体どんな罪を犯したというのですか。

「ヒューズ卿!」
「手当てをしなくてはならないだろう?このままでは腫れが酷くなって、放っておくと悪化する一方だよ」
 手当てするためにこの小屋に来たんですよ、忘れたのかな。しれっといってのけるブラッドを、涙目で睨んだところで、全く効果はなかった。確かに、いつの間にかベッドの足元には薬草を揉んで作った湿布や包帯が置いてあるし、手当てをするというブラッドの主張を退ける有力な手がかりはない。

 けれどソフィアは花も恥らう年頃の、世間を知らない無垢な乙女なのだ。上体を伏せるように前かがみになって、必死でスカートとペチコートを下ろそうとする様子を見て、ブラッドは笑いながら降参した。肩を竦めて両手を離し、立ち上がってくるりと後ろを向く。
「わかったわかった、もうこれ以上は見ないから、自分でストッキングを脱いでくれないか?足首だけ出してくれたら、手当てをするから。準備ができたら呼んでくれないか」
 あんなに恥らわれては、この場は潔く引くしかない。彼女が必死に拒否する様は、不愉快どころか、可愛らしくて仕方なかった。頬を赤くして、瞳を潤ませて、困ったように見上げられれば、健全な男なら心を動かして当然だ。清純な花を手折ろうとしているような、困った錯覚に陥ってしまう。
 整った繊細な顔立ちの中で、何よりも強く訴えかけてくるのは、あの灰色がかった瞳だ。あれに見つめられると、ブラッドの中で、ざわざわと騒ぎ出すものがある。手当てをしようとしているだけで、下心はないのだといくら自分に言い聞かせても、身体が熱を帯びてくるのは抑えようがなかった。それを煽るように聞こえてくるのが、衣擦れの音だ。彼女がスカートを持ち上げ、ストッキングを脱いでいる様子を想像しそうになって、ブラッドは急いで下唇を噛みしめ、両手を拳にしてぎゅっと握った。

 小屋の中に聞こえてくるのは、衣擦れと、雨がガラスを叩く音と、2人の息遣いだけだ。身体の奥で燃え上がるものを沈めようと、皮膚に爪を食い込ませるほど強く拳を握ったブラッドに、遠慮がちな声がかかった。

「・・・・・・ヒューズ卿?もう大丈夫ですわ」
 ひとつ深く息を吐いてから、ブラッドはソフィアに向き直った。ほっそりとした手を胸の前で握り合わせて、俯き加減にソフィアは座っていた。長いまつ毛の下で、落ち着かない様子で視線を彷徨わせている。
 左足のストッキングは外されて、小さく畳まれ、ベッドの上に置かれてあった。スカートは下ろされたままだが、靴が片方だけ脱いであるから、白い肌が隠れているのがわかる。

 最大限の自制を働かせて、ブラッドは無表情を装い、再びソフィアの前に片膝をついた。下から顔を覗きこみ、できるだけさりげない口振りを心がける。
「ミス・エルディング、申し訳ないが、患部が見えるようにスカートを引き上げてくれないか?」
 今度は素直に頷いて、ソフィアは膝の辺りでスカートをつまみ、足首が見えるぎりぎりの位置まで引き上げた。その両耳は真っ赤だ。それに気づかないふりをして、ブラッドはタオルをたらいに浸して固く絞り、小さな足首を覆うようにして優しく押し当てた。ソフィアがびくりと身体を震わせたのが伝わってくる。彼女の足は小さくて、足の甲から裏までがタオルにすっぽりとくるまれてしまう。
「冷たいだろうが、少しだけ我慢してくれ。本当は水に直接足をつけたほうがいいのだが、それでは身体が冷えてしまうから」
 いたわりをこめて見つめると、彼女はおずおずと頷いた。タオルが邪魔しているため、直接ブラッドの手が素足に触れているわけではないが、両手で左足を包まれているのが、気になって仕方ないらしい。あまりに居心地が悪そうなので、ブラッドは次の手当てに移ることに決めた。

 タオルを取り去ると、ソフィアは全身で大きな息をひとつついたが、間髪入れずにブラッドが声をかけた。
「まだそのまま、スカートを上げていて。湿布を貼って、包帯を巻くからね」
「・・・はい」
 仕方なく頷いたソフィアだが、湿布を片手に持ったブラッドが、空いた方の手で患部の上をそっと掴むと、大きく身体を震わせた。がっしりした有能な手が、直接肌に触れているのだ。反射的に足を引っ込めようとしたが、しっかり固定されていて、このまま手当てが早く終わるのを待つしかなかった。

 慣れた手つきで湿布が患部に押し当てられ、足を固定したままの手を上手く使って、くるくると慎重に包帯が巻かれていく。きつすぎず緩すぎず、患部を固定する役割は最低限果たすように、ブラッドはたちまち巻き終えてしまった。
 足を固定していた手を、踵の下まで滑らせて、ブラッドが手当ての具合を確認しているのを見て、やっとこれで恥ずかしさから解放されると、ソフィアは秘かに胸を撫で下ろした。
 が、十分に点検する間があったと思うのに、彼の手はなかなか離れない。不審に思ったソフィアが、足元を覗き込んでいるブラッドの表情を窺おうとした時、ぞくりとした快感が全身を貫いて、思わず息を止めた。

 踵を手のひらで支えたまま、彼の長い指が、くるぶしの辺りをゆっくりと撫でている。肌に触れるか触れないかギリギリのところを動く指は、初めて味わう切なさを、身体の奥から呼び起こしていく。
「――っ」
 声にならない声が、微かに開いたソフィアの唇から零れた。いつの間にかもう片方の手も素肌に近づき、くるぶしばかりでなく、足の甲や爪までが、羽毛で撫でられたような感触に包まれていく。

 両目を瞑り、スカートを持つ両手に力をこめて、ソフィアは歯を食いしばって、足先から上ってくる刺激を何とか堪えようとした。だが、そうしたソフィアの抵抗を、ブラッドは一瞬のうちにあっけなく取り去ってしまう。それまで足元を動いていた手が、脛とふくらはぎを上ってスカートの奥まで差し入れられると、目を瞑ってなどいられなかった。ドロワーズ越しとはいえ、膝に円を描くように撫でられると、腰の奥がジンと痺れた。
「ヒューズ卿っ」
 固まったような喉から漸く声を絞り出し、だめですと続けようとした台詞が、口にされることはなかった。更に上へ辿ろうとする指の動きから逃げるように、唐突にのけぞったのがいけなかった。

 重心が不安定になり、傾いだ身体を、力強い腕が抱きとめる。後方へ逸らした上体が、振り子のように反対方向へ振れて、広い胸に飛び込む形になってしまった。
 頬をブラッドのベストに押付ける格好になって、ソフィアは息を呑んだが、じかに伝わってくるブラッドの鼓動も、速くなっている。彼の体温が空気の膜のようにソフィアを包み、微かに汗とハンガリー水の混じった匂いがした。
 ベッドから転げ落ちそうになったソフィアを、片膝立ちのブラッドが受け止めた体勢のまま、2人は暫く固まったように動けなかった。

 やがて、ブラッドの声が上から降ってきたが、そこには隠しきれない緊張が滲んでいた。
「大丈夫ですか?」
「・・・・・・ええ」
 辛うじて声を出すと、ブラッドがゆっくりと両腕を伸ばし、ソフィアの身体を起こしてくれた。急に寒気を感じ、彼の胸の温もりをもっと味わいたいと思う自分に気づいて、ソフィアは頬を染めた。みだらで恥ずかしいことと思われたのだ。

 自分から男性の胸に飛び込む格好になってしまって、はしたない娘だと呆れられたのではないだろうか。心配になってブラッドをそっと見上げると、真っ青な双眸に射抜かれ、何も考えられなくなってしまった。吸い込まれそうな深い青さの中に、切実に訴えかける光と、紛れもない欲望の光が、揺らめいている。

「・・・・・・っ」
 固まっていたソフィアに影が被さり、そっと唇を塞がれた。衝撃に目を瞠ったソフィアだが、ついばむようなキスを何度も唇に落とされるうちに、抵抗を忘れて瞼を閉じた。大きな両手が頬に優しく添えられ、肌と肌が触れているところから、心地よい温もりがじわりと身体の内側に広がっていく。

 最初は軽く触れるだけだったキスが、ソフィアが力を抜くと、深いものに変わった。口腔を絡め取るように動く舌を、ソフィアが素直に受け入れると、ブラッドの片手はうなじに添えられ、もう一方の手は腰をぐいと引き寄せて、ソフィアを味わい尽くそうとしている。熱い感触は、ソフィアの下腹部に切ない疼きを呼び起こし、どうしていいかわからなくなった彼女は、誘導されるままにブラッドの首に両腕を回して縋りついた。

 官能的なキスが続く間も、腰やわき腹、首筋をそっと撫でられ、こらえ切れない喘ぎがソフィアの喉から漏れた。ゆっくりと円を描くように胸元を撫でられた時には、頭の中が痺れて、無我夢中でブラッドにしがみついていることしかできなかった。

「ソフィア」
 バリトンの声に耳元で名前を囁かれ、ソフィアは漸く自分がどういう状況にあるかを認識した。官能の味に夢中になっている間に、片方だけ履いたままだった靴も脱がされて、ベッドに全身を横たえていた。顔の両脇にブラッドが手をつき、両膝でソフィアの脚を挟む形で上から覆いかぶさっている。知らないうちに背中のボタンが外され、ぴったりと胴を締め付けているコルセットの紐も、緩められていた。

 自分がどんな格好をしているかに気づくと、たちまち恥ずかしさが押し寄せてくる。身体を捩らせようと身動きしたとき、再び彼が名前を呼んだ。
「ソフィア」
 動揺を鎮めようとするかのように、穏やかなキスが降ってくる。唇が離れたとき、ソフィアの身体からは力が抜け、ブラッドを見つめることしかできなかった。
 間近で覗き込んでくるサファイアの宝石に、恍惚としたソフィアの顔が映っている。大きな手がそっと頬を撫で、じっと見つめながら、ブラッドは溢れ出る想いを口にした。

「君が欲しくてたまらない。君は私の、唯一の人だ」

 思いがけない台詞は、ソフィアの瞼と琴線を震わせた。真摯な想いは煌く輝石となって、心の中にゆっくりと沈んでいく。すると、えもいわれぬ歓喜と悲しみがこみ上げてきて、瞼が熱くなる。

 ハウスパーティーに招かれている令嬢たちに教えられるまでもなく、ブラッドとは身分が違うことを、ソフィアはきちんとわきまえていた。ソフィアは男爵令嬢だが、これは純粋な貴族の中でも1番下の爵位だ。対するブラッドは2つ上爵位であるの伯爵家の子息だが、バリー伯爵家はもともと、レイモンド侯爵家の持つ称号の1つだ。侯爵位は、王族、公爵に継ぐ高位の爵位で、英国でも最上位の貴族に属すのである。身分社会である上流階級においては、この差は天と地ほども大きかった。

 生まれて初めて心から惹かれた異性に、想いを向けられた喜びも大きかったが、それ以上に、決して認められない恋への悲しみは大きかった。
 だが、そんなソフィアの心中を見透かしたように、ブラッドは勇気付けるように微笑んだ。
「レベッカの出産が終わったら、兄に許しを貰うつもりだ。私は跡取りではないし、気楽な身分だから、反対されることはないよ。それに反対されても、君との関係は絶対に認めさせるつもりだ。だからソフィア――」
 真っ青の瞳が熱い炎となって、ソフィアの中に巣食う不安を焼き尽くしていく。

「君の全てを、私にくれないか?ただ1人の女性として、心から大切にする。大丈夫、私は家を継がないけれど、伯爵家の事業は手伝っているから、暮らしに困ることはないよ。苦労はさせない。だから私を信じて欲しい」

 懇願するように見つめられ、何かいわなければとソフィアは唇を震わせたが、言葉が出てくる代わりに、頬を涙が伝っていった。ブラッドの柔らかな唇が、それをすくい取ってくれる。
 困ったように眉尻を下げて微笑み、ブラッドは腕の中のソフィアを覗き込んだ。
「これは、喜びの涙だと思っていいのかな?」
「――ええ」

 囁くような返事よりも、頬を濡らしながらも浮かべた極上の笑顔が、何よりも雄弁にソフィアの気持ちを物語っていた。途端に、彼の唇で口を塞がれてしまう。口の中を探るようなキスに、ソフィアは全てを委ね、伸び上がるように唇を押付けて応えた。
 彼の唇が首筋や頬に注がれる間に、コルセットの紐はすっかり緩められ、2人の間を妨げるドレスと共に取り去られてしまう。ソフィアも進んで協力し、同じように衣服を脱ぎ去ったブラッドの肌とじかに触れ合える喜びに、全身を震わせた。

 貴族階級に属する者にとっては、何よりも大きい身分の壁を、ブラッドはものともしなかった。越えると誓ってくれた。彼のその真心に対して、ソフィアが差し出せるのは、素のままの自分しかない。彼が欲しがる自分の全てを、彼が求める限り、何度でも差し出すつもりだった。むき出しの心を、重ね合わせた肌から、触れ合わせた唇から、何度でも伝えることしかできないから。

 初めて男性に素肌を晒して、ソフィアは緊張に身体を竦ませたものの、ブラッドが望む通りに全てを差し出した。彼の細やかな、親密な愛撫が、身体のあちこちに熱を呼び起こし、リラックスさせていくのに任せた。

「ブラッド」

 彼の情熱を受け止めたとき、息も絶え絶えなソフィアの唇から零れたのは、その名前だった。それを聞いて、ブラッドは束の間、動きを止めた。

「ああ・・・・・・ブラッド」

 ソフィアはもう1度、切なそうに囁いた。

 上流階級では、夫婦間でさえ、ミセスやミスターをつけた苗字で呼びあうのが礼儀に適っているとされている。ファーストネームで呼びあうのは、真実、親密な関係になったときだけ。身分も礼儀もかなぐり捨てて、愛しい相手に素直に向かっていくときに、初めて相手のファーストネームを口にする。

 ソフィアが、ブラッドへ心を預けきった瞬間だった。愛しい人の唇から零れる自分の名に、ブラッドは、激しい感動が身体の底から突き上げてくるのを感じた。身分差を越えるという覚悟を示した自分に、彼女も遠慮や恥じらいを全て捨てて、心を寄り添わせてくれたのだ。

「ソフィア・・・っ」

 身体の奥から愛しさが溢れてきて、ブラッドはひたすら、ソフィアへと想いのたけを注ぎ込んだ。2人の心は溶け出し、1つに重なって――無垢な愛を交わした相手とだけ辿りつける楽園へ、手と手を取り合って足を踏み入れ、真実の果実を手に入れたのだった。

2009/02/21up

時のかけら2009 藤 ともみ

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