第2章 こころの楔[7]

   控え目にドアをノックする音が、ソフィアの肩をびくりと揺らした。寝椅子にもたれたまま、いつの間にかうとうとしていたらしい。読みかけていた本は、膝の上に広げられたままになっている。昼食を部屋に運んでもらってひとりで済ませた後、寝椅子で読書を始めたところまでは覚えているのだが、その後の記憶が曖昧だ。
 喉の渇きを感じ、両手を頬に当てると、ほてりが皮膚に伝わった。随分と気持ちよく眠ってしまったようだ。
 再びのノックの音に、乾きかけた唇から応えを返すと、ドアが控え目に開き、身の回りの世話をしてくれているこの屋敷のメイドが現れた。寝椅子に腰を落としたままのソフィアに近づき、彼女は、銀のトレイに載った白い封筒を指し示す。
 まだ少しぼうっとしながら、ソフィアはその封筒を取り上げて、裏の封蝋を確認した。封蝋には各家の紋章が押されているものだ。赤い薔薇の色をした封蝋はくっきりと、この屋敷の当主一族の紋章を模っていた。
 表の宛名書きは、何度かロンドンの屋敷でも見たことのある筆跡だった。すぐに送り主の顔を思い浮かべ、ソフィアはメイドに尋ねるような眼差しを向けた。問いかけたい言葉を察した彼女は、お仕着せに包まれた体を僅かに折り曲げ、淡々と告げた。
「当家の執事が、昨日出立の際に預かったものです。お嬢様のお具合がよくなられてからお渡しするようにと、仰せつかっております」
「そう・・・有難う」
 ニコリと微笑んで礼を述べると、メイドは眩しそうに目を眇めてから、静かに退室した。手の中にある白い封筒を、愛おしそうに眺めた後、ソフィアはそれを膝に置いたままだった本の間に挟むと、抱えて立ち上がった。

 窓から差す日差しは、まだ赤い色を帯びてはおらず、陽は高いところにあるようだ。釣りに出かけた人々が戻るまでには、まだ時間がある。浮き立つ心を抑えきれず、ソフィアはドアを開くと、そっと廊下へ滑り出た。ボンネットを被ることだけは忘れない。
 ブラッドからの手紙を読むには、自室には病臥していたときの気配がまだ濃く立ち込めていて、落ち着かなかった。新鮮な空気に触れ、心を落ち着けて封を切れる場所に行き、ひとりじっくりとブラッドからの言葉に向き合わなくては。

 人気のない屋敷内を抜け、庭に出ると、石畳が敷かれた道を芝生に沿って歩き、噴水がある広場に出る。そこから温室のある方へ続く道と別れ、迷路のように続く背の高い植え込みの間を抜けると、少し小高くなった緑の丘に、ひっそりと立つ東屋が目に入った。勝手知ったる小道を辿り、ソフィアは人影のない東屋へ到着すると、ぐるりと四方の壁に沿って置かれたベンチに腰を下ろして、ふう、と息を吐き出した。
 怪我をする前にも、ソフィアは創作意欲を刺激されると、気分転換を兼ねてひとり、スケッチブックを片手に庭をそぞろ歩いた。年頃の娘がお目付け役を連れずに単身歩き回るのは、お行儀が良くないとされている。そのためソフィアは、人気のないところ、人目のない時間を選んで広い庭を歩き回り、趣向が凝らされた庭園の構造を大体頭に叩き込んでしまった。
 この東屋は、落ち着いて景色を眺められる場所を探していると話したソフィアに、ブラッドが教えてくれた隠れ家だった。ハウスパーティーでは様々に趣向を凝らした催しが毎日毎晩開催されているので、広い庭の隅々まで歩き回ろうと思う客人はいないらしい。

「この東屋は、大抵家族の避難場所にされるんだ。といっても気に入って遣っているのは専ら、私かサラだけどね」
 緩い傾斜の丘を登ったところに佇む東屋は、噴水のある広場から見上げても死角となっており、穴場の展望スポットだ。広場に立って視線を上に上げると、背の高い植え込みがよく刈られて生垣のように続いており、更に丘の上へ至る小道はゆったりとしたカーブを描いていて、こんもりとした樹木が目線を遮っている。
 しかし東屋のもとまで登ると、屋敷と反対側、屋敷の背後に続くハンプシャーの豊かな自然を見晴るかすことができる。温室の下は絶壁になっており、そこから見る景色ほどではないが、この東屋からは敷地内をぐるりと眺め回せるのだ。
 勿論、屋敷の四隅にそびえる塔から周辺を眺めれば、もっと良い景色が目に入るのだが、塔は客人には解放されておらず、伯爵家の家族も日常過ごす部屋としては使っていないという。

 頬を撫でていく風は、森の木々の匂いを運び、目を瞑ると、鳥のさえずりが遠く近くから聞こえてくる。ソフィアを見守っているのは、春の晴れた空に輝く太陽と、森の木々だけだ。東屋の中では、令嬢たちの目も、中傷の声も、遠い別世界のもの。
 封蝋に手をかけて、丁寧に開封すると、中からはバリー伯爵家の家紋が箔押しされた便箋が出てきた。一枚きりのそれには、見慣れたものよりも乱れた筆跡が、短いながらもブラッドの肉声を留めていた。


 愛するソフィア、
 急な出立で、君を見舞う時間も取れず、すまない。
 祖父のもとへ行かねばならないが、急いで帰ってくる。
 それまでに怪我を癒して、待っていてほしい。
   ブラッド


 彼の言葉を噛みしめるように、何度も読み返してから、ソフィアは便箋を胸に押し当てた。ブラッドの真心が、一枚の紙切れに命を吹き込み、ひび割れそうだったソフィアの心を温めてくれる。
 やはり彼は、ソフィアのことを忘れてはいなかった。きちんと気にかけてくれていた。
 朝食の席で、レディ・アイリーンや取り巻きの令嬢たちが振りまいた悪意が、彼への信頼をぐらつかせようと、ソフィアの心をじわじわと黒い霧となって包み込み、蝕んでいた。その爪あとが、手紙に託されたブラッドの言葉に触れて、みるみるうちに塞がっていく。
 満たされた想いで、ソフィアは東屋の外へ顔を向け、目を瞑った。心配ないよ、と勇気づけるように、瑞々しい緑の香りを乗せた風が、ソフィアの頬にひんやりと触れていく。ソフィアを包む景色の全てが、胸の奥に息づく不信を洗い流してくれる。
 しつこく身体に残っていた倦怠感は、清々しい空気の中に、いつの間にか霧散していた。


 ソフィアが足を止めたのは、ブラッドと並べて、自分の名が話題にされていたからだった。後から思えば、そのとき知らぬふりをして、さっさと自室へ戻ってしまうべきだったのだ。しかし何かが、ソフィアの足をその場に縫いとめてしまった。

 玄関ホールから2階へと続く大階段を上りきったところにある、談話室。伯爵家の家族用とは別に、この部屋は屋敷に滞在するゲストが自由に利用できるよう開放されている。
 東屋で気持ちを切り替え、庭から使用人用の出入り口を使って屋敷へ入り、人目につかないよう、ソフィアは西翼の自室へ向かっていたところだった。談話室の前を通りかかったとき、扉は半分開けたままになっており、中にいる人物の話し声が、はっきり聞き取れるくらいの大きさで、廊下へ漏れてきていた。

「では、ヒューズ卿を呼び出すように勧めたのは、グラフトン伯爵なのですか?」
「ええ、そのはずよ。母が父に、こちらでのことを色々と相談していたから、父がレイモンド侯爵様にお話をしているのだと思うわ」
 誰かの声に答えているのは、このゴールド・マナーでも女王然と振る舞っているレディ・アイリーンだ。この館の女主人はバリー伯爵夫人であるレベッカだが、身重の彼女が部屋に引きこもっているため、若いレディは気兼ねなく、我が物顔で闊歩している。
「グラフトン伯爵様も、ご心配されるはずですわ。ヒューズ卿が、身分低い娘にうつつを抜かしているなどと聞き及んでは・・・・・・」
「以前からレディ・アイリーンが、ヒューズ卿の花嫁候補として相応しいと、皆様仰っていますもの」
「レイモンド侯爵は、どのようにお考えなのかしら」
「あら、侯爵様も、侯爵家に相応しい花嫁を望んでらっしゃるわ。何といっても、バリー伯爵家の当主が交代となったばかりですもの。後ろ盾のない家の娘よりも、しっかりした身分の娘をお望みになるのは当然だわ」
 自信満々に言い切るレディ・アイリーンの言葉が、ソフィアの肌を棘のように刺していく。彼女の言い分はもっともで、伯爵家兄弟も逆らうことができないレイモンド侯爵が、家の安寧を第一に考えるならば、グラフトン伯爵家との縁組を望むのも無理はないと思えた。

 世間知らずとはいえ、ソフィアとて、レディ・アイリーンの父親が、貴族院でも発言力を持つ男だということは知っている。そのような舅がブラッドの後ろ盾になれば、彼だけでなく兄のバリー伯爵にとっても、心強い限りだろう。そして明白なのは、レイモンド侯爵が最優先するのは、ブラッド個人の感情ではなく、家にとってもっとも利益が確保できること。一族の当主として、それは当たり前なのだ。
 せっかく取り戻した穏やかな心持も、長くは維持できなかった。ブラッドの気持ちを疑うつもりはない。彼への信頼は揺らがない。ソフィアの気を重くさせるのは、自分たちを取り巻く環境だ。
 果たして彼の気持ちに応えることが、彼の為になるのかどうか。ブラッド自身がいくらソフィアを望んでくれても、周囲の状況を思えば、目を耳を塞いで彼の好意に甘えるのは、躊躇われた。何も知らず、見えていなければ、迷うことなく彼の胸に飛び込み、添い遂げようと望んだだろう。けれど、令嬢たちの会話を聞いて、何も感じないソフィアではない。ブラッドが、身分の差をものともせずにソフィアを望んでくれたことは嬉しい。しかし、伯爵家の益にならないとわかっていて、感情を優先して応えてもよいものだろうか。

 先祖伝来の領地も館も手放したアトレー男爵家は、爵位を持つとはいえ、裕福な職業人よりもつつましい生活を送っている。ソフィアの社交界デビューも、エミリー大叔母が金銭面でも援助をし、親身になって心を砕いてくれたから、可能になったのだ。父が、顧みたことのない娘のために、時間や財を割く余裕はない。
 大叔母がいなければ、社交界でも上流の人々が集まる場に出入りできはしなかった。アトレー男爵にはそのような縁故や力はなく、ソフィア自身にはそれ以上に力がないのだから。
 それゆえに、夫探しをする必要があるのだ。

 対するレディ・アイリーンや取り巻きの令嬢たちは、別世界の住人だ。彼女たちは社交界デビューにあたって、女王陛下に拝謁することが許されている。社交界も、腰を低くして彼女たちを受け入れる。彼女たちの親や親族が、英国でも影響力を持つ名士だからだ。
 ソフィアと彼女たちのどちらが、伯爵家や侯爵家に有益な花嫁となるか。誰が見てもはっきりしているではないか。

 足が竦んで動けないソフィアに、令嬢たちの声が追い討ちをかける。
「そうですわね。バリー伯爵もまだまだお若い方ですもの。経験豊富で誰でも一目置くような後ろ盾が、必要ですわ」
「それならばグラフトン伯爵は最適ですわね。伯爵家には男子の跡継ぎはいらっしゃらないし、いずれはレディ・アイリーンの婿君に、爵位を譲られるのでしょう?」
「そうね。わたくしは末娘ですから、お父様はずっと手元に置いておきたいのよ。そのために、将来のグラフトン伯爵に相応しい方を、長いこと探してらっしゃったの。ヒューズ卿なら不足はないわ。何といってもおじい様はあのレイモンド侯爵様だし、兄君は伯爵」
 声の調子からして、レディ・アイリーンはうっとりとした表情を浮かべているに違いない。それを煽るようなお追従が続く。
「グラフトン伯爵家も、バリー伯爵家も、名門ですもの。これ以上ない組み合わせですわね」
「バリー伯爵夫人よりもレディ・アイリーンのご実家の方が力もありますもの。いずれはレディ・アイリーンがレイモンド侯爵家の女主人としても、重きを成すでしょうね」
「アトレー男爵家なんて、爵位とは名前ばかり。雲泥の差ですわ」
「そうそう。ここに招待されたのも怪しいものだわ」
「バリー伯爵か、どなたか他の男性ゲストと、親密な関係なのかもしれないわよ」
「あら、愛人ということ?」
「そうね。ヒューズ卿のことも誘惑するぐらいですもの、大人しそうなふりをしても、きっと娼婦顔負けに違いないわ」
 甲高い会話は、次第に悪趣味な中傷となっていく。これ以上留まっている必要はない。
 無理やり足を動かして、ソフィアは扉の前からそっと立ち去った。背中越しに追いかけてくる笑い声も、もはや耳には入らない。

 娼婦同然と貶められたことよりも、自分に力がないことが、心に痛かった。貴族の娘として、レディ・アイリーンの方が多くを持っている。ブラッドの役に立ちたいと願っているのに、この両手に持てるものは何もないのだ。彼に差し出せるのは、心と身体だけ。
 彼の足手まといになりたくはない。けれど、今すぐ彼を諦められるほど、恋の炎は小さくはない。心を殺して彼の側を離れることが、自分にできるだろうか。
 唇を引き結び、足早に廊下を進むソフィアの頬を、一筋の涙が濡らす。ブラッドが家族を大切に思っていることは、彼の言動の端々から伝わってくる。ブラッドと、彼の家族にとって最善の将来を、壊すことはできない。ブラッドを失うかもしれないと考えるだけで、心は張り裂け、涙が止まらないけれど。
 自室に戻り、扉を閉めた途端、両膝から力が抜けていく。背中を扉に預けながら、ずるずるとその場に崩れ落ちると、堪えきれない嗚咽が漏れた。
 いずれは離れなくてはならないかもしれない。でももう少しだけ、ブラッドの側に居たい。真っ青な瞳を見つめていたい。
 そう願うことは、我が侭だろうか。
 ブラッドの手紙を両手で胸に押しつけて、天井を見上げた。零れ落ちる涙が視界を曇らせ、頬から首を伝って、ハイネックの襟元を濡らしていく。
 どんなに目を凝らしても、ぼんやりと滲んでしか映らない世界は、まるでブラッドとの将来を暗示しているように思えて、ソフィアは顔を上げたまま目を瞑った。逃げ場のない現実を突きつけられても、この恋を恥じることはしたくない。いつだって顔を上げていよう。何がどう変わっても、顔を上げ続けることが、ソフィアに許された意地であり、打開しようもない現実への唯一の抵抗だった。

2009/03/15up

時のかけら2009 藤 ともみ

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