第2章 こころの楔[8]

  穏やかな昼下がりのひとときを、自室でスケッチに費やしていたソフィアは、控え目なノックの音に顔を上げた。
 この時間にソフィアを訪ねてくる人物に、心当たりはない。

 昨日は朝食を下に下りて取ったものの、その後は「あまり足首の回復具合がよくないようだから大事を取る」と言い訳をして、自室に籠もり、晩餐や夜会にも顔を出さずにひとりで過ごした。今日も朝食と昼食はメイドに部屋に運んでもらい、ひとりきりで取った。エミリー大叔母は昨夜と今朝、様子を見に立ち寄ったが、他には誰もソフィアを訪ねる者はいなかった。

 その方がよっぽど気楽だった。
 紳士淑女の皆様は、静養に努めるアトレー男爵令嬢を気遣って、妨げに来るようなことはしない。レディ・アイリーンと取り巻きたちは、尚更だ。
 耳障りな中傷を聞かずに済むだけ、ひとりでいる方がましだった。窓辺に椅子を動かして、そこから見える景色をスケッチしている方が、よほど心が休まる。
 やわらかに降り注ぐ春の日差しに包まれて、一心に鉛筆を動かしていたソフィアは、ノックの音に手を止めて、首を傾げながら、返事をした。
「どうぞ」

 カチャリとノブが回り、扉の隙間から素早く室内に滑り込んだ人物を見とめた途端、手から鉛筆が転がり落ちる。スケッチブックを床に落としたことにも気づかないまま、ソフィアは軽い足取りで、扉を背にして微笑むその人の胸に、真っ直ぐに飛び込んでいった。
 真っ青な瞳が笑みを含んで、間近からソフィアを見つめている。
「ブラッド!」
「ソフィア、ただいま」
 待ちかねた腕の中は温かくて、張りつめがちだった神経が、じわりと緩んでいく。ベストに頬を寄せると、彼が好んでつけているハンガリー水の香りと、僅かな汗の匂いが、シャツから香る石鹸の香りに混じって、ソフィアの鼻腔をくすぐった。まぎれもないブラッドの香りだ。彼の胸に顔を埋めながら、ソフィアは目を瞑り、彼の香りに包まれる安心感を味わった。

「お帰りなさい」
 囁くように呟くと、腰と背中に回された腕が、いっそう強くソフィアの肢体を引き寄せる。ぴったりと密着すると、互いの心音が刻むリズムが、手のひらから伝わってくる。
 ブラッドが、結い上げられた蜂蜜色の髪にキスを落とし、やわらかな感触を堪能するように、黄金の輝きに頬をすり寄せた。
「手紙は、読んでくれたかな?」
「ええ。わたくしのことを忘れずにいて下さって、嬉しかったわ」
「君のことを忘れるはずがないじゃないか」
 生意気に返したソフィアの台詞に、ブラッドが堪えきれずに低い笑い声を漏らした。
「いつロンドンから戻ってきたの?」
「ついさっきだよ」
「ええっ!?」
 ロンドンからこのハンプシャーまでは、馬車で片道12時間はかかる。胸から顔を上げ、目を丸くして見上げてくるソフィアに、ブラッドは悪戯っぽく微笑んでみせた。

「ここを出たのが一昨日の午後で、ロンドンに着いたのが昨日の未明。で、祖父の用事を済ませてロンドンを出たのが昨日の夜。途中、御者と馬にも休憩を取らせて、ここに着いたのが昼前だ」
「ほとんど休めていないのではない?ブラッド、疲れているのに逢いにきてくれたの・・・・・・?」
 すっきりとした目元に、薄っすらと隈が浮かんでいる。ソフィアが右手を気遣うようにブラッドの頬に伸ばし、いたわるように撫でた。彼は眩しげに双眸を眇め、左手で、頬を撫でる小さな手を覆い、温かく包み込んで自分の頬に押し当てた。灰色がかった青い瞳が、物問いたげに見上げてくるのを、サファイアの輝きが見つめ返す。
「疲れてはいないよ。何のために早く帰ってきたのか、君はきちんとわかっているのかな?」
 真っ青な瞳に囚われ、深い青の中に揺らめく情熱的な炎を認め、ソフィアは頬を赤らめて俯いた。たくましい腕が、たおやかな肢体をぴたりと抱き寄せ、熱い唇がソフィアの白い首筋に落とされる。びくり、と華奢な身体が震えた。
「約束だ、ソフィア。とっておきの場所へ連れて行くよ。ふたりきりになれる、秘密の場所へ」


「え?今、何といったの?」
 眉を顰めて反問した妻に、アーサーは両手を広げ、片眉を上げてみせた。
 突風のように帰還した弟と話をしたのは、つい先ほどだ。個人用書斎へ姿を現したブラッドに聞かされた話を、妻のレベッカの耳にも入れておかなければならない。そう決断して、客人たちが午睡を満喫している昼下がりに、アーサーは妻のもとを訪れたのだった。
「おじい様は、ブラッドを大陸へやるおつもりだ、と言ったのだよ、ベッキー」
「そんな・・・・・・大陸だなんて」
 絶句し、呆然と見つめてくる愛妻のお腹は、ぽっこりと大きく膨らんでいる。寝台の上でクッションを背中に詰めて上半身を起こし、腹部から下は上掛けですっぽりと覆っているのだが、臨月間近のお腹は、目立つことこの上ない。
 精神的な衝撃で、胎児が急いで外に出てこようとしなければいいが、と、アーサーは心配を押し隠して、ベッキーの側に近づき、ショールを巻いた細い肩をそっと撫でた。つい先日も、早産の可能性があると医者に診断され、肝を冷やしたばかりだ。
 黙っていることも考えたが、いずれ知られること。後から恨まれるよりは、事前に話しておいた方がいいと思い、アーサーはゴールド・マナーの3階にある女主人の寝室を訪れたのだった。

 ベッキーは、臨月間近になった先月あたりから、大きなお腹で人前に出るのを避け、居心地の良いこの寝室や隣接する居間で、穏やかな日々を暮らしている。医者を呼び出す騒ぎがあってからは、アーサーと主治医の厳命を大人しく受け入れ、寝台の上で読書や、産まれてくる子供のために編み物をして過ごしている。
 明るい金髪を緩い三つ編みにして背中に垂らし、夫の来訪に目を輝かせたベッキーだったが、手土産代わりの爆弾発言に、手にしていた編み棒を取り落とし、リラックスしていた空気はすっかり一変してしまった。

 もっと上手く話せばよかったと、自分の不始末に舌打ちしたい気持ちを抑えて、アーサーは極力何気ない口振りを装った。
「大陸といっても、ドーバーから船で渡ればすぐにフランスだ。それほど遠くではないよ。おじい様は最初、ニューヨークへも行かせようと提案してきたのだが、それには反対をしておいた。妻も大切な時期なのだから、あまり遠くまで弟を遣わさないでいただきたい、とね」
「まぁ・・・・・・侯爵様が、あなたの進言をよく受け入れて下さったわね」
 ベッキーがため息をつきながら、忌憚ない感想を漏らした。アーサーたち兄妹の祖父レイモンド侯爵は、一筋縄ではいかない頑固な老侯爵として有名だ。
「君に刺激を与えたくないという意見には、おじい様も賛成なんだよ。何しろバリー伯爵家の初子だからね」
 危険はできる限り少なくしたいというアーサーの要求に、老侯爵も譲歩した。譲歩はしたものの、アーサーは苦笑いしながら、妻の両肩に、そっと両手を置いた。
「譲歩した結果が、大陸だ。パリとウィーンで、政治的・経済的情勢を見極めて来い、ということらしい。ロシアまで行けと言われなかったことを喜ぶべきだと、ブラッドは笑っていたよ」
「ブラッドらしいわね・・・・・・」
 編み物をする気がすっかり失せたとみえて、ベッキーは、布団の上に転がったままの編み棒と毛糸を摘み上げ、枕元に置かれた籐のバスケットへ放り込んだ。いつもは夏の日差しのように明るい輝きを放つ緑の双眸は、先刻から曇ったままだ。
「ハウスパーティーの真っ最中で、抜けなければならないなんて、侯爵様も随分ね。素敵なお嬢さんとお知り合いになるチャンスを、取り上げておしまいになるなんて」
「2ヵ月は戻ってこれないと言っていたから、その頃には今年の社交シーズンも終わっているな」
 やれやれと息をついて、アーサーは妻の頬にキスを落とした。陽気なベッキーには珍しく、眉間に皺が寄っている。指でそれを伸ばしたくなったが、そんなことをしたら機嫌をますます損ねるかもしれない。咳払いをして、アーサーは続けた。弟が告げたもうひとつの肝心な点も、ベッキーには話しておいた方がよいだろう。

「今回の大陸行きは、おじい様の一方的な命令というわけでもないんだ。大陸での仕事をきちんと遂行したら、ブラッドの要求を叶えると、約束したらしい。だからあいつは、仕事をやっつける気満々だったよ」
「ブラッドが侯爵様に、交換条件をもちかけたというの?」
「ああ」
 ベッキーは瞠目し、呆れたといわんばかりに目をぐるりと回した。背もたれ代わりのクッションにすっかり身体を預けて、お手上げとばかりに両手を広げている。彼女の気持ちはよくわかる。ブラッドから話を聞いたときは、あの祖父を相手に随分と豪胆な振る舞いをしたものだと、アーサーも開いた口が塞がらなかったのだから。
「あの侯爵様相手に、条件を飲ませるなんて――!一体、あの子は何をそんなに望んでいるというの?今だって、不自由をしているとは思わないわ」
「それについては、口を割らなかった。おじい様にも、具体的な内容については話していないそうだよ」
 もっともなベッキーの指摘にも、アーサーは頷くしかない。伯爵家の家督こそはアーサーが継いだが、ブラッドに不自由をさせているとは思わないし、彼自身が今の地位に不満を持っているとも思えない。

 わかるのは、ブラッドが本気でこの仕事をやり遂げようとしていることだけだ。書斎にやってきたブラッドの目は、強行軍の移動などものともせず、これまでに見たことがない強い輝きを宿していた。
 弟が何を実現させようとしているのかはわからないが、その望みが、今の彼を突き動かし、支える原動力となっているのは間違いない。
「全ては、大陸から戻ってきてからでなければ、わからないのね」
「2ヶ月といわず、あいつはさっさと片付けてくるつもりでいるよ。君の出産が終わって、落ち着いた頃にひょっこりと帰ってくるさ」
 寝台の端に腰かけ、妻の肩を抱き寄せて、アーサーは艶やかな金髪に頬を寄せた。

 アーサーが知る限り、ブラッドがこれまで何かに執着し、強く願ったことはなかった。次男に生まれついたせいか、生真面目で融通が利かないと言われがちなアーサーとは異なり、そつなく物事に当たる器用さを、ブラッドは持っている。
 年若いとはいえ、物事を見抜く目はそれなりに持っている彼のことだ。祖父の侯爵に真っ向からぶつからなければ越えられない壁を、彼は抱えており、それを乗り越えるために、挑戦状を叩きつけたのだろう。
『兄さんは心配しなくていい。これは私が自分のためにやることだから』
 両親の事故の後、兄夫婦と妹を気遣い、動き回る彼が、自分自身のために何かを望むことはなかった。名門の御曹司らしく、気位も高い彼が、簡単に妥協することもなかった。そのブラッドが、自分の欲するものを掴み取ろうとしているのなら、後方で見守り、支えるのが兄の役割だ。
「心配しなくていいのだよ、ベッキー」
 妻に呟いた台詞は、図らずもブラッドに自身が言われた台詞と全く同じだということに気づいて、アーサーは苦笑した。ベッキーに語りかけながら、自分自身にも言い聞かせているのだ。目を輝かせ、生き生きとした顔つきで書斎に乗り込んできた弟の顔が、瞼にちらついて離れなかった。


 うっそうと茂った木々の間を抜けてたどり着いたそこは、まさに『楽園』の名に相応しい場所だった。
「なんて綺麗なところなのでしょう・・・・・・」
 ブラッドに手を引かれ、館を抜け出て森の中を歩いてきたソフィアは、目の前の光景に見惚れ、呆然としながら呟いた。

 萌えいずる春。木々の葉は青く豊かに繁り、木立を抜けていく道は、昼間でも太陽の明かりが遮られ、薄暗い。細く付けられた道はでこぼこと起伏がある上、両脇に立ち並ぶ木々の根元から伸びた根がところどころ顔を出しており、足場が悪い。部屋を出る前、ブラッドに勧められ、頑丈なブーツに履き替えておいたソフィアだったが、足元に注意して進まなければならなかった。
 ブラッドが向かったのは、屋敷の裏手に広がる森の一角――北西の方角から蛇行して流れているテスト川が伯爵家の敷地を横切り、緑の中に、水晶のようにきらめく川面を見せている岸辺だった。
 ほの暗い木立の中を、一心に足元を注視して進んでいたソフィアは、「着いたよ」というブラッドの言葉に顔を上げた途端、俄かに白い日差しに包み込まれ、眩しさに目を瞑った。目を瞑っていても、固く凹凸の激しい地面から、絨毯のように柔らかな地面へと足を踏み入れたのが感じ取れた。同時に鼻先をくすぐる、瑞々しい草の香り。穏やかな春の陽光が、明るさと共に、全身に暖かさを運んでくる。
 徐々に明るさに慣れて、こわごわと目を開けたソフィアが、思わず漏らしたのが、賞賛の言葉だった。

「とっておきの場所といった意味が、わかるだろう?」
 まだソフィアの左手を握ったままで、すぐ隣に立つブラッドが、誇らしげに尋ねると、彼女は声もなく頷いた。
 風光明媚とされるハンプシャーでも、屈指の名所とされるテスト川流域。河畔に点在する多くの町や村の中でも、特に美しいと評判なのがゴールド・マナー周辺なのだが、今佇むこの場所は、確かに「特別な」美景だった。
 ふたりが佇むのは、若葉が天蓋のように覆う木立が不意に川岸まで途切れて、森の中でこの場所だけぽっかりと青空が真上に開けている空き地だった。ふかふかとした草が地面を隠して天然の絨毯となっており、川面に向かって葉を伸ばしている。
 ブラッドたちが辿ってきた道はこんもりとした緑の屋根に覆われ、その左斜め前方は、蔦に埋もれた急な傾斜が迫っており、上方には木々の屋根が、隙間もないほど繁っている。右手には川面が煌き、左手の傾斜は次第に岸との距離を狭めて迫り、ついには壁のように空き地を遮断して、川の飛沫を浴びた裾は、黒々と光る岩肌を見せている。
 森の木々と、崖に壁のようにぐるりと囲まれたこの場所には、ブラッドが選んだ小道を辿ってしか到達できない。ブラッドがこの場所を知ったのも、バリー伯爵家に長年仕える老練な庭師が、こっそりと教えてくれたからだった。
 テスト川のせせらぎと、森に木霊する鳥たちのさえずりの他に、草や葉が時折風にざわめく音以外、世間から隔絶されたかのように、ひっそりと静まり返っている空間には、人間の痕跡が一切ない。人間を拒絶する大自然の荒々しさも、この場では陰を潜め、空気を満たす静寂には、底冷えするような緊張感もない。ほんのりと暖かな陽光が、そっと空き地を見守り、川面に銀色のきらめきを投げかける、神が創造したままの姿を留めている。
 人間を締め出すのではなく、迷い込んだ者が暫し俗世を忘れて緊張を解き放つことを許す、寛容な自然がここにはあった。

「連れて来てくれてありがとう、ブラッド」
 ソフィアが頬を上気させて礼をいうと、ブラッドは相好を崩し、満足げな光を双眸に浮かべた。
「君に見せたかったんだ、この『楽園』を」
「『楽園』・・・そうね。アダムとイヴが住んでいたエデンの園を思わせる美しさだわ」
 ソフィアの手を引いて川辺に近づくと、ブラッドはベストのポケットから大きなハンカチを取り出して草の上に敷いた。恋人をその上に座らせ、自分は草の上に腰を下ろして、寄り添うように肩に腕を回す。ソフィアは頭をブラッドの肩に預けて、ふたりは黙ったまま、暫し景色を眺めた。
 さらさらと流れる水面は水晶のようにチカチカ輝いて目を楽しませ、その向こうには沁みるように濃い緑が生い茂っている。
「ここは私のとっておきの場所で、他に来る者はいない。けれどソフィア、君はいつでも好きなときに来て、眺めを楽しむといい。私が留守にしていても、ここに来れば、緑が君を癒してくれる」
「また留守になさるの?」
 間髪入れずに反問したソフィアの顔は、よほど心細そうに見えたらしい。ブラッドが低く笑いながら、なだめるように髪にキスを落とした。肩に回した手に力を込め、ぐっと引き寄せる。

「明日、またロンドンへ発たなくてはならなくなった。今度は暫く戻ってこれない――大陸へ渡り、祖父と兄の代理で、様々な交渉をしてこなければならないから。おそらく2ヶ月はかかるだろう」
「そんなに長く・・・・・・」
「もちろん、さっさと片付けてくるようにするけれどね」
 俯いたソフィアの頬に、空いている方の手を当てて、ブラッドは、館で彼女がしたように、そっと撫でた。別離の不安にささくれ立つ心を、癒すように。
「今回の仕事をうまくこなせば、祖父に君との仲を認めさせる。祖父が認めれば一族もそれに従うし、社交界の連中もそうする。それが一番手っ取り早いんだ」
 断固とした口振りで言い切ったブラッドの表情を、斜め下から伺いながら、ソフィアは心もとなげに尋ねた。
「侯爵様に、わたくしのことをお話になったの?」
「いや、まだそこまでは話していないよ。この仕事を上首尾に終えたら、私の要求をひとつ叶えると約束させただけだ」
「そう・・・」
 小さく息を吐いたソフィアの表情は冴えない。それに目を留め、ブラッドは怪訝そうに恋人の顔を覗きこんだ。

「何か問題がある?」
「侯爵様は、あなたの花嫁に別の方を考えてらっしゃるのではないかしら、と思っただけ。どこか名門のご令嬢をお望みなら、あなたが役目を果たしても、要求を拒否するのではないかしら」
「気にしすぎだよ、ソフィア」
 いつもの彼女らしくない、おぼつかない、弱弱しい口調だった。手紙を残しておいたとはいえ、ブラッドが突然不在にしたことが、彼女を不安にさせてしまったのだろうか。
 ブラッドの視線を避けるように、スカートの裾を熱心に見つめているソフィアの様子に、若者は整った眉を顰めた。ゴールド・マナーに招かれている客のうち、彼女と同年代の令嬢たちが、アトレー男爵令嬢の滞在を快く思っていないのは、彼とて知っていた。ブラッドの不在をいいことに、家柄を鼻にかける令嬢たちが、ソフィアに何か吹き込んだ可能性が高い。兄の助言を受けて、出立の前夜はレディ・アイリーンの相手をしたが、その程度では、ソフィアを守る防波堤にはならなかったようだ。

 両腕をソフィアの背中に回し、ブラッドは彼女を胸に抱え込んだ。彼女の中に渦巻く不安を鎮めるように、頭を、背中を、緩やかにそっと撫でていく。
「祖父が何を考えていようとも、私は自分の花嫁は自分で決める。それぐらい押し通す自信はあるし、君のことを知れば、祖母や兄も私の後押しをしてくれるはずだ。祖父から与えられた妻なんて、真っ平だよ。君はもっと自信を持っていい」
 首筋から背中へと辿った手が、細い顎を捉え、上向かせる。煙るような春の空と同じ色をした大きな瞳が、戸惑いの光をちらつかせて見上げてくる。うなじにもう一方の手を添えると、ソフィアは完全に逃げ場を失い、ブラッドを見つめ返すしかなかった。
 互いの吐息が顔にかかるくらいに、唇を近づけて、深い青の輝きが、春空の輝きを真正面から射抜いた。サファイアの煌きに魅入られて、ソフィアは息を詰めて、次の言葉を待った。
「私が望むのは君だけだ。それを決して忘れないで、ソフィア」
 バリトンの囁きが、ソフィアの中の堰を破り、目の奥から熱いものがこみ上げてくる。抱きしめられたまま、両手を彼の胸に置いて、ぎゅっとベストを握り締めた。あふれ出す涙と共に、その言葉も自然と喉から零れていた。
「あなたを愛しているわ、ブラッド」
 震える囁きに、ブラッドの目元が和らぎ、喜びの影が躍る。彼女の唇についばむようなキスを落として、ブラッドは固く彼女を抱きしめた。
「私は君のものだよ、ソフィア」
「わたくしもあなたのものよ」
 嗚咽混じりの言葉は、たちまち彼の唇に塞がれてしまった。先ほどとは違う、貪るような深いキスを交し合う。吐息すら飲み込んでしまうような熱い口づけは、この後に続く歓喜のひとときを予感させた。次第に官能の波が、ソフィアの中で目覚めていく。
 別離の時を前に、いつになく情熱的に求めてくるブラッドに、従順に己の心身を差し出すことを、ソフィアは微塵も躊躇わなかった。疼きに身を捩じらせ、呼び起こされる悦びに身を委ねながらも、一抹の不安が、消えない火となって、胸の中にじりじりと残っているのを、彼女は自覚していた。彼の言葉を、無邪気に信じ切れればいいのにと思う。ブラッドの言葉だけを信じ、余計なことを考えなければ、完璧な幸福を手にできるだろう。彼とふたりだけで完結する世界なら、それが可能だった。しかしソフィアには、閉鎖的なふたりだけの世界に閉じこもることはできなかった。
 どれほど幸福なひとときの間も、小さな火種は、ブラッドが描く未来予想図を焦がし続けていたのだ。愛を交わすのはこれが最後になるかもしれないという怖れは、遠くない将来、現実のものとなる。

2009/03/20up

時のかけら2009 藤 ともみ

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