第2章 こころの楔[9]

  翌日、ブラッドはロンドンへと再び出発していった。慌しい出立で、館に滞在する客人たちが遅めの朝食を楽しんでいる時刻に発ったため、馬車を玄関口で見送ったのは、兄のバリー伯爵と妹のサラの2人だけだった。

 ソフィアは出立を、談話室の窓辺から見送った。朝食は、足の具合がまだ気にかかるという理由で、早めに自室へと運んでもらっていた。談話室の正面に大きく取られた窓は玄関の上に設けられており、玄関前の車寄せがよく見える。そのため、ここからならば人目に立たずにブラッドを見守ることができる。ちょうど食事時ということもあり、朝の薄い光に照らされた室内には、ソフィアの他に人影はいない。
 玄関から現れたブラッドは、階段を下りながら隣にいる兄と何やら会話を続けていた。その前に、従僕によって既にトランクなどの荷物は馬車に積み込まれ、伯爵家の紋章が扉に施された立派な馬車は、いつでも出発できる準備を整えてあった。
 兄弟の後から、1人の少女が姿を現し、階段を急ぎ足で下りると、ブラッドに抱きつくのが見えた。まだ社交の席には出席を許されていないが、彼女がサラ・ヒューズであることは簡単に察しがついた。鳶色の髪は、黒髪の兄たちと似ていないけれど、目元の辺りの面差しが似通っている。すらりとした姿も、ヒューズ兄妹はそっくりだった。
 妹と言葉を交わし、頬にキスをすると、ブラッドは兄と握手を交わした。強行軍にも関わらず、彼が実に意気揚々としているのが2階の窓から見ていても伝わってくる。
 昨日は夕方までソフィアと過ごした後、晩餐会の時間まで、ブラッドは個人用書斎に籠もって仕事をこなしていた。ホストである兄の顔を立てて晩餐には顔を出したものの、食後の音楽会には姿を見せなかった。レディ・アイリーンは晩餐の席でエスコートされてご満悦だったものの、音楽会の間中不機嫌な顔をしていた。ゴールド・マナー滞在時間が短いため、目を通さなければならない書類などが山積みなのだと、夕方ブラッドは零していた。

 息を詰めて見つめるソフィアに気づいたかのように、馬車に乗り込む直前、ブラッドは不意に2階の窓を振り仰いだ。ごく僅かな時間ではあったけれど、2人の眼差しは確かに絡み合い、信頼を伝え合った。
 軽やかに馬車のステップを上り、ブラッドの姿は馬車へと消えた。御者に合図があったようで、ゆっくりと馬車が動き出す。緩やかにカーブしながら門へと続く道を辿って、新緑の中へとその姿が消えていくのを、ソフィアは微動だにせず、窓ガラスに両手をついて見送った。
 馬車が見えなくなっても、暫くの間、ソフィアは動けずにいた。颯爽としたブラッドの姿が、瞼に焼きついて、離れない。別離の時間を思うと、胸がぎゅっと苦しくなる。
 ブラッド自身は、手早く仕事を片付けて帰国すると言っていたが、大陸で数カ国を回るのであれば、最低2ヶ月は帰ってこれないだろう。ハウスパーティーは1ヶ月程度続くが、ブラッドが帰国する頃には、ソフィアはとっくにロンドンへ戻っている。あの都会の喧騒の中で、無事ブラッドと再会できるだろうか。

 きっと大丈夫。
 自分に言い聞かせて、ソフィアは両手を胸の前で組み合わせ、祈るように握り締めた。もう2度とブラッドには逢えないかもしれない、あの胸に飛び込めないかもしれない。そんな不安が湧き上がる。頭の隅から囁きかけてくる声に耳を傾けまいとして、ソフィアは空を見上げ、一心にブラッドのことを想った。春の空の色は、淡く儚げに見えて、なぜか目に沁みた。


 伯爵家に長く仕えている老齢の執事は、緊張に身を固くするアトレー男爵令嬢を安心させるように口元に微笑を浮かべ、ゆっくりと首肯した。執事という職種の人間は慇懃な無表情を大概崩さないもので、こんな表情を見るのは珍しい。
「ヒューズ卿より承っております。留守の間、個人用書斎をお嬢様にご自由にお使いいただくようにと・・・・・・。施錠はしておりませんので、いつでもお使い下さい」
「ありがとうございます、マクレガーさん。卿が薦めてくださった本をお借りしようと思っているの」
「なるほど」
 老マクレガーは、祖父が孫娘に向けるような和やかな眼差しを向けて、頷いた。彼がソフィアにあてがわれている部屋を訪れたときから、老執事の発言を聞き漏らすまいと、神経を張りつめていたソフィアは、穏やかな態度にほっと力を抜いた。

「ヒューズ卿からは、あなたさまがお望みのままに、書斎も書籍もお使いいただくようにと言いつかっております。よろしければ本は、お嬢様のお部屋にお持ちになっていただいても構いません」
 深々と頭を下げて、彼はソフィアの前を辞した。余計な詮索や、好奇心に満ちた目を向けられなかったことに、ソフィアは安堵した。もちろん伯爵家の実務を取り仕切る執事が、下世話な噂話に首を突っ込むわけはないのだが、ブラッドが何といってソフィアのことを話したのか気にかかり、少し神経過敏になっていた。

 ヨーロッパで著名な画家の作品を集めた画集を何冊も持っているとブラッドから聞いて、是非見せて欲しいとせがんだソフィアだったが、本人不在の折に、個人用の書斎に出入りするには、二の足を踏んでいたところだった。
 兄であるバリー伯爵の個人用書斎がそうであるように、ブラッドの個人用書斎も、彼だけのプライベートな空間として、本人と、心を許す数人以外の出入りは厳しく制限されている。そのように非常に個人的な空間に、ソフィアが出入りすることを躊躇うのは当然だった。ブラッドにとってもソフィアにとっても芳しくない噂が、たちまち立ち上るに決まっている。
 使用人たちの目もある。本人がいくら許可してくれても、軽々しく立ち入ることはできなかった。老マクレガーの来訪は、そんなソフィアの背中を後押ししてくれたのだった。

 ブラッドがロンドンに発って、まだ1週間も経たないある午後、ソフィアは人目を忍んで個人用書斎へ足を踏み入れた。西翼にある自室から、家族用の棟である東棟に移動するときは、慎重に廊下の人影を窺い、足音を忍ばせるようにして歩いた。
 分厚い扉を閉めると、安堵の息を吐き、瞳を輝かせて室内を見回す。客人にも開放されている書斎よりも小さな部屋は、ブラッドの温もりがそこここに残っていた。重厚な机や、暖炉の前に設けられた安楽椅子とオットマン、隅の戸棚に並ぶウイスキーやポートワイン、壁際にびっしりと並ぶ様々な書籍と、愛しい人の痕跡を確かめるように、ソフィアはひとつひとつをじっくりと眺めた。

 男性らしいどっしりした造りの室内だが、なぜか心が安らいだ。室内に漂う古い本独特の匂いに混じって、ハンガリー水の香りが鼻をくすぐったからかもしれない。
 本棚に並ぶ本の背表紙を丹念に検討して、ソフィアは1冊を選び出すと、大切に抱えて部屋を出た。ずしりと重たい画集は、運ぶには少々骨が折れるけれど、このまま部屋を占拠するのは気が引けた。ブラッドの好意に甘えて、入り浸るには、まだ遠慮があった。
 彼が所蔵している本を借り受け、目を通すことができるだけで十分。これでブラッドへの手紙に書く材料が増えるし、絵を描くのが大好きなソフィアにとっては、名画家の絵を自室でじっくりと眺めるのは、大いにプラスになる。

 両腕に本を抱きしめるようにして、ソフィアは階段を上って西翼へと戻ってきた。談話室の前を通りがかっても、今日は耳障りなおしゃべりが聞こえてこないことにほっとし、そのまま自室へと向かおうとしたときだった。
 一番聞きたくない声が、ソフィアの背中に投げかけられた。
「ミス・アトレー、ちょっとよろしいかしら」
「何でしょう、レディ・アイリーン」
 無視したいところだが、そうもいかない。ゆっくりと振り返ると、茶色の瞳をずる賢そうに煌かせたレディ・アイリーンが、談話室の扉を出たところに立っていた。談話室の前の廊下を通り過ぎるまで人影は全く見えなかったから、おそらく彼女は談話室の扉の陰に潜み、ソフィアを待ち伏せしていたのだろう。全くもってご苦労なことだが、一体どういう了見だろう。

 画集を抱きしめたまま、黙って見返してくるソフィアに、レディ・アイリーンは、ねっとりと絡みつくような声をかけた。
「あなたには先にお知らせすべきだと思うから、お話しておきますわね。今日、ヒューズ卿がロンドンへ発たれたことはご存知かしら?」
「ええ」
「侯爵様のご命令で、大陸の商用を任されたということも?」
「はい、存じております」
 しらばっくれるのも不自然な気がして、不本意ながら頷いたソフィアに向けて、レディ・アイリーンは満足そうに目を光らせた。
「ならば話が早いわ。ヒューズ卿の大陸行きは、実はわたくしの父がレイモンド侯爵様に勧めたものなの。侯爵家の事業を肩に担うだけの器があるか見極めるには、こうするのが手っ取り早いと言ってね。わたくしの言っている意味がわかるかしら?つまりヒューズ卿は、侯爵家の後継候補として最有力に考えられているのよ」

 途中からレディ・アイリーンの声は甲高く、大きくなっていく。自身の台詞に酔い、高揚してきているようだが、その台詞意味を捉えかね、ソフィアは眉を顰めた。
「どういう意味でしょうか?侯爵家の後継者は、バリー伯爵様ではないのですか」
「無理にバリー伯爵が継がなくても、良いのではなくて?」
 既に伯爵位を得ているだけで十分だと言いたげに、レディ・アイリーンはつんと顎を上げた。
「才能ある者が、一族をまとめるべきだわ。その素質があると、わたくしの父はヒューズ卿を押しているのよ。伯爵位より、侯爵位を継ぐ方が名誉ですもの。誰でもそう思うでしょう?」
 だからといって、わざわざソフィアを呼びとめてまで語ることだろうか。ブラッドの賛美をしたいだけだとしても、意図が読めない。無難に話を切り上げて部屋へ帰ろうと決め、口を開こうとした矢先に、レディ・アイリーンが核心に漸く触れた。
「グラフトン伯爵令嬢のわたくしが嫁ぐには、ヒューズ卿が侯爵の後継者だと正式に認められた後の方が、都合がいいわ。お父様はそう考えて、侯爵様に卿の大陸行きを進言したのよ。大陸から戻ったら、侯爵家の後継としてヒューズ卿の名が発表され、わたくしとの婚約も正式に調うのだわ」
 憐れみの光が、レディ・アイリーンの瞳に浮かんだ。その中に陶酔と嘲りの色が混じっていることにソフィアは気づいてしまい、本を抱える手にぎゅっと力を込めた。頭がガツンと殴られたように重く、痛み出す。身体を強張らせたソフィアの様子を見て、レディ・アイリーンはますます調子に乗って、言い募ろうとした。
「だからあなたが、これ以上ヒューズ卿の気を引く必要はないのよ」
「ソフィア」

 天の助け、というべきだろうか。
 レディ・アイリーンの興奮を一瞬で鎮める、落ち着き払った威厳たっぷりな声音の持ち主は、グラフトン伯爵令嬢の左後方に佇み、たちまちにこの場の空気を収めてしまった。その姿を認め、ソフィアはそっと表情を綻ばせる。
 スタンレー子爵夫人エミリー・ダグラスが、ぴんと背中を伸ばして、階段のすぐ横手に立っていた。表情は見事に抑制され、どんな感情も読み取れない。普段ソフィアに見せる顔とは全く違った、熟年の貴婦人らしい厳格さが、前面に表れていた。
「大叔母様」
「あなたを探していたところなのですよ、ソフィア。レディ・アイリーン、お話中申し訳ないけれど、この子を連れて行ってもよいかしら?急な用事ができてしまったのですよ」
「も、もちろんですわ、スタンレー子爵夫人」
 逆らうことを許さない響きが、エミリー大叔母の口振りの中にあるのを感じ取り、レディ・アイリーンはそそくさと年長者にこの場を譲り、談話室へと引っ込んだ。先ほどまでの勢いはどこへいったのか、とソフィアはやや呆れたが、グラフトン伯爵令嬢よりも、大叔母の強張った表情の方が気にかかる。

 数歩近づいて、尋ねるように見つめた。
「エミリー大叔母様、急な用事というのは?」
「ついていらっしゃい、ソフィア。お話しするのはそれからにしましょう」
 エミリー大叔母に促され、彼女の後について歩き出したソフィアは、大叔母の行き先が東翼だということにじきに気づいた。伯爵家の家族が個人的に使用する部屋ばかりがある区画で、基本的に客人は足を踏み入れない。しかしそれを意に介することなく、痩せた背中を伸ばして大叔母は進んでいき、やがて家族用の談話室へとたどり着いた。東棟の中でもプライベートな用途の部屋だ。困惑するソフィアを振り返り、大叔母は安心させるように口を開いた。
「伯爵のお許しを得て、この部屋をお借りしているの。あまり人目に立ちなくないのでね」
 そう言って扉を開け、室内へ入っていく大叔母の後を、ソフィアも慌てて追いかける。部屋の中へ飛び込んで顔を上げたソフィアは、思いもかけない人物を見出して、目を瞠った。彼は困ったような笑みを浮かべ、ソフィアに軽く頷いてみせた。
「やあソフィア、怪我をしたと聞いて心配したけど、今は元気そうだね」
「トム、あなたが何でここに・・・・・・?」

 過干渉気味の祖母エミリーを避け、ロンドンに残っているはずのトーマス・ダグラス卿は、ソフィアの社交界デビューにあたって、エスコート役を務めたりと、世話を焼いてくれた幼馴染の親類だ。オルソープ公爵家の舞踏会で、ブラッドをソフィアに紹介してくれたのも彼だった。
 エミリー大叔母の内孫にあたる彼は、ソフィアにとっては幼い頃から兄代わりの信頼できる人物で、思いがけず再会を果たしたソフィアは、喜びに表情を緩めようとして、彼の居心地悪そうな様子に目を留めた。目の下には隈ができている。見れば、エミリー大叔母も青い顔をして、うろうろと窓辺を歩き回っている。いつもと違う何かを感じ取り、ソフィアは慎重に尋ねた。
「トム、何があったの?あなたがここに来るなんて、何か大変なことが起きたのではないの?」
「――ソフィア、これから言うことを落ち着いて聞いてくれないか?」
 エミリー大叔母とちらりと目を見交わしてから、トーマスはため息混じりに口を開いた。彼に促され、談話室の真ん中に据えられた大き目のソファに腰を下ろして、ソフィアはトムとエミリー大叔母を交互に見つめた。
 トムが沈痛な面持ちで、ソフィアを見返した。まだ20代の半ばだというのに、その顔には濃い疲労が陰を落としている。
「君の父上、アトレー男爵が投資した事業が失敗し、一晩で莫大な負債を抱えてしまった。ほんの数日前のことだ。とても男爵家の財産では賄いきれない額だ。男爵から報せを受けて、私はすぐにロンドンを発った。夜通し馬車を走らせてこの館に着いたのが、つい1時間ほど前だ――ソフィア、君はすぐにロンドンへ戻らなければならない」
「そんな・・・・・・」
 思いがけない現実に打ちのめされ、咄嗟には言葉が出てこない。腰を下ろしても胸の前に抱えたままだった画集を、いっそう強く抱きしめて、ソフィアは衝撃をやり過ごそうと試みた。が、反対に、胃がよじれるような痛みを覚えて、震える唇をきつく噛みしめることしかできない。

 負債を抱えた場合、通常は領地や城館を抵当に入れたりして資金を捻出するものだが、アトレー男爵家には、金と引き換えにできるような財産は残っていない。せいぜい、ロンドンの手狭なタウンハウスがあるだけだ。あれを抵当に入れて、一体どれぐらいの融資を受けられるのだろう。
 自分の家を失うのは気が進まないけれど、借金を背負うよりはいい。
 ソフィアの胸の裡を見透かしたように、トムは気の毒そうに首を横に振った。
「私がロンドンを出発したときは、既に男爵家のタウンハウスは差し押さえられていたよ。男爵には一旦、我が家においでいただいている。君の荷物も、運び出せるものは我が家に移しておいたから、当座の心配はしなくていい」
「下手な投資に手を染めるからですよ・・・領地の経営もろくにできなかったくせに、職業人のようなことをするから・・・・・・かわいそうなソフィア。あんな父親を持ったせいで・・・・・・」
 両手を胸の前で組み合わせ、エミリー大叔母は甥への不満をぶちまけた。確かに父の投資は、堅実とは言いがたく、うまく周囲の口車に乗せられて出資をさせられているのではないか、と思うことがあった。

 だが今は、そんなことを言っている場合ではない。無一文になってしまったなら、父はどれだけ衝撃を受けているだろう。これまで父に顧みられた記憶はあまりなかったが、それでも自分の父親に変わりない。
 縋るようにトムを見つめ、強張った喉から声を絞り出した。
「それで、お父様は・・・・・・?」
「心配ない。父が子爵家の弁護士を紹介したり、色々と相談に乗っているところだ。父のつてを頼って、資金援助の道を探ったりしているから、ソフィアは安心しておいで」
 疲労のために冴えない顔色を見せながら、トムはソフィアを勇気づけようと、辛うじて微笑みめいたものを浮かべてみせた。スタンレー子爵とアトレー男爵は従兄弟同士だ。エミリー大叔母が甥を快く思っていない上、アトレー男爵は人付き合いが得意な性質ではないので、あまり頻繁に行き来はしていないが、親族の危機に手を差し伸べてくれている。
 ありがたくて、ソフィアは小さく息をついた。父1人きりで、事態を打開する方策を打ち出すのは無理だ。これで何とか、起死回生の道を見出せるといい。
 エミリー大叔母が、力強く断言した。
「大丈夫ですよ、ソフィア。何があってもあなたのことは、わたくしが面倒を見ます。トムの言う通り、1度ロンドンに戻らなければならないけれど、その後はまた、社交界にも顔を出せるように配慮しますからね」
 生家の危機を放り出して、社交界に留まりたいとは思っていないけれど、無一文の惨めな姿でブラッドと再会するのは、できれば避けたい。突然アトレー男爵家を襲った事態をブラッドが知る前に、彼が大陸へ旅立ったのは、不幸中の幸いだった。きっと彼は親身に相談に乗ってくれるだろうが、負担をかけるのは気が進まない。彼が大陸から帰ってくる頃には、今後の道がある程度見えるようになっているだろう。

 居住まいを正したソフィアに、トムがきっぱりと告げた。
「晩餐会には出ずに、ハンプシャーを出発する。夜通し走ることになるけれど、君もおばあ様も馬車の中で寝ていればいい。すぐに荷造りをしなさい。バリー伯爵には、私から話をしておくから」
「――わかりました」
 胸に抱えた画集に目を通す時間は、残念ながらないようだった。ソフィアは僅かに視線を下に落として、続いて顔を上げて、しっかりと頷いた。画集の重さに両腕が痺れてはじめていたけれど、大切そうに抱えなおして、すっくと席を立った。トムやスタンレー子爵の助力に応える義務が、ソフィアにもあった。


 どっしりした装丁の画集を、本棚に返して、ソフィアは安堵と未練の混じったため息を吐いた。思いがけず長い時間持ち歩いたせいで、両の二の腕が気だるく、持ち上がらない。身体がなまってしまったのかもしれない。
 貴族の娘として生まれた割には、深窓の姫君として育てられたわけではない。レディ・アイリーンのようにいいところのお嬢様には想像もつかないだろうが、大きなキャンバスも自分で持ち運ぶし、踊り疲れることを知らないソフィアは、タフなご令嬢なのだ。
 意地悪そうなレディ・アイリーンの顔を思い浮かべて、ソフィアは苦笑した。思いがけず彼女の前から姿を消すことになって、複雑な感想を抱いた。関わらなくていいと安心もするし、逃げ出すようで悔しい気もする。次に逢うことがあるとしたら、おそらくロンドンの社交の場だろう。その時に、ソフィアはどういう立場にいるのだろう。どこかの夜会で、腕を組んで意気揚々と歩くブラッドとレディ・アイリーンの姿を見かけることになるのだろうか。

 自分で想像しておきながら、ソフィアはずしりと重いものが胃に沈むのを感じた。ブラッドが大陸から戻る頃には、今のソフィアを取り巻く状況は、良くも悪くも何らかの落ち着きをみせているだろう。
 先のことはわからないけれど、今の自分がブラッドに差し出せる誠意を、きちんと示していくことが、ソフィアの果たすべき役割だと思えた。

 黒く磨かれた机に歩み寄り、胸の裡でブラッドに謝ってから、一番上の引き出しを開けた。勝手に人の持ち物をいじるのは気が進まないが、人目につかずに確実にブラッドに伝言を残すには、これが最善の策だと思えたのだ。
 できるだけ引き出しの中身には目を向けないようにしながら、ソフィアはそっと、白い封筒をその中に置いた。宛名はブラッドとなっており、差出人にはもちろんソフィアの署名がある。トムやエミリー大叔母と別れて自室へ戻ってから、部屋に備えつけられたテーブルで、大急ぎで書き上げた手紙だった。突然変わった状況を説明して、最後には変わらぬ愛と忠誠を誓う内容をしたため、キスを落としてから封をした。

 元通り引き出しを閉めて、最後にもう1度室内を見回す。彼の痕跡を胸に刻みつけるようにして、ソフィアはそっと、ブラッドの個人用書斎を後にした。自室を抜け出したのはほんの短い時間だけれど、いつになく神経質になっているエミリー大叔母が、余計な心配をしているかもしれない。早足で西棟に向かいながら、ソフィアは1度も後ろを振り返らなかった。ちらりとでも背後を見れば、何かに気づいたかもしれないけれど、この時はただまっすぐに、自室を目指すことだけで、頭がいっぱいだった。


 春の雨が、窓ガラスを叩いている。

 季節は春だというのに、雨が降ると昼間でも肌寒く、暖炉の火が欠かせない。パチパチと小さくはぜる音を立てながら、ぼんやりと明るい炎が、暖炉の前の肘掛け椅子に座るブラッドレイ・ヒューズの顔を照らしている。
 いつもよりも濃く疲労の影が落ちているが、一切の灯りをつけずに、暖炉の炎だけに照らされて物思いにふけるのは久しぶりのことで、気分も悪くはなかった。じわりと身体を温める熱に向かって身体を投げ出し、雨の音だけを聞いていると、普段は頭の中から追いやっている昔の記憶が、ふとした拍子に甦ってきそうだけれど。

 暫くぶりにまとまった休暇を捻出し、足が遠のいていたハンプシャーの領地と城館へやってきたのは、間違った選択ではなかったようだ。心から安らぎを覚えることはないけれど、兄夫婦がかねてから強く勧めていた通り、自分には休息が必要だった。働きすぎであるのは自覚していたが、余計なことに心を煩わされたくなくて、敢えて心身を痛めつけるほどに、仕事に没頭していたのだ。
 義姉のベッキーに誓ったとおり、ハウスパーティーが始まる前日に、ゴールド・マナーに到着したブラッドは、ひとり、個人用書斎で、明日ここに到着するはずの招待客のことを、思い浮かべていた。

 蜂蜜色の豊かな髪に、灰色がかった青の夢見るような瞳。
 彼女の記憶は、ただの1度も薄れることなく、ブラッドの胸に焼印のごとく刻み込まれている。とりわけ、このように春の雨がゴールド・マナーの森を濡らす日には、かつて彼女と共有した夢のような時間が、生々しく甦ってきそうになる。
 それを怖れて、ブラッドはこの館から距離を置いてきたのだった。

 5年前の夏、大陸から戻ったブラッドは、ロンドンで祖父に挨拶するのもそこそこに、ゴールド・マナーへ戻ってきた。帰国する少し前、大陸でブラッドは、ある手紙を受け取り、そこに書かれている事実に激しい衝撃を受けていた。
 レディ・アイリーンが出した手紙には、アトレー男爵令嬢がリンズウッド伯爵と婚約し、領地で結婚式を挙げるためにヨークシャーへと旅立ったと書かれていた。正式に結婚広告を新聞に発表していたため、ロンドン社交界も彼女たちを盛大に送り出したという。
 突然のことで世間も驚いたが、リンズウッド伯爵ドミニク・ポートマンは取り立てて悪い男性でもなく、社交界慣れしていない中流貴族の令嬢にとっては、よき配偶者・よき保護者となるだろうと、好意的に受け取られたそうだ。
 夫というより、祖父と孫ほどの年の差があるというではないか。短いロンドン滞在中、ブラッドは多少なりともリンズウッド伯爵についての情報を集めてみた。判明したのは、伯爵は前妻を亡くしてからずっと男やもめを通していた老齢の男性で、貴族院での勤めを果たす以外は、ヨークシャーの領地へ引きこもっていることが多いということだった。
 滅多にロンドンへやってこない老人が、たまたま居合わせたオルソープ家の舞踏会で踊るソフィアを見初め、後妻に迎えたなどとは、冗談のような話だ。自分の恋人を横から攫われ、ブラッドは歯噛みしたい想いだったが、既に結婚広告は出され、ふたりはヨークシャーへと旅立ったあとだった。

 何より、ブラッドにひと言も残さず、ソフィアが他の男の妻となることを承知したとは信じがたくて、ブラッドを打ちのめすには十分だった。ブラッドと僅かに離れていた時でさえ、不安そうにしていた彼女が、何も残さずにこのような重大事を承諾したとは思えなかった。
 しかしロンドンの屋敷には、ソフィアから届けられた手紙は1通もなく、ブラッドの不安を煽った。ロンドンの屋敷に使いを出すとなると、人目にも立ちやすい。そのため、もしかしたら彼女は、ゴールド・マナーに何か言伝を残しているかもしれない。一縷の望みに賭けて、ブラッドはハンプシャーへやってきたのだった。

 ほんの2ヶ月ほど前まで彼女が滞在していた館でも、何も発見することができなかった。彼女の使用を許可していた個人用書斎や、ふたりが初めて想いを交わした狩猟小屋、想いを確認しあった東屋や『楽園』など、彼女の思い出に繋がる場所を全て丹念に確かめたけれど、あの温もりを伝える痕跡は、どこにも残っていなかった。
 あの時のブラッドを襲った絶望を、ソフィアはちらとでも想像したことがあるだろうか。
 あの頃の彼女は、北のヨークシャーで、新婚の夫と幸せな生活を送っていたのだろうから、元の恋人のことなど、綺麗に忘れ去っていただろう。
 大陸での仕事を成し遂げたら、ソフィアとの婚約を祖父に了承させるつもりだった。その代わりに、ブラッドは軍への志願を認めさせ、華やかで軽薄な社交界から身を退いた。しつこく末娘との婚約を迫ってきたグラフトン伯爵も、国益のために軍の第一線に就きたいというブラッドの決意の固さに、諦めて引き下がった。
 軍隊での年月は、厳しく辛いものだったが、身体を酷使することで少しでも過去から目を逸らすことができた。
 何かに没頭しなければ忘れられないほど、ソフィアとの想い出はブラッドの胸を深く苛んでいた。
 けれども、そろそろ目を逸らすのも終わりにしなければならない。ブラッドを捨て、ひとまわり以上も年の離れた夫を失ったソフィアを相手に、過去の恋をきちんと葬り去るのだ。かつて味わわされた心の痛みを、今度は彼女に償わせて。

 ブラッドの物思いを破ったのは、ノックの音だった。答える前に扉が開けられ、勝手知ったるごとくに入ってきたのは、ウィロビー伯爵ウィリアム・ナイトレイだ。いつものように穏やかな表情で、彼は暖炉の前まで歩み寄り、人懐こくブラッドを見下ろした。
「奇跡だね、君がきちんと休暇を取る気になったなんて」
 にこりと笑いかけてくる表情は、暖炉の明かりを背にして、ブラッドの位置からは読み取りにくい。友人の意図を掴みかね、ブラッドは気だるげに応酬した。
「人間らしい生活を送るのも、たまにはいいと思っただけだ」
「確かに、普段の君は非人間的な生活を送っているからね。いくら軍上がりとはいっても、あれは無茶に等しいよ」
 クスクスと笑いを零すウィルに、ブラッドは不機嫌な視線を向けた。バリー伯爵家と親交の深いウィルが、他の客より早くゴールド・マナーに現れても不思議はないが、明確な目的なしに行動するような男ではない。何を目論んでいるのか、簡単に悟らせるような男でもないが。
「ヒューイットも夫人を連れて明日から来るから、完全に仕事抜きの休暇というわけにもいかないがな」
「ヒューイットも君も、本当に気の毒な仕事中毒だね」
 肩を竦めてから、ウィルはごく自然にその話題を口にした。

「そういえば、ミセス・ヒューイットはリンズウッド伯爵夫人の親友だそうだね。女子寄宿学校ではかなり親しい間柄だったと聞いたよ」
「・・・・・・それは知らなかったな」
 そ知らぬ顔をするウィルに、ブラッドは警戒の眼差しを向けた。仕事に忙殺されていたとはいえ、ロンドンにいる間、ウィルが足繁くレディ・リンズウッドの元を訪れていたことは、耳にしている。時折顔を出す紳士のための社交クラブで、そういう話を聞かされていた。
 今のソフィアは洗練された貴婦人らしい落ち着きと、気品も備わり、ウィルほどの男が心を惹かれるのも無理はない。ウィルは5年前のハウスパーティーに参加していなかったし、ブラッドとソフィアの間に何があったのか、知るはずもないのだが、ソフィアがブラッドにした仕打ちを知っても、彼女に近づくのをやめないだろう。
 人当たりは良いが、ウィロビー伯爵は、頑固な一面を持っている。表面的な柔らかさに騙されて、気づく者は少ないけれど、「自分の目で見たものしか信じない」と断言するような、芯のしっかりした男だ。
 ソフィアの本性を自分の目で見極めなければ、ブラッドが仮に忠告しても、耳を貸さないだろう。

「私はね、レディ・リンズウッドとはもっと親しくなりたいと思っているんだ。だからこのハウスパーティーはいい機会だよ。君が仕組んだ招待だとしても、感謝しなければならないね」
 ベッキーかアーサーから聞いたのだろう。舌打ちを堪え、無言で睨んでくるブラッドに、ウィルは怯むことなくさわやかに宣言した。
「君と彼女の間に何があったのかは知らないけれど、遠慮するつもりはないよ。君が本気でないならば、の話だけどね」
「ウィル」
「後悔したくなければ、本気を出すことだね、ブラッド」
 呆気にとられるブラッドに、ウィルは楽しげな、余裕たっぷりの笑顔を向けて、満足そうに引き上げていった。残されたブラッドは、どっと疲労が押し寄せてくるのを感じて、肘掛け椅子に身体を預け、目を瞑った。
 ウィルの本心はわからないが、あれははっきりした宣戦布告だ。キスを交わした時のソフィアの反応からして、彼女もまだブラッドに魅力を感じているのは間違いないが、遊びの恋を仕掛け、贖罪をさせるには、少々厄介な状況になってしまった。
 久々の休暇だが、果たして本当に休息できるのだろうか。ブラッドは、明日からのハウスパーティーを思い、深い深いため息をついたのだった。

2009/03/29up

時のかけら2009 藤 ともみ

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