第3章 追憶の館[1]

   よく晴れた空の下、1台の馬車がハンプシャーの野を進んでいく。2頭立ての馬車は乾いた道の上を軽快に駆け、予定されていた旅程を順調に消化していた。
 黒塗りの馬車は、扉に紋章こそ入れていないものの、いずれかの名士が所有しているものらしく、しつらえは上等で、車輪の手入れも十分に行き届いている。外装だけでなく内装も配慮が行き届いており、十分にクッションのきいた座席は、長時間座っていても快適なように設計されている。ガタガタという車体の揺れも、中に乗っている3人の淑女にとっては、心地よい春の眠りを誘う子守唄でしかない。

 窓から注ぐうららかな日差し、心地よい馬車の揺れ、という最強の入眠剤を吹き飛ばすのは、旺盛な好奇心――慣れない旅の疲れで、そろそろうとうとしてもいいはずなのに、グレースは目をきらきらさせて、窓の向こうの景色を眺めている。
 生まれ育ったヨークシャーの荒れ野とも、ゴミゴミしたロンドンの街中とも異なる風景は、童女の目には全て珍しく映るようで、何かを見つけては、同乗するソフィアやアンに報告してくる。綺麗な色の鳥がいた、だの、あの人たちは野原の真ん中で何をしているの、だの、ひっきりなしだ。そのたびにソフィアかアンが、鳥の名前を教えたり、あの人たちは農夫で、畑を耕しているのよと答えたり、馬車の中ではおしゃべりが止むことはない。

 今回の旅に、アン・ウェルズが同行してくれて本当に良かった、と、娘とアンの会話に耳を傾けながら、ソフィアはほっとした。ソフィアひとりでグレースを連れてハンプシャーまで出かけるのは大変だし、ソフィア母子にとってアン・ウェルズは、気のいい友人で、気兼ねすることもない。
 そうでなければ、いくらバリー伯爵夫妻からの招待といっても、カントリーハウスで催されるハウスパーティーに、応じたりはしなかった。まあ、そんなことはエミリー大叔母が許さなかっただろうが。

「何としてもお受けするべきですよ」
 ソフィアの元に招待状が届いたことを、どこからか聞きつけたエミリー大叔母は、すぐにやってきて、きっぱりと言い切った。昔からソフィアを可愛がっている彼女は、ソフィアの社交界復帰に際して、有望な再婚相手を探し出そうと、決めているのだ。あからさまな彼女の様子を見ても、ソフィアは敢えて何も口を挟まなかった。
 ソフィアの父、アトレー男爵の倒産以来、スタンレー子爵夫人エミリー・ダグラスは、ソフィアの将来を心配し通しだったが、年の離れたリンズウッド伯爵と結婚してからは、努めて口を出さないようにしていた。しかしそれも、伯爵が結婚後1年も経たずに身罷り、若いソフィアが生まれたばかりの娘と共に遺されたとあって、心配の度合いが跳ね上がったのだ。
 口を酸っぱくして数年がかりで社交界復帰を勧めてきただけに、念願かなった今シーズンは、気合の入り方が違う。社交界屈指の最優良花婿候補である2人の青年伯爵のどちらかと、ソフィアが上手くいって欲しいと、善良な老婦人は心から願っている。
 それがわかるだけに、ソフィアはやんわりとしか抵抗できなかった。
「でも大叔母様、伯爵家のパーティーに出席される方々とは、あまり面識がないですし、第一グレースを連れて行くなんて、ご迷惑をおかけするに決まっていますわ」
「何を言っているんです、ソフィア。あちらがご親切に仰って下さっているんですから、お言葉に甘えて良いのですよ。こちらが子供連れで行きたいと言ったというのなら、話は別。完全なマナー違反ですけれどもね。却って、そこまで気遣いをいただいてお断りする方が失礼ですよ。
 それに、ミス・ウェルズのことも考えてあげなくてはいけませんよ。デビューしたばかりで、上流の方々とお近づきになれる機会なんて、滅多にないのですから。お断りすれば、あなたばかりでなく、彼女の未来も奪うことになるのですよ」
 熱弁をふるうエミリー大叔母を前にして、それ以上ソフィアが何かを言っても意味がないのは明白だった。ソフィアとアンは苦笑を交わし、大人しく招待を受けることを了承したのだった。

 バリー伯爵家のカントリーハウス「ゴールド・マナー」への招待に関しては、夫妻の好意から出たものではなく、裏に別の人物の思惑が絡んでいることは間違いない。それを思うと気が重いが、ブラッドレイ・ヒューズとソフィアの間に横たわる過去を、エミリー大叔母やアンに打ち明けるのは躊躇われた。
 馬車が目的地に近づくにつれ、胸の中にある塊が、重みを増していく。空はこんなに晴れているのに自分の気持ちは曇天だ、と、ソフィアはため息をついた。それを目ざとくアンが見咎め、向かいの席に座るソフィアを心配そうに見つめた。
「少しお疲れのようね、ソフィア」
「そんなことないわ。わたくしよりもあなたの方が疲れたでしょう?グレースの相手をずっとしてくれているのですもの」
 熱心に窓の外を眺めている幼い娘をちらりと見遣り、ソフィアは苦笑した。この小さい身体のどこに、これだけのパワーがあるのか。ソフィア自身は大人しい少女だったが、グレースは父親に似たのだろうか。

 普段グレースの世話をしてくれている乳母はヨークシャーから同行しているものの、今回のハンプシャー行きには伴わず、ロンドンの屋敷に留守居役として、従僕と共に残してきた。大人数で押しかけるのは気が引けたため、ハウスパーティーに同行するのは侍女のアリスのみとしたのだが、彼女は一足先にハンプシャーへ向かっている。主人たちより早く現地に到着し、迎え入れる準備をするというヒューイット夫妻の召使たちの馬車に、便乗させてもらったのだ。
 乳母も、気のつくアリスもいない旅の間、グレースの相手をずっとしてくれているアンに、ソフィアは心から感謝した。

「グレースのことは、妹みたいに思っていますもの。一緒にいて楽しいわ」
「そう言っていただけて嬉しいわ」
 ソフィアはにこりと微笑を返したが、アンの表情は曇ったままだ。
「あまり顔色が良くないわ、お疲れなのよ。到着するまで少しでも休んでおくといいわ」
「そうね・・・慣れない社交界で、確かに疲れたわね」

 ロンドンに出てきてから、昼夜を問わず様々なところに顔を出し、微笑み続けた疲労が、溜まっているのは事実だ。その上更に気を重くさせるのは、突然に再会した過去の恋人。これから彼と同じ館で、1ヵ月近く過ごすことになる。それはすなわち、彼を裏切り、他の男へと嫁いだ自分の罪を、毎日思い返す日々になるということだ。
 彼の前で、毅然と、平静に振る舞い続けるには、相当なエネルギーが必要だ。

 無意識に再び重くため息を吐いたソフィアに、アンはおずおずと提案した。
「あの、わたくしのために無理はなさらないでね?前にも言ったけれど、無理にこちらで、未来の夫を捕まえなくたって、構わないのよ?ヨークシャーにだって社交界はあるし――規模は小さいけれど。これ以上高貴な方々に囲まれるのが苦痛になったら、パーティーの途中でも帰りましょう。そうしたらきっと、せいせいするわ」
「アン・・・・・・」
 自分よりも年下の娘に余計な気を遣わせたことを、ソフィアは恥じた。自分がこの調子では、周囲が心配する。無理やり気分を引き立てて、唇に笑みを浮かべ、ソフィアは明るく言った。
「今の言葉はありがたく聞いておくけれど、せっかくのハウスパーティーだもの、楽しむことにしましょうよ。ヨークシャーではお目にかかれない豪華なパーティーよ。バリー伯爵家のパーティーは、物惜しみしないことで有名なの」
「ソフィア、無理はしないでね?」
「ええ、大丈夫よ」
 まだ心配そうなアンに、完璧な笑顔を向けて会話を終わらせると、タイミングよくグレースがアンに話しかけた。アンの注意がそちらへ逸れたのを確かめてから、ソフィアは再び窓の外へ目を向けた。

 ゴールド・マナーへの滞在は、アンにとっては良き花婿候補を探す好機であり、グレースにとっては、バリー伯爵家の子供たちと遊ぶ好機だ。リンズウッド伯爵家の領地があるヨークシャーのリンズウッド・パーク周辺では、年頃の男性も、グレースの遊び相手になるような同年代の子供もいない。彼女たちにとって、このハウスパーティーは刺激的で楽しいものとなるだろう。せっかくの楽しみに、ソフィアが水を差すようなことがあってはならない。
 だが、窓の外の風景を眺めていても、瞼の裏に浮かぶのは、真っ青な瞳を持つ黒髪の青年の姿だ。かつてソフィアを魅了した双眸は、再会した晩も簡単にソフィアを惹きつけてしまった。あっけなくキスを許して、ふしだらな女だと思われたに違いない。
 だからブラッドは、あのように冷たくソフィアを突き放し、後悔に満ちた眼差しを向けてきたのだろうか。固く愛を誓っておきながら、あっさりと他の男へ嫁いだ、薄情でふしだらな女。ブラッドにそう思われているかもしれないと考えただけで、ソフィアは胸が痛んだ。

 思いがけない再会を果たしてから、ブラッドの存在に、思考を乱されっぱなしだ。今のソフィアには、アンの付き添い役と、グレースの保護者という大切な役割がある。2人の将来に影を落とすようなドジを踏まないよう、伯爵未亡人らしく振る舞わなければならない。
 改めて決意するものの、なぜブラッドとの関係が、このように複雑になってしまったのかと嘆く自分も、いまだに心の中にいる。5年前の春の日、不安に押しつぶされそうになりながらこの道をロンドンへ戻った。あの時は、再びこの道をゴールド・マナーへ辿る日が来ることになるとは、思いもしなかった。ただのアトレー男爵令嬢だった自分が通った道を、リンズウッド伯爵未亡人として、子供を連れた自分が、通り過ぎていくのだ。
 不甲斐ない父のために、資金援助の見返りとして、遙かに年上の男性に嫁いでからは、尚更、バリー伯爵家と関わることは2度とないと思っていた。
 ブラッドにどんな顔をして逢えばいいのか、わからなかったのだ。やむをえない事情のためロンドンへ発つという手紙を残してゴールド・マナーを去ったとはいえ、彼が大陸にいる間に、何も知らせることなく、他の男へ嫁いでしまった。ソフィアを信じてくれたブラッドを、一方的に裏切ったことに変わりない。
 再会した今も、彼の前でどんな顔をすればいいのかは、相変わらずわからない。はっきりしているのは、2人の間にはまだ、惹き合う力が存在しているということ。それから、2度と2人きりにならないよう注意して、公の場では伯爵未亡人に相応しい態度を取らねばならないということ。
 彼の前から逃げ出したいけれど、前に進むしか道は残っていない。あの頃より、しがらみも守るべきものも増えてしまった今では、少女の頃のように振る舞うことはできない。
 ハウスパーティーを乗り切ってロンドンへ帰る時には、もっと気持ちが晴れていることを祈るしかない。気を取り直して、ソフィアは、グレースとアンの会話に加わった。


 ソフィアたちの馬車がゴールド・マナーに到着したのは、午後を少し過ぎた時間だった。
 とうとう着いてしまった。
 緊張するソフィアをよそに、同乗の2人はそれぞれ、新鮮な反応を返した。門をくぐってから、重厚な館が姿を現すまでの距離が長いこと、敷地はまるで森のように、緑が溢れていること、何よりも館は『ゴールド・マナー』の名に相応しく壮麗なことに、アンは気後れしてため息をつき、グレースは興奮して歓声を上げた。

 正面玄関前の車寄せには、他にも馬車が数台停まっており、到着したばかりの客人でごった返している。招待客たちを手際よく出迎え、各自の部屋へ送り届けるよう、大勢の使用人を指揮しているのは、背の高い貴婦人だった。
 馬車を降りたソフィアたちのもとへも、彼女は従僕とメイドを連れてやってきて、人好きのする笑顔を振りまいた。
「ごきげんよう、レディ・リンズウッド。ようこそ、ゴールド・マナーへ」
「ごきげんよう、レディ・バリー。お招きいただき、ありがとうございます」
 オルソープ家の舞踏会で、エミリー大叔母に引き合わされていたおかげで、ソフィアはバリー伯爵夫人ににこやかに挨拶を返すことができ、内心ほっとした。互いに親しいわけでもなく、会話らしい会話もしたことがなかったのだが、レベッカ・ヒューズには、人の緊張を解す力がある。
「レディ・バリー、こちらはわたくしの隣人で、ミス・アン・ウェルズですわ。ミス・ウェルズ、こちらがレディ・バリーです」
「このたびはお招きにあずかり、光栄ですわ」
「どうぞ楽しんでらしてね」
 緊張した面持ちのアンと挨拶を交わしてから、レベッカの視線は、ソフィアのスカートを掴んでいる小さな客人に向けられた。エメラルドのような瞳を優しげに細め、腰を屈めて、小さなレディに微笑を送る。

「こちらが、レディ・リンズウッドの娘さんね。かわいらしい方ね」
「娘のグレースですわ。グレース、ご挨拶なさいな」
 恥ずかしそうに俯いていたグレースは、母親に促され、おずおずと前に進み出て、スカートの端を掴んでお辞儀をした。
「ごきげんよう、レディ・バリー」
「ようこそ、レディ・グレース。生憎うちの子供たちは、お昼寝中なの。起きてきたら紹介するわね。あの子たちも楽しみにしているのよ」
 レディ・バリーに丁寧に話しかけられ、グレースも人見知りを忘れ、最後にはにこりと笑って、ソフィアのもとに戻った。レディ・バリーは子供がお好きなんだわ、と、ソフィアは肩の力を抜いて、ちっとも気取ったところのない伯爵夫人を眺めた。この分ならグレースを預けても、心配することはなさそうだ。
 ソフィアの思いを見透かしたように、レベッカは安心させるように頷いた。
「ご心配は要らないわ、レディ・リンズウッド。うちの乳母たちは、ベテランですからね。任せてしまって大丈夫よ。一旦お部屋に引き取っていただいてから、夕方にでもお引き合わせしましょう」
「おそれいります」
「気になさらないで。うちの子供たちも、お友達ができるのを喜んでいますから。ハウスパーティーは大人ばかりですからね。毎朝乳母がお部屋にお嬢さんを迎えに行って、夜は送り届けて、寝かしつけますからね。その間、あなたはパーティーを楽しんで下さいな」
 意味ありげな視線を最後に向けられたが、ソフィアは気づかないふりを通した。やはりレディ・バリーも、今回の招待には何かあると睨んでいるのだ。ということは、ブラッドが何か企んでいるのは間違いない。

 他の客が到着したので、バリー伯爵夫人はそちらを出迎えに行き、ソフィアはそれ以上居心地の悪い思いをせずに済んだ。メイドが玄関広間から部屋へと案内してくれるのについて、3人は2階への大階段を上る。2階の手すりから玄関広間を眺めたが、行き交う人々の中にヒューイット夫妻や、見知った姿は見えなかった。
 メイドによると、到着した客人は、婦人たちは談話室に集まって話に花を咲かせ、紳士たちは書斎に集まって政治談議を繰り広げたりしているという。それに参加しない人々は各自に割り当てられた部屋で、休息を取っているということだ。
 ソフィアが案内された部屋は西翼の、奇しくも5年前に滞在したのと同じ部屋だった。緑を基調にした内装や、優美な家具は何一つ変わっておらず、きちんと手入れが行き届いており、室内に足を踏み入れたソフィアは思わず息を詰めて、立ち止まった。
 こうしてここにいると、初々しいデビューしたての男爵令嬢だった頃に戻ったような錯覚を覚える。初めて滞在した折も、小部屋がついた立派な部屋が割り当てられたことに、驚いたものだった。
 だが、確実に時間は流れているのだ。
「母さま、どうなさったの?」
「ああ、グレース・・・・・・素敵なお部屋で、感激してしまったのよ」
 不思議そうに見上げてくる小さな娘に、ソフィアほろ苦さが混じった微笑を向けた。そうなのだ、時間は流れ、今のソフィアには守るべき幼い娘がいる。

 アンが割り当てられたのは隣の部屋で、彼女の荷解きや着替えは、やってきた別のメイドに任せた。アンも午後は部屋で休息を取るというので、夕方声をかけると約束して、ソフィアは館のメイドと、駆けつけてきたアリスに手伝ってもらって荷解きをし、まずはグレースともども旅装を解いた。
 旅の興奮が去って、眠気が押し寄せてきたらしく、グレースがとろんとした目でソファによじ登る。メイドが運んできた熱いお茶を飲んでから、ソフィアはグレースをベッドに寝かしつけた。
 室内のドアで続いている小部屋に、大人用のベッドと子供用のベッドが用意されており、今回は乳母代わりを兼ねるアリスとグレースが、こちらで眠るようになっている。その代わり眠るとき以外は、大きい方の部屋でソファや寝椅子にくつろげる。
「お嬢様は私がみていますから、奥様もお休みになられてはいかがです?お顔の色が優れないようですよ」
 アリスが、ソフィアの旅行用ドレスを片付けてから側にやってきて、心配そうに声をかけた。今年20歳になるアリスは、ソフィアがリンズウッド・パークに嫁いだ時にちょうど奉公に上がったところで、気立てのよさと手先の器用さを女主人に気に入られ、すぐに小間使いとして身近で世話をするようになった。頬の赤い、栗色の髪のアリスは、優しい女主人を心から慕っている。
 グレースはふかふかの布団に潜り込み、すやすやと寝息を立てている。すっかり寝入ったことを確認してから、ソフィアは小部屋を出て、境のドアをそっと閉めた。

「わたくしは大丈夫よ、アリス。ずっと馬車の中に閉じこめられていたから、顔色が悪く見えるだけよ。外に出て綺麗な空気を吸えば、元気になるわ」
 そう言って、ソフィアがボンネットを取り上げ、ドレッサーに向かうと、アリスが飛んできて、手際よく頭に載せて整える。続いては華奢な室内履きを頑丈なブーツに履き替える。部屋の内装と合わせたかのような、若草色のモスリンのドレスに、揃いのボンネットを着けて、足元も万全。これで準備は完了だ。
「少し外を散歩してくるから、その間グレースのことをお願いね。晩餐の支度をするまでには戻るわ」
 悪戯っぽい光を煌かせた瞳に見つめられ、アリスはやれやれとため息を吐いた。この奥様が、淑やかそうな外見からは想像できないが、スケッチブックを抱えての外歩きなど、ひとりで大胆な行動を取る人物だということを、散々身に沁みて学んでいるから、敢えて何も言わない。言わないが、これ見よがしにため息をつくぐらいはいいだろう。
 淑女たる者、ひとりきりでウロウロと出歩くのは相応しくない。評判を落とさないよう、必ず侍女など付き添いをつけて、人目のあるところを出歩くものなのだ。
 言っても無駄だとわかってはいたが、それでも敬愛する女主人に、アリスは進言した。
「お願いですから奥様、人目に触れないよう、うまくやって下さいましね」
「大丈夫、初めての場所じゃないし、慣れているもの」
 決して褒められたものではないのに、ソフィアは自信ありげに言い切って、廊下へと出て行った。伯爵家の奥方様にしては、型破りなお方だと、アリスはつくづく思った。けれど、お淑やかに振る舞っている時よりも、ああいう時のソフィアは、実に生き生きとして、明るい表情をしているのだ。それを見てしまうと、アリスはこれ以上止め立てすることはできない。ソフィアが微笑みの影で多くの苦労をしてきたことを、側で見てきたのだから。
 たまの息抜きぐらい、ゆっくりさせてあげようではないか。
 奥様がぎりぎりで帰ってきても手早く支度ができるよう、万全にしておく方が良さそうだ。もう1度だけ肩を竦めると、アリスは晩餐会のためのドレスや装身具を準備しておくために、クローゼットを開け、たちまち仕事に没頭した。


 鼻をつく濃厚な緑の香りは、芽生えの季節に相応しく芳醇で、ソフィアは立ち止まり、何度目になるかわからない深呼吸を繰り返した。胸の中にまで、大地のエネルギーが沁み込んでくるようだ。
「やっぱり田舎はいいわね」
 上を見上げても青空は見えず、黒いほどの葉が上空を覆っている。薄暗い森の中を、ソフィアは記憶を頼りに進んでいた。

 館の裏手に広がる森は、5年前と変わらぬ姿でソフィアを迎えた。かつての記憶を手繰り寄せ、ゆっくりと道順を確かめながら、細い道を辿っていくと、アトレー男爵令嬢だった頃に戻ったような錯覚を再び覚えた。
 偉大な自然の前では、人間の世界での5年など、瞬きする間の出来事なのだろう。ほんの短い時間の中で、もがき、悩んで生きている人間は、あまりにちっぽけな存在だ。人間が変わっても、森は変わらずに、黙って迎え入れてくれる。
 ロンドンを去ってからずっと暮らしているヨークシャーの自然と比べて、ハンプシャーの森は、とても穏やかで、長旅に疲れた神経を、優しく包んでくれる。人間を打ちのめす厳しい北の大地とは対照的に、南の峡谷は、ちっぽけな人間を大らかに受け入れてくれる。
 バリー伯爵夫妻が殊のほかこの土地を好むという話も、大きく頷ける。煤けたロンドンの街中にいるよりも、よほど気持ちが休まる。

 気が進まなかったハンプシャー行きで、ソフィアが唯一楽しみにしていたのが、城館の周囲に広がる森に再び足を踏み入れることだった。叶うならば、この素晴らしい景色をスケッチに残していきたい。できれば、どこよりも美しいあの場所を。
 あの場所の美しさを確かめるため、ソフィアはひとり館を抜け出して、森に分け入ったのだった。
 5年前よりも薄くなった道を苦労して辿り、ぽっかりと森が開けた広場に漸く出た時には、ソフィアの額にはじわりと汗が浮かび、息が上がっていた。支えてくれる腕なしに進むには、困難な道のりだったけれど、頑張って進んだ甲斐があったと、目の前の景色を見て、ソフィアは顔を綻ばせた。
 『楽園』は変わらぬ美しさを留めて、そこにあった。
 テスト川のせせらぎも、鳥たちのさえずりも、人間の痕跡がない草原も、あの時のまま、ソフィアの前に現れたのだ。
 草を踏んで進み、ぐるりと周囲を見回してから、燦燦と午後の光が降り注ぐ空を見上げた。ぷかりと浮いた白い雲が、のんびりと空を流れていく。汗ばんだ肌を、川の水の涼しさを含んだそよ風が、お疲れ様と撫でていく。
 自然に、微笑が浮かんでいた。
 川岸まで足を進ませて、緑の縁にしゃがみこみ、左手をそっと水に漬けてみると、ひんやりとした心地よい冷たさが身体を伝っていった。水はどこまでも澄み、様々な澱みを抱えた心までも、洗い清めてくれるようだった。

 どのくらいそうしていただろうか。ガサリと草を踏み分ける音が背後で不意に聞こえ、ソフィアはぐいと現実に引き戻された。たちまち緊張を全身にみなぎらせて、左手を引っ込めると、乾いた右手でぎゅっと包み込み、立ち上がって背後を振り返った。
 灰色がかった春空の瞳が、ゆっくりと見開かれ、唇から声にならない声が零れ落ちた。
「ブラッド・・・・・・」
 この場所でふたりきりで逢うことだけは、絶対に避けたかった相手が、やはり驚いたように立ち竦んで、ソフィアを見つめていた。

2009/04/04up

時のかけら2009 藤 ともみ

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