第3章 追憶の館[2]

  時間の針が、5年前に戻ったのかと思った。

 呆然と立ち尽くすふたりの間を、穏やかに吹き抜ける川風は、以前と変わらずにひんやりとした湿気を含み、深い森の中を呼びかう鳥たちのさえずりは、果てることなく続いている。あの頃と寸分変わらない閉ざされた空間の中で、そこに立つ人間だけに、時間の流れは足跡を残している。

 先に我に返ったのは、ソフィアだった。
 真正面から見つめてくるサファイアの輝きを避けるように、俯いて目を逸らすと、両手を胸の前でぎゅっと組み合わせ、かすれがちな声を唇から零した。
「――ごきげんよう」
 言い終えるやいなや、ザクザクと草を踏み分けるようにして、広場を突っ切る。そのまま顔を伏せたまま、足早に青年の横を通り過ぎようとして、不意にカクンと上体が後ろにのけぞり、足が止まった。左手首を、がっしりした手のひらに絡めとられてしまったのだ。
「伯爵」
「そんなに急いで戻ることはないのではありませんか?」
 抗議の声などものともせず、ブラッドは冷たい笑みを含んだ眼差しで、からかうようにいった。思わず彼を振り仰いでしまったことを、ソフィアは深く後悔した。知らぬ顔をして、目を逸らしていれば良かった。そうすれば、深い青の瞳の中に宿る冷酷な光など、目にすることはなかった。ずきりと胸が痛むこともなかった。

 力なく顎を引いて、ソフィアは喉から声を絞り出した。強い力で握られているわけではない。むしろ、痣など残さないよう優しく握り締められているのに、この手を振りほどけない。大きな手に繋ぎとめられ、この場から動けない。
「・・・・・・子供を、残してきておりますので。そろそろ戻らなくては」
 白々しい言い訳だと思われただろうか。涼しい川風の中、ソフィアの背中にはじわりと嫌な汗がにじみ出た。かつて将来を約束した男性に向かって、子供の存在を思い知らせるなんて、汚いやり口だと思った。
 痛いほど強い眼差しに見つめられているのがわかる。ジリジリと肌を焼かれるようだ。束の間の沈黙が、ソフィアには耐え難いものに感じられた。真意を探るような視線を向けてきたブラッドが、思いがけず「なるほど」と頷くのを見て、すぐに手首の戒めから解放されるのだと思ったが、ブラッドは予想外の行動に出た。

「ならば、館までお送りしましょう」
「な・・・!?」
 そうしてソフィアが絶句している隙に、彼女の手首から手のひらへと、するりと長い指を滑らせて、ブラッドは森の中へ続く小道へと向き直った。ソフィアの小さな手など、すっぽりと包み込まれてしまって、到底振りほどけない。
「け、結構ですわ!大丈夫、ひとりで戻れます」
 何とか指を動かして自分の手を取り戻そうとしたが、果たせないと悟って、ソフィアは背の高い青年伯爵を振り仰いだ。怯まない眼差しを向けることで、不本意であると伝えようとしたが、真っ青な瞳はちらとも揺るがず、何やら楽しげな光を躍らせて、こちらを見下ろしてくる。
「フォード伯爵――」
「ご婦人の足には、歩きにくい道ですよ。怪我でもしたら大変だ」
「大丈夫ですわ。頑丈な靴を履いていますから」
 ちらりとソフィアの足元を見てから、ブラッドは口元を上げて、先導するように歩き出した。そうなると、ソフィアも後をついていくしかない。日当たりのよい広場から、うっそうと繁る葉の下へ出ると、明るさの急激な変化に目がついていかなくて、目の前が暗く翳った。
 ソフィアの足取りが覚束なくなったことは、すっかりお見通しといった様子で、ブラッドは急ぐでもなく遅すぎるでもなく、彼女の歩調に合わせ、歩きやすい速さで、でこぼこの道を先に立って歩いていく。

「靴は頑丈でも、木の根に足を取られる人を何人も見ていますからね。私のように通い慣れた人間ならともかく、女性がひとりで通る道ではありませんよ」
 ぐらりと上体が傾きかけたのを、繋がれた手に力を入れて立て直しながら、ソフィアは唇をぎゅっと噛んだ。ソフィアひとりの体重を預けたって、ブラッドはたやすく支えてくれる。その証拠に、ぎゅっと握り締めても、彼の手はびくともしない。足場の悪い道を進むソフィアにとっては、頼もしい杖だ。
 行きはまだ元気を振り絞って、張り出した木の根を乗り越えたりもできたけれど、やはり支えがあるとないとでは違う。頑丈な革のブーツを履いた足は重くて、よいしょと上げ続けるのは、体力を消耗するのだ。行きよりもずっと道行きが楽になった。
 暫く逢わない間に、彼の手は以前よりも皮膚が硬く、ゴツゴツしたものへと変化していた。長く綺麗な指は変わらないが、軍隊での過酷な訓練が、貴族の青年の手を無骨な兵士のものへと変えてしまったのだろうと察して、ソフィアは酷い寂しさを覚えた。
 繋ぎ合わされた手に視線を落とし、黙々と進むソフィアに、前を行くブラッドがからかうような言葉を落としてくる。

「あなたは何もない野原で怪我をしたことがあるのだから、そう何度も無傷でこの道を通れるとは思いませんよ」
「あれは・・・・・・たまたまですわ」
 あの時はあなたが驚かせたから、その弾みで足を挫いただけです。
 そう言ってやりたい衝動を堪え、ソフィアは俯いて、彼の視線を避けた。あの場面を思い出すと、自然と記憶は、その後初めて身体を重ねた狩猟小屋でのひとときへと繋がってしまう。なぜ今、情熱的な過去の思い出を蒸し返すようなことを口にするのか、彼の意図を掴みきれず、ソフィアは沈黙するしかなかった。それ以上は彼も何も言おうとしなかった。

 幾度目になるか、大きく道に張り出した太い根をソフィアが乗り越えるのを待って歩き出した時、それまでの沈黙を破って、彼は低い静かな言葉を発した。
「この道をよく覚えていましたね」
 たった一度しか辿ったことのない道。あの時も生い茂った木々が、視界を暗く不明瞭なものにしていたから、森を歩くことに不慣れなソフィアが、道を覚えるとははなから期待していなかった。また訪れるにしても、ふたりで来ればいいと思っていたのだ。
 けれど今日、輝かしい記憶から抜け出てきたかのように、ソフィアはあの場に佇んでいた。『楽園』にいることが当然であるかのごとくに。その事実はブラッドを驚かせはしたものの、不快感を呼び起こすことはなかった。
「・・・・・・また来たいと思っていましたから」
 小鳥たちのさえずりにかき消されてしまいそうなほど小さな声が、彼女の唇から零れた。そのまま唇を引き結んでしまった彼女の薄い肩が、微かに震えているのを見とめて、ブラッドはそれ以上言葉を口にすることはなく、ただ僅かに、握り締めた手に力を込めただけだった。

 ふたりは黙々と歩いた。無言の時間は、それほど重く圧し掛かってはこなかった。繋ぎ合わせた手から、相手の温もりが伝わってきて、過敏に反応しそうになる神経をゆっくりと宥めてくれたのだ。どんなに気の利いた言葉も、要らなかった。
 徐々に視界が明るくなり、次の一歩を踏み出したときには、ふたりは夕焼け空の下に立っていた。ゴールド・マナーの屋敷内、ガラス張りの温室の前へ続く小道に立ち、ふたりは暫く無言のまま佇んでいた。
 先に口を開いたのは、ブラッドだった。
「ここから先は、ひとりで大丈夫でしょう。それに、私と一緒にいるところを誰かに見られて、あなたの評判を傷つけてはならない」
「そんな・・・評判を傷つけてなど・・・」
 目を瞠って抗議しかけたソフィアは、途中まで言いかけた言葉を飲み込んだ。それまで握られていた手を、するりと離されたからだ。寄り添っていた温もりを失くして、途端に言いようのない寂しさに襲われ、彼女はブルリと身体を震わせた。

 それをブラッドは、風が涼しくなってきたため寒がっていると受け取った。
「陽が落ちれば、春とはいえハンプシャーもまだまだ肌寒い。早く部屋に戻りなさい。風邪を引かないように」
 それじゃあ、と踵を返して、ブラッドは通用門の方へと歩き出した。長身の背中は、かつてのままのようにも見えるが、そこに漂う疲労と厳しさが、ふたりの間に流れた時間をはっきりと物語っている。
 先ほどまでの穏やかな気配は、もはや微塵もなく、周囲を拒絶するような孤独を纏わりつかせて、広い背中が遠ざかっていく。どのような言葉をかけていいのかわからないまま、ソフィアは咄嗟に呼びかけていた。

「あのっ」
 長い脚が立ち止まり、ゆっくりとこちらを振り向いた彼の表情には、訝る色が浮かんでいる。
「有難うございました」
 支えがあったため、帰り道はさほど辛くなかった。微笑を向けると、彼は眩しげに目を眇め、片手を上げて応えると再び背中を向けた。それを確認してから、ソフィアも温室へ続く下り坂を歩き出した。
 彼の肌の温度が残る手を、残った手でぎゅっと包み込み、ほっと息を吐く。彼は一体どういうつもりなのだろう。オルソープ家のバルコニーで、気まずい別れをして以来、やはり憎まれているのだと思っていた。
 それなのに、以前のように突然優しい気遣いを見せてくれたりもする。ブラッドの気まぐれのような態度に、ソフィアの心の均衡は簡単に崩されてしまう。
「ダメよソフィア、気を抜いたりしてはダメ」
 自分に言い聞かせながら、何とか平静を取り戻そうとして、温室の前でソフィアは立ち止まった。目を瞑り、深呼吸をしようとするが、鼻腔から入り込んでくるハンプシャーの緑の気配が、封じ込めたはずの記憶を、呼び覚まそうとする。
 途方に暮れて、ソフィアは空を見上げた。深いオレンジを帯びた空に、煌く星がある。
「グレースだっているのよ。何とか乗り切らなくては」
 勇気づけるように瞬く星に背を向け、ソフィアは夕暮れの中を館へと歩き出した。


 豪華なシャンデリアが輝くホールには、楽隊の調べが流れ、着飾った人々が集っている。人数は少ないが、それでも煌びやかな様子は、ロンドンの社交界に引けを取らない。 バリー伯爵が主催するハウスパーティーの初日は、たっぷりの晩餐と、それに続く舞踏会で幕を開けた。

「・・・・・・オルソープ家の舞踏会に劣らない顔触れね。どうしましょうソフィア、とても緊張してきたわ」
「大丈夫よ、あれだけ食べれたのですもの。考えているほど緊張してはいないわ」
「まぁ、酷い!だって、とても美味しかったのですもの・・・」
 居並ぶ上流の人々に気後れして、ソフィアに縋るようにぴたりと横に張りついたアンが、おろおろしている。確かに、英国社交界の精鋭を集めたような出席者の顔触れを見れば、ソフィアだって緊張に身が竦む。今シーズンがデビューとなるアンは、尚更だろう。
 ソフィアの軽口に、アンは髪の色に負けないくらいに顔を真っ赤に染めた。
「あら、恥ずかしがることはないわ。バリー伯爵家の晩餐は、社交界でも有名ですからね。食が進んで当然よ」
「ウィニー」
「ミセス・ヒューイット!」
 小柄だが女性らしい丸みを帯びた肢体を、目の覚めるような深い青のベルベット地のドレスに包んで、ウィニフレッド・ヒューイットがひょっこりと顔を出した。艶やかなマホガニー色の髪は1度頭の上で髷に結われ、残りは豊かに波打って背中へと垂らされている。
 颯爽とした印象を与える彼女は、ソフィアにとっては女子寄宿学校時代からの友情で結ばれた親友である。どちらかといえば内に溜め込みがちなソフィアと反対に、ウィニーははきはきと、時には辛らつな言葉を口にする性分だ。社交界では「成り上がりの鼻摘み者」と嫌われているアメリカ人と結婚した後も、臆することなく上流の人々の前に姿を現している彼女を、ソフィアは素直に尊敬していた。

「ミスター・ヒューイットはどうしたの?」
 ソフィアの問いかけに、ウィニーはひらひらと手にした扇を振ってみせた。
「多分、カード室だと思うわ。あの人、上手いくせに、ダンスが嫌いなのよ。あの人が踊るのは、わたくしが他の殿方に囲まれているときぐらいね」
「まぁ・・・っ」
 すらりと口にされたのろけを聞いて、アンがいっそう顔を赤らめ、両手で頬を挟んだ。
「ウィニー」
「あら、失礼。2人とも晩餐を楽しめたようで、何よりだわ」
 ソフィアが咎めるような眼差しを向けても、ウィニーはそ知らぬ顔だ。強引な話題の転換に、ため息を堪えてソフィアは頷いた。これでアンの気が逸れるなら、十分だ。

「ええ。グレシャム卿とハガード大尉が、色々と親切にして下さったから、わたくしもアンも、気が楽だったわ」
「お2人に出遅れたと、他の殿方は皆、ピリピリしていたわよ。挽回しようとして、きっとあなた方2人、ダンスの申し込みが殺到するわ」
「まぁ、ウィニー!アンはともかく、わたくしは既婚で子供もいるのよ?ダンスを申し込むような物好きはいないわ」
 真面目に否定するソフィアに、ウィニーは両目を眇めて、大仰なため息をついてみせた。
「ソフィア、あなた、わかっていないわね――」
「失礼。レディ・リンズウッド?」
 何かを言いかけたウィニーを、やんわりと遮る形で、彼女たちの前に現れた人物が、やわらかに呼びかけた。ソフィアとウィニーとアン、3人の注目を一斉に浴びても、慌てることなくにこやかに微笑んでいるのは、栗色の髪に茶色の瞳の、青年伯爵だった。
「ウィロビー伯爵」
「私と踊っていただけませんか?」
 洗練された物腰で誘われては、断る口実が思い浮かばない。
「わたくしでよければ、喜んで」
 無難な台詞を口にして、差し出された手を取ったソフィアの耳に届いたのは、ぼそりと呟かれた親友の含み笑いだった。
「ほら、いたじゃないの。物好きが」
「どうかしましたか?」
「いえ、何でもありませんわ」
 一瞬足を止めたソフィアを、怪訝そうに振り返ったウィロビー伯爵に、にっこりと微笑んで見せると、彼は再び先導してホールの中央へ向かって歩き出した。複雑な胸中を表に出さないよう、気を引き締めて、ソフィアはそれに続いた。

 ウィロビー伯爵は、見知ったわたくしがいたから、声をかけて下さっただけ。
 そうたかをくくっていたソフィアだったが、すぐにそれが間違いだと思い知らされることになる。
 ウィルと踊った1曲目が終わるやいなや、次に相手をして欲しいという男性が、ソフィアの周りに殺到したのだ。強引な申し込みは、付き添ってくれたウィルが無言の圧力をかけてあしらってくれたが、グレシャム卿やハガード大尉ら、断れない顔馴染みの誘いを受けているうちに、ソフィアのダンスカードはたちまち一杯になってしまった。

 ソフィアが付き添いをしていると知れたのだろう、アンの方にも申し込む者が次々と近づいていき、彼女は頬を真っ赤に染めて、頷くのが精一杯のようだ。途中、ウィニーがアンの横に立ち、手慣れた様子で申込者を捌くのを引き受けてくれてからは、アンは明らかにほっとした表情を浮かべている。
 その様子を横目で見ながら、ソフィアは自分への申し込みを捌くので精一杯だった。年若い未亡人がそんなに珍しいのだろうか。自分と踊りたいという殿方が多いことに困惑しながら、それでも表面上は平静を保って、何度もホール中央へ出て行き、軽やかに踊った。
 幾度か踊るうちに、ホールの別の隅では、若い令嬢が人だかりを作っているのが目に留まる。着飾った令嬢たちの真ん中に、頭ひとつ分抜け出ているのは、見慣れた人物だった。誰かわかった瞬間、ソフィアはごくりと息を呑み、俯いた。

「どうかしましたか?」
 パートナーを務めるキンバリー卿が、怪訝そうに尋ねてから、ソフィアの視線の先に気づいて、「ああ」と納得したような声を上げた。
「フォードは、ご令嬢たちの人気の的ですからね。私のように爵位を持ってない男より、やはり爵位のある男の方がいいんでしょう」
「キンバリー卿」
「おっと」
 自嘲気味に笑ったキンバリー卿を、ソフィアが不安そうに見上げると、彼は何かに気づいて身震いをした。彼の眼差しの先を追ったソフィアも、はっと息を呑んだ。
「何やらご機嫌が悪そうだな」
 周りに群がる女性たちを一顧だにせず、ブラッドは真っ直ぐにこちらを――ソフィアを見つめていた。酷く暗く、冷たい眼差しで。
 キンバリー卿の影に隠れ、すぐに視線は遮られたが、胸を鋭い刃物で刺されたような痛みは、一向に消えない。森の中を支えて歩いてくれた青年は、幻だったのだろうか。今のブラッドの瞳の中には、青く暗い炎が揺らめいている。
(わたくしには、あんな目を向けても、他の女性のことはきっと、優しく見つめるのだわ)
 そう考えた途端、今度はじりじりと焼けつくような痛みが胸の奥に生まれて、ソフィアは俄かに熱くなる瞼を必死で押し上げた。顎を上げ続ける勇気はなかったけれど、感情の波をやり過ごせば、また微笑んで踊れるはずだった。この5年の間に、その程度には、成長したはずだ。

 俯きながらキンバリー卿に先導されて歩いて行くソフィアを、ブラッドは歯噛みを堪えながら見つめていた。
 ソフィアは確かにこちらに気づいていた。気づいていたが、そ知らぬ顔で、他の男の腕に抱かれて踊ろうとしている。森の中で、再び触れた彼女の手の小ささが、はっきりと手のひらに残っているというのに、彼女は離れていってしまう。
 『楽園』で再会したとき、時間が過去に戻ったような錯覚を覚えたのは、自分だけだったのだろうか。またしても彼女に背を向けられるのは、我慢ならなかった。
 右手をぎりぎりときつく握り締め、ブラッドは、甲高い声で話しかけてくる令嬢たちを、作り笑顔で見渡した。商談でも威力を発揮してきた、あの笑顔だ。おかしなもので、本心からの笑みではないことに、誰も気づかない。うら若い令嬢たちも、一様に頬を赤らめては、恥ずかしげに目を逸らしてしまう。
 生身のブラッドが何を思い、何を感じているか、そこまで触れようとする人間はいない。
 念入りな化粧を施し、派手な装いをした女性たちが関心を持つのは、ブラッドの爵位と、家名と、容姿だけ。彼の内面など、誰も気にしない。

 社交用の笑顔を向けて違う反応を返したのは、ソフィア・エルディング――ソフィア・ポートマンだけだった。もうひとり、ヒューイットの奥方も他人と違う反応を返したけれど、彼女の場合はブラッドに劣らずうそ臭い微笑を向けてきた。あれは例外だ。
 表面は微笑みながら、中身は違うことを考えていると敏感に察知して、ソフィアが向けたのは、驚きと哀しみだった。奇妙なことに、ソフィアが気づいてくれたことに、ブラッドは深い満足を覚えたのだ。素の感情を見せなくなったのは、ソフィアが去ったことがきっかけなのだと、思い知らせることができたから。
 とはいえ、彼女が『仮面』を張りつけているのを見るのは、気分の良いものではない。ほら、キンバリーと談笑しているソフィアは、すっかり伯爵夫人らしい落ち着きと威厳を身につけている。
「1曲いかがですか」
「まぁ!わたくしで良いのですか!?」
 ブラッドから声をかけられたひとりの令嬢が、頬を上気させて頷いた。他の令嬢たちの嫉妬深い視線を浴びて、得意げだ。彼女の手を取り、ホールの中央へ進みながらも、ブラッドの意識はパートナーではなく、リンズウッド伯爵未亡人へと向けられていた。

 パートナーの頭越しにソフィアを見遣ると、こちらに気づいた彼女が、一瞬強張った表情を浮かべるのが目に入る。意地の悪い満足を覚えるが、彼女が気を取り直してキンバリー卿と踊り始めるのを見ると、激しい苛立ちが胸の中に充満した。自分のパートナーが何か一生懸命話しかけてきているが、適当な相槌を打つだけで、ちっとも耳に入ってこない。
 優雅にリードを続けるブラッドと、軽やかに舞うソフィアは、距離を置いてはいても、互いの存在を痛いほど意識していた。触れれば火傷するような、張りつめた緊張の糸が、2人の間に存在するのが目に見えるようだ。
「あら・・・何だかあの子、ピリピリしてるわね」
「ベッキー」
 踊る人々を、寝椅子に座って眺めていたウィニーの横に現れたのは、このハウスパーティー主催者の奥方だった。ベッキーがいう『あの子』が誰を指すか、すぐに察して、ウィニーはにやりと口元に笑みを浮かべる。
「過去に色々とあったって聞いたけど、事実のようね。わたくしの親友も、随分神経質になっているもの」
 気安い口をきいても、ベッキーは別段気にする風もなく、ウィニーの横に腰を下ろした。互いの夫が事業の提携をしていることもあり、顔を合わせる機会の多かった2人は、自然に気の置けない仲となっていた。
 ベッキーは名門貴族の妻であっても、ヒューイットをアメリカ人と蔑むことをしなかったし、ウィニーも気取ったところのないベッキーを気に入り、友人として行き来していた。
 ウィニーの指す『親友』の姿を目で追い、ベッキーは物憂げにため息をついた。
「わたくしも、過去に何があったのかをはっきりと知っているわけではないの。でも、あの子が変わったのは、あの夏からだわ」
 ウィニー自身も、5年前のハウスパーティーには出席していないので、親友の身に何があったのかを把握しているわけではない。だが、あの夏、彼女が突然ヨークシャーへ嫁いでいったと聞いたときの衝撃は、鮮明に覚えている。ウィニーが知っているソフィアは、結構頑固で、折り合いの良くなかった父親の言う通りに、見ず知らずの老人に嫁ぐような大人しい娘ではなかったから。
「何かを過去に置き忘れてきたなら、今度こそ、取り戻せればいいのだけれど」
 ベッキーの呟きに、ウィニーも黙ったまま頷いた。その台詞は、彼女が親友に捧げたい言葉と、寸分たがわず一致していたのだから。

2009/04/14up

時のかけら2009 藤 ともみ

inserted by FC2 system