第3章 追憶の館[3]

  昨夜のアルコールが、まだ抜けきっていない頭は、ぼんやりと重い。
 自室で軽い朝食をとり終わり、身体がしゃんと目が覚めた頃になっても、頭に残る鈍い重さは、消えそうにない。
「・・・まいったな」

 珍しく仕事への意欲がわかず、ブラッドは苦笑した。休暇中とはいえ、比較的時間に余裕のある午前中を使って、彼は毎日、手紙に目を通したり返信をしたためたりと、机に向かうことを欠かさない。
 今日も個人用書斎へ向かおうと、自室を出て歩き出したところだったが、こんな調子では仕事がはかどるわけがない。廊下に人目がないのを確認してから、ブラッドは額に手を当てた。

 昨夜は、夜会で男たちに取り囲まれたソフィアの姿が瞼の裏から離れず、適当なところでご令嬢たちの相手を切り上げると、あとはカード室で男同士の当たり障りない世間話に興じた。表情には出さなかったが、他の男に手を取られ、踊るソフィアに対する苛立ちが、その間もずっとブラッドの胸を苛み続けた。それを紛らわせるために、次々に杯を手にしたのだが・・・・・・どうにも飲みすぎたようだ。
 女を信用してはならないと、ブラッドに教えたのは、他ならぬソフィアだというのに、性懲りも無く彼女の一挙一動に翻弄されてしまう自分が情けない。今夜以降も催しは続く。
 気持ちを切り替え、いつもの彼のペースを取り戻す必要があった。
 口元に、小さな笑いが浮かぶ。額に当てていた手を外してから、ブラッドは書斎とは別の方向に向けて歩き出した。


――麻のシャツを作ってくれますか?
  パセリ、セージ、ローズマリーとタイム。

 小さく開いた扉の隙間から、哀切の漂う旋律が漏れてくる。ノックしようとした手を止めて、歌い手の邪魔をしないように細心の注意を払い、ブラッドは隙間から室内を覗き込んだ。そして、目を丸くした。
 子供部屋の真ん中に立ち、胸を張って歌っているのは、黒髪の幼女だった。彼女の前に置かれたソファには、ブラッドの甥と姪が座って、メロディに合わせ、頭を小さく左右に振っている。その脇には彼らの乳母が、絨毯に置かれたクッションに座っている。
 小さな歌い手は、ちょうどブラッドの正面を向いて、一心に歌っていた。やや舌足らずの、甘い声は耳に心地よく、歌詞が胸の中にすとんと入ってくる。


――縫い目も針の跡もないシャツを。
  そうすればあなたは、私の真の恋人になるでしょう。


 とんでもない無理難題だ。
 甥のジェフリーと大して年が変わらなさそうな、おそらく4、5歳の子供が歌うには、似合わない内容だった。今年で5歳になるジェフリーも、その妹で3歳になるレイチェルも、小さな歌い手の伸びやかな声と、哀しげなメロディに心を奪われているようで、うっとりと聞き惚れている。歌詞の意味など解っていないのだ。

――そのシャツを、あそこの井戸で洗ってくれますか?
  湧き水も無く、雨も降らないあそこの井戸で。
  そのシャツを、あそこのサンザシの上で乾かしてくれますか?
  アダムが生まれてから、花をつけないあのサンザシの上で。


 それを叶えるには、魔法でも使うしかない。そう思うほど不可能な課題を、少女は心地よいあまやかな声で歌っていく。

 見覚えのないその歌い手を、ブラッドは扉の影からじっくりと観察した。黒い艶やかな巻き毛は、リボンで緩くまとめられ、小さな背中に豊かにたらしている。生き生きとした赤い頬は、林檎のようで愛らしい。顔立ちは幼いながらも整っているが、小さな歌い手は目を瞑って歌っているため、瞳の色までは窺えなかった。
 この子は一体誰だろう。
 ブラッドの甥と姪――バリー伯爵夫妻の長男と長女は、ゴールド・マナーの子供部屋で、両親が客人の接待に忙しくしている間、乳母に面倒を看てもらっている。子供部屋といっても、ジェフリーとレイチェルの寝室を挟んで、真ん中に居間がついている、3部屋の続き部屋だ。
 叔父のブラッドを慕ってくれる甥姪に逢いに、彼は日中、この部屋を訪れることがあるのだが、これまでに小さな歌い手の姿を見たことはなかった。使用人の子供には見えない。着ている服も上等だし、リボンも質の良いものだ。良家の子女だと見当はつくが、どこの家の娘かまではすんなりと浮かばず、ブラッドはじっと彼女を見つめた。

 視線の先で、ちょうど歌い終えた彼女は、幼いながらもきちんと礼をしてみせた。ソファの上で、ジェフとレイが大きな拍手を送り、歓声を上げた。
「すごいよ、グレース!上手だったよ」
「すごいわ」
 乳母からも盛んに拍手が送られ、小さな歌い手は、はにかんだ笑みを浮かべて顔を起こした。やっと見開かれた瞳を見て、ブラッドは息を呑んだ。この小さな歌い手が誰であるか、灰色がかった青い瞳が、何よりも雄弁に語っているではないか。
(この子が・・・・・・)
「ありがとう」
 無邪気にソファに駆け寄った歌い手が、首を小さく傾げる仕草が、ブラッドの脳裏で、ひとりの乙女の姿と重なった。髪の色は違うけれど、こういった何気ない仕草は、母親とそっくりだ。

 不意に響いてきた力強い拍手の音に、3人の子供たちは一斉に入り口を振り向いた。扉を開けて、敷居に寄りかかるようにして拍手をする青年を見とめ、ジェフリーがぱっと顔を輝かせて叫んだ。
「ブラッド!」
「やあジェフ、いい子にしてたかい?」
 大人に見せる冷たい微笑みではなく、体温が感じられる穏やかな微笑を浮かべたブラッドが室内に入ってくると、ジェフは勢いよく駆け出して、年若い叔父に抱きついた。
「うん、もちろん!」
「ジェフ、ずるいー!」
 負けじと妹のレイが、叔父の片足にぎゅっとしがみつく。右手と左手、それぞれで甥姪の頭をポンポンと軽く叩いてから、ブラッドは、ソファに取り残された小さな歌い手にそっと目を向けた。ジェフとレイがいなくなったソファの脇に、彼女はぽつんと佇んでいた。
 ジェフとレイが全身で青年に甘える様子を、羨望の眼差しで見つめていた歌い手は、真っ青な眼差しが自分に注がれていることに気づくと、恥ずかしそうに俯いた。先ほどまでの堂々とした歌いぶりが嘘のように、もじもじとしている。そんな彼女を怯えさせないようにと、意識したよりも更に優しい声が、ブラッドの口をついて出た。

「とても歌が上手なんだね、レディ・グレース」
 思いがけず褒められて、驚いたようにグレースがブラッドを上目遣いに仰ぎ見た。その様子も、かつてブラッドに恋心を捧げると誓った乙女の姿にそっくりで、微笑ましさと同時に、苦しさを呼び起こされる。
 それを綺麗に押し殺して、ブラッドは、戸惑ったようにこちらを見上げてくる少女に、マナー通りの礼をしてみせた。
「ああ、私はブラッドレイ・ヒューズ。はじめまして、レディ・グレース。素敵な歌を聞かせてもらったよ、ありがとう」
「ブラッドは、僕たちの叔父さんなんだ」
「パパの弟なの」
 叔父の足から漸く手を離した兄妹が、かわるがわる補足した。大きな目をちょっと丸くしたグレースは、恥ずかしいのを何とか堪えているといった様子で、おずおずと返礼をしてみせた。
「ごきげんよう、ミスター・ヒューズ」
「ブラッドはね、フォード伯爵なの」
 朗らかにレイが教えると、グレースは頷いて、もう1度言い直した。
「ごきげんよう、フォード伯爵。歌を褒めてくれてありがとう」
「どういたしまして。君は、レディ・リンズウッドの娘さんだね?」
 母親の称号をはっきりと口にすると、グレースは素直にうんと頷いた。頭の動きに合わせて、波を描く巻き毛が、ふわりと揺れた。ソフィアは濃い金髪だし、彼女とは縁戚のトーマス・ダグラス卿やスタンレー子爵は、もう少し色の薄い金髪だ。黒髪は、父方の血筋だろうか。ブラッドは、1度も今は亡きリンズウッド伯爵に逢ったことはなかったが。

「お友達になったのよ」
「お歌が上手だから、いっぱい歌ってもらってるんだ」
 またもや賑やかな兄妹が、こちらはレベッカ譲りの金髪を輝かせて、叔父に報告した。大人ばかりの館で、同年代の友人ができたことが、嬉しくて仕方ないらしい。兄妹とグレースはうまくやっているようだ。
 母親に似たのか、大らかな性格の兄妹に囲まれて、グレースもやっと人見知りを解いたようだ。そこで、ブラッドは気になっていたことを尋ねてみた。
「さっきの歌は、何ていう歌なんだい?このあたりではあまり聞いたことがないが」
「あれは、『麻のシャツ』っていうの」
 歌詞の内容そのままのタイトルではないか。捻りがなさすぎて、ブラッドは苦笑した。しかし大人のそうした反応をさして気にすることもなく、グレースは先を続けた。

「リンズウッド・パークにいるメイドが、教えてくれたの。スカボローでは皆知ってる歌だって言ってたわ」
「そうか・・・スカボローの歌なんだね」
 道理でこのあたりで聞いたことがないはずだ、とブラッドは納得した。スカボローといえば、ヨークシャー州の港町だ。リンズウッド伯爵家の領地はヨークシャーにあるから、そこで育ったグレースが馴染んでいるのは当然だ。
「うん。『グリーンスリーブス』も好きだけど、『麻のシャツ』をそのメイドがよく歌ってくれるから、覚えちゃったの。だって、おまじないが面白いでしょう?」
「おまじない?」
「そう。『パセリ、セージ、ローズマリーとタイム』って」
 グレースは、その節だけを歌ってみせた。するとジェフとレイまでが面白がって、その節をもう1度繰り返す。次はグレースも一緒に3人で。目を輝かせながら『パセリ、セージ、ローズマリーとタイム』と歌う子供たちを微笑ましく眺めながら、この「おまじない」が突きつける意味を、ブラッドは苦く理解していた。

 苦味を消すパセリ、忍耐の象徴であるセージ、貞節や愛、思い出を表すローズマリー、そして勇気の象徴であるタイム。
 不可能な難題を、これらを持ってやり遂げれば、真の恋人が帰ってくるだろうという、男女間の問答を歌った歌詞だ。
 真実の恋を叶えるには、確かに『パセリ、セージ、ローズマリーとタイム』が必要だ。だがそれを、かつて自分の元から黙って去った女性の娘が、意味もよくわからないまま、楽しそうに歌っている様子は、皮肉でしかない。

 『ローズマリー』を欠いたソフィアの娘、という目でグレースを眺めてみても、嫌悪や憎しみが一切浮かんでこないのは不思議だった。ジェフやレイと一緒にはしゃいでいるグレースは、少々恥ずかしがり屋だが子供らしい素直な娘でしかない。母親そっくりの瞳や、父親譲りと思われる黒髪を見ても、ブラッドの胸が痛みを訴えることはなく、それどころかほんのりと温かさが広がるのだ。
 可愛がっている甥姪にとっても、グレースがいい友人だということは一目瞭然で、だから好意的な目で見てしまうのかとも思った。けれども、楽しそうに今度は『グリーンスリーブス』を歌いだしたグレースの声に耳を傾けると、澄んだ伸びやかな歌声に、ブラッドの心もほぐれていくのがはっきりと解った。
 母親のような清楚な美しさは、小さなグレースの上にはまだ見られない。同じ瞳をしていても、小さなグレースは、母親とは違う方法で、こちらの胸にすっと沁み込んでくる。甘く舌足らずな歌を聴いていると、悩まされていた頭痛も、いつの間にか消えていた。

 グレースが歌い終わった時には、朝の空気に触れたときのように、すがすがしさに包まれていた。すっかりと打ち解けて、にこりと笑いかけてくる小さなグレースに、ブラッドは片手を差し出した。楽しげな声音と共に。
「グレース、私とも友達になってくれるかな?」
 きょとんとした顔つきでブラッドを見上げたグレースは、次の瞬間、はにかみながらも、大きな手をぎゅっと握り返した。
「喜んで」


 誰にも気づかれないよう、小さくついたため息は、しっかりと親友に聞かれていたらしい。ソファに並んで座るウィニフレッド・ヒューイットが、片方の眉を上げて、カップを口に運ぶ手を止めた。
「どうしたの?」
「ううん、何でもないわ」
 口元に笑みを刻んで、反射的に答えたが、聡いウィニーはこんな答えでは誤魔化されてくれない。すぐに思い直して、言い足した。
「ちょっと疲れているみたい」
 そうして、膝の上に置いたソーサーから紅茶のカップを取り上げ、ゆっくりと口に含んでそ知らぬ顔で飲み込んだけれど、ウィニーがクスリと横で笑いを漏らすのを聞いて、カップをソーサーに戻した。

 ゴールド・マナーの談話室は、淑女たちのお茶会真っ最中で、色とりどりのドレスを着た淑女が、室内に置かれたソファや寝椅子に点在し、談笑している。部屋の隅に置かれたソファに座るっているのは、ソフィアとウィニーの2人だけだったから、好奇の目を気にしなくていいのは楽だった。
「確かに、あなた、大人気ですものね。あんなに踊りっぱなし、話しかけられっぱなしでは、疲れるわよ」
 ここには物好きが多いみたいね、とからかわれ、ソフィアはむうっと眉を寄せた。
「絶対におかしいわよ、ウィニー。デビューしたばかりの未婚のレディは何人もいるのに、どうしてわたくしに声をかけてくる殿方が多いのかしら。わたくしは未亡人だし、子供もいるし、初々しさなんてとうに失ってるわ。紳士方にからかわれているのかしら」
「ソフィア・・・・・・」
 本気で憤慨している親友に、ウィニーは呆れた眼差しを向けた。本人が言う通り、既婚で、未亡人となって、子供もいるというのに、中身はちっとも変わっていない。ソフィア自身は無自覚のようだが、「未亡人だからとからかわれているだけ」と真面目に信じているあたり、初々しさを失ってなどいない証拠だ。
 女子寄宿学校時代の彼女と比べると、何年か逢えない間に重ねた苦労のせいか、随分しっかりして落ち着いた雰囲気の貴婦人となったソフィアだ。それでも根っこの部分は、無垢な娘だったあの頃のままで、心配でたまらない。

 ハウスパーティーが始まってから、夜会や舞踏会、昼間の催しなどで、ソフィアの元にやってくる男性は、後を絶たない。ダンスとなれば、彼女のダンスカードはすぐに埋まってしまうし、歓談となれば、彼女の周りに群がった男性が一斉に話しかける有様だ。彼らに下心があるのは見え見えだが、ソフィアはそれに全く気づいていないのだ。初心なアンも同様で、ソフィアを囲む男性の数が多いことを、素直に賞賛しているだけだ。
 これでは、肉食獣の群れに、小動物が紛れ込んだようなものだ。
 清楚な外見のソフィアと異なり、どちらかというと艶やかな外見のウィニーには、大人の恋を楽しもうと誘いをかける男性が多い。この時代、夫婦仲睦まじく貞節な女王陛下を婦人の理想と賛美しながらも、乱れた関係を結ぼうとする者は、社交界においても多かった。妻とは別に、既婚婦人や未婚婦人と愛人関係を結ぶことを、男の甲斐性のように考える者は多い。
 特に社交界は、自由恋愛で結ばれる夫婦が稀であるせいか、その反動で、夫と妻としての義務を互いに果たしさえすれば、誰をベッドへ引き込もうとも干渉しない風潮がある。愛人としては、初心な未婚の娘よりも、既婚婦人の方が、割り切った関係を結べるからいいという男が多いようだ。
 ウィニーはもちろん既婚者であるが、夫がアメリカ人ということもあり、「あんなアメリカ人は飽きただろう」「あなたに相応しくない」と囁き、誘惑してくる男に、これまで何度も出逢ってきた。しかしウィニーはそうした男たちを軽蔑するだけで、絶対につけこまれる隙を与えず、素気無く追い払ってきた。

 そのウィニーの目から見て、ソフィアはまるで無防備だ。傍から見ていて、危なっかしいことこの上ない。そのため、ウィニーがしゃしゃり出ていって、邪魔な殿方を追い払うこともしばしばだ。
 子供のいないウィニーと比べ、結婚、妊娠、出産と全てを経験した上に、夫との死別まで加わったソフィアは、女性としての人生経験で、遙かに先をいっているはずなのだ。
 それなのに、どうしてこれほど無防備なのだろう。ロンドンで再会して以来、ウィニーは内心、首を捻るばかりだった。ソフィアの亡き夫と面識がないから、はっきりしたことはわからないけれど、よほど大切にされたのだろうか。世間知らずなほどに。

 5年前のソフィアの突然の結婚は、当然ウィニーにとっても寝耳に水の出来事だった。次に再会することがあれば、絶対に打ち明け話を聞かなければと、ずっと気にかかっていたことだった。
 今回のハウスパーティーは、よい機会だ。今すぐでなくても、徐々に、ヴェールに包まれた結婚について、聞かせてもらうことにしよう。
 うんざりだと顔にはっきり浮かべて、ソフィアが紅茶を飲み干した。たおやかそうに見えるけれど、この親友は、これでなかなかの頑固者なのだと思い出して、ウィニーは、助け舟を出すことにした。
「できるだけ、ウィロビー伯爵と一緒にいるといいわ。あの方が側にいる間は、他の男性は怖れをなして近づいてこないじゃない」
「・・・伯爵にご迷惑ではないかしら。わたくしの相手をしていても、つまらないと思うわ」
 眉間に皺を寄せて、困惑気味に俯くソフィアを、ウィニーは笑い飛ばした。
「何をいっているの。あなたが伯爵にまとわりついているわけではないし、伯爵からあなたのところにやってくるのだから、迷惑なはずがないわ」
「そうかしら・・・」
「そうよ。それでも不安なら、ハガード大尉やグレシャム卿といった、お知り合いと一緒にいるといいわ。絶対に男性と2人きりになってはだめよ。わたくしもあなたの側にいるようにするけれど、心配だから」
 気弱な微笑を浮かべ、ソフィアは感謝を込めた瞳で親友を見つめた。ウィニーが世慣れていて、男性を追い払ってくれるのは、本当に心強いのだ。

「あなたを独占したら、ミスター・ヒューイットに恨まれないかしら」
「そんな心配はしなくていいのよ。あの人はどうせ、パーティーの合間に、バリー伯爵やフォード伯爵と、仕事の相談ばかりしているのだから」
 フォード伯爵という言葉を聞いて、ソフィアは物憂げに俯いた。様々な男性が話しかけてくるけれど、決してソフィアに近寄ろうとしないただ1人の男性がいる――それが、ブラッドなのだ。
 ソフィアが視線を感じて顔を上げると、決まって、苛立ちを含んだ冷たい眼差しが、こちらをじっと見つめている。そのたびに、いたたまれない気持ちになるのだ。
「何か心配事でも?」
「いいえ、何でも――」
 気遣うように、ソーサーに添えた手を、ウィニーがそっと握り締めてくる。手袋越しに伝わる温もりに、ソフィアの張りつめた神経は緩んだけれど、気持ちは晴れそうもなかった。

 だが、親友にあまり心配をかけたくもない。ブラッドと過去、ソフィアがどのような関係があったかを、ウィニーは知らない。深く勘繰られないよう、他の話題を探して、ソフィアは言葉を続けた。
「――フォード伯爵といえば、あなたが言った通り大人気ね。以前のハウスパーティーの時も、彼を熱烈に追いかけている女性がいたわ。てっきり2人は結婚したのかと思ったけれど・・・・・・」
 あまり上手な話題のすり替え方ではない。バツの悪さを感じつつも、ソフィアが言葉を濁すと、ウィニーはそちらに気を取られたようで、「ああ」と頷いた。ソフィアが5年前にもハウスパーティーに参加したことがあるのは、ウィニーにも話してあるから、すぐに件の人物が誰か、見当がついたようだ。
「もしかして、グラフトン伯爵令嬢のことかしら?末娘のレディ・アイリーンが、その頃夢中になって追いかけ回していたと聞いてるわ」
「確かそんなお名前だったわ」
 レディ・アイリーンのことは、今でもはっきり覚えている。が、彼女と確執があったのも、ウィニーには知られなくてもいいことだ。理由を話そうとすれば、ブラッドとの関係にも触れなくてはならない。だからソフィアは、曖昧に頷いた。
「グラフトン伯爵も乗り気だったそうだけれど、この縁談は、結局ダメになったのよ。フォード伯爵――まだヒューズ卿と呼ばれていたあの方は、軍隊に入ってしまわれたから。そのことに腹を立てたグラフトン伯爵は、別の男性と娘を結婚させたのよ。旦那様について、レディ・アイリーンは確かインドに行ってしまったはずだわ」
「そんな・・・・・・グラフトン伯爵は、実力者なのでしょう?バリー伯爵家が窮地に立たされることはなかったの?」
 父親が権力を持っているから、レディ・アイリーンは強気に振る舞っていたのだ。少し青ざめてソフィアが尋ねると、ウィニーは心配ないといって笑った。
「いくら貴族院の有力者だって、大英帝国のために軍に入った若者を、表立って非難することなんてできないわ。それに、伯爵よりもレイモンド侯爵の方が身分も上だし、王族との繋がりも深い。結局、仕返しはできなかったのよ。せめてもの意趣返しにと、娘をさっさと結婚させただけ」
「仕返しのために結婚だなんて・・・・・・」
 ソフィアが眉を顰めても、ウィニーはあっけらかんとしたものだった。
「レディ・アイリーンの旦那様は、15歳ほど年上の、落ち着いた方で、夫婦円満にやっているようよ。社交界でも何度か見かけたけれど、すっかり妻の尻に引かれてたけれど、幸せそうだったわ。年齢の近いヒューズ卿は、当時は爵位もなかったし、彼女も今の状況に満足しているわよ」
「そう・・・ならいいの」
 社交界に戻ってから、姿が見えずに気にかかっていたレディ・アイリーンの現状を漸く聞いて、ソフィアはソファの背にそっともたれかかった。思いがけないところで再会し、またしても目の仇にされたらかなわないと心配していたが、杞憂に終わった。

 誰もが、それぞれの人生を歩んでいるのだ。
 ぼんやりと絨毯に視線を落としたソフィアに、今度はウィニーが尋ねた。
「ねえ、そういえばあなたの旦那様も、年が離れた方だったわね。ミスター・ヒューイットとわたくしは5歳しか離れていないからわからないけれど、ずっと大人の旦那様を持つのは、どんな気持ちなの?」
 ソフィアは顔を上げ、目を丸くして親友を見つめてから、フッと力を抜いて微笑んだ。
「夫は、長年連れ添った最初の奥様に先立たれて、寂しい暮らしを送っていたのよ。残りの人生を笑顔で過ごしたいといって、わたくしと結婚したの。懐の深い、穏やかな方だったわ」
 灰色がかった瞳が、懐かしげに細められる。
「実家が大変な状態だったから、夫がヨークシャーに連れ出してくれて、本当にほっとしたわ。父からもわたくしを守ってくれて、何の心配もせずに済んだ。激しい感情はなかったけれど、互いに尊敬し合って、平穏な時間を過ごしたわ」
「・・・身重の身で、あなた1人取り残された時は、大変だったでしょうに」
 自分ならば、そのような状況に立ち向かえるだろうか。ウィニーは親友に、痛ましげな眼差しを向けた。
 けれどソフィアは、匂いたつ花のような微笑を浮かべ、首を横に振った。
「夫は、色々なものを遺してくれたから、わたくしは1人きりではなかったわ。生まれてからはグレースも、わたくしを支えてくれた。辛かったことなんて、思い出せないわ」
「女手ひとつで領地経営をするのは、大変なことよ」
「皆が助けてくれたし、それにもうじき、義理の甥がリンズウッド伯爵位を継ぐの。そうすればわたくしは、お役御免だわ」
「再婚は・・・しないの?」
 もって回った言い方はせずに、単刀直入にウィニーが尋ねても、ソフィアは少しも動揺せず、微笑を深くしただけだった。
「しないわ。グレースと2人で、館の敷地内にある小さな家で暮らそうと思っているの」
 そう語ったソフィアの表情には、無理をしている様子はどこにもなくて、本心からその日を心待ちにしているのだということが伝わってくる。ウィニーはそっと嘆息して、苦笑した。

 ソフィアにはその気がなくても、周囲の男性は彼女を放っておかないだろう。グレースには父親が必要だし、ヨークシャーの荒れ野で女2人が暮らすことに、スタンレー子爵夫人あたりがいい顔をするわけがない。
 無邪気で、頑固なこの親友を、陥落させるのは一体どんな男性なのだろう。ソフィアが望むと望まないとに関わらず、この社交シーズン中に、彼女と将来を共にしたいと願う男性は、必ず行動を起こすはずだ。
 彼女に危険が及ばないよう、そして、第二の伴侶に巡り会えるよう、当分は側にいて、見守っているしかなさそうだ。
 彼女の夫、亡きリンズウッド伯爵についても、ソフィアの返答はどこか曖昧にぼかしたような印象を受ける。模範的な伯爵未亡人という殻の中に、生身のソフィアらしい感情は、全て隠してしまったかのようだ。
 この先、まだまだ長く残っている人生を、仮面の下で送るつもりなのだろうか。生き生きとした表情のソフィアを、再び見てみたいと、ウィニーは思った。ソフィアが仮面を取り去るのは、誰か誠実な男性が、彼女の心を開かせる時だ。その役目を果たすのは、一体誰だろう。ウィロビー伯爵だろうか、それとも他の男性だろうか。
 近々、ひと波乱起きそうだ。危険な兆候があれば、すぐに夫に話して、バリー伯爵の力も借りなくてはならない。決意を込めて、ウィニーは、握ったままの手に、ぎゅっと力を入れた。

2009/04/18up

時のかけら2009 藤 ともみ

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