第3章 追憶の館[4]

  ハウスパーティーが始まって、1週間が過ぎた。様々な催しが順調に消化されていき、ゴールド・マナーに招かれた人々は、ハンプシャーの春と華やかな社交を楽しみ、バリー伯爵夫妻は手を変え品を変えもてなしを続けていた。

 上流階級の人々の朝は遅い。午後から始まるお茶会や、明け方まで続く夜会に顔を出すため、午前中はゆっくりと過ごすのだ。狩猟など特別な用事がない限り、紳士淑女の皆様は、各自の部屋でのんびりと過ごす。
 無論、規則正しく起床して早朝の散歩を楽しんだり、書斎で書類に目を通したりする者もいるが、大半は遅めの朝食まで起き出そうとしない。そのため伯爵夫妻も、午前中は極力催しを入れないように配慮していた。
 午後までは、息抜きできる時間。気の置けない仲間と、肩肘張らずに過ごすに限る。

 そういうわけで、ゴールド・マナーの一隅にあるヒューズ家の家族用談話室には、バリー伯爵夫人レベッカと、その友人たちの姿があった。ベッキーはウィニフレッド・ヒューイットと一緒にソファに座り、アン・ウェルズはソファの前の絨毯に、ドレスを花弁のようにふわりと広げて腰を下ろしている。今回のハウスパーティー中に、頻繁に見受けられるようになった光景だが、あと1人、ここにいるべき姿が欠けている。
 もともとベッキーと親しいウィニーが、友人であるソフィア・ポートマンと、彼女がデビューを手伝ったアンを引き合わせ、4人が意気投合するまでにさほど時間はかからなかった。

 ヒューズ家の家族用談話室は、文字通りヒューズ家の家族と、彼らに親しいごく一部の限られた客人しか出入りできない。最初は名門伯爵家の私的な空間に招かれ、伯爵夫人と会話することに緊張を隠せなかったソフィアとアンだが、人目を気にせずに済む打ち解けた部屋の雰囲気と、ベッキー自身の飾らない人柄に接するうちに、次第に肩の力を抜いていった。
 もともとベッキーは、他人に無関心なブラッドが関心を示した相手として、ソフィアの人となりを知りたいと熱望していた。双方を知るウィニーが、いつもの如才のなさを発揮し、うまく橋渡しをしたこともあり、2人の貴婦人はじきに、子育てや領地内の学校教育のあり方についてなど、活発な意見交換を行う仲になった。
 ベッキーは、ソフィアが持つ冷静で健全な判断力や、たおやかな外見からは想像できない芯の強さ、アンが持つ純朴さや思いやりを気に入った。ソフィアは、ブラッドの義姉がとても気さくで、合理的な思考の、さっぱりした性分であることを知り、子育てなどで助言を仰げる「お姉さま」的存在を得たことを喜んだ。

 内気なアンは、他の3人の論議を、ニコニコと笑顔で聞いていることが多い。才気煥発なレディたちと互角に渡り合うには、アンという娘は気持ちが優しすぎ、控え目だった。彼女のふんわりとした微笑は、時に辛らつなウィニーの発言も、柔らかな布で包んでしまう力があった。アンが黙って微笑んでいるだけで、談話室の空気は和やかになるのだ。

「ソフィアはどうしたの?」
 ベッキーの問いかけに、足元に置かれたクッションの刺繍を指でなぞっていたアンが顔を上げた。
「子供部屋に寄ってから来ると言っていたわ。顔を出すってグレースと約束したのですって」
「まさか1人きりで行動しているのではないでしょうね?」
 ウィニーが眉を顰めると、アンは不思議そうに見返した。ウィニーがソフィアに、なるべく単独で行動しないよう注意したことを知らないようだ。ソフィアに狙いをつけた下心溢れる紳士たちについて、初心なアンに何と説明をしようかとウィニーが迷っているうちに、赤毛の娘は首を横に振った。
「小間使いのアリスが一緒にいるから、1人ではないわ」
「そう・・・それならいいわ」
 ウィニーがそっと息を吐くと、ベッキーが心配そうに覗き込んできた。客人全体に気を配る役目でもあり、彼女はソフィアを取り巻く状況があまり芳しくないことに早くから気づいていた。家族用の談話室にソフィアを招くのも、彼女の周りをうろつく下心いっぱいの紳士たちをシャットアウトするのが目的だ。
「あなたから見て、気になる方はいるの?」
 アンが窓際のカウチに移動して、読書に没頭し始めたのを見届けてから、ベッキーが用心深く尋ねた。ソフィアと数日一緒に過ごせば、とても無防備で、恋愛遊戯を望むような性分でないことはすぐに解る。資産を持つ若く美しい未亡人ならば、気楽な恋愛ごっこを派手に楽しんでもおかしくないご時勢だが、ソフィアは男性との親密な接触を避けている節があった。

 気難しい顔をするウィニー同様、ベッキーもソフィアの安全に目を配っているのだ。本人が知れば「大げさよ」と笑うに決まっているから、それとなく。
「気に入らない方はいるわ。ウィロビー伯爵がいれば、大抵の男性は退散するから心配ないけれど、しつこくソフィアに言い寄る人物が2人いるのよ。あなたも気づいていると思うけれど、彼らにはデリカシーってものがないんだわ。ただの欲望の塊よ」
 ウィニーが辛口に切り捨てるのも無理はない。ベッキーがため息をついて、その人物を確認した。
「キンバリー卿と、ウィッカム男爵ね」

 彼ら2人がソフィアを見る眼差しには、下卑た欲望がはっきりと宿っている。身なりだけは貴族らしく上品に、上質のもので整えているが、中身は紳士などといえやしない。日頃、ウィニーほど男性に対して辛らつな評価を下さないベッキーも、この2人に関しては、弁護する術を持たないのだ。
 キンバリー卿ギルバート・パーカーは、ブラッドの友人の1人で、子爵家の跡取りだが、未だに健在の父親が爵位を保持しているため、屈折したプライドを持っている。ひょろりとした背格好で、大き目の口が特徴だ。女性に惚れっぽく、浮いた噂が後を絶たない。それゆえに爵位を譲られないのだと、巷では専らの評判だ。他人を妬む気持ちばかりが強く、気骨らしきものは本人のどこにも見られない。捻くれて育ったお坊ちゃまだと、以前、ウィニーが言い捨てたことがあるが、それにはベッキーも同感だった。
「キンバリー卿は、女性が激しく抵抗すれば、怖気づいて逃げ出すかもしれないけれど。問題は残る1人よね」
 残る1人を思い浮かべたのか、ウィニーが顔をしかめ、苦々しく息を吐いた。
「それはいえてるわね」
 問題の1人は、ウィッカム男爵フレデリック・ハースト。バリー伯爵家と特に親しいわけではないが、社交界でも狩猟を好むグループに属している中年の男性だ。実年齢を感じさせないほど鍛えられた肉体は、狩猟の賜物で、本人もそれを自慢にしている。
 美形ではなくても、健康的な肉体美を持つ彼は、控え目に微笑んでいれば、うっとりと見惚れる女性も多いのだが、女好きという欠点があった。妻とは長く別居をしており、独身気取りであちこちの女性に手を出すのだという。
 体格がいい彼に動きを封じられれば、女性は抵抗もできないだろう。

 ウィニーにとって気に食わないのは、彼ら2人がウィロビー伯爵に妙な対抗意識を燃やして、隙を見てはソフィアに付きまとっていることだ。礼儀正しく人好きのするウィロビー伯爵に対抗するには、彼ら2人では見るからに役不足――とは、ウィニーの弁だが、本人たちがそれに気づいていないため、夜会の時などはいっときも気を抜けない。
 他の男性たちや女性たちが一目置く「社交界の人気者」ウィロビー伯爵への反発から、この2人が妙な実力行使に出るのではないかと、気が気でないのだ。
 そして残念ながら、日頃の彼ら2人の評判や、態度を見ても、それが杞憂であるとは言い切れない。
「ミスター・ヒューイットに話して、男性陣の協力を仰ぐ方がいいかもしれないわ」
 何かあってからでは遅いのだし、と呟くウィニーに、ベッキーも強張った面持ちで頷いた。
「わたくしも、バリー伯爵に相談するわ。それとなく目を光らせておいてもらいましょう」
 通常は、招待してくれた主の顔を立てて、傍若無人な振る舞いは慎むものだが、彼ら2人にその判断が働くものかは謎だ。特にウィッカム男爵には。ベッキーとウィニーだけよりは、伯爵やミスター・ヒューイットの手も借りて、監視の目を厳しくする方が安心だが、城館は広く、人目のない場所などいくらでもある。
 あとはソフィア自身に、単独での行動を避けてもらうよう、了承させるしかない。
 一抹の不安を拭えないままだが、ソフィアを守りきることを、ベッキーとウィニーは再度誓い合ったのだった。


 ハウスパーティーが始まってから、幾度目かの舞踏会が巡ってきた。次々と企画される催しが昼も夜も絶え間なく続き、若いアンでさえ、さすがに疲れを見せる時がある。が、ダンスとなると、途端に生き生きするのがソフィアだった。これから夜更けまで続く舞踏会の熱気に頬を紅潮させ、ソフィアの瞳は輝いていた。
「本当にダンスがお好きなのですね」
 毎回ダンスのパートナーを率先して引き受けるウィルが、さすがに実感をたっぷりと混めた感想を漏らす。踊り狂ってると呆れられただろうかと、ソフィアが心もとない表情を見せると、ウィロビー伯爵は「いえ、変な意味ではなくて」と、笑った。
 ほっとして微笑を浮かべ、ウィルを見上げるソフィアの様子を眺めていれば、2人の間に信頼が結ばれていることは、一目瞭然だ。実際、他の男性陣と比べると、ウィルがソフィアと一緒にいる時間が一番多い。この頃では、一晩に2曲や3曲続けてダンスの相手を務めることもある。
 招待客の間では、「ウィロビー伯爵はリンズウッド伯爵夫人に夢中で、2人の付き合いは順調に進展している」と見る向きも多い。

 ハンプシャーに来て以来、ソフィアにとってウィルは、日々、信じるに足る人物として、重きを増していった。
 人付き合いもそつなくこなす彼らしく、ダンスの腕前も上級者だ。彼が相手だと、息をぴったりと合わせて踊れる楽しさが募り、ソフィアは久々に思う存分ダンスを満喫している。
 踊っている間は、しつこく言い寄ってくる男性にも悩まされずに済む。何よりも音楽に全身を預け、周囲を遮断してしまうから、心を震わせるあの眼差しも、感じなくなる。ホールの向こう側から、ソフィアをぴたりと見つめているサファイアの眼差しは、日毎に温度を下げ、じりじりと疼くような痛みを、心臓に与えるのだ。かつて甘い言葉を囁き、暖かな日差しのように見守ってくれていた瞳に、暗い炎が揺らめくのを認めるのは、予想以上の苦痛をもたらした。

 招待主の弟として、ブラッドは礼儀正しく客人の相手をしているが、ソフィアとは必要最低限の言葉しか交わしていない。館に到着した日の午後、森の中で手を引いて導いてくれたのは、幻だったのだろうかと疑いたくなるほど、冷ややかな礼儀正しさしか向けてもらえなかった。
 それを忘れるには、ダンスに没頭して身体を疲れさせ、ベッドに入れば夢も見ない深い眠りに落ちるようするのが、今のソフィアにとっては一番だった。
 だからといって、伯爵未亡人らしい慎みも捨て、はしゃぎすぎただろうか。ソフィアの頭をよぎった不安は、すぐ横に立つ親友にはお見通しだったらしい。扇で口元を覆って、ウィニーがクスリと笑った。
「リンズウッド伯爵夫人のダンスは優雅で素晴らしいと、専らの評判よ。周りのことは気にせずに、好きなだけ踊りなさいな。大丈夫、皆うっとりとあなたに見とれてしまうから」
「ウィニーこそ、踊らないの?申し込みは後を絶たないのに、全部断ってしまうんだから」
「わたくしはいいのよ。自分が踊るよりも、眺めている方が好きなの。それよりソフィア、そろそろ始まるようよ」
 ウィニーが、夫のミスター・ヒューイット以外とは踊ろうとしないことは、ソフィアも承知している。そのため、きっぱりと拒否されても、別段意に介さなかった。ダンスの始まりを気にして、会場の様子を注視することに意識を向けてしまって、ウィニーとウィルが意味深な目配せを交わしたことにも、全く気づかなかった。

 ソフィアを1人きりにしないこと。ダンスの相手も、信頼のできる男性が務めるよう気をつけること。
 ソフィアを魔の手から守るために、ウィニーとウィルが取り決めした約束事である。妻から相談を受けたミスター・ヒューイットは、すぐにバリー伯爵とウィルに話をもちかけ、リンズウッド伯爵夫人の身を守る算段を話し合った。彼ら3人ともが、信頼できる男性として名前を挙げたのが、ポール・ハガード大尉と、グレシャム卿だった。
 ハガード大尉は、ソフィアの隣人で、アンの父親であるウェルズ大佐の知人であるが、キンバリー卿とは血縁関係にある。が、実直な人柄の持ち主だ。グレシャム卿は穏やかな気性で知られている常識人で、女性と間違いを起こすような可能性はない。
 その2人には、具体的にキンバリー卿とウィッカム男爵の名を告げはしなかったものの、リンズウッド伯爵夫人を誘惑しようと目論む男性が複数いることを話した。その上で、善良な伯爵夫人を守るために協力して欲しいと、アーサー自らが要請した。
 2人の男性はそれを快く引き受け、ソフィアのダンスのパートナーを代わるがわる務めるなどして、キンバリー卿とウィッカム男爵がソフィアと接触する機会を摘み取っている。
 今宵もソフィアとウィルの周りには、ウィニーとミスター・ヒューイット、グレシャム卿、ハガード大尉とアンの姿がある。男性陣と討論する方を好むミスター・ヒューイットまでが、このところダンスの相手を引き受けてくれるのを、ソフィアは不思議に思ってはいたが、周囲の思惑には気づいていなかった。智謀に長けたヒューイット夫妻の作戦は完璧で、ソフィアが気詰まりな思いをすることがないよう、本人に対しては全て伏せられていたのだ。

 楽団が奏でていた音楽が、不意に途切れた。ダンスがもうすぐ始まるという合図だ。
 すぐ隣で立ち話をしていたハガード大尉とアンが、手と手を取り合ってホールの中央へと進みだすと、ウィニーは潮時とばかりに空いているソファへ引っ込み、ウィルがソフィアに恭しく礼をして、手を差し出した。
「お手をどうぞ、マダム」
 気障に聞こえるフランス語の台詞も、ウィルにかかれば茶目っ気たっぷりな表現の一つに変わるから、不思議だ。ソフィアは微笑みながら手を預け、揃ってホールの中央へ歩き出した。適当な位置を確保し、あとは音楽がかかるのを待つだけというところで、会場に突如起きたどよめきに気がついた。
「何だろう?」
 ウィルがホール正面の扉を注視し、視線を追ってソフィアも振り返り、思わぬ光景に声を失った。ブラッドが、見知らぬ1人の女性をエスコートして現れたところだった。

 輝くシャンデリアの光の下、落ち着いた微笑を浮かべたブラッドがエスコートしている女性は、化粧映えのするはっきりした顔立ちの美女だった。豊満な身体の線を引き立たせるドレスを身につけ、超然とした態度で、ホールの中央へと歩みを進める。長身のブラッドと並んでも釣り合いの取れる、背の高い女性で、物怖じせずに堂々と振る舞う様子は、女王のような迫力があった。
 情熱的な赤毛が、彼女の炎のような気性を連想させる。注目を集めても、恐れ気もなく人々を見返す瞳は、猫を思わせる琥珀色をしていた。

「レディ・リンズウッド?」
 ウィルにそっと右手を握り締められ、ソフィアはビクリと肩を震わせた。全身の硬直を無理やり解いて、反射的に口元に微笑を浮かべてウィルに向き直る。頬の筋肉が思うように動いてくれなくて、うまく笑えていないことを自覚してはいたが、何気ない素振りを装った。
「大丈夫、驚いただけですわ」
 口をついて出たのは強がりだったが、こんなに強張った顔をしていれば、説得力がないだろう。自嘲気味にソフィアは思ったが、ウィルの手が、励ますようにぎゅっと力を入れて右手を握ってくれた。見上げた茶色の瞳が、いたわるように、ソフィアの灰青の瞳を包む。それに力を得て、ソフィアは自分を叱咤した。どんなときでも、リンズウッド伯爵未亡人として、落ち着いた振る舞いをしなくてはならない。

 ブラッドと美女は、ダンスの輪に加わり、にこやかに談笑しながら、曲の始まりを待っている。彼らが取ったポジションは、ソフィアとウィルからはちょうど視界に入る一角だったが、ソフィアはできるだけ、目の前のウィルの首元に結ばれた蝶ネクタイを一心に見つめ続ける振りをした。集中し続けるのは難しかった。周囲の、やはりダンスを待つカップルたちが、好奇心も露わに囁く声が、嫌でも耳に入ってくる。
「あのフォード伯爵が、女性をエスコートするなんて珍しい・・・」
「随分お美しい方ね」
 ブラッドと親しそうにしている、あの女性は一体誰なのだろう。
 次々と聞こえてくる話し声の中に、あの女性の身元について触れているものはない。社交界の噂に精通しているエミリー大叔母も、ウィニーも、ブラッドが連れている美女に関するものと思しき話は、何もしていなかった。フォード伯爵は、社交界どころか女性には興味を示さず、仕事に没頭しているという話しか聞かなかった。

 もちろん、ブラッドは独身なのだし、美しい女性を連れ歩いていても、おかしくはないのだ。いつかはこういう光景を目撃すると解っていたはずなのに、なぜかソフィアの目の奥は、チクチクと痛んだ。
「――まさかブラッドが、ミス・テイラーを連れてくるとは思わなかったな」
 ウィルの思いがけない言葉に、ソフィアは目を丸くしてパートナーを見上げた。人当たりの柔らかな彼にしては珍しく、苦い微笑を顔に貼り付けている。
「あの女性は、ミス・テイラーとおっしゃるの?」
「直接逢ったことはないけれど、おそらくそうだと思いますよ。これまで聞いた話と、外見の特徴が一致していますから。彼女は、アメリカの資産家令嬢だという話ですよ」
「アメリカの方なのですね」
 妙に納得して、ソフィアは呟いた。ミス・テイラーというあの女性の、物怖じしない――悪くいえば傲慢な態度は、階級制に捕らわれる英国人を見下している様子が滲み出ている。これまで社交界の催しで目にしたアメリカ人には、皆そういう共通点があった。親友であるウィニーの夫、ミスター・ヒューイットも、例外ではない。
 自由を重んじるアメリカの人間は、古い体制にがんじがらめの英国人貴族を嘲りながら、英国社会で確固たる足がかりを掴むために、その貴族に接近する。貴族たちは、卑し成り上がり者と蔑みながら、彼らの豊かな財力を欲し、手を結ぶ。
 イギリスの社交界で頻繁に見受けられるようになってきた図式が、ここ、ゴールド・マナーで再現されても、不思議はない。

「今シーズンから、社交界に出入りするようになったということですが、ここに招かれていたとは、私も聞いていない。おそらく両親も共に来ているのでしょう」
「新しいお仲間が増えれば、パーティーはもっと盛り上がりますわ」
 判で押したような台詞を、やけに熱心にソフィアは言ってのけたが、彼女の全身が、ブラッドとそのパートナーを過剰に意識しているのは明白だった。5年前の社交界には参加していなかったウィルだが、ブラッドとソフィアが親しくしていたらしいとは、アーサーの口から聞いていた。ソフィアに興味を持つようになって、無理やり寡黙な友人の口を割らせて聞き出したという方が正しい。
 ハウスパーティーが始まる前に、ブラッドには軽い牽制を仕掛けてみたが、彼が今現在、ソフィアのことをどう思っているのかはわからない。ソフィアはブラッドの様子が気になるようだが、わざわざそれをブラッドに知らせるつもりは、ウィルにはなかった。彼女と共に過ごす時間が増えるにつれ、ソフィアに惹かれる気持ちは強くなっているからだ。恋敵に塩を送る必要はない。

 ソフィアの脳裏から、少しでもブラッドの影を拭い去りたい。そう願いながら、ウィルは彼女の小さな手を、優しく握り締めた。
「あなたが気にすることはありませんよ」
 戸惑ったようにソフィアが見返してきたが、タイミングよく、楽団が音楽を奏で始め、2人は周囲の輪に沿って動き出した。

 相変わらずウィルのリードは絶妙で、感嘆の眼差しを浴びながらソフィアは優雅に踊っていたが、いつものようにダンスに没頭することはできなかった。先ほどまでの興奮はどこかへ消え失せてしまい、周りで踊る他のご婦人のドレスが、ひらひらと舞っているのが嫌に目に付いた。特に、時折すれ違うミス・テイラーの、茶色のドレスの裾が。彼女の真っ赤な髪が。強く漂う彼女の香水が、ソフィアの集中をあっけなく乱した。
 目の前のウィルのベストを凝視していても、音楽に混じって、ホールに満ちたざわめきが、どこまでも聞こえてくる。長年の訓練の賜物で、ステップを間違うこともせず、ウィルにリードされるままに1曲を踊りきったとき、ソフィアは少し息を乱していた。ほとんど音楽は頭に入っていなかった。空中を漂っているような、現実感が麻痺した中で、ウィルの手だけを頼りに、辛うじて醜態を見せずに済んだ。
 両脚がいつになく重い。こんな酷い状態でダンスのパートナーを務めさせ、ウィロビー伯爵は、きっと不愉快に違いない。小さくため息をついて、ウィルに謝罪をしなければとソフィアが口を開きかけたとき、視界の端で、ウィニーがこちらに合図を送っているのが目に入った。ウィルもそれに気づいたらしい。
「ミセス・ヒューイットがあなたを呼んでいますね。1度あちらに戻りましょうか」
 微笑みながらそう言って、ホールを横切り始めたウィルの背中に、ソフィアは追いすがって呼びかけた。
「ウィロビー伯爵!あの、わたくし・・・・・・」
「今日はお疲れのようだ。お友達と、少し休憩をした方がいいですよ」
 全て見透かしたような優しい口調に、ソフィアは顔を赤らめ、俯いた。何とも子供じみた自分の身勝手さが、恥ずかしかった。

 伯爵に促され、導かれるままに戻ったソフィアに、ウィニーは心配そうな眼差しを向けた。お疲れのようだ、というウィルの言葉に頷き、ウィニーは親友の手を取って、少女の頃のように腕を組んだ。
「ソフィア、少しここを抜けて、わたくしに付き合ってくれない?」
 それは、ソフィアの意志を伺うというよりも、決定事項を告げているような、奇妙にきっぱりとした言い方だった。戸惑いを覚えて顔を上げたソフィアは、親友の後ろに、ミスター・ヒューイットの姿を見出した。彼もソフィアに向かって、安心させるように頷いてみせる。
「わかったわ」
 ソフィアの返答を聞くなり、ウィニーはホールの外へ向かって歩き出した。2人を見送って佇むウィルに、ケヴィン・ヒューイットは、いつもの醒めた口調で声をかけた。
「妻に任せておけば、心配ない」
「ああ」
 余計な口を差し挟まないケヴィンの性分が、ウィルにはありがたかった。洞察力と情報収集力に優れている彼のことだから、この場に集う人々の間に紡がれた、複雑な人間関係についても承知しているに違いない。ヒューズ兄弟と共にウィル自身も、ケヴィンとは信頼できる関係を築いてきたから、この男の性分については、よく把握していた。
 ホールの向かい側にいる別の友人に視線を向けると、彼も、ソフィアが消えた扉の辺りを、じっと見つめていた。その真っ青な双眸には、どのような感情がこもっているのか、この位置からは読み取れない。
 隣に立つ赤毛の美女に何か話しかけられ、彼女に向き直って答えるブラッドの顔に、いつもの作ったような微笑が貼りついていることだけは、ここからも見て取れた。ウィルの胸の中から、苦い想いが湧き上がってくる。ウィルはそれを、長い長いため息に変えて、そっと吐き出した。

2009/04/26up

時のかけら2009 藤 ともみ

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