第3章 追憶の館[5]

  いつになく硬い表情をして、ウィニーが向かったのは、東翼の2階、ヒューズ家専用の家族用談話室だった。

 もともと小柄な女性ではあるが、こういうときには有無を言わせぬ迫力が全身に漂う。手を引かれ、ズンズンと前を行く親友の背中を追いかけながら、ソフィアは声をかけるタイミングを逸していた。
 主だった招待客は全て、階下のホールに下り、長い夜の始まりを楽しんでいる。そのため、廊下はひっそりとして人気がなく、時折メイドとすれ違うぐらいだ。彼女たちは、勢いよく歩いてくるミセス・ヒューイットの姿に一様に目を丸くしたが、ウィニーは頓着していなかった。

 談話室の扉を閉め、ソフィアをソファに座らせてから、ウィニーは漸く緊張を解いた。ソファの前を、腕組みをして行ったり来たり歩きながら、眉間に皺を寄せている親友に、ソフィアは恐る恐る声をかけた。
「ウィニー?何か気がかりなことがあるの?」
「・・・これ以上ないってくらい、気がかりなことができたわ」
 足を止め、両肩を竦めて、ウィニーが深々と息を吐いた。きょとんと見返したソフィアに、ウィニーは扇をピシリと鳴らして、不愉快そうに口元をすぼめた。

「あなたも見たでしょう?フォード伯爵がエスコートしてきた方を。彼女が来るなんて、厄介極まりないわ。ベッキーもミスター・ヒューイットも何も言っていなかったのだから、強引に押しかけたに違いないわね」
「ちょっと待って。あなた、あのご令嬢がどなたか知っているの?」
 親友の剣幕についていけず、ソフィアが発した至極もっともな問いかけは、イライラと扇を弄んでいたウィニーの動きを止めるには十分だった。まじまじとソフィアを見つめてから、ウィニーは肝心なことを話していなかったことに気づいたようだ。寄宿学校時代から、いつもソフィアより世慣れ、肝の据わった彼女らしからぬ動揺ぶりだった。

 ソフィアの隣に並んで腰を下ろし、ウィニーは、珍しく疲れを滲ませて話し出した。
「あのご令嬢は、キャサリン・テイラーというのよ。アメリカの東海岸では有名な資産家の娘なの。ニューヨーク社交界では有名で色々な男性と噂になっている、『恋多き女』よ」
 ウィニーの夫も、ニューヨークで絶対の影響力を持つ一族の出身だ。アメリカ社交界の様子は、ソフィアには想像もつかないが、ヒューイット家とテイラー家が顔を合わせる機会が多いだろうことは、予想がつく。
「ミスター・ヒューイットともお知り合いなのね」
「あからさまに誘惑されたけど、素気無く断ったと言っていたわ」
 ウィニーの扇が、もう1度ピシリと鳴った。なるほど、かつて夫を誘惑しようとした女性が、臆面もなく目の前に現れれば、気分が悪くなるのは当然だ。ソフィアは単純にそう納得したが、ウィニーの表情が晴れない理由は他にもあった。

「ニューヨークでは、もう目ぼしいお相手がいなくなったから、こちらにやってきたっていうわけ。アメリカ人ではなくて、英国貴族の1人とでも結婚できれば、しめたものでしょう?」
「英国社交界にデビューするのね」
 英国の爵位を持つ男性と結婚すれば、ミス・テイラーは『レディ』の称号を持つ立派な貴婦人となり、誰からも敬意を払われる存在になる。実家の財力と婚家の身分が揃えば、英国、いや、欧州経済界での商機は広がる。
 この国の社会が、どれほど身分制に縛られているか、ソフィアもウィニーも身をもって知っている。伯爵夫人となったソフィアは上へ、アメリカ人青年へ嫁いだウィニーは下へ。その後の待遇の差は、天と地ほども違う。
 事業で成功したい者にとって、喉から手が出るほど欲しいのが、英国での爵位だろう。

「ここに招かれている男性のうち、何人が彼女の魔手にかかるのか知れないわ」
「魔手って、そんな大げさな――」
「笑い事じゃないのよ、ソフィア」
 大仰な表現を笑い飛ばそうとしたソフィアは、ウィニーに真剣な目でじっと見つめられ、唇を引き結んだ。
「彼女、ライバルを徹底的に蹴落とそうとするんですって。意中の男性を射止めるのに、邪魔な女性がいたら、遠慮なく何かを仕掛けてくるわね。ニューヨークでもそのせいで孤立していたそうだけど、ここでは彼女の前評判を知ってる人なんて、ほとんどいないわ」

 ウィニーが、ソフィアの手をぎゅっと握り締めた。真摯な眼差しで、間近から覗き込んでくる。
「1人にならないよう、気をつけてちょうだい。自分から不愉快な思いをしにいくことはないんだから」
「ちょっと待って、ウィニー!わたくし、別にあの方の邪魔をする気なんてないわ」
 意味がわからないと、怪訝そうに見返してくる友人に、ウィニーは本気で頭痛を覚え、額を押さえた。
「あなたにその気がなくても、彼女があなたを邪魔に思う可能性は高いのよ。ソフィア、心当たりがないとはいわせないわ。あなたをしょっちゅうエスコートしてくれるのは、どなた?」
「・・・ウィロビー伯爵よ」
「彼が、フォード伯爵と並ぶ『最優良花婿候補』だって、話したわよね?」
 ウィニーに指摘され、ソフィアはぐっと言葉を詰まらせた。確かに、人気の高いウィロビー伯爵と一緒にいれば、ミス・テイラーの不興を買うこともあるだろう。不承不承頷いたソフィアに、ウィニーは懸念の眼差しを向けた。

「わたくしたちが心配しているのは、ミス・テイラーには身分の上での遠慮がないということよ。他のご令嬢も、あなたを羨ましく思っているけれど、伯爵夫人に手を出すようなことはしないわ。この国の社交界に生きている人間なら、当然、身分への遠慮があるもの。でも彼女は違うわ」
 真剣な口調で諭すように畳みかけられると、反論する台詞が見つからなかった。ウィニーのいうことはもっともだからだ。わざとそうしているつもりはないが、人気の高いウィロビー伯爵と一緒にいることは多いし、嫉妬を買うのも無理はないと思う。ウィニーは過剰に心配をしていると思わないでもないが、この場は素直に、親友からの忠告を受けておく方がいいと判断し、ソフィアはこくりと頷いた。

「――わかったわ。気をつけるようにする」
 ほっとした様子で、ウィニーが抱きついてくるのを、ソフィアは黙って受け入れた。親友からは温かな熱が伝わってきて、心地よかった。このところ、グレースを抱きしめる暇もない。連日連夜、華やかな表向きの交流会ばかりで、人と人との触れ合いなんて、久しくしていない気がする。
「わたくしは何があってもあなたの味方だから、忘れないで?気になることがあれば、すぐに相談するのよ?」
 間近で目を合わせ、ウィニーが熱心に囁いた。ソフィアが頷くと、彼女は更に抱きつく腕に力をこめた。
「今は言えないことでも、いずれ話してくれるわね?」
「――ええ、そのときがきたら」
 躊躇いはあったものの、ソフィアは否定を口にはしなかった。ウィニーがここに連れ出した理由が、ブラッドにあると悟ったからだ。表面上はそ知らぬ顔をしていても、彼が女性を伴って現れただけで情けないほど動揺してしまったのを、ウィニーには見抜かれていたのだ。

 驚きはなかった。やはり、と納得しただけだった。勘の鋭い彼女が、ソフィアとブラッドの間にあるわだかまりに、気づかないはずはない。中身までは知らなくとも、「何かがある」とは感づくはずだ。
 今すぐに全てを話すことはできないけれど、いつか時期がきたら、その時は。この親友にだけは、打ち明け話をしよう。
 少女時代から変わらぬ友情を示してくれる親友を抱きしめ返しながら、ソフィアは、心を許せる存在がある幸せを、ひしひしと噛みしめた。


 あのままホールには戻らず、ウィニーの勧めに従って、ソフィアは西翼の自室へと引き取った。家族用談話室にメイドを呼びつけ、ソフィアの部屋まで付き添うよう言いつけて、ウィニーは屈託ない笑顔を見せた。
「大丈夫よ、皆にはわたくしからうまく言っておくから、あなたはこのまま休みなさいな。本当に顔色がよくないわよ」

 彼女の言葉に甘えて、ソフィアは大人しく自室へ戻ることにした。
 部屋に帰った時には、グレースは既に眠っており、小部屋を覗き込んで、寝顔を眺めることしかできなかった。日中はバリー伯爵家の乳母に、朝晩はアリスに任せてあるから心配なく社交の催しに参加できるのだが、もっと頻繁に会話をし、子供らしいふっくらした身体を抱きしめる機会を増やそうと、固く決意した。
 子育てに専念し、領地経営に心を砕かねばならないうちは、社交界と距離を置いて正解だ。ヨークシャーに戻っても毎日毎晩この調子で踊りまわっていては、何もできないに違いない。

 アリスに手伝ってもらってドレスを片付け、ナイトドレスに着替えたソフィアは、さっさとベッドに入った。ウィニーに言われるまでもなく、身体は休息を欲しがっていた。枕に頭をつけた途端、深い眠りに引きずり込まれていった。
 夢は時に、忘れたい過去の記憶を呼び覚ます。どれほど深く封印し、日頃は綺麗さっぱり消去したつもりになっていても、思いがけないきっかけで、昔の映像が再現されることがある。本人の意思に関係なく、残酷なまでに忠実に、現実を再現させるのだ。

 いつの間にかソフィアは、見覚えのある屋敷の中を歩いていた。
 幼い頃から何度も訪れたことのある、馴染みのあるこの屋敷は、スタンレー子爵家のタウンハウスだ。グロヴナー・スクエアに程近いロンドン中心部の高級住宅地にひっそりと佇む屋敷は、こじんまりとはしていたが、子爵家代々に受け継がれてきた伝統のある落ち着いた邸宅である。

 きちんと磨きこまれた手すりに手を滑らせながら、ゆっくりと階段を下りて玄関ホールへ向かう。ホール上部の道路側に設けられた窓からは、午前の光がやさしく差し込んでいたが、ハンプシャーの明るい太陽の日差しとは違って、室内がやけに灰色に染まって見えた。
 玄関ホールでソフィアを待ち受けるトーマス・ダグラス卿と、エミリー大叔母の顔にも、疲労の色が濃く跡を残している。ソフィア自身、先ほど部屋で冷たい水で洗顔したのだが、頭がどんよりと重く、瞼も腫れぼったい気がした。
「男爵と父は、もう既に書斎でお待ちかねだよ」
 君の準備は大丈夫かい、とトムの眼差しが尋ねてきている。ソフィアはこくりと頷き返したものの、心配そうに大叔母をちらりと見た。
 その様子を見守っていたエミリー大叔母は、手にした扇をピシリと打ち鳴らし、顎をそびやかした。
「わたくしのことなら心配は無用ですよ、ソフィア。確かに疲れてはいるけれど、あと少し、甥っ子の話を聞くぐらいなら、しゃんとしてられますからね。とにかくあの子の申し開きを聞いてからでないと、落ち着いて眠ってなどいられませんよ」
 ぴしゃりと言い切る大叔母の気丈さに、大いに慰められて、ソフィアはトムとこっそり笑みを交わした。3人が3人とも、泥のように疲れていた。17歳のソフィアでさえ、疲労困憊なのだから、エミリー大叔母はどれほど疲れているだろう。正直、早くベッドに潜りこみたいところだ。だが、大叔母のように勇敢に立ち向かわなければならない。

 ハンプシャーから慌てて舞い戻り、スタンレー子爵家に到着したのは、つい先ほどだ。一旦部屋に引き取って旅装を解き、旅の埃を簡単に拭って、休む間もなく階下へ下りてきたのだ。座席のスプリングが効いているとはいえ、疾走する馬車の中で夜を明かすのは、苦痛の時間だった。ロンドンとハンプシャーを夜を徹して往復したブラッドやトムを、ソフィアは素直に尊敬する。
 馬車の中で、父の状況についてトムから更に情報を引き出そうと試みたが、彼も、最初に語ったこと以上は口を割らなかった。アトレー男爵と実際に会って話をしたのは、スタンレー子爵だけだということだし、真相はロンドンについて男爵本人に会うまではわからない。その一念で駆け戻ってきたから、大叔母が「ここで引き下がれない」というのも当然だった。
 トムが先頭に立ち、エミリー大叔母、ソフィアと続いて、玄関ホールから1階の書斎へと移動する間、3人を沈黙が取り巻いていた。馬車の中でずっと付きまとっていた、息詰まるような沈黙だ。やがて見覚えのある扉の前に立ち、トムが最終確認をするようにソフィアに目で合図を送ったときも、重々しい空気に負けて、ソフィアは無言で頷くしかできなかった。

 ノックをして扉を開け、子爵の書斎へ足を踏み入れると、2人の男性が待ち受けていた。
 室内はオーク材がふんだんに使用され、壮年の男性に相応しい落ち着いた雰囲気を醸し出している。窓際には重厚な紫檀の机が置かれ、びっしりと本が詰まった書棚が片側の壁を覆っている。他に、くつろいで読書ができるようにとの配慮か、暖炉の前には安楽椅子が、来客にも対応できるよう入り口に近いところには応接セットが置かれている。
 暖炉にはオレンジ色の炎が踊り、温かな光を部屋中に投げかけているのだが、2人の男性の顔色は、どちらもくすんで見えた。

「やあ、母上、ソフィア。せっかく楽しんでいたところだったのに呼び戻したりして、すまなかったね」
 穏やかに声をかけてくるのは、応接セットのソファから立ち上がった中年の紳士だ。いつもなら母親そっくりに明るい光を宿している双眸が、疲れのためか赤く充血している。片眼鏡をかけたお洒落なスタンレー子爵は、母親とソフィアの元に歩み寄り、温かく出迎えた。母親同様、ソフィアを幼い頃から可愛がってくれている気心の知れた従兄伯父は、実の父親よりもよほど、近い存在だ。ソフィアも、口元に微笑みの欠片を浮かべて挨拶を返した。
「トムも、ご苦労だったな」
「いえ。それよりも父上、状況はどうなっているのですか?」
 息子と握手を交わしてから、子爵は難しい顔をして、ソファに座ったままの男性を振り返った。彼は先ほどからひと言も発さずに、目の前で繰り広げられる光景を眺めている。

 痩せ型だがそれほど身長が高くない子爵とは異なり、同じ痩身でも、座ったままでも長身であることがうかがえる男性は、頬がこけてはいるものの、神経質そうな眼差しで、じろりとソフィアを検分するように眺めている。
 久しぶりに逢った父親だというのに、その酷薄な視線に、ソフィアの足は竦んだ。物心ついた頃から、親子らしい触れ合いをした記憶がない相手だが、客観的に商品を点検するような目で見られれば、まごつくというものだ。

 早くに亡くなった母親にそっくりといわれるソフィアには、父親と似通ったところはほとんどなかった。彼の金髪は娘とは似ても似つかない薄い色で、瞳の色もありふれた茶色で、顔立ちも異なるときている。ソフィアがすらりとした体型であるのが、唯一似ているといえるところだが、男爵の身体は痩せぎすで、顔色は不健康そうに見える。
 暫く逢わない間に、男爵の髪に幾筋かの白いものが混ざり、眼窩は窪んで、すっかり老け込んでしまった。このところ眠れていないのだろう、下瞼にはくっきりと黒い隈が浮かんでいる。元から不健康だった顔色は、すっかり血の気を失い、青白さをたたえている。
 街で出逢っても、誰ともわからずに通り過ぎてしまいそうな変わりようだった。たった一晩で、住居も財産もなくし、巨大な負債を背負った衝撃が、どれほど大きかったかが窺い知れる。親子らしい情が薄いソフィアでさえ、父親の変貌振りに声を失ったけれど、それはエミリー大叔母も、トムも同様だった。

「事態はあまり芳しくないのだ、トム。手は尽くしているのだが、どうにも八方塞がりでね・・・・・・」
 スタンレー子爵シェイマス・ダグラスは、助けを求めるように従弟を見たが、アトレー男爵は彫像のようにソファに座ったままだ。仕方ないというようにため息を吐いて、子爵は3人にソファへかけるように勧めると、自分も従弟の隣へ腰を下ろした。
 固まった足を無理やり動かして、父の正面に座ったソフィアは、落ち窪んだ眼窩の中から飢えた獣のように鋭い光を放つ眼差しを避けるように、膝の上で握り締めた両手へと視線を落とした。

 黙って俯くソフィアの隣で、エミリー大叔母が持ち前の気丈さを発揮して、昂然と顔を上げ、物言わぬ甥を睥睨した。その向こうに座るトムが、思わず首を横に振ったほど、鬼気迫るような迫力があった。
「八方塞がりとは、どういうことですか、ジョン。領地だけでなく、家屋敷まで全て手放すことになるなんて・・・・・・一族の恥もいいところですよ」
 口振りは荒げないまでも、声には十分な凄みがあった。横にいるソフィアが、両手に力を込めなければ身体を震わせてしまうほど、糾弾の言葉には厳しさがあった。これまでにも失態の多い甥に、苛立ちを覚えてきたエミリー大叔母が、本人を前にはっきりと叱責するのは、これが初めてだった。
「まぁまぁ、母上・・・・・・ジョンも奔走しているのですよ」
 母親を宥めるべく、子爵が重苦しい間を破った。自分自身が責められているかのように、子爵の額には汗が光っている。表情ひとつも変えようとしない甥から、息子へと視線を移し、エミリー大叔母はじろりとひと睨みした。
「どういうことなのです、シェイマス」
「今回は相手が悪かった。ジョンが投資した事業を運営していたのは、大陸の貴族だという男だったのだが、どうも怪しくてね。なかなか利益が出ないと言って、ジョンに度重なる出資を迫った影で、上がった利益は全部自分の懐に入れていたんですよ。ジョンに渡された帳簿は偽物だったわけでね。まあ、平たく言えば、利益を持ち逃げされ、あらゆる請求や負債は、共同名義人だったジョン1人に残されたわけです。警察やボウ・ストリートの治安判事を頼ったけれど、ヤツは既にポーツマスから船で出航していましたよ」
 言い終わると、子爵は肩を落としてため息をついた。エミリー大叔母はわなわなと震え、手にした扇をピシリと鳴らしてから、目の前の2人の成人男性に猛然と噛みついた。

「何たる情けなさ!慣れないことに手を出すから、いいように手玉に取られるのですよ。それで、負債を返す見通しはつかないのですか?早く綺麗にしないと、このままでは悪い噂が立ちますよ。そうしたらソフィアの将来にだって、トムの将来にだって、影響が出ます」
「それが母上、タウンハウスを売り払ったぐらいでは、たいした額にならなかったのです」
 スタンレー子爵が母親の顔色を窺いながら、とても言い難そうに説明した。アトレー男爵が所持していたロンドンのタウンハウスは手狭で、中古物件な上、立地も一等地とはいえない。弱ったところを叩き売りのように持っていかれたということは、ソフィアにも容易に想像がついた。
「では、どうすればいいというのです!」
「我が子爵家だけでは肩代わりできる金額ではありません」
 子爵の口から出た数字を耳にするや、大叔母はふらりとソファの背もたれに倒れかかった。ソフィアが慌てて両側から抱え、肩をさすって、しっかりするよう呼びかける。
「大叔母さま!」
「おばあ様!」
 席を立ったトムが、手早くブランデーをグラスについで戻り、祖母に含ませた。アルコールが効いたのか、エミリー大叔母はソフィアの手を借りて座りなおすと、気丈に背中をしゃんと伸ばして、息子を見つめた。

「――シェイマス」
「わかっています、母上。弁護士にも相談し、手を打てるだけは打ちました。ですが、ロンドンのこの屋敷かサマセットの領地を抵当に入れるなりしないと、とてもじゃないがそんな大金は用立てできません」
 子爵は苦しげに首を左右に振った。子爵家の資産を抵当に入れれば、今度は子爵家の事業が危ういと噂され、信用度が落ちる。下手をすれば子爵家も共倒れになる可能性だってある。いくら従弟を救うためとはいえ、そこまでの決断を下せないというのが、子爵の本音だろう。ソフィアにも簡単に見当がついた。

 全ては父が引き起こした不始末だ。シェイマス伯父やトムにまで、過剰な負担を強いるわけにはいかない。
 ぎゅっと唇を引き結んだとき、それまで沈黙を通していたアトレー男爵ジョン・エルディングが、不意に口を開いた。
「金を用立てる手段はある」
「ジョン、それは――!」
 ぎょっとした子爵が、それ以上を言わせまいと大きな声を上げたけれど、無駄だった。冴えない顔色の中で異様な光を放つ双眸が、正面のソフィアを無感動に見据える。声も、実の娘に語りかけているとは思えない、無表情なものだった。それが、淡々とソフィアに思いがけない将来を宣告する。

「リンズウッド伯爵が、お前を後妻にと望んでいる。どこぞの夜会でお前を見かけて、気に入ったのだそうだ。伯爵家は北方イングランドでも有数の資産家だ。我が家の窮状を知っても、無担保無利子で援助すると申し出て下さった。ソフィア、お前とて伯爵夫人になれば、称号も贅沢も手に入る。願ってもない話だ」
 死刑を宣告された犯罪者であっても、この時のソフィアほどには衝撃を受けないだろう。
 呆然と、ソフィアは父親を見返した。頭の中は真っ白で、父の告げた言葉の意味が、さっぱりわからなかった。予想外の事態に、ソフィアの心身は、麻痺しきって何の反応も示せなかった。

 代わりに、顔を真っ赤にして猛然と抗議したのは、エミリー大叔母だった。
「何をいっているのです、ジョン!ふざけたことをいうのも大概になさい!リンズウッド伯爵といえば、わたくしよりも年上の、白髪頭の年寄りではないですか・・・!ソフィアと幾つ年が違うと思っているのです。祖父と孫娘といった方がいいくらいですよ!」
「年齢差のある夫婦など、今の世の中、珍しくもないでしょう。それに、白髪頭とは淑女の物言いではないですね、叔母上」
 嘲笑を含んで静かに言い返され、あまりの屈辱に言葉を失ったエミリー大叔母の代わりに、トムが身を乗り出した。
「まさか、もう返事をしてしまったのではないでしょうね?」
「正式にはまだだが、内々に承諾の返事はしてある。明日、伯爵がこちらへ出向いてくるから、その時に正式に婚約の手続きについて話し合う予定だ」
 商売の取引でもしているかのような、酷薄な物言いに、エミリー大叔母は肩を震わせた。
「お前は、何ということを・・・・・・!娘の幸せを考えたことなどないのでしょう。ソフィアは社交界に出たばかり。結婚を申し込まれるのもこれからだというのに・・・」
 実の叔母の、涙を堪えての訴えを、アトレー男爵は一笑に付した。

「叔母上も、ロマンチストでいらっしゃる。娘の幸せを考えての決断ですよ。伯爵夫人として尊敬を受け、金の心配をしないでいい暮らしを楽しめる。願ってもない良縁ではありませんか。娘も幸せになり、私も借金取りに悩まされずに済み、子爵家にも迷惑をかけずに済む。万事全てがおさまるのですよ」
 微笑すら浮かべて言い切る男爵を、ソフィアはぼんやりと見つめた。血の繋がった父親であるはずの男性に対して、何の感情も沸いてこないのだ。
 この人は、一人娘の幸せについてなど、これまで1度も考えたことがなかったはずだ。扶育する費用がかかる娘の存在を疎ましく思い、目につかない遠い場所へと、追いやってきたのだから。金のかかる厄介者だとしか、認識していなかったに違いない。
 今だって、莫大な援助と交換できる金の卵程度にしか、思っていないだろう。食事とて同じ部屋で取ったことはなく、一緒に外出した記憶もなく、父の膝に乗ってあやしてもらったこととてない。生れ落ちてからは、身体が弱かった母親と、親切な乳母が、手塩にかけてソフィアを育ててくれたのだ。父の腕に抱かれ、肌が触れ合った思い出なんて、ひとつもない。
 それなのに、よくもまあ図々しく、娘の幸せを考えたなどといえるものだ。 空っぽだった胸に、突然可笑しさがこみ上げてきた。爆発するように膨らんでいくそれを制御するには、この時のソフィアはあまりにも疲れていて、あまりにも衝撃を受けていた。

 唐突にクスクスと笑い出したソフィアを、子爵もトムもエミリー大叔母も、ぎょっとしたように見つめた。男爵だけが表情ひとつ変えぬまま、冷たく娘を見下ろしている。
「――三文芝居を観ているような気分だわ」
 顔を上げ、父親を真正面から見つめるソフィアは、引きつった笑いを浮かべながら、初めて直に言葉をかけた。眉一つ動かさない、冷たく固まったマスクのような男爵の顔を、これまで生きてきた中で、初めてじっくりと眺めている。親子だというのに、父の顔すらきちんと見たことがないという事実が、滑稽極まりなかった。
「娘の幸せだなんて、よく言えるものだわ。娘の存在なんて、最近まで忘れていたのでしょうに。お父様、あなたはお金が欲しいだけなのでしょう?わたくしのためだなんて、綺麗事は御免だわ。これまで一度だって気にしたことがない娘を、こういうときだけ口実にしないでちょうだい」
「ソフィア」
 スタンレー子爵が控えるようにと目配せを送ってきたが、一旦堰を切って溢れ出したものは、次々に零れ落ちてきて止まらなかった。いつしか口元に貼りついていた歪んだ笑みは消え、代わりに、灰青色の瞳には、熱いものがこみ上げてきていた。

 これまで、父に何かを訴えたことはない。生まれて初めて、ソフィアは生々しい感情をぶつけていた。
「わたくしはモノではないわ。人間です。心だってあります。一生を添い遂げる人は、自分で見つけるわ!」
 悲鳴のようなソフィアの訴えに、ダグラス家の3人は、凍りついたようにその場に固まった。いつも聞き分けがよく、親に構ってもらえないことを寂しがることもなく、笑顔を絶やさない少女――それが、彼らがよく知るソフィア・エルディングだった。彼女の望みをかなえる手段を持たないことを、3人はそれぞれ激しく悔やんだ。

 それまで身動き一つしなかった男爵が席を立ち上がり、つかつかとソフィアの前に歩いてきて、真上から変わらぬ冷たい声で尋ねた。
「お前の言いたいことはそれだけか?」
 キッと睨むように父親を見上げたソフィアの頬で、乾いた音が鳴った。勢いで倒れこんだソフィアを、エミリー大叔母が支えた。気丈な彼女も、すっかり顔色を失っている。
「ソフィア!ジョン、何ということを!」
「これまで育てた恩を忘れて、随分な物言いだな、ソフィア」
 胸を凍らせるような、ひやりとした声が、ソフィアの高揚した神経をざらりと撫でた。大叔母の腕に抱えられながら、眼差しだけは気強く睨み返す。先ほどの衝撃で涙が溢れていたが、構ってなどいられなかった。冷え冷えとした眼光が、無情な夜空の月のように、ソフィアの進むべき道を身勝手に照らそうとしているのだ。

「娘は父親の監督下に置かれていることを忘れるのは、感心しないな。法的にも、父親である私が、お前をどうするかを決定できるのだ。警察も治安判事も、それをどうこうできる権利はない」
 思いやりの欠片もない言葉が、ソフィアが必死に保っている虚勢を粉々に打ち砕こうとしている。確かに、娘を保護するのは父親の役目であり、保護下にある娘の処遇について、絶対的な決定権を持っている。スタンレー子爵やエミリー大叔母が、強引にソフィアを引き取ることができないのも、父親であるアトレー男爵が健在で、娘に対する権利を放棄していないからだ。

 歯を食いしばって必死に持ちこたえながら、ソフィアは憎しみを込めて男爵を見上げた。視界を霞ませる涙を、顔を振って飛ばし、残酷に宣告を下す男を、全身全霊を込めて憎むことが、今ソフィアにできる全てだった。
 氷の刃が、雪のように降り注ぎ、ソフィアの矜持すら切り刻む。

「お前が私に逆らえるのは、誰かと結婚し、夫の保護下に置かれたときだけだ。私から逃れたければ、夫を持つしかあるまい」
 それまで無表情だった男爵の頬に、微かに笑いのようなものが浮かぶ。ソフィアの全身が、屈辱に震えた。
「忘れたわけではなかろう、ソフィア?お前にも、アトレー男爵家の娘としての役割があるのだ。これまで育ててやった恩返しに、家のために役立っても罰は当たるまい?お前とて、実の父親を路頭に迷わせたいわけではなかろう?」

 宣告は下された。未来へ向かって紡いでいた糸は、無残に絶たれてしまった。不思議と涙は止まり、ソフィアはぐったりと力が抜けた身体を、大叔母が抱きしめるままに任せた。何の感慨も沸いてこなかった。全身を嵐のように支配していた憎しみすら、不意にどこかへ消え失せてしまった。
 ソフィアをぎゅっと抱え込むエミリー大叔母が、耐え切れずに嗚咽を漏らす。彼女の頬を伝う涙が、ぽとぽととソフィアの顔へ零れて落ちた。
「かわいそうなソフィア・・・・・・かわいそうに・・・・・・」
「人聞きが悪いではありませんか、叔母上。リンズウッド伯爵は、ヨークシャーでも紳士として通っている方ですよ」
 女の涙をくだらないものと見下しきって、男爵が冷ややかに呟く台詞も、ソフィアの耳には入ってこなかった。父の操り人形として、見知らぬ老人のもとへ嫁がされる。無残な現実が、若く溌剌としたソフィアの精神を、麻痺させるほどに打ちのめしていた。

 このまま心を凍らせ、何も感じないようにすれば、どこへいってもやっていけるかもしれない。心の隅で、ひそやかに囁く声がある。それもいいかもしれない、と、ぼんやりとソフィアは思った。ブラッドとは2度と逢えないだろう。隙を見て屋敷を抜け出し、逢いに行こうにも、彼は英国を離れている。
 それに、明日伯爵と正式に婚約の話がまとまれば、新聞に結婚広告を出すのも時間の問題だ。世間も、ソフィアをリンズウッド伯爵の婚約者として扱うようになる。広告がレディ・アイリーンや、バリー伯爵の目に留まれば、やがてブラッド本人にも伝わるだろう。
 ブラッドと2度と逢えないかもしれないという予感は、的中したのだ。大叔母の嗚咽を遠くに聞きながら、ソフィアは、真っ青な眼差しを思い浮かべた。望むのはソフィアだけだと言ってくれたあの人には、応えられればどんなに良かったか。彼の温もりは、絶対に手の届かない遠くへと押しやられてしまった。
 何事かを言い募る大叔母や子爵の声は、届いてはいるものの、もはや何を言っているのかまで明瞭には聞き取れなかった。すっかり疲れてしまった。目を閉じながら、ブラッドを想って泣ける場所は、どこにあるだろうかと思ったのが、最後だった。

 そこでぷつりと記憶は途絶え、ソフィアは泣きながら目を覚ました。

 枕がしっとりと濡れている。室内は薄暗く、夜明けはまだ遠い。一瞬どこにいるかわからず、視線を彷徨わせたが、すぐにここがゴールド・マナーであることに気づいた。
 仰向けにベッドに横たわり、両手で涙を払ってから、顔を覆った。久しぶりに見た過去の名残は、生々しく全身にまとわりついていた。大きく息をつき、深呼吸を繰り返すうちに、速くなっていた胸の鼓動も、落ち着きを取り戻していった。
 両手を顔から外し、身体の脇にぱたりと落として、ベッドの天蓋を見上げた。エミリー大叔母に抱きしめられた感触が、まだ身体に残っているような気がする。たった5年ほど前の出来事なのに、随分と遠い昔のことのような気がするのは、5年の歳月が、怒涛のように目まぐるしいものだったからだろうか。

 結局あの翌日、スタンレー子爵家を訪れたリンズウッド伯爵ドミニク・ポートマンと、ソフィアは正式に婚約した。大叔母が指摘した通り、伯爵とは祖父と孫娘といっていい年齢差だった。髪も髭もすっかり白くなった彼は、男爵と取引をしたとは思えないほど、年若いソフィアに優しく、細やかないたわりを見せた。
 すぐに結婚広告が新聞に告知され、周囲の祝福を避けるように、慌しくソフィアはヨークシャーへと旅立った。男爵の負債は秘密裏に迅速に処理され、手放した屋敷の代わりに、伯爵は義理の父親へ新しいテラスハウスを買い与えた。
 花嫁に手違いがないように、男爵はソフィアに監視をつけた。それをかいくぐってブラッドに連絡を取るのは不可能で、幾度も書きかけた手紙は、結局手渡されることがないまま、暖炉にくべられた。

 彼への想いを凍らせたまま、ソフィアはヨークシャーへ去り、老伯爵の花嫁となった。アトレー男爵は結婚式に出席した後、早々にロンドンへ戻ったが、ソフィアは連絡を取り続けることをしなかった。伯爵家の弁護士を通して、男爵へは花嫁の父親に相応しい暮らしをしていけるだけの年金が支払われているから、互いに干渉する必要はなかったのだ。
 伯爵の保護下に置かれて、ソフィアは少しずつ、呼吸することを取り戻した。心の奥底を凍らせたままではあったけれど、穏やかな生活を送るうちに、徐々に伯爵夫人らしい振る舞いを身につけていった。

 決して溶けることがないというアルプスの頂に積もる雪のように、眠らせた想いも、2度と目覚めることはないと思っていたのに。

 あのサファイアの輝きが、これほどあっけなく氷を溶かしてしまうなんて。
 途方に暮れて、ソフィアは長い長いため息を吐いた。過去の哀しい夢を見たのも、きっと、ブラッドがミス・テイラーをエスコートする様子を見てしまったからだ。未亡人という縛りのある自分と違って、独身の彼は、誰かと幸せになる権利はあるというのに。
 理屈と感情は違うのだと、つくづく思い知らされる。伯爵夫人に相応しい振る舞いをしなければならないのに、感情は反発し、ソフィアを突き動かそうとする。
「どうすればいいのかしら」
 力なく発した呟きは、薄暗い室内に漂い、頼りなく消えていった。

 何とか平静に社交をこなし、招いてくれたバリー伯爵夫妻に対し、失礼にならない程度に滞在したら、さっさとヨークシャーに戻るのが一番良さそうだ。そうして平穏な田舎の暮らしに立ち戻り、グレースを育てながら暮らそう。リンズウッド伯爵位は直に、亡き夫の甥であるデイヴィーが継承するから、そうすればソフィアの肩の荷も楽になる。
 逃げであるとわかってはいたが、これ以上、ブラッドが誰かと恋に落ちていく様子を見守ることなどできそうになかった。ソフィア自身に注がれるのは、ナイフのように鋭く冷たい眼差しだというのに、それを浴びながら彼の恋の成就を見守るなんて、絶対に無理だ。
 この館のあちこちに、まだ過去の2人が彷徨い、記憶を生々しく呼び覚まそうと、ただでさえ働きかけてくるというのに。あの木立も、この芝生も、2人寄り添って語り合った場所だ。
 ヨークシャーの荒れ野で、吹きすさぶ風に身を晒したら、もう1度この想いを凍らせることはできるだろうか。これからの長い年月を1人きりで生きていくためには、灼熱のような恋情は、必要ない。
 この想いを捨て去ることができれば、どんなに楽だろう。できないとわかっているからこそ、苦しいのだ。このまま安らかに眠ることなど、とてもできそうにない。夜明けの足音は、まだ当分聞こえそうになかった。

2009/05/01up

時のかけら2009 藤 ともみ

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