第3章 追憶の館[6]

   ハウスパーティーが始まって10日も過ぎると、大抵は客人も軽く飽きてくるものだが、ゴールド・マナーのパーティーの場合は、事情が違う。

 社交界屈指のもてなし上手というバリー伯爵夫妻は、細やかな心配りをして退屈しないよう趣向を凝らすし、料理も素晴らしい。館を包む森にはたっぷりと動物がいるから、狩猟好きは戸外に出かけたがる。狩猟に参加せずとも、豊かな自然に触れてのんびりする客人もいる。ホストと素晴らしい立地に恵まれ、ゴールド・マナーに滞在する客人は、思い思いにカントリーハウス暮らしを満喫している。

 その一方で、日々を怠惰に過ごし、社交に明け暮れる生活が性に合わないという者も出てくる。特権階級らしく、働くことをせず、社交に精を出すのがステータスだという貴族像が、時代遅れだと見抜いている者たち――世の中の流れに取り残されず、職業人たちと対等にやり合って、生き残りを図る紳士たちだ。

 ベッキーにいわせれば、「生真面目すぎるから手抜きをしない」バリー伯爵アーサーと、その弟のブラッド、彼らの親友であるウィルが、そういった貴族の「新人種」である。他の貴族に比べれば資産状態が健全な彼らも、ずっと仕事から離れているわけにはいかない。
 更にそこに、ウィニー曰く「末期の仕事中毒患者」ケヴィン・ヒューイットが加わっているから、ゴールド・マナーに届くビジネス関連の書簡の量は、一気に増大した。

 特にヒューイットは、アメリカ東海岸では王族に近いような権力を持つ一族の出身だが、元々職業人だ。優雅に遊ぶだけの毎日に我慢ならないのが正直なところで、今回の滞在にあたっても、秘書が選別し、ヒューイットが目を通した方が良い書類を全てハンプシャーに転送するよう、指示している。ヒューイット家が関係する事業の多くを、一族きってのやり手と言われる彼が仕切っているので、その量は膨大だ。彼はアーサーの了解を得、早朝や深夜に、アーサーの個人用書斎を借りて仕事をすることがあった。
 ヒューズ兄弟とウィルの事業も、今では多くがヒューイットと提携をしている。その上、仕事だけではなく、プライベートでも何かと気が合い友人付き合いを続けている4人は、この滞在を有意義に活用することにしていた。

 アーサーはホストという役目があるから、最低限催しに参加し、客人たちと談笑してからになってしまうが、彼らはしばしば書斎に集まり、様々な議論を戦わせていた。仕事に関することから、哲学や経済、狩猟にいたるまで、実に多くの話題が持ち出された。
 普段は別々の家に起居しているのが、1つ屋根の下で顔を突き合わせるのだ。これを有効活用しない手はない。
 そのため、時間が空けば彼らはいつでも、集まってきて、意見交換に熱中した。

「失礼いたします、ウィロビー伯爵。フォード伯爵とミスター・ヒューイットが、書斎にてお待ちです。お越しいただけますでしょうか?」
 執事の老マクレガーがウィルに声をかけてきたのは、パーティーの初日から10日ほど経過した午後。音楽会に出席するため、ソフィアをホールへとエスコートしている時だった。

 ソフィアに「失礼」と断ってからウィルが振り返ると、バリー伯爵家の老執事が直立不動で佇んでいる。感情を綺麗にしまいこんでいる彼にしては珍しく、申し訳なさが全身に漂っていて、ウィルは仕方ないなぁと苦笑した。忠実な老マクレガーは悪くない。ウィルを呼びたてているのは、友人たちなのだから。
「ブラッドとケヴィンが呼んでいるんだね?」
「はい。お待ちになっていた書類が、先ほど届きましたので、すぐにも意見を伺いたいと仰っています」
「なるほど・・・・・・。では彼らは音楽会には欠席か」
「はい」
 確かにある書類を待っていた。心当たりがあるから、ウィルは小さくため息をついた。ソフィアと過ごす午後は魅力的だが、重要な案件に関する資料を即刻確かめたいという思いが疼きだす。

 彼らはこれからの世界を大きく変えるのは、輸送力だと見定めている。実際、英国でも蒸気機関車が走り始めてから、飛躍的に産業が成長し始めた。人と物を大量に運び、遠距離をものともせずに各地を結ぶ鉄道は、従来の経済システムにおける常識を、破壊してしまった。
 大規模な工場で鉄を利用して生産する汽車や大型船が、今後の核になる。そのため、英国北東部を起点に発達し始めた鉄道業に、本格的に参入しようと、彼らは手を尽くしていたのだ。
 ヒューイットはアメリカにおける重工業にも投資し、成功しているから、手を組むことで英米両国で収益を上げる道が広がる。

 憧れの女性と過ごす午後のひとときと、盟友たちとの商談を、天秤にかけて暫し悩むウィルに、それまで遠慮して控えていたソフィアが近寄り、見上げた。
「ウィロビー伯爵、わたくしに遠慮なさらないで。大切なお話なのでしょう?」
「レディ・ソフィア、お言葉はありがたいのだが・・・・・・」
 微笑みと共に言葉をもらって、ウィルは困惑した。彼女の気遣いは嬉しいのだが、ここでソフィアを放り出すわけにはいかない。エスコートがないまま音楽会へ送り出すのは、紳士としての礼儀に反する――という問題よりも、更に重い問題があるのだ。ソフィアを決して1人にしないこと。ミセス・ヒューイットと交わした約束事を、反故にするわけにはいかない。彼女の烈火のような怒りを浴びたくはないし、ソフィアを守ってやりたいという気持ちは、彼女に劣らないのだ。

 廊下で立ち止まっている2人の側を、他の客人がどんどん通り過ぎていく。老執事は控え目に佇み、ウィロビー伯爵の指示をひっそりと待っている。
 このままこうしているわけにはいかない。ため息をつきかけたウィルは、視界の端に見知った人物を捉えて、表情を明るくした。
「ハガード大尉!」
「これはウィロビー伯爵。何か問題ごとでも?」

 ホールへ向かう足を止め、にこやかに歩み寄ってきたのは、実直な人柄を誰もが認めているポール・ハガード大尉だ。礼儀正しくソフィアにも挨拶をしてから、ウィルに向き直る。軍人らしくがっしりした体格の彼は、ウィルを少し見下ろす格好だ。
「どうかなさったのですか?」
「君ひとりなのか?ミス・ウェルズは?」
 このところしょっちゅう一緒にいる赤毛の娘が、近くに見当たらない。不審に思って尋ねると、大尉はすぐに答えを教えてくれた。
「ミス・ウェルズは、音楽会にはグレシャム卿と一緒に行くことになっているんです。だから私はひとりなんですよ」
「そうか。それなら――」
 ウィルはソフィアをちらりと一瞥して、大尉に事情を説明した。滅多な男にソフィアを任せられないが、大尉なら信頼できる。人の良い大尉は、すぐに首肯した。
「お安い御用です。レディ・ソフィアをエスコートすればよろしいのですね?光栄な役目を譲っていただいて、素晴らしい午後になりそうです」
 その言葉通り、大尉は頬を上気させて、ソフィアに慇懃な礼を送った。ウィルと顔を見合わせて、小首を傾げてから、ソフィアは大尉が差し出した腕をそっと取った。
「よろしくお願いしますわ、ハガード大尉」
「この埋め合わせは必ずします、レディ・ソフィア。すまないな、大尉」

 残念そうに頭を振って、ウィルは老マクレガーと共に立ち去った。ハガード大尉はソフィアをリードして、ホールへ向かって歩き出す。音楽会へ参加する他の客は、あらかたホールへ行ってしまったらしく、廊下はひっそりとしている。
「本当によろしかったのですか?あなたが一緒にいて欲しいと言いさえずれば、伯爵は書斎には行かなかったと思いますよ」
 ウィルとソフィアを巡る噂は、大尉の耳にも入っている。誰が聞いているわけでもないが、声を潜めて尋ねると、ソフィアは目を瞠った。
「わたくしも事業を手伝ったりしていますから、仕事の重要さは解っておりますわ。ですから全く気にしていませんよ。それよりも大尉、是非お聞きしなくてはならないことがあるのですけれど」
 不意に悪戯っぽい光をたたえて、ソフィアは大尉を見上げた。
「何でしょう?」
「わたくしの大切な友人についてです。アンのことをどう思ってらっしゃるのか、本音を聞かせていただけませんか?わたくし、これでも一応彼女の後見人をしておりますから」

 内気な赤毛の娘のことを持ち出され、大尉は言葉に詰まって、視線を泳がせた。アンの父と知己の仲、という以上に、彼は親身にアンの世話を焼いている。甲斐甲斐しく気を配る大尉を、アンははにかみながらも受け入れているように見える。ウィルやヒューイットほど会話が上手くなく、実直な大尉と、気立ての良いアンがどういう関係にあるのか、実はソフィアだけでなく、ウィニーやベッキーも興味深く見守っているのだ。
「私は――」
「レディ・リンズウッド」

 顔を赤らめながら何かを言いかけた大尉を遮ったのは、ホールの入り口近くで壁にもたれている1人の紳士だった。がっしりした体型は、服を着ていてもはっきりと見て取れる。撫で付けた金髪を整髪料で整えて、紳士の流行に遅れないようにしているが、無骨な身体つきは狩人そのものだ。よく日に焼けた顔に、歪んだ笑みを浮かべて、ソフィアをじっと見つめている。

 獲物を狩る肉食獣の眼差しに、本能的に身が竦み、ソフィアは思わず足を止めた。ふらりとこちらへ近づいてくる彼は、このハウスパーティー中、何かとソフィアに話しかけてくるから、名前はすっかり覚えてしまった。
「ウィッカム男爵・・・・・・」

 ウィッカム男爵フレデリック・ハーストは、ソフィアを守るように立つハガード大尉を、じろりと睨みつけて、「そこをどけ」と顎をしゃくった。傲慢な態度に大尉も怒りを覚えたが、身分上は爵位を持つウィッカムの方が、目上にあたる。逆らうわけにはいかず、渋々と脇にどいた。
 満足そうに笑って、ウィッカムはソフィアの手を取り、手袋越しにキスをする。シルクの薄い布一枚を隔てていても、伝わってくる温度や感触は、気持ち悪かった。ソフィアの背筋に悪寒が走り、手を振りほどきたくなるのを何とか堪えた。

 ソフィアが必死に我慢しているのを見透かしたように、ウィッカムはわざとゆっくりと手を離した。その様子は、か弱い動物をいたぶって舌なめずりしている獣そのものだ。そう思うと、大尉はそれ以上黙って見てはいられなかった。
「男爵、申し訳ありませんが、音楽会が始まりますので、失礼いたします」
 無理やり2人の間に身体を入れて、ソフィアをウィッカムの視線から完全に遮り、ハガード大尉は低い声で慇懃に告げた。軍隊で鍛えた身体は、ウィッカムほどの上背がなくても、十分に威圧的だ。間近から冷ややかな眼差しで見据えられ、男爵の顔色が怒りで赤くなった。
「邪魔をするつもりか?君は先にホールへ行っていてもいいんだぞ。私がレディ・リンズウッドをエスコートするから」
 大尉の横をすり抜けようとしたウィッカムだが、大尉もぴたりとそれについて動き、ソフィアに指一本触れさせようとしない。身分の上ではウィッカムに劣るハガード大尉だが、彼には後ろ盾があった。

「今回私は、ウィロビー伯爵の代理で、レディ・リンズウッドのエスコートをしているのです。伯爵直々の依頼を受けながら、簡単にその役目を他の方に譲ることはできません」
 ウィロビー伯爵と聞いて、ウィッカムは忌々しげに舌打ちをした。

 年齢は下だが、身分の上ではウィルの方が遙かに上だ。その上、ホストであるバリー伯爵夫妻の友人でもある。不利な条件の下で自分の意志を押し通そうとするほど、ウィッカムは愚かではなかった。ここで無理にソフィアを奪えば、大尉はウィロビーとバリーにすかさず注進するだろう。バリーの怒りに触れれば、即刻ゴールド・マナーから叩き出されるに違いない。
「ウィロビー伯爵の代わりとは、身の程知らずな。まぁいい。レディ・リンズウッド、次は是非私にエスコートさせて下さい」

 ソフィアが返答をする前に、大尉は彼女を伴って、素早くこの場を離れた。これ以上言葉を交わさずに済んで、ソフィアはほっとした。再びウィッカムに触れられるのも嫌だったし、あの目で見つめられるのも嫌だった。
 赤みが引かない顔の中から、欲望に燃えるぎらぎらとした双眸が、足早に立ち去るソフィアの背中を、未練たっぷりに追いかけている。背中を向けていても、じっと見られているがわかる。舌なめずりをしているかのように、じっとりと肌にまとわりついてくる視線が気持ち悪くて、ソフィアはぶるりと身を震わせた。
 全て察してくれているようで、大尉は力強くソフィアを支えながら、何も口にしなかった。ソフィアが身体を震わせたときだけは、支える腕に力を込めてくれた。
 結局ホールに入るまで、気持ち悪さは拭えなかった。このまま音楽を無心に楽しむ気にはなれない。ため息をつきかけたソフィアだが、ベッキーとウィニーの顔を聴衆の中から見つけると、緊張の糸が緩んだ。

 彼女たちに気づいた大尉も、漸く口を開いた。そっと囁きかける声には、やはり安堵が滲んでいた。
「ミセス・ヒューイットたちをお待たせしてしまったようですね」
「そうですわね」
 ウィニーが扇で、こちらへ来るようにと合図を送っている。
 意識的に頭の中から先ほどの出来事を追い払って、ソフィアは友人たちに話しかけ、午後のひとときを楽しいものにしようと務めた。その努力は成功し、美しい調べにすっかり心を洗われたのだが・・・・・・。

 ソフィアは、知らなかった。

 1度狙いを定めた肉食獣は、たっぷりと味わうまで、獲物を狙い続ける。この獣は、美しい毛皮を被ってはいるものの、生憎と執念深かった。同じ失敗を繰り返さないよう、知恵を働かせる程度には、賢かった。何より、獲物に対する欲望は、群を抜いて強かった。
 すんなりと捕食に成功するよりも、障害がある方が燃えるという獣もいる。この獣もそうだった。ハガード大尉に邪魔されたことで、彼の中では、何としてもレディ・リンズウッドを手に入れたいという欲望が、いっそう膨れ上がっていた。

2009/05/20up

時のかけら2009 藤 ともみ

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