第3章 追憶の館[8]

   娘時代に比べ、感情を表に出さないよう振る舞うのは、上手くなったと思っていたのだけれど。無垢な眼差しは、大人が隠そうとする生々しい想いを、あっさりと見抜いてしまう。

 今朝、いつものように伯爵家のメイドに連れられて部屋を出る時に、グレースは大きな瞳を心配で曇らせ、ソフィアを見上げた。
「母さま、リンズウッド・パークにはいつ帰るの?」
「あら、お家が恋しくなってきたのかしら?」
 これまでホームシックにかかった気配のない娘が、唐突に領地の名前を口にしたから、ソフィアは驚きながら尋ね返した。すると、黒髪の幼女は、ぷっと頬を膨らませてしまった。
「私じゃないわ。母さまがお家に帰りたいんじゃないかしらって、思ったの。ここが嫌なら、お家に帰りましょうよ」
「グレース」
 ソフィアがそっと頬を撫でると、グレースの灰青色の瞳が、心もとなげに揺らめいた。

 グレースが、バリー伯爵家の兄妹とすっかり仲良くなり、ゴールド・マナーの滞在を楽しんでいるのは明白だ。大人にばかり囲まれたリンズウッド・パークにいる時よりも、生き生きしている。それなのに、家へ帰ると自分から口にした娘の心境を思いやり、ソフィアは胸がチクリと痛んだ。
 膝を折ってしゃがみ、視線を合わせて、彼女は微笑みながら話しかけた。
「心配かけてごめんなさいね、グレース。母さまは大丈夫よ。あなたは心配しないで、ジェフたちと遊んでいていいのよ」
「本当?」
 顔をぱっと輝かせたものの、グレースはすぐに俯いてしまう。
「母さま、この頃元気がないんですもの。帰りたくなったら、ちゃんと教えてね?」
「わかったわ、グレース」
 小さな身体をぎゅっと抱きしめると、甘えるようにしがみついてくる。こんな幼い娘にまで気を遣わせて、ダメな母親だ。心配ないと、温もりが伝えてくれればいい。暫くそうして抱き合ったあと、グレースは恥ずかしそうに笑って、いつも通り元気な様子で、子供部屋へ出かけていった。

 先日、談話室で思いがけずウィッカム男爵に言い寄られてから、絶えず不安に苛まれているような気がする。できるだけ誰かと一緒にいるようにして、隙を作らないように気を張っているからだ。
 人前に出る時は、いつも通りに振る舞うよう心がけ、笑顔を絶やさないようにしていたのだが、母親の内面に潜む陰を、幼子は本能的に察知してしまうのだろう。
 グレースに心配をかけないよう、しっかりしなければ。
 今朝方のやり取りを思い出して、ソフィアは腹部にぐっと力を入れ、顔を上げた。

 今日の午餐は、女性客だけを集めた親睦会で、賑やかなおしゃべりがあちこちで繰り広げられている。男性陣は男性陣で、狩猟に出かけているらしい。食事といってもかなり時間をかけてゆっくりと進行し、食後のお茶を平らげて、やっとテーブルから解放されたところだった。
 大きな花瓶に活けた花から、甘い香りが漂ってくる。花瓶が置かれたテーブルを挟むように背中合わせで置かれたソファに腰を下ろし、ソフィアは小さく息をついて、室内を眺めた。同性ばかりの空間は安全で、このところいつも感じている緊張で、神経を張りつめていなくて済む。
 もともと、この5年の間、華やかな世界とは距離を置いて暮らしてきた。リンズウッド伯爵夫人として評判を落とさないように頑張ってきたけれど、そろそろ限界かもしれない。友人たちに囲まれて過ごすのは楽しいが、望まない相手から迫られても、気が重くなるだけだ。ウィッカムのぎらぎらとした眼差しを思い出し、ソフィアはぶるりと身体を震わせた。
 ウィニーからも1人にならないよういい含められ、お陰で、スケッチに出かけることもままならない。スケッチブックと鉛筆を持参してハンプシャーに来たのは、この城館周辺の美しい景色を描き留めたいと思っていたからだが、無理なようだ。せいぜい部屋のバルコニーから眺める風景を、紙の上に再現していくことしかできない。

 どんよりと湿りそうな気持ちを脇へと押しやって、ソフィアは友人の姿を探した。女性だけなのだし、あまり自分に気を遣わずに、他の方々ともお喋りを楽しんで欲しい。そう言って、側についていようとする友人たちを送り出したのだ。
 ご婦人方をひとりでもてなすホステス役のベッキーは、年配のご婦人方に捕まって、部屋の向こう側で話し込んでいる。ぴったりとソフィアの側を離れないウィニーも、今はアンを連れて、知り合いのご婦人と談笑している。笑うと目元に刻まれる皺が柔和な印象を与える彼女は、キンバリー卿の親族だ。ということは、ポール・ハガード大尉の身内ということにもなる。大尉とアンの仲を応援すべく、ウィニーは、外堀を埋める作戦に出たようだ。

 世話焼きで気のいい親友を想うと、ソフィアの唇にも自然と微笑みが浮かぶ。ほんのりと和んだ心を強張らせたのは、鼻をつく香水の匂いと、女性にしては低めの声。
「少しよろしいかしら、レディ・リンズウッド」
 先ほどまで無人だった背中合わせのソファに、いつの間に滑り込んだのか。振り返らなくても、鼻にかかったアルトの声の持ち主が誰であるのか、簡単にわかってしまう。
 ミス・キャサリン・テイラー。彼女がなぜここにいるのだろう。戸惑いを表に出さないよう、務めて冷静にソフィアは声を出した。
「何でしょう?」
「そんなに警戒なさらなくても、よくってよ」
 クスクスという笑い声が、小さく後ろから聞こえてくる。どこか小馬鹿にしたような色が滲んでいるのを敏感に察して、ソフィアは眉間に皺を寄せた。一体何だというのだろう。声をかけられる理由も思いつかないし、ミス・テイラーとまともに話をするのは、これが初めてだ。これまで言葉を交わしたのは、せいぜい挨拶程度。彼女は大抵ブラッドと一緒にいるから、ソフィアとの接点はほとんどない。ある意味、ソフィアともっとも接点のない女性だといえる。

「わたくし、あなたにお聞きしたいことがありますの」
 漸く笑いを収めて、しかし、見下すような色合いは残したままで、ミス・テイラーの声がソフィアの鼓膜を震わせる。ブラッドの側にいるときと同様、女王然とした立ち居振る舞いそのままの、物怖じしない鋭さが、矢のように真っ直ぐと向かってくる。
「単刀直入にお聞きするわ、英国のやり方は性に合いませんから。あなたはフォード伯爵をどう想ってらっしゃるの?」
「な・・・・・・」
 思いがけない問いかけに、ソフィアは暫し絶句した。こちらの表情が見えない代わりに、あちらの表情も見えない。何を想ってミス・テイラーがそんなことを聞いてくるのか、推測するのは難しい。

 面食らっているうちにも、彼女は矢継ぎ早に質問を繰り出してくる。
「フォード伯爵がわたくしを選んでも、構わない?あなたの本命は、噂通りウィロビー伯爵なのかしら?」
「――随分と下世話な物言いをなさるのね」
 呆気にとられていたソフィアの中で、怒りの火が灯った。感情を抑えた静かな口振りで、辛らつな言葉を声に乗せた。
「そのような質問に、わたくしがお答えする義務はないと思いますけれど。わたくしの気持ちを知って、どうするというの?あなたがフォード伯爵を慕ってらっしゃるなら、心のままに行動すればよろしいのではないかしら?フォード伯爵やウィロビー伯爵に、わたくしがどう関係してくるのか、さっぱりわかりませんわ」

 ウィニーが聞いたら震え上がりそうなほど、冷ややかな台詞だった。ヨークシャーの冬のごとく、極寒のブリザードが吹き荒れているような冷気は、大抵の人間を凍りつかせるには十分なものだったが、異国の美女には、さして堪えるものではなかったらしい。
 赤毛の美女は、声を立てて楽しげに笑った。
「あら、お顔に似合わず、はっきりと仰るのね。フォード伯爵たちが誰を選ぼうと、関係ないとでも?」
「それはわたくしが決めることではないわ。あの方々がご自分で判断することよ」
 ミス・テイラーの声音に潜む嘲りが、ソフィアをいっそう苛立たせた。
「そうですの。随分あっさりしてらっしゃるのね。英国の未亡人は、奔放に男性の誘いを受け入れていると聞いていたから、わたくし心配したのだけれど。資産と時間を持て余す英国未亡人は、貞淑さの欠片もなく、ベッドに男性を引き入れるなんて聞いていたら、心配するのも当然でしょう?」

「・・・・・・わたくしが、男性を誘惑するとでも?」
 底冷えするような、静かな反問に、キャサリン・テイラーは、艶やかな微笑みを浮かべた。目にすることはなくても、確かに彼女が笑んだのを、ソフィアは感じ取った。
「大切な殿方の安全を気にかけるのは、当たり前のことですわ。でも、杞憂ならよかったわ。フォード伯爵とわたくしを邪魔するものは、何もないわ」
 満足そうに呟いてから、ミス・テイラーがパラリと扇子を開く音が聞こえた。あからさまに侮辱され、ソフィアはこみ上げてくる怒りを持て余して、膝の上に置いた両手をきつく握り締めた。身分ある未亡人だというだけで、このようにいわれのない嘲りを受けたのは、初めてだった。礼儀知らずのこの娘に、何か言い返してやりたいが、適当な台詞のひとつも思いつかない。こんな時、ウィニーだったらきっと、こてんぱんにやっつけてしまうのに。

 声を発することができないソフィアに代わって、口を開いたのは、またもやミス・テイラーだった。
「レディ・リンズウッド、あなたにだけはきちんと伺っておかなければならないと思ったのですわ。他の誰よりも、あなたがわたくしにとって最大のライバルになりますから」
「――仰っている意味がわかりませんわ」
 このアメリカ女性は、素っ頓狂な物言いをする癖でもあるのだろうか。予想もつかないところに飛躍する話題についていけず、ソフィアは素気無く言い返すのがやっとだった。ふふ、と低く笑いながら、ミス・テイラーがソファから立ち上がる気配がした。
「なぜわたくしが、あなたのライバルになるのかしら」
「まあ、気づいてらっしゃらないのね。それならば、そのままでいて下さいな。その方がわたくしにとっては邪魔が減りますもの」
 幾分がっかりしたようだが、ミス・テイラーはすぐに気を取り直して、何やら納得している。彼女の発言の意図がさっぱりつかめず、ソフィアは眉間の皺を深くした。ミス・テイラーのライバルになり得る女性は、フォード伯爵を慕っている女性だろうに、なぜ自分の名が出てくるのだろう。

 そんなことなど、あり得ないのに。鼻で笑い飛ばしたっていい。第一ブラッド自身が、ソフィアを避けているのだ。あからさまに自分を避ける男性を、慕うわけがないではないか。
「そろそろ行かなければ。あなたのお友達がわたくしを殺してしまいかねない様子で、こちらを見ていますもの」
 物騒なことを言う割りには、やけに楽しそうに、ミス・テイラーが笑った。ドレスの衣擦れに合わせて、強い香りが漂ってくる。顔を上げると、ウィニーが苛立ちを何とか抑えながら、ソフィアの背後をじっと見ていた。

「不躾なことをお尋ねしたけれど、お許し下さいますわね、レディ・リンズウッド?なにぶん、わたくしには身分も後ろ盾もございませんから。英国流の上品なやり方には従っていられないのですわ。力なき者が望みを遂げるには、自ら動くしかありませんもの。解って下さいますわね?」
 心もとない身の上であると言う割には、不安の欠片も滲まない口振りで、きっぱりと言い切ると、彼女は満足したらしい。衣擦れの音と共に、ミス・テイラーの気配が遠ざかっていく。

 完全に気配が消え、残り香も消えてから、ソフィアは漸く息を吐くことができた。しかし、握り締めたままの両手には力を入れたまま、眉間の皺も刻んだまま。ぎゅっと引き結んだ唇は、そうしていなければ、感情的な台詞を零してしまいそうで。
 わたくしのことは放っておいて。
 ここ数日で一番の疲れが、どっと両肩に圧し掛かってくる。とても今のソフィアに耐えられる重さではなく、シャンと背中を伸ばして座っているのも難しい。

 疲れた。早くヨークシャーに帰りたい。

 ぽつりと胸の裡で呟いた時、視界の隅に、駆け寄ってくるウィニーの姿が映った。


 これ以上の問答は無用とばかりに、ソフィアはきっぱりと告げた。
「大丈夫よ、アリス。ちょっと気分を変えて、すぐに戻ってくるだけだから。まだまだ外は明るいし、敷地の中から出たりはしないわ。いつもの通り、うまくやるわよ」
「でも奥様、ヒューイットの奥様からくれぐれも一人で出歩かないようにと言われているんです。不埒な殿方に隙を見せてはならないって」
 敬愛する女主人の身に何かあったら一大事と、アリスが必死に言い募る。普段から血色のいい頬が、林檎のように真っ赤になっている。それをソフィアは、完璧な笑顔を向けて「大丈夫」とひと言で黙らせた。彼女がこういう態度を取る時は、相当鬱憤が溜まっている証拠だ。それを知っているから、アリスは渋々口を噤むしかなかった。

「わたくしのこと、少しは信用してちょうだい。ウィニーは心配性なのよ。確かにいつもの午後なら、1人で出歩くのは愚かな行為だけれど、今日の午後はチャンスなの。殿方は皆、釣りに出かけているのだもの。人も少なだし、人目につかずに息抜きするには今日しかないわ。お願いだから、少しだけ1人にしてちょうだい。もう限界だわ、これ以上我慢するのは・・・!」
 穏やかな微笑みを常に絶やさない女主人にしては珍しく、苛立ちを隠さない、激しい口振りだった。彼女のこんな爆発には、5年に渡って身近に仕えているアリスも、数えるほどしか遭遇したことがない。

 無理もない、と、アリスは主を気の毒に思った。ヨークシャーの地では、形式ばった社交とは縁遠い、気楽で慎ましい暮らしをしてきたのだ。久々の社交界ではただでさえ疲れが溜まるだろうに、このところのソフィアは、自室の外に出る時は、常に誰かと一緒でなければならなかった。伯爵未亡人としての勤めを果たしながら、一方で、気の向くままにスケッチブックを抱え、荒れ野の自然を写し取ることでバランスを保ってきたこれまでの彼女なら、近々、耐えられなくなるだろう。ここ数日、女主人の心身の健康を案じていたアリスだが、目の前で切実に訴えられては、強硬に反対する気も失せてしまう。

 元々アリスは、大切な女主人の望みをできるだけ叶えて差し上げたいと願う、忠実な侍女なのだ。それに昨日の午後から、ソフィアはぐったりと疲弊しきった様子だったから、尚更心配していた。ソフィアは上手くごまかしていると思っているようだが、昨夜はほとんど眠れなかったらしく、涼やかな目元がいつになく腫れている。
 それがどうだろう、今日の午餐の後で、自室へと戻ってきたソフィアの瞳は、企みを秘めた輝きを見せていた。午餐の席で、何かを思いついたとしか考えられない。その思いつきの内容は、すぐに明らかにされた。ウィニーたちには、部屋で昼寝をすると言い置いてきたというが、実際は1人でスケッチに出かける心積もりなのだ。

 感心はできないけれど、強硬に反対もできない。奥様に息抜きが必要なのは、一目瞭然なのだから。仕方ない、と、大げさにため息をつきながら、アリスは不承不承といった風に頷いた。鏡台の上に置いたボンネットを取り上げ、スツールの上に座る奥様の頭の上にちょこんと乗せると、手際よく紐を顎の下で結び出した。
「わかりました、奥様。ヒューイットの奥様には、私は何も申し上げません。お屋敷から遠くには行かない、人目につかないようにする、お茶の時間までにはお戻りになる。この3つだけはしっかり守って下さいますね?」
 ぱっと、ソフィアの瞳が輝いた。
「もちろんよ、アリス!ありがとう!」
 アリスの両手を握り締めて、花が綻んだような笑顔で感謝されては、これ以上釘を刺すことなんて、誰にもできないに決まっている。咳払いをしてから、アリスはもはや何も言わずに、黙々とソフィアの身支度を手伝った。スケッチブックと、鉛筆などの道具を入れた小さなバスケットを手にすれば、準備は完了だ。

「それじゃあ、行ってくるわね」
 諦め顔のアリスにひらひらと手を振って、ソフィアはそうっと廊下に忍び出た。人気がないのを確認し、そのまま召使用出入り口へと向かった。このあたりの要領は、5年前に滞在した時にしっかり習得している。あの時、ブラッドから、人の目につかずに外へ抜け出る道順を、色々と伝授してもらったのが、今役に立っている。皮肉なことだわ、と、唇の端に小さな苦笑が浮かんだ。

 当時のまま、胸に抱えたスケッチブックの、粗く固い紙で作られた表紙が、しっくりと手に馴染む。腕に提げた小振りのバスケットは、スケッチブックと併せて、ソフィアのお忍びにしばしばお供する。
 召使用出入り口に到着するまで、行き会う者はなかった。するりと戸外へ滑り出て、使用人棟の脇を小走りに抜ける間も、誰にも見咎められずに済んだ。バリー伯爵家自慢の巨大な温室に突き当たってから、背の高い植え込みへと続く道を取る。ここから迷路のようにそびえる木々の間を抜け、小高い丘のてっぺんへ向かう小道に出ると、歩みは止めないまま、小さく息をついた。

 息抜きをすべきだ、と決めたソフィアを、天が後押ししてくれているかのようだった。
 今日は朝食の後、殿方全員が、敷地に隣接する大きな池へと出かけていた。紳士たちの間で、釣りの腕を競うらしく、日頃は参加しない者もこぞって出席しているそうだ。数日前から商談に忙殺されているミスター・ヒューイットも参加していると、ウィニーが朝食の席で言っていた。でもきっと、最後まで居ないわ。仕事が気になって、途中で帰ってくるわよと、憎まれ口を叩いていたけれど。

 一方淑女たちは、めいめい屋敷で午睡を取ったり、数人は馬車で近隣の村へと出かけたりと、気ままに時間を過ごしている。ベッキーとアンは、お出かけ組だ。そういえばサラも一緒に出かけていった。ソフィアも誘われたが、疲れを理由に断った。ソフィアが昼寝をするというと、一緒に残ったウィニーは、手紙を書かなければならないといって自室へ引き取っていった。

 城館に残っている者もいるから、目的地に着くまでに誰かに出くわす可能性は十分にあった。しかし結局、緩い傾斜を登りきって、東屋にたどり着くまで、ソフィアは誰にも行き会わずに済んだ。

 東屋は、5年まえと変わらぬ佇まいで、丘の頂から敷地を睥睨していた。外壁のペンキだけは、ここ最近で塗りなおされたようだが、初対面のようによそよそしくソフィアを迎えたりはしなかった。
 誰もいない東屋に入り込み、ベンチの上に置かれたクッションに腰を下ろして、ソフィアは暫し、じっと風に吹かれていた。しっとりとした生気を含んだ森の空気が、そよ風に乗って丘を渡ってくる。それに頬を撫でられると、森の生気を直に分け与えてもらっているような錯覚を覚えた。
 ひんやりとした水気を含み、清々しい若葉の匂いを漂わせる大気は、ささくれ立ったソフィアの心を包み込み、ひび割れた神経を潤していくようだった。目に映る新緑の青さが、ここ暫くの緊張を穏やかに溶かし、洗い流していく。鳥のさえずりは、無作法にも土足で踏み込んできたアルトの声を忘れさせようと、耳に働きかけてくる。

 向かいのベンチに置いたスケッチブックを開く気分には、まだなれなかった。緑の息吹を写し取るよりも、その中に飛び込んでいきたい気持ちに駆られた。
 ヨークシャーでもよくしたように、自然の大いなる手に、この身を委ねてみようと、ふと思いついた。リンズウッド伯爵に嫁いでから、困難にぶち当たるたびに、ソフィアは1人荒れ野に出て、心ゆくまで風に吹かれ、前進する力を分けてもらった。人間の悩みなど、巨大な自然の前では、ちっぽけなものだ。ヨークシャーほど荒々しくないけれど、ハンプシャーの大気も、ソフィアの苦悩を吸い取ってくれるに違いなかった。

 両目を瞑ると、大らかなハンプシャーの大地の中へと、自分の存在が溶け込んでいくのが解る。お茶の時間には、釣りに出かけた男性陣も、村へ出かけた女性陣も、帰館するだろう。それまでに部屋に帰りつかなければならない。あと2時間もない。短くてもいいから、心を解放し、華やかな人々の間へ戻る勇気を見つけ出したかった。

 ぼんやりと滲み出したソフィアの意識を、不意に破ったのは、背後の靴音だった。ハッと目を開けて振り返ると、東屋の入り口を塞ぐようにして立つ影があった。逆光で翳った顔はよく見えないが、がっしりとした体格と、整髪料の臭いが、ソフィアの全身を強張らせる。
 1歩、2歩と東屋の中へ足を踏み出してくる影から逃げるように、ソフィアは立ち上がり、後ずさったけれど、すぐにベンチにぶつかってしまった。冷たい汗が、背中に滲み出す。
 東屋の中へと入り込んだ闖入者の顔を漸く見分けることができた時、2人の間は、手を伸ばせば掠る程度の距離しかなかった。元々大人数で過ごすために設計された場所ではないから、筋肉隆々とした男性がいるだけで、喉を絞められたような圧迫感がある。

 欲望に光る眼差しが、ねっとりとソフィアを捕えた。
「やっと2人きりになれましたね、レディ・リンズウッド」
 もっとも逢いたくない相手。ウィッカム男爵が舌なめずりするように見下ろしてくるのを、ソフィアは蒼白な顔で、睨み返すしかできなかった。

2009/06/03up

時のかけら2009 藤 ともみ

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