第3章 追憶の館[9]

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 全身の肌がビリビリと緊張し、早く逃げろと警鐘を鳴らしている。しかし、後ろに背中をそらすだけで壁に突き当たるし、唯一の出口に向かうには、闖入者の脇を通らなければならない。

 ソフィアに逃げ道はなかった。それを知っているから、ウィッカム男爵は余裕の態度を崩さないのだろう。談話室で迫ってきた時ほど、時間に追われる様子はない。じっくりと目の前の獲物を味わおうと舌なめずりをしているのは、明白だった。

 誰にも見られていないと思ったのに、一番見つかりたくない相手に後をつけられていたなんて。気づかなかった自分に腹が立つけれど、今は目の前の相手から注意を逸らすわけにはいかない。希望は薄くても、活路を見出すことを諦めてはならなかった。大人しくされるがままに、この身を委ねることなんて、絶対にできなかった。
 大柄な身体から放たれる圧迫感に負けないよう自分を奮い立たせ、ソフィアはキッとウィッカムを睨みつけた。
 そんな程度では、圧倒的優位を確信している相手を怯ませることなんて、できはしないけれど、何もしないよりはましだ。

 ウィッカムが口角を上げて、ゆっくりと近づいてくる。本人は紳士的な微笑を浮かべているつもりかもしれないが、全身から発される下卑た欲望の気配が強すぎて、気品の欠片もない。
 彼が近づく分だけ、ソフィアはじりじりと後ろに下がろうとしたけれど、壁にぴたりと背中を押しつけただけで、思うような距離は取れなかった。絶体絶命の状況でも、矜持だけは失うまいと、目を逸らさずに見上げてくるソフィアを、ウィッカムは目を細めて眺めた。
「気の強い女性は、好きですよ。抵抗されるほど、男は燃えるものですからね。困難な相手ほど、手に入れたときの達成感は素晴らしい。――あなたも、レディ・リンズウッド。いえ、ソフィア」
 親しげに名前を呼ばれ、嫌悪感にソフィアは眉をきつく顰めた。彼女の反応を意に介した風もなく、ウィッカムが圧し掛かるように迫ってくる。汗の臭いと、男の身体から発される熱が厭わしい。
「すぐに喜んで私に身を委ねるようになる」
「誰があなたになど――」

 思わず反論をしかけたソフィアを遮ったのは、ウィッカムの唇だった。大きな身体からは想像できない素早さで両手首を掴まれ、身体を押さえ込まれてしまう。
「んーっ!!」
 じっとりと湿った唇が、ソフィアの唇を覆い尽くしている。伝わってくる感触も、体温も、全てがおぞましいものでしかない。何とか振りほどこうと、ソフィアは口を固く引き結んだまま、上半身を捩ろうとした。

 抵抗するソフィアを宥めるように、ざらざらしたものが、唇の上を這い回る。口腔に忍び込もうとする舌の動きに抗って、ソフィアは唇にありったけの力を込めた。その体勢では十分な呼吸ができず、次第に頭の中がぼうっとしてきたけれど、ここで侵入を許すわけにはいかなかった。
 分厚い唇が、ソフィアの口元を離れ、額や頬、髪や首筋に移っても、ソフィアは固く唇を結んだままだった。興奮しているのか、ウィッカムの呼吸が荒くなり、生ぬるい息が肌の上に鳥肌を立てていく。

 気を失ってしまえたら、どんなに楽だろう。だが、唇や肌の上に残るおぞましい感触が、ソフィアの意識を現実へと繋ぎとめ、簡単に現実から逃れることを認めはしなかった。
 ソフィアの白い肌をたっぷりと味わってから、ウィッカムは満足げに顔を離した。
「想像した通り、柔らかな肌だ。きっと素晴らしいひと時を過ごせますな、ソフィア」
 獲物を追い詰め、余裕の微笑みを浮かべて、ウィッカムが下卑た眼差しで見下ろしてくる。絶対的な優位を信じ切って、ソフィアを意のままにできると疑わない男に、ソフィアが激しい怒りを抱いても無理はない。

 もはや抵抗する意志もないと考えたのだろう。ソフィアの手首を離し、片手をうなじへ、もう一方の手を胸元へ滑らせた時、ウィッカムに束の間隙ができた。
 あっと思う間もなく左手で手袋を外し、ソフィアは渾身の力を込めて右手を振り上げた。油断していた男が、避ける間もなかった。ざりっと鈍い手応えがあった。

「な・・・・・・」
 呆然と、男がソフィアを見つめた。そしてのろのろと右手を上げ、顔を恐る恐る撫でる。太い指に、鮮やかな朱色が僅かに滲んだ。それを見とめ、男は目を瞠って、ワナワナと身体を震わせた。
 ウィッカムの右頬に、赤い筋が3つ刻まれていた。絶妙な角度で爪が食い込んだらしく、思いのほか深く抉った跡を、ソフィアは息を切らせながら凝視した。この行動がどのような事態をもたらすかまでは、頭になかった。怒りの衝動が、身体を突き動かしていた。
「この・・・っ!」
 分厚い手に顎の辺りを押さえ込まれ、ソフィアは乱暴にベンチへと叩きつけられた。背中や腰をしたたかに打ちつけた衝撃で、思わず呻き声が漏れた。
「ぐっ・・・」
「少々お痛が過ぎましたな、ソフィア」

 怒りと欲望に満ちた、サディスティックな光でギラギラした目が、間近でソフィアの顔を覗き込む。ベンチの上に押し倒され、両手は頭の上で押さえつけられてしまった。残る手が、頑丈な鎧戸のようにソフィアの顎と口を塞ぎ、叫び声を上げることすら許さない。
 身体のあちこちが、痛みを訴えている。掌を押しつけられた口元が苦しくて、呼吸が浅くなる。それでもソフィアは、目に力を込めて、目の前の男を睨みつけた。
 こんな男が紳士といわれているなんて、絶対に認めたくなかった。男に身体を触られることがこんなに気持ち悪いことだなんて、知らなかった。
「じゃじゃ馬にはお仕置きが必要だ」
 口から手が離れた途端、被さってきたのは男の唇だった。同時に空いた手がドレスの襟元にかかり、はだけさせられる。抵抗しようにも、下半身も男の膝でしっかりと挟み込まれ、足をばたつかせることもできない。

 男の舌が、唇から首筋、耳朶を彷徨い、生ぬるい唾液の跡とざらりとした悪寒を皮膚に刻んでいく。更に、今度こそ絶対的な優位を確保したと安心したのだろう、はだけた胸元から入り込んだ手が、無遠慮にコルセットの上から豊かな膨らみに触れてくる。それだけでは飽きたらず、コルセットの背後で何やらごそごそしたあとで、前身ごろの隙間からゴツゴツした指がシュミーズの下にまで侵入し、直に膨らみを掴んだ。
 きつく締められているコルセットの紐を、力自慢の手で強引に緩めたのだと気づいた時には遅く、ドレスとコルセットをずり下ろされていた。肌に冷やりとした空気が触れ、暫し呆然としていた思考が、俄かに覚醒した。
 露わになった胸に、男が喜び勇んで吸いついた。生理的な嫌悪感が意識を支配する中で、自然と視界が滲む。おぞましい感触を堪えている間にも、身体のあちこちが痛みを訴えてくる。神経がぼろぼろになりそうだった。

 嫌、嫌、嫌っ!
 全身の感覚が、一斉に叫び声を上げている。五感が伝えてくる情報は、不快なものばかりで、受け入れられる限界を超えていた。声を上げ、身体を動かし、徹底的に抵抗しなければいけないとわかっていても、思考と身体はバラバラで、思うように動かない。ソフィアになす術はなかった。

 視界だけでなく、意識も次第にぼんやりと滲んでくるようだった。胸を弄んだ手が、いよいよドレスの裾を割って太腿を辿る。これ以上は取り返しのつかないことになると認識していても、手も足も痛むばかりで動かない。

 こんな男に、ねじ伏せられるなんて
 悔しい――と、麻痺したような意識の隅で閃いた時、ソフィアに圧し掛かっていた獣が、不意に消えた。実際は、鈍い音がしてから男が吹き飛んだのだが、呆然としていたソフィアの耳には、音は聞こえてこなかった。

 彼女が認識できたのは、四肢を留めつけていた重い身体がなくなり、全身が軽くなったこと。何が起きたのか、ショックで鈍くなった意識では、即座に把握することができない。
「何をする!」
 今度こそソフィアの意識を引き戻したのは、悲鳴のような男の叫びだった。ソフィアの右手、ベンチの足元にうずくまっているのは、たった今まで、この場の支配者として君臨していた男だった。

 そこに飛びかかっていく黒い影は、一体誰だろう。派手な音を立てて、ウィッカムが東屋の床に倒れこむ。ウィッカムに馬乗りになって、鋭く重い打撃を食らわせているのは、長身の男だった。ソフィアからは彼の後姿しか見えないものの、筋骨たくましいウィッカムが、赤子の手を捻るようにたやすく叩きのめされていることだけはわかった。
「やめろっ、やめてくれ!」
 腫れ上がった顔をくしゃくしゃに歪め、唇から血を流しながら叫ぶウィッカムの姿は、つい先ほどまで自信満々にソフィアに圧し掛かっていた男と同一人物とは思えないほど、惨めなものへ一変していた。全身を震わせ、恐怖に怯えきっている様は、酷くちっぽけで、無様だ。

 馬乗りになっている男が、ウィッカムの襟元を掴み上げ、顔を近づけた。低く、怒りに満ちた声が、ソフィアの耳にも届いた。
「二度と彼女に近づくな」

 決して聞き間違えることがないバリトンの声が、ソフィアの凍りついた心を震わせる。
「次はない。彼女に手を出せば、破滅させてやる」
「ひっ・・・」
 襟首を掴んだ手を放され、ウィッカムは喉の奥で悲鳴を上げながら、床にへたり込んだ。バリー伯爵家とフォード伯爵家だけでなく、レイモンド侯爵までも敵に回す行為が何を意味するのか、上流階級に生きてきた彼には、簡単にわかる。単なる脅しではなく、実際にそうすることぐらい、ヒューズ一族には容易いことなのだ。

 醜く変形したウィッカムの顔が一気に青ざめ、這うようにして東屋の入り口へと向かう。覚束ない足取りで、よろよろしながら何とか立ち上がると、男は後ろを振り返ることなく、一目散に駆け出していった。
 この場はそれ以上追うことなく、青年は片膝を床に立てたまま、ウィッカムの気配がすっかり消えるまで、入り口へと視線を当てていた。ゆっくりと立ち上がる背中には上着を纏っておらず、シャツの上にベストを着けているだけだ。その上両袖を肘の辺りまで腕まくりし、まるで乱闘を想定して駆けつけたように見える。
 乱闘といっても、不意をつかれたせいか、ウィッカムは全く相手にならなかった。日頃から鍛え上げた身体を自慢し、肉体派を売りにしている男爵を、あっさりと片付けてしまえるのが彼だなんて、意外な思いで、ソフィアはこちらに近づいてくる青年の顔を見上げた。

 乱暴に押し倒された時に身体のあちこちを打ったためか、思うように力が入らない。そのためソフィアは、身体をベンチの上に投げ出したまま、青年が脇に膝をつき、厳しい表情で覗き込んでくる様子を、ぼんやりと眺めていた。なぜ彼がここに現れたのか、心当たりは全くなかった。だがソフィアは、登場したのが彼だったことを、当たり前のことのように疑問も抱かず受け入れることができた。

 ウィッカムに弄ばれた状態のままで、今のソフィアは散々な姿になっているに違いなかった。ドレスの裾は太腿の辺りまでまくれているし、上半身ははだけて、コルセットまでもむき出しになっている。けれど、慌てて身繕いをするには、全身が気だるく、すっかり疲れ切っていた。
 無残な格好に、そっと覗き込んでくる真っ青な眼差しが、痛ましげに束の間歪められた。見たことがないほど厳しい表情を向けられても、ウィッカムの時のような危機感は、身の裡のどこにも起きなかった。

 男爵を簡単に殴り飛ばした手が、ゆっくりとソフィアの頬に伸びて、撫でるように触れた。気遣いに満ちた動きは、どこまでも慎重で、いたわりに溢れていた。手袋をしていない指が、白い頬を優しく動く。肌と肌が直に触れ合うところから流れ込んでくる温もりが、限界を超えて張りつめていた神経を、ゆるゆると溶かしていく。
 もう一方の手が、乱れ、頭の周囲に流れた蜂蜜色の髪を、慣れた様子で梳いた。
 身じろぎひとつせず、彼の動きを見守っているソフィアの耳に、囁くような声が落ちた。

「ソフィア」

 びくりと身体が震えたのは、恐怖のためではない。哀しみのためでもない。歓喜の声を上げた心と連動して、自然と生じた震えだった。
 幻だろうか。もう二度と聞けないと思っていた、ありったけの愛しさを込めた声が、低い囁きとなって、ソフィアの上に降ってくる。
「もう大丈夫だ」
 ブラッド、という呼びかけは、唇がわなわなと震えて、上手く声にならなかった。サファイアの輝きを宿した双眸は、彼女が言いたかったことを、簡単に察したようだった。頬と髪を撫でていた手が、慎重にソフィアを抱き起こし、たくましい胸に抱え込む。

 身体が訴える痛みは、どこかへ押し流されてしまった。ソフィアの神経の全てが、目の前の相手に向かっていた。
 絶え間なく痛みが引き起こす熱は消え失せ、代わりに、ブラッドの胸から伝わってくる熱さだけを、ソフィアは感じていた。頬をしっかりとベストの胸に押し当てられ、上半身をぴたりと隙なく密着させているから、彼の体温も、心臓の鼓動も、直接流れ込んでくる。
 汗に混じってハンガリー水の香りがソフィアの鼻腔をくすぐった。懐かしい香りと、再び落とされた囁きと、どちらに呼び覚まされたものかわからない涙が、どっとこみ上げてくる。
 彼の腕の中にいれば大丈夫だと、無条件に信じられる。

「遅くなってすまなかった」
 忌まわしい記憶と、もう大丈夫だという安堵が混じり合い、絶え間ない涙となって溢れてくる。嗚咽しながら、小さく身体を震わせて、しがみついてくるソフィアを、ブラッドは固く抱きしめた。彼女に害をなす全てのものから守るように、懐へと抱え込む。

 無傷とはいえなくても、最悪の事態を回避できたことを、神に感謝したい気分だった。ウィッカムに付けていた監視役の従僕が通報するのが、あと少し遅れていたら、きっと間に合わなかった。
 ウィッカムが最後の一線を越えていたら、手加減などせず、きっと殺すまで殴り続けていただろう。先ほども、ソフィアが背後にいるのを意識していたから、あの程度に留めたのだ。そうでなければ二度と立ち上がれないくらいに叩きのめしていた。

 柔らかな蜂蜜色の髪に頬を寄せ、彼女の哀しみを吸い取るように、いたわりを込めて抱きしめる。震えの止まらない背中を、そっと擦った。
 心無い欲望に晒され、傷ついた身体は、華奢で、簡単に壊れてしまいそうだった。記憶にあるよりも、頼りない。5年ぶりに逢ったソフィアは、伯爵未亡人に相応しい落ち着きと威厳をすっかり身につけているけれど、それを支えている肉体はこんなにも儚いものだったのだ。愕然としながらも、ブラッドは、ほっと安堵の息を吐いた。ソフィアに気づかれないように必死に抑えているけれど、彼の身体も、細かく震えていたのだ。

 無残に踏み潰される前に救い出すことができ、安心する気持ちと、ブラッドを信じきって身を預け、縋りついてくるソフィアへの愛しさ。ふたつの想いが身体の内側で大きく渦巻き、筋肉を鳴動させる。
 ウィッカムがソフィアを組み敷いているのを見た瞬間、目が眩むような怒りがブラッドの全身を駆け抜けた。その時頭に浮かんだのは、彼女に触れていいのは自分だけだという強い想いだった。他の誰にも彼女を渡したくない、触れさせないという一念が、ブラッドを突き動かした。
 恋愛遊戯だ、復讐だなどと、つまらないことにこだわっている間に、ソフィアをもう少しで失ってしまうところだった。それを思うとぞっとする。彼女が無事でいる他に、何を望めというのか。

 ソフィアと、再び向き合ってみたい。
 腕の中の彼女が、泣き止むまで背中を擦りながら、ブラッドの心はひとつに決まっていた。無論、簡単ではないだろうが、自分の気持ちに気づいた以上、逃げ出すわけにも、誤魔化すわけにもいかない。
 二度と、このようなことで彼女が泣くことがないように、きちんと守ってやりたい。固く思い定めながら、ブラッドは、抱きしめる腕にいっそう力を込めた。

2009/06/07up

時のかけら2009 藤 ともみ

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