アリスが急いで整えてくれたシーツは、清潔な石鹸の匂いがした。手触りの良い布団に包まって、疲れ切った身体を横たえると、自然にため息が零れた。
ベッドの周りをきびきびと歩き、甲斐甲斐しく世話をするのはアリスだ。彼女を手伝って、無駄口をきかずにお湯や着替えを運んできたメイドたちは、ベッキー付きの信頼できる者たちだという。
ハウスパーティー中滞在している部屋にいるのは、今はアリスとソフィアのふたりだけだ。人目を気にせずに済むのは、ありがたかった。
ボロボロだった身体を入浴で清め、やわらかな寝間着に着替えて、無防備に寝台に投げ出していると、やっと人心地ついた気分になる。部屋に戻ってきた女主人の姿を見て、顔色を失ったアリスも、余計な質問はせずに、ブラッドの指示に応じて動いてくれて助かった。
この部屋に着くまで、宝物を扱うように大切に抱きかかえてくれた腕の感触を思い出し、頬が薄っすらと赤らむ。アリスに気づかれないように、ソフィアは掛け布団を頬の上まで引き上げた。
全身のあちこちが痛むけれど、一番拭い去りたかったものを風呂の湯で流したせいか、それほど気にはならなかった。酷い痣があちこちにできている、と、風呂から出た時にアリスが教えてくれたが、色とりどりの打ち身の跡よりおぞましかったのは、あの男に触れられた肌だった。あの男の痕跡を石鹸で洗い落とし、湯で流し切ってしまえれば、他のことは大して気にならない。
ふ、と気を抜くと、眠りの中へ引き込まれていきそうだ。酷く緊張した反動か、ゆらゆらと意識の狭間を漂っていきそうなソフィアを、現実に引き戻したのは、控え目なノックの音だった。
アリスが小走りに扉へ駆け寄り、廊下にいる人物と低く言葉を交わす。やがて扉の向こうから姿を現したのは、ブラッドだった。先ほどと同じ装いをしているが、さすがに両腕の腕まくりはしていない。ソフィアを妨げないよう、足音を忍ばせてやってきた彼は、ベッドサイドから顔を覗きこんできた。
難しい顔つきをしているが、真っ青な瞳の色は優しい。
「今日はこのまま、部屋で休んでいなさい。他の客人や、アーサーたちには私から上手く言っておくから、何も気にしなくていい。すぐに医者も来る。私やサラも昔から世話になっている先生だから、心配はいらないよ。きちんと診てもらって、それからぐっすり休みなさい」
「・・・はい」
ソフィアがこくりと頷くと、厳しい表情が僅かに和らいだ。
「グレースはベッキーの方で預かっているよ。今夜はレイのところで一緒に休めばいいとベッキーもいっていたから、あなたは一晩ゆっくりできるはずだ。困ったことがあれば、遠慮なく呼び鈴を鳴らしなさい。信用できるメイドなり、従僕なりを寄越すから」
「色々と・・・お心遣いをありがとう」
他に言葉が思い浮かばず、ソフィアは簡単な礼を述べるしかできなかった。あの時あそこにブラッドが現れ、危機を救ってくれたのが、未だに夢のような気もするのだ。目の前が真っ暗だったあの時に、ブラッドの姿を目にした瞬間、身体の中に沸き起こった嵐のような感情を、きっと忘れることはできないだろう。
その余韻だろうか。ブラッドを前にして、真っ青な瞳を見つめて声を出そうとすると、胸がいっぱいになるのだ。
上手く気持ちを言葉にできず、もどかしそうに眉を顰めたソフィアに、ブラッドはそっと首を横に振ってみせた。何もいわなくていい、と、彼の目が言っている。
「では、私は失礼するよ」
最後にソフィアへ向けて、静かな微笑を浮かべてから、ブラッドは、来た時と同じように、足音をさせずに扉の向こうへと立ち去った。今の微笑みは、温かな感情が通った、自然なものだった。再会してからの彼が常に見せていたような、作り物めいた笑顔とは違う。
笑顔の残像に見惚れたまま、少々ぼんやりしていたソフィアの耳に、再びノックの音が届いた。アリスが応対し、ベッドサイドへと連れてきたのは、今度こそ医者だった。バリー伯爵家かかりつけの老医師は、人の良さそうな皺くちゃの顔に、優しげな微笑みを浮かべ、早速診察に取りかかった。
ふたりきりになった東屋のベンチの上で、ソフィアの涙が止まるまで、ブラッドは黙って抱きしめていてくれた。留まるところを知らず溢れてくる涙も、堪えきれずに零れる嗚咽も、いつかは止まる。
決して短い時間ではなかったけれど、ブラッドはその間、ソフィアを胸の中に抱え込み、髪や背中をゆっくりと撫でていた。傷ついたソフィアを気遣い、彼女の苦しみを代わりに引き受けようとするように、優しく動く手は、温かかった。我慢しなくていいと、その動きに促され、ソフィアは心の命じるままに、感情を解放することができた。
やっと涙が止まったところで、ソフィアは不意に現実を取り戻し、小さな叫びを上げた。声を上げると同時に、ブラッドの胸から飛びのこうとしたけれど、がっしりした腕は、理由もなく解放してくれはしない。
弱りきって真っ赤になったソフィアの耳元に、低い問いかけが落ちてきた。
「どうしたの?誰も見ていないから、心配しなくていい」
こちらの動揺を鎮めようと、落ち着いた声で囁かれても、恥ずかしさは一向に薄れない。耳まで真紅に染めて、ソフィアは辛うじて聞き取れる程度のかすかな声で訴えた。
「あの・・・・・・ドレスを直したいので、離れていただけますか?」
「――ああ」
なるほど、と得心して、するりとたくましい腕が離れる。恐る恐る盗み見ると、ブラッドは紳士的に、こちらに背を向けて立ち上がったところだった。
「慌てなくていいよ、見ないから。用意が済んだら、言いなさい」
「はい」
ずれてしまったコルセットをひとりで直すのは困難だ。もともと他人の手を借りて着るものなのだ。仕方なく何とか前身ごろの中へと押し込み、ずり落ちていた袖を上げ、スカートの裾を足元へと落とした。強く引っ張られたせいで、襟元の生地が伸びてしまっている。髪もぼさぼさだし、ひとりではこれ以上直すことも叶わない。
ソフィアは思い切って、髪を留めていたピンを抜いてしまうと、さらりと零れ落ちてくる蜂蜜色の流れを、手で簡単に梳いて背中へと流した。
これで多少はマシになったけれど、ボロボロの、惨めな姿であることに変わりはない。
これから館へ戻る時、誰かに行き会ったりしたら、大騒ぎになる。
礼儀正しく背中を向けて立っているブラッドへとちらりと視線を走らせて、ソフィアは小さく息をついた。ソフィアだけでなく、こんな状態の彼女と一緒にいるところを見られたら、ブラッドもスキャンダルに巻き込まれてしまう。
ブラッドが何も考えていないわけはないだろうけれど、一体どうするつもりなのだろう。ソフィアへ向けられた広い背中は、どんと構えて揺るぎないように見える。ひとりで悩んでいても仕方ない、と、ソフィアは思い切って声をかけた。
「――部屋まで連れていくよ」
くるりと振り返ったブラッドは、一瞬目を瞠ったけれど、すぐに揺らぎを振り払って、てきぱきと告げた。
こんな格好のままで、部屋まで歩いていけるわけがない。絶対誰かに見られてしまうだろう。そろそろ釣りに行った人々も戻ってくる頃だろうし。
ソフィアの思考を読み取ったのか、ブラッドは「心配はいらない」ときっぱり言ってのけた。
「ここに来るまで、途中途中に私の従僕を立たせている。人を近寄らせないように見張っているから、大丈夫。口が固い者ばかりだから、心配することはないよ。早く部屋に戻って、今日はそのままゆっくり休むといい」
信用できる従僕といえど、まともに顔を合わせるのは躊躇われた。すると、それもお見通しとばかりに、ブラッドが「失礼」と短く言い置いて、素早くソフィアをすくい上げた。気づいたら、すぐ目の前にサファイアの輝きがある。
「顔を伏せていれば、気にならないだろう」
ソフィアを軽々と抱え上げ、ブラッドはきびきびと東屋を後にした。最初は呆気にとられたソフィアだが、気遣いに甘え、両手をブラッドの首の後ろに回して、頬をブラウスへと押しつけた。頬を寄せた時、ぴくっと小さく彼が身じろぎしたような気がしたが、気のせいだったようだ。
彼の鼓動を聞きながら、目を瞑って運ばれていると、時計の針が5年前にまき戻ったかのような錯覚を覚える。鼻をくすぐるハンガリー水の香りは変わらない。けれど、心ない男性に襲われ、無残な姿で運ばれている自分は、あの頃のままではない。
ブラッドと夢のような時間を過ごしたあの狩猟小屋で、やはり彼は、足を挫いたソフィアを抱き上げて運んでくれた。あの時は、不安はあっても、彼を信じ、彼に全てを預けようと思うことができた。
それが今は、こうしてブラッドに抱かれていても、彼に全てを投げ出すことはできない。軍隊で鍛えられたせいか、5年前よりもたくましくなった腕に抱えられると、胸の奥からこみ上げてくる安堵感は変わらないというのに。
ブラッドに差し出せるものは、なくなってしまった。
それに彼も、どういう思いで手を差し伸べてくれているのだろう。バリー伯爵の弟として、兄の客人を守るという義務のみで、動いてくれたのだろうか。他に、ブラッドを動かす理由は思い当たらない。何しろソフィアは、一心に想ってくれた恋人を、裏切ってしまったのだから。
言葉通り、誰にも会わずにソフィアの部屋へとたどり着いたふたりは、アリスに迎えられた。事前に彼女にも伝言がいっていたようだったが、女主人の様子を一目見て顔色を変えたアリスは、ブラッドがソフィアをソファに抱え下ろすと、弾かれたように駆け寄った。
おろおろする侍女に、ブラッドが低い声で幾つかの指示を出す様子を、ソフィアはゆらりと見上げ、自分で自分の身体を抱きしめた。
寒かった。酷く寒気がした。
「医者を呼んだから、その前に身支度を整えるといい」
また後で様子を見に来るよ、とふわりと微笑んで部屋を出て行くブラッドに、ソフィアは声をかけることができなかった。彼を頼る資格はないと、気づいてしまったからだった。そのまま俯いてしまった女主人に、アリスが泣き出しそうな声をかけた。
「奥様?」
「・・・大丈夫、大丈夫よ」
口では強がる素振りを見せても、じわりと瞼に滲んでくるものがある。ブラッドの手が離れてから襲ってきた寒気が、小さく身体を震わせた。
「すぐにお風呂の用意をしますから」
違うわアリス。これは、お湯で温めても、拭えない寒気よ。
口には出せずに、ソフィアはひっそりと心の中で呟いた。今の自分が――リンズウッド伯爵未亡人が、フォード伯爵と道を交えることはないのだという現実を、認めなくてはならない。かつて立ちはだかった、身分違いという垣根が取り払われた今も、彼にこの身を投げ出すことができないという事実が、胸を塞いで、鼻の奥をツンとさせる。
手足がかじかんで、凍えようとも、ひとりきりで立ち向かわなければならない。そう言い聞かせながら、ソフィアはなお、こみ上げてくる熱いものを、誰にも気づかれないよう、そっと拭った。
だいぶ西に傾いた陽の光が差し込む室内は、重苦しい沈黙に包まれていた。
アーサーの個人用書斎には、つい今しがた、バリー伯爵家かかりつけの医師がやってきて、リンズウッド伯爵未亡人の診察結果と、細かな注意事項について報告したところだった。老マクレガーが丁重に医師を見送りに出た後、部屋に残ったのは、アーサーと、気の置けない交流を続けている仲間たちだった。
アーサーは暖炉の側に立ち、厳しい顔つきで、室内に集った面々をぐるりと見渡した。それぞれが思い思いに黙り込んでいる。
全ての感情を無表情の下に押し込めたブラッドは、窓ガラスにもたれるようにして佇んでいる。リンズウッド伯爵未亡人を襲った災厄について、帰館したアーサーに報せてきたのは、他でもないこの弟だった。
ソファセットに席を取ったのは、兄弟の親友ふたり――ウィロビー伯爵ウィルと、ケヴィン・ヒューイットで、テーブルを挟んで向き合っている。
ウィルはアーサーと共に、日中は釣りに参加していた。帰館して部屋に引き取ったところを呼び出され、この部屋にやってきたところで、事件を知った。終始穏やかな表情の彼も、さすがに顔色を変え、沈痛な面持ちで腰を下ろしている。両手を組んで口元にあて、歯を食いしばるようにして、衝動をやり過ごそうとしているようだった。
一方のケヴィンは、釣りに参加したものの、ウィニーが予言した通り、昼過ぎ早々に1人だけ帰館していた。未処理の書類が気になって、アーサーの書斎を借りて黙々と仕事をしていたため、やはり事件については、ウィルと共にアーサーから知らされた。
妻の親友を襲った出来事を耳にして、彼は険しい顔つきをしたものの、最悪の事態には至らなかったと聞いてからは、冷静さを取り戻していた。事件が事件だけに、楽観視できる要素は何もないが、レディ・ソフィアを救ったのがブラッドだったと知って、一瞬だけ愉快そうに目を光らせた。
必要な報告を終えてから、黙りこくったままの弟を、アーサーはちらりと見遣ってから、ため息と共に言葉を吐き出した。
「――憂慮していた事態が現実のものとなってしまったが、レディ・ソフィアの名誉は何とか守ることができた。彼女に安心して滞在してもらうためにも、脅威は取り除かねばならない。ウィッカムには即刻出て行ってもらう」
「当然だな。もっと重い罰を課してもおかしくないくらいだ」
珍しく辛らつな意見を述べたのは、ウィルだった。ソフィアが受けたショックを思うと、やりきれなさでいっぱいになる。釣りになど行かず、彼女の側を離れなければよかったと、際限のない後悔に襲われていた。
「その通りだが、あまり事を荒立てるのを、レディ・ソフィアは望まないだろう」
「速やかにウィッカムを追い出し、心置きなく休息してもらうのが最善だな。今すぐに罰しなくても、ウィッカムを追い込む策には困らんさ」
親友が感情を露わにする様子を見て、僅かに目を瞠ったものの、アーサーは冷静に諌めた。どうやってウィッカムに制裁を与えるか、頭の中には既にいくつもの策があるのだろう、ケヴィンが首を竦め、物騒な台詞をあっさりと口にする。
ソフィアの休息を第一にする、という意見は、もともとブラッドが言い出したものだった。彼女が受けた衝撃は強く、これ以上負担をかけないようにしたいという主張はもっともで、奇しくも医師の意見と一致していた。
先ほどの医師の所見によれば、ソフィアは身体にいくつかの打撲を負っているものの、大きな怪我はしていないということだ。心配されるのは、身体の傷よりも心の傷で、当面は彼女のペースで、ゆっくりと休養するようにと、老齢の医師は何度も念押しをしていった。
彼女に大きな負担を与える元凶――ウィッカム男爵フレデリック・ハーストは、東屋を逃げ出した後、自室へ戻ったことを、ブラッドの従僕が見届けている。その後も、行方をくらまさないよう、それとなく監視させている。
ウィッカムやソフィアが部屋へ戻った後、日中外出していた客人たちも館へと帰ってきた。客人たちの多くは、夜に備えて仮眠を取ったり、談話室でおしゃべりに興じていたりとめいめい自由に過ごしており、この時間帯は館内や庭を出歩く人間が少ない。人目につかないようウィッカムを追い出すのであれば、今が好機だった。
今宵の晩餐に彼が出席していなくても、急用ができて、慌しくロンドンへ戻っていったといえば、疑問に思う者はいないだろう。ソフィアの評判も損なわれることがなく、疲れが出て休んでいると言い繕えば、午後に東屋で起きた事件は秘匿できる。
アーサーが腕組みを解いて、頷きかけると、ブラッドも窓から身体を離した。弟に意図が伝わったのを確認し、アーサーは残る友人ふたりに向かって重々しい口振りで告げた。
「これからウィッカムのところへ行ってくる。ブラッド、一緒に来てくれ。ウィルとケヴィンは、ここで待っていてくれないか」
「待ってくれ、アーサー!それなら私も一緒に――」
ウィルが立ち上がりかけたが、それを目で制して、アーサーは首を横に振った。その表情と同様に、厳しい言葉が彼の口から零れた。
「君はここにいてくれ、ウィル。私はこの家の主として、ブラッドは主の一族として、責任がある。ヒューズ一族の名誉にかけて、断固とした態度を取らなければならない。君の気持ちは察するが、ここで出ていくとややこしいことになる。待っていてくれないか、悪いようにはしない」
この館の主人に、ここまできっぱりといわれたら、ウィルも黙ってソファにもたれるしかなかった。アーサーの言葉は正しいし、おそらくはウィルを気遣って飲み込んだ言葉もある。
ウィルがもしも、ソフィアの婚約者か夫であれば、誰より先にウィッカムを詰る権利がある。けれど今の状態では、アーサーにその役目を譲らなければならない。
納得できない感情を理性でねじ伏せて、ウィルはがくりと下を向いた。アーサーはケヴィンと目配せを交わし、沈黙を通している弟を促して、扉へと手をかける。俯いたままのウィルの耳に、アーサーの声が遠く届いた。
「ブラッド、行くぞ」
ふたり分の足音が廊下へと出て行き、ガチャリと扉が閉まる音がする。自分の足元をじっと見つめているウィルに、ケヴィンが淡々と声をかけた。生粋の実業家らしく、こんな時でも冷静さを失わない友の声は、酷く耳障りだった。
「そんなに落ち込むな。レディ・ソフィアを守れなかったのは、君だけじゃないんだ。私も含め、誰もが危険を感じていながら、防ぎきれなかった。自分ひとりを責めるな、ウィロビー」
「――君の奥方が同じ目に遭ったとしても、そういえるか?」
両肘を腿につけて、両手をがっちりと握り締めて、上体を前傾にしたまま、視線を落としていたウィルが、不意に顔を上げ、強い口調で反問した。青い顔の中で、茶色の瞳が爛々と光っている。それまでどこか余裕を漂わせていたケヴィンが、思わず表情を改めるほど、ウィルは憔悴していた。
「そうだな、ウィロビー。ウィニーと婚約すらしていなかったら、私も怒りを持て余していただろう。そして、自分を責めていただろうな」
少しだけ間を置いて、再び口を開いたケヴィンは、やわらかな眼差しで友人を見つめ返した。男として、友人の気持ちは痛いほどわかる。そうしてから、やけに現実味を帯びた声音で補足したのも、友人の気持ちを和らげようとする彼なりの心遣いだった。
「もちろん、どんな立場だろうと、ウィニーに手を出す男がいたら、迷わず世界の果てまでも追いかけて、生まれてきたことを後悔させてやるさ。すぐに報復するだけが手じゃない。焦らなくていいんだ、ウィロビー」
暫く沈黙した後で、ウィルは小さく息を吐いた。
ソフィアの事件を知らされてから、ウィルの脳裏にちらつくのは、早春のバースの風景だった。明るい窓際に置かれたベッドに、力なく横たわる細い身体を抱きしめた、遠い朝の光景が、何度も甦っては焦燥の波となって襲ってくる。
「私は2度と後悔したくないんだ。既に1度、大切な人を亡くしているから、同じ事を繰り返したくないんだ」
「レディ・ソフィアは無事だし、直に回復する。それを間違えるな、ウィロビー」
容赦なく切り返され、ウィルは苦笑した。くしゃりと右手で前髪をかきあげる。
「ああ、彼女は無事だった。ブラッドに助けられて――」
ウィッカムをぶちのめし、ソフィアを救ったのは、動くことはないと思われていた青年だった。ブラッドとソフィアの間に、何があったのか、過去を詮索するつもりはない。ただ、あのふたりが互いを意識しているのは、注意してみていればすぐに解ることだった。
「ブラッドか」
ケヴィンが、愉快そうに笑った。
「彼も、本気で動くことにしたのかな」
なりふり構わず、大切な相手のために行動しろと忠告したのはケヴィンだ。
「参ったな・・・・・・ブラッドが本気なら、私の分が悪くなる」
やれやれと肩を落としたものの、ウィルの眼差しは明るい。後悔したくなければ本気を出せと発破をかけたのは、ウィルだ。
自分の気持ちを覗き込めば、はっきりと答えが出ていそうなものなのに、頑なにそれを拒否していたブラッドが、とうとう動いた。ウィッカムは去っても、ソフィアを囲む事態が安定するのは、まだ先になりそうだ。顔を見合わせたふたりは、どちらからともなく眉尻を下げた。
ただならぬ空気を纏って、急ぎ足で廊下を進んでいく主人とその弟に、偶然行き逢ったメイドたちは、跳び退るようにして壁に張りついて道を開け、深々と礼をした。緊張のあまり、息を止めながら。主人兄弟の背中が見えなくなってから、彼女たちは怖々と呼吸を再開した。
書斎を出てからも、ブラッドはひと言も口を開かなかった。渦巻く感情を見事にしまいこんで、一見平静な様子で足を運んでいるが、その仮面が脆いことを、アーサーは敏感に感じ取っていた。
何しろ、ブラッドを取り巻く空気が、平静とは言い難いのだ。皮膚のすぐ下には、ぐつぐつと煮え立った激情が溢れそうになっているに違いない。そうでなければ、こんな気配を発するはずがない。アーサーの肌に先ほどから突き刺さってくるそれは、殺気と呼ばれるものだ。
ウィルほど動揺を露わにしていないだけで、ブラッドも今回の件では、大きな衝撃を受けている。並んで歩く弟の横顔を盗み見て、アーサーは眉間の皺をいっそう深くした。
滞在客の間で発生した事件を解決する責務を負い、困ったことだと思いながらも行動するアーサーの両肩には、館の主人としての責任が純粋にかかっているだけで、実のところ、それほどの悲壮感はない。ソフィアのことは気の毒だと思うし、同じ男性として、紳士にあるまじき振る舞いをしたウィッカムへの怒りもある。
けれど、個人的にソフィアへ入れ込む理由は、アーサーにはなかった。ウィルやブラッドは、義憤ではなく、ソフィアへの個人的な感情が先行している。ブラッドがどこまで自覚をしているかは知らないが、彼にとってレディ・ソフィアが重要な存在であることは、間違いないようだった。
このふたりがオルソープ家の舞踏会で再会した時には、ベッキーとふたりで随分気を揉んだものだが、結果的には弟へ良い作用を及ぼしたようだ。
5年前の秋に大陸から戻ってきて以来、すっかり心を閉ざしてしまったブラッドは、他人との親密な係わり合いを避けるようになった。家族に対しても、頑なに距離を置いて向き合うようになっていた。
やがてフォード伯爵家を継ぎ、爵位に付随する責務を黙々とこなしてきたブラッドは、仕事に対する情熱を、人間に向けようとはしなかった。その彼が、他人に降りかかった出来事に、こうまで反応を示している。
5年前にハンプシャーを訪れたソフィアを、アーサーはぼんやりとだが覚えていた。快活だったブラッドが、心底惚れこんでいた相手だからだ。
当時、ふたりの間に何があったかは知らない。しかし、ブラッドが大陸へ赴いた直後、彼女は急ぎロンドンへ戻っていき、間もなくリンズウッド伯爵との婚約を発表した。帰国するまで、ブラッドは何も知らされていなかった。塞ぎこみ、部屋に閉じこもっていた日々を、アーサーは鮮明に覚えている。再び部屋から出てきた時には、ブラッドは軍隊へ入る意志をすっかり固めていた。
アーサーたちから見れば、ソフィアが弟を裏切って、感情も取り上げてしまったように思えた。そのような女性との再会が、弟に何をもたらすのか。注意して見守ってきたけれど、杞憂だったようだ。弟の凍りついた感情を引き出してくれるのは、レディ・ソフィアしかいないらしい。
ふとブラッドが足を止め、それに気づいてアーサーも立ち止まった。家族用の東棟から、来客が滞在している西翼の廊下を進んでおり、ウィッカムの部屋まであと少しの距離まできていた。
弟が立ち止まった理由は、すぐに知れた。前方から息を切らせて走ってくる従僕は、ブラッドがウィッカムの監視に付けたといっていた男のものだったから。
主人兄弟の元へたどり着いた時には、従僕の顔は真っ青になっていた。
「何があった、サイラス」
ブラッドが鋭く尋ねると、哀れな従僕は震え上がり、息も絶え絶えに答えた。
「ウィッカム卿が、ロンドンに戻ると仰って、部屋を出ていかれたのです。馬車を用意させている間に、急ぎお知らせしなければと思いまして・・・・・・」
聞いているうちにブラッドの表情が険しくなる。最後の辺りは消えそうな声でぼそぼそと言うなり、サイラスは俯いてしまった。無断で男爵の側を離れたことを叱られると思ったのだろう。ブラッドが低く悪態をつくと、サイラスは縮み上がった。
「サイラス、よく知らせてくれた。私たちもすぐ下へ降りよう。ひと言いってやらねばならないから。お前は先に行って、馬車を引きとめておきなさい」
とりなすようにアーサーが労うと、サイラスはほっとした様子で頷き、再び弾かれたように駆け出していった。サイラスの背中が廊下の角を曲がって消えると、アーサーは隣の弟に目を向けて、その肩にポンと手を置いた。無表情の仮面はすっかり剥がれ、ブラッドはきつく唇を食いしばって、拳を握り締めている。
「あの男にも、多少は考える頭があったということだな」
「馬鹿なことをしでかす前に、考えるべきだったよ」
「それはそうだが・・・・・・我々も下へ行こう」
苦笑しながらアーサーが促し、ブラッドが不機嫌そうに頷いた時だった。不意に、この場面には不似合いな声が、ゆったりと聞こえてきた。
「あら、フォード伯爵とバリー伯爵ではありませんか。このようなところで、どうなさったのですか?」
誰も居なかったはずの角に、いつの間にか佇んでいるのは、長身の女性だった。素早く感情をしまい込んで、ブラッドがそちらに向き直る。アーサーは、この場を弟に任せることにして、口を噤んだまま、赤毛の女性に軽く目礼を送った。彼は、この女性のことが、どうにも苦手だった。
「義姉の部屋へ向かうところですよ。あなたこそ、こんなところで何をなさっているんですか、ミス・テイラー」
口調こそやわらかいものの、キャサリン・テイラーへ向けたブラッドの眼差しは、好意的なものではなかった。苛立ちを含んだ、やや剣呑なそれを向けられたら、大抵の女性は圧倒されてしまうだろう。だが、アメリカからやってきた赤毛の女性は、気に留めた風もなく、妖艶な微笑みを返しながら、兄弟の元へと近づいてきた。
「晩餐の前に、少し散策を楽しんでいたのですわ。夕方の風がとても心地よかったものですから」
琥珀色の瞳が誘うようにブラッドを見上げてきたが、彼はただ無感動に見返しただけだった。礼儀正しく応じながら、口振りも淡々としたものだ。
「そうですか。我が家の庭を楽しんでいただけたなら、光栄です。では我々は急ぐので、また後ほどお逢いしましょう」
あっさりと視線を振り切って、ブラッドはアーサーに目配せをし、再び歩き出そうとした。が、それを遮ったのは、艶やかなアルトの声だった。
「伯爵、ウィッカム男爵はどうかなさったのでしょうか」
「――それはどういう意味でしょう?」
ブラッドが冷ややかに見下ろすと、キャサリンは、我が意を得たりとばかりに、にっこりと微笑んだ。琥珀色の双眸が、猫のように細く眇められる。
「先ほど、下でお逢いしたのですわ。荷物を馬車に運び込ませて、慌てた様子で乗り込んでいらしたから、何か尋常でないことが起きたのかと、わたくし、心配していたのですわ」
「馬車に乗り込んでいた?」
ぴくりとブラッドの眉が跳ね上がる。彼の気を引くことができて嬉しいのか、キャサリンの笑みはますます深く、艶やかになった。
「ええ。声をおかけする間もありませんでした。馬車に飛び乗って、そのままお出かけになりましたわ」
サイラスは間に合わなかったのだ。
アーサーが腕組みをして、眉間に皺を寄せたが、ブラッドは無表情を装いながら、キャサリンに頷いてみせた。
「男爵はロンドンから急な呼び出しがかかったので、戻られたのですよ。私たちも引き止めたのですが、どうしても外せない用件だといって、急いで帰られると仰っていました。まさかこんなに早く準備を整えるとは、思ってもみませんでしたが」
「まあ、そうでしたの」
ブラッドの説明を、すんなりと受け止めたらしい。キャサリンは目を瞠って、口元に手を当てた。
「せっかくのパーティーですのに、出席者が減るのは残念ですわね」
「仕方ないことです。ウィッカムも我々も、爵位に対する責任を持っていますから」
当たり障りなく返答をして、ブラッドはきっぱりと話を打ち切った。
「では、晩餐でお逢いしましょう、ミス・テイラー」
いい終えるなり、ブラッドはアーサーの肩をひとつ叩いて歩き出した。キャサリンに目礼してから、遅れるまいとアーサーも大股で歩き出す。すぐに追いついて、小声で耳打ちをした。
「どうするつもりだ、ブラッド」
「このまま引き返すのも不審に思われるだろう。1度下に下りて、状況を確認する。それから書斎へ引き返そう」
もはや不機嫌さを隠さずに、ブラッドは低く返した。ウィッカムをみすみす逃してしまった悔しさで、端正な顔も強張っている。アーサーも小さく首を横に振って、唇を引き結んだ。ふたりの頭を占めているのは、今後の対応をどうするかということだけだった。
そのため、廊下に佇んだままのキャサリンが、不敵な笑みを浮かべていたことに、ふたりとも気づかなかった。楽しげに口角を上げたまま、兄弟の姿が消えるまで、彼女が見つめていたことにも。琥珀の瞳には、挑戦的な光が宿っていた。