第3章 追憶の館[11]

  寝椅子から窓の外をぼんやりと眺めて、ソフィアは、今日幾度目になるかわからないため息をついた。ふう、と零してしまってから、我に返って、苦い微笑を唇の端に浮かべる。このところ、ため息をつくことが、すっかり癖になってしまった。気づくとため息ばかりついている。

 東屋での事件が起きてから、4日目の午後。あれ以来ソフィアは、外へ出ずに過ごしている。
 今も、ソフィアの自室――ゴールド・マナー滞在中に与えられている部屋には、ソフィアと、侍女のアリスしかいない。忠実な侍女は、手際よくお茶の準備を進めている。その表情は楽しげだ。女主人の順調な回復ぶりが嬉しくてたまらないという気持ちが、彼女の全身から伝わってくる。
 事件のあと、アリスは酷く自分を責め、思いつめた顔をしていた。あの時ソフィアをひとりきりで行かせなければ、事件は起こらなかったかもしれない。何としても引き止めればよかったと、ベッドに臥せた女主人の憔悴振りを見るたびに、後悔に駆られていた。

 ブラッドの手により、部屋へと運び込まれた時のソフィアの姿は、それほどに衝撃的だった。
 けれど、ソフィアからすれば、周囲に注意を促されていたにも関わらず、軽率にひとりで行動したのは、自分の判断だ。アリスが気に病むことはないし、このままではアリスの方が精神的に参ってしまう。
 そう危惧したソフィアが、ウィニーとふたりがかりで説得し、今回の事件の責任を感じることはないと、納得させたのは、つい一昨日のこと。その頃にはソフィアもベッドから起き上がれるようになっており、アリスも気持ちが軽くなったようだ。

 全身に痣や擦り傷はまだ残っているものの、ソフィアは再び起き上がり、部屋の中を歩けるようになった。ナイトドレスから室内用のドレスに着替え、髪を結い上げさせたりはするものの、部屋から外へ出ることは、まだできずにいる。
 ウィッカムが館から逃げ出したと知っても、外へ踏み出すのは躊躇われた。部屋の中で、窓から見える景色をスケッチしたり、読書をして過ごす方が、他人にも煩わされず、穏やかな心持でいられる。事件の後から、ソフィアは自室に籠もりきりで過ごしていた。

 ウィニーやベッキーは、日に何度となくやってきて、ソフィアの話し相手になっていった。彼女たちは事件のことに触れない代わりに、ソフィアに外出を強要することもなく、他愛無い話を交わしていくのだった。
 リンズウッド伯爵未亡人の不在は、アーサーからうまく説明してあるから心配はいらないと語ったのは、ベッキーだった。レディ・リンズウッドは体調を崩し、4日前の午後、自室で休息を取っていたが、そのまま寝付いてしまったということになっているらしい。
 バリー伯爵の説明のおかげで、ソフィアの不在を疑問に思っている者は誰もいないと、ウィニーも太鼓判を押した。伯爵は実直で真面目な方だけれど、そ知らぬ顔で嘘をついてしまうのよ、と、ウィニーが笑っていたから、ソフィアもつられて吹き出したことは、ベッキーには内緒だ。
 ともあれ、あの事件のことは、上手く隠蔽されており、ソフィアの評判が下がるようなことはなかった。

 ふと、寝椅子の脇に据えられたテーブルに目がいく。幾つかのメッセージカードが置かれた中で、数枚は赤いリボンで束ねられている。送り主の顔を思い浮かべ、ソフィアはもう1度ため息をついた。
 アリスがお茶を持ってきたところで、部屋の扉をノックする音が聞こえてきた。アリスが飛んでいき、やがて入ってきたのは、ウィニーだった。
「またお花が増えたのではない?まるで温室が引っ越してきたみたいね」
 寝椅子の向かいにあるソファに腰を下ろして、ウィニーが肩を竦めた。手早くもう1人分のお茶の用意を済ませ、アリスは静かに部屋を出て行ったので、最低限取り繕っている遠慮も、すっかり取り払われてしまった。

 部屋の中は、あちこちに花が飾られている。色とりどりの花々は、バリー伯爵家自慢の温室で、庭師が丹精込めて育てたものだ。ウィニーが午前中に訪れた時よりも、花の数が増えている気がするのは、気のせいではない。
「毎日届けていただいているの。お気遣いいただいて、本当に申し訳なく思っているわ」
 ソフィアの眉尻が、困惑しきって下がっているのを見て、ウィニーはやれやれと微笑んだ。風邪で臥せっていることになっているリンズウッド伯爵夫人のもとには、毎日誰かしらが、見舞いの花を届けてくる。ゴールド・マナーに滞在している男性客のほとんどが、1度はソフィアに花を届けていることを、ウィニーは知っている。

「何をいっているの。気遣いなんていうものは、ありがたく受け取るだけでいいのよ。花を送るという行為に、相手は満足してるのだから。あなたは余計な心配をしないで、ゆっくり休めばいいのよ」
「そうかもしれないけれど・・・・・・」
 はっきり言葉にするのを躊躇い、口ごもったものの、ソフィアは気を取り直して顔を上げた。今度はよどみなく告げる。

「ヨークシャーへ帰ろうと思うの。社交界って、やっぱり性に合わないみたい。パーティーに復帰する気にはなれないし、このまま人さまのお屋敷で休んでいるのも心苦しいし。ちょうどデイヴィーからも手紙がきたから、そろそろ潮時だと思うの」
「デイヴィーって、義理の甥ごさん?」
「ええ。夫の甥で、リンズウッド伯爵家の次期当主よ。この秋には彼が当主となる予定だから、そろそろその準備もしなくてはいけないの」
 これまではソフィアが当主代行として動いてきたが、デイヴィーが当主となれば、その役目も終わる。彼の手紙が届いたのは、潮時だった。

「アンはどうするの?」
「お父様を1人で残しているから、一緒に帰るといっているわ。ずっと気にかかってたみたいで」
「そう。いつ出発するかは決めたの?」
 ウィニーに尋ねられ、ソフィアはこくりと頷いた。
「明日、ロンドンへ向けて発つことにしたわ」
「明日!?随分急ね」

 肝の据わっているウィニーも、さすがに驚いたようで、手にしたカップが揺れた。口元まで持っていかず、テーブルへとカップを置いてから、身を乗り出すようにして親友へと向き直る。
「ベッキーには話したの?」
「今朝話したわ。引き止められたけれど、最後は理解してくれたわ」
 ソフィアの返事を聞いて、ウィニーがゆっくりと首を横に振った。何か言いたげに唇を開いたものの、結局は言葉を飲み込んだようで、代わりに零れたのは、しんみりとした台詞だった。

「寂しくなるわね」
「ウィニー」
 気丈な友人が漏らした気弱な言葉に、ソフィアの心が震えた。寝椅子から立ち上がり、ソフィアはウィニーの横へ腰を下ろすと、親友の両手をぎゅっと握った。
「素敵な旦那様と一緒だもの、あなたは大丈夫よ。わたくしのことを思い出す暇がないくらい、ミスター・ヒューイットのことで頭がいっぱいよ」
「酷いわ」
 茶目っ気たっぷりにソフィアがウィンクすると、ウィニーが堪えきれずに吹き出した。そのままふたりは顔を見合わせて笑い声をたてた。女学生時代に戻ったかのような、明るく、気の置けない空気が室内に満ちた。

「ヨークシャーに遊びに行くわ。ミスター・ヒューイットが何をいっても、わたくし1人でだって行くわよ」
「待ってるわ。わたくしも手紙を書くわね」
「絶対よ」
 ニコリと笑ったあとで、ウィニーの表情がスッと真面目なものへと変わる。ソフィアが戸惑っていると、ウィニーはずばり核心を突いてきた。

「ウィロビー伯爵は、このことをご存知なの?」
「今日の朝、お話したわ」
 一瞬言葉に詰まったものの、ソフィアはそ知らぬ顔をして切り抜けた。
 今朝、ベッキーとの話が済んだ後、見舞いにやってきたウィロビー伯爵とは、話をする機会が持てたのだ。ソフィアが事件に遭遇したことを、酷く気に病んでいるようだったから、彼には早く知らせておかなければと思った。今シーズンの社交界で初めて出逢った人物だが、短い期間でも、ソフィアのことで様々に気を配ってくれたのだ。2人の関係を、パーティー参加者たちが色々と勘ぐって噂していることは、噂話に疎いソフィアでも知っている。ウィルに特別な感情を抱いてはいないから、尚のこと、きちんと帰郷について話しておかなければならなかった。

「そう」
 それ以上突っ込まずに、ウィニーが頷いただけだったので、ソフィアは少々拍子抜けした。ウィルとの関係をどうするつもりなのか、問い質されてもおかしくないと思っていたからだ。ウィニーがあっさり引き下がるのは妙だと思ったが、その理由はすぐに知れた。ウィニーが続けて放った質問、そちらの方が核心なのは明白だったからだ。

「フォード伯爵には?」
「――まだお話していないわ」
 ウィニーの視線を避けるように、ソフィアは俯いた。顎を引く前に、テーブルの上に束ねられたメッセージカードに目をやってしまったことを、敏い親友はきっと気づいただろう。
「バリー伯爵とフォード伯爵には、ベッキーが伝えて下さるそうなの」
「そう。ベッキーが伝えるより他に、あなたからも何か言葉をかけておく方がよさそうだけど。彼、あなたのことを随分と気にかけているようだから」
 夫から何か聞いているのか、ウィニーは淡々とした声音で相槌をうった。

 ソフィアを救出して以来、それまでと打って変わって、ブラッドは親身に世話を焼くようになっていた。突然の変化に、ソフィアが戸惑いを隠しきれないことを、ウィニーは気づいているだろうに、敢えてそのことに触れようとはしない。ブラッドがミスター・ヒューイットに何かをいっており、それをウィニーも聞き及んでいるのかもしれないが、そうなってくると、ソフィアは居心地の悪さを感じずにはいられなかった。
 ソフィアを案じるサファイアの瞳の奥に、どういう種類の感情が渦巻いているのか、知るのが怖かった。

「責任感や使命感の強い方なのね。迂闊だったわたくしがいけないのに、こんなに心配して下さるなんて――わたくしのことなんて捨て置いて下さればいいのに、本当に申し訳ないわ」
「どちらにしても、手紙ぐらいは書くべきよ」
 ため息とともに零れ落ちた後半の台詞に、ウィニーは片眉を上げたものの、本心とは異なる言葉を口に出した。ソフィアが何かを怖がっているのは明らかで、それがフォード伯爵に関係しているというところまでは推測できるのだが、明確には掴めない。『捨て置いてしまえばいい』などという台詞を、ソフィアは吐いたことがない。その上、今の彼女は、酷く辛く、悲しげな表情をしていた。

 ウィニーは、友人の手をぎゅっと握り締めた。
「何があったのかは聞かないけれど、ひとりで抱え込んではダメよ?我慢しないで、わたくしに吐き出してしまいなさい。何かあれば、ヨークシャーにだって、すぐに駆けつけるから」
 だから、ひとりでやせ我慢などしなくていいのよ。
 力強く言い切る親友の言葉に、ソフィアは驚いたように目を瞠って、それから、泣き出しそうな瞳のままで微笑んだ。自分の中で渦巻く矛盾が、怖かった。

 ブラッドと距離を置くべきだとわかっているのに、彼からもらったメッセージカードの束を手元から離せず、夜はともに眠っているなんて。彼の呼吸を感じさせるものが側にあると、ぐっすりと眠れる。それに気づいて以来、赤いリボンで束ねたカードは、お守りのようになってしまった。
 彼と離れたい、離れがたい。昔と違ってしまった2人の立場が、様々なことを難しくしているというのに。

 女学生時代から変わらぬ友情を示してくれる友人の手を、ソフィアは握り返した。
「ありがとう、ウィニー。今は無理だけど、いつかあなたに、全てを話せると思うわ」
 だからそれまでは、見守っていてね。
 胸の中で呟いた言葉は、しっかりと友人の耳には届いていたらしい。わかったわ、と、ウィニーは元気づけるように頷いた。


 なぜこういう展開になるのだろう。

 馬車の中、目の前に座る人物の顔をちらりと盗み見て、ソフィアはがっくりとうなだれそうになるのを、辛うじて堪えた。相手にばれないように見たつもりだったが、ソフィアの一挙手一投足を見逃すつもりはないらしい。ソフィアの動きは全てお見通しとばかりに、相手が素早く顔を向けてきて、目が合いそうになった。慌てて逸らした顔に、じっとサファイアの眼差しが注がれているのを感じて、ソフィアは小さく縮こまった。

 昨日、ゴールド・マナーを出発して以来、馬車の中でずっと顔をつき合わせているのだが、ブラッドが目の前にいるという状況に、どうにも慣れることができない。落ち着かない心を何とかなだめて、平静を装っているのも、2日目になると、きつくなってくる。わざとらしくならないよう気をつけて、ソフィアは窓の外の景色を眺めるふりをする。窓ガラスにぼんやりと映っているサファイアの瞳を、強制的に意識の外へと追い出した。

 彼が親身に世話を焼いてくれるのが辛くて、ロンドンへ向けて発つことにしたのに、当のブラッドが同行することになるとは、全くの予想外だった。
 ウィニーに、出発のことを告げた夜、バリー伯爵夫妻と共にブラッドにも逢って、感謝を綴った手紙を渡そうとしたのだ。だが、告げられたのは、ブラッドも共にロンドンへ戻ることになったという報せだった。
 驚いて固まってしまったソフィアに、ブラッドは抜け抜けと微笑んでみせたのだ。「ちょうど、ロンドンで片付ける仕事があるので、そのついでです。ご婦人と子供だけの旅では、何かと心もとない。特に今はまだ、レディ・リンズウッドも本調子ではないのだし、護衛がいた方がよいでしょう」と、真っ青な瞳を煌かせて彼は申し出た。

 勿論ソフィアは、丁重に断ろうとしたのだが、それも叶わなかった。アーサーとベッキーが、同行を熱心に勧めてきたのだ。ベッキーが相手となると、ソフィアの分は悪かった。このパーティーを通じて親しくなったベッキーの、人の良さはよく知っている。その彼女が心からソフィアを案じ、気を配ってくれているのだ。無理のないよう、途中で一泊宿を取るように手配したし、フォード伯爵家の馬車に、ブラッドの従僕とソフィアの侍女を乗せて分乗すればいい、とまで言われて、ソフィアの退路は断たれてしまった。

 その結果、2台の馬車が昨日の午後、ゴールド・マナーを出発した。リンズウッド伯爵家の馬車には、ブラッドとソフィア親子、それにアンが乗っており、少し前を行くフォード伯爵家の馬車には、ブラッドの従僕と、ソフィアの侍女のアリスが乗っている。ブラッドの横にはグレースが、ソフィアの横にはアンが座っているが、ブラッドとソフィアはちょうど向かう合う形に席を取っており、長身の姿が嫌でも視界に入るのだ。

 窓の外を過ぎ去る春の景色を、熱心に眺めながら、首筋に注がれる視線をソフィアは感じ取っていた。熱を持ったそれは、じりじりとソフィアの肌を焼いていくようだ。
 ちょうどタイミングよくグレースが話しかけて、相手の視線が逸れる。ソフィアは知らずに詰めていた息を、小さく吐いた。
「フォード伯爵は、ロンドンのお屋敷にひとりで住んでいるの?」
「そうだよ」
「ひとりきりなんて、寂しくないの?」
 緊張するソフィアとは対照的に、娘のグレースは、フォード伯爵とすっかり打ち解けてしまっている。ロンドンへ向けて出発してから、2人は絶えず楽しげに言葉を交わしており、親密そうな様子は、ソフィアが驚いて言葉もないほどだ。独身のブラッドと、幼いグレースのどこが意気投合したのか、馬車が出発してからソフィアは首を捻っていたが、直に理由は知れた。

 甥姪のもとを訪れたブラッドが、グレースの歌を気に入ったのがきっかけだと、グレース本人が教えてくれた。
「そうだね。賑やかなバリー伯爵家が懐かしくなる時があるよ」
「じゃあ、ジェフやレイの代わりに、時々わたしが遊びに行って差し上げるわ」
 出発以来、ブラッドの横の座席を陣取っているグレースが、得意そうな声を上げる。とびっきりのアイディアだと目を輝かせて、無邪気に見上げてくる小さな淑女を、ブラッドは優しく目を眇めて見下ろした。口元には、歪んだものではない、本物の笑みがほんのりと浮かんでおり、全身を包む空気は穏やかだ。その姿は、仕事に没頭するフォード伯爵とはまるで別人で、ソフィアがよく知っていた、バリー伯爵令息の姿とそっくりだった。

 いつの間にか吸い寄せられるように2人の様子を見つめていたソフィアは、不意に胸が詰まって、顔を伏せた。グレースとブラッドの共通点である、黒髪が目に痛い。
「それは嬉しいけど、レディは1人で男性の屋敷を訪ねたりしないものだよ」
 ブラッドがウィンクを送りながら指摘すると、グレースは頬を膨らませたが、再び素敵なアイディアを思いついたとばかりに、両手を打ち合わせた。
「1人がダメなら、母さまと一緒に行くわ!それならいいでしょう、伯爵?」
「グレース!」
 思わぬところで引き合いに出され、ソフィアはハッと顔を上げて、たしなめるように少々強く娘の名を呼んだ。しゅん、と肩を落としたグレースに、ブラッドが低く心地よい慰めを落とす。
「お母さまの都合を考えないといけないね、グレース」
「――あなたの気持ちもわかるけれど」
 しょんぼりした小さな姿に良心が咎め、ソフィアも、ブラッドに続く形で口を開いた。できる限り滑らかで穏やかな声を出すように努めながら。
「わたくしたちは、あまりロンドンに滞在しないのよ?すぐにヨークシャーに帰るから、伯爵のお屋敷を訪問する時間は、取れそうにないわ」

 グレースは唇を尖らせて、上目遣いで母親を見つめた。不満があるときによく見せる仕草だとわかっているから、ソフィアは根気強く、包み込むような眼差しで娘を見つめ返した。瓜二つの、灰色がかった青い瞳が、真正面からぴたりとぶつかり合う。しばしの攻防の後、グレースはいつもの通り、聞き分けの良いところを示した。
「わかりました、母さま」

 ソフィアが、安堵と同時に、年齢のわりに物分りの良すぎる娘を哀れに思った時、グレースは再び顔を上げて、ソフィアそっくりの眼差しでブラッドを見つめた。
「伯爵、リンズウッド・パークに遊びに来て下さいね。わたしが遊びには行けないのは残念だけど、伯爵は大人の男の人だし、1人で旅行できるでしょう?ヨークシャーの荒れ野は、とっても綺麗よ。伯爵にも見て欲しいの!ね、母さま、それならいいでしょう?」
「グレースったら・・・」
 小さな娘の反撃に意表をつかれ、ソフィアは言葉を探しあぐねたまま、困惑して視線を彷徨わせた。これだけ世話になっておきながら、無下にはねつけることはできない。しかし、ブラッドを気安くヨークシャーの領地にまで招き入れたくもない。

 様々な思いがこみ上げ、ますます適切な台詞を遠ざける。実際に、ブラッドが同行しての旅は、予想以上に快適だった。彼の気配りは完璧で、昨夜の宿も清潔な居心地の良い部屋を提供してくれた。御者以外に男手のない旅は不安だが、頼りになる男性が複数同行する旅は、やはり気が楽だ。ソフィアが気を張り続けねばならなかった往路とは、疲労度も違う。それは認めざるを得ない。
 だが、リンズウッド・パークという、閉じられた、平穏な世界に、ブラッドを招き入れることはしたくなかった。あそこでは、伯爵夫人としてのソフィアの生活が、至るところで窺い知れる。この5年間を、下手に詮索されたくはなかった。

 黙りこくって言葉を探し続けるソフィアの代わりに、ブラッドが苦笑を交えながらグレースを諭す。
「グレース、招待を押しつけてはいけないよ?お母さまもお仕事が沢山あるのだから、お忙しいのだよ」
 そうでしょう、と、問いかけるように視線を合わせてくるブラッドを、この時ばかりはソフィアも真っ直ぐに見つめ返した。そのために、気づいてしまった。真っ青な瞳の奥に、縋るように揺らめく光があることを。どこか寂しげに、その炎が揺れていることを。

 気づいた時には、言葉が自然に唇から零れてしまっていた。
「パーティーなどは催せませんけれど、ヨークシャーにお越しの際は、お寄り下さいな」
 何をいっているのだと、自分自身に舌打ちをしたくなるけれど、ブラッドの瞳に宿る光から縋るような色が消え、輝きが増したのを見て、胸の辺りがほんのりと温かくなる。知らず、更に勝手に言葉が溢れてきた。
「グレースも喜びます」
 ソフィアの視界の端に、満面の笑顔を浮かべたグレースが映る。父親がいない寂しさを隠し、母親にもあまり我が侭をいったことがない、聞き分けの良い娘。年相応に、子供らしくねだるのも、珍しいことだった。この際、多少のリスクを犯しても、グレースの望みを優先してやりたい。
 サファイアの光に照らされて、居心地の悪い思いをすることになっても。

「ありがとうございます、レディ・ソフィア。あちらへ出かけた際は、お邪魔しますよ。ハガードもウェルズ大佐を訪ねるといっていたから、一緒にお邪魔するかもしれませんね」
 やわらかな微笑みと共にブラッドが礼を述べ、グレースはいっそう嬉しそうな表情をした。ブラッドが口にした名前に、素早く反応し、頬を赤らめたのは、それまで黙って様子を見守っていたアンだった。

 鮮やかな赤毛に負けないほど、頬を真っ赤に染め、アンがおずおずと話しかける。
「その時は伯爵、是非わたくしの父にも逢って下さいませ」
「もちろん、喜んで。何しろ陸軍の大先輩ですからね」
 会話を始めた2人をよそに、ソフィアは再び窓の外へと視線を向けた。といっても、頭を占めるのは、目の前にいる長身の青年伯爵と、グレースのことだけだ。

 なぜグレースがこれほどブラッドを慕うのか、その理由が、昨日から考え続けてもわからない。グレースは大人に囲まれて育ってきたから、あまり人見知りをしない子供だが、若い男性に懐いたことがなかった。身内ではデイヴィーが「若い男性」だが、彼にもこれほど子供らしい顔を見せたことはない。
 父親がいないせいか、1人で伯爵家を切り盛りするソフィアを幼いながらもいたわる、優しい子供だ。聞き分けがよい子だが、子供らしい我が侭や甘えを、もっと外に出したいに違いない。

 我慢させてしまっている、という罪悪感が、常にソフィアにはあった。母子水入らずで、もっと寄り添って生きていければと願っているものの、なかなか実現できないままきてしまった。
 どこか気を遣いあうところのある親子。それがソフィアとグレースの関係だった。よそよそしくはないのだが、相手に遠慮し、なかなか踏み込めない。
 その壁を、いとも簡単に乗り越えてしまったのが、ブラッドだ。
 知り合ったばかりのグレースが、無邪気な表情を惜しげもなくブラッドには見せている。すっかり相手を信用しきっている証拠だ。ベッキーから、ブラッドは、ジェフやレイを可愛がるいい叔父さんだと聞いてはいたものの、グレースとの間には、何か太い絆があるようだった。

 同じ根を持つ者は、本能で、惹かれあうのだろうか。
 グレースは、父親が欲しいと訴えたことはない。領地の教会に行けば、大勢の父親と娘を見かけ、羨ましそうに村の父娘を眺めていることもある。それでも、幼心にタブーだとわかっているのか、ソフィアに対して、父親がいなくて寂しいとか、父親が欲しいと言ったことはない。
 ソフィア自身、父親との温かな思い出を持たないからわからないが、グレースはどうやら、父親像をブラッドに見出しているようだった。兄というよりは、父親に甘える少女と形容する方が、今のグレースにはぴったりだ。
 2人の黒髪が目に焼きついて、ソフィアをじりじりと苛む。本当の父娘といっても良さそうなほど、今の2人は仲睦まじい。ヨークシャーに戻っても、グレースは簡単にブラッドを忘れたりはしないだろう。

 これからどうすればいいのだろう。
 答えの出ない問いかけが、ソフィアの脳裏をぐるぐると回り続けている。ヨークシャーの澄んだ空気の中で、落ち着いて考えれば、何らかの答えを見つけることができるだろうか。
 ソフィア1人だけならともかく、グレースにまでブラッドが関わるようになるとは、全くの誤算だった。
 窓の外は徐々に建物が増え、ロンドンに近づいてきたことがわかる。しかしソフィアの目は、外の喧騒など灰色の静止画程度にしか映らない。目下、頭の痛い問題に捕らわれて、眉間に皺を刻んだまま、ぼんやりと窓の外を眺めていた。アンと会話を続けながら、ブラッドがじっと、観察するように見つめていることにも気づかないままに。


 ロンドンへの馬車の旅は、無事に終わった。2台の馬車は、ソフィアが借りているタウンハウスの玄関へと何事もなく横付けされ、ブラッドの従僕が、留守宅を守っていた従僕と協力して、てきぱきと荷物を屋敷内へ運び入れている。

 2日間も女性だけの一行に付き合い、護衛の任務を果たしてくれたフォード伯爵を、玄関先で短い礼を述べるだけで追い出すのは、さすがに躊躇われ、ソフィアは1階の客間へと伯爵を招きいれた。
 お茶の1杯でも飲んでもらい、お礼を述べて帰ってもらえば、バリー伯爵夫妻への義理も果たせると踏んだのだ。ブラッドと2人きりになるのは避けたかったが、グレースとアンが一緒なら、妙な緊張を味わわずに済む。
 客間へブラッドを通し、アリスが手際よくお茶を用意して、グレースとアンが和やかな会話を楽しみ、ソフィアは黙っていれば済む。適度に彼らが会話を楽しんだら、遠回しに追い立てればいい。目論みは、予定外の行動で崩された。

 グレースが旅の疲れか、うつらうつらと舟をこぎ始めたのだ。それを見て、アンが、寝室まで連れて行き、寝かしつけると申し出てくれた。客人がいるのに、女主人であるソフィアがこの場を外すのはまずいからという配慮なのだが、本音をいえば、ソフィアこそがグレースを寝かしつけに連れて行きたかった。
 しかし、さすがにそれを主張するわけにもいかない。アリスがグレースを抱きかかえ、アンがぴたりと付き添って、扉の外へ消えていくのを、黙って見ているしかなかった。

 カップのお茶は既に飲み干してしまった。この場を誤魔化すため、お代わりを勧めても、ブラッドはやんわりと断った。奇妙な緊張を孕んだ沈黙が、客間を支配する。
 居心地の悪いソフィアに救いの手を差し伸べたのは、ブラッドだった。このところ彼に助けられてばかりだが、沈黙を破ってくれたのはありがたかった。
「グレースは、とても可愛らしいお嬢さんですね」
「ありがとうございます」
 娘を褒められるのは、素直に嬉しい。ソフィアがホッと息を吐くと、向かいのソファに座るブラッドは、更に言葉を継いだ。

「あの瞳、あなたにそっくりですね。幼い頃のあなたもああいう風だったのかと、想像してしまいますよ」
「あの頃のわたくしよりも、グレースの方が大人びているかもしれませんわ。周りが大人ばかりで、あまり同年代の子供と接したことがないのです」
「ゴールド・マナーでは、我が家のジェフリーとレイチェルが、すっかり仲良しになりましたよ。彼らがロンドンに出てきた時だけでも、グレースと再会させてあげられればいいのですけどね」
「そうですわね・・・・・・」
 それは、ソフィアとグレースも、再びロンドンへやってくることを意味する。来年以降の社交シーズンにも参加する、という意味だろうか。アンをデビューさせる目的は果たせたので、今回のソフィアの役目は無事完了ということになるだろう。ウェルズ大佐も満足してくれるはずだ。そうなると当分、アンを抜きにしたら、ソフィア自身に社交界へ参加する意志はない。いずれグレースが成長したら、社交界デビューを考えなくてはならないが、それはまだ10年以上先の話だ。

 気乗りしないまま、唇を噛むソフィアを見て、ブラッドは素早く話題を変えた。
「彼らは、グレースの歌の上手さにも、すっかり魅せられていましたよ。勿論私もね」
 それ以上追求されずに済んで、ソフィアははにかんだように微笑んだ。
「あの子、歌が大好きなんです。もう少ししたら、本格的に先生をつけてあげた方がいいかしら」
「当然、そうすべきですよ。見事な歌い手になるはずだ。今も十分魅力的な歌い手ですが――『麻のシャツ』という曲は、彼女のお気に入りなんですね」

 さりげなくブラッドが口にした曲名に、ソフィアの表情がサッと強張った。灰青の瞳に警戒する色が浮かぶのを、ブラッドは冷静に観察していた。バリトンの心地よい声が、酷く残酷な歌詞を乗せて、ソフィアの鼓膜を震わせる。

「――麻のシャツを作ってくれますか?
  パセリ、セージ、ローズマリーとタイム。
  縫い目も針の跡もないシャツを。
  そうすればあなたは、私の真の恋人になるでしょう」
 パセリ、セージ、ローズマリーとタイム。

 おまじないの言葉が、ソフィアの全身を絡め取る。
「他愛無い田舎の歌ですわ」
 弱弱しく微笑みながら、ソフィアは小さく首を横に振った。ブラッドが気に留めるほどの歌ではないと、否定しておかなければならなかった。だが、そんな願いも虚しく、ブラッドは簡単に誤魔化されるつもりはないようだった。
 サファイアの瞳が、真っ直ぐにソフィアを見つめてくる。ソファセットに向かい合って座ったまま、4つの瞳が真正面からぶつかった。
 ゆっくりとブラッドが踏み込んでくる。

「『パセリ、セージ、ローズマリーとタイム』とは、面白いまじないですね。苦味を消すパセリ、忍耐の象徴であるセージ、貞節や愛、思い出を表すローズマリー、そして勇気の象徴であるタイム。真実の愛情を試す歌だ」
「子供の歌です。意味などわかっていませんわ」
「そうでしょうね。理解していて歌うなら、とんだ皮肉ですよ」
 やんわりとこの話題を否定するソフィアに、ブラッドは1歩も引かない構えを見せた。2人の間に横たわる、過去の苦い記憶。互いにとって辛い思い出を伴うそれに、彼は初めて言及した。

「社交界を避け、再婚しようとしないのは、亡き夫に対するあなたの『ローズマリー』を表しているのですか?」
「違います!」
 反射的に鋭く言い返してから、ソフィアはハッと我に返った。感情的な反応は、避けなければならなかった。今更ブラッドを、真実へと導く必要はないのだ。改めて平静を装い、素っ気なく言い足した。
「再婚しないのは、わたくし自身のためです」
「なぜ?グレースには父親が必要ではないのですか?」
「それは、あなたが関与するところではありませんわ、フォード伯爵。わたくしは、今の平穏な暮らしを守りたいだけなのです」

 きっぱりと否定しても、ブラッドは追及の手を緩めなかった。
「あなたの結婚については、私にも関係があると思いますよ」
「え?」
 眉間に皺を寄せ、不快感を露わにしたソフィアを前にしても、ブラッドの落ち着き払った態度は揺るがない。余裕すら漂わせて、彼は禁断の話題を口にした。

「結婚に関するあなたの見解を、私は知る権利があると思いませんか?レディ・ソフィア」
 雷に打たれたように、ソフィアの全身に痺れが走った。蒼白な顔色をしつつも、咄嗟にソファから立ち上がる。が、それ以上の身動きは取れなかった。サファイアの鎖によって、その場に繋ぎとめられてしまったのだ。
 ソフィアから視線を逸らさないまま、ブラッドもゆっくりと立ち上がる。1歩、彼が足を踏み出すと、ソフィアの身体がびくりと震えた。

「あなたは実家とも交流を絶って、1人きり、ヨークシャーの領地に籠もっている。私を避けているのかとも思いましたが・・・・・・」
 ソフィアのすぐ目の前で、ブラッドは立ち止まった。彼のつけているハンガリー水の香りが、ソフィアの鼻腔を掠めるくらいに、2人の間には距離がなかった。
「グレースを見ていると、あなたと亡き伯爵の生活を、嫌でも連想せざるを得ないのです。おそらくは伯爵譲りの黒髪なのだろうが、私がかつて夢に描いていた未来の我が子と、グレースはあまりによく似ている。私と手にするはずだった幸せの代わりに、あなたが亡き夫と手にした幸せが、どんなものだったのか、覗き見ているような気にさえなってくる。その度に思い知らされるのです、あの時あなたの側を離れるべきではなかったと」

「――やめて。そんなことを仰らないで」
 ソフィアの喉から零れてくるのは、弱弱しい拒絶。意味をなさないと知っていても、ソフィアは目を瞑り、首を横に振った。閉じた瞼の隙間から、外へ流れ落ちようとするものを、必死に堪える。唇を噛みしめた時、たくましい腕に抱きとめられるのを感じた。

 彼の熱が、ソフィアの頬に直に触れる。
「今は無理でも、いつか話してもらえませんか、ソフィア。あなたが私を捨てた理由を」
 彼の言葉が、胸にひりひりと滲みる。

「お話できることは、何もありませんわ」
 囁くような声で何とか言葉を返しても、背中に回された腕に、いっそう力が込められただけだった。
「あなたは確かに、伯爵未亡人に相応しい威厳を身につけた。でもソフィア、あなたが1人で何もかも背負うことはない。グレースのことも、伯爵家のことも。あなたを支える器量のある男に、半分預ければいいのです」
「それがあなただとでも仰るの?」
 皮肉な笑みを唇に浮かべて、ソフィアが小さく言い返すと、ブラッドは愉快そうに喉を鳴らして笑った。
「別に、そこまでは言っていませんよ。だけど、あなたは気を張っているようで、どこか隙がある。心配しているのですよ、古い友人として」

 一旦言葉を切って、ブラッドは更にソフィアを胸に引き寄せた。花の香りがするやわらかな蜂蜜色の髪に、そっと頬を押し当てる。
「東屋であなたを見た時、心臓が凍るかと思った。2度とあんな想いをさせないで下さい。生きた心地がしませんよ」
 白い頬に口づけを落としてから、ブラッドは腕の力を緩め、ソフィアを解放した。熱くこみ上げるものを目の奥に押し戻し、ソフィアは気丈に、ブラッドを見上げた。

「大丈夫、2度とあんなことにはなりませんわ。わたくしは自分の領地に戻るのですもの。それに、支えていただかなくても、もうじき甥が爵位を継ぎますから。そうしたらわたくしは、気ままな隠居暮らしですから、何も背負い込む必要はありませんわ」
 少し生意気なくらい尊大に言い返さなければ、虚勢を見破られてしまいそうだった。力強い腕の中は居心地が良すぎて、魅力に抗うにはかなりの意志を動員しなければならなかった。荒れ野に戻るには、ブラッドもバリー伯爵家も必要ないのだから。
 じっと見下ろしてくる真っ青な眼差しが、不意にやわらかく弾けた。小気味良さそうに笑いながら、ブラッドが頷く。
「これは失礼。別にあなたを見くびったわけではないのですよ、ソフィア」
 そして笑いをすっと収めて、真剣な表情を見せる。

「今回のことで、私は1つの大切なことを学んだのです。学んだからには、知らん顔をすることなんてできない。そのために、私は行動を起こすつもりです」
 表現が曖昧すぎて、ブラッドの真意が掴みきれない。ソフィアが不審げに見上げると、ふわりとした穏やかな表情が返ってきた。ソフィアの疑問も包み込んでしまうような、温かなそれは、5年前の彼が見せたものと変わらない。
 ブラッドは、愉快そうに告げた。
「友人の忠告は、聞くものだと思ったのですよ。タイミングを逃さず、必死に行動することも大切だとね。――では、そろそろ失礼します。ヨークシャーへの旅が快適なものになるよう、祈っていますよ」

2009/06/27up

時のかけら2009 藤 ともみ

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