第4章 キャンバスの面影[1]

  筆を走らせると、キャンバスの中の景色が、確かにぶるりと身動きをした。画面の中の木々が、空が、雲が、鮮やかな息遣いを伝えてくる。ひと筆ひと筆、慎重に的確に画面に触れていくと、淡く濃く表情を加えられた画面から、歓喜の声が聞こえてくる。

 脳裏に焼きついた風景を、忠実にキャンバスに再現しながら、ソフィアは画面と対話することに集中しきっていた。こうなると、本人が満足するまでキャンバスの前から離れなくなるのだ。誰が何を言っても無駄である。ウィニーがこれを見れば、呆れたように肩を竦めて、でもきっと嬉しそうに言うだろう・・・・・・「相変わらずね」と。
 オーブリー女子寄宿学校で、絵画の手ほどきを受けて以来、ソフィアは非凡な才能を、その分野で示すようになった。水彩画だけでなく油彩も習得し、様々な景色を画面に切り取る。その景色は、自然の風景であったり、人物であったりする。心に浮かぶものを画面に転写し、再現する作業は、彼女に合っているようだった。
 キャンバスに、スケッチブックに向き合っていると、胸の中が自然と整理され、落ち着きを取り戻すことができる。リンズウッド伯爵に嫁いだ後も、夫を亡くした後も、グレースを産んだ後も、そうしてソフィアは、激しい感情をやり過ごしてきた。

 リンズウッド伯爵家の館は、ヨークシャーの北西部に位置している。居館とその周辺の領地は、リンズウッド・パークと呼ばれ、伯爵家の家長と嫡子が代々本拠地としてきた。
 ヨークシャー西部の荒れ野の端を掠め、北部の渓谷への入り口となる、北イングランドの荒々しい自然が色濃く残る土地である。長く暗い冬は厳しい寒さに閉ざされ、短い夏はヒースの花が一斉に咲き乱れる。

 リンズウッド・パークの周辺にも、夏場は紫の花が絨毯のように花弁を開くのだが、今は開花も終わり、寂しさを漂わせる荒れ野の外れに、古びた城館は静かに佇んでいる。濃い色の煉瓦が並べられた壁面と、淡い色の煉瓦が並べられた屋根のコントラストが、初秋の薄日に照らされ、殺風景な景色の中でひときわ目立っている。
 歴代当主が暮らすだけあって、古い建物ではあっても、館の手入れは十分に行われていた。特に、亡くなった伯爵――ドミニク・ポートマンの前妻が、内装にこだわりのあった人だったため、古びた外見に反して、館内は快適に整えられている。

 バリー伯爵家のゴールド・マナーに比べると、部屋数も少ないし、全体的にこじんまりとした造りだが、とりわけ華美でもないこの館に帰ってきたとき、何ともいえない安堵を覚えたものだ。
 冬の夜は居間の暖炉で暖まりながら、夏はテラスに出て風を感じながら、北イングランドの四季を暮らす。静かな生活は、社交界に出るよりも、ソフィアの性に合っていた。

 ハンプシャーからロンドンを経由してヨークシャーへ戻ってきてから、夏の間、ソフィアは慌しい日々を送っていた。義理の甥であるデイヴィーの爵位相続に関する手続きで動き回っていたのだが、無事に新伯爵が誕生し、漸く時間に余裕が持てるようになったのが、つい最近のこと。季節はいつの間にか秋に差しかかっていた。
 全てをいちどきに、とはいかないが、ソフィアが一手に担っていた当主の仕事を、少しずつデイヴィーに引き継いでいるので、徐々に手が空く時間が増えている。子育てと領地経営に追われた4年間の後で、やっと手に入れた自由な時間。そのほとんどを、ソフィアは館の2階に設けられたアトリエで過ごしている。日ごと、週ごとに時間が増えていくので、アトリエに籠もる時間も、それに伴って増えていっているところだ。

 2階の一角、さほど広くない部屋は、元々は前伯爵夫人が書簡を書いたり、針仕事をする時に使っていた書斎代わりの部屋だそうで、ソフィアが嫁いできた時に、夫から与えられた。けれどソフィアには、他に、歴代の伯爵夫人が使っている立派な寝室と居間、衣装部屋もきちんと与えられていた。そのため夫は、この部屋は、彼女の好きなように使うといいと言って、若妻の希望通りアトリエとして改装してくれたのだ。
 クリーム色の色調で統一された部屋は、華美な装飾を一切排除し、機能的にまとめられている。
 様々な画材を取り寄せ、絵の具の匂いでいっぱいの室内には、イーゼルが乱立し、描きかけのキャンバスがいくつも立てかけられている。この部屋だけは、メイドの出入りも制限されており、ソフィアの制作が一区切りした時だけ、掃除の手が入ることになっていた。制作中は、アリスですら立ち入らない、まさにソフィアの砦なのだ。

 目下、ソフィアが取りかかっている作品は、どれもハンプシャー滞在中にスケッチを起こしていたものだ。ちょうど一通り彩色を終えて、仕上がり具合を確認しているキャンバスには、ゴールド・マナーの窓から眺めた風景が、再現されている。
 今日のところはこの程度でいいか。納得して、ソフィアが次に目を向けたのは、他のイーゼルに立てかけられている水彩画だった。
 灰青の瞳が、切なげに細められる。

 白い紙の上に描かれているのは、1人の青年と1人の少女。ソフィアは滅多に人物画を描かないが、なぜかこの肖像は、残しておかなければならないという思いに突き動かされて、脳裏に焼きついている光景を忠実に再現したものだ。モデルを前にして、デッサンを描いたわけではない。
 それでも、紙の上には、2人が生き生きと笑いあう様子が、見事に描き出されていた。記憶を頼りに描く時は、描線が曖昧になることもあるのに、今回ばかりはそれもない。この2人の様子は、苦もなく鮮明に思い起こせるほど、ソフィアの中に刻み込まれているのだ。

 紙の上で微笑み合っているのは、黒髪の青年と、黒髪の少女。ソフィアの心をいつまでも捕えて揺さぶる存在と、かけがえのない大切な存在。敢えて目を逸らし続けてきたものの、こうして改めて描いてみると、この2人の顔立ちはよく似ていた。
 左手の人差し指を伸ばし、青年の顔のラインをそっと辿ってみる。続いて、少女の顔のラインを辿ってみる。やはり、誤魔化しようがない。

 ソフィアは、ぐったりとため息をついた。誰が見ても、ブラッドレイ・ヒューズと、グレース・ポートマンの間には、何らかの血縁関係があると考えるだろう。
 ゴールド・マナーに連れていくまでは、2人の顔立ちが似ているということを、あまり意識したことがなかった。同じ黒髪といっても、ブラッドは真っ直ぐな髪質をしているし、グレースはくるくると渦を巻く巻き毛だ。それに性別が違っているから、グレースには少女らしいやわらかな雰囲気がある。瞳の色はソフィアそっくりだし、黒髪などはありふれているから、グレースの出生について疑いを持つ者は、これまで現れなかった。リンズウッド伯爵は亡くなっているのだし、グレースにとっては、ソフィアとの親子関係がはっきりしていれば、それで十分な身の証になるのだ。

 リンズウッド伯爵令嬢。その称号1つで、グレースの身は保障される。それで十分なはずだった。
 ハンプシャーでは、グレースは人前には出なかったから、ブラッドとの関係を怪しむ者もいないだろう。だが、ブラッドの身近な人々――特にベッキーは、子供たちと間近に接している。何かを周囲が気づいたら、ブラッド本人が、グレースの出生に疑問を覚えるのは、時間の問題だ。

 グレースがブラッドの娘だということを、誰かに知らせる気は、ソフィアには一切ない。
 グレースは、亡き夫とソフィアの娘として、生きていく。ソフィアはそれを見守り、静かにヨークシャーで老いていく。

 爵位を継承したばかりの今はまだ、デイヴィーに乞われてこの城館に留まっているが、いずれは同じ敷地内にあるもっと小さな家へ移るつもりだ。庭園を挟んで反対側にあり、その屋敷に出入りする専用の小さな門もある。デイヴィーが継承を終え、この城館に移ってきたときには、前伯爵の未亡人として、ソフィアは目立たないように新しい生活を始める予定だった。
 それが、独身のデイヴィーに、「女主人を務める人が誰もいないのは困るので、手を貸してほしい」と頼まれ、やむを得ず、現在も城館の女主人の部屋を使い続けている。彼が早く花嫁を迎えてくれればよいと思いながらも、息子と一緒に移ってきたデイヴィーの母親の世話もあり、ソフィアが采配を振るわなければならないことは、まだまだ山積みだった。

 それもいずれ、終わる時がくる。
 全てをデイヴィーに引き継ぎ、彼が花嫁を迎えれば、ソフィアを縛るものはなくなる。リンズウッド・パークの小さな屋敷で、気ままな暮らしを送るのだ。
 世間を吹き荒れるどのような嵐も、ヨークシャーのこの城館までは入り込んでこない。とりわけ、このアトリエには。これから先は、伯爵家の領地経営に悩まされることもない。誰にも妨げられることなく、グレースと2人で平穏に暮らしていくはずだった。

 幸い、ロンドンで別れて以来、ブラッドから音沙汰はない。
『行動を起こすつもりです』――そう告げられてから暫くは、彼が何を仕掛けてくるのか警戒していたが、さすがに季節が2つも移れば、緊張も緩んでくる。ベッキーやウィニーの手紙によると、ブラッドはこれまで以上に仕事に忙殺されているということだから、あれはただの、性質の悪い冗談だったのだと、今では思い始めている。
 グレースは時折、ブラッドの話題を口にするが、このまま疎遠になっていけば、自然と彼のことも忘れるだろう。そうなれば、グレースと母子2人、リンズウッドの領地の片隅でひっそりと暮らしていけるだろう。
 グレースだけでなく、わたくしも、彼のことを忘れられる日がくるのだろうか。

 ぼんやりと父子の肖像を眺めるソフィアの耳に、控え目なメイドの声が届く。
「奥様、伯爵様がお呼びです。居間へお越し下さるようにと」
 現実の世界へ引き戻されて、ソフィアは扉の向こうへ声を返した。
「わかったわ」
 ゆっくりと立ち上がると、身体のふしぶしが悲鳴を上げた。集中しきって、同じ姿勢を長時間取り続けたせいだ。軽く伸びをすると、肖像画を一瞥してから、ソフィアは一旦自室へと戻った。
 アトリエに籠もる時は、着古した室内用のドレスを身につけることにしている。どれだけ気をつけていても、絵の具で汚してしまうことがあるからだ。ただ、その格好のまま、デイヴィーの前に出るのはいただけない。

 デイヴィッド・ポートマンは、亡き夫の甥で、ソフィアも目をかけてきた心の優しい青年だ。グレースのことも可愛がってくれており、良好な関係を築いている。とはいえ、正式に爵位を襲名し、リンズウッド伯爵となった彼の前に出るのに、絵の具で汚れた古着はまずい。
 アリスを呼び、自室で綺麗な室内用のドレスに着替えると、ソフィアは階下へ降りていった。

 リンズウッド・パークの居間は、1階の庭園に面して大きく窓が取られ、明るい日差しがいっぱいに満ちている。フレンチ窓の向こうには小さなテラスが続き、緑豊かな庭園と、その向こうにうねるように続く丘を眺めながら、昼下がりのお茶を楽しんだりする、家族お気に入りの憩いの場だ。
 ソフィアがやってきた時には、まだ誰の姿もない。室内で立ち尽くしたまま、おかしいわね、と首を傾げていると、開け放したままの扉のところに、老いた従僕のドーソンが現れて、慇懃に告げた。
「奥様、伯爵様のご用件が済むまで、もう暫くかかりそうです。少々こちらでお待ちいただけますかと、伝言を承りました」
「伯爵はどなたかとご一緒なの?」
 ソフィアが尋ねると、皺の多い顔を僅かに緩ませて、気の良い従僕は1つ頷いた。先代伯爵――今は亡きドミニクに長いこと仕え、その死後もソフィアに忠実に仕えてくれている、信頼できる男だ。
「はい、家令のジョーンズ様と、書斎でお話をなさっています」
「そう。それならまだ、時間がかかりそうね。ドーソン、今日の郵便が届いていたら、こちらに持ってきてもらえるかしら?」
「かしこまりました、奥様」

 ドーソンが立ち去ると、ソフィアは窓辺に寄り、窓を大きく開け放った。初秋の午後の、少しだけひんやりとした風が、ソフィアを撫でていく。丘を越え、荒れ野を渡ってくる風は、じきに、冷たさと激しさを増し、季節は一気に冬へと移りゆくだろう。
 そうなれば、目の前の野も丘も、全てが白一色に覆われる。春から秋までの、色が溢れる季節の痕跡を、完全に隠し、凍りつかせてしまう。
 一冬雪に閉ざされれば、この胸の中から、ブラッドの面影を追い払うことができるだろうか。
 そう願うそばから、最後に見たブラッドの、やわらかく穏やかな、包み込む温かさに満ちたサファイアの眼差しを思い出して、胸がぎゅっと痛む。この痛みもいっそ、凍らせてしまえればよいのに。

 胸に手を当て、瞼を閉じて佇むソフィアの背に、メイドの声が投げかけられた。
「奥様、郵便をお持ちしました」
「――ありがとう。そこのテーブルに置いてちょうだい」
 軽く息を吸い込んで、感傷的な気分を振り払ってから、ソフィアは努めて平静を装った。メイドが部屋を出るのと入れ違いに、室内のあちこちに置かれたソファのうちのひとつに腰を下ろし、傍らのテーブルに置かれた手紙を手に取った。
 メイドが扉を閉めて出て行ったので、窓から入ってくる風がソフィアの後れ毛をそよがせる以外は、部屋の空気はすっかり止まっている。シンと静まり返り、ペーパーナイフで封を開ける音が、ガサガサと聞こえるだけだ。遠くで馬車が走る音が聞こえたような気がしたが、今日は特に来客の予定もないから、ソフィアは気に留めなかった。

 口元に微笑みを乗せて、ソフィアは分厚い封筒を開け、便箋を取り出した。誰からの手紙かは、封筒の宛名を見ただけでわかっていた。見覚えのある筆跡は、女学生時代と変わらない。今はロンドンにいるはずの親友を思い浮かべ、ソフィアは胸を弾ませながら目を通した。ウィニーからの手紙は、快活なおしゃべりでいっぱいなのだ。
 ウィニー自身のこと、彼女の夫のこと、それからバリー伯爵家のこと、ウィルのこと、ハガード大尉のこと。ハンプシャーで一緒に過ごした人々の、最近の様子が、生き生きと書かれている。子育てと家事の采配に忙しいベッキーの分も補うように、ウィニーは沢山の話題をたっぷりと届けてくる。

 表情を緩めながら読み進めていたソフィアは、あるくだりで片眉を上げた。ポール・ハガード大尉が、近々ヨークシャーを訪れ、ウェルズ親子に会いにいくつもりでいる、と書かれていたからだ。
 気難しい隣人、ウェルズ大佐の知己である、現役軍人のハガード大尉は、ハンプシャー滞在中に、大佐の一人娘のアンと、すっかり打ち解けていた。パーティーでは、アンの側に常に付き添って、甲斐甲斐しくエスコートしていた。人見知りの激しいアンも、次第に大尉と多くの言葉を交わすようになり、笑顔を見せることが多くなっていた。
 気のいいグレシャム卿も、アンに積極的にアプローチをしていたが、大尉が醸し出す男らしさ、たくましさの影に、どうも霞んでしまったようだ。
 ハガード大尉とアンの関係を、周囲も気にかけていた。特にアンは、1度実家へ戻ってしまうと、家事の采配をしなければならないし、偏屈な父親を置いて出かけるのは難しい。

 ハンプシャーを発つとき、2人の今後を心配するソフィアに、親友はにやりと笑って請合った。
「大丈夫よ。ハガード大尉は、きっと追いかけていくから」
 大尉があれこれ思い悩んで動けずにいても、周囲がうまくつついて、動かざるを得ない状況を作ってしまいそう。あの笑顔を見た時にソフィアはそう思ったが、現実になったようだ。
 ハガード大尉が逢いに来ることを知らせれば、アンはどんなに喜ぶだろう。それとも、内緒にしておいて、驚かせた方が喜びは大きいだろうか。
 大好きな友人の幸せを、我がことのように喜びながら、ソフィアは親友からの手紙を読み終えた。けれど、便箋をたたみ、封筒へ戻した時には、ふわふわした喜びに代わって、胸の中に一抹の寂しさが忍び込んでいた。

 その理由を、ソフィアは誰よりもよく理解していた。
 ウィニーの手紙には、ハンプシャーでさほど親しくなかった客人の噂までがしたためられていたが、誰よりも気になるあの人のことは、一言も触れていないのだ。
 いつもなら、さりげなくフォード伯爵のことにも言及しているのに、今回の手紙では、ウィニーは、無視を決め込んだらしい。必ず話題に上る彼の名前が見当たらないことに、ソフィアは落胆を覚え、そんな自分に苦笑した。
 逢うのは怖い。それなのに、彼の噂は聞きたい。なんて矛盾しているのだろう。彼のことを忘れたいと願う一方で、貪欲に彼のことを知りたがる自分がいる。
 この分では当分、ブラッドのことを忘れることなんてできなさそうだ。忘れずにいればいるほど、心が乱されるだけなのに。

 やれやれと肩を落とした時、居間の扉が開いて、待ちかねた声がかけられた。濃い茶色の髪に、はしばみ色の瞳を持つ青年が、申し訳なさそうな笑顔を浮かべて、戸口のところに姿を現している。
「遅くなって申し訳ありません、レディ・ソフィア」
「いえ、お忙しいでしょうから、お気になさらないで。ジョーンズとのお話が長引いたのでしょう?」
 ソファから立ち上がって戸口の方へ向き直りながら、ソフィアは、敷居のところで立ち止まったまま動こうとしない甥に、疑問を覚えた。気の優しい、寡黙で内気な義理の甥は、大きな身体で扉をほとんど塞いでしまっている。今更遠慮する仲でもないのに、と訝りながら、ソフィアは新伯爵を見上げた。
「ジョーンズのせいではありませんよ。今朝突然、来客があると報せがあったのです。その方がつい今しがた、到着されたのです」

 裏表のない笑顔を浮かべながら、デイヴィーが告げた思いがけない話に、ソフィアは怪訝そうに眉をひそめた。
「まあ・・・そういうことは早く知らせて下さらなくては。客用寝室の用意をしなければなりませんわ」
「その心配は要りませんよ。ミセス・ホジソンに頼んでおきましたから。ちょうどレディ・ソフィアが、アトリエに籠もってらっしゃったので、煩わせてはいけないと思って」
 あなたのお邪魔をしてはいけないと思ったんです、と、邪気のない笑顔で真正面から言われては、喉元までこみ上げた小言も、飲み込むしかない。家政婦のミセス・ホジソンは、長くこの伯爵家に仕えているベテランなので、間違いはないと思うが、困惑するばかりだ。

 客用寝室の準備だけではなく、夕食の手配など、細々とした采配が多々あるのだ。名のある客人ならば、晩餐を開き、近隣の名士や牧師を招いたりしなければならない。その辺り、デイヴィーは一切思い至らないのだろう。
 肩を落としながら、ソフィアは、今では同じ館内に住む彼の年老いた母親からかけられた言葉を思い出した。
 ――悪気はない子なのです。ただ、思慮が足りないところがあるので、しっかり気を配ってやっていただけますか?館の切り盛りについては、さっぱりなんですよ。
 まったくだわ。
 胸の裡で呟いてから、気を取り直してソフィアは顔を上げた。平静を装いながら、頭の中では素早く考えを巡らせて、客人の歓待に手落ちがないよう、これからどう効率よく動くかを算段する。その一方で、必要な情報を目の前の新伯爵から入手することにした。

「それでデイヴィー、お客様は今、どちらにいらっしゃるの?すぐにお部屋にご案内しなくては」
 すかさず返ってきたのは、思いがけない声だった。
「荷物は従僕に運ばせているから、心配には及びませんよ」

 デイヴィーが身体をずらし、ソフィアの視界いっぱいに、懐かしい青年の姿が映る。この場にいるはずのない人物が、涼しい顔をして、目の前に立っていた。

「お久しぶりですね、レディ・ソフィア」
 ソフィアの手を取り、慇懃に口づけを落としているのは、まぎれもなくブラッドだった。癖のない黒髪も、整った顔立ちも、紙の上に描き出した肖像画と、寸分変わらない。

 手を離された後も、ソフィアは呆然と、突然現れた青年を見つめ続けた。不意打ちすぎて、思考が現実に追いつかない。弱弱しい声で、「ごきげんよう、フォード伯爵」と口にするのが精一杯だ。
「スタンレー子爵夫人のご紹介で、前々から、ヨークシャーの鉄道事業者に口を利いて欲しいと依頼されていたのです。伯爵もお忙しいから、なかなかこちらに来る時間が取れず、予定が組めなかったのですが、急遽都合がついたということで、急に連絡をいただいたんですよ」
 隣でデイヴィーが事情釈明をしているが、ソフィアの耳を虚ろに通り過ぎていくだけだ。何食わぬ顔をして、ブラッドはデイヴィーの言葉に耳を傾けている。そのくせ油断のならない目つきで、ソフィアの様子を観察しているのだ。一体どうすれば良いのか、感情がぐちゃぐちゃにかき乱されて、ソフィアはこの場から逃げ出したい衝動を、何とか堪えるのが精一杯だった。

「伯爵は、積極的な資産運営に取り組んでらっしゃると聞いていましたし、是非1度お話を伺いたいと思っていたんです。レディ・ソフィア、マクニール卿を招待して、鉄道についても有意義な話をしましょう」
 マクニール卿は、リーズに本拠を持ち、シェフィールドなどヨークシャーの大都市に広い人脈を持つ、地元有識者のリーダー格だ。ソフィアも、投資について、様々な助言をもらった。彼に紹介すれば、イングランド北部の投資家たちの輪にもたやすく入り込めるだろう。

「伯爵とは、古いお知り合いだと聞いていますよ。昔話も含めて、色々な話ができますね」
 浮かない顔をしているソフィアの気持ちを引き立てるためだろうが、デイヴィーの言葉に、ソフィアは小さく息を呑んだ。ブラッドの意図を察して、全身に緊張が走る。警戒しながら長身の青年伯爵を見上げると、サファイアの瞳が、何かを企むように煌いた。
 吸い込まれそうな深い青。この中に呑まれてしまっては、取り返しのつかないことになる。ソフィアの本能が、警鐘を鳴らしている。
 爽やかに微笑んで、ブラッドはソフィアの顔を覗きこんだ。間近でぶつかる頑なな灰青の瞳に、ブラッドは、どこか余裕を漂わせながら、語りかけた。
「ゆっくりと話をしましょう、レディ・ソフィア。きっと話題には事欠きませんから」

 真っ青な眼差しの奥に、切望の影が揺らめくのを読み取って、ソフィアはそっと目を伏せた。再会したときのような憎しみは、彼の中には既にない。東屋で助けてくれた時から、サファイアの炎が伝えてくるのは、切望の色。ソフィアはその色を見知っていた。男爵令嬢だった頃の彼女にブラッドがしばしば見せた、彼女をひたすらに望む色。
「グレースにも、逢いたかった」
 続いて呟かれた一言に反応して、ソフィアは顔を思わず上げてしまう。再び正面から、ブラッドの瞳を見つめてしまった。ためらいも戸惑いも焼き尽くすような、真っ青の炎。視線がかち合った瞬間、ソフィアが必死に守り、築いてきた壁が、音を立てて崩れ落ちていくのがわかった。

 真っ青な嵐が、この館にまで入り込んできたのだ。
 逃げ場はない。
 ぐっと胸を逸らして、ブラッドを見つめ返すのが、精一杯のソフィアの矜持だった。乾いた唇から零れる声は、弱弱しいものではあったけれど。
「――娘を呼んでまいりますわ」
 それを聞いた途端に相好を崩すブラッドを見て、喜びを感じるあたり、自分の理性はどうにかなってしまったとしか思えない。平穏を守るなら、このような事態は何より避けるべきなのに。混乱を抱えて、判断力が鈍ってしまったのだと思うことにして、ソフィアはメイドを呼ぶため、呼び鈴に手を伸ばした。トクトクと弾む鼓動には、気づかない振りをして。

2009/07/08up

時のかけら2009 藤 ともみ

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