第4章 キャンバスの面影[2]

  日が経つにつれ、夜の訪れは早まり、風は冷たさと激しさを増していく。全てを凍らせる季節へと向かって。

 その日最後の太陽の光が、西の空に残り火のように燃えている。暖炉に残った炭火のように、西の地平を僅かに照らし出している。時刻は、夕暮れから夕闇へと差しかかっていた。東から、深い紫暗のヴェールが空を包むように伸びており、館の向こうには、うねるように広がる丘陵地帯が、影絵のように黒いシルエットとなって、息をひそめて大地に蹲っている。
 顎を上げて上空を仰ぎ見れば、紫と灰色と紺色のまだらに染まった中に、ちかちかと幾つかの光が瞬いているのがわかる。低い草木が生い茂る大地には視界を遮るものは何もなく、館の北東に広がる丘からは、西の空に輝く宵の明星も、くっきりと見えた。

 ソフィアが無心に佇んでいる間にも、空を覆うヴェールは広がっていく。完全に夜に閉ざされれば、気温はがくりと下がるだろう。びゅうと吹いてきた風に髪をなぶられて、ソフィアはぶるりと身体を震わせた。
 少し風に当たろうと思って出てきただけだった。日常の室内着に、簡単に薄手のショールを巻きつけただけの格好で、思った以上に長い時間を丘で過ごしていることに、ソフィアは漸く気づいた。
 そろそろ戻らなければ風邪を引くだろうし、長いこと姿が見えなければ、アリスが心配するだろう。薄闇の中に浮かび上がる館の輪郭は、幾つかの窓から零れる灯火の灯りで、ぼんやりと滲んでいる。オレンジ色の暖かな光は、これまでの5年間、ソフィアにとって安全な避難場所だった。

 風に向かって顔を上げ、両目を瞑って、吹かれるがままに暫し身を任せているうちに、胸の中に渦巻いていた激情は、だいぶ鎮まった。体温が奪われるのに比例して、熱くなっていた理性も、十分に冷えたようだ。
 ヨークシャーに来て以来、ソフィアは時折館を抜け出し、荒れ野を眺めながら、風に吹かれることがあった。大自然の力にもみくちゃにされれば、頭を悩ませていた事柄も、大したことがないと思えるようになる。自然の脅威の前では、人間など、ちっぽけな存在でしかないと実感できる。

 丘から眺める景色は、ヒースが咲く時期以外は荒涼としており、ハンプシャーの穏やかな風景とは正反対だが、荒々しい自然の営みを体感できる。ソフィアは、風と一体になりながら荒れ野を眺めるのが、好きだった。

 平和な午後を乱した突然の訪問者――ブラッドの来訪は、ソフィアをこれ以上ないくらいにかき乱した。彼がそれを狙っていたのなら、大成功だ。悔しい限りだが。
 居間に下りてきたグレースは、ブラッドを見るなり目を輝かせ、彼に走りよっていった。迎えるブラッドも再会の喜びを正直に表し、2人はしっかりと抱擁を交わしていた。
 2人の間に、揺るぎない親愛と信頼の絆が存在しているのは、明らかだ。
 それだけでも十分な衝撃なのに、リンズウッド・パークの女主人として、きちんとブラッドの歓待に気を配らなければならない。デイヴィーが伯爵となってから招いた名士は、ブラッドが初めてだ。不手際があったと思われるのは癪だし、デイヴィーの評判にも関わる。家政婦のミセス・ホジソンや家令のジョーンズらに次々と指示を出し、ひとまずは晩餐の用意をさせて、隣家のウェルズ親子を急遽晩餐に招待することにして――と、休む間もなく動き回っているうちに、夕暮れとなってしまった。

 マクニール卿への手紙も、午後のうちに出すことができた。上手くすれば数日のうちに返事がきて、マクニール卿夫妻がリンズウッド・パークを訪れることになる。他の鉄道業者へは、マクニール卿から紹介してもらえばいい。あまり大げさにして、ブラッドに長期滞在をされるのは避けたかった。
 ブラッドをマクニール卿に無事に紹介するまでは、きっと息を吐く間もないに違いない。当初の目的を達成できれば、ブラッドは次に、卿と共にリーズあたりへ赴いて、地盤固めをするはずだから。忙しい人だから、いつまでもヨークシャーでぐずぐずしているわけにはいかない。最重要目的を達成すれば、彼がリンズウッド・パークに滞在する理由はなくなる。目的を果たす手助けを終えたと報告すれば、エミリー大叔母も満足するだろう。逐一つぶさに報せる必要はない。

 それまで、どうにか平静さを保たなくては。

 ともすれば、どんよりと重たいため息を吐きそうになるのを堪え、ソフィアは荒れ野を渡る風にその身を存分に晒しながら、夜空を見上げた。すっかり闇色のヴェールに覆われた空から、星々が励ますように見下ろしている。

 客人の歓待に忙しい間は、こうして丘にやってきて、心を鎮める時間を持つのは難しいかもしれない。ソフィアは決然とした態度を取り続けなければならない。彼女自身、そしてグレースやデイヴィーの評判を守るために。
 視線を館に向けながら、ソフィアは小さく苦笑した。どこよりも安全で居心地の良い我が家のはずなのに、そこから逃げ出さなければ、平静を取り戻すことが難しい日がくるなんて、予想もしなかった。

 冷たく新鮮な空気をいっぱいに吸い込んでから、ソフィアは唇を噛みしめ、館へと足を踏み出した。暖かな灯火の中に、彼がいると思うだけで足が竦むけれど、この5年間の努力を水の泡にするわけにはいかない。
 ブラッドとグレースの関係を怪しむ者が出る前に、全てを上手くやりおおせなくてはならない。それが果たせなければ、ソフィアの評判は地に落ち、グレースも後ろ指を差されて生きていかなければならなくなる。
 想像しただけで、背筋が寒くなった。自分を守り、勇気づけるように、両腕で自分を抱きしめながら、石造りの瀟洒な館へ向かって、ソフィアは一歩ずつ近づいていった。


 急遽準備したわりに、晩餐は申し分ないものだった。ソフィアは完璧な女主人として振る舞い、不慣れなデイヴィーを上手くフォローしていた。彼女だけでなく、その意を受けて動く家政婦や家令も有能だということが知れる。
 ゴールド・マナーほど豪華な、贅を尽くした食事とまではいかなかったが、それを補うだけの居心地の良さがあった。

 晩餐には、隣人のウェルズ大佐と娘のアン、それに教区牧師夫妻が招かれていた。急な誘いにもかかわらず、出席を快諾してくれた彼らのうち、アン以外とは面識のないブラッドだったが、気難しい老齢の退役軍人と、生真面目な教区牧師の心を掴むのに、さほど時間はかからなかった。
 内気なアンは、頬を赤らめながらも、ブラッドからある人物の話をそれとなく聞きだそうとする素振りを見せた。それに応えてブラッドが、ハガード大尉の話題を持ち出すと、父親の目を気にしながら、アンは嬉しそうに耳を傾けた。そんな友人の様子を微笑ましく見守るソフィアを、ブラッドはしっかりと視界に捉えていた。

 食事を終え、男性陣はデイヴィーの書斎へ移り、ブランデーを1杯楽しもうということになった。お酒を楽しんでから女性の元へ合流するのが、通常の仕来たりだ。女性陣は居間へ先に移って、今後の慈善活動について意見を交わすらしい。領主夫人として、ソフィアがそれらの活動に積極的に関与している様子は、晩餐の折の牧師夫人との会話からも窺い知れた。牧師夫妻にとっても、ソフィアは理解ある相談相手のようだ。

 館の1階にある書斎は、部屋の壁は全て書架で埋まっており、膨大な数の書籍が収められていて、圧巻だった。書架の一部はガラス張りで、ディスプレイケースの役割を果たしている。近づいて覗いてみると、鮮やかな彩色が施された古い写本のページが数枚置かれていた。
「ドミニクは、美術品、特に写本に関心があってね。晩年、蒐集に熱中していた時期があった」

 ガラスの前から動かないブラッドに、ウェルズ大佐が声をかけた。中肉中背のがっしりした身体は、現役時代と変わらないものの、娘と同じ赤毛には白いものが多く混じっている。深い皺が幾つも刻まれた顔は、厳しく取っつきにくそうに思われがちだが、価値があると認めた相手に対しては、意外と饒舌になるという彼の性格を、ブラッドは晩餐を通じて理解していた。
 前リンズウッド伯爵の友人だったという老人に、ブラッドは身体ごと向き直った。

「これは中世のもののようですね。見事なミニアチュールだ」
「詳しいことは知らんが、この辺りだと、ボルトンの修道院など、中世の修道院が幾つかあったからな。できる限り、地元縁のものを集めていたようだ。1枚だけでも、たいした価値になるんだろう」
「素晴らしい仕事ですよ、これは」
 中世の写本は、修道院の写本室で専従の僧侶によって作られた。豪華な装飾を施すものも多々あり、今では1枚ごとにページを切り離して、出回っているものも多いと聞く。美術品蒐集家ではないブラッドにも、一目瞭然なほどに、細かな作業が施されたページが、展示されていた。

 ドミニク・ポートマン。前リンズウッド伯爵で、今は亡きソフィアの夫だった男。一体どのような男性だったのだろう。嫌でもそのことが、ブラッドの頭をちらつく。

 青年伯爵の想いを見透かしたように、ウェルズ大佐はゆったりと煙草をくゆらせながら、手に持ったブランデーのグラスを軽く揺らした。
「若い頃には、とても蒐集なぞに回す余力はなかったと、ドミニクは笑っておったよ。地道な投資が成功した晩年になって、やっと貴族らしい趣味が持てたと言っておったな。実際、ヨークシャーのこの辺りは荒れ地が多いから、ヨークやリーズに鉄道が敷設されるまでは、羊毛産業に頼るしかなかった。鉄道のおかげで、やっと一息つくことができるようになったわけだ」
「毛織物だけでは食べていくのが精一杯ですからね」
 教区牧師が相槌を打つ。続けて、ややしんみりとした口調で、言い足した。
「先代伯爵様は亡き奥様と共に、苦しい村の様子を、ことのほか気にかけて下さいました。何しろ土地が痩せているから、たいした作物は育たないのです。村に重病人や怪我人が出た時には、馬車をすぐに出して下さって、医者を呼んで下さいました。村の者は、皆、こちらの伯爵家を尊敬し、感謝しておりますよ」
「伯父は、模範的な領主だったようですね。誰もが口を揃えてそう言いますよ。僕には大したプレッシャーだ」
 デイヴィーが苦笑めいたものを浮かべたが、言葉尻には亡き伯父への信頼と尊敬が溢れていた。ソフィアが嫁いだ男は、誰もが認める完璧な領主だったらしい。ブラッドの胸に、苦い想いが浮かぶ。

 ソファに座るウェルズ大佐が、唇を曲げて新米伯爵をたしなめた。
「あなたはまだ若い、デイヴィー。すぐにはドミニクのようにいかずとも、諦めちゃいかん。それに、ソフィアが力を貸しているんだから、十分に恵まれているぞ?エイミーの跡を継いで、彼女は実によくやっている」
 肩を竦めたデイヴィーに代わり、機を逃さずに問いかけを口にしたのはブラッドだった。

「レディ・ソフィアの夫だった方について、ロンドンではあまり知られていませんでした。先代伯爵は、長いこと領地に籠もっていらしたようですから。どのような方だったのですか?」
「フォード伯爵、あなたはヨークシャー人気質というものを知っておるかね?ドミニクはまさに、この土地の申し子だった」
 暖炉の明かりを受けて、ウェルズ大佐の瞳がきらりと光った。
「いいえ」
「寡黙で一途、頑固な気性が、ヨークシャー人気質というやつだ。荒れ野の中で、長い冬を耐えて生活していくうちに、そんな風になるんだろう。ドミニクも、家を守ることに打ち込んでいた。最初の妻のエイミーを亡くしてからは、いっそう取りつかれたようにな。長く独り身を通していたが、老後の寂しい毎日をソフィアに埋めてもらって、最期は幸せそうに笑っていたな」

 遠い目をする大佐に、ブラッドは慎重に踏み込んで問いかけた。
「前の奥方を、とても愛していらしたのですね」
「エイミーとの間に子宝には恵まれなかったが、仲睦まじい夫婦だった。わしも妻を亡くしたが、娘がいたから気が紛れたが、ドミニクの受けた衝撃は大きかった。一時期は立ち直れないのではないかと思ったよ」
「それほど愛していらしたのに、ソフィアを・・・?」

 大佐の鋭い眼差しが、牽制するようにブラッドへと向けられた。何かを警戒しているかのようだった。それに動じず、ブラッドが平然と見つめ返すと、老人は小さくため息をついた。
「1人でここの冬を過ごすのは、過酷な試練だよ。年老いてそれに耐えられなくなるのも無理はない。ソフィアが来てから、館は随分明るくなった。ドミニクは確かにソフィアを愛しておったよ、エイミーに向けたものと、幾らかは違う種類のものだったかもしれないがな」

 老人とブラッドの間に確かに散った火花に、ちっとも気づかなかったデイヴィーが、のんびりと口を挟んだ。
「伯父は、ここの自然を心底愛していましたからね。何度もロンドンへ移るように勧めたのですが、頑として首を縦に振りませんでしたよ」
「当然だ」
 どこか憮然として、大佐が厳しい声を出した。デイヴィーが肩をびくっと震わせるくらいに、断固として、高圧的な物言いだった。

「荒れ野で生まれた者は、荒れ野で暮らし、死んでいくものだ」
「確かに、荒れ野には不思議な魅力がありますね」
 さりげなくブラッドが相槌を打つと、大佐の眉間に刻まれた皺が、少々減った。その場を取り繕うためだけではなく、心からの実感を込めて、ブラッドは続けた。
「大いなる意志が創造したままの姿を残し、人間の介入を嫌う。荒れ野では、人間ではなく自然が主役なのですね。荒削りのエネルギーを感じます」

 大佐の目が、温和な光を宿す。すかさず教区牧師が口を挟み、この場の雰囲気を無難なものへとまとめあげた。
「今は季節が終わってしまいましたが、夏場は一面ヒースに覆われて、とても美しいのですよ。見渡す限り、赤紫の花が咲いているのです。この恩恵を受けるためなら、冬の厳しさも耐えられます」
 リンズウッド・パークに到着するまで通り抜けてきた荒れ野を、ブラッドは思い浮かべた。ごつごつした岩肌を覆う草、どこまでうねるように続く丘。それをヒースの花が覆い尽くす様子を想像すると、ごくりと喉が鳴った。

「次は、ヒースの時期にヨークシャーを訪ねた方が良さそうですね」
 フン、と鼻を鳴らしながらも、気をよくしたのか、大佐がデイヴィーを仰ぎ見た。
「確か、ソフィアが描いた絵がなかったかね?あれを見れば、夏の荒れ野の様子がよくわかるだろう」
「ああ、居間に飾っていたやつですね」
 デイヴィーが、腕組みをして小さく唸り、ブラッドに向かって首を横に振った。
「レディ・ソフィアが描いた、ヒースの絵があるのですが、生憎、居間の壁から外したところなのですよ。部屋の模様替えをするのに、絵も他のものに代えようと彼女が言い出して」
 ブラッドは至極残念そうな声音と表情を作ってみせた。実際、ソフィアの絵を見てみたいという欲求も持ち合わせているから、嘘はついていない。
「それは残念だ。彼女の画才は優れていると、私も常々聞き及んでいますからね。滞在中に1度、見せていただくことは可能ですか?」
「それは勿論。きっと彼女のアトリエに置いてありますから、明日にでもお見せしましょう」
 にこりと笑いながら、デイヴィーがあっさりと約束をした。ソフィア自身が決して口を割ろうとしない、彼女のヨークシャーでの暮らしぶりを垣間見る好機になりそうだ。唇に笑みを浮かべ、ブラッドは若い伯爵に礼を述べた。
「ありがとう。楽しみにしています」

 それまで青年伯爵2人の会話を黙って見守っていた大佐が、フムフムと頷きながら口を開いた。
「ソフィアは実にいい描き手だ。荒れ野の生まれではないが、ここにきてすぐ、荒れ野に魅せられたようだ。あの子はいい娘だよ。ドミニクも、グレースの成長を見守ることができずに、さぞ心残りだろうて」
 ブラッドは表情ひとつ変えなかった。鷹のような眼差しを受け止めても、平然と流し、むしろ相手が作り出した隙をついて、鋭い反撃に出た。

「あれだけ可愛い子供ですからね、お気の毒だと思いますよ。レディ・グレースの瞳は母親そっくりだが、父親に似ているところはありますか?」
「そうですねえ、どうでしょうか。僕が物心ついたときには、伯父は既に髪も真っ白になっていましたから」
 ぐっと言葉に詰まった大佐には気づかず、のんびりと答えたのはデイヴィーだった。彼が尋ねるように目を遣ると、教区牧師が両肩を竦めてみせた。
「顔立ちはあまり似ていませんね、髪も、目も、きっとレディ・ソフィアの家系に似たのでしょう。先代伯爵は黒髪ではなかったですし、リンズウッド伯爵家に黒髪の人間はいなかったと記憶していますよ」
「そうですか。母親の家系に似たのなら、きっと美しく成長しますね」
 胸にこみ上げる塊をぐっと堪え、動揺を見事に隠して、さりげなくブラッドは言葉を返した。疑り深い老人の視線が、じっと注がれていることを強く意識していた。焼きつけるような眼差しがなければ、何かしらの動揺が表に出ていたかも知れない。

 ロンドンでソフィアに告げた言葉が、まざまざと甦って、ブラッドの全身を打ちのめす。

『グレースを見ていると、あなたと亡き伯爵の生活を、嫌でも連想せざるを得ないのです』

それは、偽りのない本音だ。

『おそらくは伯爵譲りの黒髪なのだろうが、私がかつて夢に描いていた未来の我が子と、グレースはあまりによく似ている。私と手にするはずだった幸せの代わりに、あなたが亡き夫と手にした幸せが、どんなものだったのか、覗き見ているような気にさえなってくる。その度に思い知らされるのです、あの時あなたの側を離れるべきではなかったと』

 大佐から見えない位置で、両の拳をぎゅっと握り締めた。
 何としてもブラッドを拒み通そうとするソフィアは、頑として口を割ろうとしない。彼女が固く纏う鎧を突き崩すには、彼女と親しい誰かから、突破口となる情報を得る必要がある。
 何も知らない新米伯爵と教区牧師が、固く閉じられた扉を開ける鍵を、この手の中に落としてくれたようだ。

 胸の震えを隠して、顔を上げたブラッドに、きっぱりとした口調で、ウェルズ大佐が語りかけた。
「ソフィアは荒れ野の生まれではなくても、骨の髄まで荒れ野の人間になった。このまま一生荒れ野で過ごすと望んでいるし、わしらもそれを見守っていきたいと願っている」
 警告を含んだ大佐の言葉に、状況を把握できないデイヴィーと教区牧師が不思議そうに顔を見合わせたが、年老いた元軍人は、周囲の様子になど頓着しなかった。明らかな牽制を、青年伯爵へと仕掛けていた。

 この老人は、ソフィアが抱える重荷を多少なりと知っているに違いない。ブラッドがはっきりと確信するほど、大佐には余裕がなかった。

「荒れ野の人間を、荒れ野で傷つけることは許されない。荒れ野がそう望まない限り、どんな激しい嵐であってもな。それだけは忘れんでくれ」
 ソフィアの亡き夫の友人だという老人の言葉を、ブラッドは少しだけ目を瞠って受け止めたが、じきに表情を緩めた。降参だという風に両手を挙げて、老人に向き直ったブラッドの眼差しは、深い青に輝いていた。
「誤解しないでいただきたい、ウェルズ大佐。私は彼女を守りたいとは思うが、傷つけようなどとは夢にも思っていない。彼女に害をなすものは、断固として退けるつもりだ。ご心配いただくには及ばない」
 ナイフのように切り返された言葉に、偽りを感じ取れなかったのだろう。フン、と不満そうに鼻を鳴らして、大佐は顔を横に背けた。だがその瞳に、満足そうな光が一瞬だけ浮かんだのを、ブラッドは見逃さなかった。

 やれやれ、と、口の端に微苦笑が上る。
 ソフィアだけでなく、彼女を守ろうとする人々も、攻略していかなければならないらしい。大佐のいう「ヨークシャー人気質」からして、その仕事はすんなりとは運ばなさそうだ。
 けれど、あの灰青の瞳を取り戻すためならば、目の前に立ちはだかる困難も、苦とは思えない。
 瞼の裏に、友人の顔が思い浮かぶ。鳶色の瞳の彼は、実に的を射たことを言ってくれた。確かに彼の言う通り、タイミングを逃さずに、必死で行動することは重要だ。ブラッドは、長々と時間をかけるつもりはなかった。ロンドンで別れて以来、ヨークシャーにやってくるまでの時間は、酷く長く感じられた。あのような想いを何度も味わいたいほど、自虐的な性分ではないのだ。

 さて、どうやって攻めようか。
 すっかり人肌に温まったブランデーグラスを揺らしながら、ブラッドは作戦を練り始めた。

2009/07/12up

時のかけら2009 藤 ともみ

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