第4章 キャンバスの面影[4]

  ベッドに横たえられたソフィアの顔色は、まだ青白いままだった。受けた衝撃の大きさを物語るように、意識を手放した後も、眉間には深い皺が刻まれ、唇は苦しげに引き結ばれている。固く閉じられた瞼の際には、涙が流れた跡もある。
 手を伸ばして眉間の皺を伸ばし、彼女の不安が和らぐように頬を撫でてやりたい。人目がなければ、実行に移しているだろう。だが実際には、アリスを始めとするメイドたちが、ソフィアの世話をすべく、慌しく部屋に出入りしている。彼女に触れたい衝動を抑えながら、ブラッドはベッドのすぐ側に立っているしかなかった。

 グレースが誘拐されたという報せを受け、居間で倒れたソフィアを、2階の寝室まで運び込んだのはブラッドだった。駆けつけたアリスがぴたりと付き添い、甲斐甲斐しく世話をしているから、これ以上ブラッドにできることはない。部屋に運ぶ間も、ベッドに横たえてからも、ソフィアが目覚める気配はなかった。
 心配で神経をすり減らしているよりも、意識を手放している方が、楽かもしれない。

「フォード伯爵・・・」
 呼ばれて振り返ると、いつになく固い顔つきのメアリ・マクニール卿夫人が、ちょうど寝室に入ってきたところだった。常に穏やか、物静かで、痩せぎすのメアリは、逞しい夫の影に入り、微笑んでいるような女性だが、さすがに今は、動揺が眉間の皺に表れている。
 ブラッドが1歩下がり、ベッド脇の椅子を指し示すと、メアリは大人しくそこに腰をかけ、眠ったきりの友人を、心配そうに見つめた。

「レディ・ソフィアについていてあげて下さい」
「もちろんですわ」
 ブラッドの言葉に顔を上げ、メアリはきっぱりと頷いた。『北の王者』とあだ名されるマクニール卿も敵わないしっかり者の気性が垣間見え、ブラッドは口の端を上げて微笑んだ。彼女がソフィアについていてくれれば安心だ。
「私はマクニール卿たちと、捜索に加わります。彼女が目を覚ました時には、グレース嬢が見つかっているように、全力を尽くしますよ」
「ソフィアのことは任せて下さいな」

 心配はいらないと断言するメアリは、あのマクニール卿の妻を務めるだけあって、頼もしい。男たちが留守にしても、家の中のことをきっちりと仕切ってくれるだろう。軽く頷いて、ブラッドは今1度、眠るソフィアに目をやった。彼女の悩みや苦しみを、払いのけてやりたい。ソフィアを見つめたまま、ぎゅっと両の拳を握り締めるブラッドの横で、メアリが音もなく立ち上がり、くるりと背を向け、小声で告げた。
「わたくし、何も見てはおりませんわ」
「え?」
 訝るブラッドの背を押すように、メアリは両手で目を覆い、なおも、言葉を重ねた。

「何も聞いてもおりません。ですから、この部屋にはソフィアと伯爵、お2人だけですわ」
 意味を理解して、ブラッドが目を瞠った。黙認するということだ。この機を逃す手はなく、ブラッドは素早くベッドに身をかがめると、左手をソフィアの頬に当て、唇を額に押しつけた。彼女が身につけている花の香りが、ふわりと鼻先を掠める。

 肺の奥いっぱいに彼女の香りを吸い込んでから、ブラッドは身体を起こし、表情を引き締めてから扉へと足を向けた。ブラッドが横を通り過ぎると、メアリが両手を下ろした。ノブに手をかけ、ブラッドが後ろを振り返る。眠るソフィアに向けていた苦しげな表情は、端正な顔の下に綺麗にしまいこまれ、冷静な中に、溢れる才気が秘められている。サファイアの瞳に宿る鋭い光にぶつかり、メアリは思わずごくりと唾を飲み込んだ。夫が評価するだけのことはある青年だと、肌で納得した。
「あとは頼みます」
 短く告げて、ブラッドは身を翻し、足音を立てずに廊下へと出て行った。彼の気配が消えた途端、メアリの全身に纏わりついていた緊張が、ふっと霧散した。ふらりと椅子の背に手をつき、メアリは苦笑交じりに、意識のない友人へと語りかけた。
「あなた、随分想われているのね、ソフィア」
 ひとりで頑張り続けなくてもいいのかもしれないわ、と、メアリは呟き、そっと椅子に腰を下ろした。ブラッドが出て行ってから間もなく、アン・ウェルズがやってきて、メアリと共にソフィアに付き添った。ふたりは時折顔を見合わせ、励ますように頷き合いながら、じっと、ソフィアの目覚めを待ち続けた。


 要請に応じて、ウェルズ大佐がリンズウッド・パークへ駆けつけてきたのは、ブラッドがソフィアの寝室を出てすぐのことだった。階下の玄関ホールへ下りていったところで、ちょうどウェルズ親子と鉢合わせ、心配そうに表情を曇らせているアンには、メアリと共にソフィアについていてくれるよう依頼した。ウェルズ大佐には、デイヴィーの書斎へ同行してもらい、既に待機していたデイヴィーとマクニール卿に合流する。全員が、いつでもすぐに出かけられるよう、乗馬服に身を包んでいる。

 誰もが、グレース誘拐の報が、性質の悪い冗談であって欲しいと、どこかで願っていたに違いない。だがそれも、脅迫状の内容や、グレースが行方不明になった状況を吟味していくうちに、消え失せてしまった。
 子供部屋で昼食を取った後、いつもならすんなりと昼寝をするグレースが、今日だけは珍しくグズったのだと、恐怖に青ざめながら、乳母は語った。何かいつもと違う様子が見受けられたのかとブラッドが尋ねると、彼女は言いにくそうに、首を横に振った。
「伯爵様が、リーズへ発たれると聞いて、がっかりしたご様子でした。また来ていただくために、何か贈り物を用意しなくてはと仰って・・・・・・」
 ブラッドの顔色が変わったのを見て、乳母は口を噤んだが、マクニール卿に促され、渋々と一部始終を語った。ブラッドの気を惹くために、贈り物を見つけるまでは絶対にベッドに入らないと、グレースは頑張った。普段聞き分けのいい彼女が、ここまで頑固に主張するのは珍しい。手を焼いた乳母は、仕方なく一緒に庭へ出て、贈り物になりそうな花などを探すことにしたという。その後でベッドに入るという約束を取り付けて。

 リンズウッド・パークの北側には、館に覆いかぶさるように、針葉樹の林がこんもりと繁っている。冬の暴風雨や雪から守るためにと、数代前に植樹された林は、昼間でも薄暗く、人の出入りが滅多にない。この林を抜ければ、館の北東の丘を越えたところにある街道に最短距離でたどり着くことができるが、普段は、屋敷に仕える者も、ここを迂回して通る。
 リンズウッド・パークの庭は、ゴールド・マナーほどではなくても、十分に広い。館の西側には、ソフィア自ら手を加えた花園があり、グレースは乳母と共にまずはそこへ向かった。ある程度、目ぼしい花をそこで見つけたものの、グレースは満足せず、屋敷の周りをぐるりと回ってみると言い張り、北側へと足を向けた。林には入らないように、普段から言い聞かせていたが、随分傍まで知らぬ間に近寄ってしまったらしい。
 グレースがあまりにも一生懸命探しているから、乳母も、綺麗な花を探すことに没頭してしまった。グレースの姿が茂みの後ろへ消えたのを視界の端に捉え、「そちらへ行ってはなりませんよ、お嬢様」と声をかけたものの、返事がない。不審に思い、覗いてみると、その時にはもうグレースの姿はどこにもなかった。彼女が握り締めていたはずの花と、履いていた靴が片方、地面の上に転がっていた。
 乳母は半狂乱になり、その辺りを探したが、グレースは見つからない。館へ戻り、家令に事情を話し、使用人が手分けして捜索を始めたところ、例の脅迫状が見つかったというわけだ。

「申し訳ありません、私がついていながら・・・・・・」
 涙に暮れる乳母を、家令のジョーンズがミセス・ホジソンの手に預け、休ませるように指示を出す。シンとした沈黙が、書斎に落ちた。

 グレースが残していった靴を、ブラッドは固く握り締めた。自分を喜ばせようとして、グレースは外に出、何者かの悪意に巻き込まれたのだ。そう考えただけで、全身を針で刺されたような、いたたまれなさに襲われる。ここ数日、マクニール卿との駆け引きに忙しくて、子供部屋を訪ねていなかった。きっと、寂しい想いをさせていたに違いない。もう少し配慮していたら、彼女が外に出ることもなく、誘拐されることもなかった。せん無いことだとわかってはいるが、後から後から悔いる想いが溢れてくる。

「これは明らかに、リンズウッド伯爵家へ恨みを持つ者の仕業だ。幼いグレースが恨みを買うわけがないし、レディ・ソフィアも人の憎しみを買うような性分ではない。個人ではなく、伯爵家全体へ向けられた悪意だろう」
 気難しい顔をいつもより更に険しくさせて、ウェルズ大佐が唸った。状況は芳しくなかった。

 グレースを預かった者は、脅迫状の中で、身代金を用意した上、真夜中までに村外れの辻に置くよう指示している。もちろん受け渡し場所の周囲には誰もいてはならず、警察が張り込むことは禁止する、と注意書きをつけているが、みすみす身代金を渡すつもりはなかった。
「ですが、なぜ今なのでしょう?伯父が亡くなってから、特に大きなトラブルはなく、領地管理をしてきたのに」
 デイヴィーが青ざめて、頭を抱えた。ソファに崩れ落ちた若い伯爵に、マクニール卿が気の毒そうな眼差しを向けながらも、遠慮のない現実を突きつける。
「今だからこそ、狙ったのかもしれないぞ。爵位を継いだばかりの不安定な時期だ、伯爵家を揺るがすことも容易いと思ったのだろう」
「そんな・・・」
 デイヴィーは手で顔を覆うと、がっくりと俯いた。伯爵家の令嬢が攫われたというだけでも大変なスキャンダルなのに、伯爵家に怨恨を持つ者がいるとなれば、標的になる者が更に増えるかもしれない。それは、ケンブリッジを卒業して間もない若者が直面するには、重い問題だった。
「このあたりでの伯爵家の評判は良いし、協力者も大勢いる。恨みを持っている者がいるとしても、それ以上に味方がいることを、忘れちゃならん」
 ウェルズ大佐がフンと鼻を鳴らした。ぶっきらぼうではあるが、デイヴィーの顔を上げさせるには十分な慰めだった。陸軍軍人だっただけあり、どっしりと構え、動揺で心を揺らさない大佐の落ち着きは、非常に頼もしく、ゆっくりと周囲に浸透していく。デイヴィーの顔つきにも徐々に冷静さが見受けられるようになってきたのを見計らって、大佐はブラッドを見遣った。

「さて、村からも大勢、捜索隊を出すと言ってきておる。わしらはどう動くかね?」
 じっと大佐を見返したブラッドの眼差しには、もはや動揺の色はなかった。強い意志の宿るサファイアの瞳は、真っ直ぐに、部屋にいる男たちを順に射抜いていく。

「一応、身代金の準備はします。グレースの捜索は続けるが、一方で身代金を用意して、ここに指定されている引渡し場所へ持っていき、張り込みをする。張り込みに関係なく、グレースが見つかればそれでいい」
「金は、ジョーンズに用意させています」
 すかさずデイヴィーが手を挙げた。それに頷き返して、ブラッドは続けた。
「無論、素人だけの捜索では限界があります。既に州判事と、ボウ・ストリートの治安判事にも、手を貸すように要請の早馬を出している」
「ボウ・ストリートへ?」
「ええ。今回のこととは別に、少し気になることがあって、ずっと捜査を依頼していたのです。もしかしたら、何か関連があるかもしれない」

 怪訝そうなマクニール卿へ、短い答えを返したものの、それ以上詳しいことを話すつもりは、今のブラッドにはなかった。関連がないことを祈るばかりだ。そうでなければ、ソフィアが更に傷つくことになるかもしれない。
 キッと顔を引き締めて、ブラッドは大佐と目を合わせた。
「ウェルズ大佐はここに残って、村中から集まってくる情報を集約し、必要に応じて報せて下さい。リンズウッド、君もここで、大佐と一緒にいて欲しい」
「承知した」
「ですが僕も――」
 すぐに承諾した大佐とは対照的に、デイヴィーが焦った様子で声を上げた。グレースが心配だから、一緒に捜索に加わりたいというのだ。何か言おうとして口を開きかけた大佐を目で制し、ブラッドがきっぱりと拒否した。
「館が手薄になるのは物騒だし、何より、もしも犯人の狙いが伯爵家だった場合、君は格好の標的になってしまう」

 窓の外は既に夕暮れの闇に沈もうとしている。
「ここで待っていてくれないか。犯人の手がかりは、何としても手に入れてくるから」
「伯爵・・・・・・」
 苦しげに表情を歪めたデイヴィーの肩を、ウェルズ大佐が軽く叩いた。
「フォード伯爵、わしらはここで留守を守る。張り込みは頼んだぞ」
「ええ。私はこれでも一応、元軍人ですからね。犯人を何としても引きずり出しますよ」
 ブラッドは大佐に頷いて見せてから、マクニール卿と共に席を立った。

「1度、現場の下見をしましょう。その後、館に戻って身代金の準備をしてから、現場に戻り、張り込みます」
 ブラッドの言葉に、マクニール卿は考え込むように手を顎に当てた。
「あまり大勢で現場をうろつくのは良くない。かえって目立ってしまう。代わりに、あの辻に通じる村内の各所にも、見張りを立てよう。村人に協力してもらうよう、私は捜索隊の方に話をつけてくる。手配を終えてから1度、館に戻ってくることにしよう。それから、伯爵と合流して張り込みにつくというのはどうだろう?」
「そうですね、村内に見張りを立てておくのは良い考えです。万一辻で犯人を取り逃がしても、遠くまで行く前に捕まえましょう」
 2人の会話を黙って聞いていたウェルズ大佐が、立ち上がった。
「ならばわしが、近隣の町へも遣いを出し、村から各方面に続く街道にも見張りを立てるように要請しよう。デイヴィー、少しの間、ここを任せてもいいな?」
「はい」
 緊張の面持ちで、デイヴィーが頷くと、大佐はニヤリとブラッドに笑いかけて、行動を起こすべく急ぎ足で書斎を出て行った。大佐は長くこの辺りに住んでいるため、顔が広い。近隣にも友人知人が多かった。

 取り残されたマクニール卿が、ブラッドを見て、困ったように眉尻を下げた。
「ご老人に遅れを取ったとあっては、外聞が悪いな。我々もすぐに出かけることにしよう」
「そうですね」
 デイヴィーに視線を走らせると、先ほどよりもよほどしっかりした顔つきで、若者は頷き返してきた。やっと腹を据えたらしい。片手を挙げると、ブラッドは足早に書斎を出て、玄関ホールへと向かった。マクニール卿もすぐ横へついてくる。

 玄関ホールには煌々と灯りが灯っていた。玄関扉のすぐ脇に、両手を握り締めたミセス・ホジソンが控えている。家令のジョーンズが、書斎からここまでついてきて、従僕らから上着を手に取る2人に、深々と頭を下げた。
「どうかお嬢様を、お願いいたします」
「ジョーンズ、頭を上げてくれ」
 凛としたブラッドの声に打たれ、忠実な家令は身体を起こし、こちらを見つめる真摯な真っ青の眼差しに釘付けになった。何らかの強い私情がフォード伯爵を突き動かしているのだと、サファイアの輝きが物語っていた。
「グレースのことは任せてくれ。何をしてでも、絶対に助け出す。君は、館とレディ・ソフィアを頼む」
「はい、旦那様」
 ジョーンズだけでなく、ミセス・ホジソンまでもが深く頭を下げた。彼らに背を向けて外へと歩き出しながら、ブラッドは、小走りに横についてきた従僕のジャックに、馬を用意するよう言いつけた。
「馬の準備はできております、ご主人様」
 ハンプシャーからロンドンまで、ソフィアたちを伴っての旅にも同行したジャックは、この数年、ブラッドの片腕として常にぴたりと付き従っている。今回のヨークシャーへの旅には、ジャックの他にも従僕が同行しているが、彼は目下、州判事のところへと遣いに出ているところだった。
「行くぞ」
 短く告げて、ブラッドは厩へと向かった。ブラッドと一緒に描かれたキャンバスで、グレースは楽しげに笑っていた。あの笑顔を、絶対に喪うわけにはいかなかった。まだ何も始まってはいないのだ。


 空高く月が上った。白々とした光が、地上にあるものをはっきりと浮かび上がらせてしまう。満月に近い月灯りは、陽光に劣らぬ明るさがあって、いくら黒ずくめの格好をしていても、闇の中に沈み込ませてはくれない。
 村はずれの辻の上に、ぽつんと置かれた麻袋を、遠めでも確かに捉えることができる。それほどに、月明かりは地上を照らし出していた。

 辻の周りは草むらで、それがじきにヒースの丘に続いている、殺風景な、見晴らしの良い場所だ。犯人たちが身を潜める場所などどこにもなく、それは念のため、張り込みの前に周囲を探索したことからでも明らかだ。
 辻の周辺には身を隠す場所がないが、そこから少しだけ離れた道端に、先日の嵐で焼け落ちた小屋が、不気味に佇んでいる。不意の嵐や落雷が、この時期、頻繁に荒れ野を襲うため、こうして道端に焼け残った小屋などが建っていても、珍しい光景ではない。

 ブラッドたちは、その小屋に隠れて、外の様子を窺っていた。かつては家畜用の小屋だったため、馬を引き入れても十分に身を隠すスペースはある。人間の緊張を悟った馬たちが、興奮しないよう宥めながら、ブラッドはジャック、マクニール卿ら数人の男たちと共に、脅迫状に指定された通り、辻に麻袋を置き、じっと観察していた。

「相手は徒歩で来ると思うか?」
 マクニール卿が、低く囁いた。
「いえ、これだけ見晴らしが良い場所です。身を潜める場所もないのだから、きっと馬で来るでしょう」
 ブラッドが頭を振ると、ジャックが道の彼方を見遣った。
「馬で来たら、蹄の音ですぐわかりますね」
「犯人らしい者が来たら、私がすぐに出よう。お前たちも後に続いてくれ」
 ジャックたちが賛同したが、マクニール卿は不安げに口を挟んだ。
「だが伯爵、相手は武器を持っているかもしれない。あなたはまさか丸腰ではないだろうね?」
「ご心配には及びません、卿」
 ブラッドは、上着越しに、腰に仕込んだ硬いものを撫でて見せた。外の月明かりが屋根や壁の破れ目から入り込んでくるため、冷たい金属の塊が微かにきらりと光る。

「ならばいいのだが・・・・・・一応、ここからも犯人を狙撃できるようライフルを持ってきてはいるが、接近戦に持ち込むには、丸腰では危険だからね」
「これでも元軍人ですからね。そう簡単にはやられませんよ」
 不敵な笑みを浮かべるブラッドに、マクニール卿はやれやれと嘆息した。

 じりじりと時間が過ぎ、やがて月が雲間に隠れた。

 草も木も、土埃の道の上に転がる石ころさえも、ひっそりと息を潜めて、何かの気配に聞き耳を立てているようだ。小屋の中にいる人間と馬だけでなく、荒れ野の全てが、闇のヴェールの向こうを透かし見て、待ち人の出現を待っていた。

 微かに馬の蹄の音が、丘の向こうから聞こえてきた。
 びくりと身体を動かしたジャックを片腕で制し、ブラッドは壁の割れ目から、外の闇へと目を凝らした。初めは耳を澄ましても漸く聞き取れるほどの音だったが、蹄鉄が力強く地面を蹴る音が、徐々にこちらに近づいてきている。

「来たぞっ!」
 囁き声が誰のものだったかは、判然としない。暗がりの中からじっと見守る一同の前に、丘から辻へと続く道を走る、1頭の騎馬が姿を現した。騎乗の人物の特徴は、暗闇に紛れて判然としない。
「黒い装束を身につけているのか」
 マクニール卿が悔しげに呟いた時、ブラッドが音もなく体を起こし、馬の手綱に手をかけた。それを見て、ジャックが素早く動き、外へと通じる破れた戸を、馬1頭が通れる分だけ開ける。ちょうど、道とは反対側に面しており、小屋の影にも隠れて、騎馬の人物からは見通せない。

 小声でブラッドが馬に声をかけながら、戸外へと連れ出した。マクニール卿もそれに倣い、馬の手綱を取りながら、そっと声をかける。騎馬の人物が立てる蹄の音で、こちら側の物音はかき消されている。遮るものがない場所だけに、規則正しい馬の足音は、辺りに響き渡っていた。

「どうする、伯爵」
「身代金を取るのに、きっと辻で速度を落とすだろうから、そこを狙います。先に行くから、後から援護して下さい」
「わかった」
 緊張した面持ちでマクニール卿が頷いた時、ジャックが小さく声を上げた。
「旦那様、月明かりが――」

 重く垂れ込めていた雲が途切れ、月が再び顔を出し、地上を昼間のように明るく照らした。サアッと差し込む月光が、荒れ野の生き物だけでなく、辻を目指してすぐそこまで近づいた騎馬の人物をも、はっきりと夜のキャンバスに浮き上がらせる。
 ブラッドは、眉を顰めた。騎馬の人物は、黒っぽいマントに身を包んでおり、顔には黒い面をつけている。遠目では男女の区別もつかないが、マント越しにも、がっちりとした肩幅が目につき、おそらくは男だろうという目星はつく。

 ひそかに注視されているとも知らず、騎馬の男は次第に速度を落として辻に差しかかった。辻の真ん中に馬を止め、鞍から下りて麻袋を掴む。中にはぎっしりと紙幣が入っているから、相当な重さだ。男が、ずり落ちそうな麻袋を何とか鞍の上に置いた時には、ブラッドは既に馬に飛び乗っており、辻を目指して野原を突っ切っていった。

 別の蹄の音に、黒面の男は、ハッと顔を上げた。真っ直ぐに辻目指して進んでくるブラッドを見るなり、慣れた身のこなしで鞍に跨り、鋭く鞭を振るった。甲高いいななきと共に、黒面の男を乗せた馬が、一目散に西を目指してどうと走り出す。男は何度も鞭を馬に当てるが、ずしりとした麻袋を抱えているため、思うように速度が上がらない。直にブラッドを乗せた馬が、ぴたりと真後ろについた。
 後ろからは更に、数頭の蹄の音が追いすがってくるが、ブラッドはもはやそれを聞いてはいなかった。腰に仕込んだ拳銃を抜き取り、片手で器用に撃鉄を起こす。金属的な音にぎくりと肩を強張らせた黒面の男が、ブラッドを振り返り、片手に黒い鉄の塊が光るのを見て、更に鞭を振るった。

 馬の速度は上がらない。この先は、ヒースの丘陵地帯へ入り込んでしまい、この時間は丘が道に影を落としており、場所によっては見晴らしが悪くなる。ブラッドは僅かに馬の速度を上げ、前をゆく馬の斜め後ろへついた。と、こちらを再び振り向いた男の手に、ギラリと光るものが握られているのが、目に入った。
 銃声が、辺り一帯に響き渡る。

 反射的に上体を伏せ、凶弾を躱したブラッドは、銃を撃った反動で僅かにバランスを崩した男の隙を突き、身体を起こすなり、瞬時に狙いを定め、引き金に指をかけた。微かにこめかみを掠った銃弾のせいで、滲んだ血が肌を伝うのを感じだが、狙いに乱れはなかった。
 再び、銃声が丘を伝って消えていく。

 ブラッドの撃った弾は、至近距離で男の持つ銃を弾き飛ばした。くぐもった声を上げ、銃を持っていた手を、もう一方の、手綱を持った手で押さえ、男は鞍の上で上体を折り曲げている。銃弾の衝撃で、片手が痺れているのだろう。今が好機だ、と、ブラッドの頭の中で、もう1人のブラッドが囁いた。
 躊躇いはなかった。

 ぐんと馬を寄せ、疾走する鞍の上で体勢を整えるなり、ブラッドは男へ跳びかかった。片手が使い物にならない彼に、抵抗する術はなかった。跳びかかった勢いのまま、2人は地面へと倒れこみ、ブラッドの下になった男は、潰れたような叫びを上げた。
 疾走する馬の上から地面に飛び降りたようなものだから、ブラッドにも無論、着地の衝撃はあった。が、意外と細身の男を下敷きに、うまく衝撃を分散させると、すぐに容赦のない攻撃を叩き込んだ。
 狙い澄ました拳が、男の急所を遠慮なく突く。苦しげな息が、面の下から漏れた。男は何とか拘束から逃れようと、滅茶苦茶に腕や足を振り回して暴れようとしたが、その力を、ブラッドは冷静に奪っていった。月は再び顔を出してより、雲に隠れることはなかったから、男のもがく様は、昼間のようにはっきりと見て取れたのだ。

 何度目かの拳を打ち込んだ後、げほっと男が咳き込み、動かなくなった。いつの間にか後ろに佇んでいたマクニール卿が、鋭い警告を発したのと、ブラッドが拳を収めたのは同時だった。
「閣下、あまりやりすぎると、何も聞き出せなくなる」
「・・・わかっていますよ、マクニール卿」
 マクニール卿の背後には、一緒に小屋へ潜んでいた男たちが立ち並び、地面に横たわる黒面の男と、その上から立ち上がるブラッドを、無言で見守っていた。マクニール卿の合図で、彼らはバラバラと男に駆け寄り、呻き声に構わずに、羽交い絞めにする。黒い面の隙間からは、赤いものが僅かに流れていた。それを見たマクニール卿が、顔を顰める。

「手加減はしたのでしょうな?」
「もちろんですとも」
 男と取っ組み合う間に乱れた着衣を手早く直し、髪を手で撫でつけてから、ブラッドは抵抗を封じられた男の前へ歩み寄った。ブラッドがこれ以上、捕虜に手荒なことをするかもしれないと警戒したのか、地面に転がっている2丁の銃を素早く仕舞い込み、マクニール卿もぴたりとブラッドの傍に付く。ブラッドは、微苦笑を浮かべた。
「ご心配なく、マクニール卿。軍隊に比べれば、これでも随分と手加減した方ですよ。意識は失くしていないようだし、グレースの居場所を聞き出すには十分でしょう」

 嘆息する卿を無視して、ブラッドは真正面から男に視線を合わせ、面へと手を伸ばした。無造作にむしり取り、ジャックに渡そうとして、彼の姿が周囲にないことに、このときになってブラッドはやっと気が付いた。すると、マクニール卿の従僕が心得たように進み出て、ブラッドの手から面を受け取った。
「閣下の従僕は、先ほどの馬を追っていきました。間もなく戻ると思います」
 説明されて、馬のことをすっかり失念していたことに思い当たる。冷静なつもりが、状況に気を配る余裕を欠いていたようだ。こみ上げる苦さを噛みしめ、ブラッドは、月光に素顔を晒す男へと向き直った。

 あちこちが腫れ上がり、醜く歪んだ顔の中で、狡猾そうな眼差しだけが、憎しみを込めてブラッドを見上げている。腕も足も、自由を奪われていながら、その目だけが爛々と光っていた。切れた唇から赤いものを滲ませながら、男はぽつりと吐き捨てた。
「絶対に上手くいくと言ってたくせに、あのヤロウ。外れくじを掴ませやがったな」
 月光に浮かぶ彼の顔を見て、マクニール卿がハッと息を呑んだ。男の言葉を聞きとがめたブラッドが言葉を発するより早く、卿は俄かに厳しい顔つきで、男の前に立った。
「お前の人相書きは、州判事事務所で何度も見た。ウェスト・ヨークシャー一帯を荒らす窃盗団の1人、ダドリーだな。うちの従業員にも、お前たちに狙われたことのある者がいる。まさかこんなところで逢えるとはな」
「――北の王者か」
 不敵な笑いらしきものを、ダドリーと呼ばれた男は浮かべたが、腫れ上がった顔では判別し難かった。

「ご存知で?」
「この辺りの州では有名な悪党の1人だよ。追いはぎ紛いのことまでやる、窃盗団の1人で、手下を何人か持っている。まさか、身代金目当ての誘拐までやるようになるとはな」
「はっ、あんたのとこの売上金を運ぶ馬車を狙う方が、よほど安全で、実入りがよかったな」
 開き直ったように、ダドリーは顎を反らして、侮蔑を交えた挑発を始めたが、やすやすと乗るマクニール卿ではない。見る者の背筋を凍らせる眼差しで、ダドリーを見つめ、卿は腹に響くような低い声で告げた。
「リンズウッド伯爵家の令嬢を、どこへやった?これ以上傷が増える前に、大人しく話した方が身のためだぞ、ダドリー」
 挑戦的に見返す男に、卿はなおも言葉を重ねた。
「もはや、州判事だけでは済まない。場合によっては、すぐにボウ・ストリートに連れて行かれ、ニューゲイト監獄にぶち込まれることになるぞ」

 ニューゲイト監獄と聞いて、それまで大胆不敵な態度を崩さなかったダドリーの目に、小さな怯えが走ったのを、ブラッドとマクニール卿は見逃さなかった。
 ロンドン中心部、シティにある悪名高いニューゲイト監獄は、1度入ったら、まともな状態で出てはこれない牢獄だとして、市民にも悪人にも怖れられている。18世紀後半から、絞首台がタイバーンからニューゲイトに移されたこともあり、死刑を待つ重罪人も収監されている。
 ボウ・ストリートには治安判事の裁判所があり、ニューゲイトからも近い。様々な事件を扱い、『捕り手』と呼ばれる優秀な巡査がおり、犯人逮捕のためにイングランド各地を飛び回っていることで知られている。ボウ・ストリートに引き立てられれば、すぐにニューゲイトに移送されるという図式は、ウェスト・ヨークシャーの窃盗団でも簡単に思いつくらしい。

 そこを逃さずに、ブラッドは少し腰を屈めて、ダドリーの顔を覗き込んだ。サファイアの瞳と視線が合った途端、ダドリーの顔から余裕は消え、ぐっと唇が引き結ばれた。
 ブラッドは軍隊時代に身につけた、冷徹さをたたえた目で、射抜くように相手を見つめ、何の感情の欠片もない淡々とした声で、逃れがたい現実を突きつけた。
「ニューゲイトに直行するかどうかは、お前の心がけ次第だ、ダドリー。グレースの居場所を速やかに吐き、無事に保護することができれば、ボウ・ストリートには私は口添えをしてやってもいい。治安判事は私の知り合いだからな」

 ぐっと言葉に詰まるダドリーは、ブラッドの顔を探るように見た。月光に照らし出されるブラッドの表情は、厳しく冷たいもので、真実とも偽物とも判別しがたい。感情らしきものは一切なく、仮面のように無機質だった。僅かに肩を落とし、先ほどよりも弱弱しい声で、ダドリーはぼそりと呟いた。
「あんたはどこの貴族様だ?貧乏貴族に、治安判事が耳を貸すとは思えねぇ」
 腰を伸ばし、ダドリーを見下して、ブラッドは短く告げた。伯爵家の名ではなく、敢えて、一族中最高位の爵位を持つその名を。

「レイモンド侯爵家の人間には、どんな治安判事も耳を傾けるだろう」
 英国中でも屈指の名家、数少ない上級貴族の家名は、ダドリーもさすがに知っていたらしい。侯爵サマかよ、と憎らしそうに吐き捨ててから、肩をがくりと落とした。ぼさぼさに乱れた髪の合間から、睨み上げてくる瞳の光は、随分と弱いものになっていた。
「あのヤロウ、あのババアも、騙しやがって」
 小さく呟いた言葉を、マクニール卿は聞き漏らしたようだったが、ブラッドはしっかりと捕えていた。グレースの行方を聞き出したあとは、その辺りもはっきりとさせてもらうことにしよう。

 マクニール卿に頷いて見せると、彼は心得たように、男たちに指示を出し始めた。このような野原ではなく、村へ連れて行き、きちんとした尋問を行うのだ。無論、グレースの居場所を真っ先に聞き出して、救出を並行して行いながらも、今回の誘拐事件の背景をしっかりと把握しなければならない。
 まだ真夜中を過ぎたばかりで、夜明けまではまだまだ時間がかかりそうだ。男たちに引き立てられていくダドリーを見送っていると、従僕のジャックが、いつの間にか馬を引いて、背後に控えていた。その向こうには麻袋を抱えたマクニール卿の従僕が、四苦八苦して鞍に跨ろうとしている。頭を下げる従僕に、ブラッドはねぎらいの言葉をかけた。
「ジャック、手を煩わせたな」
「いえ、旦那様。じきに馬の手綱を取ることができましたから」
 それほど遠くまで行かないうちに、もう1人の従僕と手分けして、2頭の馬を連れ帰ることができたという。彼から手綱をもらい受けながら、ブラッドは次の指示を与えた。リンズウッド・パークに引き返して、ウェルズ大佐を呼んでくるようにと告げると、ジャックは心配を滲ませながら、遠慮がちに尋ねてきた。

「かしこまりました。ところで旦那様、お嬢様は見つかったのですか?」
「いや、まだだ。だが、あの男もすぐに居場所を吐くだろうから、時間の問題だ。それより、黒幕を特定する方が厄介かもしれない」
 ブラッドがやれやれと肩を竦めると、ジャックが不思議そうに首を傾げた。
「黒幕でございますか?」
「ああ。そこまで吐かせるには、ウェルズ大佐は適任だろうよ」
 何しろ筋金入りの元軍人だ。捕虜の扱いには慣れているし、容赦ない。ニヤリとブラッドが笑うと、ジャックは主の意図を察して、すぐに踵を返した。もう1人の従僕が駆け寄り、間近で見た主の様子に、目を丸くして口を開いた。
「旦那様、あちこち血が滲んでおります!お怪我をされているのですか?」
「気にするな。手当てなぞ、事情聴取をしながらでもいい」
 素気無く片手を振ると、ブラッドは、待ち構えていたマクニール卿から、拳銃を返してもらうと、身軽く馬に飛び乗った。確かに言われてみると、乗馬服は埃にまみれ、赤いものが滲んでいる場所もあるが、不思議と痛みは感じない。疾走する馬から馬へ、飛び移った挙句に、地面に転がり落ちるという大立ち回りを演じたにもかかわらず、無傷すぎるのもおかしいのだが、それだけ神経が高ぶっているのかもしれなかった。
 グレースを無事保護するまでは、不必要な痛みなど知覚しなくていい。前をゆくマクニール卿を追いかけて、ブラッドは馬の腹を蹴り、再び荒れ野を走り始めた。

2009/08/04up

時のかけら2009 藤 ともみ

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