第4章 キャンバスの面影[5]

  時計の針が、規則的に時を刻んでいる。左右に揺れる振り子に合わせて、絶え間なくカチカチという音を発している。居間に据えられた大きな置時計は、先々代のリンズウッド伯爵が買い求めたもので、80年近く、この屋敷の時間を司ってきた。
 ドミニクが生きていた頃は、毎日寝る前にネジを巻くのが、彼の日課だった。彼の死後は、家令のジョーンズが主人の跡を受け継ぎ、毎日ネジを巻いている。彼がネジを巻くところを、グレースはいつもニコニコと見上げていた。この時計の音が心地よいらしく、居間のソファで丸まって眠ってしまったこともある。
 時計は静かに、グレースの帰還を待っている。

 ソファに腰を下ろしながら、ソフィアは不安そうに、時計を見上げた。日付が変わってから、2時間以上が経過している。寝室のベッドで目覚めた後、ソフィアは居間に降りていき、ここでじっと、娘の帰りを待っていた。ベッドに付き添っていたアンとメアリも、居てもたってもいられない思いをじりじりと抱えるソフィアに従い、寝室から居間へと場所を移して、僅かな休息も取らずに、一緒に夜を明かしてくれている。

 ソフィアが目を覚ましてから、4時間以上が経過していた。意識を失くしている間の出来事は、メアリとアンが話してくれた。じっとしていられないソフィアは、強引に居間に移り、そこへ留守居役を任されたウェルズ大佐とデイヴィーも合流した。グレースの乳母は、心労がたたって、ソフィアと入れ替わるように倒れてしまったということも、大佐が教えてくれた。
 それからは5人で連絡を待ち続けた。メアリとアンは、日頃の大人しい性格も手伝ってか、じっと彫像のようにソファに腰を下ろして、無言の慰めをソフィアに与えている。2人の間に座ったソフィアは、両手を祈るように組んで、床の一点を見つめ続けていた。時折顔を上げ、時計の針を確認する以外は、俯きがちに組んだ両手の上に顎を乗せており、その様子を見たウェルズ大佐は、まるで何かから身を守っているようだと思った。
 悲痛な沈黙のうちにある女性陣とは対照的に、同じ沈黙の中にあっても、どっしりと構えているのがウェルズ大佐だった。グレースの身を当然案じてはいるものの、さすがに軍隊経験の長い彼は、動揺をそのまま表に出すようなことはしなかった。1人掛けのソファに腰を下ろし、節くれだった両手を固く組んで、落ち着かない様子のデイヴィーを宥めた。じっと座っていることができず、ウロウロするデイヴィーと比べ、石のように泰然と構える大佐の存在は、女性たちにとっては非常に心強かった。雄弁な言葉より、沈黙の方が、多くを伝えることもある。

 その大佐が、ブラッドたちに呼び出されて屋敷を出て行ったのは、2時間ほど前のことだ。緊張した面持ちの家令がやってきて、大佐のお力をお借りしたいと従僕が言っていると告げたのだ。
「この老いぼれが、何の役に立つかはわからんが、ともかく行ってみよう」
 よっこらしょと立ち上がる父親に、アンが心配そうな目を向けたが、ぎゅっと唇を噛みしめただけで何も口にはしなかった。頑固一徹な父親に、真正面から気遣う言葉を向けても、反発されるだけだとわかっているからだ。だから代わりに、玄関ホールまで見送りに出たソフィアが言った。
「大佐、どうか無理はなさらないで」
「心配はいらんよ、ソフィア」
どんな根拠があるのか、大佐はきっぱりと言い切った。
「あの伯爵は、かなりのやり手だ。それに、お前さんのことを心底案じている。だからこちらも力を貸すのだよ。もうちょっとの辛抱だ、ソフィア」
 大佐は、家令が馬車を用意するというのには耳を貸さず、馬に跨って出発した。なぜ大佐が呼ばれるのかなど、詳しい事情は一切伏せられたままだったので、ソフィアたち残された者たちの不安は晴れなかった。はっきりしているのは、事態に何らかの進展があったということだけ。大佐が発ってからの2時間は、発つ前までの時間よりも、凌ぎがたく怖ろしい時間に感じられた。

 デイヴィーなどは、いよいよ耐え難くなったらしく、窓辺と炉辺をいったりきたりウロウロし続けている。秋の夜更けは冷えこむため、作りつけの暖炉には火が炊かれており、その前で温まっては、闇に沈む外を窺うために窓辺へと戻る。ずっとその繰り返しだ。
 苛立ちに耐えかねたアンが、珍しく凛とした口調で名前を呼んだ。デイヴィーとは、アンが生まれた時からの長い付き合いだから、互いに遠慮がない。
「デイヴィー」

 だが、その続きをアンが口にする機会は永久に奪われてしまった。デイヴィーが窓辺に駆け寄り、額をガラスに押し付けるようにして、外の様子を探り出したのだ。
「何かあったのですか?」
 心配そうに尋ねるメアリに、顔だけ振り向いたデイヴィーは、興奮した口振りで告げた。
「彼らが帰ってきたようですよ」

 言われてみると確かに、夜の静けさを破って、表の方からざわめきが聞こえてくる。それを裏付けたのは、頬を紅潮させて居間の戸口に現れた、ミセス・ホジソンだった。落ち着いた物腰の彼女が、息を切らしているところなど、ソフィアは見たことがなかった。
「旦那様、奥様、グレースお嬢様がお帰りになりました」
 家政婦の言葉を頭で理解するまでに、たっぷり1分はかかった。意味を捉えると、ソフィアは呻くように呟いた。
「ああ、神様。感謝いたします」
「グレースは無事なのか?」
 緊迫した声でデイヴィーが尋ねると、忠実な家政婦はしっかりと頷いた。メアリとアンの唇から、ほっと安堵の息が漏れる。
「はい。今ちょうど、玄関の方へ――」
 ミセス・ホジソンの言葉を最後まで聞き終えないうちに、ソフィアは素早く立ち上がると、廊下へと駆け出した。互いに顔を見合わせてから、アンとメアリも、日頃のおしとやかさをかなぐり捨てて走り出した。不意を突かれたデイヴィーも、我に返って、急いで後を追う。ミセス・ホジソンは、疲れを滲ませた目元を緩めて、早足で後に続いた。

 ソフィアが玄関ホールに続く階段を駆け下りていった時、辺りは捜索隊が出発した時のままに、煌々と明かりがともされていた。まるで昼のように明るいため、階段を駆け下りながらも、足元に不安は感じなかった。このような夜更けに、これほど明かりをつけたのは、ドミニクが危篤に陥った夜以来のことだ。あの時は、忍び寄る死を少しでも遠ざけたくて、屋敷を明るく照らした。暗闇は、不安を煽る。玄関ホールへたどり着いて顔を上げると、開け放たれた玄関扉の向こうから、暗がりが手招きしているように思えて、ソフィアはぶるりと小さく震えた。暗闇はドミニクを連れて行き、彼は2度と帰らぬ人となった。グレースまでをも失いたくはない。
 ソフィアに気づいた家令のジョーンズが、従僕やメイドに指示する手を休め、こちらへやってこようとした時だった。ざわめきがいっそう大きくなり、ジョーンズはハッとして、入り口を振り返った。その視線の先を、ソフィアも追った。毛布にくるまれたものを抱きかかえながら、ブラッドが入ってくるところだった。

 その姿をひと目見た途端、ソフィアは胸を突かれた。いつも身だしなみをきちんと整えている彼が、黒髪を乱したまま、埃にまみれて汚れた乗馬服のまま、自分の身なりには頓着せずに、大切そうにしっかりと毛布を抱えている。駆け寄ったジョーンズに、矢継ぎ早に指示を与えている横顔は、ところどころ赤く腫れているのが、ソフィアからも見て取れた。ブラッドの表情は、厳しくはあったが、仕事をやり遂げたという充実感に溢れてもいて、全身から自信に満ちた男らしさが立ち上っている。このような危急のときであっても、少しでも油断すると、彼の立ち姿にうっとりと見惚れてしまいそうになる自分を、ソフィアは嫌悪した。

 危険を顧みずに、グレースのために身を挺した恩人に、男性としての魅力を感じてしまうなんて、不謹慎に思えた。いつものブラッドらしくなく、乱れた姿で、戦いを終えた後の荒々しさを漂わせているから、珍しく思えただけなのだ。
 グレースの父親について口を滑らしそうになった時も、彼の魅力にあっさりと屈服してしまった。ブラッドが自分に及ぼす影響力については、1度きちんと考えなくてはならない。今はグレースの母親として、恥ずかしくない態度を取らなくては。

 視線を感じたのか、ブラッドがくるりと顔を向けた。真っ青な瞳と目が合い、一瞬言葉を失ったソフィアに、ブラッドは目元を緩め、唇に微笑を浮かべて見せた。立ち尽くして動けないソフィアのところまで、大股で歩み寄ると、彼は腕に抱えた毛布の中身が見えるように、少し背中を丸めた。
「絶対に見つけだすと言っただろう、ソフィア」
 低い囁きは、ソフィアの耳には入らなかった。毛布に包まれ、すやすやと眠っているのは、愛しい娘。自分の身に起きたことなど知らぬかのように、ぐっすりと眠っていて、閉じた瞼はぴくりとも動かない。
「よかった・・・・・・」
 掠れがちに呟いた途端、グレースの輪郭が歪んだ。視界一杯にこみ上げてくるものを、必死で堪えるソフィアに、ブラッドがいたわるように告げた。
「誘拐された時に、クロロフォルムを嗅がされて、それからずっと眠ったままだそうだ。危害も加えられていない。一応ここへ戻る前に医者にも診せたが、異常はなかった。今夜はこのまま、ベッドに入れてしまうことを勧めるよ」
「――ベッドの支度なら済んでいるわ」
 どうにか嗚咽を呑みこんで、ソフィアは喉に詰まりそうになった声を押し出した。ブラッドが頷いて、階段へ足をかける。すかさずソフィアが後を追い、それに気づいたブラッドは、密かに笑みを深めた。ソフィアは当然のようにブラッドの後をついてくる。その上、彼女は気づいていないが、恋人同士だった頃のような、親密な口調に戻っている。腕に眠る幼子が、2人の距離を縮めるきっかけを与えてくれたようだ。子供部屋へ向かいながら、ソフィアから以前のような警戒心が感じられないことに、ブラッドは快哉を叫びたい気分になった。

 無言の了解のうちに立ち去る2人の後姿を見送りながら、玄関ホールに残ったアンは、鼻をすすってからぽつりと呟いた。
「本当によかった・・・・・・」
 その言葉に、メアリとデイヴィーが声もなく頷いた。2人の目にも、熱いものがこみ上げていた。


 グレースを無事子供部屋のベッドに入れてから、ブラッドはソフィアに急き立てられるようにして、滞在中使っている部屋へと追いやられた。彼女は、ブラッドの惨状に気づくなり、肝を潰したようだった。動転して、村から医者を叩き起こしてこようとしたのだが、一通りは診てもらったと言い聞かせて、無理に思いとどまらせた。

 確かに酷い格好をしていたな、と、苦笑を浮かべながら、ブラッドは清潔なシャツに腕を通した。風呂に入るには時間が遅すぎたし、きっと湯船につかればあちこち滲みるだろうから、熱いタオルで綺麗に汚れをふき取ってもらうに留めた。甲斐甲斐しく主人の世話を焼きながら、最後に消毒薬を塗り、包帯を巻き終えるまで、従僕のジャックは小言を言い続けた。疾走する馬の背に飛び移るなど、1歩間違えば首の骨でも折って命を失っていた暴挙だし、大体銃で狙われながら接近すること自体、狂気の沙汰だと。主人の行動に、はっきりと不服を唱えた。
「あなた様に何かあれば、バリー伯爵様とレイモンド侯爵様に申し訳が立ちません」
 正面きって言われると、自覚のあるブラッドとしては、苦笑いしながら、今後気をつけると誓うしかなかった。

 ダドリーと向かい合っていた時には感じなかった痛みを、全身のあちこちが訴えている。打ち身だけではなく、擦り傷や切り傷がジクジクと自己主張を始め、ブラッドは神妙な顔つきでジャックの説教と手当てをやり過ごすと、おもむろに立ち上がった。すぐさま就寝の準備を始めようとしたジャックが、戸口へ歩み寄る主人を見て、目を丸くする。
「旦那様、どちらへ行かれるのです?」
「グレース嬢の様子を見てくる。寝る支度ぐらいは自分で出来るから、お前はもう休んでいいぞ、ジャック」
 軍隊経験のあるブラッドは、身の回りのことは一通りこなせる。普段は時間を惜しんで仕事をしているので、ジャックら従僕に任せているが、今日はもう遅い。帰りを待たないよう言い置いてから、ブラッドは廊下へと出た。シャツとズボンを身につけてはいるが、ベストは羽織らず、身軽な格好だ。無事グレースが帰還したという報せを受けて、館内は消灯され、使用人たちも各自の部屋へと戻っており、いつもの夜と同じく、辺りはシンと静まり返っていた。

 真っ直ぐに子供部屋へたどり着くと、入り口の扉が薄く開いていた。隙間から様子を窺うと、ソフィアがベッドの上に身を乗り出したところだった。グレースが目を覚ましたようで、小さな会話が聞こえてくる。2人の邪魔をしないよう、ブラッドは息を殺して、聞き耳を立てた。
「グレース、痛いところはない?」
 感情を押し殺した声でソフィアが尋ねたが、グレースはまだぼんやりとして、事態が飲み込めていないようだった。ダドリーによれば、拉致した時に嗅がせたクロロフォルムがよく効いたようで、彼らの隠れ家に運び込まれても、ちっとも目を覚まさなかったそうだ。
「母さま・・・?」
「ここはあなたのお部屋よ。安心して、ぐっすり眠りなさい」

 少女の掠れた問いかけが、ソフィアの肩をぴくりと震わせた。
「フォード伯爵は、どこ?」
「夜だから、ベッドで眠っているわ」
 ソフィアが椅子から完全に立ち上がり、ベッドの上に身をかがめた。そして布団ごと、グレースをぎゅっと抱きしめた。くすぐったいわ母様、と、グレースが鈴のような笑い声を小さく立てた。
 それから、眠たそうな声で尋ねるのが、ブラッドのところまで聞こえてきた。
「明日は、伯爵に逢える?」
「ええ、逢えるわよ」
「また逢いに来てくれるかなあ?」
 少し小さくなった声に、明らかな不安が混じる。ナイトテーブルの上に置かれた燭台の細い明かりだけがうっすらと室内を照らし出す中、幼女の様子は、酷く心細そうだった。
「あのね、わたし、伯爵様にあげるお花を探していたの。でも、どこかに落としてきちゃったみたい・・・・・・これじゃあ伯爵も、わたしのこと、忘れちゃうわね」
 そんなことはないよ、と、断固として否定してあげたい。思わずブラッドが足を踏み出そうとした時、ソフィアの穏やかな声が、聞こえてきた。彼女は、グレースに頬ずりをしてから、そっと囁いた。
「心配いらないわ、グレース。伯爵様はあなたのことを忘れたりしないわよ」
「本当?」
 期待のこもった反問に、ソフィアは優しい肯定を返した。子守唄のような、低く心地よい声音で。
「本当ですとも。伯爵様は絶対に、あなたを忘れたりしないわ」
 上半身を起こし、椅子に戻ったソフィアの白い左手が、あやすように掛け布団をぽんぽんと叩く。次に聞こえてきたグレースの言葉は、小さく、発音が不明瞭で、きちんと聞き取るのは難しかった。どうやら眠気が襲ってきたらしい。ソフィアの方は、何を言ったのか聞き取れたようで、低く言葉を返した。ゆっくりと動く左手の動きに合わせて、こんもりと盛り上がった布団が、規則正しく上下する。ソフィアが手を止めるのを見計らってから、ブラッドは扉の隙間から、そっと室内に滑り込んだ。

 今度は気配を消したりはしていない。ソフィアが素早く振り向いたが、ブラッドの姿がぼんやりと明かりに浮かぶのを見て、肩に込めた力を抜いた。灰青の瞳に浮かぶ光は、誘拐事件の前までと比べると、格段にやわらかい。ブラッドが傍らに歩み寄っても、彼女は逃げ出したりせず、じっと椅子に座っていた。

 安全な自分のベッドの中で、グレースは再びぐっすりと眠っていた。黒い巻き毛が、白い枕とシーツに散らばっている。楽しい夢でも見ているのか、口元には微笑みさえ浮かべている。眺めているだけで、ブラッドの口元にまで、笑いが伝染してくる。本当に無垢で、可愛らしい寝顔だ。いくら眺めていても飽きることはない。
 じっと立ち尽くすブラッドを、ソフィアは感謝の想いを込めて見上げた。彼がいなければ、グレースは永久に取り戻せなかったかもしれない。無事に娘が帰ってきたという安堵と、もしかしたら2度と娘に逢えなかったという恐怖が、先ほどからソフィアを激しく揺さぶっている。その狭間にあっても、明確な現実は、事態を打開するためにブラッドが身を挺して動いてくれたということだった。

 ブラッドが手当てを受けている間に戻ってきたウェルズ大佐とマクニール卿が、ソフィアたち留守番組に、つぶさに状況を教えてくれた。この辺りでも凶悪犯として知られるダドリーが誘拐犯で、身代金を持って逃げ去ろうとした彼に、ブラッドが単騎追いすがり、銃を交えた乱闘を繰り広げたと聞いた時には、背筋が冷たくなった。凶悪な人間に、独りで踊りかかるなど、誰にでもできる芸当ではない。軍隊経験があるから、というのも理由にはならない。下手をすればブラッドの命が危うかったのだ。
 そうまでして彼が、グレースの早期奪還にこだわったのは、なぜだろう。フォード伯爵の活躍を賞賛しながらも、マクニール卿は最後にそういって、首を傾げた。正義感が強いにしても、あそこまでできるものだろうかと、独り言めいて言い添えながら。

 一方のウェルズ大佐は、捕らえられたダドリーの口を割るのに、活躍したらしい。彼は謙虚にも、どれだけ活躍したかを詳しく語らなかったし、ソフィアたちも敢えて事細かに問い質そうとはしなかった。老いても尚屈強な大佐のこと、ダドリーも相当痛い目を見たに違いない。
 大佐によると、ブラッドの手によって戦意を喪失していたダドリーは、案外素直に取り調べに応じた。グレースを捕らえている隠れ家は、村の近くにある牧場の廃屋で、かつては飼料小屋として使われていたものだった。荒れ野の気まぐれな天気が巻き起こす嵐により、数年前に炎上し、そのまま空き家として放置されていたらしい。そこではダドリーの仲間が2人、見張り役としてグレースと共に残っていた。村の男たちを応援に連れたブラッドが、不意を突いて廃屋へなだれ込み、一網打尽にしたという。
 大佐は村に残り、ダドリーから、誘拐に至るまでの動機などを引き続き聞き出したそうで、話題がそのことに及ぶと、難しい顔をしていた。身代金目当ての誘拐事件で済ませるには、色々と気になることがあるという。ソフィアを心配させまいと、大佐は「まだはっきりしないから」と言葉を濁して、中身について触れようとはしなかった。まだこれから、ブラッドとも情報を交換しなければならないらしい。一段落すれば説明があるだろうと思い、ソフィアは犯人の供述には、特にこだわらなかった。それよりもグレースが無事に戻り、ブラッドが大きな怪我を負っていないということの方が、目下、重要だった。

「フォードがグレースを大切に想う気持ちは、本物だな」
 帰り際、大佐がぽつりと零した言葉が、ソフィアの胸にずしりと重く沈んだ。

 グレースの危機に際して、ブラッドは思いがけない勇気と誠意を示し、リンズウッド伯爵家を取り巻く人々の賞賛と敬意を勝ち取ってしまった。ブラッドが今後、ソフィアやグレースに友情以上の親しみを示しても、周囲はそれを好意的に受け止めるだろう。
 ソフィアにとっても、この怖ろしい数時間をどうにか乗り越えられたのは、ブラッドの支えが大きかったからに他ならなかった。重たい荷物を預けてしまえばいい、という彼の言葉を、ソフィアは素直に受け容れられなかった。これまでリンズウッド伯爵夫人として築き上げてきたものは、ソフィアの努力の賜物であり、誇りだったから、他人の介入に任せてしまうには、プライドが許さなかったのだ。しかし意地を張りながらも、今回肝心なところで、ソフィアは独りで踏ん張る事ができなかった。現実を受け止め切れなかった彼女の代わりに、ブラッドが当たり前のように陣頭指揮を取り、奮戦してくれた。グレース奪還は、彼自身のためでもあるし、ソフィアのためでもある。ソフィアのために行動することを辞さない彼の姿勢は、5年前、彼女との仲を認めさせるためだといって、大陸に渡った時と、ちっとも変わっていない。

 無意識のうちに、自然と唇から言葉が零れ落ちていた。
「ブラッド、あなたは本当に素晴らしいひとだわ」
 ブラッドを見上げながら、ソフィアは知らず、小首を傾げた。熱い想いが喉の奥から溢れ、声を詰まらせながら、ソフィアは続けた。

「何と言って感謝したらいいのか・・・・・・あの子を失っていたら、わたくしは生きてはいられなかったわ。ありがとう、ブラッド」
 灰青の瞳のふちが薄っすらと赤くなり、潤んでいる。抱きしめたくなる衝動を堪え、ブラッドは静かに微笑んだ。
「グレースだけでなく、君まで2度も失うのは、私が耐えられないな」
 張り詰め、疲れ切ったソフィアの精神に、悪戯めいた彼の言葉が、心地よい痺れをもたらす。穏やかな中にも強い光を宿したサファイアの瞳を、ソフィアは吸い寄せられるように見つめた。

 互いの間に強い絆が結ばれているのを、2人は同時に感じ取っていた。一時は見えなくなった相手の心が、しっかりと互いに向けられているのを。
「もう2度と後悔したくないと言っただろう?私はそれを実行しただけだよ」
 大したことではないとでも言うような口振りで、ブラッドはさらりと言ってのけると、眠るグレースへと視線を向けた。こともなげに、グレースのために身を挺してくれる人が、ブラッド以外にいるだろうか。ソフィアはぐっと唇を噛んだ。
「言うのと実行するのは、大きな違いだわ。あなたは誠意を見せてくれた。誰にでもできることではないわ」

 熱心に言い募るソフィアに、ブラッドは微苦笑を向けた。生真面目で素直な彼女の芯は、ちっとも変わっていないのだとわかる。ソフィアとグレースを取り戻すには、今回の行動は彼自身にとっては、ごく自然なものだったが、ソフィアの主張を受け容れておいた方が良さそうだ。
 彼の唇から、詞が低く零れた。
「――麻のシャツを作ってくれますか?
  パセリ、セージ、ローズマリーとタイム。
  縫い目も針の跡もないシャツを。
  そうすればあなたは、私の真の恋人になるでしょう」
 今度ばかりは、おまじないの言葉も、ソフィアの身を苛む事はしない。まっさらな気持ちで、詞を受け容れることができる。

「あなたが示してくれたのは、『タイム』――『勇気』ね。わたくしも、同じものをあなたに返さなければならないわね」
 ぽつんと呟いたソフィアの様子は、薄明かりの中、酷く心もとなく、儚げに見えた。今日1日で、すっかり疲れ切ってしまったのだろう。
「ソフィア、今無理に口にする必要はないよ」
「グレースの父親のこと、まだきちんとお話していないわ」
「もっと落ち着いた状況で、話してくれればいい。私の中では答えは出ているから、急いで聞き出さなくてもいい」
 ソフィアが心を開き始めてくれたのは喜ばしいことだが、切羽詰った状況ではなく、2人が落ち着いて向き合える時に話してくれればいいというのは、本音だった。更に反論しようとするソフィアに、ブラッドは両手を挙げた。
「正直なところ、私もそろそろベッドに入りたくてね。頭があまりはっきりと動きそうにはないんだ」
 あ、と両手を口元にあてて、ソフィアが勢いよく椅子から立ち上がった。その拍子にバランスを崩し、ぐらりとよろめいた身体を、ブラッドが咄嗟に腕を回して支え、至近距離で2人の眼差しが交差した。熱く、息詰まる沈黙が、室内に下りた。

 ブラッドが、ハッと鋭く息を呑むと、ソフィアの背中がびくりと震えた。ふっくらとした唇に触れたい想いを押さえ、ブラッドは意志の力を総動員して、無理やり視線をソフィアの口元から引き離し、安心させるように微笑んだ。
「君も疲れているよ、ソフィア。今夜は早く休んだ方がいい」
「あら、わたくしはたっぷりと昼寝をしてしまったのよ。あなた方が、こまねずみのように忙しく動き回っている間に」
 緊張から解放され、ソフィアは弱々しく笑いながら、茶目っ気たっぷりに切り返した。ブラッドは低い笑い声を立てたが、どこかが引き攣れたのか、顔をしかめ、ぼそぼそと悪態をついた。たちまちソフィアも、表情を引き締め、心配そうに見上げた。
「傷に障ったのかしら?わたくしも気が利かなくてダメね。怪我人のあなたを引き止めてしまって・・・・・・」
「いや、怪我らしい怪我はしていないから、心配は要らないよ。明日の朝には良くなっているさ」
 何でもないように様子を取り繕っているブラッドだが、左のこめかみには軟膏をつけた布を当てられているし、右頬や唇の端には、擦り傷ができている。整った顔立ちだけに、僅かな傷も、痛々しく見える。無意識のうちにソフィアは、右手をそっと伸ばし、ブラッドの左頬に触れた。彼の痛みを、できることならば代わりに引き受けたい。それができなくても、せめて軽くしたい。その一心だった。

 ブラッドは、ソフィアの掌が頬に触れる時、小さく目を瞠ったものの、直に流れ込んでくる彼女の温もりを、じっくりと味わうように瞼を閉じた。今夜の行動が報われたのだという喜びが、じわじわと身の裡からこみ上げてくる。
 暫く頬に触れてから、ソフィアが手を引っこめようと身じろぎをすると、大きな手に捕らえられてしまった。頼もしい手にすっぽりと右手を包み込まれて、ソフィアの全身の神経が、ざわりと騒ぎ出す。ブラッドの左手はソフィアの手を握り締めているし、右手は腰に回されたままだ。軽い怖れを感じたソフィアが逃げ場を探そうとするより早く、サファイアの双眸が、真っ直ぐにソフィアを射抜いた。見つめられただけで、甘い予感が背中を走るような、官能的で、熱っぽさに満ちた視線だ。ブラッドは、ソフィアを求める気持ちを、隠そうとはしなかった。彼の双眸は、言葉より雄弁に、欲望を物語っていた。過去の甘美な記憶が身体の芯から甦り、ソフィアの身体は期待に震えた。今度ばかりは、彼女も認めざるを得なかった。目の前の男性を、求めているという現実を。

 しかし、ブラッドの口から発せられたのは、誘惑の言葉ではなく、2人の間に生じた熱を冷ます類のものだった。小さく息を吐いてから話し出した時には、瞳に宿る熱はそのままに、ブラッドの表情は冷静沈着なものへと変わっていた。
「明日、州判事の使者が到着してから、リーズへ同行する事になった」
「――え?」

 一気に現実へと引き戻され、ソフィアは全身を焼いていた熱が、みるみるうちに消えていくのを感じた。愛の告白を始めてもおかしくないほど、恋情に満ちた眼差しをしているのに、ブラッドの唇からは、淡白で現実的な台詞が出てくるのを、呆然と見つめるしかなかった。
「ダドリーを州判事のもとへ連行しなくてはならないし、マクニール卿のお仲間と会う約束もある。ロンドンからはそろそろ仕事がたまっているという連絡も入ったし、近いうちに戻らなければならないから、あまり悠長に構えてはいられないんだ。州判事への説明も済ませられるし、卿と話し合って、明日一緒にリーズへ向かうことに決まったよ」
 予定より1日早いが、物騒な誘拐犯をいつまでもソフィアの近くに留めておくわけにはいかない。それに、リーズ行きの前に、ソフィアの頑なな心に揺さぶりをかけるという計画も、グレースの誘拐という面白くないおまけ付ではあったが、達成できた。出立の予定を告げた途端、ソフィアの灰青の瞳がたちまち曇り、寂しさと落胆の色をたたえているのが、2人の関係に進歩があった証だ。ヨークシャー滞在当初は、露骨に避けられていたのだから、大した前進だった。

 ソフィアの小さな白い手を、ぎゅっと握り締めて、ブラッドは幾らか淡白な色を消して囁いた。
「こんなことがあった直後に、ここを発つのは気が引けるんだが・・・・・・」
「いいえ、あなたにはあなたのご予定があるのだもの。わたくしたちのことは気にしないでちょうだいな」
 ブラッドに余計な心配をかけまいと、ソフィアは笑顔を作って、見上げてきた。
「すまない、ソフィア。本当は側についていたいんだが、早く事件を片付けてしまいたいという気持ちもあるんだ。今回のことで、幾つか気になることもあるのでね。リーズでの用事を済ませたら、1度ここへ戻ってくるよ。その時にゆっくりと話をする時間を、取ってくれるかな?」

 自信なさそうにソフィアの意向をうかがってくるのがおかしくて、ソフィアはクスリと笑いながら、こくりと頷いた。途端にサファイアの青が深みを増し、捕らわれたままの右の掌に、彼の唇が押し当てられる。
 たっぷりと触れてから、ブラッドが名残惜しげに両手を離すと、ソフィアは俄かに肌寒さを感じて、小さく身を震わせた。彼の放つ熱は心地よく、容易くソフィアを夢中にさせるのだ。別離と誤解の時間を置いた分、5年前よりも今の方が、彼を求める気持ちは強いかもしれない。

 夫が亡くなってから、貞淑な伯爵夫人として自分を厳しく律してきたけれど、ブラッドを求める気持ちは、ソフィアの中でずっとくすぶり続けてきたのだ。そろそろ自分の欲求を解放し、心に正直に生きてもいいだろうか。
 男爵令嬢と伯爵家の次男坊だった頃と、2人を取り巻く状況は大きく変化し、グレースという存在もいる。行動を制約しようとする社会的なしがらみも増えたし、立場や評判もあるけれど、世間の荒波に揉まれた今の2人なら、新しい未来を模索する力を持っているだろうか。
 ちょっとだけ唇の端に微笑みを浮かべ、ソフィアは期待と不安の入り混じった目を、ブラッドに向けた。
「ここに戻ってらしたら、わたくしが描きためた絵を、見て下さるかしら?」
 それの意味するところを理解し、ブラッドは満面の笑みを浮かべ、即答した。互いに同じ想いでいるのだと知って、ソフィアは小さく息を吐き、肩から力を抜いた。ブラッドの返事は簡潔で、力強かった。

「もちろん、喜んで」
 ぐいっと背中を押されるのを、ソフィアは感じた。彼がリーズから戻ってきたら、2人きりでゆっくりと、これまでのことを話そう。絵を見せながら、ハンプシャーやロンドンや、荒れ野のことについても。それからグレースも交えて、これからのことも話そう。思い描きながら、ソフィアは、それまで心をがっしりと覆っていた頑なな鎧が、1枚、また1枚と、鱗のようにぽろぽろと剥がれていくのを感じた。ブラッドとじっくり話をすれば、きっと、もっと身軽くなるのだろう。
 徐々に柔らかな表情を見せてくれるようになったソフィアを前にして、ブラッドは、不穏な話題は後回しにしようと、思い直した。彼女を前にしてからも、口にしようかどうしようか、逡巡した話題だった。ソフィアにはいずれ話さなければならない内容だが、現時点では、不確定な要素も大きい。不確かな話題で、彼女の顔を曇らせたくはなかった。
 捕らわれたダドリーが自供した中に、ブラッドが以前から目をつけていた人物らしき者が、ちらちらと見え隠れするのだ。裏づけを取るためには、ロンドンのボウ・ストリートや友人たち、リーズの州判事と連絡を取りながら、情報を集めるしかない。留守を預けるウェルズ大佐やデイヴィーとも、密に連絡を取るつもりだ。

 ソフィアをこの手に取り戻すために、不安な要素は、一切を徹底的に排除するつもりだった。目の前で彼女が見せてくれるようになった、素の心のままの表情を守るためならば、ブラッドは、どのような犠牲も厭わなかった。

2009/08/22up

時のかけら2009 藤 ともみ

inserted by FC2 system