第5章 荒れ野の真実[1]

  翌々日の朝早く、ブラッドたち一行は、リーズへ向けて出発していった。ダドリーとその手下は、厳重な監視と護衛をつけて、リーズへと連行されていった。当初の予定では前日の夜には出立するはずだったのだが、リンズウッド・パークとリーズの州判事事務所を休みなしで往復した従者と、彼に連れられて駆けつけた事務官が、さすがに疲労困憊だったため、出発を遅らせたのだ。

 思いがけず出立が遅延したお陰で、ブラッドは、グレースと話をする時間が持てた。
 庭で攫われた時、背後から羽交い絞めにされると同時にクロロフォルムを含んだ布を口と鼻に押し当てられ、眠り続けていたグレースは、幸運にも事件のことを全く覚えていなかった。帰宅した翌朝、目覚めたグレースにそのことを確認したソフィアとブラッドは、ほっと胸を撫で下ろした。事件で体験した恐怖が、トラウマとなって残ってしまったらどうしようと、心配していたのだ。屋敷の人間たちには、かん口令を敷き、事件について本人に話さないようにと厳命した。いたずらに恐怖を煽る必要はないし、彼女が成長してから、今回の顛末について本人に説明すればいいと判断したのだった。面白おかしく騒ぎ立てる他人の口からではなく、ソフィアたちの口から。
 リーズへ出発するとブラッドの口から聞かされたグレースは、表情を曇らせたが、「そのままロンドンへは向かわず、リンズウッド・パークへ帰ってくる」と聞いて、瞳を輝かせた。ソフィアそっくりの灰青の瞳が、星のように瞬く様は、ブラッドの心も浮き立たせた。リーズから戻ってきたら、グレースとも新しい関係が築けるのだ。それまで、暫くの辛抱だった。

 マクニール卿夫妻も、ブラッドや事務官と一緒に、館を辞し、リーズへと戻っていった。ウェルズ大佐親子は、グレースが無事戻ってくると自邸へと引き上げたし、客人たちが去った後のリンズウッド・パークは、俄かに静けさを取り戻した。

 普段通りの生活に戻っただけなのだが、やけに屋敷内ががらんと寂しく感じられた。グレースは素直にそう口にしたし、ソフィアも同じ想いを抱いていた。

 ブラッドたちが出発して1週間ほどは、デイヴィーに領地の仕事を再び引き継いだりして、余計な時間ができないよう過ごしていたのだが、ある程度すべきことを終えてしまうと、自分自身に向き合う時間が否応なく発生した。
 ドミニクの死後、いつもやってきたように、屋敷内の秩序を維持する役割をこなしながら、ソフィアはこれまでに感じたことのない空虚さを持て余していた。屋敷のいたるところで、ブラッドの不在を思い知らされた。オルソープ家の舞踏会で再会して以来、彼は、ソフィアの中で存在感を主張するようになっていたが、ヨークシャー滞在で、すっかり重みを増したようだ。努めて彼を意識しないよう振る舞ってきたソフィアだが、常に彼の視線を肌で感じていた。ソフィアを渇望する熱い眼差しは、女として求められる喜びを、思い出させた。穏やかな結婚生活では決して得られなかった情熱だ。

 アトリエに1人こもり、夫を描いた鉛筆画のスケッチブックを眺めながら、ソフィアはため息を吐いた。次にブラッドと話す時、グレースの父親についてだけでなく、短い結婚生活についても言及せざるを得ないだろう。ドミニク・ポートマンという男性について、ブラッドも色々と調べているかもしれない。だが、夫婦の間の真実は、ソフィアしか知らない。夫と共に過ごした時間は短かったが、ドミニクのお陰で、ソフィアは初めて平穏な生活というものを得ることができた。病に蝕まれていった夫の姿は、思い出すだけで今でも胸が痛む。けれど、ブラッドは真実を知る権利がある。それに、激しい想いはなかったものの、夫婦の間に存在した絆について、彼には理解をしてもらいたかった。
 何から話せばいいのか、ブラッドがリーズから戻るまでに、少し整理をしておいた方が良さそうだ。

 スケッチブックを閉じた時、アトリエのドアを控えめにノックする音が聞こえてきた。返事をすると、顔を出したのはジョーンズだった。冷静沈着な態度を崩さない彼だが、かつて見たことがないほど奇妙な表情を浮かべていた。
「何かあったの?」
 声をかけてやると、気を取り直すように咳払いをしてから、おもむろに口を開いた。
「先ほど一組のご夫婦と、お2人の若い紳士が到着され、奥様にご挨拶したいと仰っています」
「わたくしへのお客様なんて、今日は予定がなかったはずよね?」
「はい」
 怪訝そうに確認をすると、ジョーンズはますます何ともいえない表情になって、同意した。
「ロンドンからいらっしゃった、ヒューイットご夫妻とウィロビー伯爵、ミスター・ハガードと伝えればわかると、仰っているのですが――」
「まあ!」
 パッと顔を輝かせ、ソフィアが立ち上がる。いそいそと戸口まで歩きながら、もどかしそうに指示を出した。
「すぐに客間にお通しして、お茶をお出ししてちょうだい。わたくしは着替えたらすぐに行くわ。アリスを呼ばなくてはね」
 そこまで早口で喋ってから、ソフィアは、はたとジョーンズを見つめ、にっこりと笑った。空を覆っていた雲が晴れたような、すっきりとした笑顔だった。
「心配要らないわ、ジョーンズ。彼らはわたくしの親しい友人なの。最高のおもてなしをしなくてはね」


 ソフィアが客間に入っていくと、ソファに座っていた女性が立ち上がり、声もなく抱きついてきた。笑い声を立てながらそれを優しく抱きとめ、彼女の頭越しに、窓辺に佇む3人の紳士に目礼を送ってから、ソフィアは親友へ声をかけた。
「ウィニー、訪ねてくれて嬉しいわ。前もって教えてくれれば、こんなに驚かずに済んだけれど」
「あら、驚かせようと思って、内緒にしていたのよ。作戦は成功ね」
 女学生時代を髣髴とさせる笑みを口元に浮かべ、ウィニフレッド・ヒューイットはもう1度ソフィアをぎゅっと抱きしめてから、手を離した。彼女らしい快活さは、全く変わっていない。気持ちが浮き立つのを感じながら、久々に逢う友人を改めて眺め、ソフィアは微かな違和感を覚えた。胸は豊かで腰は細いという、女性らしい体つきのウィニーだが、僅かにふっくらとしたような気がする。
 ある予感がよぎったが、今ここで話すことではないと思い直し、ソフィアは3人の紳士にも笑顔を向けた。

「ようこそ、リンズウッド・パークへ。皆さんお元気そうで何よりですわ」
「ごきげんよう、レディ・ソフィア」
 満面の笑みで歩み寄ったウィリアム・ナイトレイが、優雅な動きでソフィアの手を取り、礼をした。相変わらず、貴公子のお手本のような完璧さだ。続いてケヴィン・ヒューイットとポール・ハガード大尉も、この館の女主人に敬意を表した。
「お変わりないようで、何よりです」
「お会いできて嬉しいです、レディ・リンズウッド」

 ハンプシャーでのゴールド・マナー滞在中、しょっちゅう一緒に行動していた間柄だけに、打ち解けて会話するまで、時間はさほどかからなかった。ソフィアが椅子を勧め、全員で、メイドが用意したお茶を楽しみながら、近況を報告する。話題に上るのはソフィアも知っている社交界の面々のことで、ウィニーが真っ先に上げたのが、バリー伯爵夫妻だった。彼らもヨークシャーに行きたがっていたのだが、レイチェルが風邪をこじらせたため、断念したのだという。
「ベッキーからは、あなただけでなく、アンにもよろしく伝えて欲しいって言われているのよ」
 ウィニーがソフィアに話しながら、意味深な眼差しをハガード大尉に向けると、実直な大尉は頬を赤らめ、ゴホンと咳をした。ヒューイット夫妻とウィルは、マンチェスターの投資家との商談が入ったついでにリンズウッド・パークまで足を伸ばしたというのだが、ハガード大尉の場合は、アンに会うためだけにやってきたのは、明らかだった。

 笑いを堪えながら、ソフィアはウィニーを見た。
「生憎、アンは隣町の叔母様を訪ねているのよ。明日には戻ってくると思うけれど。皆さんは、今日すぐに発つわけではないのでしょう?」
「ええ、『白馬亭』という宿を取っているわ」
 隣町へ続く大きな街道沿いに立つ、この辺りでは上等の宿屋だ。もとはリンズウッド伯爵家の客人が、屋敷に収容しきれないほど多い時、若い独身男性にはそちらに泊まってもらったというほどで、この界隈では上流階級や裕福な中流階級が泊まれる、唯一の宿だ。贅を凝らしてはいないが、清潔で、対応もそつがない。やはりと思いながら、ソフィアは提案してみることにした。
「もしよかったら、我が家へお泊りになりません?アンが戻ってくるのは明日の夕方になるかもしれませんし、ウェルズ家はお隣ですもの、すぐに駆けつけられますわ。大佐にお願いして、アンが戻ったらすぐ報せてもらえるようにしてもいいですし」

 賑やかで気心の知れた彼らと一緒なら、寂しさも紛れるだろう。熱心に誘うソフィアの手を、夫とウィルと目を合わせてから、ウィニーがぎゅっと握った。
「お誘いいただき、ありがとう。実はわたくしも、そうできればいいなと思っていたの。あなたとお話したいこともいっぱいあるし。でもあまりに突然でしょう、ご迷惑だろうと思っていたの」
「そんなことないわ。夫が亡くなってから、お客様もめっきり減ってしまって、寂しい想いをしていたのよ。皆様が滞在して下さるのなら、嬉しいですわ」
 ぐるりと男性陣を見回すと、ヒューイットが笑いながらウィルへと同意を求めた。
「『白馬亭』の予約を取り消さなくてはな」
「ひとっ走り従者を走らせよう。大したことではないさ」
 ウィルがしかめつらしく言うと、ハガード大尉が「全くです」と頷いた。

 すぐに従者を宿まで走らせ、一方で、馬車から荷物を客室へと運ばせる。屋敷の中で俄かに賑やかになり、玄関ホールを見下ろす2階の廊下では、新たなお客様の到来に瞳を輝かせたグレースが、くるくるとダンスを踊っていた。すぐに乳母に見つかり、お行儀が悪いとたしなめられたが、グレースがしゅんと萎れた様子はなかった。

 客間では大人たちが、世間話に興じていた。バリー伯爵夫妻だけではなく、グレシャム卿など、ソフィアもよく知る人物の近況が報告される。グレシャム卿は母親が危篤のためにロンドンを離れられないのだと聞かされて、ソフィアは眉を顰めた。
「まあ、お気の毒に・・・・・・」
「彼もヨークシャー行きには関心が高くて、同行したがっていたのですがね」
 ウィルが肩を落とすと、やや湿った空気を吹き飛ばそうと、ウィニーが茶目っ気を発揮した。

「もちろん卿の場合、ヨークシャー行きに関心を持つ理由は、大尉とは違いますけれどね」
「ミセス・ヒューイット!」
 アンとの関係を当てこすられ、ハガード大尉が飛び上がって、顔を真っ赤に染めた。ソフィアは吹き出しそうになるのを必死に堪え、声も出せない。妻の肩をたしなめるように軽く叩いてから、ヒューイットがウィルの言葉を補った。
「彼も、鉄道業への投資を考えているのです。領地からの農業収入が上がらないのは、余所と同じでね。鉄道業への投資を打開策とすべく、フォードのヨークシャー訪問を随分と気にしていました」

「フォード伯爵の交渉は、上手くいったのでしょう?」
 夫の横で期待に顔を輝かせながら、ウィニーが尋ねた。どこまで答えるべきか悩みながら、ソフィアは差し障りのない範囲で口を開いた。
「マクニール卿とは意気投合したようよ。今は彼に招かれて、リーズに行っているから、あちらで卿のお仲間にも紹介されている頃じゃないかしら」
「『北の王者』とパイプが持てるのは大きいな」
 腕組みをし、唸る夫を尻目に、ウィニーが身を乗り出した。
「伯爵もこちらに滞在していたのでしょう?」
「ええ。マクニール卿ご夫妻もね」
「賑やかだったでしょうね」
 他意のないウィニーの呟きだったが、ソフィアはまごついたように口を噤んでしまった。彼らの滞在中、もっとも鮮烈な印象を残した出来事が、グレースの誘拐未遂事件だからだ。それ以前の出来事など、頭から吹き飛んでしまった。
 目の前に並ぶ顔をひとつひとつ見つめて、どうしたものか、ソフィアは頭を悩ませた。ここにいる顔触れは信頼のできる人間ばかりだし、事件のことを話してしまう方が、良いかもしれない。解決済みの事件だし、余計な心配をかけるのは忍びないが、いずれロンドンへ戻ってブラッドが説明するのなら、今ここでソフィアが話してしまっても、同じことのように思えた。

「皆様を信頼してお話しするのだけれど――」
 そう前置きしてから、意を決してソフィアは一連の出来事について語り始めた。犯人確保に皆が走り回っている間、ソフィア自身は意識をなくしていたから、全てウェルズ大佐たちから伝え聞いた情報にはなるが、概要は把握してもらえる。努めて感情の色を排し、端的に客観的に事実を述べる。犯人を伴い、ブラッドたちがリーズへ出発したところまで話し終えると、ソフィアは肩の荷を下ろしたような気持ちになった。話し難いことを口にしてしまえば、後は楽になるだけだ。

「グレースには怪我もないし、幸いなことに、攫われている間の記憶もないのです。だからあの子はいつも通り、屋敷もやっと日常を取り戻したところですわ。滞在していただくのに差し障りはありませんから、安心なさって」
 問題はないということをソフィアは強調したものの、ウィニーはおもむろに席を立ち、ソフィアの椅子の脇に寄り添うと、両膝を絨毯につけて、両手を握り締めてきた。肌を通して直に伝わってくる温もりが心強く思え、ソフィアは、お返しにぎゅっと握り返した。
「神様、ありがとうございます」
 顔を伏せたウィニーが、くぐもった声で小さく呟いた。

 一方、ケヴィンとウィルは顔を見合わせると、何かを確認しあうように目配せを交わした。彼らの表情は、難しい商談を扱う時以上に、緊迫したものへと変わっていた。いつも通りのやわらかな物言いの中に、緊張を漂わせながら、ウィルが口を開いた。そつなく社交をこなす彼らしくない、話し難そうな様子が、ソフィアの目を引いた。
「レディ・ソフィア、我々がヨークシャーを訪ねた目的は、もう1つあるのです」
「商談の他にも、ということですか?」
 ソフィアが怪訝そうに小首を傾げると、ケヴィンが、こちらは感情を見事に消し去った冷静な口調で、横から言い添えた。
「商談の他に、どうしてもリンズウッド・パークを訪ねなければならない理由があったのです」

 答えを求めて見つめてくるソフィアを、ウィルは苦しげに見返した。
「ロンドンを発つ直前に、我々のもとにある報せが入りました。夏からずっと、我々はある男を監視していたのですが、彼が突然姿をくらましたというのです。私とケヴィンは、ボウ・ストリートの治安判事と捕り手にも協力を仰ぎ、行方を追うよう手配をしてからロンドンを発ちました」
「ボウ・ストリートですって?」
 話がどこへ流れ着こうとしているのかが掴めず、ソフィアはぼんやりと繰り返した。

 ボウ・ストリートの治安判事は、英国全土の警察や判事たちから寄せられる犯罪情報を一手に掌握している存在だ。首都や国家を揺るがす犯罪が発生した時、必ず彼ら――厳格な法の番人であり、執行者である治安判事と捕り手の捜査の手が伸びる。彼らの名前は必ず裁判や刑務所と結びつけて囁かれるものであり、これまでの人生の中で、ソフィアがかかわりを持つことはなかった。ボウ・ストリートが絡む大捕り物があったというニュースを聞いても、どこか別の世界のこととして捉えていれば済むことだった。貴族院や司法に影響力を持つという治安判事の話題がなぜここで出てくるのか、見当がつかない。何しろリーズの州判事事務所でさえ、今回のグレースの事件がなければ、本来関わることもないのだから。
 ウィルがちらりとケヴィンに目を遣り、アメリカ人の青年実業家は、促すように無言で頷いた。

「我々がマンチェスターに着く直前、ロンドンから報せが入り、男の行方がわかりました。ヨークシャーに向かったというのです。リーズで彼の足取りを確認した後、再び見失ったというのですが・・・・・・それを聞いて我々は、あなたをどうしても訪ねなくてはならないと判断しました。リンズウッド・パークを訪ねて、直接フォードに警告しなければならないということで、私とヒューイットの意見は一致したのです」
「生憎と、一足違いで彼はリーズへ行ってしまったのですがね」
 嘆息しながら、ケヴィンが独り言のように呟いた。ウィニーが再び、ソフィアの手を強く握り締めたが、足元にいる親友の表情を窺うゆとりはソフィアにはなかった。目の前にいる2人の男性が、何か怖ろしい話題に触れようとしているのだということを本能的に察知したが、そのまま捨て置くことはできなかった。

「なぜフォード伯爵に、警告しなければならないのですか?」
 半ば答えを予想しながら、ソフィアは震える声を励まして質した。ウィルの声が硬さを帯び、ケヴィンの眼差しに険しさが宿る。
「その男から絶対に目を離すなと命じたのは、フォードだったのです。我々も彼の判断を支持し、共に監視してきました」

 その先に続く台詞を、ソフィアは耳にする前から、なぜか確信していた。急激に冷えていく指先を、ウィニーの細い指が励ますように絡め取る。いつもの彼らしくない、憤りと緊張を孕んだ声が、客間の空気を震わせた。

「ウィッカムが、リーズに現れ、この近辺に潜伏しています。レディ・ソフィア、あなたか或いはフォードを狙っているかもしれない。ハンプシャーでの屈辱を晴らすために」


 ウィルが怖ろしい宣告を告げて以来、表面上は何事もなく、時間が過ぎていった。ウィニーたちが滞在することになって、リンズウッド・パークは、たちまち活気を取り戻した。何しろ、活動的な大人が幾人もいるのだ。ぽっかり穴が開いたような空虚さを、いつまでも感じている暇はなかった。

 ウィルに打ち明けられた、ウィッカムの標的になっているかもしれないという怖ろしい現実も、確かにソフィアの気分を沈み込ませはしたが、その状態は長続きしなかった。頼もしい大人たちが同じ屋敷に寝起きし、支えてくれているというもうひとつの現実のおかげで、実際に起こるかどうかわからない襲撃を恐れ、いつまでも縮こまっていてはいけないと、日が経つにつれ、思い直すようになってきたのだ。
 ソフィアに心境の変化をもたらしたのは、実際に、ウィルたちがソフィアを守る算段をしている様子を、目の当たりにしたのが大きい。

 リンズウッド・パークで旅の荷物を解くと、ウィルとケヴィンは、ハガード大尉を連れて、早速隣家を訪問した。もっとも、正確な順序としては逆になる。かつて軍籍にあったウェルズ大佐と、現役軍人であるハガード大尉の上官が親しい友人だった縁で、一緒に任務に当たったことはなくても、退役軍人と青年士官は面識がある。大佐とは初対面のウィルとケヴィンが、大尉から紹介してもらったというのが正しいのだが、彼らにとってはじきに、知り合ってからの時間など大した問題ではなくなってしまった。

 グレース誘拐事件の折のブラッドの活躍に感服している大佐は、ソフィアともブラッドとも親しく、頭の切れる青年2人に対しても、たちまち好感を持った。人付き合いの苦手な、偏屈な老人にしては、珍しいことだった。娘のアンからも、ハンプシャー滞在中には親切にしてもらった相手だと聞いていたにしても、『ヨークシャー気質』を地でいく大佐は、普通、簡単には他人に気を許さない。頑なな老人の態度を軟化させるのに、ウィルの物柔らかで誠実な態度と、老人の性格を事前にソフィアから聞いていったケヴィンによる、機を見澄ました話題の持ち出し方が、非常に大きな効果をもたらした。

 ケヴィンは、持ってまわった言い方などせず、単刀直入に、彼らが今直面している危機について切り出した。未遂とはいえソフィアを襲った前科があり、ブラッドが警戒を解かなかった相手が、ヨークシャーに現れたと聞いて、大佐の顔色も変わった。衰えを感じさせない鋭い眼差しで、椅子から身を乗り出すようにして、ケヴィンとウィルが話したこれまでの経緯と、これから起こりうる事態についての見解に、じっと聞き入った。彼らが話し終えると、大佐は深々とため息を吐き、こめかみを指で軽く揉んだ。
「なぜあんなにいい娘が、こんな苦労を背負い込まなくてはならん。全く、世の中は不公平だな」
「全くです」
 老人の愚痴めいた独り言に、ウィルも沈痛な面持ちで相槌を打つ。年寄りがとりともなく零す言葉にいちいち感想を述べてはいられないと、ケヴィンは腕組みをしたまま、無言を通したが、ソフィアにふりかかった災難については、全く同感だった。

 気を取り直したように大佐が顔を上げ、ウィルとケヴィンの顔を順番に見比べた。ハガード大尉はもちろん一連の出来事を承知してはいるが、目上の男たちの妨げになってはならないと、ソファに身を沈めたまま、状況の推移を静かに見守っていた。
「そのウィッカムという貴族が、リーズで目撃されたという報せが入ったのは、何日前のことかな?」
「報せを受け取ったのは、2日前、マンチェスターでした。念のためロンドンのバリー伯爵と、治安判事にも報せを出し、あちらでも何か動きを掴んだら、リンズウッド・パークへ連絡するよう言付けてあります」
「フォード伯爵へは、連絡を出したのか?」
「いえ、リーズへはまだ・・・・・・」
「よろしい」
 言葉を濁したウィルだったが、大佐は彼の回答に満足したようだった。大佐は向かいの椅子に座るウィルとケヴィンをじっと見つめ、ひとつ頷いた。
「リーズへ発つ時、フォード伯爵からは定期的に連絡を取るよう依頼されている。我々もグレースの事件で気になることがあったし、彼は彼で、ソフィアたちの様子を気にしていたからな。ちょうどこれから、使者を出すところだった。ウィロビー伯爵たちのもたらした情報についても、フォード伯爵へ知らせておくこととしよう」
「助かります」
「――大佐」

 ほっとして礼を述べたウィルの隣で、それまで沈黙を貫いていたケヴィンが、老人へ呼びかけた。冷静な中にも、緊張が漂う声だった。
「差し支えなければ、何が引っかかっているのか、教えていただけないだろうか?あなたは今、『我々』と仰った。それには、フォードも含まれているのだろう?彼はウィッカムのことも頭の中にあったはずだ。その上で何が引っかかっているのか、彼の代わりに話していただきたい」
「――切れ者のアメリカ人実業家という評判は、本物のようだな」
 にやりと笑って、大佐はケヴィンを見返した。元軍人の威圧的な視線を浴びても、動じることなどないケヴィンだし、底冷えするような眼差しを向けられても何とも感じない大佐だ。ハガード大尉が、こっそりと首をすくめた。

「グレース誘拐犯のダドリーが、妙なことを言っていたのだよ。フォード伯爵が、グレースを救出しに監禁場所へ踏み込んだ時、そこにいたのはダドリーの手下が2人だけで、奴らもボスと一緒にリーズへ連行された。実際にグレース誘拐に関わったのは、この3人だけで、窃盗団は関わっていない。普通ならば実行犯が捕まった時点で、解決となるのだが・・・・・・」
 一旦言葉を切って、大佐は眉を寄せた。

「ダドリーたちの所属する窃盗団は、この地方で大きな勢力を持っているものの、盗みが主だ。特にダドリーは、現金輸送馬車を襲ったことはあるが、誘拐というのは初めてだ。それも身代金目当てなど、手の込んだ工作が必要な方法を、わざわざ奴が選んだ理由が、わからんのだ」
「馬車を襲って現金や品物を盗むならば、方法は単純ですからね。その場で襲って、獲物を持ち去れば済むことだ。襲撃さえ上手くいけば、あとは雲隠れしてしまえばいいのだから」
「ミスター・ヒューイットの指摘通り。その上、誘拐にしても、わざわざクロロフォルムを用意してグレースに嗅がせたり、随分とやり方が綺麗過ぎる。人質に子供を選ぶというのも、気短な奴の選択にしてはおかしい。すぐにカッとなる男だから、子供は毛嫌いしているはずなのに、なぜわざわざ人質に選ぶ?」
「他に、不審な点は?」
 ケヴィンに促され、大佐は眉間の皺をいっそう深くした。
「あとは2つある。1つは、身代金を要求する手紙だ。使われている便箋や封筒は上等なもので、間違っても村で手に入る類のものじゃない。それに、ダドリーも2人の手下も、字が書けない。ダドリーにできるのは、せいぜいDと書くぐらいだ」
「誰かが代筆したというのですね?それも、上質な便箋を手に入れることができる――恐らくは裕福な地位にある人物が」
「ああ、その可能性が高い。クロロフォルムを使うなんていう芸当も、ダドリーの思いつきにしては上品すぎるし、手紙を書いた人物が準備してやったと考えるの妥当だろう」
「あとの1つは?」

 大佐の眼差しが、鋭さを帯びた。
「ダドリーを捕らえた時、奴が呟いた言葉を、フォード伯爵が耳にしている。『あのヤロウ』『あのババア』『外れくじを掴まされた』と、ダドリーは言っていたそうだ」
「協力者が複数いるということですか?」
 緊張した面持ちで、ウィルが確認する。人当たりの良い口調を崩さない彼らしくなく、問い質すような声音になっている。対する大佐の口振りも、鋼のような強さと冷たさが同居した、現役時代を髣髴とさせるものへと変化する。
「奴の言葉を信用するなら、協力者は最低でも男と女が1人ずつだ。それも、女の方は年配なのだろう。どちらが首謀者かはわからんが、一般的に考えて、ある程度の地位にある男が主導していて、それに協力している女がいると見るのが妥当だろう。あなた方の話を聞くと、首謀者と、行方をくらましているという貴族男性が、同一人物だという可能性も出てくるな」
「恐らく、フォードも同じことを考えているのでしょう。残念なことに、ウィッカムがロンドンから消えてリーズに現れるまでの時期と、グレース嬢の事件があった時期は一致する」
 この場の誰もが、考えたくないと思っている可能性に、ケヴィンがゆっくりとメスを入れていく。商談では私情を挟まずに、冷徹なまでに客観的に物事を分析するよう、幼い頃から叩き込まれてきた彼らしく、大佐やウィルまでもが正直なところ、踏み込むのを躊躇う可能性に、すっぱりと切れ込んでいった。

「仮説を立ててみよう。現在もっとも考えられる可能性だ。ロンドンを発ったウィッカムは、ウェスト・ヨークシャーのどこかで協力者と共にダドリーに接触を図り、グレース嬢誘拐を承諾させた。成り行きを見守るため、この一帯に暫く潜伏していたのだろう。ダドリーはフォードに捕らえられ、計画は失敗した。ウィッカムは急ぎリーズへと立ち去り、そこでまた何らかの計画を立て直し、今は実行のため、この辺りに再び潜伏している」
「仮説とはいえ、たわ言だと笑い飛ばすこともできんな。すぐに手紙を書き、使者をリーズへと向かわせよう」
 大佐が書き物机へと歩み寄り、引き出しから便箋と封筒を取り出すと、椅子に座ってサラサラとペンを走らせ始めた。会話が途切れた室内に、紙の上を滑るペン先の音だけが聞こえる。便箋数枚に及ぶ手紙を書き終えた大佐が、ちょうど封蝋を施そうとした時、ウィルが弾かれたように顔を上げた。

「まさか――」
「どうした?」
 ケヴィンが片眉を上げ、大佐は封蝋を施す手を止めて、ウィルを見つめた。

「こうも考えられないか?グレース嬢誘拐は、人目を引くための手段に過ぎなかったかもしれないと。伯爵家令嬢が誘拐されれば、屋敷は大騒ぎになり、手薄になる」
「確かに、グレース嬢捜索のために屋敷の人手を割けば、人は少なくなるな」
 ケヴィンが相槌を打つと、ウィルは青ざめた顔で、もう1つの怖ろしい可能性を指摘した。
「人気が少なくなった隙をついて、ウィッカム自身がレディ・ソフィアを狙うはずだったのかもしれない。或いは、ブラッドを。協力者がいれば、あちらは二手に分かれて、レディ・ソフィアとブラッドとをそれぞれ襲わせることができるのではないか?」

 誰かがごくりと唾を飲み込む音が、やけに大きく室内に響いた。

 ダドリーの影に隠れた真の犯人がウィッカムだとしたら、ハンプシャーでの出来事を逆恨みして、ブラッドやソフィアを狙ってもおかしくない。ウィルを除く誰もがそう考えたが、その中でケヴィンは1人、こっそりと嘆息した。ハンプシャーでの1件だけが原因ではないだろう。あの時ウィッカムは、ブラッドに打ちのめされた惨めな格好を誰かに見られて、恥をかくようなことはなかった。彼のプライドを傷つけたとしたら、ひっそりと人目を避けてロンドンへ逃げ帰ったことぐらいだろう。

 だがケヴィンとウィルは、ソフィアを襲ったウィッカムを、ブラッドが決して許さず、制裁を加えようとしているのを知っていた。肉体的に苦痛を与えるのではなく、どちらかといえば精神的、経済的な制裁だ。
 仮に、ハンプシャーでの事件を公にすれば、責められるべきウィッカムだけでなく、ソフィアの名誉まで失墜するのが明白だ。大々的に社会的な制裁を加えるわけにはいかず、そのためにブラッドが行ったのが、ウィッカムの事業相手である実業家たちに手を回すことだった。社交界での身分も家格も上のブラッドがひと睨みすれば、ウィッカムの側に敢えて立とうとする者はいない。わざわざブラッドと、レイモンド侯爵一族を敵に回そうとする愚かな者は、誰もいないのだ。
 ケヴィンとウィルも、ブラッドに協力した。財力のあるケヴィンと、社交界に影響力のあるウィルが加われば、鬼に金棒で、ウィッカムはたちまち孤立した。もともとあまりうまくいっていなかった事業が、失敗するのは時間の問題だった。
 それを恨んでいるなら、ブラッドに報復すると考えるのが妥当だろう。加えて、逆恨みではあるのだが、制裁のきっかけになったソフィアの存在も、憎しみの対象へと変貌しているかもしれない。

 思い当たる節が多すぎる。ケヴィンは、渋い顔でウィルに同意した。
「確かに、今こうしている間も、奴らはフォードとレディ・ソフィアを襲う隙を窺っているかもしれない。十分に考えられることだ。グレース嬢はあくまでも囮で、全員の注意をそちらへ向けさせるためだけに仕組まれた誘拐劇だったかもしれない。リーズでウィッカムが行方をくらましてから、こちらへ移動している可能性も十分にある。警戒を怠れないな」
 リンズウッド・パークには、デイヴィーがいるが、世慣れていない彼ではいかにも頼りない。ブラッドが戻ってくるまでは、代わりに目を光らせておく必要があるだろう。
「妻にも警戒するよう、言い含めておこう」
 ウィニーは普通の身体ではない。ソフィアを守ることに手一杯でウィニーが危険な目に遭うようなことになってはならないし、逆もまた同様だ。ケヴィンが気を引き締めると、大佐もそれが伝播したように、厳しい表情で口を開いた。

「フォード伯爵も、リーズから戻ってくる道中に気をつけるよう、書き足しておく。伯爵とレディ・ソフィアだけではない、誰もが身辺に気をつけておかなければならんな」
「私たちはできるだけ、リンズウッド・パークを空けないようにします。何かあればすぐに知らせます。ところで大佐、この辺りの宿屋を虱潰しに当たることは可能ですか?」
 ウィルの問いかけに、大佐は目を眇めて、顎に手を当てた。
「宿泊客を洗い出すというのだな?」
「ええ。ウィッカムや、その協力者らしき女性が、潜んでいるかもしれません。あなたとリンズウッド伯爵家の名前で、宿屋の協力を仰ぐことは可能ですか?」
「もちろんだ。我が家も、リンズウッド伯爵家も、この辺りでは信用されておるからな」
 即座に承諾を得、ウィルはホッと肩の力を抜いて、ケヴィンへ頷きかけた。最低限の手は打ったと、ケヴィンも頷き返してくる。レディ・ソフィアも、ブラッドも、どちらをも危険に晒すわけにはいかないのだ。
「ところで、我が家の者だけでは人手が足りん。ハガード大尉、君は我が家に滞在し、力を貸してはくれんかね?」
「は、はい!喜んで」
 思いがけない大佐の提案に、それまで静かに見守っていたハガード大尉は飛び上がり、こくこくと頷いた。大佐がそ知らぬ顔で、1度封を破って便箋を取り出し、広げながら、さりげなくつけ加えた。

「その方が、娘も喜ぶ」
 真っ赤になってしまった大尉は、すぐさまリンズウッド・パークからウェルズ家へと荷物を移すことになり、そそくさと出て行った。笑いを堪えているウィルと、面白そうな光を眼差しにたたえているケヴィンに、大佐がペンを走らせながら、ウィンクを送る。
「万が一、主犯がウィッカムという男なら、うちの娘が巻き添えになる危険もある。彼にはアンの護衛を任せて、この老いぼれが動くとしよう」
「おそれいります」
 ウィルが深々と頭を下げると、神妙な面持ちでケヴィンもそれに倣った。大佐は、2人に頭を上げさせると、何でもないことのように、さらりと言ったのだった。
「あの2人の行く末は、見守ってみたいと思っているのでな」
 ハガード大尉が戻ってくるのと入れ違いにウィルたちは屋敷を辞し、リンズウッド・パークへと戻った。結局、リーズへと発つ使者が預かった手紙は、最初の予定よりも随分と厚みを増し、ずしりと重いものになっていた。
 ソフィアはウィルたちから話を聞いて、青ざめはしたものの、迅速に手を打ってくれた彼らに感謝した。1人きりで頑張らなくても良いということが、どれほど幸せなことか、改めて噛みしめる。そして、ブラッドの身に何事もなく、リーズから帰還できるよう、祈りを捧げたのだった。

2009/08/28up

時のかけら2009 藤 ともみ

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