第5章 荒れ野の真実[2]

  ウィルたちがリンズウッド・パークに到着してから、1週間が過ぎようとしていた。ウィッカム男爵に狙われているかもしれないと聞かされてから、ソフィアは努めて屋敷から離れないように配慮し、男性陣もどちらか片方は日中も常に屋敷に留まることにして、隙を作らないようにしていた。
 近隣の友人知人から受けていた招待は、やむを得ない事情により参加できなくなったとお詫び状を届けさせ、全てをキャンセルした。リーズからブラッドが戻り、州判事たちの意見も仰いだ上で、いつも通りの日常を再開させようということで、ソフィアとウィルたちは当初の段階で合意していた。それまでは極力屋敷を離れず、のっぴきならない事情で外出する時は、必ずウィルかケヴィンが同行することに決めて、警戒を怠らないようにした。

 ウェルズ大佐が周辺の宿に滞在している客の洗い出しを始めたが、結果は芳しくなかった。ウィッカムの特徴に合致する、身分ある男性客は、なかなか見つからなかった。男性と年配の女性という組み合わせの宿泊客も、見当たらなかった。大佐はリーズのブラッドたちとの連絡を怠らず、情報を交換しながら、一帯の町や村にある宿の主人へ、照会を続けていた。

 自然と屋敷にこもりがちになったソフィアは、いつまで続くかわからない不安と、外出を制限されたことで、さすがに閉塞感を感じ始めていた。伯爵家の女主人としての役割は、屋敷の内側だけに課されているのではない。屋敷の外側、領地に住む人々に対しても、責任がある。足繁く領内の町や村に通い、住人の様子を直に確かめ、病気や怪我などで困っている者があれば、手を差し伸べる。他家からの招待など、社交の予定が入っていない日は、日中に1度は住人の元へ顔を出す。ソフィアがリンズウッド伯爵家に嫁いできてから、体調の悪い時を除いて、5年の間続けてきた日課だった。
 外へ出れない自分の代わりに、メイドや従僕に用事を託して、病人の見舞いや、牧師館への差し入れを続けるなどしてきたが、所詮代理は代理だ。それが5日6日と続くと、リンズウッド家の女主人としての責任を果たせていないという自責の念が、むくむくと身の裡に頭をもたげてくる。

 父の保護下を離れてから、制約を受ける生活というものに、縁がなかったのも、苛立ちに拍車をかけた。ドミニクの妻となってから、夫の生前も死後も、ソフィアは自身に関しては、一切の裁量を任されてきた。名目上こそ、この時代の通念通りに、夫の保護下に置かれてきたが、実際のところ、自由を制限された事は1度もない。夫の名前に守られて、ソフィアは自分の望むままに生きてきたのだった。
 もちろん、リンズウッド伯爵夫人を名乗るに当たって派生する義務や責任は、重く、困難なものばかりだ。だが、自由の代価として、ソフィアは率先して役割に取り組み、果たそうと努力してきた。5年もの間、たゆまぬ努力を続けた結果、世間の尊敬と信望を得ることができたのだ。いつ襲ってくるのか、そもそも本当に襲ってくるのかわからないウィッカムの存在を怖れるあまり、自分が果たすべき役割まで果たせなくなっている状況は、ソフィアの判断力を、いつしか狂わせていたのかもしれない。ほんの僅かでも歯車が乱れれば、思いがけない結果を引き寄せてしまうことになる。後になって、ソフィアはこの時を思い返し、姿の見えない相手が仕掛けた術中に落ちていたと、ほろ苦さを噛みしめながら、認めることになる。


 心の中に葛藤を抱えながらも、表面上は冷静に、動揺など微塵も表すことなく、ソフィアは振る舞っていた。デイヴィーと行うはずだった引継ぎを、予定を前倒しにすることで、少しでも時間を埋めようとしたが、膝詰めで何時間も毎日話し合っていれば、あっけなく終わってしまう。仕方なくアトリエに籠もって絵筆を取ったものの、波立った精神では集中が続かず、何枚も書き損じのデッサンを出す羽目になった。

 グレースと触れ合う時間が増えたことが、せめてもの慰めだった。幼い娘の温かな身体を抱きしめると、つかの間、心の波立ちが静まった。だがそれも、長続きしない。

 親友の感情が不安定になっていることに、真っ先に気づいたのはウィニーだった。出来る限りソフィアと共にいて、快活なお喋りや、楽器を奏でたりして、気持ちが晴れるように心を配ったが、思うようにはいかなかった。彼女の体調が普通ではなく、ソフィアのことだけに神経を傾けるわけにはいかなかったのだ。ソフィアを案じながら、自分自身のことも気を配らなければならなかった。ウィニーの身体には、小さな命が宿っていたのだ。

 滞在2日目の朝、ウィニーの様子がおかしいとメイドが知らせてきて、ソフィアは親友のもとへと駆けつけた。青い顔をしてベッドに突っ伏しているウィニーの背中を、ケヴィンがさすっているところだった。
「ウィン!大丈夫なの?」
 顔を上げたウィニーを、ケヴィンが支えながら上体を起こし、背中に大きな枕をクッション代わりに押し込んでやった。真っ白な寝具に埋もれた彼女は、いつもの勝気で生き生きとした輝きが薄れ、酷く小さく見えた。
「最近ずっとこうなの。心配いらないわ。朝だけで、直に良くなるから」
 ウィニーの言葉にピンときて、ソフィアはまじまじと、親友とその夫を見比べた。青白い顔色ながらも親友の表情は幸せそうで、ケヴィンの瞳には誇らしげな色が浮かんでいる。親友夫婦を取り巻く空気が眩しくて、ソフィアは目を細めた。
「赤ちゃんができたのね?」
「ええ。わかったのはほんの1ヶ月前よ。ロンドンを発つ時には治まっていたから、一緒についてきたのだけど、マンチェスターに着いた頃から、また始まったの」
「まぁ、身体は大切にしなくては」
 ソフィアの咎めるような台詞は、ウィニーと同時にケヴィンへも向けられたものだったが、ケヴィンは苦笑を浮かべて肩を竦めた。その表情には、敏腕青年実業家らしい、普段の冷徹な面影はない。
「無理はさせないよう、気をつけてはいるのですよ。最初は私も同行を拒否したのですが、彼女の強情ぶりは、あなたもよくご存知の通りでしょう」
「だってあなたに逢える絶好の機会だもの。もし商談が長引くようなら、わたくしだけこちらに伺おうと思っていたの」
「もう、ウィニーったら」

 ハンプシャーで別れた時、ソフィアがもうロンドンへ足を向けるつもりがないことを、ウィニーは察していたのだろう。さすがに付き合いの長い友人だ。真っ青な顔色でも、悪戯っぽい笑顔を見せて、ソフィアに心配をかけまいとするウィニーの姿に胸が詰まって、ソフィアはベッドに腰を下ろし、そっと親友を抱きしめた。
 抱き合う2人の淑女を、慈しむような眼差しで見守りながら、ケヴィンがソフィアに語りかけた。
「レディ・ソフィア、妻は初めての妊娠で、不安に思っていることもあると思います。是非、話相手になって、それを和らげてやって下さい」
 にっこりと花のように微笑んで、ソフィアは頷いた。
「ええ、もちろん。喜んで」


 ウィニーが母親になるという報せは、緊張でぴりぴりとしていたソフィアの神経を、一時的ではあってもホッと緩ませた。甲斐甲斐しくウィニーの世話を焼き、毎朝の悪阻をやり過ごすと、お喋りや刺繍や音楽を奏でて過ごした。特に、牧師館主催のバザーの日が迫っていたので、真新しいハンカチに刺繍を施したり、テーブルクロスを仕上げたりと、ソフィアが出す予定の作品を、ウィニーが手伝って、予定より早く仕上げることができた。早速手紙を添えて牧師館に届けさせると、牧師夫人から感謝の言葉が返ってきた。

 ウィニーと、妻を気遣うケヴィンの様子を見ていると、心が温かくなると同時に、羨ましさと寂しさが、じわりと沸き起こる。グレースが生まれた時、ドミニクは既に亡く、周囲の手助けを受けながら、ソフィアは1人で育児をしてきた。父親と母親が揃って子供の誕生を待ち、子育てをする。その構図が、胸の中で日増しに大きくなってくる。とりわけ、ブラッドの不在を心細く感じた時に、『幸せな家族の構図』はソフィアを悩ませた。

 あの時は、仕方なかったのよ。

 これまでも自分に言い聞かせてきた言葉が、もはや効力を持たないことに、気づいてしまったのだ。夫の協力を得て、生まれてくる子をリンズウッド伯爵の子として育てる。その他に、選択肢はなかった。妊娠を知った時、ブラッドは遠くにおり、頼りになれそうな人とも連絡を取れない状態で、ソフィアはたった1人、知る人もない北の地へ、やってきたばかりだった。そういった厳しい状況の中でも、ソフィアは生まれてくる子を里子に出すことだけは望まなかった。ブラッドとの幸せな思い出の象徴を、人手に渡すなど、考えただけで身を切られる想いだった。
 若い世間知らずの娘が1人で、子育てに領地経営にと、随分と力を尽くしてきたと、我ながら思う。他に方法はなかったとも思うのだ。その一方で、ここ数日、ソフィアの心をチクチクと刺す棘がある。ソフィアがこれまで沈黙を通してきたことで、グレースとブラッドは、親子だと知る機会を奪われ続けてきた事も事実なのだと。グレースには、実の父親が誰かを知る権利があり、ブラッドには、娘がいると知る権利がある。ブラッドはグレースが自分の娘だということに気づいているようだったが、グレースはそれを知らぬまま、無邪気に彼を慕っているのだ。

 グレースを救うため、身を投げ出したブラッドの姿が、ソフィアの胸を締め付ける。グレースを抱え、玄関ホールへ入ってきた時の彼は、父親としての責任を果たした達成感と自信に溢れていた。名乗りを上げる機会をソフィアが与えずとも、彼は行動で示したのだ。グレースの父親が誰であるかということを、身を以って証を立てたのだ。
 これまでグレースのことを黙っていたことを責められるとか、もしかしたらグレースを奪われてしまうかもしれないとか、そういった不安がソフィアの中に渦巻いていたのも事実だ。だが、そういった懸念を、ブラッドはあっさりと吹き飛ばしてしまった。彼がグレースを愛しているのは本当で、ソフィアにどのような想いを抱いていようとも、グレースの心を踏みにじることだけはしないだろうと、今は信じることができる。
 ブラッドがリーズから戻ってきたら、きちんと話さなくてはならないと、改めてソフィアは思った。どのような結果をもたらそうとも、真実を話すのは、ソフィアの義務だった。

 何をしていても、何を聞いても、何を見ても、ふとした折に、ブラッドの面影が瞼の裏を掠める。いつしか彼女の心の中を、ブラッドが大きく占めていることに、真っ先に気づいた人がいた。ロンドンでの出逢い以降、特別な想いを持って、注意深くソフィアを見守ってきた、ウィルだった。
 リンズウッド・パーク到着からちょうど1週間が経過した日の夜、ウィルは行動を起こした。

 晩餐を終え、居間へ移ったソフィアたちは、いつものように、男性はお酒を、女性はお茶を楽しみながら談笑して過ごしていた。ウィニーの提案で、ソフィアがピアノを弾き始め、1曲終わると次はウィニーが交代して曲を弾く。寄宿学校時代に習った曲を、どれだけ覚えているかという他愛無い競争は、熱を帯びた。ケヴィンとウィルは音楽に耳を傾けながら、新聞を賑わせている話題について意見を交換していた。途中、家令がやってきて、デイヴィーを引っ張っていったから、居間に残ったのはヒューイット夫妻とソフィア、ウィルの4人だけになった。
 何度目かに交代した時、ウィニーが降参したように両手を挙げた。
「そろそろ眠くなってきたわ。身体が泥にでもなったみたい。ベッドに入らなくてはいけないみたいね」
「しっかり睡眠を取ることは大切よ」
 ソフィアが顔を上げると、こちらの様子に気づいたケヴィンが、椅子から腰を上げたところだった。ソフィアが口を開くより早く、一目で状況を理解して、ケヴィンは音もなく妻に歩み寄ると、腰を抱えるようにして椅子から立ち上がらせた。
「妻を部屋へ連れて行くことにしますよ。少し早いが、これで我々は失礼させてもらいます」
「おやすみなさい、ウィニー」
「おやすみなさい、ソフィア」

 挨拶を交わしながら、居間を退出するヒューイット夫妻の後姿を見送ると、ソフィアは椅子に取り残されたように座るウィルへと目をやった。彼はポートワインの入ったグラスを手に持ったまま、ゆったりと腰を下ろしている。口を開いたのは、彼の方が先だった。
「レディ・ソフィア、まだお休みにならないのですか?」
「ええ。もう暫く、ピアノを弾いていきますわ。せっかく興が乗ったところですから。ウィロビー伯爵、わたくしのことは気になさらず、お休みになって」
 ウィルを無視しようとしたとか、余計な意図はない。ただ素直に、自分の欲求に従って、ピアノに向き合っていたいと思っただけだった。懐かしい曲が、寄宿学校時代に記憶を呼び覚まし、あの頃に戻って弾いているような錯覚さえ覚えた。

 油断しきっていたのだろうか、目を瞑って鍵盤に指を走らせることに集中していたため、すぐ側へ現れた気配には、曲を弾き終えるまで気づかなかった。音の余韻に浸りながら目を開けると、身体が触れそうなほど近くに、ウィルが立っている。驚いたソフィアが鋭く息を呑む音が、奇妙に張り詰めた部屋の空気を震わせた。

 声を失って、鍵盤から離した両手を胸の前で握り締め、ソフィアはすぐ側に立つ人を、見上げることしかできなかった。ウィルは左手をソフィが座る椅子の背に、右手をピアノに置いて、少し身を屈めて覆いかぶさるように、ソフィアの逃げ場を塞ぐように立っている。衣服越しとはいえ、これほど近くにいれば、彼の身体が発する熱を感じ取ることができる。本能的に、ソフィアは腰をずらして、椅子の背にピタリと張り付くようにして、彼と距離を置こうとした。目の前にいるこの男性は誰だろう。わたくしが知っているウィロビー伯爵と同一人物なのだろうか。違和感を覚えるほど、今宵のウィルはいつもと違っていた。

 じっと見下ろしてくる茶色の瞳には、いつもの穏やかで思慮深い光はない。相手が不快感を覚える距離を瞬時に見抜き、安全を脅かす範囲には立ち入らず、警戒心を抱かせずにやんわりと友好を結んでしまう、ウィル一流の処世術に、これまでソフィアは安心しきっていた。ブラッドとの再会を果たしたオルソープ家の舞踏会以降、ウィルは常に紳士で、節度を守り、素の感情をぶつけたりはせずに、ソフィアの心を動揺させないよう、細心の注意を持って接してきた。一方のブラッドと比べても、ウィルがソフィアの心の平穏を脅かすような言動を取ることなど、1度もなかった。
 それが、今の彼の瞳には、押し込めた中にも揺らめく、紛れもない炎がある。表情は、自制心を総動員しているのだろう、辛うじて無表情を保っているが、その中で、双眸に燃え上がる炎は、確かに熱く揺れている。見ているこちらが、熱に焼かれてしまうような、激しさを秘めた揺らめきを、ソフィアは知っていた。恐らくは、ブラッドを見つめる自分の目にも燃えているものと同じ。ハンプシャーでのハウスパーティー以降、ブラッドの瞳にもかつてのように現れたものと同じ種類の、相手を恋焦がれ、全身で欲している情熱の証だ。

 この人もまた、嵐のような感情を内に秘めた、生身の男性なのだということを、今更ながらに自覚する。ソフィアの足取りに合わせ、急がず慌てずに関係を育てようとしてきた彼の気持ちに甘えすぎてしまったのだと、否応なく悟り、ソフィアは握り締めた両手に、一層力を込めた。

 情熱を抑制することに長けたウィル――慈しみの色を濃くたたえ、ソフィアを温かく見守ってきてくれたウィルの瞳に、そのような証を見出すことになるなど、思ってもみなかった。こちらの驚きは肌で伝わっているのだろう、今少し身を屈め、ソフィアの瞳を間近で覗き込みながら、ウィルが薄く笑った。春の日差しのような笑みではなく、困ったような色の混じった、自嘲気味の笑顔からは、体温は感じ取れなかった。

「そう怯えなくてもいい。私がいては、邪魔ですか?」
「いいえ、そんなことは」
 何とか声を絞り出し、首を横に振るソフィアを見て、茶色の瞳が更に眇められた。少しばかり痛みの伴った、哀しげな色合いに、ソフィアは唾をごくりと飲み込んだ。囁くように尋ねる声がする。
「ではなぜそこまで驚くのです?」
「それは・・・もうお部屋に戻られたのだと思っていたのですわ」
 深い意味はないのです、と続けようとして、ソフィアの言葉が途切れた。ウィルの左手がソフィアの頬に添えられ、長い指が顔の輪郭を確かめるように、静かに滑る。唇の横に置かれた親指が、悪戯なそよ風のように、羽根のような軽さで下唇を掠めた。ざわりとした感覚が、ソフィアの背中を走り抜ける。

 反射的に身を捩ろうとしたが、こちらの反応を窺うようにじっと覗きこんでいる茶色の双眸が、先程よりも濃い哀しみと、寂しさを浮かべているのに気づくと、抵抗する気を削がれてしまった。見る者の心までが、ヒリヒリとした痛みを覚えるような、深い孤独の闇がそこにあった。
「レディ・ソフィア、私もあなたの側にいて、あなたを支えたいと思っているのです」
 強い眼差しが、ソフィアを射すくめる。

 力の抜けた華奢な肢体を、ウィルが両腕の中に抱きしめた。彼は外見から想像がつかないくらい、固い筋肉のついた、無駄のない体つきをしていた。退役軍人のブラッドよりは劣るが、逞しい身体だった。彼のベストが頬に当たり、熱が直に触れてくると同時に、ソフィアの鼻腔を、ワインと葉巻の混じった香りがくすぐった。頼れそうな腕も胸も、ブラッドと同じ。この人も、信頼し、頼るに値する誠実な男性なのだ。けれど、懐かしいあの胸とは違う。身体を預けながらぼんやりとした頭でソフィアは思い、不意にわけもなく泣きたくなった。

「どうか、離して下さい」
 声を震わせながら訴えるが、がっちりと背中に回された腕に、より一層力がこもっただけだ。ウィルが顔をずらすと、頬と頬が触れ合った。彼の声が、耳朶にかかり、鼓膜を切なく揺らす。

「私を見て下さい、ソフィア。やっと見つけたのです、あなたを。どうか、去っていかないで」
 揺るぎない地位と名声を手にいれ、怖いものなどないだろうに、この男性の背中が小刻みに揺れていることに気づき、ソフィアは咄嗟に、幼い子にするように、そっと広い背中を摩った。まるで、傷ついた子供を慰めているような錯覚に囚われる。

 暫くすると落ち着きを取り戻したようで、ウィルの震えは止まった。腕の力が緩み、頬が離れる。彼の腕はソフィアの両肩に置かれたままだが、身動きする隙間はできた。顔を上げると、視界に映るのは、自信に満ちた青年ではなく、酷く傷つき、哀しみに溢れた少年の眼差しだった。何が彼を苦しめているのだろうか。彼の想いには応えられずとも、これまで力になってくれたウィルの友情へ応えたい。彼の苦しみを少しでも取り除ければと思い、ソフィアは穏やかな口調で静かに問いかけた。
「何を思い出してらっしゃるの?」

 何かを堪えるように唇を引き結んでから、ウィルは遠い目をしながら、重い口を開いた。
「――昔、愛した人がいました。アビゲイル――アビーと私は幼い頃から兄妹のように育った。ほんの子供の頃からままごとのように将来を誓い合っていて、やっと互いの家族に婚約の承諾を得たばかりだったのです。幸せの絶頂にあって、彼女は病を得て寝付き、ひと夏苦しんだ後で、あっけなく私のもとから旅立っていきました」
 全身を走る痛みを無視し、歯を食いしばりながら、ウィルは告白を続けた。彼にとっては、今でも生々しく残る、深い傷跡なのだ。

「あの時の私は、病魔に蝕まれていく彼女を目の前にしながら、どうすることもできなかった。愛しい人が苦しんでいるのに、何もしてあげられないのです。何かできたのではなかったかと、今でも自分に問いかけることがある」
「それほど深く、その方を愛していらしたのね」
 ソフィアの声に滲む思いやりが、ウィルに力を与えた。大きく頷いてから、強い眼差しでソフィアを見つめる。
「もう2度と、女性を愛することはないと思っていました。生涯独り身でいいと。広く浅く人付き合いをし、表面的に微笑むだけで、もう十分だと諦めていたのです。でもあなたと知り合ってから、誰かと共に過ごすのも悪くないと思えるようになった。あなたの心を深く知りたいと願うようになったのです。ハンプシャーであなたが危機に陥った時、助け出したのがブラッドだと知って、どれほど彼を妬んだか。あなたにはわからないでしょう」

 真っ直ぐに見つめてくる深い茶色の瞳には、いつもの穏やかさと知性の輝きが戻っていた。それらと、情熱の炎が絡み合って燃え上がり、ソフィアの抵抗を焼き尽くそうとしている。
 ソフィアの両肩に置かれた大きな手が、白く細い手をそっと包み込んだ。

「レディ・ソフィア、私の妻として、これから共に過ごして下さいませんか?私がずっと守ります。危険な目には2度と遭わせません」
 真摯な申し込みに、ソフィアは一瞬目を瞠り、それから静かに微笑んだ。低く、はっきりと、聞く者の心に沁みこむような声音で、彼女はきっぱりと告げた。
「お気持ちは嬉しいのですが、わたくし、応えることはできません」
 ソフィアの両手を包むウィルの手に、力がこもった。けれど彼女は、そっと首を横に振ったのだった。

「わたくし、お慕いする方がいるのです。その方に心を捧げたまま、他の男性に添うわけにはまいりませんわ」
 かつては、そうしたこともあったけれど、もう自分に嘘を吐くことはしたくない。灰青の潤んだ瞳が、言葉より雄弁に、本心をさらけ出す。軽く手に力を込めると、今度は大きな掌からあっけなく解放された。拠り所を失って肌寒くはなるけれど、求める温もりを間違ってはならない。
「自分の心から目を背けるのは、やめようと思うのです」

「・・・・・・あなたの想い人というのは、ブラッドのことですね」
「ずっと、お慕いしていました」
 素直に頷いて、ソフィアは小さく呟いた。目の前のウィルが、右手を目の横に押し当て、前髪を軽くかき上げる。意外なことに彼の表情に浮かぶのは、失望ではなく、やれやれといった苦笑だった。怪訝そうに見上げるソフィアに気づいて、彼が口を開く。聞いているだけで苦しくなるような、激情が渦巻く切迫した声ではなく、いつもの彼と同じ、落ち着いた語り口に戻っている。

「最初からわかってはいました。あなたとブラッドが、互いに惹かれあっていることは。しかしあなた方には事情があるようだったし、あなたの側にいれば、いつかは私の方を向いてくれるかもしれないと考えていました。それでもよかったのです、もっと長い時間をかけて、あなたを私のものにするつもりでしたから」
 だが、と、ウィルは嘆息した。
「どうもヒューイットが、余計な忠告をしたようだ」
「ミスター・ヒューイットが?」
 唐突に親友の夫の名前が出され、ソフィアは戸惑いながら反問した。確かに彼は、ウィロビー伯爵ともフォード伯爵とも仲が良いが、なぜここで名前が出てくるのかがわからない。ウィルが苦いものを堪えるように、双眸を眇めた。
「ええ。彼がブラッドに発破をかけたようです。本気で動け、とね。それとウィッカムの事件が、ブラッドに思い切らせたようだ」
 そういえば、ブラッドも似たようなことを言っていた。タイミングを逃さず、必死に行動することも大切だという友人の忠告があったとか。ならば、それはケヴィンの言葉だったのか。

 1人、納得するソフィアに、ウィルが切なさと情愛が混じった眼差しを送る。
「あなたの心が、以前からブラッドのものだったというなら、最初から私に勝ち目はなかったのですね。漸く、アビー以外に生涯を共にしたいと思える女性に出逢ったのに」
 そう言う彼の声には、残念さよりも悪戯っぽさの割合が多く含まれていたから、ソフィアは微笑みを返すことができた。ソフィアが変に気に病むことのないようにという、ウィル一流の配慮なのだろう。
「ずっと抵抗していたのですけれど、自分でもどうにもならなかったのですわ。ですから観念したのです。あの方を愛していると認めてしまえば、楽になりましたわ」
 こちらも、精一杯の茶目っ気を交えて言い返すと、クスッとウィルが笑った。ブラッドとの出逢いがなければ、躊躇いなくウィルの胸に飛び込んでいただろう。それほど彼は魅力的な男性で、信じるに足る人だ。それなのに、心はブラッドを欲する。

「あの方ではなければダメなのです。わたくしが望むのは、あの方しかいないのだと、思い知らされました」
 ブラッドを想うだけで、胸が熱くなり、涙がこぼれそうになる。最初に出逢った時よりも、更に強い気持ちで、彼のことを想っている。奇跡のようなこの想いが、愛するということなのだろう。
「ウィロビー伯爵、あなたの友情には感謝しておりますわ。これからも、友人としてお付き合いを続けていただけますか?」
 恋人に向ける愛情は返せないけれど、せめて友人としての温かな情愛を、持ち続けることを許して欲しい。
 ウィルは暫し俯いてから、おもむろにソフィアの右手を取り、手の甲に静かなキスを落とした。名残惜しげに手を離してから、いつもと変わらない穏やかな笑顔をソフィアに見せる。
「喜んで。あなたとブラッドを、見守らせて下さい」
 ソフィアに負担をかけまいと、平静な表情を装って微笑むウィルの姿に、胸が痛む。真摯な想いを吐露した後で拒絶されたら、誰だって辛いものだ。あくまでもソフィアの心を守ろうとするウィルは、どこまでも優しい。彼に相応しい伴侶が見つかるようにと、ソフィアは心から願わずにはいられなかった。


 その日は、乳白色の霧に包まれて明けた。リンズウッド・パークだけでなく、周辺の荒れ野も白くぼやけたヴェールの中に沈み込み、全ての音が吸収されてしまったかのように、酷く静かだった。
 秋になると、こうした朝霧が荒れ野を覆う日が増えてくる。数歩先も見えないような濃い霧も、この地に生活する人々にとっては、慣れた光景だった。太陽が昇れば、直に消えるため、あまり心配もしていない。

 そのため、リンズウッド・パークの人々も、いつもと同じ日常を開始したのだった。館の暖炉に火が焚かれ、煙突から煙が立ち昇る。
 なぜかこの朝は、いつもより早く目が覚めたソフィアは、ガウンを羽織ったまま、裸足で窓際へ歩み寄り、白い霧が徐々に晴れていく様を眺めていた。白い靄の中から、うねるように続く丘の稜線が次第にはっきりと浮かび上がり、朝露に濡れた草が、朝日を受けてきらきらと輝いている。酷く幻想的で、幾度見ても、見飽きることがない。

「おはようございます、奥様。今朝も深い霧でございましたねえ」
 侍女のアリスがやってきて、女主人の朝の支度を整える。着替え終え、髪をまとめてもらいながら、ソフィアは今日の予定を頭の中に思い浮かべ、重要な用件があったことを思い出した。
 バザーのために用意した焼き菓子を、牧師館へ届けなくてはならないのだ。毎年、この慈善事業のために、館の料理人にお願いして、大きな籠一杯のクッキーを焼いてもらうのが、恒例となっている。料理人が腕を揮っただけあって、バザーでも非常に好評で、楽しみにしている子供たちが後を絶たない。今年も例年通り、厨房で用意してもらっている。同じバザーに出品する縫い物は、既に届けさせているが、こちらはソフィアが自分で持って行きたいと考えていた。ウィニーも体調が良ければ同行すると言っていたけれど、今朝の調子はどうだろうか。

 朝食の席についたのは、今朝はソフィアだけだった。デイヴィーは明け方まで書斎に籠もっていたらしく、まだベッドに入ったきりだというし、ウィルは朝早く隣家へ向かったということだった。何かウェルズ大佐に諮らねばならないことがあるのだろうが、昨日の今日だけに、さすがの彼も、ソフィアと顔を合わせにくいのだろうか。ウィニーは例によって悪阻に悩まされているそうで、今朝は特に酷いらしく、ケヴィンも自身の朝食を部屋に運び込ませ、妻に付き添っているという。

 ブラッドはそろそろリーズを発った頃だろうか。がらんとした食堂を見渡すと、寂しさがこみ上げてくる。早く彼に逢い、洗いざらい気持ちをぶちまけたい。そうしたら彼はどんな顔をするだろうか。ソフィアを受け容れてくれるだろうか。グレースのことを黙っていたといって、怒るだろうか。
 怒られてもいいと、ソフィアは思った。彼がいないより、怒られたり詰られたりして、生身の彼を側に感じている方が、よほど寂しくない。

 放っておくとブラッドのことばかり考えてしまう思考を、強制的に仕事へと切り替える。朝食を終えて厨房を覗き、料理人に声をかけて、焼き菓子を籠に入れてもらうよう頼むと、ソフィアは自室へと戻った。途中、出逢った従僕に言付けて、馬車を用意させることも忘れない。ウィルかケヴィン、デイヴィーに同行してもらって、牧師館に行くのが良いのだが、今朝はどうも都合がつかない。牧師館は、丘を3つ越えたところにある。さほど遠い距離ではない。さっさと焼き菓子を届けて、ウィニーの様子でも見に行こう。そう決めると、アリスを呼んで、外出の支度をする。

「奥様お1人で、お出かけになるのですか?」
 女主人の身支度を終えた後で、アリスは真っ青になって、何とか外出を止めようと躍起になった。しかしソフィアは、玄関ホールへ向かう足を止めない。
「大丈夫よ、御者とドーソンがいるから、わたくし1人ではないわ」
 玄関ホールでメイドから籠を受け取り、ソフィアはニコリと微笑んだ。確かに御者も従僕のドーソンも、体格ががっしりしているから、いざという時は役に立つだろう。アリスが黙り込むと、今度は女主人の外出と聞いて駆けつけてきた家令のジョーンズが、アリスと同じことを主張した。が、これもソフィアからアリスと同じ返答を与えられると、黙るしかなかった。

 外に待機している馬車に乗り込み、御者台には御者とドーソンが座る。軽快に走り出した馬車の窓からは、すっかり霧が晴れ、秋の色に彩られた荒れ野が見えた。眩しい光が、ソフィアの愛する荒れ野――ムーアを、照らし出している。白い霧を追いやって、明るく輝く荒れ野の姿は、自分自身の心そのもののように感じられた。進む道を惑わせた霧は、ソフィアの心からも追いやられた。迷いが晴れた心の前に横たわる未来は、どのようなものであっても、きっと明るく感じられるに違いない。これまでを思えば、待ち受ける未来に、どのように辛い思いをすることがあっても、失望をすることなどないと信じられる。

 ウィルが大佐の家に行ったのも、ブラッド帰還の報せが入ったからかもしれない。少しでも気を緩めると、自然にブラッドへと向かってしまう思考に、ソフィアは苦笑した。これは本当に重症だ。

 と、突然、順調に進んでいた馬車が停まった。御者が誰かに何かを呼びかけているようだ。窓を開け、顔を出すと、すぐ前方の曲がり角に立ち往生している荷馬車が目に入った。ドーソンが御者台を降りて、荷馬車の前で農夫と話をしている。その顔にはソフィアも見覚えがある。村でも働き者と評判の、ロブという農夫だ。その横には、農夫とそっくりな顔をした少年が、ぽつんと心配そうに佇んでいる。
 やがて会話を終えて戻ってきたドーソンは、御者と言葉を交わすと、ソフィアの前までやってきて、申し訳なさそうに告げた。
「すみません奥様、ロブが難儀しているので馬車を停めてしまいました」
「それは構わないけれど、一体どうしたの?ロブの家は、まだこの先でしょう?」
「はい。干草を積んで帰る途中で、轍に車輪を取られてしまったそうです。息子と一緒に随分荷馬車を押したようですが、泥にはまってますます動かなくなってしまったそうで。それに、無理に押したせいか、車輪が少し外れかかってますね」
「今朝は地面が随分緩くなっているようですものね」

 ソフィアは嘆息して、籠を手に取ると、扉を開けて馬車を降りた。驚くドーソンを見上げ、こともなげに言う。
「この丘を越えたところが牧師館ですもの、わたくしは歩いていくことにするわ。あなた方は2人で、ロブを手伝ってあげて。大人の男性が3人がかりで押せば、押し出せるでしょう?」
「ですが奥様、奥様を歩かせるわけには・・・」
 ドーソンが大きな声を出すと、御者もそれにつられて顔を覗かせた。どちらも、ドミニクに対するのと変わらず、ソフィアにも忠実に仕えてくれている使用人だ。ソフィアは2人に向かって、言い聞かせた。

「車輪を直すのは、ロブ1人では無理でしょう?御者台の下に道具が入っているもの、あなた方が手伝えば、車輪はすぐに直るわ。ここから誰かを呼びに行くより早いでしょう。それに、轍だって、大の男3人がかりで押せば、何とかなるのではないかしら。うちの馬を使って引いてみてもいいのではない?」
「確かに、車輪が傾いたせいで、ロブの馬にも負担がかかっているな。早急に処置せんと、ありゃ、馬をやられるぞ」
 御者が身軽く御者台を降り、道具を取り出しながら、ドーソンを促した。老いた従僕は最後まで渋る様子を見せたものの、結局は御者と共にロブの馬と荷馬車の救出に向かった。馬1頭を見捨ててしまえるほど、この辺りの農夫は裕福ではない。それはドーソンもよく承知しているのだ。

 男たちが作業に取り掛かるのを見届けると、ソフィアはゆっくりと丘の麓に沿って歩き出した。牧師館への道も、湿っていて、踏みしめると柔らかく靴跡が残る。籠を抱えることと、靴を泥だらけにしないよう足元に集中して歩いていたから、ソフィアは気づかなかった。麓を回り込み、いよいよ牧師館が見えてこようとしたところで、背後に迫る黒い影に。
 あ、と思った時には遅く、口元に強く布を当てられていた。激しい眩暈を感じたが、覚えているのはそこまでで、ソフィアはすぐに意識を手放した。最後に、覚えのある香りを嗅いだような気がしたのだが、全ては暗闇に呑み込まれ、後には静寂だけが残った。

2009/09/05up

時のかけら2009 藤 ともみ

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