第5章 荒れ野の真実[3]

  今朝方新たに届けられた手紙のうち、最後の1通を熱心に読むブラッドの眉間に寄った皺が深くなる。その前の手紙を読み終えた時から、彼の眉間には皺が刻まれていたが、溝がいっそう濃くなった。向かい側に据えられた1人がけのソファで、パイプを燻らせていたマクニール卿は、久々に意気投合した相手の変化に目ざとく気づき、片眉を上げたものの、口を噤んだまま様子を見守った。数人の協力者から寄せられた最新情報を、冷静な顔の下で目まぐるしく分析しているブラッドを妨げないように、彼が全てを読み終えてから質問しようとの配慮だった。

 リーズの市街地にあるマクニール卿の屋敷は、北イングランド地方の鉄道業を牽引する実力者に相応しい、贅沢でモダンな佇まいを見せている。昨夜まで、この地方の共同出資者たちを招いた晩餐、午餐が、帰宅してより連日のように続いていたが、それも一段落を告げ、今朝の邸内は落ち着きと静けさに満ちている。思索にふけるには最適である。朝食を終えた男性たちは、そそくさと卿の書斎に向かうと、各々が直面している状況について、検討を始めたのだった。マクニール卿は、手がけている事業について、ブラッドは、リンズウッド伯爵家の母子が置かれている状況について、今一度整理しなければならなかった。
 リンズウッド・パークを離れてから、ほぼ連日のように、手紙を携えた使者がやってきて、残してきた人々の様子を伝えていく。リンズウッド・パークを出発するに当たり、ブラッドが進捗報告を依頼したのはウェルズ大佐とデイヴィーであったが、つい先日より、彼らの他に、数名の報告が混ざるようになった。ウィルとケヴィンからの連絡も、リンズウッド・パークから発信されるようになったのである。

 ウィッカムがロンドンから行方をくらましたという報せを受け取って以来、かの人物への警戒を強めていたブラッドにとって、親友ふたりの援軍がソフィアのもとへ到着したのは、非常に心強かった。ソフィアを無闇に不安にさせないよう、ウィッカムに関する情報を明かすのは、リーズで情報収集を終えてからと考えていたブラッドだが、他ならぬウィッカムがリーズに出没したという目撃情報を、かの地に到着する直前に手に入れ、判断を誤ったと歯噛みしていたから、信頼に足る人物の増援は、尚更有難かった。ウィルとケヴィンのもとには、ロンドンにいるアーサーや治安判事からの情報が、逐一もたらされている。それらはブラッドに届けられているものと同じ内容で、離れたところにいても、同じタイミング、同じ精度の情報を収集できるのは、意識レベルを合わせる上でも、大変助かった。リーズにいて身動きの取れないブラッドの代わりに、ロンドンへの連絡も、ウィルやケヴィンが行っている。リンズウッド・パークで一旦情報を集約して、ロンドンとリーズへ発信するという仕事は、ウェルズ大佐やデイヴィーには向いていないが、あの2人ならば適任だ。彼らの滞在は、効率的に互いの状況を把握するのに役立っている。

 そして、グレース誘拐事件の折に胸に根ざした疑惑は、ウィッカムのリーズ出没という報せを持って、確信へと変化した。念のためにリーズの州判事を訪ね、ダドリーらから引き出した供述と、それらの裏づけ作業の結果を確認したが、ウィッカムが黒幕であるという説を覆すだけのものは、何も見つからなかった。
 ブラッドがちらつかせた、ボウ・ストリートへ口添えをするという一言が効いたのか、ダドリーたちは意外と素直に取り調べに応じているらしい。

 ダドリーたちが出入りしている、リーズ市内でも治安の悪い地区にある酒場にやってきて、伯爵令嬢誘拐を持ちかけた男の特徴は、ウィッカムに酷似していた。男は名乗りはしなかったものの、身なりや仕草からして、上流階級の者であるのは一目瞭然だった。下町の雰囲気にそぐわない男は、突然の取引に渋るダドリーに、熱心な説得を続けたという。必要なものは全て用意するし、報酬として身代金全額と、その半額を加えて渡すとまで言った。さすがにダドリーも目の色が変わったが、かなりの金額になる。本当に1人で用意できるのかと食い下がると、男に同行していた年配の女が、はっきりと告げたそうだ。「我が主はたいそうな資産家だから、無用の心配だ」と。
 それからおもむろに手提げから札束を取り出し、引き受けるなら前金として渡すと迫ったという。現金を前にすれば、話は早い。ダドリーは、令嬢を誘拐して伯爵家の権威を失墜させるという計画に、加わることを承諾した。

 そこから先は、最初に話しかけてきた男ではなく、年配の女が具体的な計画を話し出した。資金援助をしているのが女の主であることといい、女の方が主導権を握っているのは明らかだった。
 白いものが混ざった黒髪をひっつめにし、地味だが仕立ての上等なドレスをまとった彼女は、上流家庭に仕えるメイド頭か、家庭教師といった風体だった。まるでアルファベットの綴りでも教えているかのような、淡々とした口振りで、リンズウッド伯爵家の場所や庭の死角になり得るところ、標的の外見的特長などを教え、ご丁寧にも身代金を要求する脅迫状を渡した。現金を示せばダドリーたちが仕事を断るはずがないと、確信していたかのようだった。

 続いて、伯爵家から少々離れた廃屋に、人質を連れて行くように告げ、必要な馬はその廃屋に犯行実行日の朝までに用意しておくとも言った。身代金を辻で拾った後は、どこへでも好きな場所へ逃げていい。成功したかどうかは監視を付けておくのですぐにわかるから、成功すればリーズの安宿に翌日までに報酬を用意しておく。女が一通り話した後に、ダドリーは顔をしかめながら尋ねた。
「監視されてるっていうのが気にくわねえ。こっちから知らせるってのは無しなのかい?」
 すると女は眉ひとつ動かさずに、「万一、足取りを追われたら困る。主の名前が出るのは絶対に避けねばならない」と素気無く跳ねつけた。ついで、「主の名前がもし漏れるようなことになれば、報酬は用意しない」とも。

 ダドリーはまだ不満を訴えようとしたが、それより早く女が手提げから白いハンカチと小瓶を取り出した。小瓶は青い不透明な硝子でできており、中身が何であるか、外見からは判別がつかない。それを差し出す女の視線は、氷のように冷たかった。荒くれ者として名の知れているダドリーが、本能的に「この女はまずい」と察するほどに。
「誘拐する時に、令嬢が騒ぐといけません。このハンカチに、瓶の中身を数滴垂らして使うといいでしょう。これが沁みたハンカチを口に当てれば、すぐに意識をなくしますから」
 ずいと差し出されたそれらを、ダドリーは受け取るしかなかった。この辺りでは名うての荒くれ者で知られる彼が、押し負けるような妙な迫力が、この女にはあった。彼女に比べれば、後ろでおどおどしている男など、物の数にも入らなかった。いくら男の方がたくましい体つきをしており、女の方は針金のように細い身体をしているとはいっても。痩せこけた身体をびっちりと首もとまでドレスで包み、通りを歩いていても行きかう人の意識に残らないような、目立たぬ風情の女。影を身にまとっているような、暗さが彼女の周りには漂っている。

 そう、この暗さをダドリーはよく知っていた。裏世界を生き抜いてきた者が見せる目だ。恐らくはダドリー以上に、多くの闇を見てきた者の目だ。
 背筋がぞくりとするのを何とか隠して、ダドリーは小瓶をそっと揺らしてみた。ハンカチも上等なもので、貴族が日常で使用するような類のものだ。間違ってもダドリーたちが一生手にすることはない。
「これの中身は何だ?」
 答えが返ってこないのを承知して、ぽつりと尋ねてみたところ、ややあって硬質な声が返ってきた。
「クロロフォルムですよ。あまり手に入らないから、慎重に扱いなさい」
「随分上等だな」
 小瓶をテーブルに置き、ダドリーは女を下から見上げた。小瓶を形作る硝子のように無機質な視線が、冷たく返ってくる。それを真正面から受け止め、男はにやりと不敵に笑った。
「上等だ、やってやろうじゃねえか」

 そして、ダドリーたちは女の授けた計画を実行に移した。ブラッドに阻まれたが、ダドリーたちが捕縛されて一件落着とするには、不可解な点が残る事件だった。
 女が告げた通り、現場を監視していたというのは本当だったようで、ダドリーたちの供述を受けた州判事たちが、リーズの安宿を当たったが、報酬も、彼女の痕跡も、見当たらなかった。
 グレースを救出した時に廃屋で押収した証拠品も、全て州判事へ提出していた。その中には件の小瓶や、白いハンカチも含まれていた。特にハンカチは上等なもので、白地に白い鈴蘭の刺繍が一面繊細に施されており、恐らくはロンドンで入手したものではないかという判事の意見に、ブラッドもマクニール卿も異論はなかった。

 幾つもの点が、いまだにひとつの線に繋がりきれていない。何かが見えそうなのに、もうひとつ見えてこない。ヨークシャーの秋を包む霧の中から抜け出せないような、もどかしさが、日に日に強まっている。

「何か悪い知らせでもあったのかな?」
 読み終えた手紙を封筒に戻すブラッドに、マクニール卿が尋ねた。封筒をテーブルに戻し、ブラッドは肩を竦めた。テーブルの上には、他にもロンドンから届いた手紙が、重ねられている。一番上に置かれたのが、今朝ほどリンズウッド・パークから届いたもの。その下にあるのは、やはり今朝ほど、ロンドンのアーサーから届いたものだ。
 眉間の皺をほぐすように指で揉みながら、ブラッドは小さく嘆息した。
「ロンドンからの報せは、良いものではありませんでした。まだ断言はできませんが、真の黒幕らしき人物も、このところロンドンを離れているらしい。今、その足取りをボウ・ストリートでも必死に追っているそうです」
「真の黒幕か・・・・・・」
 腕組みをしながら、マクニール卿が低く唸った。確かに、気に食わない報せだった。
「ボウ・ストリートが追っているなら、居所が判明するのも時間の問題じゃないか?あそこの捕り手は、信頼できる」
「ええ、確かに彼らの腕は信頼できます。ですが彼らが睨むには・・・・・・その人物は、どうやら北に向かっているらしい」
「ますます歓迎できん知らせだな」
 マクニール卿は再び低く唸り、顔を顰めた。イングランド北部といっても広いが、今の流れだと、リーズ周辺、ウェスト・ヨークシャーに、要注意人物が集結しているように受け取れてしまう。ブラッドやソフィアの身を思うと、有難くない状況だ。

 マクニール卿は身を乗り出すようにして、ブラッドに続きを促した。
「で、リンズウッド・パークからの手紙は何と?」
 眉間を擦っていたブラッドの手の動きが止まった。
「ウェルズ大佐が、周辺の宿を洗い出してくれていますが、まだ結果は芳しくないようです。3分の2程度まで洗い出したけれど、ウィッカムらしき男や、女の特徴に該当する人物が宿泊している形跡がない。あとは残りの宿のどれかに滞在しているのか、或いは――」
「宿の主人が、匿っているということもあり得るな」
 マクニール卿の指摘を、否定する材料がない。胸にこみ上げてくる苦さを堪えながら、ブラッドは頷いた。
「ダドリーに、前金としてポンと札束を渡してしまえるような女です。口止め料として、宿の主人に大金を積んだ可能性も否定できない。一応大佐には、全ての宿を確認しても該当人物に当たらなければ、抜き打ち検査をするよう依頼しておきました」

 だがそれも、どれほどの効果があるのか。こうしている間にも、ソフィアに魔の手が迫っているかもしれないと思うと、居たたまれない。いくらケヴィンとウィルがついていてくれるとはいっても、やはり安心はできない。
 特にウィルが側にいるというのは、別の意味で心配だった。彼がソフィアを特別に想っているのは明らかだ。一方のソフィアは――はっきりと気持ちを確かめたわけではないが、ソフィアは自分に心を向けてくれているという自信はある。しかし、彼女を想う男性が側にいるという状況は、気分の良いものではない。

 親友への信頼と、複雑な想いを抱えて葛藤するブラッドの様子を、マクニール卿は父親のような目で眺め、隠し切れない疲労が青年伯爵を蝕んでいるのを見て取った。いかに若く、体力があるとはいっても、この強行日程では疲れるのも無理はない。
 リーズへ到着した翌日から、ブラッドは日中、州判事事務所へ通い始めた。帰ってきて夕方からは、マクニール卿の仕事仲間と顔合わせをし、夜更けまで晩餐を共にする。卿の仕事仲間たちはそれぞれが忙しく、1度にまとめて紹介をするわけにもいかず、顔触れを変えて日ごとに顔合わせをする羽目になった。
 ホスト役のマクニール卿夫妻にとっては誰もが顔なじみだから、さほど疲れるものではないが、全てが初対面のブラッドには、気の張るものだったに違いない。イングランド中北部の鉄道・鉄鋼事業の重鎮が顔を揃えるし、しかも相手は、「『北の王者』が見込んだという若造はどれほどのものか」値踏みする気満々で来ているのだ。気を抜く間もない会話、振る舞いを要求され、それらをそつなくこなしてきたが、無意識のうちに降り積もった疲労は、今や彼を蝕んでいる。卿の目から見ても、心配事を抱えながら、ブラッドはよくやったと思う。「マクニール卿の見込んだとおり」と、誰もが頷き、納得して帰途に着いたのだから。

 それも昨夜で終わり、実業家としてのブラッドがリーズでこなすべき役目はこれで終わった。橋渡し役の任を終えたマクニール卿は、留守中に溜まっていた仕事を片付けなければならない。共にもういちど、荒れ野へ戻るわけにはいかないのだ。

「すぐに戻るのか?」
 短い問いかけに、ブラッドは頷いた。既に今朝のうちに、従僕に命じて荷物をまとめ、いつでも出発できる準備を済ませている。リーズでの商談については、ロンドンへ戻ってから兄たちとじっくり検討することになっている。これから荒れ野へ向かうのは、個人的な理由のためだけだ。ソフィアを守り、彼女をこの手に抱くこと。それだけのために、馬を駆けさせる。ブラッドにとっては、何よりも価値のあることなのだ。

「ロンドンからの知らせでは、『黒幕らしき人物』の足取りを追いかけている捕り手が、そろそろヨークシャー入りするらしい。これからすぐに移動すれば、リンズウッド・パークに着く前に、隣町の宿屋辺りで落ち合えそうです」
「『黒幕らしき人物』か・・・・・・」
 マクニール卿は、いかめしい顔を曇らせ、苛立ったように指で腕を叩いた。
「北に向かっているというなら、いっそのこと、スコットランド辺りを目指してくれればよいのだが・・・やはり、ウェスト・ヨークシャーに現れるのだろうか」
「どこに潜んでいても、私が戻るからには、尻尾を掴んでみせますよ」
 きっぱりと言い切って、立ち上がったブラッドからは、ダドリーを捕まえたあの夜に感じたような、激しさと容赦のなさが、滲み出ている。『黒幕』も、随分とやっかいな男を敵に回したものだ。普段はそつのない紳士として振る舞っているが、ふとした折に彼が垣間見せる鋼のような強さは、間違いなく軍隊で鍛え抜かれた男の持つものだ。ソフィアたちに害なす者を、彼は決して許さない。マクニール卿は、まだ見ぬ犯人を微かに哀れんだ。

「そういえばあなたは、物証を見てすぐに、『黒幕』に思い至ったようだね」
 ダドリーの自供を聞くより先に、女が渡したという白いハンカチを見るなり、ブラッドの顔色が変わったのを、その場に居合わせたマクニール卿はしっかり観察していた。その後、ダドリーたちの供述を聞いて、ブラッドは確信を深めていったようで、州判事に掛け合って、そのハンカチをロンドンの治安判事のもとへ急ぎ送らせたのだ。彼の心に浮かんだ、ある人物の名前と共に。そしてボウ・ストリートではブラッドの情報の裏づけを取ったらしく、捕り手が全力を挙げてとある人物を追っている。
「あれとよく似たハンカチを持っている人を、たまたま知っていたのですよ」
 自嘲めいた笑みを唇の端に浮かべ、ブラッドはこめかみに指を当てた。ウィッカムの行動を監視することばかりに気を取られ、もう1人の要注意人物を放っておいたのは、迂闊だった。その人物が、恐らくはソフィアに対して良い感情を抱いていないことを、知っていたのにも関わらずだ。

 ロンドンの目抜き通りであるボンド・ストリートの婦人服店で、あれと同じ刺繍を施したハンカチを特別に作らせた客があったと、捕り手が確認するまで、さほど時間はかからなかった。ベルギーから取り寄せた刺繍だけでは満足せず、更に手を加えさせたというが、一面を刺繍で覆っては、実用的には使えまい。注文者は、飾りとして持つためだけに使うのだ。それも、大金を払ったというのに、惜しげもなく犯罪の小道具に使ってしまうような、裕福な人物。
 ブラッドの脳裏に浮かぶのは、ただ1人しかいない。

「何としても、阻止しなければなりません」
 強い決意をたたえて、ブラッドは『北の王者』と呼ばれる男性を見返した。気だるく残る疲労など、気にもならなかった。ブラッドの心にあるのは、灰青の瞳を持つ女性の面影だけだ。二度も彼女を失うなど、あってはならない。
「あなたとレディ・ソフィアの無事を祈ろう」
 マクニール卿も立ち上がると、ブラッドへ歩み寄り、がっちりと握手を交わした。
「こちらからも何かわかれば知らせる。私と妻は、あなたたちの幸せを願っている。その祈りが、少しでも災いを遠ざけますように・・・・・・」
「ありがとうございます、マクニール卿」
 マクニール卿夫妻は、玄関のポーチに立って、薄っすらと残る霧の中を駆けていく青年を見送った。忠実な従僕が1人、ぴったりと騎馬で付き従っている。馬車よりも早く着けるからと、身体への負担が増すのを承知で、彼らは騎馬で荒れ野へと向かうことにしたのだ。
「どうか神様、ご加護を――」
 目を瞑り、囁くように祈る妻の肩を、マクニール卿はそっと抱き寄せた。白く霞むヴェールの中へ、2騎の影が吸い込まれていった後も、長いことそこに立ち続けていた。


 リーズを発ってから、ブラッドと従僕は休まず馬を駆けさせて、行きの行程を大幅に縮めて西へと向かった。途中、先行したマクニール卿の部下が交代用の馬を手配してくれたお陰で、乗り潰す前に馬を交換し、余計に手間取ることはなかった。夜になると宿屋で必要最低限の眠りを取り、朝が来ると霧が晴れぬ間に出発する。
 さすがに丸1日疾走すると、身体はガチガチに強張り、休養を欲したが、ブラッドは筋肉の上げる悲鳴を無視して、ひたすらに馬を駆けさせた。今回付き従っている従僕は、ジャックと共に仕えている寡黙な若者だが、不平を口にすることもなく、黙々と主人に従って強行日程をこなしていた。万一を考えてジャックはリンズウッド・パークに残していた。何かあれば直ちに彼が、リーズへ駆けつけて知らせる手はずになっており、その姿がいまだ見えないということは、最悪の事態は起きていないという証拠だと、ブラッドは逸る心を必死に宥めながら、手綱を取った。

 軍隊時代を髣髴とさせる過酷な行程をこなし、ブラッドたちがリンズウッド・パークにほど近い街の宿屋に辿り着いたのは、リーズを出発した翌日の夕刻だった。そこで彼らを迎えたのは、冷たく鋭い眼差しを持つ1人の青年だった。ブラッドよりも年下だろう、幼さからは完全に抜け出した若々しさを、全身に漂う奇妙な落ち着きが打ち消している。鍛えられたたくましい身体つきは、ボウ・ストリートの捕り手に相応しい。長身のブラッドに負けないぐらいに身長も高く、小心者ならば簡単に圧倒されてしまうだろう。貴族を相手にしてもへりくだったりしないプライドの高さを窺わせる表情は、皮肉なことに貴族といってもいいぐらいに整い、品も漂っており、どこまでも冷静だった。

 ブラッドとは初対面だったが、治安判事が大きな期待をかけているというこの捕り手の評判は、かねてより聞き知っている。ロンドンでは若い女性に、英雄視されて人気もあるらしい。逞しい身体つきに、ブロンドの髪と青い目という取り合わせをしているのを見れば、なるほどと納得できる。気品と同時に、影のような孤独を身にまとっているのも、女心をくすぐるのだろう。ギルバート・ソレルズという名前は、ロンドン市民の中では広く知られている。まだ年若いものの、数々の修羅場を潜り抜け、多くの目覚しい実績を上げているという彼が、ヨークシャーへ乗り込んでくるとは予想していなかったが、頼りになる人物の登場を、ブラッドは素直に喜んだ。治安判事のダニエル・リーガン卿とは古くから家族ぐるみの付き合いを続けているが、今回の人選も、ブラッドの危機を軽く考えていないという意思表示の現われなのだろう。

「まさか君が来ることになるとは、思わなかったよ」
 治安判事への感謝を心の中で述べつつ、ブラッドは貴族らしからぬ気さくな態度で、片手を差し出した。ソレルズはそれにまごついたようだが、面には表さず、礼儀正しく握手を交わした。
 ソレルズもこの宿に一泊することになっており、翌日は一緒にリンズッド・パークへ向かう予定になっている。彼がロンドンから追跡してきた人物には、監視をつけており、ソレルズ自身がこれ以上張り付く必要はない。

 男たちは夕食を終えると、直ちに情報交換に入った。空いている客室のひとつを使い、テーブルを挟んで向かい合わせに腰を下ろすと、早速ソレルズは単刀直入に切り出した。
「閣下の睨んだ通り、我々ボウ・ストリートも、キャサリン・テイラーを『黒』だと判断しました。ロンドンを離れる前のウィッカムが、頻繁に、彼女が宿泊しているホテルを訪れています。それも、人目をはばかるようにして。そして彼女の付き添い役が、ウィッカムと一緒にいるところも目撃されています」
「付き添い役?」
 ブラッドは片眉を上げた。華やかなキャサリン・テイラーの姿は、簡単に思い浮かべることができるが、彼女の周囲に群がっているのは男性ばかりで、女性と一緒にいるところを見た記憶はない。せいぜい母親と一緒にいたぐらいで、付き添い役らしき女性は見かけなかったように思う。
 ブラッドの心中を見透かしたように、ソレルズは頷いた。
「目立たぬようにしていますから、記憶にないのも無理はありません。意識的に、誰の記憶にも残らないように振る舞っているような、初老の女です。やはりアメリカ人ということになっていますので、ロンドンでは十分な情報が集まりませんでしたが、念のため、リーガン卿はアメリカへの照会を始めました」
「初老の女、か」
「ええ。閣下からいただいたダドリーの供述内容と、外見的特長は一致します。厄介な相手には違いありません。ロンドンのごろつき達にも伝手があるようですから、身元を偽っている可能性もあります」

 内心、確信はしていたものの、改めて捕り手の口からミス・テイラーを『黒』と断言されると、少なからず衝撃はある。ブラッドは顔を顰めた。ロンドンに戻ってからも、彼女の方から淑女らしくない熱心さで、アプローチを何度か受けた。それを断りはしたものの、ブラッドではなくソフィアへ攻撃の対象が向くものだろうか。それもウィッカムと組んでまで。
 唇を引き結び、苦い表情を浮かべるブラッドをちらりと気遣うように一瞥して、ソレルズは別の捜査についても言及した。
「閣下から送られてきたハンカチが、決め手になりました。キャサリン・テイラーは付き添い役と共にロンドンを発ち、ヨークシャーに入っています。1度リーズに入った後、西に移動して、昨日別の宿屋に入りました。追跡には気づいているようで、途中何度か巻かれそうになりましたが、今はこちらの監視を容認しているようです。何かの罠かもしれませんが・・・・・・」
「ウィッカムらしき人物との接触は?」
 ブラッドの問いかけに、ソレルズは首を横に振った。
「残念ながら、まだです。リーズで馬車を乗り換えたり、買い物をしたりと出歩いてはいますが、めぼしい人物との接触はありません。監視役は2人つけていますから、何かあればすぐに1人が報せにくることになっています」
「ならば明日、リンズウッド・パークに移ってから、改めて方策を考えることにしよう。ロンドンから新たな情報が届いているかもしれないし」
 芳しくない情報ばかり耳にしたせいか、昨夜よりも移動の疲労が、ずしりと重くブラッドに圧し掛かっていた。このまま頭を働かせようとしても、動きが鈍いのは明白だ。明日はソレルズと一緒に、街で借りた馬車で移動することになっている。今日までが一番肉体的にきつかった。一晩ゆっくり休めば、明日からは再び精力的に動けるようになるだろう。

 ソレルズと別れて部屋へ戻ったブラッドは、手早く就寝の用意を整えると、ベッドへ滑り込んだ。たちまち瞼が重くなり、あっという間に夢の世界へと誘われる。ここからリンズウッド・パークまでは馬車で1時間程だ。ソフィアのすぐ近くまで戻ってきたという安堵感が、更に深い眠りをもたらした。

 翌朝目を覚ました時には、身体も頭も随分とすっきりしていた。珍しく荒れ野には霧も立ち込めず、穏やかな秋の日差しが世界を照らしている気持ちの良い朝だった。天候までも、ブラッドの心を忠実に映し出しているかのようだ。焦りもどこかへ消えてしまったようで、主人の顔を一目見るなり従僕は嬉しそうな様子を見せたし、朝食を終えて顔を合わせたソレルズも口元を微かに上げた。

 宿の前に停めた馬車にいよいよ乗り込もうという時だった。街道の東の方角から、物凄い勢いで駆けてくる騎影があることに、真っ先にソレルズが気づいた。次第に近づいてくる騎馬の、乗り手の顔が判別できる距離になった途端、ブラッドの表情が厳しいものに一変する。必死に手綱を操っているのは、ブラッドがリンズウッド・パークに残してきた従僕のジャックだった。
 主人に気づいて宿の前で馬を止め、鞍から滑り落ちるように街道へ足をつけたジャックが、呼吸を整えるより早く、ブラッドが歩み寄り、緊張を孕む声音で問い質した。
「ジャック、何があった」
 もう1人の従僕に抱えられるようにして立ち上がり、ジャックは歯を食いしばるようにして、辛うじて声を絞り出した。顔色は真っ青だった。
「レディ・リンズウッドが、昨日の朝から行方不明になっています。夜を徹して捜索していますが、まだ見つかっていません」

 ブラッドの全身が、急激に冷えていく。更に詳しく問い詰めようと口を開いたところを、右肩を背後から掴まれた。振り返ると、ソレルズがやはり厳しい表情で佇んでいた。
「詳しい話は、馬車の中で聞きましょう。馬は宿の主人に預けて、誰かに屋敷まで届けさせればいい」
「・・・・・・そうだな」
 確かに、こんな街道で話すような内容ではない。ブラッドは深い息を吐き、ジャックを馬車に乗せるように従僕に指示すると、自分も乗り込んだ。後から乗り込み、ジャックの隣に座ったソレルズが、こちらを窺うように眺めているのに気づくと、軽く頷いて大丈夫だと示す。それを見た捕り手は馬車の天井を軽く拳で叩き、出発の合図を送った。がたりと揺れて、馬車が動き出す。ソレルズが水筒を取り出して水を飲ませると、ジャックは漸く人心地ついたようだ。冷静に観察してから、ブラッドは切り出した。

「ではジャック、順を追って話してもらおうか。一体レディ・ソフィアに何があったのだ」
 一言も逃すまいと聞き耳を立てている男たち2人に見つめられ、ジャックはごくりと1度唾を飲み込んでから、話し出した。捕縛のプロが同行している事が唯一の救いだ。ジャックがもたらした情報を、努めて冷静に整理しながら、ブラッドは身体が怒りに震えるのを、止める事はできなかった。


 頭が酷く痛む。

 覚醒し始めた意識の中で、まず最初にソフィアが感じたことは、鐘を打ち鳴らしたような酷い頭痛だった。続いて、頬や全身に当たる硬い感触に気づき、寝返りをうとうとしたが、手足が自由に動かない。

 ハッとして目を開けると、見覚えのない部屋の中だった。反射的に身体を起こそうとして、両手両脚を戒められていることに気づく。堅い木の床の上に、両手を背中に回して、両足は足首の辺りでそれぞれ縛られて、転がされるように横になっていた。
 何とか首を捻って背後を確認すると、太い柱に縄が結ばれており、それが自分の背中の方に続いている。恐らくは、両手首に続いているのだろう。柱に括り付けられ、逃げられないようになっているのだ。状況を把握するなり、ソフィアの背中に冷たいものが下りていったが、このままの状態をよしとすることはできない。軽く手首や足首をばたつかせようとしたが、しっかりと結ばれているようで、戒めは簡単には緩みそうにない。暫く粘るしかないわ、と思いながら、ソフィアは周囲を改めて見回した。なぜこのようなところにいて、このような格好をしているのか、そのきっかけがどうにも思い出せないのだ。

 激しい頭痛に邪魔されながら、ソフィアは何とか記憶を手繰り寄せようとした。朝、牧師館へ向かって館を出発した。その途中で、農夫のロブが立ち往生しているのが目に入って、従僕のドーソンと御者を加勢に向かわせた。そしてソフィアは1人で、牧師館へ続く道を辿り始めたのだが――その先の記憶が欠落している。
 この状況からすると、何者かに拉致され、監禁されたと考えるのが妥当だろう。今、室内にはソフィア1人きりだが、いつ犯人が戻ってくるか知れない。そう考えると、いいようのない恐怖が沸き起こったが、ソフィアは懸命に自分を叱咤した。このまま大人しく捕らわれているだけでは、相手の思う壺だ。拉致されてからどのくらい時間が経過したのだろう。皆が心配しているかもしれない。早く家に帰れるように、自分なりに逃亡策を考えなくては。ブラッドが戻る前には、屋敷に帰っていたい。

 ブラッド。

 その名を思い浮かべるだけで、熱いものが瞼の奥からこみ上げてくる。溢れそうになるものをソフィアは必死に堪え、冷静に頭を働かせようとした。深呼吸を繰り返し、周囲を観察することにする。何か逃げ出すきっかけを発見できるかもしれない。
 室内は古く、あまり人が使っていないようで、床の上にもぞっとするほど埃が積もっている。ソフィアを床に転がした犯人は、彼女を横たえる前に床を掃除するほど気が利いてはいないようで、軽く身じろぎすると、自分の肌が触れたところだけ、埃が薄くなっているのがわかる。こんな状況だが、努めて明るい発想をしようと、ソフィアは苦笑を浮かべた。牧師館訪問に相応しく、身支度を綺麗に整えて外出したのだが、きっと全身が埃にまみれて、汚れているに違いない。頭からはボンネットが外され、頬や額にほつれた毛がかかっている。

 ドレスが乱れた形跡はないから、暴行は受けていないようだった。牧師館に外出する前に朝食を終えたが、今は胃の中が空っぽになっているようだ。一体どれほど時間が経過したのか、部屋に唯一もうけられた窓から差し込む光は、薄明るい。明け方か夕方なのか、それとも昼間で天気が悪いのか。床に届く明かりの色合いから、何とか時間を判別しようとしたが、夕方ではないようだった。それよりも白みがかった、薄い色合いをしている。窓の外は、ソフィアの倒れている位置からははっきり見えないが、灰色のカーテンがかかっているような色をしていた。

 そうすると、拉致されて一晩過ぎたのだろうか。空腹具合も、拉致されたすぐの午後というよりは、飲まず食わずで一晩経過した後と考えるのがぴったりだ。どちらにしても、ソフィアの姿が見えないことに、ドーソンと御者が気づき、屋敷には知らせているだろう。あの時手にしていた荷物もここにはないから、道に落としてきたままかもしれない。今頃屋敷は大騒ぎになっているはずだ。グレースやウィニー、ウィルたちがどれだけ心配しているだろうか。ぎゅっと唇を噛みしめて、ソフィアは挫けそうになる気持ちを必死に奮い立たせた。大丈夫、屋敷にはミスター・ヒューイットやウィルがいる。隣家にはウェルズ大佐もハガード大尉もいる。きっと皆が、対策を練って、捜索をしてくれている。

 ソフィアは無理やり意識を目の前の光景に戻し、再び自分の置かれている状況を考察し始めた。何もわからないという恐怖感が、自分なりの考察で答えを見つけていくことで、薄れていくのがわかる。
 埃の積もり具合からして、頻繁に人が出入りしていない部屋だろうと想像はついたが、鼻を刺激するのは、黴や木の湿った臭いだ。それに、農作業の道具だろうか、縄や草の臭いが混じっている。
 部屋には戸口がひとつだけあり、ちょうどソフィアの正面だった。つまり、入り口から一番遠い場所に、転がされているのだ。不自由な身体をどうにか動かして、何度かあちこちを床にぶつけながら、ソフィアは辛うじて起き上がり、柱に寄りかかるようにして座り込むことに成功した。ドレスを見下ろすと、予想通り、埃で汚れている。

 それから顔を上げ、立ち上がろうとしたが、足首を固定されていては難しく、諦めた。立ち上がれば窓の外の景色が見えるかもしれないと思ったのだが、それ以外の方法で、この部屋の位置を推測するしかない。
 中に置かれている農具や、人の手が入っていない様子からすると、ここは恐らく、荒れ野に幾つもある、今は使われていない作業小屋のひとつのようだった。牧師館やリンズウッド・パークから遠くまでは、犯人も移動できなかったに違いない。ソフィアを抱えての移動は、嫌でも人目につくし、あの時すぐ近くにはドーソンたちがいた。背負ったり抱えたりして徒歩で丘を移動するなら、あまり遠くには行けまい。

 大丈夫、皆の近くにいるに違いないわ。丹念に捜索すれば、すぐ見つけてもらえる。
 勝手に早くなる鼓動を落ち着かせるように深呼吸をしてから、ソフィアは、姿の見えない犯人について思い巡らせた。やはり皆が警戒していた通り、あのウィッカム卿がヨークシャーまでやって来て、ソフィアを攫ったのだろうか。だが、これまで耳にした彼の評判や、実際に目にした彼の態度からすると、ウィッカム卿という人物は、頭を働かせて行動するというのが、苦手なようだ。土地勘のない場所で、こんな廃屋を使ったり、待ち伏せしたりするのは、彼1人では無理だろう。そうすると、誰か協力者がいるのだろうか。一体誰が。

 次々と沸き起こる疑問に返る答えはない。
 ソフィアはため息をついてから、軽く身じろぎした。床の上に転がっていたせいか、全身が冷え切っている。小刻みに動かしていたせいか、手首の戒めが緩んできた気がする。それと同時に、じくじくとした痛みが手首の辺りに起きているが、それは無視することにした。恐らく縄で擦れて皮膚が剥けたのだろう。逃亡の代償なら、このくらいは仕方がない。
 犯人が戻る前に、両手が自由になれば、両脚の戒めも解くことができるかもしれない。そう思って手を動かしていたソフィアの目論みは、荒々しい足音によって打ち砕かれた。外の地面を踏みしめる音が近づき、戸口のノブがぎいっと音を立てて回る。思わず息を止め、入り口を凝視するソフィアの視界に飛び込んできたのは、大またに室内に踏み込んできた1人の男の姿だった。

 そのあまりの変わりように、ソフィアは目を瞠った。数ヶ月前に見た時よりもやつれ、酔っ払っているのか、顔が真っ赤に染まっている。日焼けした隆々とした身体つきが自慢だったはずなのに、顔色の悪さと相まってどす黒く見える肌には、健康的な艶がなかった。常にきっちりと撫で付けられ、整えられていた金髪は乱れ、隙なく整えられていた身だしなみももはや注意を払われておらず、紳士然とした面影はどこにもない。
 誰が見てもならず者といった様子で、ウィッカム男爵フレデリック・ハーストは、再びソフィアの目の前に現れた。目に宿る肉食獣のような光だけが、あの時と変わらずにソフィアを見つめている。

 声もなく、ただ驚愕に瞠目しているソフィアに向かって、ウィッカムはニヤリと笑った。獲物を前に舌なめずりするような、下卑た笑いだった。

2009/09/19up

時のかけら2009 藤 ともみ

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