第5章 荒れ野の真実[4]

  目の前の男の変わり果てた姿に驚愕し、ソフィアは瞠目したまま動けずにいた。
 ハンプシャーで見かけたウィッカムは、男爵という爵位に相応しくあろうと振る舞っていたが、ここに現れた男は、貴族らしさの欠片も持ち合わせていない。
 色白でひょろりとした貴族の男性を軽蔑し、狩猟で鍛えた筋肉隆々の身体を自慢にしていた彼からは、かつては健康的な輝きが放たれていたが、その面影はすっかり消え失せていた。
 どこか身体の具合でも悪くしているのではと思うほど、肌の色はどす黒く、不健康にくすんでいる。むちむちとついていた肉も削げ、頬がこけ、眼窩が落ち窪んだ中から、ぎらぎらと目だけが異様に光っている。
 よく観察すると、身に着けている衣服も、かつてのように上質なものではなく、くたびれて汚れ、皺だらけだ。洒落者を気取っていたはずが、その名残も見えない。
 ウィッカム男爵は、ブラッドたちほど裕福ではなくても、資産状況が苦しいという話はなかったはずだった。突如凋落したとしか思えない変貌振りに、ソフィアは無意識に首を傾げ、眉間に軽く皺を寄せた。その仕草が、ウィッカムを誤解させ、怒りを招くとは思ってもみなかった。

 それまで戸口に立ち止まり、舐めるようにソフィアを見つめていたウィッカムが、突如赤らんでいた顔をますます真っ赤に染め、吼えるように声を出した。
「俺の変わりようを、哀れんでいるのか!?」

 怒声に驚いたソフィアの肩がびくりと震え、後ずさるようにして背中を柱へぴたりと押し付ける。何かこの男の神経に触れたのかはわからなかったが、彼の怒りを招くのは得策ではない。仕返しに何をされるかわかったものではないからだ。手首の戒めは緩くなったものの、まだ解けない。緊張に乾いた唇を舌で舐めると、男の目つきに暗い炎が加わった。じっと口元を注意されているのを意識しながら、ソフィアは宥めるように優しい声を絞り出した。
「何を仰っているのか、わかりませんわ、ウィッカム男爵。わたくしは何も・・・・・・」
「はっ、男爵か。称号に見合わぬ有様だと、思っているのだろう?無理もない、誰もがそう思うはずだ」
 忌々しそうに吐き捨てると、ウィッカムは乱暴に、乱れた金髪をかき上げた。彼の苛立ちがこちらにまで伝わってくる。一体何があったのと尋ねたい衝動をこらえ、ソフィアがじっと見つめていると、ウィッカムは疲れたようにがくりとうなだれ、低く悪態をついた。
「こんなはずじゃなかった。全てはあいつが手を回したんだ」
 真っ赤だった顔が、今度は真っ白に変わっている。うわ言のようにぶつぶつと呟いている言葉を聞き取っても、意味までは理解できない。

「ウィッカム卿?」
 恐る恐る呼びかけたが、ソフィアの声は耳に届いていないようだ。虚ろな目が、部屋の一隅をじっと見つめている。正気じゃない。そう悟った途端、例えようのない恐怖が、ソフィアを襲った。顔が赤いのは酒でも飲んで酔っているからだとばかり思っていたが、正気を失っているならば、酔っ払いよりも状況は悪い。

 ウィッカムは、ぶつぶつと1人で呟き続けている。
「終わりだ、もう俺は終わりだ・・・・・・」
「何を気弱になっているの。そんなことでは、花嫁に愛想を尽かされてしまいますわよ」

 不意に戸口から投げ入れられた声は、鞭打つようで、ウィッカムがびくりと飛び上がった。紙のように白かった顔色が、再び赤く変わる。怯えたように、彼が戸口を振り返った。
「ミス・テイラー・・・・・・」
 いつの間にか敷居のところに佇んでいるのは、長身の美女だった。ソフィアも見覚えのある、華やかな顔立ちには、今も自信たっぷりに微笑みが浮かんでいる。埃だらけの廃屋に、彼女は酷く場違いだった。彼女の出で立ちは、これからピクニックにでも出かけるかのように、一分の隙もなかった。豊かな身体のラインがはっきりとわかる、肌に張りつくようなドレスを纏い、左手には扇子を持って、口元を押さえている。
「情けないわよ、ウィッカム男爵。しっかりと、男らしいところを見せて差し上げなさい」
 まるで従僕を叱り飛ばすように、キャサリン・テイラーは容赦のない言葉の鞭を振るった。男性に媚びるような、鼻にかかったアルトの声を聞いても、ウィッカムは魅力的には感じないらしい。むしろ怯えたように、身体を竦めて頷いた。

 ゴールド・マナーで別れて以来、すっかり忘れ去っていた人物の突然の登場に、ソフィアは眉を顰めて、目の前で繰り広げられる遣り取りを見守るしかなかった。なぜここにミス・テイラーが現れるのか、見当がつかない。それも、ウィッカム卿に対して強い立場に出るなんて。彼らの関係はどういうものなのだろう。頭の中を疑問符でいっぱいにしていると、キャサリンは数歩、室内へと足を進め、真正面で戒められているソフィアに、艶然と微笑んだ。
「お久しぶりですわね、レディ・リンズウッド。お元気そうで何よりですわ」
 まるでロンドンのボンド・ストリートで、買い物の途中に行きあったかのような口振りだった。ソフィアの格好が尋常ではなく、手足の自由を奪われているのを目にしても、彼女は何も感じないらしい。こちらを見据える猫のような琥珀の瞳には、何の動揺も浮かばない。泰然と構えているキャサリンに、不意にソフィアは激しい怒りを覚えた。

「これをご覧になっても、元気そうに見えるのでしたら、目のお医者様にかかるべきですわ」
 素気無く言い返すと、ウィッカムが青ざめ、キャサリンは愉快そうに声を立てて笑った。そこで初めて、琥珀の瞳に、獲物をいたぶるような残酷な光が浮かぶ。
「あら、花嫁は随分と気性がしっかりした方なのね」
 肉感的な唇が笑みを刻むが、その双眸はちっとも笑っていない。それに気づいて、ソフィアの背中に悪寒が走った。

「それぐらいでなければ、楽しめませんわ。ねえ、ウィッカム男爵」
 名前を呼ばれて、ウィッカムが怯えたようにキャサリンを見る。ぱちりと音を立てて扇子を閉じると、彼女は優雅な仕草で、扇子でソフィアを示した。立ち居振る舞いを見ていると、上流階級の令嬢そのものだが、彼女の本性は眼差しに表れている通りのものなのだと、ソフィアは唐突に理解した。
「レディ・リンズウッドの足を、自由にして差し上げて。このままではあなただってやりにくいはずですもの」
 扇子を持っていない手に提げている手提げ袋の中から、彼女は何かを探り出して、ウィッカムの足元へ無造作に放り投げた。カツンと硬い音がする。小ぶりのナイフがきらりと輝き、床を滑って、ウィッカムの靴へぶつかって止まった。
 のろのろとそれを拾うと、ウィッカムがゆらりとソフィアへ近寄り、屈みこむ。
「・・・いやっ!」
 足元へ伸びる手を避けようと、ソフィアは身を捩ったが、無駄な抵抗に過ぎなかった。べたりとした手が乱暴にスカートをまくり、ふくらはぎの辺りまで露わになる。ドロワーズを履いているとはいえ、レディにとっては屈辱でしかない。怒りと恐怖に震えるソフィアの足を絡め取っている縄を、ウィッカムはナイフでぷつりと切断した。
 東屋でのおぞましい記憶を呼び起こされ、警戒心をむき出しに、睨みつけてくるソフィアを一瞥すると、ウィッカムはそれ以上触れてこようとはせず、キャサリンを振り向いた。
「これでいいか?」
「そうね、いい子だわ」

 キャサリンは再び手提げ袋を探り、小さく折りたたんだ包み紙を取り出した。それを見止めたウィッカムの目に、物欲しげな光が浮かぶ。見せつけるように包み紙を指で摘まんで掲げると、キャサリンは歌うように尋ねた。
「ご褒美をあげましょうか?」
 ウィッカムの呼吸が荒くなり、食い入るように包み紙を見つめている。クスクス笑いながら、キャサリンはそれをウィッカムの足元に放り投げた。恥も外聞もかなぐり捨てたように、ウィッカムが床に飛び込むようにして、それを掴み取る。派手な音がしたから、身体をしたたかに打ちつけたはずだが、彼は何にも感じていないようだった。うっとりと包み紙を見つめている。
 魔女の声がした。
「さあ、お飲みなさい」

 がさがさと紙を広げ、出てきた小ぶりの包み紙を指で慎重に摘むと、ウィッカムは床に跪いたまま、紙の端を口元に当てた。そのままさらさらと、何かを口に含んでいく。白い粉末が彼の口元に零れてついていくから、何かの粉を呑んでいるのだということが、ソフィアにも分かった。
 飲み終えたウィッカムは、不意にごほごほと咳き込んで胸を押さえた。はらりと包み紙が床に舞い落ちる。それを楽しそうに見つめていたキャサリンが、ぽつりと感想を漏らした。
「まあ、がっついて。仕様のない子ね」
 それに応えるように頭を上げたウィッカムは、恍惚とした表情を浮かべていた。先ほどまで時折見せていた、生気のない虚ろな様子は、どこにもない。顔も赤らみ、何かに興奮したように、うっとりと虚空を見つめている。

 尋常ではない様子に、ソフィアは知らず、口に出して問いかけていた。
「一体彼に何をしたの・・・?」
 答えなど返ってくるはずもないと思っていたが、キャサリンは事も無げに告げた。今日の天気を聞かれでもしたかのように、あっさりと。
「アヘンよ」
 意味を理解して、ソフィアがぎくりと身体を強張らせると、ますます楽しそうに彼女は笑った。
「この子ったら、すっかりアヘンに夢中なの。アレがなければ、たちまち機嫌が悪くなるのよ。ただでさえお金がないっていうのに、アレを求めて、家財も叩き売り。見る影もないわ」
「あなたが教えたの?」
「そうよ」
 目尻に滲んだ涙を拭い、キャサリンは鷹揚に頷いた。再びぱらりと扇子を広げ、金色の眼差しがソフィアを射るように見据えた。

「悪夢のような現実を忘れたい、何とかしてくれって泣きつくのですもの。試しに与えたら、この有様よ」
「何て酷いことを」
 呻くようにソフィアが呟くと、キャサリンは刃物のような鋭さで切り返した。
「酷いですって?フォード伯爵やレディ・リンズウッド、あなたの方が、よっぽど酷いわよ」
 ぱちりと空気を切り裂くような音を立てて、扇子が閉じられる。はっきりと憎悪の炎を燃え上がらせた瞳で、キャサリンはソフィアを見た。
「わたくしがあなたに、どんな酷いことをしたというの」
 気圧され、震えそうになる声を懸命に叱咤して、ソフィアは平静を装って言葉を返した。ここで怯えを悟られるのは、不本意だった。
「わたくしの未来を閉ざしたのよ」

 先ほどウィッカムに投げつけたような、鞭打つような声音で、キャサリンはきっぱりと言った。
「ウィロビー伯爵にフォード伯爵。わたくしが狙っていた男性を2人とも、あなたが奪っていってしまったのよ。わたくしはあんなに努力したのに、あなたはあっさりと横から手を出して攫っていったのだわ」
 鼻にかかった声に、次第に不機嫌さが加わっていく。
「特にフォード伯爵よ。ロンドンではっきりわたくしに言ったのよ、『残念だがあなたに応えることはできない。私は心に決めた女性がいる』ですって。ここまではっきりと言われるなんて、こんな屈辱はないわ」
 吐き捨てるように言って、キャサリンは苛立ったように腕を擦った。
「全てあなたのせいよ。だから、あなたに思い知ってもらうことにしたの。ちょうどウィッカム男爵も、フォード伯爵のおかげで事業が立ち行かなくなり、困窮していたから、声をかけたのよ。あなた方2人に思い知らせてやりたいって持ちかけたら、すぐに賛成したわ」

 ソフィアは途中から口をあんぐりと開けたまま、呆然とキャサリンの言葉を聞いていた。
 ウィニーが何と言っていたっけ。ミス・テイラーは、意中の男性を射止めるのに、邪魔な相手を容赦なく蹴落とすと言ってなかったか。まさにその通りに行動したというわけだ。ソフィアの思考を読み取ったように、キャサリンが頷いた。
「そう、あなたがわたくしのチャンスを潰したのよ」

 ソフィアのすぐ側では、ウィッカムが陶然としながら、柱に縛り付けられた女性を眺めていた。ソフィアの顔色が失われていくのを見て、心のどこかでまともな自分が、無理はないと呟く声が聞こえてくる。キャサリン・テイラーの思考を理解できる者は、まともな神経ではない。それを、ウィッカムは身を以って知る羽目になったのだ。
 ハンプシャーから逃げ帰って以来、不運続きだった。尽く事業は失敗し、資金繰りをしようと方々に頭を下げて回っても断られ、じりじりと残った少ない財産を食いつぶすしかなかった。八方塞の背後に、フォード伯爵がいると気づいたのは、ずっと後のことだった。キャサリンから知らされたのだ、数々の証拠と共に。
 愕然とし、怒りを覚えても、相手に報復する手段はなかった。相手は女王一家の覚えもめでたい名門の一族であり、貴族の末席に名を連ねるウィッカムでは、到底太刀打ちできない。

 悪夢のような現実を忘れたいと言ったのは、確かにウィッカムだった。そして目の前の魔女は、悪魔の薬を渡した。それ以来、気分の定まらない時の方が多い。フォードとリンズウッドに復讐をすると告げられても、全てをキャサリンに任せきりだった。
 フォードへの憎しみは強いが、レディ・リンズウッドをどうこうすることまでは考えていなかった。だが、キャサリンの命令だ。アヘンに侵されるにつれて、ウィッカムは彼女の言うがままに動く人形へと化していた。アヘンが切れれば、猛烈な渇きと欲求に襲われ、地獄のような時間が続くと知ってからは、クスリを得るために、彼女の命令を忠実に遂行した。

 彼女に命じられるまま、アヘンを服用して娼婦とベッドを共にしたのは最近のことだ。リーズでのことだったか。その時に体験した快楽は、消し去りがたい記憶として、ウィッカムの中に留められている。

 ――あれを、レディ・リンズウッドと試してごらんなさい。

 キャサリンの声が、頭の中に響いたまま、こびりついて離れない。甘ったるいアルトの声が、魔法のようにウィッカムを絡め取る。他に何も考えられなくなる。

 ――きっと彼女も、嬉しがるわよ。ハンプシャーで果たせなかった望みが叶うのよ。

 フォードに邪魔され、果たせなかった望み。淑やかなレディ・リンズウッドの、ドレスの下に隠された秘密を暴く事だ。きっと甘美な味わいだろう。そして、フォードは悔しがるに違いない。

 のそりと身体を起こし、ゆっくりとウィッカムはソフィアに近づいていった。それに気づいたソフィアは、ぎくりと身体を強張らせていっそう後ずさり、背中を柱にぴったりとつけた。一方キャサリンは、嬉しそうな声を上げた。
「ああ、いい子ね。そう、あなたの役割は、花嫁を幸せにすることよ」
 ウィッカムから目を離さないようにしながら、先ほどから何度も繰り返される『花嫁』という単語に、ソフィアは悪い予感を覚えていた。まさか、と思った途端、タイミングを計ったように、キャサリンが愉快そうに告げた。
「そうよ、レディ・リンズウッド。あなたは、ウィッカムの花嫁になるの」
「何を・・・・・・」
 覆いかぶさるように近づいてくるウィッカムに注意を向けながら、ソフィアは歯を食いしばった。今やソフィアの全身が、目の前の男を警戒し、敵意を発している。頬を赤らめ、恍惚とした眼差しで、ウィッカムは痩せてもソフィアを簡単に押さえ込めそうな身体を、じわじわと寄せてきている。
「何を言っているの・・・」

 ウィッカムだけではなく、キャサリン・テイラーも正気ではない。何とか戒めを解こうとソフィアは夢中で手を動かした。ついでに足も動かして、何度かウィッカムの脛を蹴飛ばしたが、大した成果は上がらなかった。頑丈なブーツでも履いていれば、ウィッカムを痛がらせることはできただろうが、華奢な靴はソフィアの足から床に転がり落ちていった。
 急いで両膝を合わせて足を身体に引き寄せたソフィアをあざ笑うように、キャサリンは彼女が立てた計画を教えてくれた。
「そんなことをしても無駄よ、レディ・リンズウッド。あなたは彼の花嫁になるの。あなたの財産を使えば、ウィッカムの財政も楽になるわ。美しい妻を手にする事もでき、一石二鳥よ。あなたを失って傷心のフォード伯爵は、わたくしが慰めて差し上げるから、気にしなくていいわ」

 何という身勝手な妄想だろう。過去の経験から、自分の進む道を他人が勝手に決めることを、何より嫌悪しているソフィアは、今度こそ怒りをむき出しにした。
「ふざけた事を言わないでちょうだい。わたくしは、花嫁になどならないわ!」
「いつまでその強気がもつかしらね」
 極上の出し物を眺めるように、キャサリンがうっとりと言った。
「ここで既成事実を作って、あなた方はグレトナ・グリーンに向かうのよ。馬車はわたくしが用意して、外で待っているわ。あそこなら特別許可も結婚公告も要らないわ。明日にはあなたは、レディ・ウィッカムになっているのよ」
 おかしくてたまらないらしく、キャサリンはけたたましい笑い声を上げた。一方、ソフィアの手先は、冷えていくばかりだ。いよいよウィッカムは、呼吸が顔にかかるほど近くににじり寄り、両膝を床につけた。
「わたくしが、ここで一部始終を見ていて、証人になってあげるわ」
 ウィッカムの後ろから、こちらを見つめている琥珀の眼差しが、ソフィアに突き刺さる。何という屈辱、何と下劣な人間だろうか。こんな人間の思い通りに、自分を弄ばれるのは耐えられない。彼らの毒牙にかかれば、きっと、今まで通りには人前に出れなくなる。ソフィアの尊厳がかかっている。

 ソフィアは猛然と、再び激しい抵抗を始めた。そのうちの一部は成功を収め、近づくウィッカムの腹部に蹴りが入ったが、逆に苛立ったようで、激しく頬を張られた。反動で柱に背中ごとぶつかる。一瞬息が止まるような衝撃があり、ソフィアはずるずると床に崩れ落ちた。もう一度顔を上げ、抵抗しなければ。気持ちと裏腹に、空腹と疲労と打撲の衝撃で力の入らない身体は、思うように動かない。
 視界の端に、床に転がるナイフが映る。ソフィアの足を縛っていた縄を切った後、アヘンに飛びついたウィッカムが落としたものだ。

「終わりよ、レディ・リンズウッド」

 キャサリンの残酷な宣告が響く。ウィッカムの汗ばんだ手がスカートへ伸びる。ぎゅっと目を閉じたソフィアの目尻から、こらえ切れない涙が、筋となって頬を流れ落ちた。絶体絶命の危機に、真っ先に脳裏に浮かぶのは、愛しい男性の面影だ。
 ――助けて、ブラッド!!
 恐怖と嫌悪で震えながら、ソフィアは心の中で、彼の名を叫んだ。このまま自分を失うのは、耐えられなかった。漸く素直に、ブラッドを愛していると認めたばかりなのに。その自分の心を、真っ先に失うなどとは。

 彼の名前が、ソフィアに信じられない力を与えた。夢中で動かした手から、するりと縄が解けていく。近づいてくるウィッカムの顔に向かって、ソフィアは両手を振り回した。左手が何かを掴み、それが先ほどのナイフだと認識するより早く、ソフィアは振り上げた。確かな手ごたえの後、男の悲鳴が小屋に響き渡る。本能で危険を察し、柱にしがみつくように身体を起こすと、目の前の床にぼたぼたと赤いものが垂れるのが見えた。
 震えながら顔を上げると、ウィッカムの右頬に、ざくりと傷が入っている。
「この女・・・・・・!」
 憎憎しげに舌打ちして、ウィッカムが右手で傷を押さえ、ソフィアを睨みつけた。身体が竦んだが、左手に握り締めたままのナイフを構えると、男は悪態をついて、それ以上接近するのを諦めたようだった。

 あちこち打ち付けた全身は、激しい痛みを訴えている。しかしそれに耳を傾けている余裕はなく、ソフィアは身体が上げる悲鳴を無視した。再びウィッカムが襲ってくるなら、全力で阻止しなければならない。左手に握ったナイフだけが、唯一の拠り所だ。

「少々お転婆が過ぎるわね、レディ・リンズウッド」
 かちりと撃鉄が起こされる音がする。相変わらず唇には笑みを浮かべているものの、はっきりとした苛立ちを露わにしたキャサリンが、拳銃を構えて立っていた。拳銃の先は、ぴたりとソフィアに向けられている。琥珀色の眼差しは、ちっとも笑っていない。
「そんな傷、たいした事はないわ。これを特別に上げるから、お呑みなさい。痛みが薄れて、楽しい気分になるわよ」
 空いた手で、先ほどと同じような包み紙を放り投げ、ウィッカムがそれに飛びついた。夢中でアヘンを貪る男を余所に、2人の女性は向かい合ったまま、じっと対峙している。
「そのナイフを捨てなさい」
 銃を盾に命じられては、逆らえない。キャサリンは本気だ。いつ撃ってもおかしくない。渋々ソフィアは、部屋の隅へ向かってナイフを放り投げた。ひとつ頷くと、キャサリンは再び恍惚とした表情を浮かべているウィッカムに命じた。
「さあ、お前の役目を果たすのよ」
 ウィッカムがソフィアに近寄り、手を伸ばしても、キャサリンは銃を構えたままだった。このまま事が終わるまで、銃を持って警戒しているつもりのようだ。ウィッカムの顔が近づくと、鉄のような匂いが鼻をついた。彼の顔から流れている血の匂いだ。本人は流血していることを忘れたように、舌なめずりをしながらソフィアを見つめている。

 後ずさったが、すぐに柱に阻まれたソフィアは、いよいよ絶体絶命だった。もう1度、ブラッドの名を心の中で叫んだけれど、都合よく現れるはずもない。彼はリーズにいるのだから。挫けそうになる心を必死に支えて、ソフィアは近づいてくる獣を、渾身の力で睨みつけた。それが、彼女に許された精一杯の抵抗だった。

2009/09/21up

時のかけら2009 藤 ともみ

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