第6章 霧の彼方[1]

   先ほどまですっきりと晴れていた空は、目的地に近づくにつれて、灰色の分厚い雲に覆われてしまい、太陽はどこかへ隠れてしまった。どんよりと濁った色合いの上空を、馬車の窓から見上げると、ちょうどぽつぽつと雨粒が落ちてきたところだった。やがて音を立てて、雨が降り始めた。
 暗く、雨の帳に沈む荒れ野は、光に見放されたかのように生気を失い、荒涼としている。
 馬車が到着した時、リンズウッド・パークは、騒然としていた。荒れ野に抱かれてひっそりと佇む、いつもの面影はない。女主人の失踪に慌て、平静さを失っている。

 馬車から降りるなり、ブラッドはそれを敏感に感じ取った。後ろから続いて降りてきたソレルズも同様に感じたらしく、鋭い眼差しをあちこちに向けている。
 彼らが玄関ポーチを上りきったところで、家令のジョーンズが駆けつけてきた。忠実な家令は、突然年を取ったように、げっそりとやつれて見えた。彼ばかりではない。馬車の世話を引き受けた厩舎係も、玄関ホールに控えているメイドたちも、誰もが怯え、不安を露わにしている。
「お戻りをお待ちしておりました」
 深々と頭を下げるジョーンズに、ブラッドは濡れて額に張り付く髪を振り払い、簡単にソレルズを紹介した。ボウ・ストリートの捕り手と聞いて、ジョーンズの疲れ切った顔に、微かな期待が浮かぶ。

「ウィロビーたちは?」
「書斎に集まっておられます。ご案内いたします」
 ジョーンズに従って、玄関ホールを足早に通り抜けようとしたブラッドは、2階に続く階段の上に、ピンク色の布が揺れるのを見て、足を止めた。見上げると、手すりの陰に隠れるようにして、幼い少女がこちらを見下ろしている。今はここにいない愛しい人と同じ色の瞳が、不安げに揺れている。
「閣下?」
 訝しそうに尋ねるソレルズをその場に残して、ブラッドは階段へと足をかけた。するとそれに応えるようにして、少女も階段を駆け下りてくる。小さな身体が、大きく広げられた逞しい腕の中に飛び込んでくると、しっかりと受け止めて、ブラッドは安心させるように囁いた。

「ただいま、グレース」
「伯爵、母さまが・・・・・・」
 顔を上げたグレースは、言葉をそれ以上続けることができずに、くしゃりと顔を歪めた。ふわりと揺れる黒い巻き毛を撫で、ブラッドは頷いた。少しでも自分の言葉が慰めになればいい、と願いながら、優しく言い聞かせる。
「知っている。私は彼女を助けるために戻ってきたんだ。必ず助けるから、いい子で待っているんだよ?」
 はい、と蚊のなくような声で答えると、グレースは再びブラッドの胸に顔を埋めた。かわいそうに、どんなに不安だったろう。小さな肩が小刻みに震えている。
「おかわいそうに、昨夜はずっと泣いておられました」
 ブラッドの側に控えたジョーンズが、沈痛な面持ちで顔を伏せた。無理もない、いくら聞きわけがいいとはいえ、グレースはまだ幼い。母親を不意に失えば、動揺するに決まっている。この場で父親だと打ち明けたい衝動に駆られたが、何とかそれを振り切って、ブラッドは細い身体を抱きしめた。
 暫くブラッドが背中を撫でていると、幼い少女は落ち着きを取り戻した。メイドに呼ばれ、駆けつけてきた乳母と家政婦がグレースを引き取り、子供部屋に連れて行くことになった。まだ不安そうに振り返りながら、階段を上っていくグレースを、ブラッドは玄関ホールから見守った。去り際に彼女がぽつりと零した言葉が、彼の胸を鋭く刺していた。

 ――もっと早く戻ってきてくれれば良かったのに。

 両手をぐっと握り締め、立ち尽くすブラッドを、ソレルズが促した。
「行きましょう。彼女のためにも、早くレディ・リンズウッドを取り戻さなくては」
 その通りだ。
 ブラッドは足早に、書斎へと向かった。  書斎で待ち受けていた親友たちは、どちらも厳しい表情で、ブラッドを出迎えた。握手を交わし、ソレルズを紹介する。捕り手と聞いて、ジョーンズ同様、彼らの肩からも若干力が抜けたのが見て取れた。
 書斎には他に、デイヴィーとウェルズ大佐、ハガード大尉も集まっており、ブラッドと握手を交わし、ソレルズとも挨拶を交わした。メイドが持ってきたタオルで雨の跡を拭ったところで、一同が応接テーブルを囲んで腰を下ろすと、ジョーンズが老僕と御者の2人を連れて現れた。ソフィアが姿を消す直前まで一緒にいたのが、彼ら2人だった。女主人の失踪について、2人とも責任を感じているようで、憔悴振りが痛々しい。
 ブラッドが事情聴取役をソレルズに譲ると、彼は2人の緊張をほぐすことから始めた。年齢や仕事のこと、ソフィアが失踪した日の天気など、構えずに答えやすい質問から、穏やかな声で彼らに話しかけていく。ケネス・ソレルズは人を寄せ付けない雰囲気を持っているが、その気になれば親しみやすい雰囲気を簡単に身に纏えるのだと、簡単に証明してみせた。最初は、身分の高い人々の集う部屋に呼び出され、ボウ・ストリートの捕り手を前にしたとあって、言葉少なだったドーソンたちも、次第に口がほぐれ、細かなことまで答えるようになった。
 さすが、リーガン卿が期待するだけのことはある。ブラッドはウィル、そしてケヴィンと目配せを交わして、ソレルズの巧みな話術・変貌振りに、舌を巻いた。

 一通りの事情聴取が終わる頃には、部屋に居る誰もが、ソフィアが失踪した当日の朝の様子を、ありありと脳裏に思い描くことができるまでになっていた。必要なことを全て聞き出したソレルズが、尋ねるようにブラッドを見たが、これ以上質問することは残っていなかった。ブラッドが頷くと、ソレルズは事情聴取が終わったことを告げ、立ち上がって、ドーソンたちに握手を求めた。礼を述べると共に、必ずレディ・リンズウッドを見つけ出すよと、頼もしく断言しながら。戸惑いながらも手を差し出して、どこかすっきりしたような表情で、2人は部屋を出て行った。
 きっと屋敷内の誰もが、ソフィアを必ず見つけると、誰かに言い切って欲しいのだ。

「見事だったな、ソレルズ」
 素直に賞賛の言葉を口にすると、参考人が立ち去るなり、たちまち寡黙で近寄りがたい青年に戻ったソレルズは、肩を竦めた。彼にとっては造作もないことらしい。荷物の中から持ち出してきた書類を、テーブルの上に広げる。ボウ・ストリートで集めた情報や人相書きの写しだった。
「さて、これでレディ・リンズウッドが失踪した状況は掴めましたが、他に有益な情報をお持ちの方はいますか?」
「では、私が」
 ソレルズが一同を見回すと、ブラッドが手を挙げ、「君はもう承知のことだが」と一言言い添えてから、後を引き取った。
「ソレルズがもたらした最新の情報と、私がリーズで得た確信とを、お話しよう」

 ダドリーの証言を裏づけて得られたのは、グレース誘拐を主導したのは確かにウィッカム男爵だったということ。そして彼の背後にいるのは、アメリカ人の資産家令嬢ミス・キャサリン・テイラーであること。その2人が、間違いなくヨークシャーに潜んでいるとブラッドが告げると、男たちは一様にどよめき、動揺を露わにした。
「ならば君は、今回のレディ・ソフィアの事件も、彼らが絡んでいるのだと言うのだな?」
 念押しするようにウィルが尋ね、ブラッドは首肯した。ウィルの隣で、ケヴィンが険しい表情を見せている。キャサリンと同じアメリカ人である彼は、この場の誰よりもキャサリンのことを知っている。
「ヒューイット」
 ブラッドが呼びかけると、ケヴィンは表情を緩めることなく見返した。
「ミス・テイラーが絡んでいることに、驚かないのだな?」
「残念だが、皆が考えているような、裕福な資産家の娘のイメージには程遠い。従順で淑やかな女ではないからな。むしろ逆だ」
 苦々しげにケヴィンは零した。

「彼女は狡猾で残忍、自分勝手な性格だ。金持ちの娘によくある我侭とは種類が違う。彼女の場合は、他愛無い我侭さなんてものじゃない。キャサリン・テイラーは、目的のためなら、手段を選ばない。今の彼女の目的は、英国で確固たる身分と尊敬を勝ち取ることだろう。その最大の障害になったのがレディ・ソフィアだ。理由は、君たち自身がよく知っているだろう?」
 皮肉気にブラッドとウィルを見遣ってから、ケヴィンは続けた。
「テイラー家の資産が増えたのは、彼女の才覚によるところも大きい。彼女の父親よりも、ミス・テイラー名義の資産の方が多いぐらいだ。頭脳戦は、彼女が最も得意とするところだろう」
 ため息をついてから、ケヴィンはソレルズに向かって告げた。
「ボウ・ストリートの読み通り、彼女の付き添い役を勤めている女性は、テイラー家に雇われる以前の経歴がはっきりしない。ニューヨークにいた頃、多少調べたことがあるのだが、巧妙に隠されていて、たいしたことは掴めなかった。リーガン卿の使者も、きっと成果は上げられないだろう。私にわかっているのは、裏世界にも相当通じているということだけだ。あの付き添い役は、大概ミス・テイラーにぴたりと従っている」
「ミス・テイラーの闇の部分を、請け負っているというわけか?」
 ウィルの言葉に、ケヴィンは頷いた。
「表沙汰にならないことも、彼女は全て把握している。あの付き添い役と一人娘には、ミスター・テイラーも頭が上がらないらしい」

 だから好き勝手し放題の娘が出来上がったわけだ、と、ため息混じりにケヴィンは締めくくった。自分以上に資産を持っている娘を、父親といえど無下に扱うことはできまい。テイラー家を牛耳っているのは、あの赤毛の女性なのだ。

 この場の誰もが考えたことを、口にしたのはソレルズだった。
「つまり、事態は楽観視できず、一分一秒たりとも無駄にできないということですね?」
「ああ」
 ケヴィンが短く肯定すると、書斎には重たい沈黙が落ちた。誰もが目を背けたい最悪の事態が、俄かに現実味を帯びる。
 想像に押しつぶされる前に、沈黙を破ったのは、老いた大佐だった。
「その娘の居場所なら、簡単に特定できそうだ」

 皆の注目を浴びて、しわがれた声でウェルズ大佐は先を続けた。ソレルズがテーブルに置いた書類の1枚を手に取り、皺になりそうなほど強く掴んでいる。亡き親友が大切にしていた妻の身に起きた災難が、人間の悪意によるものだと知って、彼の目には激しい怒りが燃え上がっていた。
「昨日の朝、教会の前で見かけた馬車に、その娘と思しき女が乗っているのを見かけた。この人相書きにぴったり該当するよ。珍しい目の色だったからな、はっきり覚えている。その馬車は街道の方へ逸れていったが、その先にある宿屋はひとつきりだ」
 ウィルやケヴィンたちが最初に宿泊を予約していた宿だ。書斎の空気が、急速に緊張を帯びる。
「主人がしらばっくれようと、絶対に突き止めてやるさ」
 老いた目に、危険な光が宿る。
「では、宿屋を当たるのは大佐にお願いしましょう」
 ソレルズに続いて、ブラッドも「お任せします」と言い添えた。大佐は任せろと言わんばかりに、フンと威勢よく鼻を鳴らした。意気盛んな大佐と対照的に、その横に座るハガード大尉が、控えめに片手を挙げた。ソレルズが促すと、彼は意外な情報を口にした。

「昨日の夕方、ミス・ウェルズについて村の雑貨屋に行ったのですが、帰りに村はずれで見かけない男を目撃しました。髪の色と目の色は、ウィッカム男爵と同じなのですが、人相が違ったので、人違いかもしれません・・・・・・が、村の人間ではなかったので、念のため報告しておきます」
 大尉もアンも、ハンプシャーでウィッカム本人に会っている。一目見れば本人かどうかわかるはずだが、随分曖昧な表現だ。ウィルと顔を見合わせてから、ブラッドは尋ねた。
「人相が違うというのは?君はウィッカムを見れば、すぐにわかるだろう?」
「それが、背格好や髪の色と目の色は男爵と共通するのですが、随分と痩せこけていたのです。身なりも汚れ、乱れていましたし、目も虚ろで、私が逢ったことのある男爵とは印象が異なりました」
 一緒に居合わせたアンにも意見を求めたが、彼女も首を傾げたそうだ。ウィッカムを知る人間が2人とも、本人だと断言できない。だが明らかに、よそ者だったという。

「もっとはっきりせんか」
 苛立ったウェルズ大佐が、年若い大尉を叱咤した。申し訳なさそうにハガード大尉は首を竦めたが、不意にウィルが鋭く息を吸い込んだ。何かに思い至ったらしく、顔がサッと青ざめる。
「ウィッカム本人かもしれない」
 ウィルが漏らした言葉に、皆がごくりと唾を飲み込んだ。ソレルズが鋭い視線を向け、先を促す。
「それはどういうことですか、ウィロビー伯爵」
「ロンドンを出る前、彼は経済的に随分と追い詰められていたはずだ。やつれていても不思議はない。ボウ・ストリートの追手は、最近の彼の様子について知らせていませんでしたか」

 数秒考え込んだ後、ソレルズはテーブルに広げた書類を手早くより分けて、数枚を取り出すと、素早く視線を走らせた。次に顔を上げた時、彼の表情は、ウィルの指摘が正しかったことを物語っていた。
「確かにやつれて、身なりにも気を遣わなくなっていると報告されています。もうひとつ気になる考察もありますが・・・・・・」
「何だ?遠慮なく言ってくれ」
 彼らしくなく言いよどむソレルズを、ケヴィンがぶっきらぼうに催促する。
「男爵の様子は、尋常ではないようです。アヘン中毒者特有の症状とそっくりな言動が見られると――」
「何てことだ」

 ウィルが呻き声を上げ、片手で顔を覆ってがっくりとうなだれた。ブラッドが尋ねるように目を合わせると、ケヴィンは首をゆっくりと横に振った。
「ミス・テイラーは、簡単にアヘンを入手できる可能性が高い。裏世界に伝手があれば、容易いことだろう」
 書斎に重苦しい間が落ちた。狂女のようなキャサリン・テイラーに、アヘン中毒のウィッカム。ソフィアは最悪の状況下に捕らわれているというわけだ。

 募る不安を振り払うように、勢いよくブラッドが立ち上がった。
「ジョーンズ、捜索隊をもう1度集めてくれないか」
「ただちに」
 扉付近で待機していた家令が、素早く廊下へ出ていった。テーブルの上の書類を形ばかり整えると、ソレルズも立ち上がった。修羅場に慣れた男らしく、落ち着いた声で元軍人と現役軍人に指示を出す。
「ウェルズ大佐、ハガード大尉と一緒にめぼしい宿屋を当たって下さい。連絡は逐一こちらの屋敷へ入れて下さい。必ず2人一緒に行動して、拳銃の携帯を忘れないように」
「承知した」
 年齢を感じさせない機敏な動きで、ウェルズ大佐が直ちに行動を起こす。ハガード大尉を従えて、廊下へと消えていくのを見送って、ケヴィンが誰にともなく呟いた。
「我々全員が、拳銃を持つ必要があるな」
「ジャック、いるか」
 ブラッドの呼びかけに応えて、廊下に控えていた従僕が顔を出した。ありったけの拳銃や猟銃を用意するよう命じると、ブラッドは顔色を失っているデイヴィーを振り返った。

「レディ・ソフィアは、この付近で監禁されている。この辺りで人が一晩隠れていても、目につかないような場所はあるか?」
「なぜ伯母が近くにいるとわかるのですか?」
 震える声で問い質したデイヴィーに冷静に答えたのは、ソレルズだった。こうした場面では、被害者と何ら関係のない第3者の意見の方が、受け容れてもらいやすいことを、彼は経験上よく知っていた。
「大佐がミス・テイラーを見かけたのが昨日の朝、ハガード大尉たちがウィッカム男爵らしい人物を見かけたのが、昨日の夕方です。教会と牧師館は目と鼻の先だ。ミス・テイラーの馬車から降りた男爵が、レディ・リンズウッドを攫ったと考えられます。そのまま遠くまで逃げるなら、すぐにここを立ち去るでしょう。だが、男爵は夕方目撃されている。レディ・リンズウッドを監禁している場所から出てきたところを目撃されたと考えていいでしょう。ご婦人を抱えての逃亡は人目につきやすいから、断念したのでしょう。きっと近くにいますよ、レディ・リンズウッドひとりを残して行くとは思えませんからね」

 デイヴィーは、懸命にこの辺りの地図を思い浮かべているようだった。やがて、机から紙とペンを取ってくると、大まかな地図と目印を描き出した。
「この辺りの荒れ野には、現在は使われていない作業小屋が幾つかあります。落雷で燃えたり、古くなって破棄されたりと色々ですが、村人の目にもつかずに人を隠すなら、そこが最適でしょう」
 地図上に描いたリンズウッド・パークと、牧師館、村の中心部の間に、点々と印がついている。
「以前グレースが連れ去られた空き家は、この辺りですが」
 デイヴィーが、何も描かれていない一隅を指し示した。
「ここは村はずれすぎて、遠い。伯母が監禁されているなら、この辺りでしょう。牧師館からも近いところに、古い作業小屋がありますからね」

 ペンが示した辺りには、印が3つついている。
「これを順番に当たっていくのが早そうですね」
 ソレルズが地図を覗き込み、ブラッドは頷いた。ケヴィンが厳しい表情を浮かべる。
「ミス・テイラーが銃を持っているとしたら、下手に捜索隊を近づけない方がいいな」
「小屋の周囲に待機してもらおう。中への突入は、我々がやる」
 ブラッドがきっぱりと言い切ると、ウィルとケヴィンは顔を見合わせて頷いた。為すべきことがはっきりとした以上、余計な迷いはない。2人が立ち上がると、慌ててデイヴィーも後を追おうとしたが、ブラッドがそれを止めた。
「伯爵には、屋敷で待機していてもらいたい」
「ですが・・・」
「グレースを独りきりにできるのか?身内がついていてやるべきだと思うが」
 静かにブラッドに問われ、デイヴィーはぐっと言葉に詰まった。慰めるように肩を叩き、ブラッドは屋敷でできる手配を頼んだ。屋敷内の出入り口には念のため屈強な従僕を配置すること、医者を呼んでおくこと、ロンドンとリーズの判事のもとへ遣いを走らせること。渋々頷くデイヴィーに、ソレルズが声をかけた。
「ここで待つのも、大切な役目です。あなたにしか任せられませんよ」

 男たちが廊下へ出ると、捜索隊を呼び集めたとジョーンズが報せに来たところだった。部屋へ戻り、各自が服装を改めてから――乗馬服に、拳銃を携えて――再び玄関ホールへ集まる。外に居並ぶ村の男たちに事情を説明し、ジャックの先導で徒歩の彼らを先行して最初の作業小屋付近まで向かわせてから、ブラッドたちは用意された馬に跨って追いかける手はずになっていた。

 屋敷に着いた時には降っていた雨は上がり、代わりに周囲には薄い霧が立ち込め始めていた。荒れ野の方を見晴るかそうとしても、白いヴェールが視界を阻む。「厄介な霧だな」と、ソレルズが呟き、舌打ちするのが聞こえた。
 群集の姿が消え、銃弾が全て込められているのを確認してから、ブラッドは鐙に足をかけようとした。その時、背後から甲高い女性の声で名前を呼ばれた。
「フォード伯爵!」

 振り返ると、玄関ポーチを危なっかしい足取りで駆け下りてくる女性の姿があった。艶やかなマホガニー色の髪がなびき、大きな瞳が真っ直ぐにブラッドを捉えている。華奢な靴を気にせず、彼女はぬかるんだ地面をこちらへ走ってくる。
「ウィニー!」
 悪態をついて、ケヴィンが妻に駆け寄った。押し留めようとする夫と、振り切ろうとする妻との間で、激しい遣り取りが交わされる。手綱から手を離し、ブラッドは夫妻の元へ歩いていった。
「ミセス・ヒューイット」
 呼びかけると、ウィニーがじっと見上げてくる。1歩、ふらりとブラッドに近づくと、強い輝きを失わない瞳に涙を浮かべて、彼女は小さな声を出した。
「伯爵、お願いです。お願いですから、ソフィアを・・・・・・」

 途中で言葉が詰まり、ぐっと嗚咽をこらえる肩が震える。いつもの強気な様子はどこかへ消え失せ、ウィニーはすっかり意気消沈していた。ケヴィンが背後から抱え込むように、妻の肩を抱いた。
「ソフィアを助けて・・・・・・!」
 頬に伝い落ちる涙を拭う事もせず、ウィニーはブラッドを見上げ、辛うじてそれだけを口にすると、こらえきれずに口元を手で覆った。沈痛な面持ちで妻を抱き抱えるケヴィンと目が合う。ブラッドは、努めて明るく言った。
「ミセス・ヒューイット、ご心配は要りません」
 涙に濡れた顔で、縋るように見つめてくるウィニーに、ブラッドは嘘のない眼差しで、言葉で、約束した。
「ソフィアは必ず無事に連れ帰ります」
 大きく頭を下げたウィニーが、くぐもった声で「お願いします」と呟くのが、踵を返したブラッドの背中に届く。泣き崩れる妻をメイドに預け、ブラッドの後を追ったケヴィン共々、2人はたちまち騎乗の人となった。既に準備万端のウィル、ソレルズと頷きあってから、ブラッドは短く告げた。

「行こう」

 駆け出しながら、ブラッドの頭には、もはやデイヴィーの悔しそうな顔も、ウィニーの憔悴した顔も、残っていなかった。思い浮かべるのはただ1人、ソフィアの花のような笑顔だけ。ブラッドからソフィアを隠すように、真っ白な霧が目前に広がっている。ぎりりと奥歯を噛みしめて、ブラッドは霧を裂くように一心に駆けた。一刻も早くこの手に彼女を取り戻さねばならなかった。

2009/09/23up

時のかけら2009 藤 ともみ

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