第6章 霧の彼方[3]

   怒りもある程度を超えると、頭に血が上るというより、反対に妙に冷静になる。全身の神経が敏感になり、集中力が研ぎ澄まされて、身体の内側にかつてないような力がみなぎるのがわかる。今なら、何でもできそうな気がする。

 このような感覚は初めてだった。

 デイヴィーが描いた地図を頼りに、リンズウッド・パークに近いところから作業小屋を当たったが、最初の1軒も、次の1軒も、空振りに終わった。どの小屋も、荒れ野の風雨を避けるようにして、丘の影にひっそりと隠れるように建てられている。その上、暴風雨避けのため、周囲には緑が茂っていることが多いから、遠目では、誰かが使っているかどうかは判断がつかない。慎重に小屋を取り囲み、中の様子を探り、突入するという作業は、細心の注意力を要求したが、ブラッドは疲れを微塵も感じなかった。
 グレースを捜索した時と違って、捕縛のプロが同行しているため、作業はやり易かった。ソレルズの指示に従って配置につき、彼の合図で飛び込む。1軒目よりも2軒目の方が、皆の動きも慣れ、手際よくなってきていた。ソレルズの動きや指示は的確で、安心して動ける。

 屋敷を出る頃には残っていた霧も、かなり薄くなり、視界はだいぶ開けてきた。今ではところどころ、雲の切れ端のように、残っているだけだ。
 残る最後の1軒が、視界に飛び込んでくる。こちらも他の例に漏れず、黒々とした木々が周りを取り囲み、中の様子は窺えない。ある程度の距離に近づいたら、馬を降り、従僕に預けて、遠巻きに捜索隊が小屋を取り囲む。ソレルズを先頭にブラッドたちが小屋へ近づくというのが手順だが、馬を下りて数歩進んだところで、前を行くソレルズの背中が俄かに緊張した。
「あれを」
 低く促され、彼の手が示す方を見遣ると、御者のいない馬車が、小屋の戸口のすぐ側に、ぽつんと置かれている。ウィルの声が、興奮を孕んだ。
「あそこだな」
「いつでも銃を撃てるように、撃鉄は起こしておいて下さい。正面の戸口には私とフォード伯爵、脇の窓には、ウィロビー伯爵とミスター・ヒューイットで張り付いて下さい。絶対に油断しないように」
 ソレルズの言葉に、男たちの間の空気も張り詰める。足音を立てないよう、忍び足で4人が配置につくと、馬車に繋がれた馬が、寂しげに小さく鼻を鳴らした。ぬかるんだ地面には、真新しい轍の跡がくっきりと残っている。それは、街道の方へ向かって一直線に続いていた。
「黒幕は、逃げたかもしれませんね」
 ごく小さな呟きが捕り手の唇から零れたのを、ブラッドは聞き逃さなかった。キャサリンを追うのは後でもいい。まずはソフィアを保護するのが先だ。彼は意識を目の前の小屋に集中した。

 手馴れた様子で、ソレルズが静かにノブに手をかけ、細く扉を開ける。古くて錆びた蝶番だが、僅かにきしみもせず、扉は素直に開いた。両側から扉に張り付いて、隙間を覗き込んだブラッドたちの目に、中の様子が映る。
 一方の隅には、農具が散らばっているのが見えた。もう一方の隅に向かって、ゆらりと歩く男の背中がある。聞こえてくる声は、ブラッドの耳にも馴染みのある人物のものだった。何やら喚きながら、男は危なっかしい足取りで、積み上げられた農具へと近づいていく。その右手に握り締めているのは、拳銃だ。

 小屋の中には、キャサリン・テイラーの姿も、ソフィアの姿も見えなかった。赤毛の女はやはり、轍の跡を残して逃げ出したのかもしれない。だがソフィアは。ウィッカムが向かっている辺りに、隠れていると考えるのが妥当だった。
 正面の柱の辺りには、切断された縄が幾つか散らばっている。それから華奢な靴が転がっているのも見えた。この場に似合わない優雅な靴は、どう見ても貴婦人のためにあつらえたものだ。ソフィアのものに違いない。

 何かが光って、目を引いた。キラリと煌く刃物が隅っこに落ちている。床には点々と赤い染みがついているのも見える。ソフィアが怪我をしたのかと、ブラッドの背筋が束の間冷えたが、ウィッカムの頬から赤い雫が滴り落ちるのを見て、ほっと胸を撫で下ろした。もちろんソフィアが無傷でいる保証はない。改めて気を引き締めて、ブラッドは銃を胸元に引き寄せた。
 ウィッカムが立ち止まり、積み上げられた農具に手をかけるのが見える。
「合図を出したら、私が扉を蹴飛ばします。伯爵は男の肩を狙って下さい。動きを封じて、突入します」
 ソレルズが低く言い終えるのと、男が農具の山を崩すのは、ほぼ同時だった。けたたましい音が、小さな小屋に響き渡る。男の向こうに、目を瞑って立ち尽くすソフィアの姿が見えた。両手を胸の前で握り締め、歯を食いしばるようにして、彼女は悪魔の前に身を晒している。男が嬉々として言った。
「かくれんぼは終わりだ」
「今です!」

 言葉と同時にソレルズは素早い身のこなしで、薄く開けていた扉を外側に向かって思い切り蹴りつけた。古い蝶番は衝撃に耐え切れず、扉はただの板となって、外の地面に転がっていく。
 ソレルズが行動を起こした時、ブラッドは既に、準備を終えていた。敷居に立って銃口を男に向け、鋭い警告を発した。
「そこまでだ、ウィッカム」

 男が振り返り様に銃口をこちらへ向け、引き金を引く様子を、ブラッドは冷静に捉えていた。同時に撃った銃弾は、過たず標的に命中する。男が撃った弾は大きく逸れて、戸口の脇の壁にめり込んだ。ソレルズがすかさず踏み込もうとするのを、ブラッドが手で遮った。
「私が先に行く」
 ソレルズは何かを言いかけたが、ブラッドの顔を見て口を噤み、この場を譲った。

 小屋の中では、ウィッカムが左腕を押さえて、低い呻き声を上げている。その背後では、口をぽかんと開けて、ソフィアが立ち尽くしていた。室内に踏み込むと、靴についた泥が、ざらりと耳障りな音を立てた。
 銃口を、負傷した男に向けると、濁った目がこちらを見上げてくる。ハガード大尉が人違いだと思うのも無理はないほど、男爵はやつれ、血走った目には生気がなかった。
「観念するがいい」
 男はまだ拳銃を捨ててはいなかったが、ブラッドは自分の優位を疑ってはいなかった。視界の隅で、ソフィアの身体からがくりと緊張が緩むのが映る。このままでは倒れるのではないか。一瞬意識が逸れたのを、男爵の黄色く濁った目は見逃さなかった。

 負傷しているとは思えない素早さで、男は身を翻した。ブラッドがハッとするのと、背後から踏み込んだソレルズが発砲したのは同時だったが、銃弾が打ち込まれるより早く男は飛びのき、よろめいたソフィアに飛びかかった。
「ウィッカム!」
 ブラッドが声を上げたが、何の効果もなかった。男はソフィアの身体を乱暴に引き寄せ、白いこめかみに銃口を押し当てた。ソフィアの顔から、一挙に血の気が引いた。残酷な悪魔の笑いが、小屋にけたたましく響いた。
「残念だったなぁ、フォード」

 あっという間に形勢を逆転させ、ウィッカムは舌なめずりしながら、ブラッドをあざ笑った。ぐりぐりと銃口を押し当てられ、ソフィアは悲鳴を上げそうになるのを、必死にこらえていた。恐ろしさに身体が竦み、立っているのがやっとだった。歯噛みするブラッドの後ろには、見たことのないがっしりした体格の青年が、やはり拳銃を手にしている。彼らの足手まといになってはいけない。その一心で、ソフィアは血が滲むほど強く、下唇を噛みしめた。
「この女の身体に風穴を開けたくなければ、その銃を捨てろ」
 唇を一文字に引き結んだブラッドが、拳銃を床に置いた。それを満足げに眺めてから、ウィッカムは背後で銃を構える青年に向けて怒鳴った。
「おい、お前も変な気を起こしたら、この女に穴が開くことを忘れるな!とっとと捨てろ!」
 青年が足元に銃を置くと、ウィッカムは彼らに両手を挙げさせた。それから、暗い喜びに溢れた目で、ブラッドを眺めた。

「この女を守ることができずに、さぞ残念だろうなぁ、フォード。目の前でお前が死んでいくのを見るのは、どんな気分だろう」
 ウィッカムの銃口がソフィアから離れ、両手を挙げたままのブラッドの心臓へと、ぴたりと向けられる。ブラッドのサファイアの瞳が、氷柱のような冷たさを帯びた。視線で人を殺せるものなら、間違いなくウィッカムは死んでいるだろう。
 現実には、ブラッドの命を握っているのは、ウィッカムの方だった。ウィッカムは、かねてからフォードという男をいけ好かなく思っていた。生まれながらに恵まれた財力、地位、容姿、人望――ウィッカムがどれだけ手にしたいとあがいても、決して得られなかったものを、全て兼ね備えた男。ウィッカムから、全てを奪い取ろうとした男。そのフォードが、今や力を失って、目の前で無様な姿を晒している。これほど愉快なことはない。男の哄笑が、小屋に満ちた。
「いい様だな、フォード。俺を追い詰めたつもりが、自分が追い詰められるとは、思いもしなかっただろう。あの世で好きなだけ悔しがるといい」

 ウィッカムの指が、引き金にかかるのを見て、ソフィアは夢中で男にしがみついた。負傷している腕を掴んでいるということも、代わりに自分が危険に晒されるということも、全く頭になかった。
「やめて!撃つなら私を撃って!」
「邪魔をするな!」
「彼を撃たないで!」
 ウィッカムがソフィアを乱暴に振り払った時、別の銃声が響いた。床に倒れ込んだソフィアが顔を上げると、戸口にウィルとケヴィンが立っており、2人とも拳銃を構えているのが見えた。ウィルの持つ銃からは、硝煙が上がっている。

 呻き声が聞こえ、そちらに顔を向けると、ウィッカムが苦痛に顔を歪めて立っていた。右の太ももから、血が流れ出して、みるみるうちに足元に血だまりを作る。
 ぞっとして、ソフィアは痛む身体を懸命に動かし、這うようにして男と距離を開けようとした。それに気づいた男と、ソフィアの目が合った。にたりと男が笑う。どんよりとした目に宿るのは、紛れもない狂気。恐怖に身体が竦み、ソフィアはそれ以上動けなくなる。

「再び形勢逆転だ、ウィッカム」
 冷ややかにケヴィンが告げるのを聞きながら、ブラッドはゆっくりと屈み込み、自分の拳銃を拾った。ウィッカムはあれだけの血を流し、相当な痛みがあるはずなのに、一向に投降する気配がない。右手には相変わらず拳銃を握り締めたままだ。
 男と、床に座り込んでいるソフィアの距離は、あまりない。彼女は真っ青な顔をして、動けないようだ。男がソフィアに向けて発砲すれば、外すような距離ではない。自分たちが男の注意を引きつける間に、安全な物陰にでも隠れて欲しかったが、今の彼女にそれは難しいようだった。
 ソフィアは丸腰だ。真っ先に狙われれば、反撃する術を持たない彼女の命が危うい。

 男の注意を自分へ向けようと、ブラッドは1歩足を踏み出した。ソレルズも既に銃を取り戻し、いつでも撃てるように構えているのが、目の隅に映った。ウィルとケヴィンもいる。人数的には、こちらが圧倒的に有利だ。
 ブラッドの動きにつられて、ウィッカムがゆらりとこちらへ顔を向けた。4人もの男に銃口を突きつけられているというのに、男爵の顔には恐怖は見られない。爛々と目を輝かせて、何が可笑しいのか、男はもう1度高らかに笑った。
 唾を飛ばしながら、のけ反るようにして笑った後、男は荒い息を吐きながら、捕縛者たちをぐるりと見渡した。
「俺を殺そうっていうのか」
「お前は、法廷へ連れて行く」
 ソレルズが淡々と告げると、ウィッカムはフンと鼻を鳴らした。ソレルズが何者かを、男爵はとうに知っている様子だった。

「貴族相手に裁判を起こすのは無理だ、判事の犬め」
「お前の場合は例外だよ、ウィッカム卿」
 侮蔑に満ちた言葉をぶつけられても、眉ひとつ動かさずに、ソレルズが言った。
「有力貴族が諸手を挙げて、お前の裁判を望んでいる。司法には、それを拒む理由はない。お前は一般の囚人と共にニューゲートに収監され、罰を受けるんだ」
「お前たちが手を回したのか」
 憎憎しげに吐き捨てて、ウィッカムはブラッドをねめつけた。憎しみに歪んだ眼差しをものともせずに受け止めて、ブラッドは何の感情も込めずに告げた。
「ダドリーは全てを吐いたよ、ウィッカム。君の有罪は動かない」
 宣告を受けてウィッカムは押し黙ったが、やがて不敵な笑いを浮かべた。
「あの女も、俺を無能だと決めつけていたが、お前らもそうか」
 そして狂ったように、喚きだした。
「皆道連れにしてやる!お前らも、あの女も、皆殺しだ!!全員血祭りに上げてやる!」
「狂ってる・・・」
 誰かが呟くのが聞こえた。ゼイゼイと肩で息をして、男は落ち窪んだ眼窩の中から、確かにブラッドを捉え、にやりと笑った。複数の銃弾を浴びた怪我人とは思えない敏捷な動きで、男爵の銃口がソフィアに向けられるのと、ブラッドが引き金を引くのはほとんど同時だった。

 轟音が、荒れ野の空を切り裂いた。

 小屋に響き渡った銃声の残響が消えた時に、どさりと倒れこんだのは、男爵位を持つ男だった。ブラッドの放った銃弾は、寸分違わずに男の心臓を真っ直ぐ射抜いていた。床にだらりと横たわる男の周囲に、たちまち赤い池が出来上がる。力なく投げ出された腕が、ぴくりと動くのを、ソフィアは間近で見ていたが、間もなく動きは止まった。

 男は虚空を睨んだまま、絶命していた。
 誰もが無言だった。

 ブラッドは銃を構えたまま、男へ近づいた。その脇をすり抜けてソレルズが素早く男へ駆け寄り、瞳孔や脈を確認して、死んだと告げても、ブラッドは銃を下ろそうとしなかった。
「もう終わったんだ、ブラッド」
 背後から歩み寄ったウィルが肩を叩き、耳元でそう囁いてから、はじめてブラッドは銃を下ろした。腰のホルスターにしまいこみ、小さく息を吐き出した。ずっと銃を握り締めていた指は、僅かに痺れていた。
 ケヴィンがソレルズに近づき、何事か言葉を交わしている。ウィルは従僕を呼ぶためだろう、身を翻して小屋の外へと出て行った。壁の向こうを慌しく行きかう幾つもの足音と声が聞こえてくる。外は俄かに騒がしくなった。

 その中で、床に座り込んだまま、ソフィアは放心したようにぼんやりとしていた。ブラッドが無言で近づくと、気配を察してソフィアはハッと身じろぎした。青ざめた顔の中から、大きな瞳がこちらを見上げてくる。
 ブラッドは彼女を抱き起こそうと手を伸ばした。その手を、白く小さな手が掴んだ。彼女の手は酷く冷たくて、手首の辺りは血が滲んでいる。よく見ると、もう片方の手首にも皮膚がこすれ、血が滲んでいるのがわかる。それに、頬が赤く腫れてもいる。もともと色白なだけに、酷く痛々しく見えた。
「ソフィア、怪我を?」
「いいえ」
 ソフィアが唇を震わせた。下唇からも赤いものが滲んでいる。ブラッドは眉を顰め、空いた方の手を彼女の肩に回した。
「いいえ、たいしたことはないわ」
 辛うじてそれだけ答えると、灰色がかった青い瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。彼女は囁くように名前を呼んだ。
「ブラッド」
「何?」
 掴まれていた手を振りほどき、逆に彼女の手をぎゅっと握り締める。ソフィアがブラッドの胸に頬を寄せ、呟いた。
「きっとあなたが来てくれると、信じていたわ」
 答える言葉は見つからなかった。代わりに彼女の赤くなったこめかみに唇で触れて、華奢な身体を腕の中へきつく抱き寄せる。埃で汚れてもなお美しい蜂蜜色の髪に頬を寄せると、ソフィアの自由な方の手が、縋りつくようにブラッドのシャツを掴んだ。
「ソフィア」
 かすれた声で、愛しい名前を呼んだ。声もなく涙を流す彼女を、なだめるように、何度も何度も、ずっと口にしたかった名前を呼んだ。失った宝物を、やっとこの手に取り戻した。
「もう大丈夫だ、ソフィア」
 万感の想いを込めて、彼は囁いた。

「全て終わったんだ」

2009/10/04up

時のかけら2009 藤 ともみ

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