第6章 霧の彼方[4]

 「私、決めました」
 断固とした口調で、アリスが言った。いつも赤い頬が、いっそう赤くなっている。
「今後奥様が外出なさる時は、どこであっても、絶対についていきますから」
 ベッドに入っているソフィアは、反論しようと口を開いたが、忠実な侍女の瞳に、いつになく強硬な光が輝いているのを見て、言葉を飲み込んだ。ベッドの横に仁王立ちになり、腕組みをして、アリスはきっぱりと言った。
「奥様の『大丈夫』は信用ならないということ、どれだけ私が馬鹿でも、さすがに身に沁みました」
「アリス・・・」
 これはかなりご立腹の様子だ。
「それから、今日明日は絶対にベッドから出てはいけないという、お医者様のお言いつけです。守って下さいましね」
「わかったわ」
 不承不承頷くと、アリスはやっと気が済んだようで、室内の明かりを暗くすると、お休みなさいませと告げて出て行こうとした。

「アリス」
 呼び止めると、怪訝そうな眼差しが返ってくる。
「心配をかけて、ごめんなさい」
 しょんぼりと謝ると、アリスは眉尻を下げ、「わかって下さればいいんです」と呟いた。それに力を得て、ソフィアは願いをひとつ、口にした。
「明日の朝、グレースを連れて来てくれる?」
 興奮させては身体に障るという医師の判断で、帰宅して以来、娘に逢わせてもらえずにいる。母親の不在に、どれだけ幼い心を痛めたかと想像するだけで、ソフィアは身を切り裂かれるような想いに駆られた。

「――長時間の面会はダメですよ?」
 いくら本人が問題ないといっても、一昼夜監禁された身体を案じて、周囲は過保護なほど労わるようにと言う。ため息をつきながらアリスは頷き、廊下へと出て行った。ぱたりと扉が閉まると、部屋の中にはソフィアが独りきり、取り残された。
 とうに夜は更けて、屋敷の中はシンと静まり返っている。自分の部屋、自分のベッドに身体を横たえて、ソフィアは深々と息を吐き出した。天井を見つめ、目まぐるしかった一日に思いを馳せる。

 アリスが怒るのも無理はない。ハンプシャーに続いて2回目だし、今回も頑固に意志を押し通した結果、危険に晒されてしまったのだから。絶対に単独での外出はいけないと釘を刺されていたにも関わらずだ。アリスだけでなく、ドーソンにも御者にも、ジョーンズにも、多くの皆に心配をかけてしまった。
 それどころか、ブラッドたちの身までも、危険に晒してしまった。

 作業小屋で無事保護された後、リンズウッド・パークに帰るまで、ブラッドはずっと一緒にいてくれた。小屋の中でも、馬車の中でも、ぴたりとソフィアに付き添って、安心させるように、ずっと手を握り締めていてくれた。ソフィアが静かに現実を受け入れ、パニックを起こさずに済んだのも、彼の温もりが、すり減った神経を鎮めてくれたからだった。
 ブラッドだけではない。ウィルも、ケヴィンも、それにソレルズという捕り手も、誰ひとりとして、ソフィアを責める言葉は吐かなかった。屋敷で出迎えたウェルズ大佐もハガード大尉も、アンも、誰もソフィアの身勝手さを責めなかった。ただ、「無事でよかった」とそれだけを口にした。真っ先に玄関ホールへ駆けつけたウィニーは、ソフィアの姿を見るなり、その場に崩れ落ち、慌ててケヴィンが部屋へ連れて行く一幕もあった。大粒の涙を流しながら親友は、「よかった」と一言だけ残して、夫に抱き抱えられるようにして歩いていった。

 一連の出来事は、ブラッドが陣頭指揮を執って、片付けてくれたらしい。ソフィアが事後処理に煩わされることはなかった。ソレルズという青年が、ソフィアに事情聴取をすることもなかった。全てはブラッドがウィルやケヴィンと連携して、問題のないよう処理してくれたらしいと、ソフィアは後から聞かされた。
 屋敷に着いた途端、ソフィアは、ミセス・ホジソンとアリスの有能な手に委ねられ、問答無用で自室へと連行された。ブラッドとは、それきり顔を合わせていない。
 用意されたバスタブに連れて行かれ、ごしごしと擦られてさっぱりすると、今度はデイヴィーが呼び寄せていた医師の診察を受けた。打ち身はたいしたことはなく、両手首の傷には軟膏を擦り込んだ後、包帯を巻かれた。そして、絶対安静を言い渡された。思いがけない事件に巻き込まれ、男爵が射殺されたところを目にしたのだ。高ぶっている神経が鎮まれば、ショックが出てくるはずだと医師は言った。

 飲まず食わずで一昼夜を過ごしたにもかかわらず、あまり渇きや飢えを感じていないのも、神経が興奮しているためらしい。食欲がないと訴えたものの、ミセス・ホジソンたちには通用しなかった。半ば強制的にスープを飲まされ、器を空にすると、やっと満足したらしく、敏腕家政婦は退室していった。最後まで残っていたアリスも去り、ソフィアは、暖かな部屋で心地よい寝具に埋まり、自然に眠気が訪れるのを待った。
 だが、しばらく経っても、まどろみはやってきてくれなかった。

 薬の影響とはいえ、一昼夜眠り続けた後だから、無理ないかもしれないわ。

 何度も寝返りを打ち、枕の位置を変え、眠ろうと努力してみたものの、一向に眠くならない。とうとうソフィアは、大人しく眠ることを諦めた。ベッドから抜け出し、ガウンを羽織ると、バルコニーへ続く窓を開けた。

 冷たい夜風に頬を撫でられ、ソフィアはガウンの中にぎゅっと縮こまるようにして、バルコニーへ出た。
 空には大きな月がかかっていた。明るい月光が、荒れ野を幻想的に浮かび上がらせている。シンと凍りつくような静けさの中に、黒々と続く丘が沈んでいる。時に激しく牙をむく大地も、今宵は静かに、眠りについているようだった。虫の声も、梟の声もしない。静寂に包まれて、ソフィアは佇んでいた。
 この一両日のうちに起きた出来事が、あまりに日常とかけ離れていて、こうして静けさに抱かれていると、現実に起きたものではないような気さえしてくる。しかし下に目を落とすと、否応なく飛び込んでくる包帯の白さに、あれは現実だったのだと思い知らされる。
 瞳を閉じれば瞼の裏にはっきりと浮かぶ、赤い染み。鼓膜にこびりついて離れない哄笑。
 狂気の中に倒れた男の魂も、今は安らぎを得ているのだろうか。大いなる御手に抱かれ、苦しむ魂が救われることを、ソフィアは祈った。
 人の死を――安らかに訪れるのではない死を、目の当たりにしたのは、これが初めてだった。誰もがいずれ死んでいくとはいえ、あの男のように、己を見失ったまま、命を奪われたくはない。どこでいつ、死がやってくるかはわからないけれど、己のこころの在りようだけは、しっかりと感じておきたい。目を閉じる瞬間に、後悔することがないように。

 ふと、名前を呼ばれたような気がして、ソフィアは後ろを振り返った。窓ガラス越しに、真っ青な瞳と視線が合った。燭台を手にしたブラッドが、扉の前に立っていた。
 ソフィアの胸が、とくんと跳ねた。

 ガウンの前をぎゅっと握って、バルコニーを後にすると、ちょうどブラッドがテーブルの上に燭台を置いたところだった。ガウンこそ着てはいないが、彼も白いシャツにズボンというリラックスした姿で、これから寝室に向かう途中、といったところだ。
「ブラッド・・・?」
 何かがあったのだろうか。彼の前まで辿り着いて、不安そうに見上げると、安心させるような穏やかな微笑みが返ってきた。ほっとしたのもつかの間、彼の眉間に皺が寄る。まるで子供のいたずらを見咎めたような表情を見て、ソフィアは首を竦めた。
「医者から絶対安静にするよう言われていると聞いたけれど?」
「・・・これから休むところだったんです」
 目を逸らしながら渋々白状すると、笑いを堪えきれずに、ブラッドが吹き出した。赤くなった頬を隠すように両手を当てると、ソフィアはうろたえて、くるりと背を向けた。彼の帰りを心待ちにしていたけれど、いざこうして目の前にすると、どうやって振る舞えばいいのかがわからない。すっかり夜が更けてしまったから、ブラッドに逢えるのは早くて明日の朝だとばかり思っていたから、面食らってしまう。心の準備もできていないうちに、不意打ちをかけるなんてずるいではないか。

 顔はバルコニーへ続くガラス窓の方へ向けたままで、ソフィアは動揺を悟られないように、反論を試みた。
「伯爵もどうなさったのですか、こんな夜更けに。そちらこそもうお休みになったものだとばかり――」
 言葉を不意に途切れさせ、ソフィアは息を呑んだ。背後からブラッドが、ソフィアの両肩に手を置いたのだ。ハッと顔を上げると、窓ガラス越しに、サファイアの瞳と視線がぶつかった。低い囁きが、ソフィアの耳朶を震わせる。

「伯爵ではなく、ブラッドと呼んでくれないか、ソフィア」

 ぞくりとした快感が、ソフィアの背中をかけ上る。声もなく立ち尽くす彼女の背後から、抱きしめるように両腕を回して、ブラッドは蜂蜜色の柔らかな髪に頬を押し当てた。華奢な背中も、金糸の髪も、ひんやりとしている。
「すっかり冷えてしまっているね」
 豊かな髪の、絹のような感触を楽しみながら、白い肌から立ちのぼる花の香りを胸いっぱいに吸い込む。5年前、初めてロンドンで逢った時と変わらない、ソフィアが好んでつけている馴染みの香りが、ブラッドの全身を興奮でざわめかせる。

「ソフィア、先ほどのように、ブラッドと呼んでくれないか」
 花の香りが呼び覚ます数々の記憶と感情が入り混じり、ブラッドの喉から零れる声は、思いのほか苦しげで、切ない懇願となる。窓ガラス越しに鋭く射抜く真っ青な輝きに、身動きを封じられ、ソフィアは瞳を逸らさないまま、静かに呼びかけた。捕らわれている間だけでなく、引き離されるように別れてからの5年間、ずっと心の中で呼び続けてきた名前を、漸く口にする喜びに満たされながら。

「ブラッド」

 ぴたりと彼の身体が密着している背中が、彼の腕が回されている肩から胸が、燃えるように熱い。

「それ以外の名で、私を呼ばないでくれ」

 窓ガラスに映る真っ青な瞳が伏せられ、腕の力がいっそう強くなる。滑らかなソフィアの頬に自分の頬を押し当てながら、ブラッドは、漸く聞き取れるほどの小さな声で、絞り出すように呟いた。

 ――やっと、君を取り戻した。

 ソフィアの双眸から、熱いものが溢れ出し、頬を伝う。
 小さく震える両手で、しっかりと胸の前に回された逞しい腕に触れ、縋るようにぎゅっとしがみつく。ソフィアの胸を満たすのは、ただ1つの想いだった。

 ――やっと、あなたのもとに帰ってきた。

 小刻みに揺れる小さな肩をなだめるように、ブラッドがソフィアの身体をくるりと自分の方へ向き直らせ、1度強く抱きしめた。彼の白いシャツに、ソフィアの涙が吸い込まれていく。胸に押し当てられた頬に、彼の鼓動が直接伝わってくる。馴染みのあるハンガリー水の香りも、鼻腔をくすぐる。彼の熱、彼の香り。生きて、確かにここにいるのだという実感が、じわりと湧き上がってくる。

 ブラッドが少し身体を離すと、ソフィアは肌寒さを感じて、ぶるりと身体を震わせた。ブラッドの片手がソフィアの背中をゆっくりと撫で、もう片方の手が、ソフィアの涙を拭ってから、頬にそっと添えられる。
 見下ろしてくる真っ青な瞳の中に、幾つもの感情が揺れ動く。その中でひときわ強い光を放つのは、愛しさの炎。揺るぎない強さで、深さで、全身全霊でソフィアを求め、焦がれ、慈しむ彼の心が、ソフィアの中に眠る感情に、じわりと熱を灯した。ずっと押しこめてきた本当の心を、解放すべき時が遂にきたのだと、ソフィアは悟った。
 そのきっかけを与えてくれたのは、かけがえのない愛しい人。

「ソフィア、君を愛している。ずっと愛していた」

 大地に沁みこむ水のように、ブラッドの言葉が全身に染み渡っていくと、涙が再び頬を伝った。言葉にならない感動が、打てば響く鐘のように沸き起こってくる。初めて出逢った舞踏会の夜から今日に至るまで、長い歳月の間も、ソフィアの中で根を張り続けた彼への想いが、漸く実を結ぶのだ。彼と交わした純粋な気持ちを、中傷されたこともあった。家柄の差に悩み、諦めた方が彼の為になるのだと、自分に言い聞かせたこともあった。引き裂かれ、彼との愛の結晶を宿したまま、他の男性の妻として生きていくことを余儀なくされもした。このまま2人の道が交差することはないと諦め、彼の帰りを待てなかった自分の不誠実さを恥じ、荒れ野で生きていくことを選んだ。
 互いに様々な出逢いと別れを経験し、あの頃よりも歳を取り、賢くも愚かにもなり、臆病になった。それでもまだ、惹かれあう引力は2人の間に存在し、日毎に強さを増している。

 2度も失いたくない。

 そう言って、過去のすれ違いが生んだ溝を一息に飛び越えてきたのは、ブラッドの方だった。かつて、身分の差を容易く飛び越えたのと同じように、今度もまた、先に勇気を示してくれた。言葉通りに、彼は行動で示し、言葉でも示した。体を張って、ソフィアとグレースへ向ける想いの深さを証明してくれた彼に、今こそソフィアも、同じだけの勇気を、返さなければならなかった。

 口元に微笑みを浮かべ、ソフィアは、愛おしい人を真っ直ぐに見上げた。涙で曇る視界の中から、サファイアの輝きに目を凝らす。
「わたくしも、あなたをずっと愛してきたわ。これからも愛し続けるわ」
「ああ、ソフィア」
 呻くようにいって、ブラッドはソフィアを強く抱きしめた。彼の体温に包まれる幸せを噛みしめていると、続いて唇にも温もりが降ってくる。優しく静かに重ねられた唇は、次第に動きを増していった。燭台の炎が小さくなる中、互いの唇を深く味わい、熱くむさぼるような口づけが続く。

 貪欲な口づけが終わる頃には、ソフィアの息はすっかり上がり、頬は上気し、唇は赤く腫れ上がっていた。ふらりとよろけた彼女の腰を抱きとめ、抱えるようにして、ブラッドはベッドの端にソフィアを腰かけさせた。灰青の瞳は潤み、とろんとしている。彼女を寄りかからせるようにして、ブラッドも並んで腰をかけた。暫くの間、そのまま寄り添いあうようにしていると、聞き覚えのある旋律が、ソフィアの唇から小さく零れた。
「――麻のシャツを作ってくれますか?
  パセリ、セージ、ローズマリーとタイム。
  縫い目も針の跡もないシャツを。
  そうすればあなたは、私の真の恋人になるでしょう」
 苦味を消すパセリ、忍耐の象徴であるセージ、貞節や愛、思い出を表すローズマリー、そして勇気の象徴であるタイム。真実の愛を確かめる、問答の歌。
 掠れがちに、低く歌ってから、ソフィアはぽつりと呟いた。
「わたくしも、あなたに『タイム』を示さなくてはならないわ」

 ブラッドが、問いかけるように、蜂蜜色の髪にそっと頬をこすりつけた。燭台の炎が消えたが、カーテンが開いたままの窓からは、月明かりが差し込んでくる。白々とした光に浮かび上がるソフィアの表情は、落ち着いて、凪いだ湖面のように穏やかだったが、強い決意を秘めていた。
「グレースの父親のこと、わたくしの結婚のことを、お話しなくては。あなたには知る権利があるのですもの」

 ずっと、ソフィアの口から語られることのなかった事柄だ。遂にそのときがきた――否応なく緊張が高まり、ブラッドの心臓の鼓動が速くなる。細い肩に回した手に、僅かに力を込めると、ソフィアは促されるように続きを語り出した。
「グレースは……あの子は、あなたの娘よ」
 やはりそうか。大きな安堵が心を満たし、ブラッドは息を詰めて、彼女の告白に耳を傾けた。過ぎ去った日々に思いを馳せるソフィアの声は、しんみりとして、哀しげだった。

「あなたが5年前、大陸に渡ったすぐ後で、父から呼び出しがきたの。親類のトムが、使者としてゴールド・マナーにやってきたわ。父の投資が失敗して、大変な負債を持ったということで、ロンドンへ戻ったの。以前にもお話したように、あなたへの手紙を残してね。父とはロンドンのスタンレー子爵邸で逢ったわ。そこで言われたのが、ドミニクとの結婚だった」
 一旦言葉を切り、ソフィアは深く呼吸をしてから、再び語り出した。ブラッドの手が励ますように背中をゆっくりと撫でている。あの場面を思い出すと、今でも胸が詰まる。父との断絶が決定的になったのが、あの時だった。

「父とドミニクの間で話は進んでいて、わたくしが知った時には、手遅れだった。父への資金援助の見返りに、後妻になれというドミニクのことを、最初は憎んだわ。女性をモノのように扱う男性なのだと思った。でも、実際に逢ってみると、それが思い違いだとすぐにわかったわ。亡くなった奥様をずっと想い続けている、一途な人だった。彼は正直に打ち明けてくれたの。愛しい女性は亡くなった奥様だけで、わたくしに望むのは友人としての役割なのだと――残された時間を明るくして欲しいと、頼まれた。彼には時間がなかったから、すぐに領地で結婚式を挙げたわ。彼は約束通りに父の負債を処理し、生活費も与えてくれるようになった。おかげでわたくしは、父から解放されたの。グレースを身ごもっていると気づいたのは、領地に入ってすぐのことだったわ」
 疲れたように目を瞑ったソフィアに、ブラッドは静かに尋ねた。彼にとっては、何より肝心な問いかけだった。
「ソフィア、友人としての役割というのは、どういう意味?」
「言葉通りの意味よ。ドミニクは、奥様を亡くしてから、心臓が弱ってしまって、ずっと苦しんできたの。医者から長くないといわれていたし、彼自身もそのことはよくわかっていたわ。ロンドンへの旅は身辺整理をするために強行したから、戻ってきた時には、あまり体力は残っていなかったわ。結婚式を終えたら、気持ちも緩んだのでしょうね。寝室は共にしたけれど、わたくしたちの間には、夫婦としての関係は何もなかったわ」
 ソフィアの唇に、皮肉げな笑みが浮かぶ。
「わたくしたちの結婚は、純粋に、親友としての関係で成り立っていたの。最初から、そういう取り決めだった。ドミニクはわたくしに、父からの解放と、自由を与えてくれた。そればかりではなく、生まれてくる子にも庇護を与えてくれた。大切な恩人よ」

 ブラッドの胸に、歓喜の想いがじわじわとこみ上げてくる。それを見抜いたようなタイミングで、ソフィアが小さく付け足した。頬を赤らめ、伏し目がちに、声をつまらせるようにして。

「わたくしには、ずっとあなただけだったのよ、ブラッド」
「ああ、ソフィア」
 ソフィアが人妻になった時点で、彼女は夫に身体を許したのだと思い込んでいた。夫婦が床を共にするのは当然のことだ。そのことでソフィアや亡き伯爵を責めることはできない。そのような権利すら、ブラッドは持たなかったのだ。彼に許されたのは、秘かに嫉妬心に身もだえすることだけだった。
 しかし、彼女に触れた男はブラッド1人だけなのだという。愛しい女性を知る男が他にもいると考えた時に胸を刺した痛みは跡形もなく消え、彼女を独占しているのは自分だという満足感が、喜びと混じり、欲望に火をつける。
 衝動をこらえきれずに、ブラッドが激しく彼女をかき抱く。情熱的な口づけを交わしながら、低く囁くように告げた。

「私もそうだよ。ずっと君だけだ」

 嘘ではない。ソフィアとの別離の後、すぐに軍隊に入り、退役してからは仕事に没頭し、社交界に出入りする間はなかった。多くの女性に誘いをかけられても、心は動かずに、断り続けてきたのだ。ブラッドのこころに住み続けてきたのは、ソフィアただ1人だった。
 ブラッドの告白を聞いたソフィアの顔に、満ち足りた微笑みが浮かぶ。彼女の首筋に唇を1度落として、ブラッドは更に問いを重ねた。
「君が他の男の子供を身ごもっていると知って、彼は何と言ったのかな?」
「心配しなくていいと、一番最初に言ったわ。わたくしが安心して出産し、育てられるよう、協力すると。彼には正直に打ち明けていたから――他に、大切な男性がいるということを。まるで孫の誕生を待つ祖父の気分だと、よく言っていたわ。残念ながら、グレースが生まれる前に彼は亡くなってしまったけれど」
 ソフィアが僅かに涙ぐむ。父親と良好な関係を築けなかった彼女にとって、ドミニク・ポートマンは、初めて父性を示してくれた存在だった。

「グレースが、爵位を継がなかったのはなぜ?」
 もうひとつ、気がかりだったことをブラッドは口にした。伯爵の一人娘として生まれたにもかかわらず、グレースは爵位をデイヴィーに譲った形になる。順当にいけばグレースの未来の夫に、リンズウッド伯爵の称号が与えられるところだ。
「それも、ドミニクの配慮よ。伯爵家の血を受け継がない子供が、爵位を継げば、わたくしが苦しむのではないかと思って、後継者はデイヴィーのままにしたの。爵位の正当な継承者は彼だもの、わたくしもその方が気が楽だわ。デイヴィーが成人するまでの間だけ、わたくしが家のことを見ることにして、あとはグレースと2人で十分に生活できるだけのものを、遺してくれたわ」
「彼は、君を本当に愛してくれたんだね」
 ため息のようにブラッドが囁くと、ソフィアは灰青の瞳を煌かせて、ふわりと笑った。
「ええ。娘のようにね」

 白く華奢な手が、ブラッドの頬にそっと触れた。
「わたくしには、あなたしかいなかった。あなたのようには、誰のことも愛せなかったわ」
 澄んだ瞳と声に乗せて、彼女の本当のこころが、ブラッドへと差し出された。長い間渇望した、かけがえのない宝物を、ブラッドはこの時確かに受け取ったのだった。

 言葉の代わりに落とされた深い口づけを、ソフィアはしなやかに受け入れた。乞われるままに、情熱を返しながら、彼女はブラッドの首へと両腕を回した。巧みな愛撫に我を忘れて応え、ベッドへともつれ合うようにして倒れこんだ時には、すっかり息が弾んでいた。
 両手に巻かれた包帯に、ブラッドが躊躇いがちに触れる。後悔と気遣いが交錯した表情で、そっと白い布を撫でている。
「傷の具合はどう?」
「痛みはないわ。直にかさぶたになって、消えるでしょう」
 どのような傷もやがて癒える。ソフィアがきっぱりと答えると、ブラッドは表情を和ませ、包帯に口づけをしてから、細い首筋に唇を寄せた。
 耳たぶに触れた唇から漏れる懇願に、ソフィアはぞくりと身体を震わせた。甘い疼きが背中を走っていく。

「ソフィア、君が欲しい」

 微笑みながら、ソフィアはブラッドへ口づけを返した。軽く唇を触れてから、優しく答える。
「わたくしは全て、あなたのものよ。初めて逢った時からずっと、こころのひとかけらまで」

 心の中を、温もりが満たす。ブラッドは一瞬息を呑み、軽やかに笑って、ソフィアを抱きしめた。サファイアの眼差しが月光に煌き、熱い炎が踊っている。その熱を言葉に乗せて、ソフィアの耳許にそっと落とした。
「私もだよ」
 それから彼は、ソフィアを陶酔の世界へと連れて行く作業に没頭した。情熱が命じるままに激しく、時には優しく、どれだけ彼女を想っているか、身をもって証明した。ソフィアも情熱的に応え、濃密な幸福の時間が終わる頃には、月明かりはすっかり消えて、新しい光が荒れ野を眩しく照らし出していた。
 霧はどこかへ消え失せていた。2人の間に、2度と忍び寄ることはなかった。

2009/10/07up

時のかけら2009 藤 ともみ

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