こころの鍵を探して

序章 断ち切れぬ想い[1]

 夏の間、一面瑞々しい緑に覆われていた地面は、ふと気づけば茶色い絨毯へと変わっている。
 枯れ果てた大地は、昨夜の雷雨の影響で、たっぷりとぬかるんでしまった。生命力を失った葉が、ぺたりと泥の合間に張りつき、生き生きしたエネルギーに溢れた季節の名残は、すっかりとどこかへ失われてしまった。茶色と灰色の絵の具で着色された世界は、西の丘に沈もうとする夕陽に照らされて、朱とオレンジが混じり合い、見る者をいっそう物悲しい気分にさせる。
 真っ赤な血のような太陽が放つ、今日最後の光を浴びて、規則正しく並ぶ墓標は、黒々とした影になって地面に並んでいる。ウォーリンガムの南、なだらかな丘陵に設けられた墓地には、近郊の名士から農民まで、偉大なる神の前において平等な兄弟たちが、昔から葬られてきた。表に打たれた銘文がすっかり読めなくなったものや、苔むして傾いているもの、端が欠けたものから、最近建てられたものまで、様々な時代、世代のひとびとが、この墓地で安らかに眠っている。

 シンと静まり返った墓地の一角、白亜の石で造られた十字架の前に蹲っていた人影が、ゆっくりと立ち上がった。長いこと屈んでいたお陰で、すっかり墓地に同化してしまったようにも見えたが、身体を土の下に残して遠い世界へ旅立っていった人々の眠るこの場所で、彼だけが唯一、生きて呼吸をしている人間だった。
 夕暮れの風は、頬を刺すような冷たさを伴いながら、丘を渡ってくる。温もりを奪われ、赤くなった頬をした青年は、十字架の下、墓標に刻まれた銘文に視線を落とし、小さく首を横に振った。栗色の髪が、夕陽を浴びて、燃えるような赤に染まっている。髪と同じ色の眉毛の下では、沈痛な茶色の眼差しが、名残惜しく墓石へと向けられている。整った優しげな顔立ちには、年齢に似合わない落ち着きと、やわらかさの裏に他者と一定の距離を置く用心深さが漂っており、品の良い身のこなしや服装から、高貴の出ということがわかる。
 晩秋の夕暮れ時は、ぐっと気温が下がる。気候が温暖なここ、ケント州においても、季節は冬の訪れが近いことを、はっきりと告げていた。さすがにそろそろ立ち去らなければ、冬の気配を纏った風に全身の熱を奪われ、酷い風邪を引き込んでしまうだろう。愚かなことをしでかすつもりは毛頭ない。しかし、このまま立ち去るのは躊躇われた。どれだけ多くの時間を墓の前で過ごしても、まだ足りないという想いが拭えないのだ。
 夕陽は凄まじい速さで西の丘陵へと沈もうとしている。主の帰りを待ちわびて、執事のサイラスが気を揉んでいるだろう。今日を最後に、また当分の間、領地へ戻ることはなくなる。友人であるバリー伯爵夫妻から、例年通りクリスマスの祝祭を共にという招待をもらっているし、年が明けて暫くすれば、また社交シーズンが始まる。次にこの領地へ戻ってくるのは、シーズン終わりの初夏の頃だろうか。

 ウィロビー伯爵ウィリアム・ナイトレイは、背を屈めて、冷え切った指先で愛しげに銘文を撫でた。まるで、キスをせがんで恋人の頬を撫でるような、優しく、愛情のこもった仕草だった。
「アビー、寂しいだろうけど、春まで我慢してくれないか?」
 菫色の瞳をした娘が、かつてと変わらない笑顔を浮かべている様子が、墓標に重なって見えた。彼の熱い想いを本当に知ることのないまま、瞳を永遠に閉ざしてしまった彼女に相応しい、真っ白の大理石は、固く、冷たかった。まだ腕に残っている温かく柔らかかった彼女の感触が、年々薄れていくことが、ウィルは怖ろしくてたまらなかった。

「私の心は、君の側に残していくから」
 墓石の上に置かれた白百合の花束が、風に煽られて、白い花弁を揺らした。彼女がこよなく愛した花を、一年を通して墓に手向けられるように、ウィルは庭師に命じて、温室で特別に栽培させていた。
 白い花、白い墓石、白い十字架。じきにここにも冬将軍がやってきて、雪で丘を覆いつくすだろう。墓碑に刻まれた言葉も、一面の銀世界に埋もれてしまうのだ。鐘の音のような彼女の澄んだ笑い声と、優しい瞳の面影を、すっかりと隠して。

 ――愛しい娘であり、恋人であるアビゲイル・サラ・デイヴィス、ここに眠る――

 姿を失い、誰もが忘れたとしても、ウィルだけは、彼女を忘れることはない。記憶は微かに遠のき、薄れつつあろうとも、菫色の美しい目をした娘のことを、ウィルはまだ、確かに愛していた。


* * *

 庭へ向かって張り出したテラスに面した掃き出し窓から、初冬の太陽の光が、やわらかく室内へと入ってくる。暖かなクリーム色を基調に調えられた居間は、この館の中でも、家族のお気に入りの場所だ。外に出れば、めっきりと冷え込んだ風にぶるりと身体を震わせるのだが、暖炉に火を絶やさないこの部屋の中は、春の午後のような暖かさに満ちていた。海からやってくる冷たい風も、この館を避けて通っているかのようだ。
 持ち主の名前から、レイノルズ館と呼ばれるこの館は、淡いクリーム色の外観を、生垣の中に隠すようにして建っていた。レンガ造りの三階建ての建物は、コッツウォルズ地方の美しさに憧れた先代によって、この辺りではあまり見かけない黄色がかった色に塗られている。

 ドーヴァー海峡に面して白い断崖がそそり立つことで有名な、ニューヘヴンの近郊で、レイノルズ家は何代も続く由緒あるジェントリー階級で、地元では爵位を持たなくとも、名家として人々の尊敬を受けている。先代の一人娘が、英国きっての名門貴族に嫁いでからは、それまでにも増して、この地域では重要な一族として認識されていた。
 とはいえ、レイノルズ家の当主は、豪奢な城館を建てようという気を持っていなかった。蔦に覆われた塀と門柱の脇に、小さな門番小屋こそ作られたものの、枝振りの見事な木々の合間を通って緩くカーブする道を進むと、すぐに館が見えてくる。館正面の横手には厩舎が、館の裏手には、小規模な温室と納屋、家族のプライバシーを守るようにぐるりと続く生垣があり、その向こうには池が静かな水面をたたえている。

 こじんまりとしたレイノルズ館の中で、この居間が一番大きな部屋だ。家族の団欒を重視したという先代当主――サラの祖父が、愛妻に敬意を表して館の手入れをした時に、現在の広さに改築したのだという。毎年この時期が来るたびに、サラは、自分が生まれる前に亡くなったという祖父に、感謝の念を覚えるのだ。幼い頃には『母の実家』という認識しか持っていなかったレイノルズ館だが、ここで過ごす時間が増えるにつれて、自分が生まれ育ったハンプシャーの豪華な屋敷よりも、『我が家』だという感覚が強くなっている。今や、サラにとって『愛すべきホーム』は、レイノルズ館を意味している。
 数えてみると、サラがこの館で多くの時間を過ごすようになってから、七年が経とうとしている。その間に、病みついて寝たきりの母の代わりに、サラが実質的な女主人として、家政に関わる様々な役目を引き受けるようになっていた。

 今年も大きな部屋の真ん中に立ち、バリー伯爵令嬢サラ・ヒューズは、目の前に据えられた大きな樅の木を見上げていた。来月に迫ったクリスマスに備えて、目下、飾り付けの手直しを行っているところである。
 艶やかな鳶色の髪は、癖がなく真っ直ぐに背中に落ちており、シルクの手触りを連想させる。熱心に樅の木を見つめる瞳は、深い青色で、快活な光が常に宿っている。取り立てて美人とはいえないが、平均的に整った顔立ちの中で、歪んだ口元には愛嬌が漂っており、どことなく人を惹きつける魅力に溢れている。年齢に似合わない落ち着き払った物腰の下には、悪戯っぽい快活な娘が隠れているのではないかと思わせる、そんな雰囲気を持っている。
 サラは、昨年社交界デビューしたばかりだが、昨年デビューの令嬢たちの中では、家柄が群を抜いていた。
 王族とも親交の深いレイモンド侯爵を父方の祖父に、亡き父の跡を継いだ長兄のアーサーはバリー伯爵、次兄のブラッドはフォード伯爵であり、母方では子爵家の血が混じっている。ヒューズ一族は他にもいくつかの爵位や称号を有しており、王族にも引けを取らない名家として、社交界でも一目置かれている。注目を浴びることの多い一家であった。

 サラは最近まで、二ヶ月ほどレイノルズ館を空けていた。初めての社交シーズンが終わってから、やれやれとばかりにウェストサセックスにあるレイノルズ館に帰ってきたのだが、じきに祖母であるレイモンド侯爵夫人に呼び出され、毎年恒例、バースへの避暑に付き合わされた。その後は兄たちの呼び出しに応じて、一度ハンプシャーのマナー・ハウスに戻り、次兄の妻の出産を見守った。無事に赤ん坊が産まれたのを確認して、やっとニューヘヴン近郊のレイノルズ館へと帰着したのである。
 留守の間に、有能な使用人たちがクリスマスの準備を始めていてくれたのだが、祖母や兄夫婦の相手をしている間に、暇を持て余したサラが手ずから作ったオーナメントは籠いっぱいほどにもなっていた。レースで編んだ天使やトナカイを加えれば、樅の木はいっそう賑やかになるだろう。

「ジェイ、その天使はもうひとつ上の枝にお願い」
「はい、お嬢様」
 踏み台の上に上った青年が、大きな手には不似合いな繊細なオーナメントを、一つ一つ慎重に、サラの指示通りに枝に掛けていく。一通り飾り終えると、サラは満足そうに、真っ青な瞳を煌かせて頷いた。
「これでいいわ」
「随分賑やかになりましたね」
 サラの後ろに控えて見守っていた、小柄で小太りの、ころころした体型の女性が感想を述べた。固く小さな髷に結った髪は、見事な銀髪だ。働き者の手をした、深い皺の刻まれた顔は、見る者に厳格な印象を与えるが、サラに向けるはしばみ色の小さな瞳には、深い愛情が滲んでいる。ベッシー・リードはヒューズ家の元乳母で、サラにとっては母親代わりのような存在だ。乳母の役割を終えてからも、侍女としてサラに仕え、彼女を頼もしく支えている。

「素敵でしょう?」
 サラはベッシーに微笑みかけると、黙々と踏み台を片付けようとしている青年を呼び止めた。
「ジェイ」
 名前を呼ばれて振り向いた青年は、女性にしては長身のサラと比べても背が高く、見上げなくてはならない。がっしりとした屈強な身体をお仕着せで包み込んでいるが、日焼けした顔や手からは、彼が、お行儀よく室内の仕事に従事するよりは、屋外の仕事に慣れ親しんでいることが窺える。黒髪の下で黒い瞳が、誠実そうな光を浮かべている。顔立ちは荒削りではあるものの整っており、もう少し愛想よく振る舞えば、きっと夢中になる女性が増えるだろうに、と、サラは常々思っていた。だが、サラがそう口にするたびに、ベッシーは鼻でフンと笑い、決まってこう言うのだ。
 ジェイスン・アドラーほど、黙りこくっているのが好きな若者はいませんからね。

 確かにジェイは無駄口を聞かず、どちらかといえば動物や自然を相手に仕事をする方が得意だ。使用人仲間のメイドたちから話しかけられれば、ぽつりぽつりと答えはするが、自分から進んで会話をするような性質ではない。それよりは庭師を手伝ったり、厩舎を手伝ったりする方が、気楽なようだ。その理由が、単純に性格的なものか、それとも僅かに残るハンプシャー訛りが口を重くさせているのか、本当のところまではサラにもわからない。恐らく両方であろうと推測するだけだ。
 そんな彼が、誰よりも心を許しているのが、サラとその母親で、彼の役回りもサラ付きの従僕ということになっている。そのため彼女の命令を最優先し、空いた時間に庭師や厩舎を手伝っているのだが、同じくサラに仕えるベッシーには頭が上がらないらしい。肝っ玉母さんタイプのベッシーは、遠慮なくずけずけと物を言う時があるから、無理はない。サラも未だに、ベッシーに頭が上がらない時があるから、その点ジェイには深く同情している。
 兄たちと離れて暮らすことが増えたサラにとって、5歳年上のジェイは、兄代わりでもあり、親友でもある、身近な存在だった。

「手伝ってくれてありがとう。助かったわ」
 サラが笑顔と共に礼を述べると、ジェイは軽く頭を下げた。
「厨房にパイが余ってるの。良かったらこの後、お父様たちに持っていってあげて」
「お嬢様、それは――」
 ジェイが口を開きかけたが、サラは笑顔を浮かべたまま、遮るように話し続けた。
「モンド夫人が沢山作りすぎてしまったの。わたくしたちだけでは到底食べ切れなくて困っているのよ。だからあなたたちで、手伝ってちょうだい」

 レイノルズ館の厨房を切り盛りするモンド夫人は、料理に関しては天才的な腕を持ち、失敗することはあり得ない。無駄な材料やゴミを出すことを嫌う彼女は、無駄のない仕事をするのが身上だ。無論、ジェイもそのことはよく知っている。戸惑ったようにサラを見下ろして、何とか口を開こうとしたジェイを、今度はベッシーが遮った。
「無駄ですよ、ジェイ。この方が一度決めたら、引っくり返すのは無理ですからね。大人しく受け取るしかないでしょうよ」
 聞かなかった振りをして、サラはなおも続けた。
「今日の午後は、他にすることがないから、あなたも家のことをするといいわ。こちらはもう大丈夫だから、午後はお休みにしましょう」
 笑顔で見上げてくる若い女主人を暫し見つめてから、ジェイは諦めたように頷いた。
「ありがとうございます、お嬢様。何かあればすぐにお呼び下さい」
「ええ、そうするわ」

 ジェイの家は、レイノルズ館の敷地内にある。館の門番小屋がそれだ。彼の母親も館の厨房を手伝っていたのだが、一昨年亡くなり、今はジェイの父親と弟が、門番小屋に住んでいる。ジェイ自身は館内の使用人部屋に寝起きしているが、時折年取った父親の手伝いに、門番小屋へ顔を出すのだ。
 サラについて、ジェイも長く館を空けていたから、きっと雑事が山積みになっているに違いない。

 青年が居間を出て行くと、ベッシーがやれやれとため息をついた。
「アドラー一家は、バリー伯爵ご一家にどれだけ感謝しても足りないでしょうね。こんなに良くしていただいているのですから」
「その話はやめてちょうだい」
 いつになく鋭い口調で、サラが止めた。本人も、自分の口調があまりに鋭いことに驚いたのだろう、細い背中がびくりと強張った。部屋の入り口に背を向け、窓辺に立って外を眺める彼女の表情は、ベッシーからは見えない。だが、ほっそりと痩せて薄い背中から発されるのは、強い拒絶だった。彼女がこの話題を好まないのは知っているので気をつけてはいたが、うっかり地雷を踏んでしまった。ベッシーはため息を堪えて、女主人の背中に謝罪した。
「すみませんでした、お嬢様」

 サラは、ベッシーの贔屓目から見ても、心根の優しい娘だ。両親の馬車の事故と父の死、母の病気という衝撃的な事件を、幼いながらに克服し、前を向いて生きてきた。このレイノルズ館が『ホーム』としての温もりを失わないのは、実質的に館を切り盛りするサラの人柄ゆえだと、ベッシーは考えている。
 だが、実際は、サラは他人が考えるほどに、両親の事故と、それに続く境遇の変化を乗り越えていないのではないか。時折、そんな思いがベッシーの胸を掠めることがある。このように、彼女が、バリー伯爵家とアドラー家との因縁を、口にするのを避けようとするのを目の当たりにすると、特に。

 サラの背中から、力が抜けた。
「――私こそ、きつい言い方をしてごめんなさい」
 ベッシーに背中を向けたまま、サラは口早に続けた。
「ベッシー、館うちでその話を二度としてはだめよ。誰が聞いているかしれないわ。ジェイたちは何も悪くないのだから」
「承知しました、お嬢様」
 不承不承、ベッシーは頷いた。声には不満な様子が多少出てはしまったが、サラはそれ以上ベッシーを咎めたりはしなかった。
「わかってくれればいいのよ」
 呟くように言って、サラは何事もなかったかのように踵を返し、居間のドアへと向かった。彼女が身に着けているドレスの、青い生地がひらりと翻る。以前は目の覚めるような深い色合いをしていたが、今では色褪せてしまっている。サラが家事を監督する際に身に着けるドレスは、大抵このような古いドレスで、ベッシーはそれが不満だった。
 ふたりの兄の努力もあり、ヒューズ一族は領地や事業経営に堅実な実績を重ねており、経済的に不自由したことはない。祖母の侯爵夫人もお洒落好きであり、侯爵家や兄たちから、サラの服飾費は十分に与えられている。直接ドレスメーカーを送り込んでくることもあるし、ベッシーにサイズを問い合わせて、仕立てたドレスを送ってくることもある。
 サラの部屋のクローゼットには、まだ袖を通していない綺麗なドレスが何着もかかっている。外国から取り寄せた生地やレースで、見事に仕立てられた色とりどりのドレスを見れば、ベッシーだってうっとりしてしまうのに、当の本人は、あまり頓着しないのだ。
「お嬢様、この間届いた新しい普段着用のドレスに、着替えて下さいまし。いくら田舎とはいえ、もっと身分に相応しい格好をなさらなくては」
 つい咎めるように、細い背中に訴えると、サラはドアノブに手をかけ、振り向かずに静かに答えた。
「庭を歩いたりすれば、どうせ汚れるんですもの。この方が気楽に歩き回れるわ」
「庭仕事など、庭師に任せておけばいいんです。いいえ、家のことも、家政婦がいるんですから、お嬢様が全てをなさる必要はないんですよ。社交界デビューもされたことですし、これからはもっと身だしなみに気を遣っていただかなくては。何しろバリー伯爵家の一人娘で、レイモンド侯爵の孫娘なんですから」
「私はいいのよ」
 静かに、だが、きっぱりとサラは言い切った。この話題が出ると、彼女はいつも、ベッシーの意見を断固として退けるのだ。
「きちんとしなければならない時は、そうするわ。でもここは田舎だし、堅苦しくする必要はないでしょう。仰々しいのは嫌いだし、飾り立てるのも嫌いよ。私はこれがいいの」
 本来は結い上げなければならない鳶色の髪も、左右を緩く編んだだけで後ろにまとめ、少女のように背中に流したままだ。格好だけ見ると、貴族の娘らしくない。奥様も「あの子の好きなようにさせてやって」と微笑むだけだから、余計にお嬢様は頓着しなくなるのだ。「大丈夫よ、ベッシー。きちんとすべきところは、あの子もわきまえているわ」と、奥様はいつも仰るのだ。実際ベッシーもそれには同感なのだが、手塩にかけたお嬢様が、綺麗に着飾っているところを見るくらいの楽しみは、あってもいいと思っている。
「シーズン中はきちんとしたし、バースやゴールド・マナーでもちゃんとしたわ。ここでくらい、好きな格好をしたっていいでしょう?」
「お嬢様・・・・・・」
「それにあんな綺麗なドレス、私には似合わないもの」
 自嘲気味に言い置いて、サラは廊下へと姿を消した。残されたベッシーはやれやれと首を振り、ひとりごちた。
「お嬢様ももう少し自信を持って下さればいいのだけどねぇ・・・」

 サラは、自分を不器量だと思っている節がある。女性にしては高めの身長や、豊満とはいえないほっそりした身体つきに不満を持っているようだが、決して不器量な娘ではない。ベッシーの贔屓目を差し引いても、サラは人並み以上の容姿を持っていると思う。
 彼女のふたりの義姉が、タイプの異なる美女であるから、つい彼女たちと比較してしまい、余計に自分に自信が持てないのだろう。だがサラには、美人ではなくても、人を惹きつけてやまない生き生きとした魅力があるのだ。寡黙なジェイがサラに絶対の忠誠を誓っているのも彼女の人柄によるものであるし、驕り高ぶったところのない彼女を慕う者は、沢山いる。
 社交界デビューで、多くの紳士に求愛されれば、きっと自信を持てるようになるだろうとベッシーは思っていたが、この年の話題を独り占めしたのは、他ならぬサラの次兄と、彼の妻となった貴婦人だった。
「ブラッド坊ちゃんも、もう少しタイミングを考えて下さればよかったのにねえ」
 愚痴めいたことをぶつぶつ零しながらも、ベッシーは、ブラッドの結婚を心底祝福している。あのやんちゃだった坊ちゃんがご立派になって、と、結婚式当日はハンカチを目に当てっぱなしだったくらいだ。公私ともに充実し、安定しているアーサーとブラッドのことは、もう心配ない。それぞれの奥方が、きちんと夫を支えてくれると信じているから。

 ベッシーの心配の種は、ただひとり、ヒューズ家の末娘のことであった。サラは、このまま田舎に埋もれてもいいと思っているのではないか。時折、そんな懸念がベッシーを悩ませる。
「誰か素敵な紳士が、お嬢様に自信を持たせてくれればいいのだけどねえ・・・」
 ベッシーには『素敵な紳士』の心当たりがあったが、彼はサラを、妹のようにしか見ていない。一人前のひとりの貴婦人として彼女を扱い、求愛してくれれば、きっとサラも自信を持てるようになるだろうに。世の中なかなか上手くはいかないものだと、ベッシーはため息をついてから、モンド夫人にパイの余りがないかどうか聞いてくることにした。

2010/07/11up
2010/10/02改訂


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