こころの鍵を探して

幕間 過去の残照[1]

 きっかけは、些細なことだった。
 取るに足らない小さな出来事が、全ての運命を狂わせてしまった。


* * *

 年の近い妹は、負けん気が強く、頑固で、癇癪を起こすことが多かった。兄の言うことに素直に耳を貸さず、泣き喚いて、地団太を踏んで、とりつく島もないのだ。そうなると、あとは気長に、彼女の気が済むまで待つしかなかった。

 両親は農場の仕事で忙しく、弟妹の世話をするのはジェイの役目だと、いつからか決まっていた。家事をしつつ、空いた時間には農場の手伝いもしつつ、少年の毎日は過ぎていく。

 ハンプシャーのこの辺りは、領主である伯爵様がきちんと治めて下さっているから、治安も良く、下働きの者たちが酷い扱いを受けることはなかった。
 とはいえ、取り立てするだけの農場主はともかく、彼らに管理されている農夫たちの仕事は、決して楽なものではない。夜明けから日暮れまで身を粉にして、汗を流しながら、作物や家畜の世話をするのだ。体の節々が痛むまで働くわりには、彼らの懐に入ってくる収入は多くなく、色褪せた洋服を幾度も直して、擦り切れるまで着なければならなかった。鞭で打たれない代わりに、彼らが農場主や町の住人たちと同じ立場に並び立つことは、天地がひっくり返ってもあり得なかった。

 ジェイたちの住む家も、街道から少し引っこんだところにある古ぼけた住居群の中にあった。そこにはジェイたち一家と同様、農場で働いている者たちが、ささやかな暮らしを営んでいた。
 彼らの雇い主は、農夫を監督する者たちだけは農場内に住まわせたが、農夫やその家族たちを敷地内の小奇麗なコテージに住まわせることなど考えもしなかった。農場と目と鼻の先の敷地外に、古くて建てつけの悪い薄暗い小さな家を数件用意してやるのがせいぜいだった。
 あまり邪険に扱うと、領主様からお叱りを受けるかもしれないという不安が、農場主の側には常にあったようだが、手厚く遇してやる必要はなかった。最低限、農場の仕事に差し障りがなく、領主様のご機嫌も損ねない程度で十分だったのだ。

 ジェイたちが暮らす辺りの街道は、土質があまり良くなかった。この街道は、領主様の屋敷と町や村を結ぶ重要な道路のひとつだったが、雨が降ると地面がぬかるみやすく、轍が深くなりがちで、馬車の車輪を取られやすかった。下手をすると横転しかねない。
 そこで、荷馬車で通る地元の人間は、できるだけこの区間を回避して、横道を駆使し、街道に出るように知恵を絞っていた。

 街道から続く細道は更に泥だらけで、家に帰ろうとするだけで、ジェイたちの靴には、いっぱいの泥がこびりついた。そんな靴で家の中に入れば、自然と、家中泥まみれになってしまう。
 そのため、雨が降るたびにジェイの気持ちは憂鬱になった。せっかく家中を掃いても、またすぐに汚れてしまうからだ。妹のモリーは兄の手伝いを嫌がったし、弟のサムは幼すぎて、手伝わせるわけにはいかなかった。

 その日も、前日の雨の影響で、道が激しくぬかるんでいた。食事を作り、洗濯物を干し、繕い物をし、ジェイが家中の泥をどうにか掃き出した時には、午後も半ばになっていた。道の泥には馬や牛が通りすがりに落としていった糞も混じり、一度床にこびりついてしまうと、落とすのに手間がかかる。泥との格闘を終えた時には、ジェイはぐったりと疲れきっていた。

 毎日毎日、こうした手間の繰り返しだ。
 仕事で疲れ果てて帰ってくる両親は、家の戸口でできるだけ汚れを払ってくれるからいいのだが、幼い弟妹は、汚いまま平気で家中を汚して回る。注意をすれば、素直な弟は謝罪して、同じ間違いを繰り返さないよう気を配るのだが、妹のモリーに限っては、反発するだけだ。
 じきに、モリーに弟の世話と家事を任せて、ジェイ自身も農場へ働きに出かけなければならない日がくるだろう。健康な身体を持つ少年ならば、農場で農夫としての義務を果たさなければならない。そして父母の仕事を少しでも楽にしてやらなければならない。
 ジェイにとって、農場の肉体労働は、さほど恐るべきことではなかったが、妹に家のことを全て任せられるかどうかが、非常に不安だった。小さなサムの世話はまだまだ手がかかるが、モリー自身も世話が焼ける。ジェイに任せきりで、家のことを手伝おうともしない。そしてたまに小言を言えば、反発して泣き叫ぶ。

 軽い頭痛を覚えて、ジェイはため息を吐き、自分がこなさなければならない役割を思い出した。裏口から外に出て、今夜のパンを買い求めに行かねばならなかった。
 暫くして戻り、念入りに靴の泥を落として裏口から台所に入ってパンの袋を置き、居間へ続くドアを開けて、ジェイは絶句した。綺麗にしたはずの床には、どろどろの塊がこびりつき、黒い足跡が玄関から部屋中にペタペタとついている。硬直してドアのところで立ち尽くしたままの兄に、犯人は無邪気な顔をして、声をかけてきた。

「今夜の夕食は何?あたし、お腹空いた」
「――モリー」
 椅子に腰掛け、ぶらぶらと足を揺らす少女は、低く呼びかけられても、何も感じないらしい。ジェイに掃除を全て押しつけて、戸外へ駆け出していった少女は、友人たちとたっぷり遊んだのだろう、満足げな顔をしている。その証拠に、靴だけでなく、着ている服の裾にも沢山の染みが飛び散っている。泥の染みは、洗濯してもなかなか落ちないのだ。

 不意に、身体の底から激しい怒りが突き上げてきた。苦労してつぎはぎをあて、着せている服なのに、あんなに染みを飛ばしては、落とすのにどれだけ時間がかかることか。床も、また綺麗にするまでに、一体どれだけ手間隙がかかることか。
 両親に苦労をかけないよう、必死に家のことに目を配り、弟妹たちにも不自由な想いをさせないよう世話を焼くことに、ジェイは、唐突に眩暈がするほどの疲労を覚えた。どれだけジェイが心を砕いても、モリーには『当然のこと』としか受け止められないのだ。感謝をして欲しいわけではないが、兄がどれだけ大変な想いをしているのか、そろそろ察してもいい年頃だ。今のモリーくらいの年には、ジェイは主婦業をこなしていたのだから。
 モリーには、きちんと言い聞かせなければならない。油を売っていないで、お前も自分の役割を果たすべきだと。

 ジェイは、呼吸を繰り返してどうにか怒りを抑えると、できるだけ平静を装った声を出した。
「モリー、前にも言っただろう?家に入る前には、きちんと泥を落としなさい」
「そうだっけ?」
 悪びれた風もなく、モリーは足をぶらぶらさせて、興味なさそうに唇を尖らせた。自分に都合の悪い話になると、途端に態度が悪くなるのだ。ジェイは、両手を身体の脇でぐっと握り締めた。
「汚した床は、お前が綺麗に掃除しなさい。その服も、汚れが落ちるまでお前が自分で洗濯するんだ」
「嫌よ!」
 モリーは激しく叫んで、椅子から飛び降りた。どすんという衝撃で、靴の泥が幾つか、床にパラパラと飛び散った。
 モリーは顔を真っ赤にして、顎を突き出し、兄を睨んでいる。

「何であたしがやらなきゃいけないの!これはジェイの仕事でしょ?」
「モリー、いい加減にしろ」
「やだってば!ジェイがやればいいのよ。あたしに押しつけないでよ!」
「モリー」
 たしなめるように名前を呼んでも、妹はますます激高し、地団太を踏んで、叫ぶだけだった。ジェイの腹の底から、溢れてくるものがあった。
「自分が面倒だからって、何であたしが――」
「モリー!」
 溢れ出たものに突き動かされて、ジェイの身体が勝手に動いた。一瞬、何が起きたのかわからなかった。ハッと気づくと、振り下ろした右手は痺れ、目の前では左の頬を押さえたモリーが、呆然とこちらを見上げていた。

 妹を平手で打ったことなど、これまでなかった。
 ジェイは途端に後悔に駆られ、立ち尽くす妹へ向かって、一歩足を踏み出した。
「モリー」
「ジェイなんて大嫌い!!」
 モリーはぐしゃぐしゃに顔を歪め、怒りと哀しみと悔しさの入り混じった絶叫を兄に叩きつけると、身体ごとぶつかるようにして背後のドアを開け、家の外へと駆け出した。妹からこれまでにない拒絶をぶつけられ、ジェイは身体をびくりと竦めたものの、すぐに後を追って走り出した。走りながら、妹の柔らかな頬を打った右手を、悔いるようにぎゅっと握り締めた。
 胸の中は、後悔と、恥ずかしさがごうごうと渦を巻いていた。暴力に訴えたことは、妹に謝らなければならないし、妹自身にも、己の振る舞いは恥ずかしいことだと解らせなければならない。それには、きちんと話をしなければならなかった。傷ついた心を抱えたまま、モリーをひとり、遅い午後の街道に出すわけにはいかなかった。

 家の前の道を、街道へと向かって駆けていくモリーの背中が見えた。一目散に街道へと駆けていく。
 ちょうど街道へ出る角には、向かって右手に雑貨屋が建っており、左手には酒場兼宿屋があるため、視界が遮られている。ジェイたちは街道へ出る手前で一度立ち止まり、出会い頭に何かと衝突することがないよう、いつも気をつけていた。酒場の数件先で一旦家屋が途切れるため、角から少し離れて街道の様子を見れば、左手からやってくる通行人の姿を視界に収めることができる。
 モリーたちにも日頃から、予め通行人がいないかどうか確認してから街道へ出るよう言っているが、きっと今のモリーには、周囲の状況を把握するような余裕はない。ひたすら兄から逃げようとしているのだから。

 ジェイの視界に、左からやってくる馬車の姿が飛び込んできた。無蓋の軽四輪馬車で、かなりスピードが出ているらしく、小さな豆粒のようだったものが、ぐんぐん近づいてくる。これではモリーが危ない。ジェイはもつれそうになる足を叱咤し、走る速度を上げた。
 モリーの背中が近づいてくる。洋服に散った黒い点々が、はっきりとジェイの目に捉えられた。ジェイは右手を必死に伸ばした。先ほど妹を打った手を、今度は危険から守るために、ぐいと伸ばした。
 妹の細い腕を掴む直前で、泥道に足を取られ、ジェイのバランスが崩れた。近づきかけた妹の背中が、再び遠ざかる。転びそうになる直前で踏み止まり、ジェイは歯を食いしばるようにして妹の名を呼んだ。彼の鼓膜を、馬車の車輪のガラガラという音が揺さぶった。
「モリー!」

 全てがスローモーションだった。

 届かない手の先、妹が棒立ちになり、立ち竦んでいる。そこへ突っ込んできた馬車は、少女を踏み潰す直前で急停止し、二頭の馬が鋭いいななきをあげて、後ろ足で立ち上がった。手綱を持つ身なりの良い男が、必死に馬を制御しようとしている。その隣に座っている上品な女性は、悲鳴を上げて、馬車にしがみついている。
 小さなモリーの頭の上で、馬の固い蹄が、空を掻いた。モリーが蹴られたら、ひとたまりもない。
 ジェイが届かないながらも手を伸ばした時、不吉な音が馬車の車輪を真っ二つに折り、車体がゆっくりと向こう側へ倒れていった。二頭の馬も、地面を揺るがしながら、どうと倒れ落ちた。すさまじい地響きが起き、雨のように飛び散った細かな泥が、モリーとジェイを汚した。
 女性の頭に止まっていた真っ白い帽子が、ひらひらと宙を舞っていた。まるで冬空から落ちてくる雪のように、優雅な装飾を施されたその帽子は螺旋を描くように降ってきて、モリーの足元へ音もなく着地した。

 ふたりはただ、呆然と、横倒しになった馬車の車輪が、カラカラと音を立てて回るところを眺めていた。倒れ落ちた馬と、馬車に乗っていた人の、苦痛に満ちた呻き声が、向こう側から聞こえてくる。
 騒ぎを聞きつけて、酒場や雑貨屋から大人たちが飛び出してきた。彼らは惨状を見て取るや、大声で加勢を集め、馬車の向こうで倒れている人を救出すべく動き出した。ジェイは棒のように感じる足を動かし、立ち尽くす小さな妹の背中を、後ろから抱きしめた。モリーの身体は、細かく震えていた。

 誰もが真っ青だった。ジェイも、蒼白な顔色で、ひたと目の前の光景を見つめていた。大変な事故を起こしてしまったと、それだけははっきりと解っていた。
 横倒しになった馬車の扉に描かれている紋章は、この辺りを治める伯爵家の家紋だった。馬車から投げ出された、手綱を握っていた男性こそ、当の伯爵その人だった。
 馬車の車輪のうち、無事に残ったひとつが、衝撃の勢いを証明するかのように、音を立てて空回りを続けていた。カラカラと虚しく回るその音が、思わぬ事態に巻き込まれた兄妹を嘲笑うように、いつまでも響いていた。

2010/07/23up


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