こころの鍵を探して

幕間 過去の残照[2]

 ハンプシャー随一の城館と言われるゴールド・マナーは、英国でも屈指の景観を誇る。
 広々とした敷地には豊かな緑が溢れ、テスト川が水面を輝かせながら横切っている。当主自慢の巨大温室には、一年を通して花々が咲き乱れ、庭師が丹精込めた庭園は、迷子になる者が後を絶たないほど趣向を凝らして設計されている。天高くそびえる塔を持つ城館は、バリー伯爵家の先祖がこの地に領地を賜った中世に建設されたものだが、内部は歴代の当主によって手入れや改造が施され、極めて快適に過ごせるようになっている。

 現在でこそ、一族の家長はレイモンド侯爵を名乗ってはいるが、一族が有する数々の称号の中でもっとも古く、由緒あるものが、バリー伯爵位であった。歴代のレイモンド侯爵は、成人の証としてバリー伯爵の称号をまず受け継ぐのが慣例となっており、一族が所有する中でもっとも大規模で由緒ある城館が、バリー伯爵家のカントリー・ハウスとなっているのも、そうした事情による。
 ゴールド・マナーで生まれ、成長し、継いだ者が、いずれ侯爵位を継ぐ。それは、代々一族に受け継がれてきた流れである。

 当代のバリー伯爵も、レイモンド侯爵の嫡子であり、いずれはロンドンに侯爵が所有する城館を引き継ぐ予定となっている。ゴールド・マナーは、伯爵自身にとっても大きな意味を持つ城館であるが、伯爵の子供たちにとっても、慣れ親しんだ『我が家』であった。社交シーズン以外は、伯爵一家は風光明媚なハンプシャーで過ごすことになっており、豊かな自然に囲まれて、子供たちは元気いっぱいに成長していた。

「ベッシー、私のお人形が・・・ベティが見つからないの」
 今にも泣き出しそうな顔で、おずおずと戸口に立つのは、伯爵家の末っ子だった。当代の伯爵自身と、その三人の子供たちの養育に携わってきたベッシーは、困ったことだと内心思いながらも、表情には出さず、子供部屋を片付ける手を止めて、サラに尋ね返した。
「寝室に持っていったままじゃないんですか?昨夜、一緒に寝るって言ってたでしょう」
「それが、見つからないの。お昼ご飯を食べてから、お部屋に戻った時にはなかったの。椅子の上に座らせておいたのに」
「それは困りましたねえ」
 気の毒そうに相槌を打ちながらも、ベッシーは胸の裡で、犯人の顔を思い浮かべた。末娘のサラに悪戯を仕掛けるのは、次男のブラッドしかいない。長男のアーサーは、妹の持ち物を隠すような悪戯はしなかった。アーサーの場合は年齢が離れているせいか、喧嘩に加わるというよりも、仲裁に入ることが多かった。サラをからかって楽しむのは、大概ブラッドだ。普段は城館を離れているものの、たまたま一昨日から帰ってきている。

 大方、サラが部屋を空けている間に人形を持ち出し、どこかに隠したのだろう。サラが困っているのを見て満足すれば、こっそり元の場所に返してはくれるから、今回も直に人形は返ってくるはずだ。
 それでも、ブラッド坊ちゃんには、あとで一言言っておかなくてはならない。きっと、知らないととぼけるだろうけど。
 ブラッドとサラも年齢が離れているものの、彼にとって小さな妹は、からかうと面白い反応を示す小動物のようなものらしい。酷い悪さはしないものの、ちょこちょこと悪戯を仕掛けてはサラの反応を楽しんでいる。

 人形のベティは、去年のクリスマスに伯爵がロンドンで買い求めてきたもので、サラはそれをとても大切にしていた。兄たちと違って学校に行くことはなく、家庭教師について学んでいる彼女には、気のおける遊び相手がいない。これまで一緒に遊ぶことの多かったブラッドも、数年前から本格的にイートン校で学び始め、ゴールド・マナーにいる子供は、サラひとりだけとなってしまった。この年の春には長兄アーサーが結婚し、ロンドンで暮らすようになったため、広大な城館は、いっそうがらんとしていた。
 ベティは、サラがひとりで過ごす時間が増えたため、寂しくないようにと与えられたものだった。食事や勉強の時間以外は、サラはいつも側に置いて、ままごとの相手をさせたりしている。きっと今日もこれから遊ぼうと思っていたのだろう。サラの小さな顔には、残念さと哀しさと困惑が大きな感情のうねりとなって表れており、かわいそうに半泣きになっている。

 男ふたり続いた後の末娘ということもあって、あまり厳しく接する大人がおらず、一度泣き出すと手のつけようがない頑固なところがある。もちろん無邪気で素直な子なのだが、兄たちにも対等に対抗しようとする気の強さがあるのだ。意地を張って泣かれたら、面倒なことになる。十一歳になるわりに、サラにはまだまだ幼いところが多く見受けられた。兄たちから『泣き虫サラ』とあだ名をつけられるくらいに、その大きなサファイアの瞳からは、涙が頻繁に零れるのだ。
 本気で泣き出される前に気を紛らわせようと、ベッシーは急いで思考を巡らし、別な話題を振った。

「まあ、ベティもちょっと散歩に出たくなったんでしょう。直に戻ってきますよ。ベッシーも一緒に探しますから、心配ありませんよ。それよりお嬢様、今日は奥様に、何をお土産に頼まれたんですか?」
 伯爵夫妻は、少々離れた村に住む知人を訪ねて、昼から出かけている。その帰りには領内の幾つかの町を視察し、夕食には間に合うよう、帰館する予定になっていた。サラは『お土産』という単語にぴくりと反応し、うっすらと涙の浮かんだ目を輝かせた。気を逸らそうというベッシーの企みは上手くいったらしい。

「ドレスの生地よ。お母様が、ベティのドレスを作って下さるんですって」
「あらあら。ベティは随分な衣裳持ちですねえ。あの小さな衣裳箪笥にいっぱい詰まっているのに」
「クリスマスが終わったら、おじい様とおばあ様のところに行くの。その時にベティもお洒落をして、連れて行くのよ」
「それは楽しみですねえ」
 サラの人形には、人形用のドレスをしまう衣裳箪笥が与えられているが、ベッシーの指摘通り、既に沢山のドレスが詰まっていた。あれにこれ以上入るだろうかと、眉を顰めるベッシーをよそに、サラは嬉しそうに、うっとりと笑った。
「私と同じドレスを作るのよ。ベティとは髪の色が違うから、色違いのドレスよ。お母様はドレスを作るのがお上手だから、きっと素敵なドレスになるわ」

 少女は窓辺へとことこと歩いていき、窓ガラスに額と両手をぴたりとつけて、外へと目を凝らした。
「お母様たち、早く帰ってこないかしら」
「もうじきお戻りですよ」
 再び子供部屋の片付けに手をつけ始めたベッシーが、何気なく言葉を返した。その背中では、サラが飽きもせず、窓の外を眺めていた。確かに、いつもと変わらない午後ならば、じきに伯爵夫妻が戻り、サラが両親にまとわりついて、和やかなうちに夕食の時間となるはずだった。

 親子の穏やかな時間が永遠に望めなくなるとは、この時誰が予想していただろう。無邪気な子供時代が不意に終わることになると、サラはまだ、知らずにいた。


* * *

 遠くの丘の上の空が、次第に赤く色づいてきている。じきに、日が西の地平線に向かって沈んでいく時刻になるだろう。

「夕暮れが、随分早くなってきたわね」
 ぽつりと呟いたアメリアの言葉は、馬車の車輪が回る音にかき消されそうなほど小さかったが、隣に座るジェフリーは、きちんと聞き取ったらしい。ぴしりと一度馬に鞭を当ててから、妻に微笑みかけた。
「大丈夫だよ。この調子でいけば、夕飯には間に合うように着くだろう」
「そうね。あなたの腕は確かですもの」

 ドレスとお揃いの、白い帽子のつばに軽く手を当てて、アメリアは夫に向かって軽く頷いた。ドレスと帽子の白い生地が、徐々に赤みを帯びた色合いに染まっていく。夕暮れ時の赤い光の中でも、彼女の真っ青な瞳は色合いを変えることはなく、静かな湖のような落ち着きをたたえていた。すっきりとした横顔は、ギリシア彫刻のように端正で、白い肌が赤い光に照らされている様子は、儚い美しさに溢れていた。
 それに引き換え、ジェフリーの灰色の瞳は、オレンジがかった光を帯びており、鳶色の髪は赤褐色に近い色合いに変化して見えた。真っ直ぐに前を向いて手綱を握る夫の姿を、アメリアはちらりと盗み見て、まるで、太陽の馬車を駆るアポロンのようだと嘆息を吐いた。結婚して二十年以上経過しても、夫の姿に時折見惚れてしまうのを、アメリアはどうすることもできなかった。
 ジェフリーは確かに美男子だが、内面から滲み出る魅力が、初めて出逢った夜以来、アメリアをずっと虜にしていた。この人と結ばれて良かったと、折に触れてアメリアはつくづく幸運を噛みしめている。結婚生活が長引くにつれて疎遠になっていく夫婦が多い英国社交界で、ジェフリーとアメリアは、数少ない幸運なカップルだった。

 手綱を操る彼の手が、ふと目に留まる。馬たちをぴたりと制御する確かな手は、大きくて頼もしく、触れるだけで安心できる。妻を抱きしめ、子供たちを楽々と抱え上げてきた腕だ。子供たちは、父の手が大好きだった。今日も帰宅すれば、きっと末っ子が、抱っこをせがんでくるだろう。
 ジェフリーも、領地経営で多忙な傍ら、暇を見つけては子供たちと触れ合う機会を持とうと努力しており、アメリアが昔夢に描いていた、親子の絆がしっかり結ばれている家庭を、現実にすることができた。長男は先ごろ自身の家庭を築き、次男は家を出て修行中のため寂しくはなったものの、ジェフリーとアメリアの手元には、末っ子がまだひとり残っている。巣立つには早い、手のかかる雛鳥の世話を、まだあと数年は甲斐甲斐しく焼くことができる。男の子は成長すると母離れをしてしまうけれど、女の子は女同士の絆を生涯持つことができそうだから、慰められる。サラが社交界デビューする時には、母の心づくしの支度をしてあげなくてはと、アメリアは早くも将来を思い描き、楽しみにしていた。

 夫とそっくり同じ髪、自分とそっくり同じ瞳を持つ娘の顔を思い浮かべ、アメリアは唇に笑みを刻んで、膝の上に置いた紙包みをそっと撫でた。
「それがサラへの土産かい?」
 馬を操りながらも、ジェフリーはアメリアの動作をきちんと見ていたらしい。アメリアは顔を上げ、前方に注意を払う夫の横顔に、にこりと笑いかけた。
「ええ、そうよ。人形のドレスを作ると言っているの。新年用に仕立てたあの子のドレスと、そっくり同じデザインで、色違いのものを作る約束になっているのよ」
「サラは、随分とあの人形がお気に入りだね」
「そうね。眠る時もベッドに持っていくくらいだから」
 寝台はサラには大きくて、寂しいのも無理はないと思う。ちょこんと横たわった彼女の枕許に、やはりちょこんと座っているベティの組み合わせは、とても微笑ましい。子供部屋へ静かに様子を見に行くたびに、思わずクスクスと笑い出してしまいそうなくらい、心温まる光景なのだ。

 ジェフリーが馬に鞭をぴしりと当てた。
「ではあの子は、お母様の帰りを今か今かと待ち受けているというわけか」
「わたくしが買っていくのがドレスではなくて、生地だということはわかっていると思うわ。まだこれから縫うのですもの」
「しかしそれでも、早く生地を見たいと待っているだろうね」
 夫の声には、慈しみに満ちた笑いが含まれていた。きっと、落ち着かない様子で帰りを待っている小さな娘の姿を想像したのだろう。無理もない。アメリアにも、容易に想像できるのだから。

「そうね。きっと、子供部屋の窓におでこをつけて、外をじっと眺めているに違いないわ」
 アメリアの声にも、笑いが弾む。つい先日も、長い間そうしていたため、両親を出迎えるために出てきたサラのおでこは、真っ赤に痕がついていたのだ。あの時は、吹き出さないように、ふたりとも苦労したものだ。
 泣き虫なのが少々困りものだが、愛らしいサラは、バリー伯爵家の光だ。

「思ったより、戻るのが遅くなってしまったからね。できるだけ急いで着くよう、努力するよ」
 出発時間がずれ込んだ上、街道の状態もあまりよくない。乾いていれば快適に進めるのだが、今日はところどころで車体がガタガタと大きく揺れる。街道についている轍が、深くなっているのだ。下手な御者ならば簡単に車輪を溝に取られてしまうものの、手綱を握るのがジェフリーということもあって、アメリアは信頼しきって全てを任せていた。

 名門侯爵家の嫡子に生まれたものの、ジェフリーは非常に活発で、とりわけ乗馬と馬車を操る腕に長けている。普通の者が難儀してしまう悪路も、彼は馬と見事に呼吸を合わせ、難なく進んでしまうのだ。新婚時代から、ふたりきりでよくドライブへと出かけ、今もそれが続いている。執事たちからは、外出時は必ず従者をお連れ下さいと言われるのだが、ジェフリーに限って間違いはないと、ふたりは身軽に、無蓋の軽二輪馬車で出かけるのが好きだった。箱型の馬車に乗るよりもスピードが出るため、安全性が劣ることには目を瞑っている。確かに普通の箱型馬車に比べれば、安定性も安全性も劣るが、御者がジェフリーなのだから、何ら問題はない。
 今日もこのまま順調に、屋敷までとばすはずだった。この先の村と、それに続く幾つかの農場を越えれば、じきにゴールド・マナーの門が見えてくる。

 緩やかにカーブする街道を進むと、ちょうど真っ赤に燃える太陽が、真正面の丘に沈むところだった。血の色のような濃い赤に目が眩んで、アメリアは思わず視界を閉じた。馬車はぐんぐん進んでいる。隣で馬を操るジェフリーは、素早く帽子のつばを引き下げたようだった。アメリアも帽子のつばを下げ、恐る恐る目を開けたが、視界は赤く滲んだままだった。
 この先の酒場兼宿屋を過ぎれば、また道がカーブするので、夕陽が目を焼くことはないだろう。この赤い光が、ジェフリーの妨げにならなければいいけれどと、アメリアは夫を気遣って一瞥し、そして、赤い視界の隅に、何かが飛び出してくるのを捉えた。横道から飛び出してきたのは、少女だった。

「ジェフ!」
 アメリアが悲鳴のような声で夫の名を叫ぶのより数瞬早く、ジェフリーの腕がびくりと動いた。夫が息を詰め、渾身の力で手綱を引き絞るのが見えた。矢のような速さで進んでいたところを不意に止められた馬たちは、激しくいなないて、後ろ足で立ち上がり、前足で何度も空を掻く。
 アメリアは声にならない悲鳴を上げて、馬車の手すりにしがみついた。膝の上の包みだけは、胸と膝の間で押し潰すようにして、転げ落ちないようにと守る。衝突による衝撃が何もなかったことを感じ取り、神に感謝したのも束の間、大きく身体が傾いた。視界に、燃え立つ空が飛び込んでくる。

 馬車と馬たちの間で殺しきれなかった力が、車体を大きく後ろへと傾けた。アメリアの身体が重力に引かれて後ろへのけぞりそうになるところを、夫の力強い片腕が抱きとめて支えた。夫は歯を食いしばり、残った手は手綱を固く握り締め、馬と馬車をどうにか制御し直そうと、必死に試みている。

 が、夫の舌打ちが耳元で聞こえた途端、今度は車体がアメリアの方へぐらりと傾いた。このままでは外へ投げ出される、と悟った瞬間、逞しい両腕がアメリアを抱き込むようにして引き寄せる。馴染んだ夫の香りが鼻腔をくすぐるのと、抱き寄せられた勢いはそのままに、身体の位置が入れ替わるのは同時だった。
 あ、と思った時には、身体がゆっくりと宙に浮かび、頭を抱え込まれるようにして、地面へと投げ出されていた。夫の上着の間から、茜色の空と、街道の家々が見え、続いて、呼吸を忘れるほどの激しい衝撃がアメリアを襲った。同時に、視界も暗転する。目を瞑っているのか、それとも目を開けているのに周囲が暗いのか、よくわからない。確かなのは、全身が酷く重いのと、胸が痛んで息ができないのと、頬に当たる土の、水分を含んで湿った感触と、繋いだ片手の先の温もりだけだ。耳も何も聞こえない。わかるのは、手袋越しに伝わる体温だけ。

 温もりの主は、無事だろうか。

「・・・っ」
 無理やり息を吸い込むと、徐々に視界が明るくなってきた。咳き込みたくなる衝動をやり過ごし、ずきずきする肺をなだめて呼吸を取り戻すと、周囲の景色がきちんと色を伴って視界に映り、馬の呻き声と車輪が空回りする音が耳に入ってくる。

 車体がスピードを殺しきれず、馬車の外に投げ出されたのだと、アメリアはぼんやりと思った。あちこちが痛み、四肢が重いものの、自分はどうにか生きている。だが、馬車の外に投げ出されそうになった時に、抱き込んでくれた夫は、どうなっただろうか。
 だらりと泥の中に伸ばされたアメリアの手の先に繋がっている彼は。

 自分のものでないような、ずきずきする顔を動かすと、指を絡めるようにして握っている夫の手が目に入った。嫌な予感に軋む心を励ましながら、アメリアは少しずつ顔を動かす。続いて目に映ったのは、力なく投げ出されたもう一方の腕と、黒髪。
 カラカラと回る車輪の音が、アメリアを嘲笑う。

 嘘、と声もなく呟いて、アメリアは更に視線を動かした。頬に泥がべとりとついたけれど、そんなことは気にならなかった。
 ジェフリーは、瞳を閉ざして、地面に横たわっていた。落ちた時に帽子が飛んでしまったのだろう、黒髪を惜しげもなく泥に晒している。

 ヒッ、とアメリアの心臓が軋んだ。夫の黒髪に混じって、泥の上に広がっていくのが、赤黒い水たまりだと気づいてしまった。先ほど見た夕陽のような、鮮やかな赤が、命の色が、夫の頭を縁取っていく。
 片頬を地面に押し付けるようにして横たわる彼の、胸辺りから下は、横倒しになった車体に押し潰されていて、どうなっているのか確かめることはできない。軽二輪馬車とはいえ、上流貴族が使うものだから、しっかりと作ってある。箱型馬車ほど重くないとはいえ、下敷きになった人間が無傷でいられるほど、軽くはない。あの勢いのまま、下敷きになったのなら尚更だ。
 ジェフリーは、馬車から投げ出された瞬間、アメリアの頭を抱え込み、妻を庇って落ちたのだ。アメリアの目は、目の前の光景からそんな現実を読み取るものの、感情が凍りついたように、何の感覚も湧き上がってはこない。アメリアの全身を覆いつくそうとしているのは、恐怖だけだ。

 震える唇が動くと、掠れた声が漏れた。
「ジェフ」

 夫の手を握り直そうと指を動かすと、繋いでいた手がするりと解けてしまう。夫の手がアメリアの手を求めることは、二度とないのだとでもいう風に。夫の頭の回りに流れ出た赤黒い水たまりと、力の入らない指が、残酷な現実を突きつける。
 アメリアの指の間から、夫の命が、するりと零れ落ちていく。当たり前のようにあった日常が、幸せが、すり抜けていく。

「嫌よ・・・ジェフ・・・っ」
 反発する四肢に命じて、夫の側まで這いずって行こうとしたアメリアは、腰の辺りに鋭い痛みを感じて、泥の中に突っ伏した。脳髄を暴れるような耐え難い痛みが、彼女の意識を奪っていく。自分の身体に何の異変が起きているのかわからないまま、アメリアの滲んだ視界は、徐々に暗くなっていく。

 ここで意識を失えば、二度と夫に会えない。

 焦燥に駆られ、夫の指を絡めとろうとして、そこまでがアメリアの限界だった。闇の底に沈んでいく意識の中で、カラカラという車輪の音だけが、やけにはっきりと聞こえてくる。遠くで子供の泣き声が聞こえた気がして、泣きじゃくる娘の顔を思い浮かべたのを最後に、アメリアは、すっかりと意識を手放した。

2010/08/01up


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