こころの鍵を探して

幕間 過去の残照[4]

 音を立てないよう細心の注意を払って扉を閉めると、ベッシーは、それまで取り繕っていた落ち着き払った表情を、途端にしまいこんだ。眉間にはいつもよりも深い皺が寄り、いつもはキラキラと宝石のように輝くはしばみ色の愛情豊かな双眸も、このときばかりは不安げに曇り、小柄な背中には緊張が漂っている。両手を身体の前で握り締め、バリー伯爵家の三兄妹に惜しみない愛情を注ぐ老婦人は、分厚い扉の奥、いましがた退出してきたばかりの部屋の中の様子を、そっと窺った。

 ロンドンきっての高級住宅地のひとつ、グローヴナー・スクウェアにあるバリー伯爵家のタウンハウスは、名門の屋敷に相応しく、どこをとっても高級でしっかりとした作りになっている。屋敷の2階にあるこの部屋も、内装は主に相応しく明るい色調で統一されているが、廊下とを隔てる扉は、部屋の外と内とを明確に区切っていた。廊下に敷かれた絨毯は毛足が長く、ベッシーの立てる物音をすっかりと吸収してしまっているし、この扉は、部屋の中でサラが立てる物音を、すっかりと遮断してしまっている。
 ベッシーは、余程扉に耳を押し当てて、中の様子を窺おうと思ったが、そこはさすがに彼女の長い長いお屋敷勤めで養った分別が、思いとどまらせた。はっきりと目の当たりにしなくとも、幼い頃から育ててきたサラのことならば、ベッシーには手に取るように想像がつくのだ。独りきりになって、涙を流しているに違いない。いや、彼女は涙を流すことさえできないのだ。

 歯車がほんの少しだけ、ずれてしまったのだ。例えば一箇所だけ、服のボタンを掛け違ってしまったように。しかしそれが、全てを狂わせていく。
 ベッシーは重いため息を吐いて、そっと頭を振った。

 今シーズン、サラが少しでもこころ軽く社交界の催しを楽しめるようにと、ベッシーはレベッカや他の侍女たちの手や知恵を借りつつ、最高の準備をしてから若い女主人を華やかな集まりへと送り出してきた。サラ本人はお洒落には無頓着、実際的であればそれでいいという、若い娘には似つかわしくない考え方の持ち主ではあるが、ベッシーたちが用意したドレスや装飾品は、黙って身につけていく。相手のこころを慮ると、何も言えなくなってしまうところが、サラにはあった。きっと気が進まないには違いないが、ベッシーたちがいそいそと用意した衣裳だと思うと、拒めないのだろう。
 サラは決して他のご令嬢に見劣りしていないし、正統派の英国美人では持ち得ない、独特の愛嬌を持っている。本人の自覚がないだけなのだ。だが見るひとが見れば、きっと彼女の魅力に気づくだろう。そう信じて、ベッシーはこころを砕いてサラの準備を整え、送り出してきたのだ。
 決して、あのような顔を見るためではない。

 華やかな場に進んで出て行く性質ではないとはいえ、サラはそれなりに上手く人付き合いをこなし、ほっとした様子で帰宅してきた。しかし今宵は、酷く憔悴し、ベッシーの胸が潰れるような打ちひしがれた様子で、帰ってきた。
 足元も危なっかしく、ジェイに支えられるようにして、サラは俯きながら自室へと上がっていった。玄関ホールで出迎えたベッシーが、声をかけるのを躊躇うほどの惨状だった。
 一緒に出迎えた執事も心配そうに表情を曇らせ、ベッシーと目配せを交し合った。このグローヴナー・スクウェアの屋敷には、レディ・レベッカという女主人がおり、レイチェルという可愛らしい小さな姫君がいるのだが、レディ・サラも、負けず劣らず使用人たちの尊敬と親愛の念を集めている。レディ・レベッカほどの華やかな美しさを持っていなくても、レディ・サラには心根の美しさがある。ここ数年は、ロンドン滞在の時間も短いけれど、使用人たちが彼女を慕うこころは変わらない。

「お戻りなのはレディ・サラだけなの?」
 ベッシーが尋ねると、執事は頷いた。
「閣下と奥様も、じきにお戻りになるかとは思いますが・・・そろそろ夜会もお開きになる頃でしょうから。ただ、先ほどの馬車に乗っておられたのはレディ・サラだけでした。御者も、特に何も聞いていないようで」
「そう・・・・・・」
 ベッシーは腕組みをして、二階へと続く階段を見上げた。この分ではジェイも大した情報を持っていないだろう。伯爵夫妻が帰ってきたら、どちらかから事情聴取をせねばならない。
「お嬢様には私がついています」
「よろしくお願いします」
 幼い頃からサラをよく知るベッシーが側についていてくれれば、心強いことこの上ない。
 普段執事に相応しく、落ち着き払った表情を動かさない彼も、このときばかりはほっとした様子でベッシーに頷いた。

 伯爵夫妻の子供たちはとうに寝床へ入っており、深夜の屋敷内は静けさが漂っている。ひたひたと背中を這い上がってくるような、冷たい不安に満ちた静けさが。
 それに気づかぬ振りをして、ベッシーはサラの部屋へと上っていった。
 薄暗い廊下に、黒く佇む影がある。がっしりとした輪郭を認めて、ベッシーは愁眉を開いた。
「ジェイ」
 呼びかけると、唇をぎゅっと引き結んだ青年が振り返る。その黒い双眸が、痛みに溢れているのを見て取り、ベッシーの胸が再び引き絞られるように痛んだ。普段は寡黙で滅多に表情を変えない青年の瞳は、言葉よりも雄弁に、胸の内を物語っている。

 ジェイが立ち尽くしていたのは、サラの部屋の前だ。部屋まで彼女を連れてきたものの、あのような状態の彼女を見てしまっては、立ち去りがたいのだろう。何しろジェイにとってレディ・サラは、数少ないこころの拠り所の一つなのだから。そしてジェイが伯爵家に仕えるようになってから、サラがあのように取り乱したこともなかったはずだ。ジェイが知っているサラは、いつも穏やかな微笑みを浮かべた、思い遣りある少女だ。その彼女に一晩で何が起きたのだろうか。本人に尋ねるわけにもいかず、もどかしい想いで付き添ってきたに違いない。
 小柄な婦人のはしばみ色の瞳の中に、深い気遣いを認めて、ジェイは小さく息を吐いた。

「お嬢様は?」
「今は中におひとりでおられます。メイドが着替えをと言ったのですが、それも不要だと」
「そう・・・」
 ベッシーがやれやれと首を振り、身体の前で両手を組んだ。
「何か心当たりは?」
「俺はずっと、従僕の控え室にいたので何も・・・。ただ、どうやらライアン卿とウィロビー伯爵と、こちらの伯爵様の間でひと揉めあったようで」
 控え室にいた他家の従僕たちが、そのように噂を始めた途端、ジェイはバリー伯爵に呼び出されたのだった。威厳に溢れた伯爵は、ぐったりとした妹をジェイに引き渡し、屋敷まで連れ帰るよう言い渡した。

「お嬢様は何も仰らないので、それ以上のことはわかりません」
「ウィルトン子爵家の次男坊が、何かやらかしたんだね」
 小さな瞳を光らせて、ベッシーが忌々しげに呟いた。シーズン前から足繁くこの屋敷に通ってくる貴公子に、ベッシーは感心できずにいた。どうにも胡散臭く思えてしまうのだ。彼が魅力を感じているのは、サラ自身ではなく、このバリー伯爵家の財力なのではないかと。
 あの小僧にはお仕置きが必要だね、と物騒な台詞を吐いてから、ベッシーは隣に立つ青年の背中を、ぽんぽんと叩いた。
「大丈夫、私がお嬢様の様子を見てみるよ」

 そうしてベッシーは、ノックをするなり返事を待たずにサラの部屋へと入っていった。まるで何事もなかったかのように、いつも通りの表情を取り繕って。それが、暫く前の話だ。

 そして今、サラの部屋の扉を見つめる彼女は、力なく肩を落としてうなだれている。
 やはりサラの状態は、酷いものだった。
 ベッシーが強引に入室してきたのにも気づかないほど、虚ろな様子で、ベッドに身を投げ出していた。号泣するのでもなく、感情が凍りついてしまったかのように、身じろぎ一つしていなかった。両親の事故の後、父の葬儀を終えてから、サラが涙を流したところを、誰よりも近くで仕えるベッシーですら、見たことがない。
「お嬢様、ドレスを変えましょう」
 いつもと同じ口調で声をかけ、ベッシーはサラを抱き起こした。人形のようにされるがままのサラは、サファイアの双眸を充血させたまま、一言も発しようとしない。綺麗なドレスを皺くちゃにするなど、普段のサラからは考えられない行動だった。家事を取り仕切る者らしく、よそゆきのドレスを皺くちゃにすることが、我慢ならないのだ。着古した普段着のドレスが汚れたりするのは頓着しないのだが、繊細な生地はきちんと扱うのが、いつものサラだった。

 ベッシーに促され、ドレスを脱ぎ、堅苦しいコルセットを外して夜着に着替え、結い上げた髪をほどくまで、サラは黙り込んだまま、大人しく従った。光沢のある髪をベッシーが丁寧に梳ってから、サラはそっとベッドに入った。幼い頃よくしたように、気持ちよく布団で包みこんでやり、ベッシーはサラの髪をそっと撫でてやった。
「このままぐっすりお休みなさい。明日の朝は寝過ごしたっていいんですよ。私がしっかりとアーサー坊ちゃんに言っておきますからね。小言なんて気にせず、眠りたいだけ眠るといいですよ」
 幼子に言い聞かせるように低く囁くと、か細いながらもしっかりとした声が跳ね返った。
「駄目よ」
「お嬢様?」
 不思議そうにベッシーがサラの顔を覗き込んだが、彼女は頑なに布団に顔を埋めたままで、はっきりともう一度繰り返した。
「駄目よ。きちんといつも通りに起きるわ」
「お嬢様」
「明日の午前中は、ウィルがアーサーを訪ねてくるの。その前に、身支度をすませなくてはいけないわ」
 シーツを握り締めるサラの手に、ぎゅっと力がこもる。それ以上事情を問うことを諦め、ベッシーは頷いた。
「わかりました。いつも通りに参りますよ、お嬢様」
 ゆっくりお休みなさいと呟いて、ベッシーは部屋を辞したが、今夜のサラに安らかな眠りが訪れそうにないことを、肌では感じ取っていた。

 明朝ウィルが訪ねてくるという言葉も引っかかる。何かやっかいなことにならなければいいのだけれどと、ベッシーはため息をつき、それから踵を返した。数歩行ったところで、低く抑えた声に名を呼ばれる。
「リード夫人」
 廊下の陰に隠れるようにして、黒髪の青年がひっそりと立っていた。彼の服装は、サラと共に戻ってきた時のままだ。ベッシーの皺だらけの顔が、少しだけ和らいだ。
「おや、まだ休んでなかったのかい?」
 ジェイは俯くようにして、ベッシーのはしばみ色の視線を避けた。厄介者の父と幼い弟を抱え、罪悪感に悩まされる青年にとって、レディ・サラがどれだけ救いとなっているか、ベッシーは誰よりもよく知っている。
「お嬢様はお休みになったよ。ジェイ、あんたも疲れただろうから、今夜はもうお休み」
 普段よくやってくれているからと、ジェイはこの屋敷では個室を与えられている。通常、使用人で個室を使えるのは、執事や家政婦など、高位の立場の者だけだ。ベッシーは別格で、居心地の良い部屋を昔から与えられているが、ジェイへのこの待遇は、破格だった。相部屋で十分ですからと固辞しようとしたジェイだが、アーサーに強引に押し切られてしまったのだ。

「お嬢様は何か?」
「いや、私にも何も話しては下さらなかったよ」
 ベッシーが首を横に振ると、青年は目に見えてうなだれた。青年を励ますように、ベッシーは明るい口調で言った。
「あとで奥様にでも尋ねてみるよ。きっと何があったのか教えて下さるだろうから。奥様がご存知なくても、伯爵様から聞きだしてみせるから、安心してお休み」
 確かにベッシーに迫られれば、あの堅物のアーサーだとて、口を割らずにはいられないだろう。この気のいい老婦人に、ヒューズ家の三兄妹はとても弱いのだ。
「つい先ほど、ご夫妻はお戻りになったようです」
「そう。そうしたら、問い質すにしても明日になるわね。今夜は私たちも休むこととしましょう」
 ジェイを促して一緒に廊下を歩き出しながら、ベッシーは独り言のように呟いた。
「早くレイノルズ館に戻りたいもんだね。きっと奥様もお待ちになっていらっしゃる」
 ジェイは何も言わなかったが、彼の纏う空気から、同じことを考えていると伝わってきた。花のあふれるレイノルズ館の庭が、今宵は酷く遠く、懐かしく感じられた。


 サラは、ベッドに倒れこむようにして、激しく泣きじゃくっていた。
 彼女は一人ぼっちだった。古い城館には、悲嘆の霧がうっすらと覆い尽くしているように、暗く、静けさに満ちている。
 窓から差し込む光は赤い血の色をしており、ひっそりと哀しみに沈む館を不吉な色で包み込んでいる。

 怖ろしい報せから、丸二日が過ぎた。
 いつもは必ず側にいてくれるベッシーも、今は、兄の傍らに付き添っている。無理もない。父の事故死という報せを受けて以来、アーサーは、背負わされることになった重責に、苦しんでいるのだ。サラのように悲しんでばかりもいられない。
 義姉のレベッカも、アーサーの側を片時も離れず、あれやこれやと家のことについて使用人に指示を出している。
 一方のブラッドは、両親の寝室に詰めて、母に付き添っている。父と共に馬車から投げ出された母は、重傷を負い、医師と看護婦が難しい顔つきで部屋に出入りしていた。サラはまだ母との面会を許されていなかった。

 館の誰もが悲嘆に暮れていた。

 ロンドンに急使が放たれ、明日の朝には祖父母が駆けつけてくるはずだった。
 皆が怖ろしい現実に押し潰されそうになっており、小さなサラのことなど、構う余裕はなかった。
 父との対面は、現実に直面するのがあまりに怖ろしくて、ブラッドの陰に隠れるようにしてしか果たせなかった。それも僅かな時間で、あとは押し寄せてくる大人たちに押し出されるようにして、部屋を後にするしかなかった。父の死を受け容れるだけの、十分なこころの準備は、与えられないままだった。二人の兄も、それぞれに哀しみをやり過ごすことに一生懸命で、妹のことまでは考えが回らないようだった。義姉は義姉で、夫を支えることに懸命だった。サラは子供部屋にいるようにと厳命されたまま、むき出しの哀しみを抱きしめて、泣きじゃくるしかなかった。

 一昨日から着せられた真っ黒なドレスが嫌で、脱ぎたかったけれど、それは喪服なのだから着ていなくては駄目だと言い聞かされた。誰もが口々に言うのだ。「お兄様たちは大変なのですから、我侭を言ったりして、手を煩わせてはいけませんよ。大人しく、いい子にしていなさい」と。
 そんな言葉も嫌だった。哀しくて泣いて、何がいけないのだろう。

 お母様がベティのドレスを作って下さると約束してくれた。クリスマスが終わったら、皆でロンドンのおじい様たちのところへ行こうと約束してくれたのは、お父様だった。

 泣きすぎて、喉と胸が痛かった。
 サラはぐすんと鼻を啜ると、こっそりと部屋を抜け出して、小さな足で、一生懸命に駆けた。誰かが言っていたのだ、敷地内の教会にお父様がいると。
 夕暮れの濃い光が照らす道を、小さなサラは息を切らして駆けた。しまいには頭痛がしてくるほどだった。目指す教会の扉は、細く開いていた。日曜日の礼拝には、家族揃って何度も訪れた場所だが、今はがらんと空虚で、サラの足音だけがやけに大きく響いた。
 一目散に、祭壇の前に置かれた棺に駆け寄ったが、サラが覗き込むには、身長が足りなかった。きょろきょろと見回して、椅子を引き摺るようにして持ってくると、よじ登るようにして、サラは漸く棺を覗き込むことができた。
 父の整った顔には、幾つもの傷がついていた。手を伸ばして頬に触れると、酷くひんやりとしていて、サラはびくりと手を引っこめた。いつも抱きしめてくれた父はあんなに温かかったのに、こんなにも冷たくなってしまった。

 ああ、本当にお父様は死んだのだ。
 その事実が胸にすとんと落ちてきて、サラの瞳から、ひとつぶだけ涙が零れ落ちた。どんなに泣いても喚いても、お父様には二度と会えないのだ。
 衝撃が大きくて、そのままサラは、椅子によじ登ったまま、棺に手をかけたまま、凍りついたように動けずにいた。父がいなくなり、母は頼れない。今までのように庇護されたままではいられない。兄たちとどうにかしてやっていかなくてはいけないのだという現実が、ひしひしと胸に迫る。
 大きな世界の中に、突然ぽんと放り出されたような気がした。サラが泣いたところで、今までのように抱きしめてくれる父はいないのだ。「可愛い小さなお姫様」と笑いながら、抱き上げてくれる父はいないのだ。

 受け止めるには、余りにも重い現実だった。
 どのくらいそうしていただろう。呆然としたままのサラの頭を、そっと撫でる手があった。

「サラ」
 大好きな声の持ち主は、サラの指を一本ずつ引き剥がすようにして棺から離し、椅子から抱き下ろした。見上げれば、茶色の優しい瞳がそこにある。
 いつの間にか室内は薄暗く翳り、ステンドグラスに差し込む光も白く柔らかな月光となっていた。
 長いこと椅子の上に蹲っていたせいか、サラの膝は痛み、まるで頼りない棒切れのようだった。ぐらりとよろけた彼女を、軽々と抱きとめてくれたのは、兄同然の人の腕だった。逞しい大人の男の人の腕だった。お父様もこんな腕をしていたと、サラはぼんやりと、取りとめもなく思った。

「探したよ。ずっとここにいたの?」
 サラの顎に手を添えるようにして上向かせ、覗き込んでくる瞳には、深い共感の色があった。誰にも言わずに部屋を抜け出したことを咎めたりはせず、この場所に来ざるをえなかったサラの気持ちを、よくわかっているよと、語りかけてくる。全身をがんじがらめにしていた緊張の糸が緩むのを感じて、サラは、こくりと頷いた。この人には、何も隠す必要などなかった。
「お父様のお顔を、まだちゃんと見ていなかったから」
「そう」
 ウィルはそれ以上サラに尋ねることはせず、冷たくなった小さな手を、そっと握り締めた。どのくらいの間、ここにいたのだろう。教会に足を踏み入れたウィルの瞳に、椅子の上で蹲る少女は、酷く小さく見えた。秋の夜気は、幼い少女の体温を、簡単に奪っていく。ウィルが子供部屋を訪れるまで、誰もサラの不在に気づいた者はいなかったから、独りきりで長いこと父の棺に額づいていたのだろう。

「もう夜だよ、サラ。部屋へ帰ろう」
 一回り以上大きな手に導かれ、サラは大人しく歩き出す。教会を出ると、白い月光が屋敷へと続く道を明るく照らし出していた。隣を歩く人を見上げると、整った輪郭を縁取るように、月明かりが滲んでいる。母の部屋にかかっているギリシア神話の英雄の絵画のように、美しい横顔だった。こうして手を繋いで歩くのは、いつ以来だろう。イートン校を卒業してから、ウィルは何度かゴールド・マナーを訪ねてくれたけれど、その頻度は年々少なくなっていた。アーサーによると、美しい婚約者の側を離れるのが辛いから、ということらしい。
 サラがあまり熱心に見つめたせいだろうか、ウィルがこちらを見下ろして、僅かに首を傾げた。目が合ってしまったことに、なぜかサラの胸はどぎまぎしてしまって、咄嗟に浮かんだ話題を口にして、狼狽を誤魔化した。
「ウィルはいつ来たの?今日来るって、知らなかったわ」
「ほんの一時間ほど前だよ。報せを受けて急いで来たんだ。君たちのことが心配でね。アビーも、すぐに行けと言ってくれた」
 伯爵位を継いでから、ウィルの口から何度も聞かれるようになった、その人の名前。その名前を口にする時、ウィルの瞳が優しく和み、愛しげに輝くことに、サラはとっくに気づいていた。今もサラのすぐ側にいるというのに、彼の思いは彼の女性のもとへと向かっている。たった一人、月明かりの道に置き去りにされたような寂しさと、兄同然の庇護者を横取りされたような悔しさを感じて、サラは繋いだ手に力を込めた。

 子供らしい、幼い嫉妬だった。
 いつも自分を温かく抱きしめてくれる腕を、独り占めしたい。サラにとってウィルは良い遊び相手だったし、実の兄たちよりも優しく彼女に付き合ってくれる人だった。この時は、間違いなくそんな類の可愛らしい嫉妬を感じたのだった。
 父を永久に失い、母を失うかどうかという瀬戸際にいる今、ウィルの腕までも失うことは耐えがたかった。
 俯きがちなサラには気づかず、ウィルが言葉を紡ぐ。
「アーサーとベッキーには、お悔やみを述べたよ。伯爵夫人に面会する許可は出なかったから、まだブラッドにも会っていないんだけど、彼はずっと付き添っているのかい?」
「ええ。お母様が戻ってきてからずっと、ブラッドはお母様の側についているわ」
「そうか。あいつが倒れたりしないよう、休ませなくてはならないね」
 ウィルが大きくため息を吐いた。二人の前には古い城館が姿を現し、ぽつぽつと明かりのついた窓が、怖れとざわめきの混じった空気を伝えてくる。玄関へのアプローチでサラは立ち止まり、恐る恐るウィルに尋ねた。

「アーサーは怒っているかしら?」
 子供部屋にいなさいという言いつけに背いて脱走してしまったから、それが心配だった。小さな額に皺が寄るのを見て、ウィルはふっと笑みを零した。
「大丈夫、アーサーは気づいていないよ。リード夫人には、僕がサラについていると伝えておいたから、きっとふたりで散歩でもしてきたんだと思うだろう」
 それを聞いて、サラも漸く、笑みを浮かべた。
「ありがとう、ウィル」
 やはりこの腕は、サラを理解し、守ってくれる腕だ。

 その手を離さないようしっかりと繋ぎながら、サラはウィルについて玄関ホールを横切った。シャンデリアに照らされた室内は、いつもの通りに明るかったけれど、どんよりと漂う空気は、重たく、悲嘆に満ちたものだった。哀しみが霧のように這い登り、屋敷中に立ち込めている。
 サラが独りきりでこの中にいれば、きっと再び、深い悲しみに襲われてしまっただろう。
 だが今は、ウィルの温もりがすぐ傍らにある。

 子供部屋に入ってからも、サラはなかなかウィルの手を離そうとはしなかった。ウィルもそのまま、彼女のしたいようにさせてくれた。
 二人はソファに並んで腰を下ろし、窓越しに、薄明かりに浮かび上がる庭園を黙って眺めた。心地よい沈黙だった。言葉にしなくても、お互いを思いやり、共感する気持ちが、沈黙に溶け出すようにしてこの場を包んでいく。いつの間にか繋いだ手は解けてしまっていたけれど、沈黙がもたらす安心感は変わらなかった。
 暫しそうしてから、ウィルが静かに口を開いた。

「サラ、君は泣かないんだね」
「そんなことないわ」
 サラの唇に、小さな笑みが浮かぶ。
「いっぱい、いっぱい泣いたわ。哀しくて信じられなくて、沢山泣いたの。一生分泣いたわ」
 少女は、大人っぽく呟いてから、きっぱりと穏やかに言い切った。
「だからもう、泣かない」
 真っ青な瞳はまだ充血していたし、大きな瞳の下には隈ができている。そばかすの散った鼻も真っ赤だし、この時のサラは随分と痛々しい様子をしていたけれど、女王のように揺るぎない態度で、そう言い切ったのだった。
 まだ十を少し過ぎたばかりの少女が、何を思ってそう口にするのか、推し量ることも苦しくて、ウィルは彼女の鳶色の髪を、何度も撫でた。ウィルの中にも苦々しさがこみ上げて、掠れた言葉が口をついて出る。
「いいんだよ、泣いても」
 何しろウィルの知っているサラは、兄たちから『泣き虫サラ』とからかわれるほど、しょっちゅう涙を零す子だった。素直で気弱で甘えん坊、かと思うと意地っ張りなところもあり、可愛がられ甘やかされて育った子供特有の、我侭なところもある。けれど不思議と可愛いばかりで、憎らしいと思ったことなど一度もない、人懐こい子だった。
 しかし今目の前にいるサラは、何の気負いもなく、泣くことを淡々と拒否する。父が死んだのだから、どれほど泣いたって、彼女を悪く言う人などいるはずがないのに。

「ううん、もう終わりにするの」
 月明かりに浮かぶ少女の横顔は、それまでに見たことがないほど、大人びていた。ああ、彼女の子供時代は、終わったのだ。もうあの『泣き虫サラ』はいないのだ。彼女はどうにかして、自分で子供の殻を脱ぎ捨てることを選んだのだ。
 兄たちを助けて家を盛り立てなくてはいけないという義務感か、予断を許さないものの、万一回復したとて、これまでのような生活は送れないだろう母の力になるためかは、わからない。けれどウィルは、この夜サラが子供時代を終えたことを、感じ取った。両親が健在であれば、まだ後数年は、彼女には自由が許されたはずだった。

 小さな身体を抱き寄せると、相変わらず砂糖菓子と日なたの匂いが、ウィルの鼻腔をくすぐる。それを深々と吸い込んで、ウィルは、小さな妹に言い聞かせた。
「大丈夫だよ、サラ。私もついているから」
 サラは身体を震わせたものの、宣言通りに涙を流すことはしなかった。父の葬儀でも、母が一命を取り留めたとわかったときにも、彼女はひとつぶの涙も零さなかった。

 それからも、サラは涙を押し込めたままで生きてきた。誰もがサラを、精神力の強い娘だと、毅然としている娘だという。そういう評判を耳にするたびに、サラは胸のうちでこっそりと反論するのだ。
 何度も泣きそうになったのよ。でもそのとき、決まってあなたの瞳を思い出すの。そうすると、涙が引っこんでしまうのよ。
 いつだって簡単に思い浮かべることができる、茶色の優しい瞳。婚約者を亡くした後も、サラに向けられる眼差しのやわらかさには、変わりなかった。

「確かに私が、サラの名誉を傷つけた。君が望むような形で、責任を取ろう」

 冷え冷えとした鋭い声が、やわらかい眼差しを切り裂き、代わりにこちらに向けられるのは、怒りと嫌悪の炎に揺れる瞳。
 胸が苦しく、居たたまれなくなる。二人の間に確かに存在していた、共感と思いやりは、どこかへ消え失せてしまった。
 台無しにしたのは、自分の軽率な行動だ。あのような場所で、二人きりになるべきではなかった。居心地が悪くても、バルコニーになど出てはいけなかったのだ。
 そうすれば、あの人を失うことはなかった。

 悲鳴のように叫んでから、サラはハッと目を覚ました。
 ぼんやりとした視界に、見慣れた部屋の風景が滲む。窓の外は薄暗く、夜明けまではまだ時間があるようだった。首筋に汗でべっとりと張りついた髪が、気持ち悪い。額を手で押さえ、サラはどこからどこまでが夢だったのか、思い出そうとしたが、境界は曖昧で、恐ろしさだけがずしりと胸に残っている。
 これ以上、ウィルを追い詰めることなんてできないわ。
 夜明けが来たら、今度こそ毅然と兄に対抗しなくてはならない。断固たる決意をもって、サラの人生にウィルを巻き込むようなことだけは避けるのだ。
 重いため息を吐いても、気分はちっとも楽にならなかった。きっとこの調子では、眠れないまま夜明けを迎えるだろう。サラは苦しげに息を吐いてから、瞼を閉じた。眠れはしなくても、少しでも身体を休めなくてはならなかった。

2011/02/12up


inserted by FC2 system