こころの鍵を探して

第一章 幻惑の夜[2]

 ウィルトン子爵の次男は、優男で知られていた。

 金髪に青い瞳という色彩を持つ彼は、実に貴族的な顔立ちをしている。鼻筋は通っているものの、鼻の長さがやや短めなのが難点だが、他に取り立ててあげつらうところはない。ひょろりと痩せ型で、金髪の巻き毛をシャンデリアの明かりに煌かせて、恭しく礼をする姿は、貴族のご令嬢が思い描く王子様像そのもののようで、彼に話しかけられると頬を真っ赤に染めるご令嬢は後を絶たなかった。
 彼はダンスの名手といわれており、立ち居振る舞いも優雅だと評判だが、アーサー・ヒューズに言わせると「気障なだけ」らしい。彼は自分の容姿や言動が、相手にどういう効果をもたらすのかを熟知している――サラがそう気づくまでに、さほど時間はかからなかった。

 歯が浮くような台詞をどういう表情で言えば真に迫ったものになるとか、どの角度で見つめれば相手が頬を赤くするとか、どうすれば最大限効果的な影響を及ぼせるかを、彼は実によく理解している。
 ライアンの青い瞳に、熱っぽく見つめられれば、大抵のご令嬢は恋に落ちてしまうことだろう。実際、彼の評判は社交界でもすこぶる良かった。ただし、熱烈に彼を支持する女性がいる一方で、彼を放蕩者だと非難する女性がいるのも事実だった。サラの前では、非の打ち所のない求婚者を演じている彼だが、彼の台詞や表情を額面通りに受け取ってはならないと、サラは笑顔を返しつつも冷静に観察を続けていた。
 女性を褒め称える台詞を吐きながらも、うっとりと彼を見つめる女性に、ライアンが酷く酷薄な眼差しを向けるところを、サラは何度か目撃していた。また、王子様のような青い瞳に時折浮かぶ嘲りの光と、皮肉げな笑みを刻む唇も、サラにとっては見過ごせない要素だった。社交界に夢も野望も持っていないサラだからこそ、ライアンの色香に惑わされれることなく、彼の本質を見極められるのかもしれない。

 王子様然とした影で、ライアンが求めているのが、他の紳士同様、サラの背後にある莫大な資産だということに気づくまで、一ヶ月もあれば充分だった。ウィルトン子爵の後継者は長男で、彼には既に男児が三人もいる。次男であるライアンに子爵位が回ってくるのは、限りなく可能性が低い話である。そうなると、父子爵から分け与えられる少々の財産で身を立てるしかなく、華やかな貴公子生活を満喫するライアンが、どうにかして財産を手に入れようと考えるのは、必然だった。そしてまた、彼の行動は、本心を隠しきれずにいた。
 昨シーズンは、他の積極的な求婚者に押される形で存在感がいまひとつなかったライアンだが、今シーズンは、開始前からサラにせっせとアプローチを続けている。シーズン冒頭のオルソープ公爵家の舞踏会でも、サラのダンスカードに真っ先に書き込みに来たし、足繁くバリー伯爵家の屋敷を訪れ、花を贈り続けている。彼のマメさは、実に、ベッキーが呆れるほどだった。ベッシーなどは、フンと鼻を鳴らしたくらいだ。
 夜会や茶会でも、サラが兄たちと一緒にいるところにやってきて、彼女を連れ出そうとする。兄たちだけでなく、ウィルも、ライアンにとっては警戒すべき相手のようだった。まるで彼らの口から、ライアンの悪口を聞く機会を与えまいとするかのように、サラを引き離すのだ。
 一緒に住んでいるのだし、兄たちから完全に離すのは無理だと気づいても良さそうなものだとサラは内心呆れながらも、今のところは、ライアンの好きなようにある程度させていた。彼がこれだけ積極的に動いているうちは、他の求婚者候補への牽制にもなり、ライアンさえ適当に受け流しておけば、他の紳士に煩わされずに済むからだ。
 だからこうして大人しく、彼の腕に抱かれて踊ったりもする。

「ウィロビー伯爵とは何をお話になっていたのです?」
 苦しげな色を瞳に浮かべ、ライアンが尋ねてきた。ワルツのステップを踏みながら、サラが無邪気な表情で彼を見上げると、腰に回された腕に力が入るのがわかった。
「他愛もないことですわ。わたくしの気分が優れなかったので、心配して下さっただけです」
 サラが無難に答えると、ライアンは大袈裟なため息をつき、眉間に皺を寄せた。
「あまり僕を苦しめないで下さい。あなたが他の男と一緒にいるところを見ただけで、胸が張り裂けそうになるのですから」
「まぁ」
 思わずサラは笑ってしまった。胸が張り裂けるのは、わたくしの持参金が他の紳士に持っていかれるのではないかと心配だからでしょうと言い返したいのを堪えるには、努力がいった。

「あなたに捕らわれた哀れな男だと、笑ってらっしゃるのですね」
「そんなことはありませんわ」
 哀しげにため息をついたライアンに、サラは真面目な顔つきで反論した。
「あなたにそれほどご心配いただくなんて、夢にも思いませんでしたの」
「本当に控え目な方だ、レディ・サラ」
 サラの言葉に気を良くしたのか、ライアンは微笑んで、サラの腰をぐいと引き寄せた。サラの頬が彼の胸に当たりそうなほど、密着する。我が物顔にサラを抱き込もうとする男の腕に嫌悪感を覚えながらも、サラは努めて平静に、ダンスを続けた。これが終われば、気分がやはり優れないといって、バルコニーへ出てしまおう。ただでさえダンスホールの空気はむわっとして重いのに、ライアンのつける香水が、やけに鼻についた。このままでは本当に胸がむかむかしてきそうだ。

 彼を刺激しないよう、大人しくリードされるがままに、サラはどうにか一曲踊りきった。ライアンのダンスの腕は確かで、サラが上の空であっても確実にリードしてくれたのは有難かったが、腰から下がぶつかりそうなほど密着しているのは、酷く心地悪かった。
 ダンスを終えて、漸く彼に「気分が悪いから休む」と告げた時には、ほっとした。ライアンがしつこく付き添うといってきかなかったが、後から撒いてしまえばいいと軽く考えて、サラは腰を抱き抱えられるようにして、先ほどまで休んでいたバルコニー近くの休憩スペースへと連れ出された。
 付近には人気はなかった。飲み物を取ってくると言ってライアンが戻った後、サラは素早い身のこなしで立ち上がり、バルコニーへと続く窓を押し開けて外へ出た。ホールに渦巻く全てから解放されたかった。ライアンには悪いが、彼にも今夜はもう煩わされたくはなかった。

 一歩踏み出すごとに、早春の冷気が、サラの肌に突き刺さる。身震いしそうな外気も、ホールの熱気にあてられた肌には心地よく、張り詰めたような冷たさは、爽やかでさえあった。広々としたバルコニーの、庭に面した手すりまで歩いていき、どっしりとした石造りのそれに触れると、手袋越しに冷えが伝わってくる。ライアンに触れられていた箇所に残っていた熱が、みるみるうちに石に吸い取られていった。手すりに両腕をついて身体を預けるようにして、サラは、やっと自然な呼吸を取り戻した。
 まとわりつくような息苦しさはどこかへ霧散し、肺の奥までしみわたりそうな清清しい空気を取り込むことに専念する。ホールに渦巻く生温かい空気は、集ったひとびとの思念が具現化したかのようだった。悪意が善意を蝕んでいくように、あの場にひとりきりでいると、疲労が蓄積していくのがわかるのだ。アーサーたちと一緒にいれば、処世術に長けた彼らがうまくあしらってくれるのだが、兄たちに騎士役を押しつけても悪いからと、離れたのが間違いだったのだろうか。

 冴え冴えとした月明かりに照らされた庭の木々を眺めながら、ひと呼吸するごとに、身体が軽くなっていくのがわかる。やはりわたくしは、社交には向かないのだわと、サラはフッと苦い笑みを零した。着飾って紳士方にちやほやされるよりも、田舎で着古したドレスを着て、庭の花を眺めている方がよほど性に合っている。

 わたくしは、本当に場違いだわ。

 振り仰いだ先には、綺麗な丸い月が浮かんでいる。煌々と灯るシャンデリアの下よりも、月光の下で安らぎを覚える自分は、我ながら本当に、社交界には向いていない。義姉のベッキーやソフィアのように、真昼の太陽をも味方につけて微笑んでいられる貴婦人こそが、きっと社交界の主役になれるのだ。生憎とサラには、そのような気概も何もない。

 早くレイノルズ館へ帰りたい。

 あといくつ、このような夜を過ごせば帰路につけるのか。母の待つ館へ帰還する日を指折り数えながらも、嫌でたまらないはずの催しに顔を出し続ける自分は、実に愚かだ。こうして出席し続けるのは、兄や祖父の体面があるからというだけではない。本当は、彼に会いたいからなのだ。自分の中にある不純な動機に、サラは苦々しく思いながらも、気づいていた。

 ウィロビー伯爵ウィリアム・ナイトレイ。
 幼い頃からサラを可愛がってくれた彼とは、兄妹のような関係を築いている。周囲も、ウィル本人もそう思っているだろう。実際のところ、サラがいつからかウィルをひとりの男性として捉えるようになったことに、誰も気づいていない。もしかしたら、ベッシーあたりは勘付いているかもしれないが。
 慎重に、サラは自分の想いを隠してきたのだ。誰にも悟られることなく、胸の中で、ひっそりと恋心を育ててきたのだ。サラの家族は誰も鋭い人ばかりだし、ウィル本人も、物腰は柔らかくとも間違いなく切れ者だから、サラは自分の想いを幾重にも包み、誰の目にも触れないよう細心の注意を払ってきた。

 ウィルは兄たちと共同で事業をしているし、兄のどちらかに招かれて屋敷に滞在することも多い。その合間に、ウェストサセックスのサラにも、贈り物や手紙を定期的に届けてくれる。時にはケント州の領地から、レイノルズ館に立ち寄ってくれることもある。アーサーたちの代わりに、君と母君の様子を見にきたよと笑いながら、やってくるのだ。
 母のアメリアは、口癖のように「ウィルがサラの夫になってくれたら」というのだが、他の誰も、それを現実味のある話題として捉えていなかった。誰が見ても、ウィルは兄代わりであるし、サラは妹代わりでしかないのだ。

 最初、小さなサラがウィルに抱いたのは、王子様への憧れのような気持ちと、兄たちと同様の親しみだった。それがいつ、恋情へと変化したのかは、サラにもはっきりとはわからない。サラの中でウィルの存在感が増したのは、両親が事故に遭った後に彼が駆けつけてくれた時だったし、彼への想いをはっきりと自覚したのは、ウィルの婚約者が命を落とした後のことだった。
 彼が愛した『アビー』という女性が、どのような人だったのか、サラは知らない。ウィルが暫く茫然自失とするほど愛した女性だった、ということだけしか知らない。だが、それだけ知っていれば十分だった。
 きっと、アビーがウィルのこころを、天国まで持っていってしまったのだ。

 ウィルの優しげな双眸に、他の誰かを焦がれるような炎が灯ったところを、サラは見たことがない。ソフィアに対する想いも、きっと、本当の恋というものとは、違っていたのだ。兄のブラッドが燃やしたような激情ほどには、彼女のことを想ってはいなかったのではないかと思う。
 誰もがこころを許しながら、ウィルのこころの奥深くまでは入り込めない。愛想よく振る舞いながら、ウィルの周囲には、目に見えない壁が、慎重に張り巡らされているように、サラには見える。
 妹代わりとして接するサラには、限りなく本音に近い姿を見せることもあるけれど、それでもまだ、触れられない領域が彼にはある。

 ウィルに深く関われないとしても、サラはこれまでの状況に不満を覚えたりはしなかった。彼に求められている『妹分』という役割を演じる限りは、彼との関係を危険に晒すことはなく、ある程度側にいられる。
 普段なかなか逢えずとも、こうしてシーズン中に、凛々しい彼の紳士ぶりを眺めていられるだけで、サラは十分だった。きりりとした佇まいの彼に、どれほど胸をざわつかせているか、誰にも気づかれなくても、それでよかった。

 しかし状況は、いつまでもそれを許してくれそうにない。
 重いため息を吐きながら、サラは、つい先日立ち聞きしてしまった会話を思い出していた。

 夜毎続く催しの合間を縫って、長兄夫婦が内輪の夕食会を開いたのは、ほんの一週間ほど前のこと。招かれたのはバリー伯爵家とごく親しい友人だけで、出席したサラにとっても、気の置けない顔触ればかりだった。アーサーとベッキー、ブラッドとソフィアの兄夫婦と、ハガード大尉と妻のアン、それにウィルとサラといった、少人数の、打ち解けた時間だった。
 幼い長女と生まれたばかりの赤ん坊を屋敷に置いてきたソフィアは、夕食を済ませると早めに辞去し、残った男性陣は兄の書斎で葉巻とブランデーを、女性陣は居間でお茶を楽しみながら、談笑した。

 ベッキーとアンは、今ロンドンで最新流行ともてはやされている仕立て屋の噂話に花を咲かせ、ああでもないこうでもないと意見を交わしていた。サラは大人しく耳を傾けていたものの、ベルギー製のレースだの、パリ発のデザインだのといった話題についていけず、やがて早々に部屋に引き取るのが賢明だという考えに思い至った。今宵は夜更けまで踊っていなくてもいいのだから、こういう晩こそ早く就寝して、疲れを癒すべきだろう。ベッキーには、彼女の気を悪くしないよう、あまりの眠気に勝てなくて、と訴えると、綺麗な義姉は、困ったわねと笑いながら、自室に引き取ることを許してくれた。あっさり許可を得られたことをいぶかしんでいると、顔が疲れていると、指摘を受けた。
「目の下に陰ができているから、明日までにはそれを消さなくてはダメよ」
「努力するわ」
 アンにも、楽しい時間を邪魔してごめんなさいと謝ると、気のいい彼女は快く許してくれた。アーサーにも一応一言言っておきなさいというベッキーの言葉に頷いて、サラは居間をするりと抜け出し、兄の書斎まで真っ直ぐに向かった。

 人気のない廊下を書斎の近くまで進むと、室内から人の話し声が漏れてくることに気づいた。書斎の頑丈なドアが閉まりきっていないらしく、うっすらと開いた隙間から、葉巻の微かな煙と明かりがこちらにまで流れてくる。毛足の長い絨毯が足音を消してくれるものの、サラは慎重に近づき、ドアへ身を寄せた。ドアが閉まっていれば、何の躊躇いもなくノックをして、中に声をかけるのだが、無闇にノックをするのは気が引けた。楽しく談笑している彼らの邪魔にならないよう、タイミングを見計らって声をかけなくてはと、サラは中の声に耳を澄ました。
「いつまでもこのままというわけにはいかないだろう、ウィル」
 アーサーの声だ。冷静な兄にしては珍しく、同情の色が含まれているのは、気のせいだろうか。サラがドアの陰で首を傾げると、今度は疲れの滲んだウィルの声が聞こえてきた。
「わかっているよ、アーサー。叔父たちにもせっつかれているしね。あまりこれ以上は、引き延ばせないようだ。そろそろ覚悟を決めなくてはならないらしい」

 何の話だろうか。ウィルが感情を露わにするのは珍しく、サラは興味をそそられた。行儀が悪いとはわかっているものの、息を殺して、そっと耳を澄ます。
「当主の義務からは、逃れられんよ」
「当主の義務ね。誰もが口を揃えてそう言うよ」
 アーサーとウィル、どちらの声にも、自嘲の色が混じっている。ため息と共に、ウィルの声が聞こえた。
「妻を迎え、跡継ぎをもうけて、伯爵家の血筋を絶やさないようにする。わかってはいるが、いざ実行するとなると、気が進まないものだな」
「せめてどなたかご兄弟がいれば――」
 おずおずとハガード大尉が口を挟んだが、ばっさりとそれを斬り捨てたのは、意外にもブラッドだった。ウィルの親友であるアーサーとブラッドだからこそ、下手に現実を誤魔化すことはしたくないのだろう。現実逃避しても、何もならないのだから。

「生憎とウィロビー伯爵家の直系はウィルだけだ。君が妻を迎えるか、あるいは誰か血縁者を養子に迎えるかしない限り、義務はずっと君について回るよ」
「その通りだが、やはり妻を迎えることを後回しにしたいという気持ちは、捨て切れなくてね。アーサー、君になら、わかってもらえるだろう?」
「そうだな。私も義務のひとつとして、結婚を承諾したようなものだから・・・・・・」
「だが兄さんは、今では幸せな結婚生活を送っている」
 言葉を濁すアーサーの後を引き取り、ブラッドが容赦なく現実を指摘した。結果論だが、義務を果たそうとしたアーサーは、幸運を手にしたのだ。

「やってみなければわからないか・・・・・・」
 きっと、ウィルは苦笑を浮かべているに違いない。彼の声の調子から、表情の変化が容易に予想できる。
「割り切った結婚ができれば、きっと楽なのだろうな」

 独り言のように呟かれた言葉に、アーサーもブラッドも、何も返さなかった。ふたりとも嫡男がおり、跡継ぎ問題は解決しているものの、同じ立場に立たされたことがある者として、ウィルの気持ちはよくわかるのだろう。
 誰にともなく、ウィルの言葉が続く。
「我が家に釣り合う爵位を持つ家の娘ならば、妻になる資格はあるが、野心家でなければいいな」
「君と財産を結び合わせない人間は、ごくごく僅かだろう」
 呆れ混じりに、ブラッドがそんな感想を口にした。何となくその先に続く展開がわかって、サラは身を強張らせた。アーサーの声が、サラの予想を形にする。
「そういう娘ならば、お前のすぐ側にひとりいるじゃないか。身分も釣り合い、お前の財産を気にしない娘なら、あの子がうってつけだと思うがね。どうだウィル、お前さえ良ければ――」

 それ以上を耳にする勇気はなく、サラは身体を翻すと、廊下を一心に駆け出した。アーサーに悪気はなく、ごく自然な流れで、自分の名前がウィルの花嫁候補に挙がるのだということはわかる。
 サラの名を聞いて、ウィルが示す反応を知るのは怖かった。彼の口から、サラを拒絶する言葉を聞くのは、もっと怖かった。
 途中で行き逢った執事に、もう休むという兄への伝言を頼むと、サラは一目散に自室へと向かった。早く戻ってきた主人を見て、あれこれ質問を浴びせようとするベッシーを強引に下がらせて、サラは手早くひとりで着替えを終え、ベッドへと倒れ込んだ。

 誰もがサラとウィルは似合いだというかもしれないが、彼がサラを想ってくれる日など、こない。彼のこころには、『アビー』がいるのだから。義務を果たすだけのために、彼の妻になるなど、サラに耐えられるはずがなかった。可能性として誰かの口に上るだけで、これほど胸が苦しくなるのだから。
 その晩、サラは、身体の底からこみ上げてくる感情の塊を、必死に飲み下し続けた。翌日にはまた普段通りの、『妹分のサラ』として振る舞うために、あふれ出そうとする感情を、意志の力でねじ伏せた。

 バルコニーの手すりにもたれかかりながら、サラは、唇に苦い笑みを浮かべた。
 ふたりが似合いだという人は、兄妹のような関係を既に築いているから、貴族の夫婦としても上手くやっていけるだろうと考えるのだろう。兄代わり妹代わりという信頼が根底にあるから、義務を果たすためにふたりが協力するのはわけないはずだと。

 『小さなサラ』が、ウィルに抱く感情が、家族愛ではないことに、あの敏いベッキーですら気づかない。サラがウィルを、ひとりの男性として憧れる可能性があることに、誰も思い至らないのだ。
 何と滑稽なことだろう。
 慎重に隠し続けてきたことで、どうにも身動きできない状況になってしまった。一体どうすれば、この苦しさから解放されるのだろう。

 サラがため息をついた時、背後から不意に名を呼ばれた。
「レディ・サラ」
 驚いて叫びだしそうになるのをどうにか堪えて振り向けば、こちらを見下ろす青い瞳がすぐ側にあることに気づく。
「ライアン卿・・・・・・」

 上手く撒いたつもりだったのに、見つかってしまった。彼に身体ごと向き直ると、青い瞳が月光を受け、冷たく煌くのが見えた。ライアンの腕がサラの腰に伸びてきて、親しげに触れられると、ざわりと悪寒が走った。
「こんなところにいらっしゃったのですか?心配して探しましたよ」
「・・・新鮮な空気が吸いたくて」
「全く、あなたは僕をやきもきさせるのがお好きなようだ」
 腰に触れるのと別の手が、サラの顎に伸びてきて、くいと上向かせた。切なそうな色を浮かべる青い瞳の奥に、ちらちらと炎が揺れるのを見た気がして、サラは瞬きをした。

「僕の気持ちなど、とっくにおわかりでしょう?」
 腰をぐいと引き寄せられて、サラはライアンの胸に倒れこむように両手をついた。
「何をなさるの、ライアン卿」
 抗議しても、がっちりと抱え込まれて、身動きできない。彼の香水が鼻をついて、むかむかとした吐き気が甦ってきた。足を踏んづけるのが一番だろうかと、どうにか彼と距離を取ろうとしながら、サラが素早く考えを巡らせている間に、ライアンの手は、背中や腰を撫でていく。腰から脇を、胸のふくらみすれすれに撫で上げられると、先ほどと比べ物にならないほどの悪寒が背中を駆け抜けた。

「おたわむれはやめて下さい!」
「僕の真剣な気持ちを、たわむれなどと言わないで下さい」
 悩ましい吐息をついて、ライアンはサラの顎をくいと持ち上げた。頭を振って逃れようにも、がっちりと固定されていて、抗うことができない。逸らすことを許されない視線の先で、彼の貴族的な顔にそぐわない残酷な笑みが、口元に浮かぶのが見えた。獲物を狩る肉食獣のような、勝ち誇った笑みだった。
「僕の気持ちをわかっていただくには、この情熱を伝えるより他になさそうですね」
 耳元で、息を吹きかけるように囁かれると、びくりと身体が震えた。ぴたりと密着した腰から感じる彼の体温が、おぞましいものにしか思えなくて、どうにかして身体を引き剥がそうともがいたが、力の差は歴然だった。

 このままでは、サラの名誉は、きっと傷つけられてしまう。男性経験がなくても、このように人気のない場所で、野心に満ちた男性がどのような行為に及ぼうとするのかは、容易に想像できる。
「嫌っ!」
「かわいい方だ」
 首筋に生温かいものが押し当てられるのを感じて、サラの視界が嫌悪感に滲んだ。力ずくでこんな男にねじ伏せられるなど、絶対に嫌だった。
「離して!」
 ククッと、己の優位を確信した余裕たっぷりに、ライアンが笑いを漏らす。青い瞳に、愉快そうな光が灯った。顎をつかまれたまま、サラは近づいてくるライアンの顔を、精一杯睨みつけた。唇を奪われても、噛み付くか何かして、抵抗するつもりだった。ホールの中には、兄たちもウィルもいるというのに、彼らに気づかれず、こんなところで汚されるのは嫌だった。

 彼の吐息を鼻先に感じて、サラがあまりの気持ち悪さにわなないた時、ガツンと鈍い音と、衝撃が、すぐ側で起きた。
 何が起きたのか、ハッと気づいた時には、ライアンはすぐ側の床の上に蹲り、顔を押さえていた。自分自身を抱きしめるようにして立ち尽くすサラの前に、広い背中が入り込み、視界からライアンを遮った。幼い頃から何度もサラを助け、庇ってくれた、よく知っている背中だった。じわりと滲みかけた視界に、月明かりの中でも見間違うことのない栗色の髪が、鮮明に映る。

 ウィルが来てくれた。

 安堵のあまり、へなへなとその場に座り込みそうになる足を叱咤して、サラは、どうにか持ちこたえた。
「覚悟はできているんだろうな、ライアン・ケース」
 これまで聞いたことのない、冷え切ったウィルの声が、シンとしたバルコニーの空気を切り裂いた。サラまでがぶるりと身体を震わせるような、底冷えのする声音だった。

2010/08/13up


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