こころの鍵を探して

 偽りの誓い[2]

 緊張の面持ちで兄の書斎に乗り込んできたサラは、両手を腹の前で組み合わせ、ぎゅっと固く握り締めていた。唇も真一文字に引き結んでいる。机と窓の間に佇むアーサーの位置からも、彼女がこれ以上ないほどガチガチになっているのが、容易に見て取れた。

「そんなところに立っていないで、座りなさい」

 アーサーはできるだけ穏やかな声を出し、手でソファを指し示したが、サラは「いいえ、このままで」と短く答えると、ゆっくりと机の近くまで歩いてきた。彼女が立ち止まると、握り締めた両手が小さく震えているのがアーサーの目に映る。妹がソファに座れば、自分も向かいに腰を下ろそうと思っていたアーサーだが、彼女がそれを拒んだため、ひとまず机の椅子に座ることに決めた。長身のアーサーが彼女を見下ろしながら話をすれば、不要な圧迫感と不要な緊張を彼女に強いることになると考えたからだ。
 椅子に腰を下ろすと、逆にアーサーがサラを見上げる形になった。朝の光に映し出された妹の顔は青白く、サファイアの瞳の下には隈ができている。それは、昨夜彼女に安眠が訪れなかったことを示していた。

 ため息を堪えて、アーサーは、妹の過敏になっている神経に引っかからないよう、努めて友好的に話し出した。これまで多くの難しい商談をまとめてきたアーサーだが、相手がサラとなると、勝手が違う。取引の場のように、冷徹でいることは難しい。妹を前にすれば、否応なく情を差し挟んでしまうのだ。

「昨夜も言った通り、私はお前とウィルの婚約を進める方向で動くつもりだ。昨夜、誰がお前たちのことを見ていたかわからない。無用な噂が流れる前に、早目に婚約を発表するのが肝要だ。ウィルもこの話を受けると言っていたし、何の障害もない。お前はウィロビー伯爵夫人になるんだ、サラ」
「いいえ」

 小さいがきっぱりとした口調で、サラが切り返した。青白い顔の中で、真っ青な双眸だけがやけに輝いて、アーサーを見返してくる。
「障害はあるわ。昨夜はああ言っていたけど、わたくしと婚約するなんて、ウィルの本心ではないわ。彼に結婚を無理強いしないでちょうだい、アーサー」
「本心ではないという根拠は、どこにあるんだ?」
 アーサーは鋭く尋ねたが、サラはそれに怯んだりしなかった。
「彼は結婚を望んだりはしていないわ。ウィルは誰とも結婚する気がないんですもの。ソフィアが唯一の例外になりそうだったけど、ブラッドと結婚してしまった。アーサー、あなただってよく知っているでしょう?」
「過ぎたことだよ、サラ」
 サラが必死に訴えかけても、アーサーのこころには何も響かないようだった。彼は冷静に、聞き分けのない子供に言い聞かせるように、辛抱強い口調で続けた。

「ウィルに婚約者がいたのは、随分と過去のことだ。今の彼には、伯爵家当主として、然るべき淑女と結婚し、跡継ぎをもうける義務がある。そのことは彼も十分理解している。いつまでも過去を言い訳にするのは逃げでしかないと、わかっているはずだ」
「それは・・・そうかもしれないけれど」

 兄の言うことは正論だ。こうやって兄に、真正面から正論を突きつけられると、幼い頃からサラはそれ以上の反論を呑み込むしかなかった。しかしここで簡単に引き下がるわけにもいかない。唇をぎゅっと噛みながら、サラはもう一度顔を上げた。

「だからといって、わたくしと結婚させるなんて、馬鹿げているわ。ウィルはわたくしを助けに来てくれただけなのに」
 馬鹿げていると口にしながら、胸の奥がズキリと痛むのを感じて、サラは力なく首を横に振った。痛みが紛れればと思ったが、簡単には消えてくれそうになかった。
「真実がどうだったかは、重要ではないんだよ」
 アーサーの灰色の眼差しが、雷のようにサラを射すくめる。生真面目な顔立ちに浮かぶ表情は硬かったが、口振りはどこまでも落ち着いていた。
「社交界の連中にとっては、お前とウィルがふたりきりでいたということが重要なんだ。サラ、お前もわかっているだろう?未婚の娘が、親族でない男性とふたりきりで人気のないところにいるというのが、社交界のお歴々にはどう映るか。格好の噂の的だ」

 なぜあの時、ウィルとふたりきりでバルコニーに残ってしまったのか。ライアンが立ち去ってからすぐに、館の中へ戻れば良かったのだ。激しい後悔の念に襲われて、サラは固く握り締めた両手を唇に押し当てた。兄の言うことはどこまでも正しくて、サラもよく知っているはずの、社交界の常識だった。それでも兄にこのまま言いくるめられるのは我慢ならず、弱々しく反発した。

「親族でない男性といったって、ウィルは身内同然の紳士だわ」
「相手が私やブラッドであれば、何の問題もなかった」
 額に片手を当てて、アーサーがため息混じりに吐き出した。
「お前がふしだらな娘だという不名誉な噂が立ってからでは遅い。お前とウィルと双方の名誉を守るには、これが最善なんだよ。突然でこころの準備が出来てないだろう。それは理解できる。だがな、サラ、お前にとっても、他の見知らぬ男に嫁ぐよりよほどいいだろう。ウィルもお前のことを昔から知っているし、私たちにしても、安心して妹を任せられる男だ。相手がウィルなら、母上もおじい様たちも喜ぶ」

 瞼の裏が熱くなってきて、サラは、固く唇を引き結んだ。兄に、大声で反論したかった。

 いいえ。ウィルに嫁ぐなら、他の人に嫁ぐ方が、よほどこころを割り切れた。

 他の、サラの持参金目当ての男たちの方が、まだましなくらいだ。ウィルはサラの持参金など当てにしなくていいくらいに裕福だ。サラ自身も、サラに付属するものも、どちらも彼には必要ないのだ。
 黙り込んだサラを見て、アーサーは、やっと納得したと思ったのだろう。椅子から立ち上がり、声を和らげて話しかけた。
「きちんと私たちが支度をするから、お前は何の心配も要らないよ」
 言葉が喉に詰まり、思うように出てこない。だが、このまま承諾したものと思われたくなくて、サラは激しく首を横に振った。

「サラ?」
 兄が訝りながら、一歩ずつ近づいてくる。苦しさに表情を歪めながら、サラは兄を振り仰ぎ、掠れた声を出した。
「違う。違うのよ、アーサー」

 と、サラの声に被せるように、ノックの音が響く。サラはびくりと身体を震わせ、兄の問いかける視線を受けて、仕方なく頷いた。アーサーが一旦注意を扉へと切り替え、誰何すると、この家に長く仕える執事の声が返ってきた。扉を開けるようにアーサーが指示を出すと、執事のグレシャムが顔を出した。熟練の執事は、この場にサラがいるのを見ても、何の驚きも浮かべなかった。彼はウィロビー伯爵が今到着したと伝え、不味い事態にならないよう、予め主の意向を伺うだけの賢明さを持ち合わせていた。
「このままお通ししてよろしいでしょうか、閣下」
「――いや、少し待ってくれ」
 アーサーが、妹へと視線を移す。兄の灰色の眼差しを受け止めて、サラは僅かに怯んだように見えた。

「サラ、お前は一度部屋へ戻っていなさい。話が終わってから、また声をかける」
「そんな・・・アーサー、待ってちょうだい」
 サラはアーサーへと歩み寄り、瞳を不安に揺らしながら、真っ直ぐに兄を見上げた。
「わたくしに関することですもの、同席する権利はあるはずだわ。ここに残ります」
 強情な光をたたえたサファイアの瞳は、ブラッドにそっくりで、アーサーは軽い頭痛を覚えた。ここ数年、サラは控え目で物分りの良い女主人役を見事にこなしてきたが、生来の彼女は、時にわがままと映るほど、自己主張をきちんとする娘だった。分別ある淑女というサラをすっかり見慣れてしまったから、うっかり失念していたが、もともとの頑固さでいえば、ブラッドとサラはいい勝負だった。それを今になってアーサーは思い出した。
 こういう目をした時の弟妹は、どちらも頑として譲らない。
 どっと疲れを感じながら、アーサーは渋々頷いた。

「わかった。ここに残ってもいいが、最初はウィルとふたりで話さなくてはならないことがある。始めの数分だけ、お前は席を外しなさい。すぐにグレシャムに呼びに行かせるから」
「アーサー!」
 サラが抗議の声を挙げた時、グレシャムのものではない声が、ふたりの間に割って入った。

「彼女がこの場にいても、私は一向に構わないよ」

 サラの呼吸が束の間止まった。この世の何よりも愛しいけれど、今はできるならば耳にしたくない声だった。
 恐る恐る顔を向けると、書斎の入り口にウィルが立っていた。グレシャムが邪魔にならないよう身体を引いたため、ウィルが入り口を塞ぐ形になっている。その姿を目にして、サラはなぜか泣き出したい衝動に駆られた。

 彼の声を聞き、姿を目にするたびに、サラの心臓は喜びに飛び跳ねてきた。穏やかな茶色の眼差しに親愛の色を浮かべ、包み込むような微笑みと共に、いつも彼は現れたから。
 それなのに今目にするウィルは、感情の読み取れない仮面のような表情を貼りつけ、眼差しからも穏やかさが消え、無感動にこちらを見つめてくるのだ。まるでサラが、彼にとってどうでもいい存在であるかのような気にさせる。社交上手のウィルは、どんなご婦人相手でも微笑みを絶やさずに当たり障りなく対処する術を体得しているが、これは、かわすための心無い微笑を向けられるよりもショックだった。上辺を取り繕う必要すらないと、斬り捨てられたような気がしてくる。無関心――胸に不意に浮かんだその言葉が、サラを手酷く切り裂いた。

 唇を噛み、視線を床に落としたサラの代わりに、ウィルに言葉を返したのはアーサーだった。こちらはウィルに負けず劣らず淡々とした表情だが、眉が微かに顰められ、怪訝そうな響きが声に滲む。
「サラを同席させるというのか?」
「構わないと言ったはずだ。悠長にしている時間はないだろう?私も早く片付けてしまいたいからね」
 サラの肩がぴくりと震えたが、ふたりの伯爵は、それに気づかないふりをした。一度アーサーは、考え込むようにぎゅっと唇を引き結び、それから肩を竦めて、ため息混じりに吐き出した。
「君がそう言うなら、私にもこれ以上反対する理由はない。そして、早く決着を着けたいという意見には賛成だ」

 そこまで言ってから、若きバリー伯爵はがらりと気持ちを切り替え、ぽつんと立ち尽くす妹を手招いた。
「サラ、お前もここに座りなさい。そう、私の隣がいいだろう。ウィル、君はそちらへかけてくれ。グレシャム、呼ぶまでは誰も近づけないように」
「かしこまりました、旦那様」
 書斎の一隅へ置かれたソファセットへウィルが進み、グレシャムがその後ろでお辞儀をしてから扉を閉めた。閉めきられた室内に沈黙が落ちる中、アーサーは机の上から何かを取り上げ、サイドテーブルに置いた。サラが腰を下ろした側からは、すぐ左に座るアーサーが邪魔になって、何を置いたのか見えなかった。ヒューズ兄妹とテーブルを挟んだ反対側に、ウィルが腰を下ろした。

「何か飲むか?」
「いや、結構。それよりも――」
「わかってるから、そう急かすな」
 アーサーが微苦笑を浮かべ、ウィルの茶色の眼差しをじっと見つめた。イートン校時代からの親友であるふたりは、無言のまま眼差しだけで何か言葉を交わしたようだった。アーサーが微苦笑を消して、両手を膝の上で固く握り締めたままのサラへと右手を伸ばした。視線はウィルに合わせたまま、軽く妹の手に触れる。悪いようにはしないから心配するなというメッセージを感じ取り、サラはそれまで俯いたままだった顔を、漸く上げた。兄の手は大きくて温かく、遠い記憶の中にある父の手を思い起こさせた。

 右手を自らの膝の上へ戻してから、アーサーは、親友へ抜け目ない視線を注ぎつつ、口を開いた。
「はじめに言っておくが、ウィル、私は昨夜お前たちふたりの間に何があったかを問い質すつもりはない。問題は、スキャンダルとなる前に防ぐこと。関心があるのは、その方策に関してだけだ」


* * *

 兄の言葉が思いがけないものだったのか、サラが驚いたように目を瞠って、アーサーの横顔を見つめている。しかしウィルにとって、このアーサーの台詞は、予想の範疇だった。特にアーサーが、今のような冷静沈着とした表情で、淡々とした声で話をする時――灰色の双眸が抜け目なく光っている時は、絶対に商談を成功させようと固く決めている証拠だ。共同で事業を行ってきたウィルには、お馴染みの表情だった。こういう時のアーサーは、冷徹なまでに合理的に、話を進めようとする。ウィルやサラの言い訳を聞くつもりはない、と彼が最初に言い放つのも、予想されたことだった。

 アーサーのこういった表情を、サラが目にする機会はこれまでなかっただろう。彼女が目にしてきたのは、兄としてのアーサーや、伯爵として振る舞うアーサーだけだろうから。実業家の顔を彼が見せたからといって、それほど驚くことではないんだよと、彼女に声をかけてやりたくなる。ぽかんとしている彼女を見ていると、なぜかこころがほろりと緩んで、クスリと笑ってしまいそうになる。
 が、ここに今日自分がいる理由を思い出して、たちまち不愉快な霧がこころを覆い尽くした。こんな面倒ごとに巻き込まれたきっかけが、サラだったのだから。苛立ちが、ざわざわとウィルの神経を刺激する。それを悟られないよう、ウィルも努めて冷静に、アーサーにこころの裡を読まれることのないように、無表情で応じた。長い付き合いだけに、それには慎重を要した。

「無論、私もそのつもりでこうして来ている」
「ならば、きちんと責任を取るという昨夜の言葉に二言はないな?」
「ああ」

 ウィルが頷くと、サラの顔色がいっそう白くなった。祈るように両手を固く握り締めて、いつもより青みを増した瞳が、ウィルへと注がれる。だが彼は、サラと視線を合わせることはしなかった。アーサーと目を合わせ、彼との会話に、彼との駆け引きに集中するよう意識していた。
 硝子のように張り詰めた瞳を見てしまったら、冷静に話をまとめることができなくなってしまう。そんな怖れを、無意識に感じていたのかもしれない。

「それを改めて聞いて安心したよ」
 アーサーが大きく息を吐き出し、両の目頭の辺りを軽く片手で揉んだ。彼の顔からは硬さが削げ落ち、少しだけ表情が緩んだが、すぐ隣に座るサラは、彫像のように身じろぎひとつしない。青白い顔の中、瞳だけを動かして、ウィルとアーサーのやり取りを見守っている。
 アーサーが満足そうに頷いた。

「妹の名誉も傷ついていないし、君にとって不名誉となることも起きなかった。そういうことだ。世間には公表していなかったが、君とサラは既に婚約していた。たまたま婚約者同士でバルコニーに出ていた。ただそれだけのことだった」
 シンとした室内に、アーサーのきびきびとした声だけが響く。ウィルは目立った反応を見せずにじっと耳を傾けており、相変わらず表情には何も浮かんでいなかった。
「たまたま婚約を公表する直前だった、というだけのことだ。後ろ暗いところは何もなく、祖父もふたりをこころから祝福している。そう言っておけば、何の問題もないだろう」
「結構」
 まるで関心がないかのように、ウィルの応えは短くあっさりとしていた。親友には異論がないと見て、アーサーは次々に、今後のプランを語り始めた。
「すぐに新聞に広告を載せるよう手配しよう。婚礼はできるだけ早い方がいい。準備が出来次第、レイモンド侯爵家の礼拝堂で行おうと思うのだが、不都合はないか?あそこなら身内だけで式を挙げられる」
「いや、私もそれで構わない。世間の目に晒されるのは勘弁願いたいからな」
「では、私が祖父に話をつけよう。婚礼の日取りだが、ひと月もあれば準備期間は十分だろう」
「アーサー、その後のことで話がある」

 どんどん話を進めていくアーサーに頷くだけだったウィルが、漸く自主的に口を開いた。事務的に、近所へ散歩へ行くと告げるかのような軽さで、彼は告げた。
「婚礼の後はタウンハウスで生活するが、早目にロンドンを発とうと思う。クリスマスの前から領地を空けているから、そろそろ一度戻ろうと考えていたところだ。社交シーズン半ばで戻ることになってしまうが――」
「いや、それは構わない」
 サラの代わりに、アーサーがきっぱりと断言した。親友の生真面目な、頑固そうな表情を見つめながら、ウィルは内心苦笑した。責任感の強い彼のことだから、今回の話をサラのために何としてもまとめようと決意しているとは思っていたが、結婚の話が決まりさえすればいいのだと、このように露骨に示すのは珍しかった。とはいえ、ウィルとしても、結婚の承諾はするものの、それ以外はこちらのやりやすいようにやらせてもらうつもりでやって来たから、アーサーの横槍が入らないのは有難かった。

 アーサーといえど、結婚後のことに関しては口出しをさせないと、ウィルは決めていた。サラにとっては2度目のシーズンであり、それをまだ存分に楽しんでいない段階で終えさせるとなると、多少良心が咎めたが、これ以上『社交界のルール』に妨げられるのは我慢ならないのだった。今回の結婚を承諾する羽目になったのも、未婚の女性が男性とふたりきりになるのは恥ずべきことだと規定する『社交界のルール』が原因だ。
 領地に引っこんで、好奇心に溢れた視線をシャットアウトし、穏やかな生活を取り戻したいと願うのを、誰が非難できるだろうか。
 それに、アーサーも敢えて口にはしないが、サラと結婚することで、レイモンド侯爵家という名門とも縁戚になる。幼くして父を亡くしたサラの将来を、老いた侯爵が酷く案じているのは周知の事実だ。彼女の夫へも、快く援助をするだろう。王族も一目置くほどの影響力を持つ侯爵がバックにつけば、ウィロビー伯爵家の行く末も安泰。サラを娶れば、ウィルにとっても大きな利益がついてくる。それを、アーサーもウィルもよく理解していた。

「ならば、社交界に挨拶する程度の期間を置いてから、すぐにロンドンを発つ」
「それまでにサラの荷物も、全て用意しておくように言いつけておくよ」
 早々に話がまとまり、アーサーもほっとしたようだった。声に、いつもの親しげな調子が混じってくる。
「細々したことは追々相談するとしよう。ところでウィル、朝食は済ませたのか?良かったら何か食べていってくれ」
 ベッキーもお前の顔を見たいだろうし、と続けた言葉は、それまで黙り込んでいたサラが唐突に零した言葉に打ち消された。彼女は兄を見つめて、強い口調で言った。
「駄目よアーサー。やっぱりわたくしは、賛成できないわ」

 不意の抗議に目を瞠ったアーサーから、サラはウィルへと視線を移した。真っ青な瞳が、茶色の瞳にぶつかった。

「わたくしは、あなたと結婚することはできません」

 一瞬呆気に取られたが、すぐにウィルの胸に、怒りの火が灯った。そのせいか、彼女の声が僅かに震えていることに、気づくことはできなかった。酷く冷えた声が、口をついて出た。
「それはどういう意味かな?」
「馬鹿なことを言うんじゃない!」
 ウィルとは対照的に、アーサーの激した声が、書斎の空気を鞭打った。

「これ以外にどんな解決方法があるというんだ?我侭も大概にしなさい」
「どうして気づかないの、アーサー」
 兄妹は至近距離で激しく火花を散らしあった。灰色の瞳と真っ青の瞳と、どちらも一歩も引かずに、相手を射すくめている。怒りを覚えながらも、ウィルはひとまずふたりのやり取りを見守ることにした。ヒューズ兄妹の頑固さをよく知っているからこその、賢明な判断だった。
「こんなことは間違っているわ。わたくしとウィルをくっつけるだなんて・・・・・・」
「何を言う。お前にとってウィルは、願ってもない最高の夫だぞ?彼が男らしく責任を取ると言っているのだから、これ以上のことはない。間違っているのはお前だよ、サラ。少し頭を冷やしなさい」
「違うのよ、アーサー。こんなこと、間違ってるわ」
 サラは首を横に振り、キッと兄を睨みつけた。

「強引に話を進めるなら、わたくし、尼になるわ。修道院に入って、そこで一生を過ごします。それが一番いいわ」
「馬鹿を言うな」
 アーサーが呆れ返ったように肩を竦める。一方のウィルは、苦々しさを感じていた。ウィロビー伯爵夫人という地位に、座りたがる女性は大勢いるのだ。その椅子をサラのために譲ったというのに、彼女は感謝するどころか、尼になった方がマシだとさえ言う。勘定をコントロールする術に長けたウィルには滅多にないことだが、思わず怒りに駆られるまま、口を開きそうになった。が、アーサーが一歩先んじて妹を叱りつけた。
「ウィロビー伯爵夫人になるという意味を考えなさい。ウィルならば社交界の花を選び放題だというのに、お前を妻にすると言っているんだ。いいかいサラ、お前には選択肢はないのだ。自分の立場を良くわきまえなさい」

 厳しく言ってから、アーサーは、サイドテーブルへと手を伸ばした。彼が手にしたのは一通の封筒で、封は切られていたが、封蝋をはっきりと目にすることはできた。その紋章を見て、ウィルとサラが同時に息を呑んだ。ウィルの眉間には皺が寄り、サラの顔色は透き通るように白くなった。
 親友と妹とを交互に見つめながら、アーサーは忌々しげに、その封筒を掲げて見せた。
「これは今朝早く、ウィルトン子爵家から届いたものだ。正確にはライアン・レイノルズから届いたものだ。もしもウィロビー伯爵が潔白、あるいは、潔く責任を取ることを躊躇う場合には、レディ・サラを是非妻にしたいと書かれている。どうにもサラを諦めきれず、この苦しい恋を貫きたいそうだ。恋に苦しむ哀れな男に、どうか情けをかけてほしいとも書かれている」
「往生際の悪い男だな」
 ウィルの眉間の皺が、更に深くなった。お話にならないと、肩を竦めてみせると、アーサーも「まったくだ」と頷いた。

「よほどサラを妻にしたいようだが・・・・・・どうしてもウィルとの婚約を拒むというなら、こういう男の妻になるしかないんだぞ、サラ。私もおじい様も、絶対にお前が尼になるなどとは認めない。お前に残されたのは、ウィルと婚約するか、それともライアンと婚約するか、あるいはスキャンダルを起こした娘として醜聞にまみれるか。ああ、私もおじい様も、スキャンダルはお断りだから、ふたつに絞られるな」
 口調は冷静さを取り戻してはいるものの、容赦なく言葉を重ねるアーサーに、サラが次第に追い詰められていく様子が、ウィルには手に取るようにわかった。いくらサラが強情を張っても、ヒューズ3兄妹には、家族と断絶するという選択肢は思い浮かばないだろう。父を早くに喪ったから、家族に対する愛情はとても強い。そのため、家族と絶縁するという強硬手段を持たないサラは、兄の示した選択肢のどちらかを取るしかないのだ。
 アーサーを睨むように見上げるサラの真っ青な瞳が、不安げに揺らいだ。

「私は、お前を任せるならウィルほどの適任はいないと思っているよ。彼ならば安心して大切な妹を任せられる。ブラッドもベッキーもソフィアも、同じことを言うだろう。それでもお前は、ライアンを選ぶというのか?」
 灰色の瞳に捻じ伏せられまいと、サラは必死に抵抗したようだった。兄妹は暫し見つめ合い、やがて、先に視線を逸らしたのはサラだった。俯く妹を、アーサーは満足そうに眺めやり、ウィルへ頷きかけた。
「お前も、他のどんなご婦人よりも、サラを妻にする方がいいだろう?」
 思いがけない問いかけに、ウィルは微かに目を瞠ったが、上手に表情を取り繕って、この上なく冷静に首肯した。口からするりと出てきた言葉は、彼自身無意識ではあったが、こころの奥底にしまいこみ、鍵をかけていたものだった。

「ああ。サラなら私を煩わせはしないだろう」

 本心だからこそ、残酷なまでに突きつけられる現実。それを耳にして、サラのサファイアの双眸が、大きく見開かれる。俯いたままであったから、アーサーもウィルも気づくことはなかったけれど、濡れた深い青が揺らいだ。そして彼女はぎゅっと唇を引き結び、何かを耐えるように、静かに深呼吸を繰り返した。

「サラ、お前はどちらを選ぶ?」

 答えを確信しているくせに、アーサーはなおもサラへと問いかける。あくまでも彼女の口から、彼女の意志として、未来を決めさせたいのだろう。アーサーが敷いたレールの上を歩いているだけだというのに、サラが選んだということにしたいのだ。一度口にすれば、強情なサラは、撤回すると言い出すのが難しくなる。妹の性格を熟知しているからこその、アーサーの作戦だった。

 サラは両手を握り締めたまま、真っ直ぐに兄を見上げた。凛とした空気を纏うサラの姿は、ふたりの兄よりも堂々として、王族のような品格さえ漂っていた。そして彼女は、自身の未来を決定づける一言を口にする。その声は、僅かにも震えてなどいなかった。

「わたくしは、ウィルと婚約することを選びます」

 アーサーは満足そうに微笑み、ウィルは瞳を微かに揺らした。茶色の眼差しに深い影が落ちるのを、サラは見逃さなかったけれど、今の彼女には、それをどうすることもできなかった。
「続きは朝食の席で話そう。私はまだベッキーに何も話していないんだ」
 場所を移そうとする男性陣に、サラは、詳しいことが決まったら教えて欲しいと告げるのがやっとだった。彼らと一緒に朝食を摂るなど、とてもできそうになかった。兄に、後はよろしくと言い置いて、書斎を後にするのがやっとだった。
 ともすれば駆け出したり、くずおれたりしそうだったが、気力を振り絞り、書斎の扉が閉まるまで、背中をピンと伸ばし続けた。サラは、茶色の眼差しが自分の後姿に注がれていることを知っていた。肌が彼の視線を感じて、ぴりぴりと反応する。せめて毅然としてこの場を去りたい。矜持だけが、サラの意地を支えていた。

2011/08/19up


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