こころの鍵を探して

 偽りの誓い[3]

 扉が閉まるなり、フォード伯爵ブラッド・ヒューズは、ずかずかと部屋の中心まで歩み寄り、真っ青の双眸に一杯の疑問を込めて、兄へと向けた。兄の書斎の中央部に置かれたソファに腰を下ろして弟を迎えたバリー伯爵アーサー・ヒューズは、微苦笑の混じる言葉をかけた。

「思ったより早かったな」

 じろりと兄を一瞥して、ブラッドは兄の向かいのソファへと腰を下ろし、背もたれへ上半身を預けて、これみよがしにため息をついた。これくらいではこの兄の気が咎めたりしないことをよく承知してはいるが、ブラッドとしても最大限の努力と犠牲を払って駆けつけたのだ。予想よりも早く駆けつけることが大変な労苦を必要としたことを、少しでもわからせる必要がある。

「ほとんど全てを投げ打って、だ」
 嫌味をまじえて告げると、アーサーの瞳に面白そうな色が浮かんだ。それを見て、ブラッドの全身に、どっと疲労が襲いかかった。何しろ彼は単身、滞在先のハンプシャーから急ぎロンドンへ帰ってきたのだ。出産後のソフィアと赤ん坊を気遣い、ブラッドは今年の社交シーズンの前半を、ハンプシャーで妻子と過ごすつもりでいたのだ。そこへ兄からの呼び出しが届いたのである。

「火急の決裁は急ぎ済ませてきたが、案件は山とある。だがそれよりも、一体何なんだ、あの手紙は。正直、仕事どころではないよ。何が起きたのか、説明してもらうために馬車を急かしたんだ」
 サファイアの双眸を眇めると、ブラッドの端正な顔立ちから甘さが消えて、鋭さが際立つ。厳しく問い質すような視線を向けられたが、アーサーは冷静な表情を保ったまま、簡潔に答えた。

「今日からちょうど二週間後、ウィルとサラが結婚式を挙げることになった」

 ブラッドの眉間に深い皺が寄る。

「婚約は既に新聞にも発表済み、結婚許可証も入手済みだ」
「一体何が起きたっていうんだ」
「支度は着々と進み、何の問題もない」
「あり得ないだろう、ウィルとサラが結婚なんて」
 ブラッドが思わずのように漏らした言葉に、アーサーが素早く問い返す。

「どういう意味だ?」
「ウィルはサラを妹のように思っているし、サラだって兄のように思っている。兄妹同然のふたりなんだ。結婚の対象と見たことなんてないだろう」
 渋い表情を浮かべるブラッドに対し、アーサーは感情を交えず、表情も声も淡々としたままで切り返した。
「だが、本当の兄妹ではない」
「それはそうだが・・・・・・」
「サラにとっては、理想の相手だと思うがね」

 歯切れの悪いブラッドに、アーサーが畳みかけるように言葉を紡ぐ。ブラッドは表情を曇らせ、眉間の皺を指で押さえて、心配そうに兄を見つめた。
「一体何があったんだ?あのふたりが兄妹同然の関係を解消し、夫婦になる可能性を頭ごなしに否定する気はないが、あまりに突然だ。何かがなければ、あのウィルが簡単に婚約に応じるわけがない」
 何しろ彼のこころの中には、未だにアビーが住みついているのだから。

 ブラッドは声に出しはしなかったが、アーサーの耳には、はっきりと聞こえてきた。はからずも、アーサーも弟と同じことを考えていたのだ。
 ウィルとサラの婚礼を円満に進める上で、弟の助力は欠かせない。そこでアーサーはごく簡単に、あの夜の出来事を話した。言葉を極力抑えて語ったが、明敏なブラッドは、少ない言葉から大体の事情を察し、やっと頷いたのだった。

「そういう事情なら、納得するよ。私としても、どうせサラをやるなら、ウィルトンよりウィロビーの方がよほどいい」
 弟の台詞にほっとしたのを悟られないよう、アーサーは表情を変えず、事務的に言葉を継いだ。
「サラと私たちは、明日から婚礼までレイモンドの城館に滞在する予定だ。お前とソフィアたちも、支度が出来次第合流して欲しい」
「了解した。あそこなら、お喋り雀の目を気にしなくていい。ちょうど、赤ん坊の顔をおじい様たちに見せるいい機会にもなる。三、四日のうちには合流するよ」
「是非婚礼はレイモンドの城館でと、おばあ様たっての願いだ。サラの支度を精一杯調えてやりたいと」
 そこまで話したところで何かに思い至ったのだろう。ブラッドが、珍しく歯切れの悪い口調で尋ねた。

「レイノルズ館へは?」

 アーサーも、答えを返すまでに一瞬言いよどみ、重苦しい沈黙が束の間書斎に落ちた。

「遣いをやったが、難しいそうだ。随分と体調が悪くなっているらしい」
「そうか・・・・・・」
 兄弟の視線が、頼りなげにそれぞれの手元へと落ちる。

「せめて私たちが、あの子に恥ずかしくない支度をさせてやらなくては」
 アーサーの言葉に、ブラッドが深く頷く。突然決まった婚礼とはいえ、やはりサラも、本当は両親に出席して欲しかったはずだ。父は既に無く、母は寝たきりとあっては、心細さも増すだろう。せめてものことをという想いは、祖父母だけでなく、アーサー夫妻、ブラッド夫妻全員が持っている。ソフィアも子供たちを連れて、ゆっくりとだが、ロンドンへ向かっているから、式には間に合うだろう。

 あの子に幸せになってほしい。その願いを込めて、こころ尽くしの支度をしてやりたい。
 その一心で、ベッキーもあれこれと品を揃えている。

 できることなら、結婚後のサラの幸せも用意してやりたいが、そればかりはウィルにかかっている。どちらともなく微かなため息を零し、兄弟は、顔を見合わせたのだった。


* * *

 窓ガラス越しに広大な庭園を見下ろして、ウィルは見知った人物に目を留めた。

 重厚で壮麗な城館の正面、2階に位置する公爵の私的な居間からは、郊外にほど近いが、ロンドン市内とは思えないほど広い庭園を、一望することができる。ウィルはその部屋の、眺望を誇る窓辺に佇んでいたから、その人物の様子がよく見えた。
 華奢な肢体を包む深緑色のドレスは、相変わらず必要最低限の装飾を施しただけの実用的なもので、実に彼女らしい。昼間といえど、まだ空気は冷たく肌を刺すが、彼女は外套を纏わずに、暖かそうなショールで肩から下を覆っていた。

 サラ・ヒューズ。

 これまでウィルにとっては幼馴染で、妹分という存在だった彼女が、婚約者となってから暫しの時間が過ぎた。明日はもう、彼女との婚礼の日である。突然妻を迎える準備をする羽目になったウィルは、忙しさに拍車がかかった日々を送っているのだが、それでも今日はどうにか時間をやり繰りし、レイモンド侯爵の館に足を運んだのだった。執事に通されたこの部屋には、まだ誰の姿もなく、手持ち無沙汰に景色を眺めているところだった。

 綺麗に整えられた木々の中を歩いていく彼女の向かう先に、大きなガラス張りの建物がある。温室の中は暖かいから、軽装なのだろう。その温室の入り口に、ひとりの青年が立っているのが見える。遠目に見ても長身であること、従僕のお仕着せを身に着けていることがわかる。
 その青年の姿に、ウィルは見覚えがあった。ウェストサセックスの館でも見かけたことのある、サラ付きの従僕だったはずだ。サラと共に過ごしていると、彼の視線を感じることが幾度もあったから、ウィルの記憶にも残っている。ヒューズ兄妹の乳母だったベッシーと一緒に、サラに影のように従っていた。ロンドンへも供をしてきたのだろう。

 サラがウィルと結婚した後も、彼は女主人に付き従って、ウィロビー伯爵家へやってくるのだろうか。無論ウィルは、サラが気心の知れた召使を何人か連れてきたところで、気に留めたりはしない。ウィロビー伯爵家の家人と馴染む努力さえしてくれれば、寛容であるつもりだ。

 サラが温室に近づくと、青年がガラス張りの扉を開けた。温室へ入っていきながら、サラが青年へと微笑みかけたのが微かに見えた。ウィルには、それに応えるようにして、青年の黒曜石の瞳がやわらかに細められる様子が、はっきりと見えたような気がした。
 ざわりとした不愉快な感覚が、身体の奥に湧き上がったような気がしたせいで、背後からかけられた声に反応するのがひと呼吸遅れた。

「よく来てくれたな、ウィル」
「忙しいところ、呼び出してすまない」

 振り返ると、居間へヒューズ兄弟が入ってきたところだった。アーサーもブラッドも、表情は柔らかく、穏やかだ。親友であるふたりが、自分と彼らの妹との縁組を表立って騒がずとも、こころの中では喜んでいることを感じ取り、ウィルもいつもの彼らしい友好的な笑みを浮かべた。

「いや、侯爵閣下のお呼びとあらば、いつでもはせ参じるよ」
「それはまことかな、ウィロビー伯爵」

 兄弟の背後から、重々しい声がかけられた。威厳のある、聞く者の腹に響き渡るような低音の声は、いつ耳にしても、自然とこちらの背筋が伸びてしまうような威圧感がある。兄弟と親しい縁から、これまで何度か挨拶をしていたし、直接声をかけられることもあった。少年のウィル・ナイトレイではなく、大人となり、事業でも実績を挙げているウィロビー伯爵になった今でも、この声に接すると、無意識に居ずまいを正してしまう。
 そんな自分に気づき、苦笑しそうになったが、表向きはそつのないいつもの微笑を絶やさず、ウィルは、兄弟の後ろからゆっくりと歩みを進めてくる老人へと視線を向けた。

 がっしりとした身体つきの老人は、孫息子たちほど長身ではなく、彼らよりも頭半分ほど背が低かったが、全身に漂う重厚な存在感と威厳は、若い彼らにはとても真似できるものではなかった。銀髪を奇麗に撫でつけ、皺の多く刻まれた顔は、若い頃には美男子だっただろうと予想できるくらい整っており、アーサーがずっと年を重ねて気難しくなったらこうなるだろうと想像できる。立派にたくわえた口髭もとうに銀色になっているが、口元は孫息子たちと良く似ていた。
 杖をつきながら歩いて居間の中央に置かれたソファセットに向かいながら、灰色の鋭い眼差しは油断無くウィルへと注がれていた。王族でも、年若い者であれば、この視線を注がれると震え上がってしまうといわれている。レイモンド侯爵は、王族にも議会にも首相にも、一目置かれるほどに、影響力のある人物だった。

「本当ですとも、侯爵閣下」
 その視線を向けられても眉ひとつ動かさず、微笑みを浮かべ続けているウィルに、侯爵は僅かに目を瞠り、微かに頷いた。老人が上座に腰を下ろすと、すかさず執事がやってきて、お茶の用意を手際よくこなしていく。侯爵の向かいの席を目で示して、アーサーがウィルへと頷きかけた。
「まずは腰をかけてくれ」

 侯爵とこうしてじっくりと向き合うのは、初めてのことである。大切な孫娘の相手を、しっかり検分してやろうというつもりなのだろう。婚礼の直前になって、と、呼び出しを受けた時には驚いたが、遣いの者はブラッドからの手紙も携えていた。それによると、いまだ各界から助言を求められることの多い侯爵は、ずっとウィルと話をしたいと思っていたが、予定が立て込んでいたのに加え、孫娘の婚礼を祝う客に煩わされて、やっと時間を遣り繰りできたということだった。
 そうまでして、孫娘の夫を直々に確かめたいらしい。湧き上がってくるため息を秘かに押し殺し、ウィルは友好的な笑みを浮かべ続けたまま、窓際から歩き出した。

 歩き出す直前、不自然にならない程度にちらりと見遣った庭園の先には、どんよりとした灰色の空の下、肌寒い風に晒される温室が映る。無機質なガラスは、ウィルの視線を阻むかのように、サラと青年の姿をすっかりと隠してしまっていた。


* * *

 サラはベンチに座って、ぼんやりと空を見上げていた。

 祖父自慢の温室の内部は、まだ肌寒い春先にも関わらず、ふんわりと全身を包むような暖かい温度が保たれている。ガラスで覆われた天井や壁の中では、青々と繁った木々が、常夏の島にでもいるかのような雰囲気を醸し出している。温室の外の世界では、春の芽吹きには今少し時間がかかるようで、寒々しい景色が広がるばかりだ。
 どこかしっとりと湿気を含んだ空気が、豊かな土壌とやわらかな緑が発する甘い匂いを漂わせている。

 幾つもの大きな木を避けるようにして温室を進んでいくと、ちょうど中心部にぽっかりと空き地が設けられており、そこにはテーブルと椅子が数脚セットされている。寒い冬の間など、ここで別世界を眺めながらのティータイムを楽しむのが、サラは大好きだった。

 深窓のご令嬢にしては、土いじりを好みすぎるかもしれないが、ウェストサセックスでは母もベッシーたちも、サラが好きなように庭をいじらせてくれた。庭師の爺やも協力的で、今年の庭はどういう花を植えようかという相談をするのも、楽しみのひとつだった。
 さすがにロンドンのバリー伯爵邸や、レイモンドの城館では、サラが自ら庭いじりをすることは許されなかったが、祖父母の城館では、温室を自由に使うことができた。バリー伯爵邸では、女主人であるベッキーの意向を庭造りに反映するべきだと考えたからでもあるが、父方の祖父母は、末っ子の孫娘にはことのほか甘い。祖父は貴族たちからも怖れと尊敬の目で見られている重鎮だというが、サラにとっては、孫娘を前にすると相好を崩す、親しみやすい祖父なのだ。

 ベンチにこうして座って、緑を眺めていると、張り詰めていたこころが、少しずつ緩んでいくのが感じ取れる。だが、全身が重く感じられるのは変わらない。ここの空気は湿度が高く、乾燥した外気より僅かに重くまとわりつくが、それが理由ではない。連日の婚礼準備による肉体的な疲労と、ふと気を抜くと圧し掛かってくる精神的な疲労とが、まるで足枷をつけているような気分にさせるのだ。

 祖父母の言いつけに従う形で、バリー伯爵邸からレイモンドの城館に移ってから、間もなく四週間になる。いよいよ明日は、ウィルとの婚礼の日だ。ベッキーと祖母、それに途中から合流したソフィアが、熱心に婚礼準備を進めてくれて、ウェディングドレスも昨日完成した。
 今日の午前中は最終チェックのために試着し、微調整をして、皆に太鼓判をもらったが、サラ自身はどこか他人事のような気がしていた。他の衣裳や小物なども、頼もしい女性陣に準備を任せて、サラは着せ替え人形のように、言われるがままに試着を繰り返すだけだった。

 ウェストサセックスでは好んで身に着けていた、着古した普段着用のドレスは、もともとロンドンの屋敷では着る機会がなかった。兄たちと離れて暮らすことへのあてつけのように思われても嫌だったし、ロンドンの屋敷の雰囲気には合わないため、サラは渋々、あまり肩肘は張らないが仕立てのいいシンプルなものを身に着けるようにしていたのだ。それが、婚約が決まって以来、「伯爵夫人としてそれなりに威厳のあるものも必要ですから」という祖母の一言で、ある程度手の込んだドレスが何着か仕立てられた。「気軽な独身時代とは違うのですから」とも祖母に言われては、髪もきちんと結い上げ、城館内で過ごすにしても、少々窮屈なドレスに袖を通すしかない。それは予想外にサラを疲弊させた。

 城館内のチャペルで式を挙げ、披露宴も城館で行うため、招待するのは身内だけだが、レイモンド侯爵家と血縁関係にある家は多い。誰を招待するかという招待客の選定も、バリー家側に限ってだが、祖父母とアーサー夫妻が行った。ウィルの方はそれほど血縁者が多くないから、バランスを取る上でも、新婦側だけを多くするわけにはいかなかった。
 サラは、招待客のリストと招待状の見本を見せてはもらったが、全て兄たちに一任していた。一族との関わりで、注意しなければならない人物はどこの誰かというような細かな配慮までは、普段田舎に引きこもっているサラにはできなかったという事情もある。もちろんアーサーには、「結婚した後は、こういったこともウィルを助けてお前が仕切らなくてはならないよ」と言われたけれど、侯爵家の関係は複雑だからと兄に押し付けてしまった。

 ずっと秘かに想っていた相手と結婚するというのに、戸惑いと怖れは感じても、喜びを感じないというのもおかしなものだ。できるならば、明日の結婚式も欠席したいくらいだ。結局のところ、ウィルもサラも、それぞれが義務感に駆られて結婚する必要性を認め、合意したに過ぎないから、現実感が伴わないのだろう。

 両親やブラッドのように、愛情から結婚を決意した夫婦や、アーサーのように、馴れ初めは見合いでも、その後に見事愛情を育んでみせた夫婦と、サラの場合は事情が異なる。アーサー、ウィルと婚約を確認しあったあの朝からずっと、サラを取り巻く環境は慌しく変化していた。
 すぐに新聞に結婚広告を出し、社交界にふたりの婚約が知られてからは、サラは、アーサーとブラッドが厳選した幾つかの夜会に顔を出した。兄たちばかりでなく、もちろんウィルも一緒である。ふたりの婚約は概ね好意的に受け止められ、祝福の言葉が多く寄せられた。

 その一方で、ウィルの妻の座を射止めたサラに嫉妬するご婦人方や、ウィルトン子爵令息のような不埒な紳士を警戒して、ベッキーとソフィアがサラに付き添い、時にはそれに侯爵夫妻が合流した。社交界の重鎮である侯爵夫妻や、社交界の花であるベッキーとソフィアを目の前にして、これまでのようにサラを侮辱するような発言をする者は現れなかった。ねっとりとした妬みの眼差しを向けられることはあっても、面と向かって、社交界の実力者に抗うような気骨ある者はいなかったのである。
 はっきりと言葉で示されなくても、サラは、義姉たちの気遣いを肌で感じ取っていた。きっと、これまでサラが陰で嘲りの言葉を注がれてきたことを、彼女たちも知ったに違いない。もしかしたらウィルがそれとなく教えたのかもしれない。それはそれで情けなく恥ずかしいことだったが、攻撃されずに済むのは有難かった。
 これほどに大勢の紳士淑女と挨拶を交わしたのはデビューの時以来だったが、最後には引きつりそうになる顔の筋肉をどうにか宥めて、サラはお披露目の舞台を乗り切った。

 時間が経つほど笑顔にぎこちなさが混じってくるようなサラと比べて、ウィルは、全くそつがなかった。人好きのする微笑みも、当たり障りない相槌も、彼と言葉を交わしたひとは皆、楽しいひと時を過ごしたという満足感を与えられて、次のひとへと場所を譲っていくのだ。社交界の誰と誰が縁戚関係にあり、どういう実力関係にあり、どういうスポーツが趣味であり、といった、細かく膨大な情報を、ウィルはどういうわけか、きちんと頭に詰め込み、必要に応じて取り出せるのだ。顔を見れば名前が出るし、そのひとに連なる人物の話題も口をつく。ご婦人方と笑いさざめき、そうかと思えば、紳士方と最近のヨーロッパ情勢や産業の動向などについて意見を交し合っている。
 ふたりの兄もウィルも、名門貴族としてはかなり革新的に、新規事業に手を出しているということは知っていたが、彼らが活発に意見を交わすところをサラは初めて目にした。ベッキーは、「婚約祝いの席で仕事のお話なんて。これだから殿方というものは」と呆れていたし、ソフィアは「また始まったわ」と苦笑していたけれど、サラにとっては、『兄貴分のウィル』以外の顔を見ることができ、有意義な時間となった。ただ側で耳を傾けているだけでも新鮮だった。彼らが交わす言葉は多くが馴染みの無い単語で、理解できるものではなかったけれど、自分と関わりのある男性たちが情熱を注いでいる世界を垣間見ることができたのだ。

 婚約してよかったと、その時ばかりは思えた。

 それ以外では、婚約しての利点はあまり思いつかなかった。ウィルとこれまでのように気軽に言葉を交わすこともできなくなった。『兄貴分』という立場から『婚約者』へ、じきに『夫』へと立場が変わるのだから、従来同様にというのは難しいのだろう。彼の立場に理解を示しながらも、サラは、寂しさを覚えずにはいられなかった。
 月下のバルコニーで最後に向けられた冷たい視線――寝ても覚めても、瞼の裏から離れないのだ。

 『婚約者』としてのウィルは、礼儀正しく申し分ない。世の中の婚約者というものはこうあるべき、というくらい、振る舞いに非がない。レイモンドの城館に立ち寄れば、きちんとサラにも挨拶にやってくるし、公の場ではエスコート役を十分に果たしてくれている。
 ふたりの距離は近づいたはずなのに、それなのに、こころは隔てられてしまったような心もとなさが、サラにつきまとう。

 茶色の瞳に浮かんでいた温かさや親しみが、影を潜めてしまったように思えてならないのだ。彼が示す礼儀正しさの裏には、よそよそしさが見え隠れしている気がする。
 本当の兄妹ではなくても、ふたりを繋いでいた温かな信頼や無償の愛情といったものが、大人のルールに則った作法に置き換えられて、温もりを失ってしまった気がする。
 周囲から見れば、紳士淑女として求められているマナーを遵守し、非の打ち所のないカップルかもしれないが、親愛に溢れた声で「サラ」と呼ばれていた時間が還ってこないのは、とても哀しかった。

 いつまでもそんな贅沢ばかりを言っていてはダメだわ、と、サラは自分に言い聞かせた。ウィルはサラをスキャンダルから救い出してくれた相手だ。無論、スキャンダルの一端を彼が担っていたことは否めないが、彼が潔く責任を取ると言い出さなければ、今頃サラは社交界から白い目で見られ、すごすごとウェストサセックスに戻っていただろう。そして二度とロンドンに出て行こうと思わなかったに違いない。

 サラひとりの問題で済めば良かったのだが、未婚の娘の醜聞となれば、そうもいかない。自分だけが責められるのならまだしも、家族を悲しませることが、何より耐えがたかった。祖父母や兄たち、何より母がどれだけ悲しむことか。尼になった方がマシだと思う一方で、大切な家族を嘆かせるのは、身を切られるように辛い。アーサーによれば、母にはただ、思いがけないことでウィルとサラが婚約することになったとのみ、手紙を送ったという。ころのところ弱っている母に、余分な心労をかけるわけにはいかないから、サラはスキャンダルの種について伏せてくれた兄に感謝した。

 そう。サラはとても恵まれているのだ。

 幼い親しみが喪われたことを、いつまでも嘆いていてはいけない。ウィルに感謝し、彼の良き妻として振る舞っていかなくてはならない。
 彼をしっかりと支えていくことで、勇気ある決断をしてくれたことに報いなければならないのだ。

 こみ上げてくるものを押し戻すために、瞼をきつく閉じていたサラは、鼻腔をくすぐる香りに気づいた。目を開ければ、ジェイスンが大きな身体に似合わず、極力音を立てないよう繊細な動きで、テーブルの上にお茶の用意をしている様子が映る。物思いに耽るサラの邪魔にならないよう、細かく気を配ってくれているのだ。彼の心遣いが嬉しくて、サラの口元に微笑みが浮かぶ。

「ジェイ、ありがとう」
 声をかければ、彼はばつが悪そうに小さく首を横に振った。サラの邪魔をしてしまったと、気に病んでいるのだろう。立派な身体つきゆえに誤解されやすいが、ジェイは、主の変化を捉え損ねることのない、細やかな神経を持った青年だ。サラを表に影にと支えてきてくれた。
 テーブルの上に並べられたお茶の香りに混じって、陶器の皿に盛られた焼き菓子の香ばしい香りもサラの鼻をくすぐった。ふんわりと焼き上げられた菓子を見て、サファイアの瞳が細められる。
「ベッシーが焼いてくれたのね」

 口に運べば、幼い頃と変わらない懐かしい味が広がった。ベッシーは、サラの嫁ぎ先にもついていくと言い張っているが、サラの考えは異なった。ウィルからは、結婚後暫くはロンドンに留まるが、その後領地へ向かうと聞かされている。その途中で、ウェストサセックスのレイノルズ館へも立ち寄る予定となっている。それまで母の様子を目にすることができないのが、サラはとても気がかりだった。そのためベッシーには、婚礼後一足先に母のもとへ戻って欲しいというのが、サラの願いだった。
「奥様も心配ですけど、何よりもお嬢様のことが心配でなりません」
 あの気のいい老女は、二言目にはそう言って食い下がり続けたが、結局は根負けした。母が心配だというサラの意見に同調したアーサーとブラッド、三人がかりで説得されたのだ。

 きっともう暫くは、ベッシーの焼き菓子を口にすることもない。
 ほろりと、口の中に苦さが広がるような気がした。

「いよいよ明日ですね」
 無口なジェイにしては珍しく、ぽつりとそんな言葉を零した。菓子を紅茶で流し込んでから、サラは口元を歪めるようにして微笑んだ。
「そうね。なかなか実感が沸かないわ。明日、祭壇に立つ花嫁がわたくしだなんて」
 ため息の混じった台詞を吐き出すと、サラはいつもの彼女らしい、落ち着いた表情をジェイへと向けた。

「一緒に来て欲しいと願ったのはわたくしだけれど、ジェイ、本当にいいの?きっとこれまでとは、勝手が違うと思うわ。なかなかレイノルズ館へ帰してもあげられないかもしれない」
「構いません」
 静かながら、断固とした口調で、ジェイが答えた。黒曜石の瞳が、サラのサファイアを真っ直ぐに捉える。

「お嬢様のお側にいたいと願ったのは俺です。お嬢様がどこへ行かれても、俺はずっとお側にいます」
 黒い宝石に宿る苦しげな光の奥に、狂おしいほどの恋慕の炎が燃えているのを、この時のサラは気づけなかった。ジェイが細心の注意を払って、そうした感情を押し込めていたせいもあり、黒い瞳がいつもより切なく、熱い色を帯びて向けられていることだけに気づいた。なぜ彼がそんな眼差しをしていたのか、深く考えることもせずに。
 郷里を捨てた彼が、慣れ親しんだレイノルズ館からも家族からも離れることを決めて、感傷に浸っているのだろうという程度にしか、サラは受け止めなかった。目の前の青年が、どれだけ深く真摯な想いを抱き続けてきたか、今回の事態にどれだけこころを痛めているか、この時はまだ、彼女が知ることはなかった。

 サラは単純に、幼い頃から――レイノルズ館での暮らしを始めた頃から忠誠を誓ってくれているジェイが、これからも側にいてくれると喜んだ。今回の結婚の経緯を耳にしたウィロビー伯爵家の使用人たちに、どういう目で迎えられるか不安だっただけに、ジェイだけでもついてきてくれるのは非常にありがたかった。
 彼の大きな手が、サラの背中を支えてくれていることが、とても頼もしかった。

「ありがとう、ジェイ」

 零れんばかりの無垢な笑顔を向けられて、ジェイの口元にも微笑が浮かぶ。あの夜会の夜以来、サラがこころから笑うことはなかった。久々の、年齢相応の娘らしい笑顔に、ジェイの決意もいっそう固くなる。
 先ごろ届いたサムからの報せによると、グレン氏の農場を継ぐことが正式に決まったらしい。春になればレイノルズ館を出て、父を連れて農場へ移ると書いて寄越してきた。側にいられない申し訳なさはあるが、これで家族のことは心配ない。

 敬愛するサラお嬢様が、こころ安らかに、幸せな生活を送ることができるよう、ジェイは一命をもってしても、彼女を守り、陰からそっと支えていきたいと願うのだ。ジェイの灰色の日々に彩をもたらしてくれたのが他ならぬサラだった。人間らしい生活を与えてくれた。
 彼女のためならば、何ものをも厭わない。サラの夫となるウィロビー伯爵であっても、もしも彼女を傷つけたりしたら、絶対に許さない。
 サラの笑顔を見守りながら、ジェイは秘かに誓ったのだった。

2011/09/25up


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