こころの鍵を探して

 ちぎれた夢[2]

   馬車は軽快に進んでいる。旅程を順調に消化し、今日の晩には無事レイノルズ館に到着できる見込だ。
 天気はこの時期の英国にしては小康状態で、道もそれほどぬかるんでおらず、旅行条件としては非常に良い。荷物のほとんどは別の馬車で先にウォーリンガムハウスに送っており、執事や家政婦も先行して向かっている。ウィロビー伯爵夫妻と、彼らに従う数人の従僕、侍女が、もう一台の馬車に乗り、二台の馬車がレイノルズ館へと向かっているところだ。  結婚後初めてのふたりの旅行という状況に配慮したのか、使用人たちはもう一台の馬車へ分乗しているため、ウィロビー伯爵夫妻は、快適な内装の馬車をふたりきりで占有していた。
 ウィロビー伯爵夫妻は快適な旅路にあるはずなのだが、馬車の中の空気は、どんよりと曇っており、快適とは言い難かった。
 座席のクッションも効いているし、長時間乗っていても体への負担が少ない馬車の旅は、もう少し楽しくなりそうなものだが、ロンドンを出て以降、ウィルもサラも、それぞれが窓の外を流れる景色へと目を遣り、何ともいえない沈黙が、車内を覆っていた。

  景色を熱心に眺めるというよりは、互いに、何やら物思いに捕らわれている、という状態である。途中の宿屋で昼食休憩を取った時には、ふたりもさすがに幾つかの言葉を交わしたが、それも必要に駆られてのことだった。食事を済ませて再び馬車に戻ってからは、また午前中と同じ種類の沈黙が、車内を支配している。昼食休憩の後、一緒にロンドンを出発した使用人たちの馬車はウォーリンガム・ハウスへと向かい、ウィルたちの馬車は引き続きレイノルズ館を目指している。レイノルズ館で不自由をすることはないし、ウォーリンガム・ハウスの準備に人手が多い方がいいだろうと、ウィルが指示したのだ。そのため馬車は、車中の貴人たちが車窓を楽しめる程度の速さで進んでおり、ウィルとサラは、車内の沈黙をどうすることもできずにいる。

  ふたりは知るよしもなかったが、彼らがずっと考え込む原因となっているのは、同一人物の発言なのだ。発言内容はウィルに向けたものとサラに向けたものとそれぞれ異なってはいるが、ふたりとも、数日前ソフィア・ヒューズに言われた台詞が何やらもやもやと気になって、こうして、何とはなしに考え込んでいるのである。
 きっと当のソフィアが見たら、呆れて肩を竦めていることだろう。
 だが、ウィルもサラも、彼女の言葉の真意を、ずっと考え続けているのだ。

 あの晩餐会での出来事だった。
 食後のティータイム、サラはベッキーとソフィアと話し込んでいたが、途中で、ベッキーが席を立ち、ソフィアとふたりきりでソファに取り残された。するとそれを待っていたかのように、ソフィアがそっと身体を寄せてきて、低い声で、こう言ったのだ。

「サラ、あなたが気にしているかもしれないから、言っておくわ。ブラッドと結婚する前に、ウィルがわたくしに好意を持っていると信じていた時期があったでしょう?もちろん、何事もなかったけれど」
 義姉の発言の真意を測りかねたが、それでもサラは、平静を装って頷いた。ウィルがソフィアに恋していたのは事実だから。

「あれは、恋愛感情ではなかったわ」
 やけにきっぱりとソフィアに言い切られ、サラは目を丸くした。
「ソフィア?」
「ウィルは恋愛感情だと信じ込もうとしていたけれど、後で思うと、あれは、同じ傷を持った者同士が惹かれあっただけよ。わたくしも大切なひとを喪っていたし・・・幸い取り戻すことができたけれど、似た境遇にある者同士なら、不用意に踏み込まないし、傷つけられることもない。そう思ったのだと思うわ」

 はっきりと言い切られても、サラには俄かに信じられなかった。あの頃サラが目にしたウィルは、熱い視線をソフィアに送っていたし、女性としての彼女に間違いなく惹かれていたのだと思うのだ。

 それを指摘すると、義姉は、苦笑した。
「本当に愛していたなら、ブラッドと競争してでも手に入れようとしたでしょう。彼はそこまで、わたくしに執着したわけではなかったのよ」

 あっさりと言われてしまったが、あの頃ブラッドは、ソフィアのために必死になって、走り回っていた気がする。あれを愛している証だと言われてしまえば、確かにウィルの方はもっと理性的で、抑制されていた。

「だからねサラ、覚えていて欲しいの。彼は喪った過去を見ているかもしれない。でも、彼は今も生きているわ。彼のこころを取り戻すには、今彼と共に生きている者が、目を覚まさせてあげなくてはいけないのよ。
 目を逸らし、踏み込まずにいるのは、彼のためにはならないわ。わたくしもそうだったからわかるの。これから先へと目を向けなければ、目の前にある幸せは手に入らないわ」

 ソフィアが、サラの状況をどれだけ把握しているかはわからない。結婚してからサラはごく普通に、自然に振る舞ってきたつもりだが、ソフィアの目には何か気になるところがあったのか。

 時間が経つにつれ、ソフィアの言葉が、サラの胸にじわじわとしみわたってきている。ウィルがソフィアを本当には愛していなかったというのも、彼女の言う通りなのかもしれない。ソフィアを真に愛したなら、いつまでもアビーの写真を大切に飾っておくだろうか。きっと、ウィルの中でも現状維持ではいけないという想いがあったのだろう。彼にも伯爵家当主として果たすべき責任があるし、その重みを理解していない彼ではない。
 何か変わろうとする兆しは確かに、ウィルの中にあったのだ。彼にとっては不本意だろうが、その兆しを強引にサラへと向けさせたのはアーサーで、ウィルも現状を受け容れた。

 ウィルのために何ができるか日々思案し、模索するサラだが、真に夫婦関係を結んでいないという現実は、彼女が意識する以上に重くこころにのしかかっている。無理にウィルのこころに踏み入るようなことをしてもダメだし、サラと共に過ごすことが自然なのだと、ウィルが感じるように、周囲の状況を固めていくしかないだろう。アーサーがこちらへ向けさせたとはいえ、兆しはあるのだ。それを上手く育て、芽吹くように、ウィルの側にいなくては。

 ここ数日、サラの中では、そんな想いが芽生えている。そしていつかは、ウィルが真にサラを妻として見てくれる日がくればいい。不安が前途を覆っているけれど、サラはもう、ウィロビー伯爵夫人なのだ。彼の隣に妻として立つ喜びを知ってしまったから、もう、戻ることはできない。幼い頃から育んだ彼への思慕は、もはや、簡単に消すことなどできないくらいに、大きく膨らんでいる。

 サラと向かい合って腰を下ろしながら、ウィルも、ソフィアの言葉についてずっと考え続けていた。晩餐会の後、馬車を待つほんの少しの時間に、彼女は捨て台詞のような言葉を残していった。ウィルの知るソフィアからは想像もつかない行動なのだが、それだけ彼女は、サラのことが心配なのだろう。
 あまり見たことがないような、強い眼差しで、彼女は凛とウィルを見つめ、言ったのだ。
「手の中にある幸せを逃がしては駄目よ。一度逃がしたら、二度と手に入らないわ」
 経験から言っているのよ、と、小さく言い添えて、彼女はくるりと身を翻し、夫のもとへ戻っていった。面食らったウィルは、彼女の背中をぼんやりと眺めるしかなかった。

 彼女が言う幸せは、サラのことだ。確かに彼女と共に暮らすようになって、ウィルの無味乾燥な生活に、人間らしい彩が加わった。それは認める。更に加えていえば、サラがウィルへ好意を抱いていることを、ソフィアは暗に示したのではないか。もともとウィルとサラは、兄妹のような親密な関係を築いてきたから、サラがウィルへ向ける眼差しの中に、好意が宿っていてもおかしくはない。

 もしかしたらソフィアは、サラがウィルに抱いているのは、ただの好意ではなく、愛情だとでも言いたかったのかもしれないが・・・・・・ウィルをよく知るサラに限って、それはないだろうと、ウィル自身は思っている。
 ウィルの愛情はアビーと共に土の下に埋められた。ウィルがサラに向けることができるのは、愛情は愛情でも、家族としての愛情だ。男女の愛を彼女に捧げることはできないから、真の夫婦関係も結ぼうと思わない。こころを渡さないのに身体だけ、というのは、無責任だと思うのだ。貴族の世界では、身体だけ結びつけて、跡継ぎをもうけるという義務を果たす夫婦も多い。互いに愛人を囲い、こころは冷え切ったままで、というパターンは珍しくない。

 しかしウィルは、サラにそれを強要することはできない。ずっと見守ってきた彼女のことは大切で、無責任な関係を気軽に結べるような対象ではないのだ。もしサラがそれに耐えられず、ウィルは夫として不十分だとアーサーたちに訴えれば、離婚を考えてもいいとさえ、彼は思っている。他にサラが愛する男性を見つけたなら、その時も、喜んで離婚に応じるつもりだ。サラが去れば寂しくなるとは思うが、彼女が幸せになるなら、そうする用意はある。彼女を女性として愛せない自分が、夫という立場に胡坐をかいて、彼女の人生を縛りつけるのはおかしい。
 結婚の前に、ウィルは様々な可能性を検討し、そう決めたはずだった。

 だが、今になって、こころの中がもやもやとする。まるで英国の天気のように、すっきり晴れることがない。それはなぜだろうか。
 サラは予想以上に素晴らしい妻として振る舞ってくれている。結婚前の、どこか自信のなさそうな彼女は消えてしまい、夜会でも控え目に、かつ堂々とした優雅な振る舞いを見せてくれた。そんな彼女の姿は美しく見えて、若い男性陣の視線を随分と集めていた。ウィルの目を盗んで彼女と踊ろうと試みる輩も多かった。最初は快く彼女を譲っていたウィルだが、他の男性に微笑むサラを見て、次第に・・・・・・なぜだか面白くない気分になってきたのはなぜだろうか。

 彼女がウィルの側で微笑むのが、当たり前になっているのか。その微笑みが向く先はウィルであって、他の男性ではないと思っているのか。
 徐々に徐々に、ウィルの中で、サラの占める割合が、大きくなっている気がする。不思議なことに、サラの存在がしっくりくるのだ。そのためにもやもやするのだろうか。アビーのために開けておいた場所にまで、踏み込まれるような気がして――。

 ウィルはそんなはずはない、と、とりとめなく広がる思考を打ち消した。ウィルの中でアビーとの日々は、絶対に色褪せることのない、特別な思い出だ。彼女に捧げたのは愛情で、サラに捧げるのは親愛。それが変わることはない。だから、アビーの場所にサラが入り込むことなどあり得ないのだ。

 ウィルはそのように自分を納得させた。どこか違和感を感じつつも、それに気づかない振りをして。


* * *

 レイノルズ館に着いたのは、夜の9時を過ぎていた。途中まで順調に進んでいた馬車だったが、午後の道中、道を塞いで立ち往生している荷馬車に出くわしたのだった。車輪が壊れ、難儀している農夫は、荷馬車に積んだ荷も重く、1人で壊れた車輪を修理して・・・などと、できる状態ではなかった。無論、強制的に脇へ避けさせ、無理やり通過することも、貴族の意向を振るえば不可能ではなかっただろう。だがウィルはそれをしなかった。

 御者からの報告を受けると、サラに馬車で待つように言い、自分は馬車を降りて御者と共に状況確認に向かった。そこで御者と農夫が主に修理を行い、荷馬車を轍から押し出す時には、ウィルも含めた3人で、力を合わせて荷台を押した。ウィルたちの馬車に積んでいた修理道具を使い、車輪を修理し、荷台から車輪を外し、再び装着し・・・と、作業が終わった時には、2時間ほどが経過していた。

 サラは、待つことは苦痛ではなかった。1人きりで馬車に残されていても、特段構わなかった。ウィルが御者たちに協力し、上着を脱いで腕まくりをして力仕事を手伝っている様子を、窓からそっと見守っていた。
 しきりに恐縮する農夫に対しても、ウィルの表情は、いつも通りに屈託なく、人好きのする笑顔すら浮かべて、てきぱきと作業を手伝っていた。貴族という地位を利用して威圧的に振る舞うこともない。まだ肌寒さの残る空気の中、積極的に肉体労働に手を貸す彼の顔つきは、いつもと同じ笑顔のように見えて、どこか違っていた。何が違うのだろうかと、サラは注意深く夫の様子を観察し、1つのことに気がついた。ウィルの笑顔は、いつもより自然だったのだ。普段の彼の表情も不自然ではないが、社交の場、ビジネスの場となると、やはりどこかに緊張感めいたものが漂い、場に相応しい言動をという抑制された印象を受ける。きっと、周囲の紳士やご婦人には、わからないだろう。妹分として、今は妻として身近に彼の様子を見守ってきたサラだからこそ、感じ取れる程度の差だ。

 戸外で、身体を動かす彼は、何の計算や抑制もなく、笑っていた。気の向くままにという言葉がぴったりだ、と、サラはひとりごちた。妹分に向ける慈愛の微笑みとも、妻に向ける親愛の微笑みとも違う、ただのひとりの青年といった、年相応の笑い方だった。素朴な、といったところか。素の彼を見たように思えて、サラの胸は、我知らず高まった。誰も知らない彼を見たような、優越感までも湧いてくる。幸せな気分に、サラは暫し浸った。ちくりと胸を刺す言葉が、不意に浮かんでくるまでは。

 ――誰も知らない、なんて言い切れる?アビーは知っていたんじゃないの?

 途端に、すうっと全身の熱が冷めていく。何を浮かれているの、サラ。萎えてしまいそうになる自分を奮い立たせようと、懸命に叱咤する。これから母やベッシーのもとへ行くのだから、情けない顔なんてできない。母もベッシーも、サラが動揺を抱えていれば、一目見るなり気づいてしまう。いつも通りに振るわなければならない。

 ――でもわたくしは、ウィルの妻なのだもの。妻になれなかったアビーが知らないウィルを、見ることだってあり得るわ。

 反面、そんな想いも浮かんでくる。喜んで悪いはずがない、と思い直したが、すぐにサラは、肝心な前提条件を失念していたことに気づいてしまった。

 ――ウィルとアビーの間には、熱烈な愛情が存在したのだ。だが自分は?本当の夫婦として関係を結びきれていない自分は?

 窓に、額をコツンと当てて、力なくもたれかかった。ウィルの妻という地位を手に入れただけでは、自分は納得していないのだと痛感する。本当は彼のこころが欲しい。だけどそれを手に入れる方法がわからない。
 目を逸らしてはいけない、踏み入れることを怖れてはいけないと、ソフィアは言っていた。だからといって、ただ闇雲に踏み込めば良いというわけでもない。どうすれば良いのだろう。再び、堂々巡りの思考に陥ってしまう。良いアイディアはすぐには浮かばない。簡単に解決策が見つかるなら、きっともう、とっくに本当の夫婦になっている。次々に浮かんでくるのは、重いため息だけだ。
 窓の外では、農夫がしきりに感謝の言葉を述べていた。ウィルが笑ってそれを聞いている。貴族の権威を振りかざさずに行動する夫を、サラは誇らしいと思った。そしてもっと、彼のことを知りたいという欲求が、身体の底から突き上げてくる。
 彼の想いを知りたい。ただ知るだけでなく、理解したい。それには、彼の傷を丸ごと受け容れるぐらいの覚悟を決めなければならないのだろう。

 いつかあなたのこころを、わたくしに開いてくれるのかしら。

 こちらへ向かって歩いてくるウィルに、サラは窓越しに微笑みを向けながら、胸の裡でそっと問いかけた。

 それからの行程は、順調だった。車内でぽつりぽつりと、2人が会話を交わすこともあった。レイノルズ館では、執事やベッシーや主だった使用人たちがこぞって新婚夫婦を出迎え、結婚の祝いを述べてくれた。夕食の時間に合わせて着く予定が遅くなってしまったため、既に就寝したという母のもとに顔を出すのは明日にまわし、ふたりは食堂で夕食を食べた。その間も、ベッシーは甲斐甲斐しく世話を焼こうとして、とりわけサラの行く先々について回る。まるでひよこの面倒を見るめんどりのようだった。

 ウィルは客用寝室で、サラは元の自室で入浴して旅の埃を落とした。夜着に着替えて、鏡台の前に座り、髪を梳かしていると、サラの部屋のドアをノックする音がある。応えるとベッシーが入ってきて、サラを見るなり、呆れたように片眉を上げてみせた。

「何をなさってるんですか、お嬢様。ほら、早く行きますよ」
「ベッシー?」

 どこへ行くというのだろう?もうそろそろ、寝台に入る頃合いだ。意味が呑み込めずにサラがぽかんとしていると、ベッシーは「これだからお嬢様は」とぶつぶつ言いながらやってきて、ブラシを引き取り、鏡台の定位置に戻した。
「さあ、身支度はもう十分ですよ」
 それでも戸惑いの色を浮かべて見上げてくるサラに、ベッシーは観念したらしい。きちんと伝えなくては駄目だとばかりに、今度は明快な答えをくれた。

「新婚夫婦が別々の部屋で休むなんて、野暮なこと。奥様が許可するわけがないじゃありませんか。この前客用寝室を模様替えして、ちゃんと大きなベッドを入れておきました。それなら、お嬢様と伯爵様がこの館に滞在しやすくなるでしょう?これからもちょくちょくお2人でいらして下さいよ」
 思いもよらないベッシーの気配りに、サラは目を白黒させた。サラが一緒に休むなんて、ウィルが・・・今のウィルが了解するとは思えない。

「あの・・・ベッシー?今日はずっと馬車で移動して疲れたし、ウィルもゆっくりしたいと思うの。わたくしもよ。だから今夜はここで休むわ」
 何と言えばベッシーを説得できるのか不安に駆られながらも、サラはどうにか説得の言葉を絞り出した。そうでなければウィルと同じ部屋で休む羽目になる。昼間、屈託のない笑顔をしていたウィルを見てしまったせいだろうか。やけに胸がドキドキする。

 頬を赤らめたサラを見て、ベッシーはさほど機嫌を損ねることなく、わかってますよと頷いた。
「ご実家で新婚ほやほやで・・・そりゃ、お嬢様が恥ずかしいとお思いになるのもわかります。でもご心配は要りません。何と言っても新婚なんですから。ちゃんと、大きなベッドですからね。お嬢様がお子を産んでも、2人ぐらいまでならお2人と一緒に眠れますよ」
 完全な勘違いである上に、不必要な情報まで与えられて、サラは途方に暮れた。事実を告げるわけにもいかないし、どうしようと思い悩んでいると、ベッシーが上機嫌で更に言い募る。

「それにこのお部屋は駄目ですよ。寝具も風に当ててませんからね。客用寝室の方は、準備は万全です。いえいえ、ご心配なさらずにね。ちゃんと皆、心得てますからね。旦那様だって、新婚の奥様と離れて寝るなどとんでもないとお思いでしょうよ。いつだってどこだって一緒にいたいと願っているに違いありません。ベッシーにはわかっております。それが新婚夫婦というものですよ」
 サラは、ベッシーを説得することを諦めた。ここまで言う彼女に、「うちの旦那様は、わたくしと離れて寝ることをお望みなのよ」など言おうものなら、大変な騒ぎになるのは目に見えている。事細かに事情を聞かれるだろうし、それがそのまま、母の耳にも入るだろう。
 ベッシーや母に心労を与えるのは、サラの本意ではない。

 レイノルズ館に到着してから、客用寝室の様子を確認していないので詳細は不明だが、ベッシーがここまで言うのだから、ウィロビー伯爵夫妻滞在のための準備は万全なのだろう。
「それは・・・手間をかけてしまったわね」
 サラが苦笑を向けると、ベッシーは「とんでもない!」と強く否定した。
「手間だなんてこと、この館の誰も思っていませんよ。お嬢様が旦那様と結ばれたことを、誰もが素晴らしいと思っているんです。ですから、お2人が少しでもくつろいで過ごされるよう、お手伝いしたいと願ってるんですよ」
 改装なんて大したことじゃありません。この日が来るのをベッシーはずっと待っていたんですからね。
 ベッシーは目尻の皺を深くして笑った。彼女の、この館の者たちの想いが胸に迫って、サラは暫し言葉を失った。彼らの純粋な祝福を、素直に受け止められない自分が、今の状況が、苦しくてならなかった。本当の夫婦だったらどんなにかいいだろう。けれど、彼女たちへの感謝の気持ちだけは伝えたかった。
「・・・ありがとう」
 小さな呟きは、確かにベッシーの耳に届いたようで、彼女の笑みが一層深くなった。
「さあ、行きましょう、お嬢様」

 ベッシーに促され、サラは娘時代を過ごした思い出の部屋を後にした。この部屋を最後に出た時は、バリー伯爵家の末っ子のサラだったのに、今ではウィロビー伯爵夫人のサラになってしまった。
 客用寝室へ一歩近づくごとに、緊張感が高まってくる。このような夜半に、廊下を歩きまわる者は他になく、シンと静まり返る中、やけに自分の心臓の音が大きく響いた。ベッシーにまでも聞こえてしまうのではないかと思うくらい、どくどくと音を立てている。
 扉が見えてくる頃には、喉はカラカラで、指先はすっかり冷え切っていた。足が強張って、思うように動かせない。心もとなくて、サラは白い夜着の裾を、縋りつくようにギュッと握りしめる。次第に足取りが重くなるサラとは反対に、ベッシーはいそいそと客用寝室の扉の前へ向かい、大切なお嬢様を振り返った。

「そんな、緊張なさらなくても大丈夫ですよ、お嬢様。妻が夫婦の寝室へ入るだけなんですから」
 緊張でがちがちになっているサラに、ベッシーは母そのものの笑みを向けた。妻が夫婦の寝室へ入るということが、わたくしたちにとっては普通ではないのよ。お願いやめてと叫びそうになるのを必死にこらえ、瞬きをすることすらできず、サラは、ベッシーの動きを見守るしかなかった。ベッシーのふっくらした手がドアをノックするのが見え、遅れて耳に固い音が飛び込んできた。

 お願い、部屋にいないでというサラの願いも空しく、すぐに返事が部屋の中から返ってくる。怪訝そうに聞こえるのは、きっと幻聴ではない。
「奥様をお連れしましたよ、旦那様」
 ベッシーが言葉を返しているが、サラの耳は、もはや言葉として音を捉えるほどの余裕がなかった。
 幼いころから知っているウィルを、当家の旦那様として迎えることを、ベッシーは心から喜んでいるのだということが、その一言に込められた声音で分かった。
「さあ、どうぞ」
 ベッシーが扉を開け、前に進むよう促してくる。このままずっと立ち尽くしていたいとも思ったが、サラは、棒のような足に力をこめて、ゆっくりと一歩ずつ進んだ。

 すでに寝る支度を済ませたらしいウィルが、ガウンをまとって、テーブルの側に立っていた。寝る前にワインでもと思ったのだろう、テーブルの上には空のグラスと、栓の開いたワインのボトルが一本置かれている。
 ウィルの茶色の瞳と、サラの瞳が交差した。彼の瞳からは何の感情も読み取れず、こんな時間にこんな格好で現れたサラをどう思っているのか、さっぱりわからない。困惑して扉の前で立ち止まったサラの背中に、ベッシーの温かい手が触れた。ゆっくりと押されるようにして、一歩二歩と、室内へ足を進める。
 ベッシーとウィルのやり取りを、遠い世界の出来事のように、サラはぼんやりと聞いていた。

「奥様の支度に手間取りまして、申し訳ございません。何かお持ちするものはございますか」
「いや、もう休むからいいよ、ベッシー。すまないね、遅くまで」
「もったいないです、旦那様。お二人をお迎えできて、皆喜んでいるんですよ」
 二人の会話がどんな意味のものなのか、もはやサラにはわからない。冷え切った指先で夜着の裾を握りしめ、唇を引き結んで立ち尽くすことで精いっぱいだった。
「おやすみなさいませ」
 二人が挨拶をかわし、扉が閉まる音が聞こえる。途端に室内に重く垂れこめた沈黙に恐怖して、サラは、どうにか言葉を絞り出した。

「あの、ごめんなさい!」
 唐突な謝罪に、テーブルへと顔を向けていたウィルが、こちらへと向き直った。その瞳に怒りは見えない。いつもと変わらない、落ち着いた、静かな眼差しだ。そのことに力を得て、サラは一層強く、夜着を握りしめた。
「それは何に対する謝罪なの?」
 静かにこちらを見つめる瞳にも、淡々と紡がれる声音にも、怒りも苛立ちも見えない。

「こんな風に深夜に押しかけたりして……本当は一人でゆっくり休みたかったのでしょう?」
 邪魔をするつもりはなかったの、と、小さく情けなく呟くと、ウィルはふうっとため息をついた。サラに対して呆れているというよりは、やれやれといったため息だった。

「ベッシーの言うことももっともだ。こうなることは予想してしかるべきだった。きみのせいじゃないよ、サラ」

 ウィルの眼差しも声も、サラを責める色はない。ほっと安堵したのもつかの間、サラの視線は部屋の中央に鎮座する大きなベッドへと吸い寄せられてしまった。ベッシーが請け合った通り、かなりサイズが大きい。大人二人が寝ても、余裕で寝返りを打てるし、下手をすれば大人が三人ぐらいは寝られそうだ。重厚なビロードの天蓋は今は開けられており、ふかふかの大きな枕が置かれているのが見える。新婚夫婦用に買いそろえたとベッシーは言っていたが、それの意味するところをこうして目の前にしてみると、いったいどのような反応を返せばいいのか、まったく思い浮かばない。
 直立不動で黙り込むサラの視線を追って、ウィルは小さなため息をこぼした。

「心配せずともいいよ、サラ。そのベッドは私たち二人が寝ても、互いの睡眠を妨害することはないと思うくらいに広い。もしどうしても私と同じベッドで寝るのが嫌なら、私はこちらのソファで寝るよ」
 真冬ではないから、風邪を引くことはないだろうと付け加えて、ウィルはおもむろにワイングラスに手を伸ばし、ボトルからワインを注いだ。ワインをとくとくと注ぐ音だけが、室内の重い沈黙を破る。グラスのワインを一気に煽って、ウィルはベッドへと近寄った。掛け布団をめくっているから、その下の毛布を一枚はぎとって、ソファで使おうという意図だろう。

 声もなく見守っていたサラは、あることに気づき、「ダメよ!」と声を上げた。

 ウィルの手が止まり、茶色の眼差しがこちらをとらえる。自分の身を守る夜着の生地が酷く薄く、薄暗い室内でも体のラインが彼にはわかってしまうだろうということに、今更ながら気づいて、サラは急に怖気づいた。真っ白でやわらかな布が、酷く心もとない。
 こちらを見つめる茶色の眼差しには、やはり、何の感情も読み取れない。それに力を得て、サラは、声を振り絞った。
「昼間、馬車を動かしたりしたのだもの。お疲れでしょう?そんなあなたを、ソファで寝かせるわけにはいかないわ」
 ウィルの顔に、困ったような、小さな微苦笑が浮かぶ。聞き分けの悪い子どもに言い聞かせるように、穏やかに、しかし感情の見えない声が、サラの耳を打つ。

「それほど疲れてはいないよ」
「いいえ、あれだけ体を動かしたのだもの。あなたがベッドで寝るべきよ、ウィル。わたくしがソファで休むから」
「そんなことさせられないよ」
 呆れたように言って、ウィルは再び毛布を手繰ろうとした。それを止めようと、サラは何かを思う間もなく、反射的に彼の側へと駆け寄った。夢中で、毛布にかかっているウィルの手に、自分の小さな手を重ねる。

「ダメだったら!」

 手のひらから伝わる温もり、直に触れた肌の感触にサラがはっと息を呑んだのと、ウィルが鋭く息を呑んだのは、同時だった。

2014/09/07up


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