こころの鍵を探して

 ちぎれた夢[3]

 薄暗い室内に、カーテンの隙間から、青白い月光が入り込む。白い光は、固まったまま動けない男女の姿を、幻想的にふわりと浮かび上がらせている。
 ベッド脇で、毛布を取り合って手を重ね合わせたまま、サラとウィルは一歩も動けずにいた。時間が永遠に止まったかのような、不思議な感覚が、部屋の中に満ちていた。青白い光が踊る室内は、現実から遠く離れた特別な空間のように感じられた。

 現実感がないから、こうして大胆に、ウィルに触れていられるのだと、痺れたような思考がサラに知らせてくる。

 幼いころには、難しいことを考えることなく無邪気に触れることを許されていた手は、記憶にあるものよりも大きく、筋張って、温かかった。記憶にある兄のような、慈しみに溢れた手ではなく、立派な一人の大人の男性の手であった。頼もしく、たくましく、そして、サラのような娘など簡単に手折ってしまえそうな、力強い手であった。
 サラの手など、簡単に振り払ってしまえるだろう。男と女の違いをまざまざと感じ取り、サラは、途方に暮れて、なすすべなく立ち尽くすしかなかった。

 ワインなど飲むのではなかったと、ウィルは今、感情を消した仮面の下で、激しく後悔していた。婚約が決まって以来、ずっと根を詰めていたせいか、近頃酔いが回るのが速くなった気がする。妹同然の存在、慈しみ、庇護する存在なのに、目の前のサラに女性の色香を感じるなんて、感覚がどうにかしてしまったのだろう。

 それにしても、と、ウィルは触れ合う肌の感触に驚いた。サラがこんなにも小さく、細い手をしていることを、初めて知った。年若いながらも母の館を切り盛りし、兄たちから離れても女主人としての役割を立派に果たしている彼女の手は、小さくて、この掌が守り切れるものは少ないのだと、雄弁に伝えてくる。ウィルが強く握り締めたら、骨まで砕けてしまいそうなほど華奢だ。
 だが、白い肌はなめらかで、心地よい。ずっと昔からこうして触れ合っていたかのように、ウィルの肌の温度にすんなり馴染んでいる。もっと触れ合いたくて、ウィルの片手がサラの小さな両手をそっと包み込んだが、白い手はそれに抗わなかった。この手一つにも、たまらなく魅力的な色香を感じるなんて、今の自分は本当にどうにかしていると、頭の隅で、もう一人の自分が囁きかけてくる。全てアルコールのせいにしてしまえばいい。

 どくどくといつもより速いリズムを刻むのは、どちらの鼓動か。ウィルのものか、サラのものか、あるいは二人のものか。

 月を雲がよぎったのか、白い光が揺れて、サラの白い肌が真珠のようにまろやかな色合いを帯びる。手首から上を夜着が隠しているが、月光に微かに透けて、素肌を暴きたいという欲望を燻らせる。

 サラのサファイアの瞳を探して顔を上げたことに、深い意図はなかった。昔のように、ウィルにそっと両手を包み込まれ、大人になった今のサラがどんな顔をしているか、表情を見てみたいと、子どもじみたことをふと願っただけだった。
 あの月夜のバルコニーで見たのと同じ、濡れた宝石が、こちらを見つめていた。

 しっとりと濡れた真っ青の宝石は、ウィルだけを見つめて、離さない。縋るように向けられる眼差しには、確かな情欲と、ウィルを希う光が揺らめいているのを、ウィルははっきりと感じ取った。きっと今、自分の眼差しにも、同じ光が煌めいているだろう。

 ああ、捕らわれてしまったと、ウィルの頭の隅で、もう一人の自分が囁いた。何に捕らわれたというのか。煩わしい思考を脇にやり、ウィルは、吸い寄せられるように、サファイアの瞳を見つめ返した。

 一切の音が聞こえない、永遠に時間が止まったかのような空間の中で、ウィルの自由な片手が、サラの白くなめらかな頬を、そっと撫でた。予想通りのしっとりとした肌に、ウィルの体の中が妖しくざわめいた。彼女の顔の輪郭を確かめるような彼の手の動きは、繊細な壊れ物を扱うかのように、優しい。
 目尻から頬を伝って親指を滑らせ、そのまま下唇をなぞると、サラの肩がびくりと震えた。自然に赤く色づいた唇は、渇きに苦しむ男にとって、みずみずしい熟れた果実も同然だ。真っ青な眼差しは、冷たく清らかな泉のように揺らめいて、男を誘っている。
 頬から顎に掌を滑らせ、自然に顔を上げさせると、ウィルはゆっくりと顔を近づけた。互いの吐息が互いの顔にかかるほどの距離で、瞼を閉じたのはどちらが先だったか。

 最初は唇が軽く重ねられただけだった口づけは、瞬く間に深いものへと変化していった。

 ウィルがやんわりとサラの下唇を食むと、夜着に包まれた華奢な体が小さく跳ねる。初々しい反応に喜びを覚えながら、ウィルの唇は、次々に角度を変えて、より深い繋がりを求めた。
 呼吸するタイミングも掴めなかったサラだが、ウィルの唇に導かれ、直に要領を得たのか、初めは緊張に固かった体も、口づけが深まるにつれて次第にやわらかく解けていく。ウィルの舌が軽くサラの唇をつつくと、彼女は従順に口を開いて、彼の舌を受け入れた。
 彼女の両手を包んでいた手は、気づけば彼女のうなじをそっと撫でおろし、小さく甘い、くぐもった声を上げさせた。二人の距離はほとんどなくなり、うなじから背中を伝って腰に下ろされたウィルの手が、サラをぴたりと抱き寄せていた。

 おずおずと舌を絡めてくるサラは、男の渇きを無意識のうちに煽っていることに気づかない。初々しい反応を返せば返すほど、口づけはいっそう深まるばかりだというのに、小さな手はウィルのガウンを必死に掴んで、離さない。

 彼女の唇は、酷く甘くかった。初々しいしっとりとした唇は柔らかくて、甘美な味がした。ウィルの渇きを潤すそれは、同時に、もっと味わいたいという欲求を煽る。本能に駆り立てられるように、腕の中の華奢な体を強く抱き寄せ、無我夢中で貪った。

 薄く瞼を開けると、月光の下、頬を確かに赤く上気させて、息も絶え絶えに、口づけを返そうとけなげに縋ってくるサラが視界に飛び込んできた。妹ではない、立派な、成熟した一人前の女の顔だった。男の本能を刺激し、手に入れたいという想いに駆り立てる、艶やかな顔だった。

 ウィルの体の底の方から、熱く駆り立てるような何かが猛烈な勢いで湧き上がってくる。すぐそこにある綺麗に整えられた、心地よさそうな寝台が、欲求のままに振舞えとウィルを誘う。サラは従順に、ウィルの激しい口づけについていこうと懸命だ。白い手がウィルのガウンを縋りつくように握り締め、全てをウィルに預け、差し出そうとしているように映った。これを受け取って、何が悪いというのだろうか。

 本能が命じるまま、散々サラを味わってから、ウィルは唇を離した。二人の唇を繋ぐ銀色の糸が、月光にきらりと光る。サラは息も絶え絶えに、それでも、ぴんと背中を伸ばして立っていた。

 ウィルの見つめる先で、閉じられたままだったサラの瞼がぴくりと動く。ゆっくりと瞼が上がり、青白い光の中、潤んだ瞳がウィルを捉える。
 ウィルのこころの奥深くまで揺さぶるような、深い青い瞳。

 互いの眼差しがぶつかり合った瞬間、ウィルの顔から血の気が引いた。燻っていた衝動が、水を浴びせられたように一気に鎮まる。
 戸惑って見返すサファイアの瞳を直視できず、ウィルは俯いて、薄く冷たい肩に手をかけ、両手でそっと押しやった。困惑するサラは、不意のことに逆らうこともできず、ガウンを掴んでいた手もするりと抜けてしまう。
 着衣ごしに重なり合っていた肌の温もりが離れ、冷たい空気が二人の間を無言で隔てる。サラの肩に両手を置いたまま、ウィルは一度深呼吸した。急激に熱が冷めた頭の中に様々な想いが渦巻いて、サラを前にどんな顔をすればいいかわからない。冷静に、穏やかに、誰が相手でもそつなく振舞えるウィロビー伯爵の仮面は、どこかに置き忘れてしまったらしい。

 サファイアの瞳を目にしたとき、ウィルの中に浮かんだ想いは、彼を混乱させた。
 咄嗟によぎったのだ、「違う」と。

 目の前にあるのは菫色の瞳ではない。深い青の、よく見知った瞳だ。アビゲイルではない。サラだ。兄のように見守ると誓った、絶対に傷つけないと誓ったサラに、自分は浅ましい欲望を覚えてしまったのだ。

 二人の将来を変えてしまった、月光に照らされたあのバルコニーで、サラは言ったのではなかったか。実る見込みのない恋をしていると。恋よりも義務を優先させなければならない立場はよくわかっていると。
 初夜の床でさえ拒否したのは、叶うことのない想いを抱く彼女に無理強いをしたくないと、手元で彼女を大切に見守っていこうと思ったからだというのに。
 この唇をもっと味わいたい、夜着に隠された白い甘やかな肌を暴きたいという欲求に、一時的でも捕らわれてしまうなんて。

 俯いたまま顔を歪ませるウィルの耳を、吐息のような、微かに震える声が震わせた。

「ウィル?」

 小さな手がおずおずとウィルの右手に触れてくる。滑らかな肌が触れた瞬間、ウィルはびくりと体を震わせて、薄い肩を掴んでいた両手を咄嗟にひっこめた。その反応に、深い青の瞳に傷ついたような影が一瞬落ちたのを、俯く彼は知る術がない。
 サラの意志を無視してしまったことを謝らなくてはと、ウィルは意を決して顔を上げ、目の前に立つサラを見つめた。頬はまだ上気しているし、双眸も潤んでいるけれど、サラの方がまだウィルよりも落ち着いているように見える。

 ウィルが口を開こうとするのを遮るように、サラが、小さいけれどきっぱりとした声で言った。ふわりと、困ったように微笑みながら。

「謝らないで」

 困惑するウィルに、彼女は畳みかけるように言葉を続けた。
「夫婦なのだもの、一緒にいるうちに、こういうこともあるでしょう」
 だから気に病むことはないと、ウィルを責めることなく、彼女は許すのだ。
「それに……」

 一度考え込むように、何かを堪えるように口を噤んでから、彼女は真っ直ぐにウィルを見上げた。青白い光の中、サファイアの瞳がきらりと光った。

「わたくしはあなたを愛さない。だから安心してちょうだい、ウィル」

 一息に言い切ったその言葉に、彼女のどのような想いが込められているか。どれほどの想いでそれを伝えたのか。今この瞬間、ウィルは知らない。
 だが、ウィルが亡くした婚約者にこころを残していること、サラから何かを求めることはないことだけは、言葉の端々から滲んでくる。夫に不要なプレッシャーやストレスは与えたくないのだという、ウィルを気遣うサラの気持ちは、混乱したウィルのこころを優しく包み込む。

 サラは唇をぎゅっと結んで、それ以上ウィルを追求することも、何も言おうとはしなかった。部屋に満ちていた幻想的な雰囲気はいつの間にか薄れ、現実が2人を取り囲む中で、こんな時でもウィルに寄り添おうとするサラの温かさが、強張ったまま動けなかったウィルの四肢をじわりと解していく。

 彼女を振り回した挙句、全てのフォローをさせてしまうなんて。

 自分自身へ軽い怒りを覚えながら、ウィルは漸くここで、いつもの彼らしい、穏やかな微笑みと落ち着きを取り戻す。
 ぽつんと立ち尽くす妻の姿は、女性にしては身長が高い方ではあるけれど、頼りなく、小さく見えた。

「ありがとう、サラ」

 ここで何を言えばいいのか、思い浮かんだ中で一番適切だと思われる言葉を、端的に伝えた。それに対して、サラは無言で首を横に振る。俯いた彼女の表情を、鳶色の髪がカーテンのように隠してしまう。青い瞳が更に滲んだのは、彼女だけの秘密だ。

「私は書斎ででも適当に寝るから、君はここでやすんで」
 いくらああ言っても、サラだって気まずいだろう。彼女の気持ちを察して、毛布を手に取ろうとするウィルを、他ならぬサラ自身が止めた。

「待って。ここで寝ればいいわ。このベッドは二人で寝たって十分広いもの」
「でもサラ、君は……」
「下手に他の部屋でどちらかが休めば、明日の朝、ベッシーが最低でも一時間は事情聴取すると思うわ」
 あれだけ嬉しそうにサラを送り届けてきたベッシーだ。一緒に寝なかったらと知ったら、大騒ぎをするだろうし、間違いなく母の耳にも入るだろう。ベッシーだけでなく母にまで心配をかけたくない。

「メイドたちより早起きするのは、難しいな……」
 ベッシーでなくても、料理人やメイドは朝早くから働きだす。2時間3時間だけ他の部屋で休むよりは、ここで大人しく一緒のベッドに入った方がいいと、ウィルも思い至ったようだ。
 彼は毛布から手を放して、案ずるようにサラを見つめた。

「でも君はそれでいいの?」

 サラの答えは最初から決まっている。動揺したりしないで、いつも通りの声で、返事をすればいいだけだ。自分にそう言い聞かせて、彼女は唇の端に力を籠め、口角を上げて頷いた。

「ええ」

 サラに異存がないとわかれば、それ以上ウィルがとやかく言う余地もない。
「わかった」
 少しだけ困ったように微笑むウィルに、サラは気づかないふりをした。そこから二人は、不自然なほどに自然さを取り繕って、大きなベッドにそれぞれが潜り込んだ。ウィルが潜り込んだ後、サラは、栓が開いたままのワインボトルにコルクを差してやり、ウィルがいるのと反対側の端から、ベッドに入った。

 ベッシーが保証し、サラが言ったように、ベッドはとても大きくて、二人が横になっても十分な間隔があった。おまけに二人とも、ベッドの端と端に近い位置を無意識に選んだため、二人の間にはあと一人ぐらい大人が寝られるくらいのスペースがあった。
 枕も多めに用意されており、一つを取り合うこともない。
 ベッシーの言葉通り、快適に過ごせるように、きちんと準備されたベッドだった。シーツはさらさらでふわりとラベンダーの芳香が鼻をくすぐる。枕はふかふかで、日向の乾いた匂いがする。
 心づくしの寝台に横たわった夫婦は、小さく就寝の挨拶を交わした。

「おやすみ」
「おやすみなさい」

 室内に静けさと薄闇が満ちた。

 今夜は海から吹きわたってくる風の音もほとんどせず、レイノルズ館は夜の闇の底に沈んでいる。
 ウェストサセックスのこの辺りは、ドーバー海峡から吹きつける風が、特にこの時期、激しい咆哮を上げながら丘を駆けていくのが常だが、今宵は、深い森に囲まれているかのように静かだ。ガラス窓が揺れることもなく、物悲しげに叫びながら駆けていく音が夜通し聞こえることもない。
 同じ寝台に横たわる人の、規則正しい呼吸が、サラの耳に届くくらいには、静かだ。
 ウィルもなかなか眠れないのか、暗い中、彼のいるあたりから僅かな衣擦れが時折聞こえる。

 無理もない、とサラは小さな小さな息を吐いた。今夜は、いつもと全然違う彼の顔を見てしまった。彼自身、我を取り戻してから、ずいぶん混乱していた。あの舞踏会のバルコニーもそうだったが、月光の下で、ウィルの知らない顔を見る機会が多いように思う。青白い天からの光は、人を惑わしやすいのだろうか。それとも、普段被っている仮面を、どこかに取り去ってしまうのだろうか。
 今夜も、月明かりが2人を惑わしたのだろうか。それとも、今宵の出来事は起こるべくして起きたことだろうか。

 仰向けに横たわったサラは、目を開けて、部屋を閉ざす薄闇を眺めた。先ほどまでカーテンの隙間から月光が差し込んでいたのに、今は月が雲に隠れたのか、部屋はシンとした闇に眠っている。
 いつもうるさいくらいに騒ぐ風の音がしないと、調子が狂ってしまう。こんなに目が冴えるのも、そのせいだ。

 サラは衣擦れの音や寝台が軋む音がなるべくしないよう、慎重に、仰向けから横向きに体の位置を変えた。柔らかな羽毛の枕が頬に当たる。膝を曲げ、子どものように体を縮めて、息を詰めるようにして、彼女は安らかな眠りが訪れるのを待った。しかし眠らなくてはと思えば思うほど、ますます安眠が遠ざかっていく気がする。

 明日の朝、寝不足の顔をベッシーに見られたら、彼女はどんな前向きな誤解をするだろうか。

 想像するだけで苦しくなるが、ウィルとサラは、明日の午前中にレイノルズ館を発つことになってる。途中の宿で昼食を済ませ、午後早いうちにウォーリンガムハウスに到着する予定だ。ベッシーにどれだけ勘違いされようと、この館で過ごす時間は少なくて済むから、嘘の言い訳をいくつも考えたりはしないで済むだろう。
 ずっと帰りたかったホームに帰ってきたというのに、滞在できる時間が短いことを幸運に思うなんて、今日の自分は本当にどうにかしている。

 サラは強張った指で、赤く腫れているであろう唇にそっと触れた。

 この唇をウィルの指がなぞった時、サラの体の中に、これまで感じたことのないぞくりとした感覚が湧き上がったのだ。体の奥がきゅうっと切なく締めつけられるような、肌が敏感になったような、思いもよらない感覚だった。
 ウィルの手に触れられただけで、そっと包まれただけで、彼が大人の男性なのだということを改めて痛感した。この手が欲しい、放さないでほしいという強い願いが、あの時のサラを当惑させ、途方に暮れさせた。

 彼の指で手を擦られるだけで、体の熱は上がり、それをどうしたらいいかわからなくて、サラはウィルの手を受け入れるだけだった。まるで最初からこうするのが自然だったかのように、彼の手の温度はサラの肌に心地よく馴染んだ。触れられているだけで、肌の感覚が鋭敏になり、サラの体の奥底をざわめかせ、瞳を潤ませる。

 嬉しかった。

 妹としてしか見ていないなら、こんな触れ方はしないはずだ。もしかしたら彼はサラを一人の女性として求めてくれているのではないかと、期待の芽がゆっくりと彼女の中で膨らんでいく。

 揺らめく白い光の中でサラを見下ろす茶色の眼差しには、これまでサラに向けられていたような穏やかさも、慈しみも見られなかった。静かな中に、サラを欲する欲望の光が、はっきりと灯っていた。目の前にいるサラを、女性として求めている、雄の炎だった。
 それを見て取った時、サラの全身は歓喜に震えた。
 自分の全てを差し出しても、手に入れたいものだった。
 茶色の瞳が欲望に煙り、いつもよりも濃い色合いで自分を見つめてくるのも、彼の手が頬を撫で、顔が近づいてくるのも、呼吸することすら惜しんで、サラは一心に見つめ続けた。間近で見る彼の顔は、初めて見る大人の男性の色香に溢れていて、最後は直視できずに瞳を閉じてしまったけれど。

 結婚の誓いでキスをしたときは、緊張で何も考えられなかったけれど、今夜は、彼の唇は薄いけれど柔らかいことを知った。
 最初はおずおずと、唇を重ねるだけで精いっぱいだったサラだけれど、彼の舌が口内に押し入ってくると、戸惑う間もなく彼のペースに飲み込まれてしまった。
 情熱的に重ねられる唇から伝わってくるのは、サラが欲しいという彼の強い願い。それに応えたくて、彼にがっかりされたくなくて、サラは必死に彼の真似をして、彼の唇を味わった。
 サラが一呼吸する暇も許さずに、彼女の息が絶え絶えになるまでウィルの舌がサラを暴いていく。

 嵐の只中に放り込まれた小舟のようだった。
 サラにこういった経験はないけれど、ウィルの動きに戸惑いや初々しさがないことだけは、感じ取れた。サラの知らないところで、彼も、社交界の花と戯れの恋を楽しんだことがあったのだろうか。今思い返せばそう勘ぐりたくなるほど、彼はよく心得ていた。田舎に引っこんで暮らし、同年代の令嬢と恋について語り合う機会もなかったサラは、ただ彼に翻弄されるしかなかった。
 縋りつく腕の、胸の逞しさが、サラを岸辺に繋ぎとめる寄る辺となった。

 彼のキスが深まるごとに、サラの体は熱く火照り、体の奥が振り絞られるような切なく苦しい感覚が、後から後から際限なくこみ上げてくる。彼の唇だけでなく、大きな手が、サラの肌を滑り、快感に泡立たせた。髪を撫で、背中を滑り、腰に降りてくる手に、もっと触れてほしいと叫びたかった。
 彼の手の感触も、温もりも、サラがずっと欲していたものだ。うなじを撫で下ろす指が掻き立てる、ぞくぞくとした感覚は、サラの体が喜びの声を上げている証だった。 愛しい人に触れてもらえる幸せを、サラは今日、初めて知った。
 このまま彼が望むなら、体を重ねても構わないと思った。初夜に叶えられなかったことが今実現するなら、この体もこころも全てを彼に捧げたいと、強く願った。
 欲を出してしまったのが、いけなかったのだろうか。

 それまでと別人のように、不意にウィルは愛撫をやめ、サラを引き離したのだった。確かな温もりを取り上げられ、心細くなったけれど、目の前のウィルが激しく葛藤していることはわかったから、それ以上彼を追い詰めるようなことはできなかった。やめないでと、口にしてしまえたら、どうなっていただろうか。
 静かに深呼吸を繰り返して、勇気をかき集めて、声を振り絞って彼の名を呼んだ。それに返ってきたのは、拒絶だった。

 さっきまであんなにわたくしを求めてくれたのに、正気に戻るなり、今度は拒絶するの?わたくしを求めてくれた気持ちは、本物だと思ったのに、あなた自身がそれを違うとでも言うの?

 立ち尽くすサラを、絶望が襲う。茶色の眼差しがどんな表情を浮かべているか、俯いた顔に隠れて、窺うことはできない。
 もしかして、彼はこの先自分にこころを開いてくれることはないのではないか。彼と上手くやっていくという希望を、自分の手で潰してしまったのではないか。
 こんなに激しく動揺するウィルを見たことがないだけに、サラのこころに、恐怖と絶望の霧が立ち込めていく。視界に滲むものを必死に振り払って、サラは、こみ上げてくる嗚咽をどうにか飲み下した。冷静さをかき集めて、自分に言い聞かせる。

 今のウィルは混乱しているから、思いもよらないことを言ったりしたりするかもしれない。わたくしがそれに振り回されたら、彼はもっと追いつめられてしまう。

 けれどサラは、茶色の瞳に後悔の色が浮かぶのを見るのは、耐えられなかった。二人は確かに求め合っていたのだから、それを後悔してほしくなかった。その想いが、あの言葉を口にさせた。

「夫婦なのだもの、一緒にいるうちに、こういうこともあるでしょう」

 一緒に暮らして情が沸くこともあるだろう。最初から熱烈な恋愛をしたのではなくても、二人の間に育ちつつある感情の芽を、ここで絶やしたくはなかった。彼の負担になりたくはなかった。次の言葉を伝えるには、かつてない努力が必要だったけれど、彼を苦しめたくない一心が、サラの唇を動かした。
 ほんの少し前まで、彼は確かに自分を求めてくれたと舞い上がっていた自分に、こころの中で自嘲の笑みを向けながら。こんなこころにもない言葉をくちにしなければならないほど、2人の距離はまだ縮まっていないのだと、思い知らされる。

「わたくしはあなたを愛さない。だから安心してちょうだい、ウィル」

 嘘だ。

 布団の中で、サラはいっそう体を縮めて、全身を揺さぶる衝動に耐えた。

 これは嘘だ。

 ぎゅうっと握り締めた両手で、唇を押さえる。

 本当は、あなたを愛している。ずっと前から、あなただけを見て、愛してきた。
 本当は、あなたに愛されたい。死んでしまった人よりも、どうか、今目の前にいるわたくしを見て。妹ではなく、女としてわたくしを見て。

 真実を伝えることができない。彼を追い詰めたくないから、こんな、こころと裏腹の言葉を、親切そうなふりをして紡ぐしかできないのだ。

 なんて嘘つきなの。
 体は、こころは、こんなにもあなたを求めている。今宵、あなたの唇を、温もりを、知ってしまったから、欲深なこころは、もっともっと欲しいと、責め立てている。

 こんなにぐちゃぐちゃなままで、安眠が訪れるわけがない。サラは、今夜は眠れなくても仕方がないと諦めた。それよりも、朝までに気持ちを立て直して、母やベッシー、ウィルの前で、いつも通りに振舞えるようにしなければならない。唇に込めた力を緩めれば、勝手に嗚咽がこぼれ出てきそうだけれど、これは飲み下さなくてはならないものだ。

 しっかりするのよ、サラ。
 もう泣かないと、決めたでしょう?

 瞼を閉じて、サラは、何度も何度も己に言い聞かせた。ウィルの側にいる権利を、自分から放棄したくない。望まぬ結婚を受け入れ、サラを守ってくれたウィルと、本当の夫婦になる夢を投げ出したくない。
 そうしなければ、サラはますます惨めになってしまう。
 波立つこころを宥めるうちに、いつしかサラには浅いまどろみが訪れたけれど、長い夜は、なかなか明けなかった。

2014/09/10up


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