こころの鍵を探して

 ちぎれた夢[4]

 陽光がたくさん差し込むようにと、大きく造られたフランス窓の向こうを、ウィロビー伯爵家の紋章をつけた馬車が軽快に走っていく。玄関先から小道を伝って、木々の中を走っていく馬車を、居間の長椅子に体を預けて、アメリアは見送った。

 最近では、長い時間起き上がっていることも難しくなってきたが、今日ばかりはと断固として主張し、寝室から一階の居間へ降りてきたのだ。もちろん自力での移動はできないから、荷物を全て運び終えたジェイが抱きかかえて、アメリアをここへと連れてきた。このところずっと微熱が続き、薬を飲んでも、たっぷりと休んでも、なかなか下がらない。今日も全身気だるかったが、娘を見送りたい一心で、床を抜け出したのだった。
 長椅子の後ろには忠実なベッシーが佇み、同様に窓から馬車を見送っている。

 小道が大きく曲がり、馬車が木々に隠れて見えなくなってから、アメリアは口元に力ない微笑みを浮かべた。

「行ってしまったわね」
「そうですね、奥様」

 あの事故の後、思うように動けなくなった自分の傍らにいることを選んだ、たった一人の娘。かねてより良い婿がねだと思っていた青年のもとに嫁ぐことになり、あっという間に手元から巣立っていってしまった娘。この冬、娘の運命は大きく変わってしまった。

「あの子は、今、幸せなのかしら」
 誰にともなく問いかける言葉が、小道から視線を外さぬままのアメリアの唇から滑り出た。ベッシーが微かに息を呑む気配が伝わってくるが、忠実な老女は、口を噤むことにしたようだ。沈黙が、室内に落ちた。

 あなたは幸せなのかしら、サラ。

 決して本人に聞けなかった問いかけを、アメリアは胸の中で呟いた。今朝がた、アメリアの部屋にやってきた娘の顔が脳裏に浮かぶ。

 身支度と朝食を済ませてから、サラはアメリアの部屋にやってきた。昨夜は無事に着いたと聞いてはいたが、顔を見るのは久しぶりだ。自然と、アメリアの顔に満面の笑みが浮かぶ。

「よく来たわね、サラ」
 サラが来る前に、アメリアはメイドの手を借りてベッドの上に起き上がり、背中にいくつも枕を入れて、準備をしていた。両手を広げると、髪を綺麗に結い上げたサラが、そっと両腕を回してくる。
「お母様、会いたかった」
 甘えるように縋りついてくる娘を優しく抱きしめると、もともと華奢だった体が、少し細くなったことがわかる。

 この子、痩せてしまったのね。婚約に結婚と、随分アーサーが急がせたみたいだから、主役のサラはきっと大変だったわね。生活環境までがらりと変わったのですもの。

 無理はないと思いながら、娘の両頬にキスを落として、アメリアは両手で娘の頬を包み込んだ。

「顔をよく見せてちょうだい、サラ」
 ベッドの脇に跪くようにして、サラは大人しく顔を差し出してくる。
「お母様ったら」
 眩しそうに微笑んで、母の手に頬を摺り寄せるように甘えてくるサラは、疲れた顔をしていた。長旅の疲れと、新生活の疲れと、寝不足だろうか。アメリアと同じ色彩の瞳の下には、クマができている。サラが生まれてから、ずっと共に暮らしてきた母子だが、サラがクマを作ったことなど今まで一度もなかった。目も赤く充血しているし、これは明らかに寝不足と、何か娘のこころを煩わせている問題があるのだと見抜いて、アメリアは眉間に皺が寄りそうになるのを堪えた。

 母が何かに気づいたと勘付いたら、サラは頑なにそれを否定するだろう。ただでさえ、自分の中に抱え込みすぎるところのある娘だ。自分から口を開くまでは、何か悩んでいることを母やベッシーに悟らせないように振舞うサラの自制心は、随分頑固なものだと思う。アーサーも頑固だが、サラの方が更に一本多く、筋金が入っている気がする。
 そんなサラが、見るからに疲れた様子をしているのは珍しかった。皆に甘やかされ、泣き虫だったサラは、父の葬儀の後、人が変わったように急に大人びてしまった。しっかりと采配を振るってくれたから、怪我に気弱になったアメリアも多忙な兄たちも、ついつい彼女を頼ってしまうけれど、サラだって母や兄たちに甘えてもいいのだ。そう言っても、きっと、何でもないように振舞うのは目に見えているけれど。

 だからアメリアは、なかなか開かない娘の扉が一層きつく閉まってしまわないように、踏み込むようなことは言わない。その代わり、娘には愛していると、行動で告げるようにしている。

「あなた、痩せたのではない?」
 輪郭を辿るように、そうっと手で触れていく。母に頬を撫でられてくすぐったいのか、サラは微かに身をよじるようなそぶりを見せたが、大人しくされるがままに、両目を瞑っている。その様はまるで、喉元を撫でられてゴロゴロと慣らし、満足している子猫のようだ。

「そうかもしれないわ。ずっとバタバタしていたから…。でも昨夜と今朝は、お腹いっぱい食事をいただいたわ。やっぱりモンド夫人のお料理は、美味しいわね」
 ホームの食事だわ、とサラはにっこりと微笑んだ。ウィロビー伯爵家の料理人も腕はいいが、長年サラの食事を作ってきたモンド夫人は、サラの好みを全て知り尽くしているから、やはり違う気がすると、アメリアの手の中で悪戯っぽく笑う。

「お母様こそ、少し痩せたのではなくて?」
「そう?わたくしはいつもと変わらないつもりだけれど」
 するりとアメリアの手から抜け出し、寝台の横に置かれた椅子に座って、サラは身を乗り出すように、母への視線を走らせた。その眉間にうっすらと皺が寄る。
「わたくしの記憶違いではないと思うわ。さっき、ベッシーも言っていたもの。最近お母様は、あまり食事を召し上がらないって」
 娘に心配をかけるようなことを言った忠実なベッシーに、アメリアは胸の中で、そっとしかめ面を向けた。顔には変わらぬ優しげな笑みを貼りつけたままで。
「食べてはいるのよ?でもほら、わたくしはずっと寝ているだけでしょう?動かないものだから、なかなかお腹が空かなくて」

 もっともな理由を挙げると、サラは渋々と引き下がった。心配は心配だが、更に追及をする余地が見当たらなかったのだ。下唇をやや突き出すように俯くサラは、幼い時の『わがままサラ』がふくれたときに見せた表情とそっくりで、アメリアは愛しい末娘の髪を、そっと撫でた。

「どうしたの。心配性のお姫様」
「わたくしがお兄様たちのところへ行ってから、お母様はベッドに寝たきりだと聞いていたから、ずっと会いたかったの。本当はもっと早く帰ってきたかったわ」
 結婚なんかしないで、帰りたかった。

 聞こえるか聞こえないかの大きさで零れ落ちた台詞は、辛うじてアメリアが聞き取れるほどで、儚く空気に溶けて消えた。

「そんなことを言うものではないわ。これも何かの縁。なるべくしてなったのよ」
 娘の肩を抱き寄せ、華奢な体を抱え込んで、アメリアはそうっと頬と頬を合わせた。サラは目を瞑って、体を預けてきている。そのまま母子は、暫くそうして抱き合っていた。

 あの事故の時は、まだまだ小さなお姫様だったのに、本当に大きくなったものだ。目を瞑ると、あの頃のサラの、無邪気な笑顔がはっきりと蘇る。自制心を強く持つことを覚えて、色々な理不尽さを飲みこんで、この子は、あんな無邪気な顔を見せてくれなくなってしまった。
 胸に入り込む悲しみを振り払うように、アメリアは娘を引き寄せる腕にぎゅっと力を込めてから、そうっと力を抜いた。体を起こしたサラが、不安そうにこちらを窺っている。

「大丈夫よ、サラ。モンド夫人が一生懸命献立を工夫して、美味しい食事を作ってくれるから、わたくしも頑張って食べるようにするわ」
 こくりと頷いたサラの表情は、やはり浮かなかった。アメリアの体調だけでなく、心配事が他にもあって、胸を塞いでいるのだろう。綺麗に結い上げられた鳶色の髪にふわりと触れて、アメリアは微笑んだ。
「うちではずっと髪を下ろしていたから、この髪形は新鮮ね。若奥様らしく、とても似合っているわよ」

 ずっと髪を下ろしていたせいか、ほっそりとした首周りの肌は、抜けるように白い。全体的に初々しくて、咲きほころんだばかりの花を連想させる。
 新婚で、幸せの絶頂にいてしかるべき娘は、淡い微笑みを浮かべて母を見た。アメリアと同じ色の瞳には、痛みと苦しさが混じった影が僅かに覗いている。
「堂々としていなさい、サラ。ウィロビー伯爵夫人として、恥ずかしくないように」
 励ますように微笑みかけると、娘は小さく「ええ」と呟いた。
「わたくしがあなたのお父様と結婚した時も、自信がなかったけれど、おばあ様をお手本にしたわ。いつも背筋はぴんと伸ばしておくのよ」
 年を取った今でも、祖母の所作は美しく優雅で、母が手本にしたのもわかる。美しい姿勢は己の助けになるのだと、サラが幼いころから祖母はよく言っていた。例え虚勢であっても、堂々と見えるように振舞っていれば、やがてそれが本物になるとも。
 祖母の口癖を思い出し、こくりと頷いたサラの背後から、扉を軽くノックする音が聞こえた。サラの瞳に浮かんでいた微かな影が濃くなるのを目の端に捉えながら、アメリアはそれに気づかぬふりをして、いつもと変わらない声で誰何した。

「どなた?」
「私です」

 どうぞと促すと、ドアが開いてウィルが入ってきた。サラと一緒にこの部屋へ来る予定だったが、ロンドンを発つ前に色々とアーサーに頼まれたことがあるとかで、朝食後は執事と屋敷のことなど話し合っていたようだ。義兄の用事から、やっと解放されたのだろう。妹婿となった途端、人使いの荒い長男に用事を頼まれて、気の毒なことだ。暫くぶりに彼を見上げて、アメリアは自然と滲んだ苦笑を誤魔化すことができなかった。

「お久しぶりね、ウィル。アーサーが、申し訳ないことをしたわね」
 第一声で謝罪するくらい、久しぶりに見るウィルは、疲れた顔をしていた。身支度はいつも通り、寸分の隙もなく完璧にではあるが、彼の温厚な顔には、疲労の後が色濃く見える。アメリアの傍らでずっと黙り込んだままのサラ同様、ウィルの目元にも、クマがはっきりと刻まれている。どれだけ多忙でも、相手に疲労を悟らせないようにそつなく振舞うウィルにしては、珍しい。学生の頃からの彼を知っているアメリアも、戸惑うほどだ。
 そしてアメリアは全て合点がいった。サラのクマを作った原因はウィルにあり、ウィルのクマを作った原因はサラにあるのだと。普通なら、新婚の夫婦が寝不足だとわかれば、夜の営みに忙しくて睡眠不足になったのだと推測するところだけれど、この二人の場合は少々事情が異なるようだ。

 注意深いアメリアの眼差しは、ウィルの瞳にも、痛みと苦しさが混じった影が滲んでいるのを捉えてしまった。
 サラが幼い頃から、この二人の関係は、実の兄たちに比べて良好だったけれど、急な結婚で、不協和音が起こってしまったのかもしれない。

 二人の結婚については、何の前触れもなく、ロンドンのアーサーから報せが来て知らされた。それまで結婚や婚約を匂わせるようなことは何もなかったから、ロンドンで何かあったのではないかと、気を揉んだものだ。アーサーは病床の母を心配させまいとしてか、結婚が決まった事情についてはほとんど言葉を割いていなかったから、なおさら心配してしまった。

 突然の結婚を許可したのも、相手がウィルであったからで、もしあまりよく知らない男性が相手だったら、アメリアは断固反対した。ウィルであれば、サラをありのままに包んでくれるかもしれない。一人で我慢しすぎないように、昔の『わがままサラ』らしい無邪気さを、引き出してくれるかもしれない。そう願って、長男に承諾の返事を書いた。恐らくアーサーもブラッドも、アメリアと同じことを思って、二人を結婚させたのだろう。

 新婚夫婦が、互いの距離を測りかねて初々しく戸惑い合っているというより、気を遣いすぎているのに、空回りしているような印象を受ける。
 サラの横に用意されていた椅子を引いて座るウィルに、サラも控えめな微笑みを送るが、まだどこか取り繕っているような気がする。もちろんそれは、母として彼女の側にずっといたアメリアだからこそ感じ取れる違和感で、アーサーやブラッドも気づかないとは思うが、作りものめいた雰囲気がちらつく。

 二人の間に何があったにせよ、どちらも、自制心の強さはアメリアの知る中でも屈指。真正面から指摘したところで誤魔化されるだけ、最悪、二人の間の雰囲気が悪化するだろうと見当をつけて、アメリアはなるべくいつも通りをこころがけた。結婚前、ウィルが時折レイノルズ館を訪ねてきた時は、こうして三人で話しこむこともあったから、その時の雰囲気を思い出しながら。二人が居心地の悪さを感じないように、痩せた頬に鮮やかな微笑を乗せた。

「いえ。あなたの義理の息子になったことですし、私にできることは何でもしたいと思っていますよ」
 やっとペースを取り戻したのか、見慣れたそつのない、人当たりのいい微笑を口元に浮かべて、ウィルは隣に座る妻にそっと視線を走らせた。
「サラもずっと、心配していましたから」
 茶色の眼差しに、サラも漸くいつもに近い微笑みを返す。
「ありがとう。お兄様の代わりに、色々と心配りをしてくれて」
「いや。義母君は、私にとっても母代わりのような方だからね」
「そうね。うちのやんちゃな息子たちと一緒に、あなたのことをずっと見てきたから、本当の母になれて嬉しいわ」
 初めて会った頃の少年を思い出し、アメリアは感慨深げに目を細めた。あの時の少年が、泣き虫なサラと夫婦になって、こうして自分を訪ってくれている。きっと似合いの二人になると密かに思ってきたが、実際、目の前に並んでいるところを見ると、実にお似合いだ。母の欲目だと笑われてもいい、と、アメリアはウィルの手を取った。

「でも、うちの息子たちには気を付けてね。人使いが荒いから、困ったものだわ」
「そうね。本当に遠慮がなかったわ」
 サラも微苦笑を浮かべ、アメリアと顔を見合わせて、声を立てて笑った。娘の笑顔をやっと目にすることができて、アメリアの胸がほんのりと温かくなる。

「ウィル、この子はまだ至らないところも多いけれど、心映えだけは、英国のご令嬢の中でも一番だと思うの。どうかよろしくね」
 親ばかだと笑ってちょうだい、と首を傾げるアメリアは、以前会った時よりもやつれていて、ウィルの胸の奥が微かに痛んだ。取られた手をぎゅうっと、力づけるように握り返し、ウィルはしっかりと頷いた。
「ええ。任せて下さい」
 隣のサラは「お母様ったら」と恥ずかしそうに頬を赤らめているけれど、母の体を病魔が侵しているのを敏感に感じ取っているのだろう。母に走らせる視線は、いつになく曇っている。

 この繋いだ手から、自分の活力を少しでも分けられればいいのだが。

 ウィルは名残惜しげに、アメリアの手を静かに放した。もっと彼女の側についていてやりたいが、マントルピースの上に置かれた時計は、無情に時を刻んで、針を進めている。

「名残惜しいけれど、そろそろ出発の準備をしなくては」
 後ろ髪を引かれながら、ウィルがサラを促すと、サラは顔をくしゃりと歪めて両目を閉じた。すぐに開けて、ウィルを見返した時には、悲しそうに微笑みを浮かべて頷いたけれど、彼女もウィルと同じように不安を感じているのだとわかった。
「そうね」
「わたくしのことは気にしないで、出発に支障のないように準備をしてちょうだい」
 ベッドの上で微笑むアメリアは、初めて会った頃の美しさの片鱗をまだ身に纏ってはいるけれど、彼女を蝕む影は、律儀に、彼女に残された時間を進めている。自身にひたひたと迫る影に気づいていないはずはないけれど、アメリアは母の眼差しでウィルとサラをそっと急かした。

「何かあったら、すぐに知らせて下さい。些細なことでもいいです。ケントからなら、すぐ駆けつけられますから」
「ありがとう」
 義理の息子に頷いて、アメリアはサラを抱擁し、大切な宝物のようにキスをした。それからウィルを見上げて、
「サラ、少しだけウィルと二人きりにしてくれる?」
 自分の娘には先に退室を促す。サラは母の意志を尊重して、余計な反問をせずに、「先に降りているわね」とだけ夫に告げて、部屋を出て行った。

 アメリアは先ほどまでサラが座っていた、自分に近い位置の椅子をウィルに進め、そこに腰を下ろした彼の肩を抱き寄せて、頬にキスを落とした。
「あなたもわたくしの大切な息子の一人よ。サラの幸せと同じくらい、あなたの幸せをずっと願っているわ」
「ええ、お母さん」
 見守ってくれていることを、ずっと知っていましたよとウィルは目を細め、アメリアの痩せた体を抱きしめた。予想以上に細くなり、骨が浮いた体を直に感じて愕然とするが、それを持ち前の意志の強さで押さえつける。
「これからも、私たちを見守っていてくださいね」
「もちろん」
 アメリアが小さく笑い、二人は抱擁を解いて、顔を見合わせた。ゆっくりとアメリアの顔から微笑みが消えていき、サラとそっくり同じ色彩の瞳が、真正面からウィルを射抜く。

「あなたは、後悔している?サラと結婚したことを」
 思いがけない問いかけに、ウィルは一瞬目を瞠ったが、動揺をすぐに隠し去って、首を横に振った。

「いいえ」
 咄嗟に返した答えではあったが、それは偽りではなかった。後悔しているかと聞かれれば、否と、何度聞かれても答えるだろう。どのように接するべきか思い悩むことは多いけれど、悔いてはいない。

「そう。よかった」
 アメリアはほうっと安堵の吐息を漏らしたけれど、強い眼差しは変わらずウィルを捉えたままだ。

「これだけは約束して。あの子を決して泣かせないと」
 元々、ほとんど泣かない子だけれどね、と淡く自嘲の笑みを浮かべて、アメリアはウィルを見つめた。
 一呼吸置いて、ウィルが一つ、首肯を返す。茶色の眼差しは、サファイアの瞳に負けない強さで誓った。

「ええ。必ず」
 サラが泣くところなど見たくない。それも、ウィルの偽らざる本心だ。

 ウィルの言葉に偽りなし、と感じ取ったのだろう。アメリアの顔から意志の強さが消えて、いつもの彼女らしい、母親の自愛に溢れた柔らかな笑顔が戻ってくる。

「ありがとう。あの子をよろしくね、ウィル」
 紡がれる言葉は、長い年月を経ても変わらない、母の祈り。

「はい」
「わたくしはずっと、あなたたち二人の幸せを祈っているわ」

 あなたも大切な子どもなのだと、陽だまりのような暖かさがじわりと伝わって、ウィルの全身を、こころを優しく包む。けれど、その裏に潜む儚さも同時に伝わってきて、ウィルは、視界が滲みそうになるのを必死に抑えつけた。

「ここはいつでも、あなたたちのホームよ」

 最後の言葉は、ほんのりと暖かにウィルのこころに沁みて、一番深いところにころりと落ちた。


* * *

 馬車はとうに走り去ってしまったけれど、アメリアは、静かな眼差しを小道へと向け続けていた。その頬はやつれて、疲労の色が濃い。

「奥様、そろそろベッドへ……」
 ベッシーが丸い体をかがめて、心配そうに囁いても、アメリアはゆるゆると首を横に振り、明るい陽射しが照らす小道を一途に眺めている。真っ青な瞳は、馬車の幻を追いかけているのか、それともどこか遠くを見つめているのか。
いよいよ心配になったベッシーは、奥様に内緒で、庭師を呼んで来ようと決めた。今日は起きている時間が長いから、いつもよりもお疲れになったはず。庭師に頼んで、奥様を寝室まで運んでもらおう。そう決めて踵を返そうとしたベッシーを、他ならぬ奥様の声が呼び止める。

「ねえ、ベッシー」
「はい、何でしょう」
 サファイアの双眸は、相変わらず庭に向けられたままで、アメリアはベッシーに問いかけた。

「あの二人は、大丈夫よね」

 敬愛する奥様のこころを占めている二人の顔を、すぐさま思い浮かべ、善良な老女は皺だらけの顔を曇らせた。
 ベッシーから見ても、今朝のウィルとサラの様子はどこかおかしかった。今回ベッシーは、二人が到着する前に予め奥様から、「二人に余分なことを言わないように」と釘を刺されていた。今朝も首を傾げたけれど、面と向かっては何も言わなかったが、ベッシーも密かに胸を痛めていた。先ほどアメリアに「あの二人は今、幸せかしら」と聞かれて、答える言葉が見つからなかったくらいに。

 けれどウィルもサラも、昔から心根の優しい子どもだった。それに、アメリアの部屋から降りてきたウィルはいつもの彼と変わらないように見えたし、サラも母と話してからは、元気を取り戻したように見えた。

「大丈夫ですよ、奥様」

 おそらく本人は無自覚だが、サラの瞳にも、ウィルの瞳にも、僅かな影が差していた。見ているベッシーが不安を覚えるような、苦しげで悲しそうな影だったけれど、彼女は年寄りらしいことを言って、不安を振り払うことにした。

「若者はね、悩んで、ぶつかって、成長するものなんですから」


* * *

 レイノルズ館からウォーリンガムハウスへ向かう道中は、順調だった。昨日のように困った農夫に会わなかったし、途中の宿で予約していた昼食も、注文通り整えられていて、予定通りに馬車は進んでいった。

 馬車の中の空気は、表面的には変わらなかった。

 今朝、起き出した時はお互い大いに気まずさを感じていたけれど、執事と話したり、ベッシーや母と話したりするうちに、二人ともどうにか調子を取り戻していた。

 本当によかった、とサラは内心安堵した。初めてウォーリンガムハウスへ行くのに、昨夜の動揺を引きずっていたら、余分な失敗をしでかしてしまうかもしれないから。
 馬車の中では、アーサーが何を頼んだのかや、屋敷の様子など、他愛もない会話を続けた。時折沈黙も下りたけれど、気まずいものではなかった。

 やがて、いくつかの丘を越えた先に、こじんまりとした、けれど歴史を感じさせる石造りの城館が姿を現した。

「あれがウォーリンガムハウスだよ」
 教えてくれるウィルの言葉には、ホームに帰ってきた喜びと安堵と、この居心地のよさそうな館への愛着が滲み出ていた。

 灰色の石で作られた館は、東西それぞれに棟を持ち、とがった三角屋根の脇からはいくつもの煙突がそびえている。ゴールド・マナーに比べれば小さいが、レイノルズ館よりは大きい。
 館と同じ灰色の石で作られた門柱と塀が、ぐるりと周囲を取り巻いて、世間の目から館を守っているかのようだ。
 二人を乗せた馬車は門を通り抜けて、玄関へと続く小道を辿る。門の脇には、レイノルズ館のように門番小屋があり、それもお揃いの灰色の石で作られていた。

 道は暫く曲がりくねって、両脇に植えられた木々が館を隠してしまったけれど、間もなく再び姿を現した。見事な芝で丸く円が描かれた周りを、玄関へアプローチする小道がぐるりと囲む。玄関の扉と同じくらいに、窓が大きく取られているから、きっと日差しがよく差し込んで、明るいのだろう。
 館の周囲は手入れの行き届いた芝生と花壇が囲んでいて、その先には、丘を吹きわたる風から館を守るように、こんもりとした森が続いている。玄関からは見えないが、横手へ回ると、温室や噴水もあると、ウィルが教えてくれた。

 やがて、馬車が近づくにつれ、玄関の前にずらりと出迎えの人々が並んでいるのが見えてきた。見覚えのある使用人だけでなく、初めて見る顔も紛れている。皆、伯爵夫妻の到着を今か今かと待ちわびていたのだろう。

 玄関の前に馬車が止まり、扉が外から開けられた。ウィルが身軽に馬車から降りて、続いて降りるサラへ片手を差し伸べ、悪戯っぽく微笑んだ。かつて、ゴールド・マナーで一緒に遊んでくれた少年の面影が色濃く浮かんで、サラの胸をぎゅうっと締めつける。彼は、お姫様をエスコートする騎士のように、恭しく頭を下げ、隠しきれない喜びを滲ませて告げた。

「ウォーリンガムハウスへようこそ」

2014/09/14up


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