こころの鍵を探して

 彼女の影[2]

 翌朝、朝食の席でウィルと顔を合わせるのが、サラは気重で仕方なかった。が、拍子抜けするほど、彼はいつもと変わりなく振舞った。彼を包む空気は穏やかに、サラにも細やかに気を配って、昨夜の彼は見間違いではないのかというくらい、いつも通りのウィルだった。

 しかし彼の何気ない視線の影に、サラへの気遣いを感じ取って、やはりあれは現実だったのだという想いがサラの胸にこみ上げてくる。だがここで蒸し返して嫌な気持ちになるより、彼の気配りを素直に受け取って、いつも通りに振舞う方がいい。朝から喧嘩はしたくないし……と気持ちを切り替え、彼女も夫に微笑みかけて、今日の予定など話しかけたりすることにした。
 差し伸べた友好の手をサラが振り払わなかったことに、ウィルは安堵したらしい。彼からもしきりに話しかけ、一見、朝食の時間はいつもにも増して仲の良い夫婦の朝のひとときとなった。

 やや気疲れを感じながらも、それを表に出さないよう注意を払い、サラはハビシャム夫人と細々とした打ち合わせを行った。それからジェイスンを共につれ、再び温室へと赴いた。老庭師は今朝は庭園の手入れをしているのか、温室内に姿は見えない。早咲きのスイートピーを屋敷に飾ろうと、サラは足を進めた。温室の一隅を占める白い貴婦人のような花には、今朝は目を向けない。

 サラの指示でスイートピーを幾つか手折ったジェイスンが、大きな手には不似合いな花を、丁寧な手つきでまとめて持った。

「素敵ね。居間に飾れば明るくなるわ」

 自分に言い聞かせるように、ぽつりとサラが呟いた。はっとしたジェイスンが視線を向けた先、やや俯き加減のサラの表情は、肩を落としてどこか悲しげだ。何か声をかけなければと思うけれど、適当な言葉が思い浮かばず、ジェイスンの気持ちだけが逸る。どのくらいの時間であったか、ほんの数秒のことかもしれないが、焦燥を覚える時間はやけに長く感じられた。
 が、ジェイスンが動くより先に動き出したのは、サラだった。しょんぼりとした空気を体から振り払うようにぱっと顔を上げて、彼女は先ほどよりも強くしっかりとした声音で呟いた。

「可愛い色ですもの、ぴったりだわ」
 春を感じる可愛らしい花ね。ジェイもそう思うでしょう?
 快活に笑いかけ、踵を返したサラの背中に、やっと言葉を取り戻したジェイスンが思いつめたように声をかける。

「サラ様っ」
 彼らしくない切迫した声音に、サラは思わず足を止めた。そのまま彼女の背中に、忠実な従僕の声がかけられた。言いにくそうに、けれどはっきりと、彼の声は、サラの耳に届いた。

「あの白百合は、旦那様が墓前に供えるために育てているのだそうです。……旦那様の、亡くなられた婚約者の方の墓前に」

 温室の中だというのに、冬の朝の冷たい空気がサラの肺を、喉を、心臓を、鋭い切っ先で突き刺したようだった。カラカラに喉が渇いて、唇が震えて、声が出せない。

 ああ。どうして気づかなかったのだろう。
 彼がこだわるとしたら、きっと彼女に関係することなのに。

 全身を強張らせたサラの背中に、まだジェイスンの言葉がかけられるが、音は拾えても言葉の意味までを理解することは難しい。両耳を塞いでしまいたいのに、見えない壁に四肢を縫い止められたように、動かすこともできない。

「昨日、ディックに聞いたんです。そのご令嬢が好きな花だったから、旦那様が命じられたのだと」

 ジェイスンの声音にも苦いものが混じっている。無口で落ち着いた彼が、こんなにはっきりと感情を表すことは珍しい。サラを案ずる気持ちと、それからサラではない誰かに向けた怒りが、ゆっくりと話す彼の言葉の端々に溢れている。

 早くに亡くなった婚約者が愛した花を、庭師に年中絶やさず咲かせるように命じ、彼女の墓前に供え続ける。何という美談だろう、と、どこか冷めた思考でサラは思った。
 自分がもしその婚約者だったら、ずっとそうやって偲び続けてくれるかつての婚約者に感謝するだろうか。いや、きっと感謝はしない。それよりも今自分を取り巻く現実を見て、前に進んでほしいと願うだろう。
 そのようにしか考えられない自分は、冷たい女なのだろうか。だが、そうやって現実に向き合ってこなければ、あの両親の事故の後、サラは生きてこられなかった。過去の美しい思い出の中にだけ生きるより、歯を食いしばってでも今を生きる方が苦しく、価値があるものだと、サラは身をもって知った。

 それをどうにかして、ウィルに伝えたい。妻として現実の彼の傍らに寄り添う自分と手に手を取って、前に進んでほしい。
 切に願うけれど、ロンドンにいた時以上に、ウォーリンガムハウスでの生活は、亡くなった彼女の影が色濃く残っている気がする。今思えば、昨夜の彼の態度は、まだヒリヒリと痛む傷のかさぶたをサラが突然引っ掻いたから、とでもいうようなものだ。ウィルにはまだ、こころの準備ができていないけれど、かつて表情を全て失った母が笑顔を取り戻したように、現実に一緒に対処していってほしい。それは簡単なことではなくて、彼女との思い出がそこここに残るだろうこの場所では、ロンドンにいた時より一層難しい。

 でも、やらなくては。

 幼かったサラを支え、ここまで見守ってくれたウィルに、サラは今度こそ何か返したいと感じていた。
 サラのこころは迷うことなく、すべきことははっきりしている。
 嵐のように脳裏を駆け巡った思考を落ち着けて、サラは全身の力を抜いた。結局サラにできることは一つしかない、前に進むことだけしか。

「そう。大切な花だったのね」

 大きな間が空いてしまったけれど、いつものサラらしい快活な口調で、背後で固唾を飲んで見守っているであろうジェイスンに言葉を返した。ジェイスンがサラの態度に戸惑って口を噤んでいる隙間に、彼女は爽やかな風のような笑顔で、従僕を促した。

「さ、屋敷に戻りましょう。その花を飾らなくてはね」

 真っ青な宝玉の瞳に宿るのは、迷いのない意志の強さ。それを目にしたジェイスンも、背中をぴしりと伸ばし、首肯する。まずは目の前のやるべきことをやる。それはレイノルズ館では不文律、ジェイスンが聞き慣れたサラの口癖だった。ここでは声に出して言われなかったけれど、ジェイスンの耳には確かに聞こえた。そう、余計な噂話や勘ぐりで、主の足を引っ張るようなことがあってはいけないのだ。無心に、前に踏み出すことが何より肝要だった。

「はい、サラ様」

 毎日新しい朝が来る。サラも新しい朝が来るたびに、新たな一歩を踏み出すしかないのだ。
 背中に、ジェイスンの心配そうな視線が注がれているのを感じる。何度も何度も、大丈夫だと自分に言い聞かせて、サラは屋敷へと歩を進めた。


* * *

 ウィルは今日、朝から出かけている。朝食を済ませると馬車に乗り込み、近隣の領地の様子を見に外出していった。戻りは昼過ぎになると言っていたから、今ならウィルの邪魔をするのではないかという心配をせずに、彼の私室を整えることができる。
 屋敷内でサラが出入りできない場所はないのだが、ウィルが仕事をしたり、寛いでいたりする最中のプライベートスペースに足を踏み入れるのは躊躇われた。

 ロンドンから戻って以来、領地運営に関する仕事と、投資に関する仕事と、彼のところに舞い込む書類は多いようで、書類と格闘している時間が多い。文字を追いかけて疲れた目が少しでも疲れを癒せるように、先ほど温室で摘んだ花を書斎に飾るのは、いいアイディアだと思われた。彼の気分が僅かでも和むといいのだけれど。

 そうしてサラは、主が不在の書斎にそうっと入り込んだ。既に花を活けた状態にして、花瓶のまま持ち込む。ジェイスンが運ぶと言ってくれたのだが、ウィルの書斎に色々な人間が出入りするのは気が引けたので断った。
 ウィルの集中を邪魔しないよう控えめに、けれど部屋が明るくなるように、小ぶりの花瓶にいっぱいになり過ぎない量の花を活けてある。扉だけジェイスンに開け閉めをしてもらって、花瓶を両手で抱えるように持ったサラだけが書斎に入った。
 部屋をざっと見回して、すぐにめぼしい場所を見つけ、サラの表情がぱっと輝いた。ソファセットの脇にあるサイドテーブルの上に静かに花瓶を置いて、見映えを確かめる。まるでキャンドルに光が灯ったように、部屋の中がふわりと明るくなったように見えて、サファイアの瞳が満足そうに細められる。

「我ながら、いい出来だわ」
 唇を綻ばせて、冗談めいて自分自身を褒めたりして、サラは暫し可憐な花を眺めた。これならウィルの邪魔にならないように、さりげなく疲れた神経を宥めてくれるだろう。

 花に向けていた意識をふっと緩めると、俄かにそわそわしてくる。ウィルからは屋敷内のどの部屋でも自由に出入りしていいと言われているが、この書斎は最初に邸内を案内された時、ちらりと入り口から覗いただけだ。本人不在だとわかってはいても、彼の私室に一人でいるのは、何となく後ろめたい。自覚すると途端に胸の鼓動がトクトクといつもより速くなって、落ち着かない気持ちになり、サラはそっと胸を手で押さえた。

 嫌ね。後ろめたくなることなんて、ないのに。

 ずっと恋い慕う男性の個人的なスペースに入り込むだけで、こんなにも容易く浮足立ってしまうなんてと、サラは自分に軽く呆れて、微苦笑を漏らした。でも、これは彼の妻だから許される特権だ。
 また彼の邪魔にならない時を見計らって、居心地よく過ごしてもらえるように手を加えようと、意気込みを新たにする。彼が逆に気を遣うことがないように、さりげなく配慮できればいい。

 何かできることはあるかしらと、サラはゆっくりと室内を見回した。ウィルも几帳面な性分だし、執事の気配りも行き届いているから、乱雑なところはない。清潔に整えられている。

「あら?」

 ウィルの執務机に遮られて一部しか見えないが、窓の下、何かキラリと光るものがあった。何だろうと不思議に思って近づいてみると、金縁の額が窓の下の壁に立てかけられていた。額は、サラの上半身ぐらいの高さがあった。繊細な細工が施された、可憐なデザインの額だった。額の中には肖像画が収められていて、誰の絵だろうかとサラは腰を屈めて覗きこみ、驚きに息を止めた。

 濡れたような美しい黒髪、菫のような紫色の瞳の美しい娘が、頬を上気させて、愛おしげにこちらを見つめてくる。娘の顔立ちは整っていて、目元には優しげな雰囲気が滲んでいる。ベッキーやソフィアのような辺りを払う美しさはないが、見る者のこころを和ませ、ふわりと包むような優しげな儚い美しさがそこにあった。思わず守ってあげたくなるような、線の細い、色白の美しい娘。
 サラのようにそばかすが散ることもなく、白磁のような肌は見るだけで滑らかさが伝わってくる。華奢ではあるが胸元は豊かであり、少女の初々しさと女性の微かな色香が同居したような、咲き初めの花の美しさが画面いっぱいに描かれている。彼女の背景に描かれているのは、この辺りの丘陵地帯だろうか。絵の中の娘は、惜しみない愛情を画面越しにこちらへと向けており、すっかりリラックスした様子だった。愛おしげにこちらを見つめる彼女の腕に抱えられたのは、白い花束だった。

 そこまで見て取って、サラは、頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。頭のてっぺんから、ざっと血の気が引いていくのがわかる。体を起こすと足がふらついてしまったが、夫の執務机に手を置いて、どうにかふらつきを堪えた。くらくらと眩暈までしてくる。両手を机に置いて、眩暈をやり過ごしながら、サラは乾いた笑みを浮かべた。
 絵の中の白い花は、温室で目にしたばかりのあの花と同じ、白百合だ。彼女の瞳の色は紫。全て辻褄が合い、今までそれに気づかなかった自分の愚かさに、自嘲の笑みだけが浮かぶ。

 このひとがアビーなのだ。ウィルのこころを捉え、そのまま持って行ってしまった人。
 妻の部屋が紫を基調に整えられていたというのも、庭師が年中絶やさずに白百合を育てているというのも、彼女のためだったのだ。

 ロンドンで目にした絵からはわからなかったが、この絵からは、画面越しに彼女の愛情がよく伝わってくる。きっと、ウィルのことを考えながらモデルをしていたのだろう。この絵がここにあるくらいだから、彼の依頼で描かせたのかもしれない。
 いまだ、彼女の絵を私室に、人目をはばかるようにしてまで置いているウィルのこころは、アビーがしっかりと握ったままなのだろう。

「馬鹿ね、サラ」

 ぽつりと呟いた声には、嵐が吹き荒れるようなこころの中とは反対に、感情の欠片も感じられない。顔は苦悶に歪んでいるのに、声には滲んでいない。
 サラの悲しみも衝撃も、内側に押し込められてしまって、表面はすっかり凍りついてしまった。自分自身を守るために、サラは無意識に、表に出る感情を凍りつかせようとしていた。そうしなければ、もし僅かでもひび割れや小さな穴があれば、この感情は決壊し、サラをもっと痛めつける。ウィルの側にいるために、こんな激しい想いは、抑えつけるしかないのだ。今のウィルにぶつけても、彼は困惑し、サラを敬遠するだろうから。

 何しろ彼の愛したアビーは、こんなに素敵なひとだったのだ。ウィルを愛し、愛されて、幸せだった様子が伝わってくる。きっと男性ならば誰もが、守りたいと願うような素晴らしいひとだ。
 こんなひとがずっとこころの中に住んでいるのなら、サラを振り向くはずがないのだ。

 その想いが胸の中に、すとんと落ちてきた。酷く納得してしまって、そのことにも傷つき、サラは力なく笑う。卑屈にならないと決めていたのに、こんなにも簡単に揺らいでしまう。何度も何度も気持ちを立て直してきたけれど、いまやサラのこころは、激しい風雪に何年も晒されたあばら家のようにボロボロだった。小さな衝撃ひとつで、ぐらぐらと倒れそうに揺らいでしまう。

 無理もない。歯を食いしばって抑えているけれど、叫び出したいような苦しさが、体を内側から苛んでいるのだ。こんな嵐を身の内に抱えて、これからここで暮らしていけるだろうか。
 できるならば今すぐここから、彼女の影が渦巻くこの土地から、慣れ親しんだレイノルズ館へ逃げ出してしまいたい。あそこなら、サラを脅かすものは何もない。静かに温かく、サラを包み込んでくれる。そうするのは容易だった。ジェイスンに命じて、馬車を用意させればいいだけなのだから。けれどそれをしてしまっては、サラはウィルの妻に相応しくないという評価を受けてしまう。

 やらなくては。

 両手を胸の前で固く握り締め、サラは走り出したくなる衝動を堪えて、足早に書斎を後にした。足音が荒くならないよう、けれど早く書斎から遠ざかれるように、不審に思われないように、自分を励ましながら廊下を進む。顔を強張らせてはいけない、誰に出会うかわからないのだから、いつも通りにしなくては。サラの頭を支配していたのは、ひたすらにその想いだけだった。どこに向かっているのか自覚のないままに足を進め、気づけば庭の片隅にぽつんと佇んでいた。
 ぼんやりと立ち尽くしているサラに、遠慮がちな声がかけられた。

「サラ様?」

 両手を体の前で握り締めたままゆっくりと振り返ると、そこにはジェイスンが立っていた。怪訝そうにこちらを見つめる忠実な双眸を見とめて、反射的にサラの唇からぽろりと言葉が零れ落ちる。

「ジェイ、サリーに鞍をつけて」
 僅かな驚きに彼の眼差しが見開かれたが、それに気づかないふりをして、サラは淡々と命じた。

「わたくしはこれから乗馬服に着替えてくるから、あなたは厩で待っていて」
「おひとりで行かれるつもりですか」
「危険だというのなら、あなたも準備なさい」
 それだけを言い捨てて、サラは握り締めた両手に力を込めながら、早足で屋敷内へと向かった。いつものサラらしくない素っ気ない物言いと態度に、ジェイスンはきっと何か勘付いているだろう。でも無駄口をきかずに準備をしてくれるはずだ。今疑問を差しはさんでも、サラを煩わせるだけだとわかっているから。

 幸運なことに誰にも出会わずに自室へ戻り、クローゼットから乗馬服を取り出して、てきぱきと着替えた。名門家の令嬢らしくなく、サラはある程度身の周りのことは自力でできるから、さほど時間をかけずに終わった。
 鏡には、青白い顔の女が映っている。魅力の欠片もない、ふさぎ込んだ顔つきの女を見返して、サラはふと口元を歪めた。

「ジェイに甘えてしまっているわね」
 気のいい彼のことだから、サラの顔色の悪さを見て取って、内心心配しているに違いない。ごめんなさい、と小さく呟いて、サラは部屋を出て厩へ向かった。
 心配をかけているとわかっていても、体の中に押し込めたものをどうすることもできないのだ。八つ当たりなんて普段のサラならば絶対にしないけれど、今ばかりは従僕の優しさに甘えて、勘弁してもらうしかない。ウィルの愛したアビーなら、こんなわがままなことはしなかったかもしれないけれど、サラはアビーではない。崇拝されるような存在ではない。生身の女性だ。

 厩の前では既にサリーの準備を終えて、ジェイスンが待っていた。サリーは、サラがレイノルズ館で乗っていた雌の愛馬だ。先日レイノルズ館へ立ち寄った時にジェイスンが一緒にウォーリンガムハウスへ連れてきたのだ。ウォーリンガムハウスへ着いてから、サラが乗馬をする機会がまだなかったので、サリーの黒い瞳がサラを見とめてキラリと光った気がした。久しぶりに鞍をつけさせたので、彼女も気が逸っているのだろう。大人しく賢い馬だが、しきりに鼻を鳴らしてサラに訴えてくる。
 鼻をそっと撫でているうちに、サラの強張ったこころが僅かに解れた気がした。暫く声をかけて撫でてやってから、側に黙って控えるジェイスンに目を遣ると、彼はもう一頭の手綱を握ったまま静かに主を見返してきた。

「ありがとう、ジェイ」
 いえ、と小さく答えて、ジェイスンは遠慮がちにサラへ問いかけてきた。
「サラ様、どちらまで行かれるおつもりですか」
「ウィロビー伯爵家の領地から出るつもりはないわ。とにかく走りたい気持ちだけれど、無茶はしないから安心してちょうだい」
 サラが何かしでかすのではないかと警戒心たっぷりなジェイスンに、困ったような笑みを向けて、サラはサリーに跨った。それを見て、ジェイスンもそれ以上反問することなく、すぐさま自分の馬に飛び乗った。

「行きましょう」
 相棒の首を軽く叩いてから、サラは思い切りよく馬を駆けさせた。サリーは久しぶりにサラを乗せて、嬉しそうだ。温かな皮膚越しに伝わってくるサラへの無言の信頼と愛情が、細かな傷を無数につけたこころへじわりと広がっていく。サラがこころの命ずるままに、乱暴に駆けさせても、サリーはじっと受け入れてくれるだろう。サラがサリーを傷つけることはしないと、知っているから。

 軽快な蹄の音が耳に心地よく、それに混じって後ろから追いすがるもう一対の蹄の音も小さく意識の隅に入ってくる。サラのところに来たばかりのとき、ジェイスンは荷馬車の手綱を操ることはできても、馬に騎乗することはできない少年だった。それではサラの身の回りの世話をするのに支障があると、馬丁たちに習って懸命に練習し、今ではサラ以上に馬を乗りこなせるようになった。家族の中ではずば抜けて乗馬が得意なブラッドも、ジェイスンの腕前に一目置いているくらいだ。どこへ向かうとも告げずに、サラが闇雲に走らせても、彼ならどこまででもついてきてくれる。彼を振り切らないよう、加減して走る必要はなかった。今のサラには、煩わしさを全て投げ捨てて、無心に風と一体になることが必要だった。


* * *

「いい子ね」

 小川に顔を突っ込んで水をごくごくと飲むサリーの首を軽く撫でてやる。いつもジェイスンが丁寧に手入れをしてくれているのだろう、艶やかな毛並みはビロードのようで、いつまでも触っていたくなる。

 ウォーリンガムハウスを飛び出して、ひとしきり広大な敷地内を走った後で、サラとジェイスンは休憩を取っていた。
 敷地の境界を流れる小川の岸に生えた、こんもりとした木立の陰で、サラは草の上に敷物を敷いて、座っていた。小川の水量はそれほど多くないけれど、水は大変澄んでいて、底の石をひとつひとつ数えることができるほどだ。小川の向こう岸には小道と、草がびっしり生えた丘陵地帯が続いている。川幅は馬2頭分もないから、馬に乗ったまま助走をつけて飛べば、飛び越せそうだ。しかしウォーリンガムハウスの敷地から出るのは憚られて、川のこちら側までで我慢することにした。

 2頭の馬は小川の水を好きなだけ飲めるように、ある程度の距離を持って岸辺の木に繋がれていた。ジェイスンは自分が腰を下ろす間も惜しいようで、2頭の馬の様子を確認したり、甲斐甲斐しくサラの世話を焼いたり、ひとところにじっとせずに動き回っている。 風の化身になったかのように馬を走らせている間は暑かったが、空を見上げると薄い雲が太陽を覆い隠している今、川面をそよぐ風に吹かれていると、火照った体が徐々に冷やされていくようで心地よい。

 乗馬服に着替えるのに、それほど時間がかかったようには思わなかったが、あの短い時間でジェイスンはレモネードまで調達してきていたのには驚いた。言葉が少ないサラの命令は不意打ちのようなものだったが、彼はきちんと理解し、執事にサラと外出する旨を伝え、馬の準備をし、飲み物や敷物を用意していたのだ。黙々と働くジェイスンに、サラはいくらかきまり悪そうに礼を言った。

「ありがとう、ジェイ。忙しかったでしょうに、急に付き合わせてしまってごめんなさい」
 無我夢中で走った後で、冷たいレモネードは体に染み込むように美味しかった。大切そうにちびちびとレモネードを口にするサラを見て、ジェイスンはふっと表情を綻ばせた。

「いえ。すっきりされたようで、何よりです」
「……そんなに酷い顔をしていたかしら」
 罰が悪くなって俯いたサラに、ジェイスンはそれ以上何も言わなかったけれど、肯定の気配だけは伝わってくる。ますます居心地が悪くなって体を縮めたサラに、ジェイスンがいつもと変わらない、淡々とした声音で告げた。

「環境が変わってから、ずっと緊張なさっていたでしょうから。初めての場所で、ご苦労も多いと思いますよ。誰だって難しいでしょう。お嬢様は、ご立派だったと思いますよ」
 二人きりの場所で気が緩んだのか、ジェイスンの口から【お嬢様】という呼称が出てきたけれど、サラはそれをこの場で咎めようとは思わなかった。ウィルの【奥様】がもたらす重さを、今だけは忘れたかった。

「もしあまりにお嬢様が思いつめてらっしゃるようなら、直ちにハンプシャーにお連れしろと、アーサー様から命じられています」
「え?お兄様がそんなことを?」

 思いもよらない言葉にサラは目を丸くして、それから、小さく笑みを零した。強張ったものではなく、彼女らしい自然なそれを目にして、ジェイスンは表情には出さず、内心安堵する。

「それなら、わたくしはまだここで、力を尽くすしかないわね。あまりに早く逃げ帰ってしまったら、旦那様の面目がないもの」
 もちろんわたくしの面目もね、と呟くサラに、ジェイスンはいつになく真剣な眼差しを向けて口を開いた。

「もし息苦しくなったら、いえ、そうなる前に、お声をかけてください。またサリーと走れば、気持ちも晴れるでしょう。俺はいつだってお嬢様のお供をしますから」
 朴訥で口数の少ない彼が珍しく必死に言い募る姿に、サラは目を瞠った。ジェイスンの全身から、サラを案じる気持ちが立ち上っていて、それがありがたくて、表情が緩む。やわらかい笑顔を見せて、サラは忠実な従僕に「ありがとう」と呟いた。

「あなたは本当によくできた従者だわ。このままわたくしの従者でいるよりも、本当は兄様の従者になった方が、あなたのためになるのでしょうね。あなたの努力と能力に見合った評価をしてくださるはずですもの」

 ウィロビー伯爵であるウィル直属というのならまだしも、ジェイスンはサラ付きだ。表立って活躍する機会は少ない。いつも尽くしてくれる彼に、相応しい評価をとの思いから口にしたのだが、ジェイスンはぴたりと動きを止めて、サラを見つめたまま固まってしまった。黒曜石のような双眸に揺らめくのは、戸惑いと恐れだろうか。首を傾げるサラに、ジェイスンは固い声できっぱりと拒否を示した。

「いいえ」
「ジェイ?」
「お嬢様のお側に仕えることだけが、俺の望みです。それ以外は何も望みません」

 思いつめたようにうなだれて肩を細かく震わせる彼は、まるでしょんぼり途方に暮れた少年のように見えた。軽率なことを口にしてしまったと、サラがたちまち罪悪感でいっぱいになるくらいに、彼の大きな体が小さく見える。

「ジェイ、ごめんなさい」
 彼を傷つけるつもりはない。すぐさま謝罪を口にして、サラは言葉を続けた。
「あなたが側にいてくれて、本当に嬉しいわ。あなたはわたくしのことをよくわかっているから、安心するの。これからも、頼りにしているわね」
 これからも手放すつもりはないと言外に告げると、ジェイスンは弾かれたように顔を上げて、安堵の滲む微笑を浮かべた。いつも感情が安定していて、喜怒哀楽を表すことの少ない彼も、サラと一緒の時は素直に感情を吐露する。それが何を意味しているのか、自分のことで手いっぱいのサラはまだ、ジェイスンのことにまで踏み込んで考えを及ぼすことはできなかった。

「はい、お嬢様」
 嬉しそうに頷くジェイスンの表情が、不意にがらりと変わった。表情が掻き消えて、警戒の色を浮かべてサラの背後へと視線を走らせる。
「ジェイ?」

 どうしたの、と尋ねようとして、漸くサラは、こちらへと近づく蹄の音に気づいた。ゆっくり近づくそれはサラの背後で途切れ、小川のせせらぎに混じって低い声が鼓膜を震わせる。

「おや、そこにいらっしゃるのは、もしやウィロビー伯爵夫人ですか?」
 嫌味を感じさせない、人好きのする友好的な話し方に、サラの体の力が僅かに抜ける。初対面の彼の声には、教養があり、礼儀を心得ていることが感じられた。農夫ではなく、この辺りの貴族やジェントリーだろう。

 こちらも失礼にならないよう、サラは静かに振り返り、声の主に向き直る。相手の様子を探りながら、表向きには友好的な笑みを口元に浮かべて振り返った先、小川の向こう岸には、馬に跨った一人の紳士がいた。ウィルやブラッドよりまだ年若く見える、シルクハットを被った彼は身軽に地面へと降り立ち、帽子を手に取り、優雅に礼をした。彼の金髪が、ちょうど雲の切れ間から顔を出した太陽にきらりと揺らめいた。

「はじめまして。隣人の、ローランド・デイヴィスと申します」

 顔を上げた彼の顔は、細く差し込む陽光に照らされてはっきりと見えた。瞳の色こそ違えど、あの肖像画の娘とよく似た面差しを見とめて、サラの背中に冷たいものが走る。不自然にならないよう口元の笑みだけは必死に維持し、両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、全身を駆け抜けた嫌な予感を堪えるのが精いっぱいだった。

2014/10/10up


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