第1章 思いがけない再会[1]

 軽やかに奏でられる音楽が、ホールいっぱいに流れていく。いよいよ社交シーズンが到来したという高揚感を味わうには、今宵は絶好の機会だった。

 煌くシャンデリアの下、笑いさざめく着飾った婦人たちが、老いも若きも、広いホールのそこここに色とりどりに咲き乱れていた。男性陣は挨拶を交わすと、そそくさと奥に据えられたカード室へ移動していく。
 若い男性たちはホールの中を行ったりきたり忙しく行き来し、お目当てのご婦人に話しかけ、ダンスの申し込みに躍起になっている。

 ホール中央には、パートナーを無事確保した男女が、頬を上気させて、寄せては返す波のように、輪を狭めたり広げたりしながら踊っていた。


 開始時刻に遅れて到着したフォード伯爵ブラッドレイ・ヒューズは、階段を上がりきってホールに足を踏み入れた途端、熱気が全身を包むのを感じた。以前にも味わった、社交シーズン独特の興奮だ。肌に馴染みのあるそれは、華やかな仮面の裏に様々なドラマを孕んだものだと、彼は知っていた。
 外はまだ2月初めの冷気で、コートがなければ歩けないほどなのに、このホールの中だけは、まるで初夏のようだ。

 ロンドン社交界でも屈指の実力者で、誰からも一目置かれているオルソープ公爵夫妻が開催する舞踏会は、ロンドン郊外の巨大な館を会場とし、昔ながらの社交界の華やかさを味わえる場として人気があった。
 先祖伝来の古い館は趣があり、この館の扉をくぐるのがデビューする令嬢と母親たち全ての憧れだといわれるほどだ。無論誰にでも招待状が送られるわけではなく、名家・名士といわれる人全てを網羅したこの催しに出席することは、社交界でのステータスになっている。

 規模も大きいこの舞踏会は、ロンドンの社交シーズン到来を告げるイベントにふさわしい。他にも幾つかの夜会が、1月から既に公爵夫妻に先駆けて開催されていたが、名実共に社交シーズンを封切るのは、このオルソープ公爵に他ならなかった。
 これから5月の終わりまで、連日連夜、様々な催しがロンドン各所で開催される。


 恭しく自分の名が読み上げられるのを背中に聞きながら、フォード伯爵はホールを素早く見渡して、探していた顔を発見した。並み居る人を避け、踊る人々をかわしながら斜めにホールを突っ切り、正面階段の左手下に据えられたソファを囲む人垣に近づいていく。
 居並ぶ長身の青年たちに遮られ、見えなかった人物が、やっと見える距離まで近づいたところで、あちらから声をかけられた。

「ブラッド、やっと着いたのね」

 二人がけのソファに収まった貴婦人に気安く言葉をかけられ、ブラッドは疲れの混じった笑顔を返した。長時間の商談と移動の影響で気だるい身体に鞭打って駆けつけた苦労も、義姉の輝くような笑顔を見れば、報われる気がする。

 今宵社交界へ正式にデビューする妹のサラも、兄夫婦と一緒に出かけたはずだったが、今はダンスに加わっているのだろう。エスコート役を引き受けたウィロビー伯爵は、兄と並んでソファの横に立っている。最初のダンスでサラの相手をするはずだったから、無事役目を終えて、他の紳士にパートナーを譲ったのだと察して、ブラッドはこの場で詳しく説明を求めたりはしなかった。

「商談が長引いてしまってね、少し遅刻した」

 義姉のベッキーに言い訳めいて呟き、ソファを守るように立つ兄と友人には目礼で簡単に挨拶を送ると、改めて、義姉の隣にある一人がけのソファに座っている老貴婦人へ、優雅に頭を下げた。
 このときばかりは疲れを見せるわけにいかず、この数年で身につけたとっておきの営業用スマイルを顔に貼り付けた。商談でも社交でも有効な、完璧な笑顔だ。

「公爵夫人、今宵は私までお招きいただき有難うございます。妹の晴れの場に立ち会うことができて、感謝しております」

 豪華な革張りのソファに埋もれるように座っている小柄な白髪の貴婦人は、今宵の主にふさわしく、鷹揚に頷いた。ゆったりとした頭の動きに合わせて、頭上に留めたティアラがきらきらと輝いた。

「やっと来てくれましたね、ブラッド。サラがデビューするなんて、年が経つのは何て早いのでしょうね。あなたのお父様があなた方兄弟を連れていらしたのが、昨日のことのように思えるのだけれどね」

 しんみりと言ってから、公爵夫人は湿り気のある言葉は、晴れの日には相応しくないと思い直したようだった。手にした扇をぱらりと開いて、からりと明るく話題を変えた。

「ところであなたが夜会の類に顔を出さなくなってから、多くのご婦人がお嘆きですよ。今宵はあなたが来てくれて、漸くわたくしの面目も立つというものだわ」

 それを聞いて、妻の傍らに立つバリー伯爵アーサー・ヒューズが、ブラッドに向かって片方の眉を上げてみせた。兄の茶々を受け流し、ブラッドは礼儀正しく目上の老婦人に話しかけたが、ソファの上で、バリー伯爵夫人が笑いを堪えるのが目の端に入った。

「光栄なお言葉ですが、盛大な場に顔を出すのは久しぶりですので、緊張していますよ。今の若い方々のことは、あまり知りませんので」

 この言葉は本当だった。かつては人並みに社交界の催しに参加し、様々な女性たちから熱い視線を送られたブラッドだったが、この数年はとんと顔を出さなくなっていた。軍隊に在籍していた間と、事業に関わるようになってからの数年間は、ごく親しい人々としか交わっていなかったのだ。

「まあ、あなたが緊張なんて」

 とても面白い冗談を聞いたとばかりに、老貴婦人が笑い声を上げる。社交界の中心にいる彼女は、ブラッドの名前が挙がったかつての噂話を、ひとつ残さず聞き及んでいた。そのほとんどは、やんごとない貴婦人たちとの恋に関する話だった。

 最初は恋愛に、その後は軍隊や事業で、数々の武勲を挙げたといわれている有能なフォード伯爵が、若い人に混じって緊張するなどあり得ない。

 それでも若い伯爵は、笑われるのは心外とばかりに肩を竦めた。

「本当ですよ。デビューしたての方から見れば、私なんて立派なオジサンでしょうからね」

 上流貴族の間でも発言力が強いとされる公爵夫人のご機嫌を伺うのは、取引先の大口顧客の機嫌を取るのと同じようなもので、ブラッドにとってはごく自然に口をついて出た社交辞令に過ぎなかった。本心に関係なく、こうした言葉は出てくるものだ。

 妹が世話になった礼にと、あとから思いついて取ってつけた台詞に、予想外の反応が返ってくるとは予想だにしていなかったのだ。

「昔なじみでもいれば、思い出話のひとつもできるのですがね」

「あら、それは丁度いいわ。あなたの古いお知り合いだと思うけれど、久しぶりにロンドンで出ていらした方がいるのよ」

 すかさず目を光らせた公爵夫人が、思わせぶりに扇を口元に当てた。

「今日はその方もお招きしているの。大叔母様と一緒にいらしているから、後であなたもご挨拶に行ってみるといいでしょう。その方の大叔母様は、わたくしと、あなたのおばあ様共通の友人なのよ」

 ほほほ、と笑い声を上げる公爵夫人の前で、ブラッドは、恐れ入ります、と一礼するのが精一杯だった。意味深な発言をされても心当たりはなかったが、ここは深く立ち入ることはせず、大人しく引き下がるのが得策だった。

 他のカップルが公爵夫人のもとへ近づいてくるのに気づいた兄が、妻を促して、素早く辞去の挨拶を招待主に送ったのは、絶妙のタイミングだった。何か更に言いたげだった公爵夫人も、新たに声をかけてきた中年カップルへ注意を逸らされて、それ以上ブラッドに言葉をかけてくることはなかった。

 正面階段を離れ、四人は壁際に点々と設置された休憩スペースへと移動した。踊り疲れた人が休めるように、また、踊らない人がおしゃべりできるようにと、大きな観葉植物を間仕切りとして、ホールの中央側と壁側に向かって背中合わせにソファや長椅子が置かれている。その一つへと、ブラッドの兄、バリー伯爵アーサー・ヒューズが妻の手を取って導き、すぐ後ろをブラッドとウィロビー伯爵ウィリアム・ナイトレイが連れ立って歩いた。

 ホールの内側を向いて長椅子のうち、空いていた手近なものへベッキーを腰掛けさせると、アーサーは横へ立ち、ブラッドと視線を合わせた。アーサー・ヒューズは、明るい金髪に緑の瞳を持つベッキーと、似合いの一対だった。

 兄弟は共に長身で黒髪だったが、瞳の色だけは違っていた。アーサーが持つ灰色の瞳は兄弟の父から、ブラッドが持つ濃い青色の瞳は兄弟の母から、それぞれ受け継いだものだった。その他は、兄弟の顔立ちはよく似ていた。三つ年上のアーサーは、口元と目尻に皺が刻まれるようになってきたが、それを除けば、ブラッドの顔そのものになる。


 細かい違いはあった。
 とりわけ目につくのが、アーサーの表情に浮かぶ穏やかさと、妻や子供を見る時に瞳に浮かぶ愛情の光であった。彼の口元に刻まれるのは自然な微笑みであるのに対し、若いブラッドの口角は、決まって皮肉げに上げられる。先ほど公爵夫人に見せたような完璧な微笑みと苦笑以外は、ブラッドが皮肉の色を交えずに笑うことなど、この数年絶えてない。

 それに加えて、自身を苛めているのではないかと勘ぐりたくなるほど、ここ数年の間、ブラッドの美しい眼の下には、疲労による皺が浮かんでいた。どんよりと濁ったようにクマが現れるのもしばしばだった。精神と身体を酷使しすぎている弟を、アーサーもベッキーも心から案じてきた。

 今日も明るい照明の下で確認すると、弟の顔には紛れもない疲れがあった。無理もない。どうしても日程をずらせなかった商談のため、ブリストルとロンドンを強行軍で往復したのだ。今年こそは何としてもブラッドに夏休みを取らせなければならないと固く決意し、アーサーは弟をねぎらった。

「仕事で忙しいところを、無理に時間を作らせてすまなかったな」

「元々サラのデビューは今日だと決まってたんだ、兄さんが気にすることはないよ。何としてもここに来ないと、後からサラに何を言われるかわかったもんじゃないしね」

「一生恨まれるところだったわよ」

 澄ました顔で、ベッキーが賛同する。この様子だと、サラはダンスが始まる土壇場まで、次兄の到着を気にしていたのだろう。

 父を既に亡くし、母は領地の一つで長く病気療養中となれば、サラがデビューを前にして不安を覚えるのは無理もない。兄たちは妹の心中を察し、ベッキーも母親代わりとして奮闘して、デビューに向けて心を砕いてきた。やはり晴れの日を、健康な残りの家族全員で立ち会いたいと、サラが願うより先に、兄たちは決めていた。

 祖父は健在とはいえ、もはやダンスの相手を務める年ではないし、デビュー時のエスコート役は、アーサーの学友であるウィロビー伯爵ウィリアムが引き受けた。ウィリアムがサラの側を離れ、ベッキーが軽口を叩く余裕があるということは、やはりサラのデビューは無事に済んだということなのだろう。

 馬車を急がせて駆けつけた甲斐があった。揺れ続ける馬車の中で眠り込んだ影響か、身体が強張っている。ブラッドが首を少し回すと、関節がボキリと鳴った。聞きつけたのだろう、アーサーの眉間に皺が寄る。

「次からはもう少し時間に余裕をみて、旅程を組むことにするよ」
「そうしてくれ」
 欠伸をかみ殺して反省の弁を述べると、アーサーがため息混じりに頷いた。ヒューズ兄弟より身長が低いウィリアムは、面白そうに兄弟のやり取りを見守っている。

 長身でがっしりした体型のアーサーと、長身で細身だが、筋肉がしっかりついているブラッドと比べると、中背で痩せ型のウィリアムは、どうしても体格が見劣りする。しかしサラは女性にしては長身だが、すらりとしているので、二人が並んだところはちょうど良い具合に釣り合いが取れていたはずだった。

 兄のイートン校時代の学友として、親しく交際してきたウィリアムは、ブラッドにとっても第二の兄のような存在だ。ヒューズ家と家族同然の付き合いがあり、気心の知れた友人に、ブラッドは今日の感想を求めた。

「ウィル、最初のダンスはサラと踊ったんだろう?」
 栗色の髪を揺らして頷き、ウィルは人好きのする笑顔を浮かべた。

「馬車を降りてから一曲目のダンスが終わるまで、粗相がないようにきちんとお相手したよ。サラは練習通り上手くやったよ。最初の予定では、二曲目はアーサーと踊る予定だったんだけど、彼女、すごい人気でね。ダンスカードはすぐに埋まったから、私はお役御免というわけさ」

 両手を挙げておどけてみせるウィルに、ベッキーとアーサーが忍び笑いを漏らした。彼が口にすると、どんな言葉も嫌味に聞こえないから不思議だ。

 栗色の髪に茶色の瞳を持つウィルは、ユーモアを解する誠実な人柄で、他人を構えさせない雰囲気を持っている。いずれはレイモンド侯爵家を継ぐ跡取りとして、常に分別と責任を説かれ、重圧のせいか、寡黙で厳しい表情ばかりしていたアーサーの心をほぐし、すぐに打ち解けて無二の親友となったウィル。交友関係も広く、彼の人脈は、ブラッドがフォード伯爵家を継いでから事業を成功させる上で、非常に役立った。彼が兄弟に与えた影響は大きいと、ブラッドは思っている。大切な妹のエスコート役を任せられるのも、彼を信頼すればこそである。

 ウィル自身は、アーサー同様に、若くして伯爵家を継いでいる。人好きのする性質ではあるが、若い伯爵としての彼は尊敬を受けており、普通ならば、ひよっこ共が敵う相手ではない。

 ヒューズ一家の信頼厚いエスコート役の騎士が退散を決め込むとは、よほど多くの若者がサラの相手を希望したのだろう。

 実際、兄の贔屓目を差し引いても、サラは美しい娘だ。鳶色の真っ直ぐな髪に、ブラッドそっくりの濃い青色の瞳は、どちらも母から受け継いだものだ。姿も兄たちに似てすらりとしており、やや細身ではあるが、社交界に既にデビューしている娘たちには決して劣らない。

 父親は不幸な事故で亡くなっているとはいえ、祖父はレイモンド侯爵、いずれその侯爵を継ぐ長兄はバリー伯爵、次兄はフォード伯爵という爵位を持つ。イギリスでも名門貴族の一つであるヒューズ家の一人娘で、兄たちは順調に領地を経営し、資産を増やしていると評判なのだ。持参金目当てのけしからん若者もいるだろう。無論、そのような輩は兄二人で叩き潰してやるつもりだが。

「で、兄さんの出番を奪っていった勇気のあるヤツは、どこの誰だ?」
「キンバリーだよ。私たちのところに真っ先に来て、申し込みをしてたな」
 ちょうど二曲目の今は、ダンスの輪のどこかで、ブラッドの学友のキンバリー卿がサラのパートナーを務めていることになる。キンバリー卿は、子爵家の長男で、家柄としては問題ない。しかし、本人に悪気はないのだが、少々軽薄な性格だ。その彼に妹のパートナー役を奪われたとあっては、アーサーが不機嫌になるのも仕方あるまい。

「お気の毒に」
 兄に呟くと、しかめっ面が返ってきた。

「言っておくが、お前の名前を書く余裕もなかったぞ。私が踊れないんだ、お前だってサラと踊るのは無理だ」
「そりゃ残念だ」

 商用が長引く場合に備えて、念のためアーサーとウィルには、サラのダンスカードにブラッドの名前も書き込んでおくよう頼んであった。特に曲を決めたわけではなく、後半のダンスなら何でもいいからというでたらめな指定で。最初のダンスのパートナーとなっておいて遅刻してしまうと、かわいそうにサラは壁の花ということになってしまう。

 ご婦人方はダンスカードを手に持ち、パートナーを務めたい男性は、そこに名前を書いていくのが決まりだ。一曲ごとに相手を変えるのが普通だから、ダンスカードがいっぱいになるということは、全曲それぞれに相手役が決まったということだ。

 妹の晴れの舞台でパートナーとなれないのは残念だったが、身体に漂う気だるさを思うと、休息できる方が今は有難かった。

(そうなると今夜は暇ってことだな)

 後でウィルを誘って、ビリヤード室に行ってみるのもいいかもしれない。誰かしら顔なじみがいるだろう。ぼんやりと思い巡らせたところで、ふと、先ほどの公爵夫人の台詞がブラッドの頭の中に甦ってきた。

「そういえば、久しぶりにロンドンに出てきた、古い知り合いって誰のことだ・・・?」

 何気なく漏らした呟きに、兄夫婦が素早く視線を交わしたのを、ブラッドは見逃さなかった。アーサーとベッキーには、心当たりがあるらしい。

「二人は知ってるのか?」
 確認すると、アーサーは視線を逸らし、ベッキーは果敢にも、笑顔で取り繕おうとした。

「いいえ、どなたのことだったのかしらね」
 いつもは恐れ気もなく真っ直ぐ見返してくる彼女だが、緑の眼差しはどこか宙を泳いでいる。アーサーは、会場のあらぬ方向を熱心に見つめていて、弟と視線を合わせようとはしない。もう一押しすれば吐くな、と当たりをつけて、ブラッドは敢えて義姉の名前をきちんと呼んだ。今度はやや強めに。

「レベッカ」
 こうなるとベッキーは弱い。困ったようにブラッドを見上げて、渋々口を開いた。
「公爵夫人が仰った、おばあ様と共通のご友人というのは、スタンレー子爵夫人のことよ。子爵夫人は、今夜、一人のご婦人を連れてきてらっしゃるの」

 スタンレー子爵夫人。

その名前が、心の奥底に封じ込めた記憶を、ぐらりと揺らした。何かがブラッドの頭の中で、警鐘を鳴らす。続く言葉を紡ぐベッキーの口の動きを、ブラッドは怖れを持って見守った。

「久しぶりにロンドンにいらしたのは、その方よ。今はリンズウッド伯爵夫人とおっしゃるの・・・・・・未亡人ですけどね。元は、ソフィア・エルディングというお名前で、アトレー男爵のご令嬢だった方よ」

 リンズウッド伯爵夫人。

 この数年、決して触れないように厳重に封印してきた記憶の鍵穴に、確かに鍵がおさまり、ゆっくりと回された。

 ソフィア・エルディング。アトレー男爵令嬢。

 鍵穴がカチリと開いた。途端に飛び出してくる記憶の断片は、まだあまりにも生々しくて、正視できるようなものではなかった。けれど、一度溢れ出した想い出は、とどまることなくブラッドの脳裏を通り抜けていく。

「一度、我が家のハウスパーティーにもご招待した方だったわね」

 レベッカの言葉が、どこか遠いところから聞こえてきた。ホールに流れているはずのオーケストラが奏でる音楽も、どこかへ消えていた。

「ほら」

 彼女の手が上がる。手袋に包まれた細い手には、扇が握られていた。閉じたままの扇が、このホールのどこか一点を確かに指し示した。

「あそこよ」

 眉間に皺を寄せて探るようにこちらを見ているアーサーも、心配そうに見つめてくるウィルも、ブラッドの視界には入っていなかった。

 のろのろと振り向いて、扇が示す場所を探す。色とりどりに着飾った人々も、ただのモノクロにしかブラッドの目には映らない。音もなく、白と黒しかない寒々とした世界の中で、ただ一人、お目当ての人物だけが、生き生きとした色彩を伴って飛び込んできた。記憶に散らばる面影と、何ら変わらない姿のままで。

 ソフィア。

 甘い疼きと、血を流し続ける痛みを伴うその名を、心の中で、ブラッドは呟いた。

2009/01/11up
2009/01/12改訂
2010/07/06改訂

時のかけら2009 藤 ともみ

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