終章 霧は晴れ、そして・・・

   教会の鐘が、澄んだ音を響かせながら、ハンプシャーの野を渡っていく。
 英国の冬にしては珍しく、よく晴れた空だ。森の香りを乗せてやってくる風は、さすがに冷たく頬を打ちつけてくるが、今日ばかりはいつもよりも、幾らか暖かさを帯びているように感じられる。
 バリー伯爵家の領内、ゴールド・マナーにほど近いこじんまりとした教会は、朝から賑やかなざわめきに包まれていた。

 教会の入り口で、ブラッドは緊張の混じった面持ちで、次々に到着する招待客たちから、祝福の言葉を受け取っていた。濃いグレーの燕尾服に身を包み、白いネクタイを締めた彼は、落ち着かない様子で、背後の扉をちらりと見遣った。付属の控え室では、ソフィアが最後の身支度をしているはずだ。

「ブラッド」
 妻と並んで、アーサーが弟のもとへとやってきた。それぞれが幼い娘と息子の手を引いている。晴れ着に身を包んだジェフリーとレイチェルは、期待と緊張に瞳を輝かせている。
「お前がそんなに緊張しているところを見るのは、初めてだよ」
 いつもの生真面目な表情はどこへやら、アーサーがニヤリと笑って、弟の肩をポンと叩いた。苦虫を噛んだようなブラッドに、追い討ちをかけるように、アーサーの後ろから声がかかる。
「落ち着かないのも今のうちだけだ。直に済むさ」
 慰めるように言って、もう一方の肩に手をかけたケヴィンの表情は真面目くさっているが、眼差しには愉快そうな光が浮かんでいる。ブラッドが多少睨んだところで、アーサーにしてもケヴィンにしても、遠慮するということをしない間柄だ。

「まるで、見世物になった気分だよ」
 諦めて深々と息を吐くと、ケヴィンの横で、ウィルが気の毒そうな表情を浮かべるのが視界に入った。ブラッドにしろ、ウィルにしろ、結婚の経験がないから、既婚者たちをやり込める言葉を持っていないのだ。まあ、今日が終わってしまえば、ブラッドも晴れて既婚者の仲間入りを果たす。そうすると、ウィルの結婚式の際には、余裕を持って花婿をからかう側に回れるわけだ。仕方ない、と、どこか投げやりに思ったところで、ベッキーがブラッドの気持ちを引き立てるように微笑み、子供たちを見下ろした。

「あなたもソフィアも、とても優しいのね。ジェフにリング・ボーイを、レイに付き添い娘をやらせてくれるなんて。子供たちは興奮して、昨夜はなかなか寝つけなかったわ」
「グレースもレイと一緒に付き添いを務めるし、サラも花嫁の付き添い娘だ。家族皆が、いい思い出を作れるな」
 何気なくアーサーが漏らした言葉が、しみじみとした感慨をブラッドの胸に引き起こした。家族。今日からソフィアとグレースが、正式にブラッドの家族となるのだ。こみ上げる喜びを噛みしめながら顔を上げると、ちょうどサラに連れられて、グレースがやってきたところだった。

「父さま!」
 無邪気に叫んで、グレースが走り寄ってくるのを、ブラッドは笑顔で抱きとめた。幼子の笑い声が、鐘の音に混じって響く。ブラッドが父親になることを告げられても、グレースはちっとも動揺せず、むしろ喜んで受け容れた。黒髪に灰青がかった幼女とブラッドを比べて眺めれば、親しい友人たちや身内は何かを察したに違いなかったが、誰も不必要なことは口にしなかった。ソフィアとグレースの母子は、喜びをもって一族に迎え入れられた。

「大おじいさまと大おばあさまに、サラとご挨拶してきたわ。これからレイも一緒に、母さまのところへ行くの」
 娘の言葉に、ブラッドが問いかけるような眼差しを向けると、サラは心配ないという風に頷いて見せた。突然できた姪だが、妹はグレースを、ジェフとレイに負けないぐらいに可愛がってくれている。グレースの方も、新しい伯父夫婦や叔母、曽祖父母に、あっさりと馴染んでしまった。

 ウィッカムの魔手からソフィアを奪い返し、一連の事件が法的な処理を終えてから、ブラッドとソフィアは正式に婚約を発表した。秋の終わり、ヨークシャーの荒れ野に、雪混じりの風が吹き荒ぶ季節になっていた。
 男爵の凶行は衝撃をもって社交界に受け止められたが、ボウ・ストリートを始めとする司法と、ブラッドやアーサーが手を尽くして、世間に対しては簡潔に伝えられただけだった。男爵が伯爵未亡人に横恋慕し、令嬢や未亡人を襲ったものの、友人たちの手で阻止されたと。

 キャサリン・テイラーは、ロンドンで追っ手がかかった時には、既に大西洋上へと脱出した後だった。ヨークシャーを出てその足で、抜かりなく洋上の人となったらしい。もちろん両親も共に帰国した。彼女は2度と英国の土を踏むことはないだろう。大西洋を渡ることのないよう、アメリカ本土でも監視をつけることをケヴィンが提案し、手を打ってくれた。彼女が事件に関わっていたことは、こうして闇に葬られた。

 余計な醜聞が広がる前に、フォード伯爵とリンズウッド伯爵未亡人の婚約というニュースが、社交界の注目を独占した。名門貴族と、貞淑で知られる未亡人の結婚は、好意的に受け容れられた。
 事件の後、ブラッドはロンドンに戻り、次に荒れ野へやってきた時には、結婚特別許可証を手に入れていて、ソフィアを驚かせた。これから冬になるし、結婚は気候の良くなる春でも良いのではないかと考えていたのだが、彼の情熱に負け、早々にリンズウッド・パークを出立し、ハンプシャーのバリー伯爵夫妻のもとへ身を寄せることになった。そしてクリスマスを目前にした冬の日、夫婦の誓いを交わすことになったのだ。

 結婚式の準備は、ベッキーが心を込めて采配を行った。バリー伯爵も、弟の晴れの日を祝福すべく、心を砕いてくれた。兄夫婦は、ソフィアを取り戻して以来、感情を再び豊かに表現し、よく笑うようになった弟の変化を、心底喜んで受け止めた。
 唯一残念だったのは、ヒューズ兄妹の母親、前バリー伯爵夫人のことだ。長く患ったきりの彼女の具合は思わしくなく、見舞ったソフィアを温かく迎え入れたものの、式へ参加できないことを残念がっていた。出席できない代わりにと、彼女がソフィアに贈ったのは、バリー伯爵家に嫁ぐ時に身につけたというティアラだった。美しい宝石の煌くそれを、今日ソフィアは、初めて身につけることになっている。

 兄妹の祖父母で、一族の頂点に立つレイモンド侯爵夫妻は、孫息子の結婚相手が連れ子のいる未亡人と知っても、反対は示さなかった。厳格な祖父にしては予想外に柔軟な対応で、必要とあればソフィアとの経緯を正直に打ち明ける覚悟をしていたブラッドは、拍子抜けした。侯爵夫人は、ソフィアの大叔母と親しい友人だ。ソフィアとも面識があったし、彼女が夫に働きかけてくれたのかもしれない。

 ヨークシャーでソフィアを支えてくれた人々、ウェルズ大佐親子や、マクニール卿夫妻も、祝福に駆けつけてくれた。アンはハガード大尉の隣で、幸せいっぱいの笑顔を浮かべている。ブラッドに触発されたのか、大尉が先日、婚約を申し込み、大佐もそれを許可したのだ。

「そろそろ行きましょう、グレース、レイ」
 サラに促され、幼い令嬢2人は、年若い叔母とそれぞれ手を繋いで、控え室の方へと歩いていった。サラにはまだ特定の恋人はいないようだ。社交界デビュー1年目は、様々な男性に言い寄られて終わったが、彼女の心を強く揺さぶるような相手は見つからなかったらしい。しかし妹も、魅力的な女性に成長している。近いうちに、素晴らしい伴侶が見つかるだろう。

 周囲を見回すと、誰もが幸せに溢れた表情を浮かべている。
 爵位のない伯爵令息と、男爵令嬢だった頃と比べれば、今の2人には、障害はなかった。互いに、相手に相応しい伴侶であることを、周囲に納得させられるようになったからだろう。いよいよこれから、唯一の伴侶と、夫婦の誓いを交わすのだ。それを終えたら、ゴールド・マナーに場所を移し、パーティーを開くことになっている。
 祝宴は夜まで続く。それが終われば、正式な夫婦となって初めての夜が2人を待っている。早く夜になればいい。ブラッドは、気を緩めると口をついて出そうになるため息を、押し殺した。


 エミリー大叔母が、早くも涙をハンカチで拭っている。ソフィアは明るく励ますように微笑みかけた。
「大叔母様、まだお式はこれからよ」
「あなたのその姿を見れば、イザベルもきっと嬉し泣きをしますよ。良かったわ、本当に――」
 亡き母親の名前を持ち出され、ソフィアは大叔母の骨ばった身体を、優しく抱きしめた。母の死後、ずっと親身に気を配ってくれた大叔母がいなかったら、どうなっていたか知れない。お節介な老女に、限りない愛情を感じて、ソフィアは皺のよった頬にそっとキスを落とした。
「全ては大叔母様のおかげよ。大叔母様がわたくしを社交界にデビューさせて下さらなければ、ブラッドと逢うこともなかったでしょう」
「伯爵が、あの頃からあなたを想って下さっていたなんてねぇ」
 エミリー大叔母が、盛大に鼻をすすり上げる。ブラッドが長い間の恋を実らせてソフィアを娶るのだと聞かされてから、すっかり感動しているのだ。
 大叔母の言葉に対して、ソフィアは控え目に微笑んだ。

 想い合う2人がすれ違うきっかけになった、紛失されたソフィアの手紙。確かにブラッドの書斎に残してきたというソフィアの主張を受けて、ロンドンへ戻った後、ブラッドはゴールド・マナーの執事に問合せをしたそうだ。今更そこまでしなくてもとソフィアは思ったが、そこでわかったのは、意外な人物の介入だった。
「どうやら、君が私の書斎に入ったところを、レディ・アイリーンが見ていたらしい」
 結婚特別許可証を携えて荒れ野へ戻ってきたブラッドは、そう告げた。予想外の人物の名前が出て、ソフィアは驚いたが、執事がはっきりと覚えていたらしい。その日、レディ・アイリーンが書斎の辺りをウロウロしており、手紙らしきものを持って、廊下を歩いていくのを。他のメイドが、彼女が部屋で何やら燃やしているのを覚えていたそうだから、間違いないだろう。
 けれど、今更レディ・アイリーンを責める気持ちは、ソフィアにはなかった。苦しい時期もあったけれど、再びブラッドと愛を確かめることができたのだ。

「真実の愛情が実を結ぶのは、素晴らしいことだわ」
 そう言って、親しみを込めてソフィアを抱擁したのは、ウィニーだった。彼女のお腹はふっくらと丸く膨らんでいる。まだそれほど目立たないが、小さな命は確実に育まれている。
「身体の調子はどう?」
 親友の頬に口づけを返し、ソフィアは心配そうに尋ねた。冬の教会は冷える。礼拝堂の隅にはストーブを置き、この控え室の暖炉には火を灯しているが、妊婦には冷えは良くない。式を終えれば館に戻るから、祝宴から参加したらどうかと打診したが、ウィニーにはきっぱりと拒否された。せっかくの花嫁姿を、夫婦の誓いを、是非この目で見、立ち会いたいと強く望んだのだ。
「大丈夫よ。ドレスの下には色々と厚着をしているから、冷え対策は完璧よ」
 にっこりと花のように微笑むウィニーは、ソフィアの再婚を、我がことのように喜んでくれた。身ごもってからというもの、ウィニーが放つ艶やかな美しさに磨きがかかったようだ。身重の身体を押して、ベッキーとサラを手伝い、色々と祝宴の準備にも加わってくれたらしい。
「あなたの花嫁姿を見れば、伯爵はきっと、感激するわ。言葉もないわよ」
 ウィニーが自信満々に言い放つ。ソフィアの花嫁衣裳は、ベッキーとウィニーとサラが、吟味に吟味を重ねて、決断したものだった。ソフィアが口を出す隙もなかったが、それでも、真っ白なドレスと淡雪のようなヴェールは非の打ち所がなく、満足のいくものだった。

「母さま、きれいね」
 扉が開いて、グレースが走り寄ってくる。後に続くレイチェルも、感激に瞳を輝かせている。2人のドレスはおそろいで、やはり女性陣が吟味の上であつらえたものだ。子供たちの後から入ってきたサラが、「そろそろ時間よ」と声をかけた。次兄譲りの真っ青な瞳を細め、彼女はソフィアに微笑んだ。
「素晴らしい出来映えよ。こんなに綺麗な花嫁で、兄も鼻が高いわ」
「あなたも素敵よ、サラ」
 鳶色の髪に豊かなカールをかけ、肩に垂らしたサラは、瑞々しい若さと生命力に溢れている。明るい中に大人びた落ち着きを持ち、思慮深い彼女を、ソフィアは短い時間の中で、すっかり好きになっていた。サラも、屈託なくソフィアを慕ってくれる。2人は姉妹として、うまくやっていけそうだった。
 義姉の言葉に小さく肩を竦めてから、サラは「行きましょう」と促した。  礼拝堂は、招待客で埋め尽くされていた。扉を開けて入り口に立つと、祭壇の前に佇むブラッドの姿が見えた。正装で、堂々としている彼の様子は、信じがたいほど魅力的だ。サファイアの瞳が、こちらをじっと見守っている。
 花嫁のエスコートは、ウェルズ大佐が引き受けてくれた。実の父親は、ブラッドが招待状を出したにも関わらず、欠席の連絡を素っ気無く寄こしただけだった。ブラッドは憤慨したが、ソフィアはもはや気にしなかった。血の繋がった父親とは断絶してしまったけれど、ブラッドとの結婚によって、新たに幾人もの魅力的な家族ができるのだ。

 家族席から、ベッキーとアーサーが見守っている。エミリー大叔母は早くも、大粒の涙を堪えるのに懸命で、ハンカチを握り締めている。最前列にはレイモンド侯爵夫妻が、老齢を押して、ハンプシャーまで駆けつけてくれた。

 参列した人々に見守られて、ソフィアはバージンロードの端まで、1歩ずつゆっくりと歩いていった。長い道のりだった。遠回りをしたし、随分と哀しい想いも味わったけれど、結局ソフィアの道は、ブラッドへと続いていたのだ。1度は大きく離れながらも、こうして再び交わった。
 バージンロードの終わりまで来ると、牧師の合図で、ウェルズ大佐の手が離れていく。代わりにソフィアの手を取ったのは、ブラッドだった。あつらえたかのように、2人の手はぴたりと収まった。
 ヴェール越しに見上げると、熱を帯びた視線とぶつかる。ソフィアも想いのたけを眼差しに乗せて、彼を見つめた。牧師に促され、2人は祭壇へと向き直る。やっと、あるべき場所へ帰ってきた。互いの心に浮かぶのは、唯ひとつ、その想いだけだった。相手を想う気持ちに迷いはなく、相手が想う気持ちを疑う余地はない。こころにあるのは、お互いのことだけ。言葉にしなくても、2人を包む空気が雄弁に伝えてくる。
 もう2度と、相手のこころを見失うことはない。霧の中に迷い込むことはあっても、こころの在りかを見誤ることはない。
 互いを強く信じられる。その幸福を噛みしめながら、神の家の厳粛な雰囲気の中で、2人は牧師の言葉に耳を傾け、誓いの言葉を交わした。苦味を消すパセリ、忍耐の象徴であるセージ、貞節や愛、思い出を表すローズマリー、そして勇気の象徴であるタイム。真実の愛の成就に必要なものを、2人は取り戻した。そうして2度と、失うことはなかった。

2009/10/07up

時のかけら2009 藤 ともみ

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