こころの鍵を探して

 彼女の影[1]

 ようやく自室に一人きりとなり、サラは大きなため息を吐いた。カーテンを開けたままの窓の外には、夜の帳に黒く沈んだ木々が館を取り巻いている。

 昨夜から盛りだくさんの一日だったが、これでやっと休める。今朝から、いや、昨夜から気を張り続け、さすがに疲労困憊だ。就寝準備は自分でするからと、メイドも下がらせて他人の気配を遠ざけると、全身のだるさが一気に襲いかかってくるのを感じる。緊張が途端に緩んだせいだろうか。

 もうあとは、寝るだけだ。

 いつもてきぱきと動くサラからは程遠く、のろのろとドレスから夜着に着替えて、鏡台の前に座り、簡単に結っていた髪を解いて、ゆっくりと梳いた。先ほどドレスを脱いだ時に、いつもは何とも感じない布の塊をやけに重く感じた。これも、体とこころが疲れている証拠だろう。

 化粧でごまかそうとしてもごまかしきれなかったクマは、いよいよどっしりと居座って、色濃く存在を主張している。鏡で確かめて、サラはいささか乱暴にヘアブラシを鏡台へ戻した。クマがこんなにもどす黒く居座る顔は、みっともないくらいに疲れていて、実年齢よりもはるかに老けて見える。まるで老女のようで、こんな状態でウィルの隣に立つのは、サラがウィルに釣り合わないと、自分自身が声高に喧伝しているかのようだ。今夜からは睡眠をしっかり取って、今日のような醜態を晒さないように気をつけなくては、と、サラは自分自身を戒めた。ここ、ウォーリンガムハウスはウィロビー伯爵家のカントリーハウスだ。周辺には、昔からウィルをよく知る人々が住んでいる。彼らに、ウィルに釣り合わない妻だと思われたくなかった。
 椅子から立ち上がるのも億劫だが、すぐそこにあるベッドが魅力的にサラを呼んでいる。四肢を叱咤して立ち上がり、サイドテーブルの上に置かれた燭台の火を消して、ベッドへどさりと仰向けに倒れ込んだ。行儀が悪いが、手を伸ばしてスリッパを脱ぎ捨てる。

 長かったわ。でも、ウォーリンガムハウスが素敵なところで、よかった。

 窓から入ってくる月光が室内を白く照らしているから、明かりを消しても部屋がよく見渡せる。背中に感じる布団はふかふかで、日向の匂いと、ラヴェンダーの香りがふわりと鼻をくすぐる。枕も綺麗に膨らんでいて、きっと頭を乗せれば、そのまま埋もれてしまうくらいにふかふかだろう。
 快適な寝台の感触を楽しみながら、サラはぼんやりと室内を眺めた。午後に到着して、まずは旅装を解くためにこの部屋に案内されたけれど、その時はまだ、じっくり部屋を観察する気持ちの余裕がなかった。この部屋が、これからサラの部屋なのだ。

 ウォーリンガムハウスの東翼、日当たりも眺めも良い南東の部屋が、サラの部屋となった。玄関ホールで使用人たちの歓迎を受け、簡単に言葉をかけた後、サラはこの部屋に通された。案内してくれたのは、一足先に到着していたハビシャム夫人で、彼女によると、ここは代々のウィロビー伯爵夫人が使用する部屋らしい。広々とした部屋には、ベッドと鏡台、ソファセット、机と椅子が、それぞれ適度な距離を取って置かれ、バスルームと小さな衣裳部屋が続いている。どの家具も女性が好みそうな、華奢な造りで、流線型のフォルムが美しい。窓からは正面の車寄せや、東側の庭園、その向こうの温室の屋根が見渡せた。

 今改めて部屋を眺めると、天井にも繊細な装飾が施され、女性らしい柔らかな曲線の明かりが吊り下げられている。壁紙やカーペット、カーテンは濃い青で統一されている。ハビシャム夫人は、「不便なところがあれば何なりと仰ってください」と言っていたが、レイノルズ館のつつましい生活に慣れたサラが一目見て、不便だと感じるところはどこにもない。窓も家具もよく磨かれ、リネンは皺一つなく、部屋の空気もよく入れ替えたのだろう、埃っぽさが全くないので快適だ。

 ハビシャム夫人は、彼女と共に部屋についてきたメイドを二人、紹介してくれた。一人はメアリ、もう一人はジェーンで、サラの身の回りの世話を今後担当するらしい。メアリはサラより年上の既婚女性で、落ち着いた雰囲気の、何事もそつなくこなすタイプの女性だということが見て取れた。ジェーンはサラより若く、未婚で、おしゃべり好きで明るい印象だが、まだ少し仕事が粗そうな印象だ。とはいえ、伯爵夫人にしっかり仕えようという意欲は感じられるし、これから少しずつ堅実に仕事をしていけるようになればいい。髪を結うのが得意だと言っていたので、早速明日の朝、任せてみたいと思っている。

 この部屋には、廊下に通じるドア、バスルーム、衣装部屋に通じるドアの他に、もう一つ、ドアがあった。まだそのドアノブに触れてはいないが、そのドアの向こうは、伯爵の私室だということだ。ハビシャム夫人によると、この部屋同様、寝室兼個人の居間になっているらしい。このドアは、伯爵の部屋と伯爵夫人の部屋、どちらの側からも鍵がかけられるようになっているが、先代夫婦が存命の時は一度も鍵をかけなかったという。

 ハビシャム夫人がサラの着替えをメイド二人に任せて退室した後、サラの世話をしながら、主にジェーンが色々な情報を提供してくれた。綺麗なものが好きだという彼女は、サラのドレスや宝飾品一つ一つに驚き、感激し、メアリから慎重に扱うよう小言を言われながらきちんと整理して、その傍ら、この部屋の調度についても話してくれた。
 メアリもジェーンも、この近くの町の出身なので、ウィロビー伯爵家の新しい奥様については興味津々だったようだ。サラとウィルの結婚が決まると、途端にこの屋敷の改装指示が執事から出され、近辺の職人総出で作業をしたのだという。設備も古びているからと、水回りなど全て一新したそうだ。そのおかげで、今やウォーリンガムハウスはこの辺りで一番最新式の屋敷になったのだと、ジェーンが得意げに胸を張っていた。
 このサラの部屋も、ウィルの母が使用してから誰も使っていなかったので、設備を新しくし、ソファなどは入れ替えたという。ただ、鏡台や机、ベッドは、少し手直しをしただけで、買い替えなかったそうだ。

「代々の伯爵夫人がお使いになっていたベッドですしね。マットレスやシーツを全て新しくして、天蓋は仰々しいので取ってしまいましたけど、伯爵様がお生まれになったのも、このベッドの上だそうですよ」
「まあ。それは光栄ね。とても大切に使いこまれてきたのがわかる家具ですもの、わたくしも大切に使うわ」

 ジェーンの話を聞いて、サラが嬉しそうに返すと、ジェーンの赤い頬は更に赤くなった。サラを着替えさせてしまい、メアリとジェーンは、ドレスや装飾品を丁寧に確認してしまっているところだった。サラはソファに腰を下ろして、二人の仕事の様子を見守りつつ、メアリが淹れてくれた紅茶を飲みながら、ジェーンのおしゃべりを聞いていた。ジェーンは、自分の髪の色と同じように頬を真っ赤にしながら、嬉しそうに話を続けた。

「この辺りのお屋敷の中で、ここのお屋敷が一番綺麗だって、皆様仰っていますよ。もちろん、古いところも色々ありますけどね、執事のパーカーさんも、若執事のサイラスさんも、それは伯爵家の伝統で、味だって言うんですよね。あ、奥様、改修のお金の工面が大変だとか、そういう心配はないんですよ。先代様も、堅実な経営をなさってたって、パーカーさんが言ってますしね。実際、八年ぐらい前に、一部を少し改装したんですよ。だから今回のは、その続きです。このお部屋も、前は薄紫色が基調だったんですけど、今回は全部綺麗な青にして、バスルームや衣裳部屋まで統一して、新しくしましたからね。お部屋の印象ががらりと変わりましたよ。何といっても……」
「ジェーン、おしゃべりはそのくらいにして。ほら、手が怠けているわよ」

 ジェーンの長台詞を、見るに見かねたのだろう、それまで黙って仕事をしていたメアリが遮った。
「時計を見てごらんなさい。そろそろ奥様を、居間にご案内しなくては。奥様、よろしいですか」
 そのままメアリに誘導され、階下の居間に降りてウィルと合流し、それから更に、パーカーの案内で屋敷内を見て回った。残念ながらジェーンの話は途中になってしまったけれど、随分よく話すものだと、サラは感心していた。次から次へと言葉が出てくるから、実に愉快だ。でもメアリが注意したように、時計を気にしていなくてはならないけれど、と独り言ちて、ふとサラの中で、何かが引っかかった。

 ジェーンは、この屋敷の一部を八年ほど前に一部改装したと言っていたけれど、なぜ、今回改めて改装したのだろう。水回りなどの設備はともかく、部屋の内装は、八年程度ではそれほど傷まないはずだ。

 それに、と、屋敷を案内された時に見たウィルの両親の肖像画を思い出した。ウィルの父親の色彩は息子とそっくり同じだが、息子の顔立ちは母親とよく似ていた。優しげな瞳は緑で、髪は見事なマホガニー色だった。
 この部屋の以前の壁紙が、緑だったのなら、前伯爵夫人の瞳に合わせたのだとわかるのだが、なぜ薄紫だったのだろう。伯爵夫人の好んだ色だったのだろうか。ラヴェンダーの花を好んだのだろうか。晩夏、東の庭の一画ではラヴェンダーの花が咲き誇ってとてもきれいだとパーカーも言っていたから。

 何か引っかかりを感じるけれど、それ以上何かを突き詰めて考えるのは、今のサラには難しかった。これ以上、睡魔の誘惑には抗いきれない。布団の中に潜り込むのが精いっぱいで、温もりに包まれたと感じたのを最後に、サラは深い眠りに落ちていった。


* * *

 ウィロビー伯爵夫妻がウォーリンガムハウスに着いてから、数日が過ぎた。

 ウィルは不在中に溜まった領地運営に関する仕事に追われているようで、毎日執事や領地運営を代行させていた者たちと顔を突き合わせ、日中は外出することも多かった。
 忙しそうにしている彼を煩わせないように、サラは、ハビシャム夫人たちと、屋敷内の細々したことを采配したり、ウィロビー伯爵家について学んだりしていた。屋敷の図書室には、この土地の歴史や地理、伯爵家の年代記など様々な資料があり、サラはそれを自由に出入りして読み、疑問点をパーカーやサイラスに聞いて、熱心に勉強していた。長らく女主人不在だった屋敷には、女性ならではの視点で手を入れるところも色々と見つかり、サラも充実した毎日を過ごしている。
 屋敷内を毎日積極的に動き回り、隅々まで顔を出して、普段なかなか奥様と接する機会のない使用人たちにも気さくに声をかけ、なるべく早く全員の顔と名前を覚えようと努力していた。そうしたサラの姿勢は、使用人たちには好意的に迎え入れられている。

 使用人たちと接する時間は多いものの、サラがウィルと接する時間はあまり多くなかった。ただそれでも、ウィルがサラを気遣っていることは感じ取れる。日中はウィルの外出が入ることもあるため、なかなか融通が利かないが、忙しい合間を縫って、彼はサラと共に必ず朝食と夕食をとるようにしていた。その日の出来事を話したり、二人の間には和やかな空気が流れている。到着以来、二人の間が気まずくなるようなことはなかった。

 二人は相変わらず、夜は別々の寝室で休んでいる。二人の寝室を隔てる扉に、サラはまだ、触れる勇気がなかった。ウィルが鍵をかけていたらどうしよう、と不安になるのだ。彼に明確に拒絶されたら、きっとまた、サラは激しいショックを受けるだろう。それが怖くて、彼女は実際にドアノブを回して確認することができなかった。無論、サラの側からは鍵をかけていない。もしウィルに求められれば、喜んで応じるだけのこころづもりはある。けれど逆の場合に、自分のこころをどこまでコントロールできるか、自信がなかった。
 悪いほうに悪いほうに考えてしまう気弱な自分に蓋をして、サラはできるだけ体を動かして、目の前の日常に気を配って、余分なことを考える隙を作らないようにしていた。

 サラについてきたジェイスンは、サラ付きの従僕として働きながら、合間に庭師や馬丁の手伝いをしている。レイノルズ館からサラの愛馬をウォーリンガムハウスに連れてきたので、その馬の世話はジェイスンに一任されているし、温室や庭園の手入れを手伝いながら、サラが好みそうな花があれば伯爵夫人の部屋に生けたりと、これまでと変わりなく、サラの身辺に気を配っている。

 ウォーリンガムハウスの庭園の端には、立派な温室があって、その中には色とりどりの花が栽培されている。庭園や温室に立ち寄って、丹精された綺麗な花を眺めるのが、サラの楽しみの一つだ。目について手頃な花があれば、庭師とメイドに命じて、居間や食堂へ飾るようにしている。庭師は、無口で頑固な、気のいい老人で、最初のうちはサラがやってくると迷惑そうにしていたのだが、彼女が作業の邪魔をすることはなく、本当に花が好きなのだとわかると、態度は軟化した。ウィルの祖父の代から仕えているというから、この屋敷の生き字引のようなものだ、なかなか口数は増えないけれどと、ジェーンがこっそりサラに教えてくれた。

「こんにちは、ディック」
 今日もサラが温室に入ってすぐに挨拶をすると、ディックは古びた帽子を取って、ぺこりと一礼を返す。ぶっきらぼうだが彼なりの照れ隠しなのだとわかっているから、サラは微笑を返すと、庭師の邪魔をしないように温室の中をゆっくりと歩き始めた。まだゆっくりと温室を見て回れていないから、今日は隅々まで見て回ろうと決めてやってきたのだ。

 暖かな、どこかしっとりした空気の中、さくさくと土を踏んで、サラはゆっくり歩を進める。少し後ろから、忠実なジェイスンが無駄口をきかずに静かについてくる。朝食を終え、ハビシャム夫人と今夜の夕食の献立を話し合うまでの時間を、サラは温室で過ごすつもりだった。ふわりと漂う土の匂いが、懐かしさを誘う。一歩進むごとに、両脇で手を振るように賑やかに咲く花たちを熱心に眺めていたサラだったが、ある一画で知らず足を止めてしまった。
 彼女の視線の先には、すらりと立つ幾輪もの白百合が、天を仰ぐように微かに揺れている。

「綺麗……」

 呆然と純白の花を見つめながら、思わずといったようにサラは感想を零した。主人の目を奪った花に目を遣り、ジェイスンも大きく頷いた。
「見事ですね、これは」
 庭師が精魂込めて世話をしたのがよくわかる、堂々とした白百合だった。この一画だけ、白百合だけが何本も植えられている。まだ下を向いたままの蕾もいくつか見受けられるが、綻ばせた数輪は、圧倒的な美しさと辺りを払う高貴さで、周囲の小さな花々が霞んでしまうくらいの存在感だ。これほど見事な白百合を、サラはレイモンド公爵家でもゴールドマナーでも、目にしたことがなかった。少し離れた場所で黙々と作業をするディックを、サラは顔を輝かせて振り向いた。

「素晴らしい白百合ね、ディック」
 バッキンガム宮殿に献上してもおかしくないくらい、素晴らしいわ。

 サラの言葉はお世辞ではなく、本気でそう思っているのが感じ取れて、ディックは手を止め、再びぺこりと頭を下げた。鼻を寄せて匂いを嗅ぎ、サラはいっそう表情を綻ばせる。
「こんな時期に、白百合だなんて。驚いたわ」
「……旦那様のご指示で、これだけは年中絶やさないようにしているんですよ」
「それは……管理も大変でしょう」
 ディックがぽつりぽつりと口を開くと、それまで沈黙を守っていたジェイスンも驚きに目を瞠った。二人が寄せる賞賛に、満更でもないらしい老庭師は、首にかけたタオルでぐい、と顔を拭った。

「前の奥様も百合をお好きだったから、季節外れのものもここで作るようにはしていたんですがね。数がこんなに増えたのは、今の旦那様になってからだね。これだけは、と仰るから、どうにか一年中花を咲かせるように管理してますよ」
「さすがだわ、ディック」
 サラは眩しそうに目を細めて、純白の花を誇らしげに見遣った。こんなに素晴らしい出来栄えの花を、温室で咲かせているだけではもったいない。ぱちんと両手を軽く打ち合わせて、サラはニコニコとディックを振り返った。

「そうだわ。ディック、ここの白百合を3本、後で客間に持っていってくれないかしら。こんなに素晴らしいのですもの、ぜひお客様にお目にかけたいわ」
 いい思い付きだと思ったのだが、庭師は渋い顔をして、困ったように肩を竦めた。
「それは……できませんです、奥様」
「どうして?旦那様がお好きな花なのでしょう?お客様も喜んで下さったら、きっと旦那様も鼻が高いと思うのだけれど」
 きょとんとしてサラが尋ねると、庭師はきまり悪そうにもじもじしながら俯いたが、返答は変わらなかった。

「申し訳ございません、奥様。わしの一存では、できませんです」
 サラが向けてくる怪訝そうな視線が痛いのか、ディックは、頬を掻いてから、ぺこりと頭を下げた。
「これは、旦那様のお申し付けで育てている花なので。旦那様のお許しがなければ、切って、屋敷に飾ることはできんのです」
「ディック」
 サラの希望を頑なに拒絶する老庭師を見かねて、ジェイスンが窘めるように声をかけるが、サラは軽く首を横に振って、それ以上ジェイスンが口を出すのを止めた。老庭師は苦しそうに顔を歪めて、顔を俯けてしまっている。ウィルとサラ、二人の指示の板挟みになっているディックに、サラは労わりを込めて言葉をかけた。

「わかったわ、ディック。旦那様の言いつけにそむいて、わたくしが勝手をしてはいけないわね。わたくしが旦那様に聞いてみるわね。ありがとう」
 サラがそれ以上責めないとわかり、老庭師は明らかにほっとして体の力を抜いた。
「奥様……」
 心苦しそうにサラをちらりと見る庭師に、サラは穏やかな微笑みを返してから、何事もなかったかのように温室内の散策を再開した。ジェイスンは不満そうにしていたが、それ以上は何も言わず、サラの後に影のように付き従った。

 ディックの様子は、サラの胸に淡い影を落とした。何か言いたいことがありそうなのに言葉を濁してしまうのは、どうしてだろうか。彼がウィルの名前を出したのだから、ウィルが何かを言い含めているのかもしれない。だが、温室の他の花も、庭園の他の花も、サラが手折っても誰も何も言わないのに、なぜここの白百合だけがダメなのだろう。

 この一件は、終日サラの胸に何とも言えないもやもやしたものを残した。ウィルに尋ねてはっきりさせた方がいいとも思うし、このまま蓋をしておいた方がいいのではないかという思いもサラの中に芽生えていた。

 でも、夫婦なのだもの。聞きたいことも聞けないのは、おかしいわ。

 この屋敷において、サラが知らない曖昧なことを残しておくのも、おかしい気がする。サラは女主人なのだから、屋敷内のことを知っておいて悪いことはないはずだ。
 夕食を終えて、ゆっくりと食後のお茶を楽しむ和やかな時間に、サラは思い切って彼に話しかけた。

「ねえ、ウィル。今日温室を見て回ったのだけど、綺麗な花がたくさん咲いているのね」
 ティーカップを口元に近づけたまま、ウィルは視線をサラに投げかけ、ああ、と頷いた。
「あそこは私の母が気に入って、細々と口を出していたようだから。花の種類も多いだろうね」
「そうね。驚いたわ」
 そのままゆっくりと味わうようにお茶を口に含むウィルに賛同して、彼がカップを唇から離した時に、サラは何でもないことのように切り出した。

「特に白百合が見事だったわ。あんなに綺麗なんですもの、客間や玄関ホールに飾ってはどう――」

 ガシャン、と陶器の鳴る音が、サラの言葉を遮った。ウィルが手にしていたカップをいささか乱暴に、ソーサーの上に置いたのだ。穏やかで紳士的なウィルらしからぬ行為に、喉まで出かかったサラの言葉は凍りついてしまった。

 テーブルの正面に向かい合うウィルの顔色は先ほどまでと一変して、穏やかさが掻き消え、ひやりとする冷やかさが伝わってくる。眇められた茶色の眼差しに宿る色は、不愉快さと拒絶だ。顔つきも、いつもの彼らしさをかなぐり捨てて、厳しい。
 ウィルの機嫌を損ねるような不味い発言をしてしまっただろうか。これまではいつも通りに他愛無い会話をしていたのに。心当たりはなく、サラの背中を冷たいものが伝い落ちる。ウィルの唇が動くのを、サラはなす術なく見ているしかなかった。薄い唇が、無情に言葉を紡いでいく。

「あの花に手を触れないでくれ」

 眼差しと同じ、氷のような冷ややかな声が、シンと張りつめた空気を震わせる。不愉快さを隠しもしない、素のままの感情をウィルがサラにぶつけてくる。これは、不快だとか生ぬるいものではない。静かな怒りがひしひしと感じられる。ぶつけられたサラの体温も、ざあっと一気に引いていくような、底冷えのする怒りだ。

「あれは特別な花なんだ」

 屋敷に飾るつもりはない、きっぱりとウィルは宣告を下した。

 特別な花というのは、一体どういうこと?年中絶やさずに育てるほど、大切な花なのでしょう?あんなに見事に咲かせた花を、あなたはどうするというの?

 サラの中に夫にぶつけたい言葉の欠片が様々に浮かんできたが、凍りついた喉がそれらをせき止めて、声にならない。妻のサラが手折ることも許されない花とは、彼にとってどんな意味を持つ花なのだろう。彼に喜んでもらおうと、提案しただけだというのに。

 サラがすっかり気圧され、萎縮してしまったことに気づいたのか、ウィルの眼差しから、不愉快さが消える。表情からも冷たさが薄れて、厳しさだけが残る。声音からも冷やかさを消して、だが、断固とした厳しさはそのままに、彼は妻の名を呼んだ。

「いいね、サラ」
 彼に名前を呼ばれて、サラの硬直がようやく僅かに解ける。しかし続けて夫が口にした言葉が、彼女の胸をぐさりと刺した。

「この話題は、これで終わりだ。このことでこれ以上私を煩わせないでくれ」

 容赦なく門前払いを食らわされたような淋しさと悲しさが、みるみるうちにサラの胸を塞いでいく。同時にこみ上げてくるのは、視界を滲ませる温かなもの。それを必死に堪えて、サラはどうにか微笑らしきものを浮かべてみせた。声は自信なく、小さくなってしまったけれど、どうしようもなかった。

「ええ」
 顔の筋肉がすっかり強張ってしまって、上手く笑えているかはわからないけれど、ぐしゃりと歪めてしまうよりはましだ。テーブルの下で膝の上に置いた両手をきつく握り締めて、サラは口角に力を入れた。

「わかったわ、ウィル」

 頷いた妻を見て、ウィルの顔も明らかにほっとして、力が抜けたようだった。張りつめた空気も緩んで、多少の気まずさはあっても、険悪さは消えたように感じた。
 けれどそれ以上、いつもと変わらないように振舞うのは、サラには苦しかった。いつもは苦もなくできる、他愛無い会話を今ウィルと続けるのは難しかった。動揺が表に出ないよう気を付けて、不自然にならないようにさりげなく席を立つ。

「では、わたくしはハビシャム夫人と明日の食事のことを話し合ってくるわ」

 もっともらしい理由を告げて、逸るこころを抑えて食堂を後にする。廊下に出て階段を上り、誰の目もないことを確かめてから、サラはぎゅっと胸を押さえた。
 ウィルに不意打ちのように門前払いを食らったことが、自信を砕いて、不安にさせる。あんなに明確に厳しく拒絶されては、差し伸べようと手を出すことすら、恐ろしくなってしまう。彼を思って申し出たことなのに、それ以上弁明の機会を与えられずにぴしゃりとはねつられたことが、ショックだった。幼い頃のわがままな泣き虫のサラにさえ、あんな風に手酷く接したことはなかったというのに。

 でも、泣いてはダメよ。ウィルはたまたま、虫の居所が悪かっただけよ。明日からいつも通りにしなくては。

 自分に言い聞かせ、両目を瞑って壁にもたれかかる彼女の頬を、見えない涙が確かに伝い落ちたのを、窓から差し込む月光だけが見つめていた。


* * *

 一方ウィルも、食堂から書斎へと移動したものの、イライラと落ち着かずに室内を歩き回っていた。早く処理を進めてしまいたい書類が机の上に積まれているが、それを手にする気になれないのだ。
 サラに厳しくあたってしまったからだと、自分でも原因はわかっている。

 あれほど厳しく強く言う必要はなかったはずだ。ウィルが触らないようにと言えば、彼女はつべこべ言ったりせずに、ウィルの意志を尊重してくれただろうに。あの時は、あの白百合をサラが手折ろうとすることが許せなくて、冷静さを欠いてしまったのだ。
 何の事情も知らないサラは戸惑っただろうに、理不尽なウィルの態度を黙って受け入れてくれた。自分自身が恥ずかしいと、ウィルは片手で髪を乱暴にぐしゃぐしゃとかき上げて、やっと歩き回るのを止めた。

 先ほどのように、サラに嫌な思いをさせないよう、夫として配慮すべきだと自分に言い聞かせる。ウィルが気持ちよく過ごせるよう、ウォーリンガムハウスに来てからもサラはよくやってくれている。それなのに年上の自分が感情的になって彼女にあたるのは、恥ずべき行いだ。紳士として二度としてはいけない。

 反省しながら顔を上げたウィルの前には、壁に掛けられた美しい少女の肖像画があった。七年前に描かせた、アビゲイルの肖像画だ。彼女の死後、サー・レジナルドに頼み、形見の一つとしてウィルが譲り受けた。まだ病魔の影も薄い、美しく健康的な彼女の姿を留めた一枚だ。撤去するに忍びず、ずっとここに置いたままにしてあったけれど、これからはそうもいかない。反省し、サラの気持ちを傷つけないようにするならば、妻でない女性の肖像画など、いつまでも書斎に飾っておくのはよくない。サラには屋敷内の部屋全てに自由に出入りする権利がある。この書斎には、まだ遠慮をして入ってきていないようだが、そのうちここも居心地よく整えようと、入ってくることもあるだろう。その時にサラがアビーの肖像画を目にしたら……。

 見事に描かれた肖像画を無下に扱うのも気が進まないが、このままここに置いておくわけにはいかない。どこかよそへ移さなければと思いながら、ウィルは長い溜息を吐いた。あんな風に戸惑い、ショックを受けたような顔をさせるつもりはなかった。目の前でサラに凍りつかれるのは、ウィルにとっても後味が良くないということがよくわかった。

 明日の朝からは、またいつも通りに振舞って、彼女を大切にしなくては。
 まずはこの肖像画を移動する先を探そうか。

 アビーの肖像画を前にして、ウィルの中には一抹の苦さが湧き上がってくる。アビーに関することで苦さを感じたのは、これが初めてだった。

2014/09/18up


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