第1章 思いがけない再会[4]

  いつもならうきうきと心が弾むポルカの音楽が、どこか遠いところで流れているように聞こえる。耳に入ってはくるものの、心に何も伝えずに、ただ右の耳から左の耳へと、筒抜けになっているだけのよう。
 とはいえ、条件反射とは恐ろしいもの。リズムに合わせて足は正確にステップを踏み続け、どんなパートナーが相手でも、輪を乱さずにダンスを続けることができる。これも、娘時代のダンス訓練の賜物だ。
 ほんの幼い頃からダンスに憧れていたソフィアは、エミリー大叔母の家で夜会が開かれると、こっそり2階のバルコニーに出て、大人たちを真似て一人踊ったものだ。本格的に訓練を受け始めると、みるみるうちに上達し、デビューの時にはサマセット一の踊り手といわれた。
 おかげで、心はぼんやり別のところを彷徨っていても、恥ずかしくない程度に踊ることができる。
 ぼうっとした意識の中で、右手の甲だけが不可解な熱を持っていた。ちょうど手袋越しに、ブラッドがキスをしたところだ。その1点だけが、奇妙に熱く、疼いている。

「何か気がかりなことでもおありですか?」
 ターンをしてすれ違った時、ハガード大尉がソフィアの耳に向かって呟いた。はっと意識を覚醒させると、ポルカは終盤にさしかかったところで、大尉の視線がソフィアをまじまじと見つめていた。
(いけない。またうっかりしていたわ)
 お行儀悪く舌打ちしたくなる。何よりもダンスのパートナーに対して失礼だ。付き添い役の失態で、アンの印象まで悪くなったら申し訳ない。
「・・・いえ、慣れない夜会で、少し頭痛がしてきたようです」
 目を伏せて、もっともらしい理由を打ち明けると、大尉の明らかにほっとした声が上から降ってきた。
「それはいけない。このあと少し休まれてはいかがですか?」
「まだあと2曲、踊ることになっているのです。休むのはそのあとにいたしますわ」
 大尉を傷つけないようについた、罪のない嘘だったが、真剣に心配されるといたたまれなくなってくる。当たり障りなく返答して、ソフィアは音楽に身を任せた。
 軽快なリズムに集中して、気分も浮き立たせよう。穏やかな微笑を顔にはりつけ、大尉のリードに合わせてターンを繰り返しながら、沈みがちになる心をどうにか軽くしようと試みたが、失敗に終わった。
 結局のところ、思考は再会したかつての恋人のもとへと戻っていく。

 不意打ちの再会に衝撃を受けても、旧知の間柄という立場で挨拶を交わすだけならば、何とかうまく切り抜けられたと思う。最低限の会話と、最小限の接点だけを持って、安全な場所へ逃げしまえばよかったのだ。他の男性に対してそうしたように。
 それなのに、彼にダンスを申し込まれてしまうなんて。自分の失態を思うと、ため息をつくだけではやりきれない。よりにもよってワルツだ。パートナーと2人だけの世界に浸れるワルツは、若者に人気があったが、今のソフィアにはもっとも回避したい曲目だった。
 何とか力を振り絞って、乗り切るしかない。諦めにも似た思いで、ソフィアは終わりに近づいたポルカのメロディーに耳を傾けた。これが終われば、ブラッドが待っている。

 あと少しで曲が終わるのだから、せめて最後だけでも集中しようと思うのに、ソフィアの思考はふらりと、子供部屋で1人きり、寝台に横になっているはずの少女へと向かっていく。今頃は黒い巻き毛を枕の上にふわりと散らして、赤い頬で布団に潜りこんでいるだろう。
 乳母がついているのだから心配ないが、住み慣れた我が家を離れて、大都会の夜を借り物の家で過ごす娘を思うと、心が痛んだ。グレースは、やっと4歳になるかどうかという年齢だ。昼間は大都会の生活が珍しく、興奮しても、夜になればやはり寂しさが勝るだろう。
(ブラッドと、お友達の伯爵とのダンスが終わったら、早めに帰ろう)
 そう決めたところで、ちょうどポルカが終わった。足を止め、大尉の顔を見上げると、ソフィアの心の裡など何も知らない彼はまだ心配そうに見つめている。彼女が悩まされているのは頭痛だと信じて疑っていないようだ。
 内心罪悪感を覚えたソフィアを、ハガード大尉は慇懃にエスコートし、エミリー大叔母のもとへと戻った。にこやかに迎えてくれる大叔母の脇には、黒髪に真っ青の瞳の青年と、栗色の髪に茶色の瞳を持つ青年が佇んでいる。どちらもイブニングコートにホワイトタイという正装を自然に着こなし、洗練した都会の青年貴族という雰囲気を漂わせている。

 が、ソフィアの視線は、自然と黒髪の青年へ向いてしまう。おずおずと見つめるソフィアに、ブラッドは眉を潜めて、冷ややかな眼差しを返してくる。明らかに不機嫌そうだ。
 エミリー大叔母が失礼なことでもいったのだろうか、それとも何か気に障ることでもあったのだろうかと訝るソフィアのもとへ、つかつかと歩いてくると、ブラッドは大尉の前を塞ぐように立ち止まった。
「交代してもらえるかな?」
 硬質な、刃物のような鋭さを帯びて発せられたブラッドの高圧的な台詞に、今度はソフィアが眉を顰めた。威圧するように大尉を見つめる視線といい、高慢な貴族そのものといった態度だ。かつてのブラッドは、それを心底嫌悪していたというのに。
 挑戦的なフォード伯爵の態度に、ハガード大尉は唇をぐいと引き結んだものの、すぐに軍人らしく冷静な判断を働かせたようだった。感情のかけらもこもっていないかさかさと乾燥した声で、大尉は承諾の意を伝えた。
「かしこまりました、伯爵」
 あっさりと自分をブラッドに引き渡すことを同意した大尉の声を聞きながら、ソフィアはそっと胸を撫で下ろした。大尉を薄情だなどと責めるつもりはない。上流社会での序列、社会的な身分を思えば、名門貴族に連なる上、爵位を持つブラッドに逆らうことは、ハガード大尉には許されない。下手に逆らえば、無礼だとして社交界から非難を浴びることは目に見えている。

 それでは、とソフィアにも丁寧に礼をして背中を向けた大尉を見送ると、改めて目の前に立つ青年伯爵に視線を戻した。人混みの中に消える大尉の背中を眺めながら、ブラッドは歪んだ笑みを口元に浮かべていた。その瞳に浮かぶのは、満足げな光だ。不審に思いながら、ソフィアは小さな声で呼びかけた。
「伯爵」
 ゆっくりとソフィアに視線を戻したブラッドの表情からは、威圧的な気配は消えていた。口元の微笑みは深くなったものの、眉間の皺も消えている。安心していいのか、気を揉めばいいのかわからないまま見上げるソフィアに、ブラッドは優雅な礼をしてから、腕を差し出した。
「行きましょう。そろそろ始まりますよ」
 素っ気ない台詞に促され、ソフィアはブラッドの腕につかまった。5年ぶりに取る彼の腕は、礼装越しとはいえ、無駄なく筋肉がついてたくましいのがわかる。大抵の貴族男性は、色白でひょろりとしているものだが、ブラッドの腕は先ほどのハガード大尉の腕よりも固く引き締まっているようだった。
(そういえば、軍隊に入ったという噂を聞いていたんだわ――)
 ソフィアの頭に、いつだったかエミリー大叔母が何気なく漏らしたブラッドの消息が閃いた。確かヨークシャーに引きこもって暫くした頃、近況を報せる手紙の中に、バリー伯爵家の次男が入隊したと書かれていた。華やかな貴族の若者と軍隊とが簡単に結びつかなくて、ソフィアは愕然としたものだ。もしも、厭世に駆られてブラッドが軍隊入りしたのだとしたら――世を憂う原因を作ったのは、間違いなくソフィアなのだから。

 ホールの中央で足を止めると、ブラッドの右手がソフィアの腰に回された。どきりとしたが、そ知らぬ風を装って、ソフィアは左手をブラッドの肩に回し、右手を彼の左手に添えた。ブラッドが礼儀を欠くことをしているわけではない。これからワルツを踊るのだから、ポーズを取るのは当たり前である。
 細い腰に回された腕は頑丈で、ソフィアがよろけてもびくともしないだろう。額のあたりにブラッドの吐息を感じるほど近くにいて、曲がかかるのをじっと待っているのは苦痛だった。見上げればまともにブラッドと目を合わせることになるし、仕方なくソフィアは、彼のベストを熱心に見つめ続けた。
 彼の手が触れているところが、やけに熱い気がする。ドレスの下にはコルセットをしっかりと着けているから、よほど熱いコテでも当てられなければ熱を感じないはずなのに、大きな手のひらから伝わる熱が、じわじわと全身に及んでいくようだ。
 フ、と彼の唇から吐息が零れ、ソフィアの右手を握る手に、ぎゅっと力がこもった。反射的に強張ったソフィアの身体を、力強い腕がぐいと引き寄せる。咄嗟にソフィアの口から声が漏れたが、タイミングよく始まったオーケストラの音色が、綺麗にそれをかき消してしまった。

 3拍子に合わせてステップを踏み出しながらも、ソフィアの腰を引き寄せる腕は緩むことがない。ワルツを乱さないように注意しながら、ソフィアは細腕をつっぱって、少しでも距離を置こうと試みたけれど、予想通りブラッドの腕はびくともしなかった。憎らしいことに、腰に回された腕だけでなく、ソフィアの右手を掴んでいる手も、どちらも微動だにしない。
 このままではこちらが消耗してしまうだけだ。諦めて太い腕に身を任せると、ワルツの旋律を辿る方に集中することにした。

 暫くは黙々とステップを踏み続けていた2人だったが、くるりとターンした時に、低い囁きが上から降ってきて、ソフィアは息を呑んだ。
「相変わらずつれないな、ソフィア。久しぶりに逢ったというのに、言葉もかけてはくれないのか?」
「な・・・・・・」
 何をいうの、と顔を上げたソフィアは、思いがけずすぐ近くにブラッドの顔を見出して、そのまま喉を凍りつかせた。ソフィアの白い額に触れそうなほどの距離に、彼の唇がある。かつてソフィアに優しいキスの雨を降らせた唇の感触が、まざまざと甦ってくる。遠い昔のことだというのに、まるで昨日のことのように鮮やかに。
 これではまるで、自分がブラッドの愛撫を欲しがっているかのようだ。淫らな想像に耐え切れず目を逸らすと、今度は真っ青な瞳が、覆いかぶさるように覗き込んでくる。彼が顔の角度を変えると、ソフィアの耳たぶをバリトンの声が震わせた。親密そうに囁かれる台詞は、背筋をぞくりとさせる。
「私を忘れたわけではないのだろう?」
 ブラッド、と呼びかけたいのに、掠れた吐息が漏れるだけで、喉から声が出てこない。瞠目して、長身の青年伯爵を見上げることしかソフィアにできることはなかった。形の良い唇が、にやりと笑みを刻むのが目に入る。そこに漂うのは、今宵もう何度も見慣れた皮肉の色だ。
 再び背筋がぞくりとしたが、これは不快な戦慄だった。ソフィアが素早く周囲に視線を走らせると、ダンスに興じるカップルの多くは、2人の世界に没頭している。とはいえ、誰がどこで聞き耳を立てているかわからない。ブラッドは何を言い出すつもりなのだろう。
 知らず、眉を寄せて、ソフィアはかつての恋人を凝視した。地中海のような深い色の瞳に、微かな波が立ったような気がした。あれは何だろうと思った時には既に遅く、迂闊にも小さく呼びかける言葉が、無意識に唇から零れていた。
「ブラッド?」
 はっとした時には、小さな呼びかけは宙に消えていた。間近から見下ろしてくる真っ青な双眸が僅かに見開かれ、酷薄な光が薄れて驚愕の影がよぎる。そこから目を逸らせないまま、サファイアの色にソフィアが見入っていたのは、時間にしてどの程度だったのだろう。

 いつしかオーケストラの奏でる音楽は止んでいた。どこまでも続く深い青に心を奪われ、機械的に3拍子を踏みながらも、ソフィアの耳には己の心臓の音しか聞こえてこなかった。周囲に円を描く色とりどりに着飾った男女の姿も視界から消え、目の前の青年と2人きりで、ソフィアは踊っていた。
「・・・やっと名前を呼んでくれたね、ソフィア」
 ソフィアを現実に引き戻したのは、冷ややかな彼の台詞だった。彼の口角がゆっくりと上がるのを見つめるソフィアの耳に、オーケストラの楽器の旋律と、人々のざわめきが、はっきりと飛び込んでくる。自分がどこにいるのか状況を思い出し、胸がざわめいた。焦りのせいだろう、頬がうっすらと熱を持つのがわかる。
 世間知らずの少女ではあるまいし、適切な振る舞いを欠いて、甘い妄想に浸るなんて。ブラッドに見惚れていたのを、誰かが目ざとく気づいたかもしれない。
 俯いて自分を叱りつけ、ブラッドの眼差しを意識しないように言い聞かせるけれど、効果はない。無理もない。こうして目を伏せていても、彼の熱心な視線がはっきりと感じ取れてしまうのだから。
 視線だけではない。彼の腕が腰に回され、もう片方の手はソフィアの手を握っている。全てを振りほどいて逃げ出したい衝動に駆られたが、下唇を噛みしめて、何とかそれをやり過ごす。このまま目を合わせずに、操り人形のようにくるくると踊り続けていれば、直にワルツは終わる。もう暫くの辛抱だ。
 唇を固く噤んでいたから、声に出したりはしなかったはずなのに。

「あ・・・!」
 鼓動が不規則に跳ね、引き結んでいたはずの唇から声が漏れた。突然ブラッドの右手が、更にソフィアの腰を引き寄せたのだ。不意打ちにバランスを崩しかけて、反射的に右手でたくましい腕に縋ると、強く握り返された。
 一瞬ブラッドの胸に倒れこむような形になったところを、がっちりと捕獲されてしまったのだ。こうなってくると、互いの腰はほとんど密着しているようなものだ。ブラッドの身体から発散される熱に包まれ、ソフィアの頬はいっそう赤くなった。
 右手を振りほどこうとしても、戒めはちっとも緩まない。頬を少し動かせば、彼の胸に顔を埋めるのも簡単だ。左右にも背後にも動けない。僅かな汗の匂いとハンガリー水の香りが、石鹸の清潔な香りに混ざって、ソフィアの鼻腔をくすぐった。
 動悸が更に上がる。それは、ソフィアがかつてよく知っていたブラッドの香りだった。あの頃は安堵と幸福に包まれた匂いなのに、今は無性に泣きたくなるのはなぜだろう。
 彼の香りは、心の奥深くにしまいこんでいた記憶を揺さぶる。そこから目を背けたソフィアは、軽い目眩を覚えてブラッドの腕に縋った。彼の腕は、当然のようにソフィアを受け入れ、支えてくれる。再び記憶が揺さぶられそうになった時、耳元で低い囁きが聞こえた。
「ソフィア?」
(ああ・・・・・・!)
 悲しくなるのはなぜだろう。
 一瞬目を瞑り、ソフィアは湧き上がる涙を奥へと押し戻した。勘違いしてはいけない。ブラッドはあの頃の彼ではない。ソフィアを全て受け入れてくれる愛情深い恋人のままではないのだ。
 彼の声を包みこんでいる冷たさが、氷の刃となってソフィアに深く刺さってくる。気遣うような言葉にも、凍りつくような寒さが潜んでいる。ぐさりと刺しこんだ傷口までも凍らせるような寒さだ。全身の熱が不意に消え失せた気がした。
(彼はわたくしを憎んでいる)
 はっきりと思い知らされる。

 5年前、大陸へと出かけたブラッドの帰りを、ソフィアは待たなかった。彼からすれば、それは手酷い裏切り以外の何物でもないだろう。今更、あの時ソフィアを襲った事情を説明しても、もう時間は戻らない。
 17歳のソフィアはもういない。22歳のソフィアがいるだけだ。陽気な目をした若者もいない。軍隊を経て、暗い影を瞳に宿した青年がいるだけだ。
 覚悟していたことではないか。何を期待できたというのか。甘い台詞を囁いてもらえると思っていたのだろうか、わたくしは。浅はかな自分を笑いたくなって、俯いたまま、唇の端を小さく持ち上げた。

「ソフィア、何も話してはくれないんだね」
 綺麗に編みこんだ蜂蜜色の髪に、バリトンの声が降ってくる。
(わたくしは、本当に愚かだわ)
 この声を聞いて、まだ心が震えるなんて。頑なに俯きながら、ソフィアは歯を食いしばった。全身を包む肌寒さの中で、彼の手が触れているところだけは変わらずに熱を持っている。温もりを心地よいと感じる自分がいる。
 まだこんなにも、彼に踊らされている。
 呻きたくなるのを堪えて、ソフィアは悟った。ブラッドがソフィアに及ぼす影響は、これほどに大きい。自分を憎んでいる人に主導権を握らせるなんて、危険極まりない。
 怖れがソフィアの背後から忍び寄ってくる。彼がその気になれば、いつでもソフィアを破滅させることができる。とても簡単なことだ。
(絶対に、ブラッドに悟られないようにしなくては)
 夫が死んだとき以上の困難が、ロンドンで待ち受けていたなんて。この試練に、自分はどこまで耐えられるだろうか。

 ぴりぴりと過敏になった神経に、ホールにこもるむっとした熱気と、酒や香水が入り混じった臭いが威力を増して襲いかかってくる。どんよりとこもった空気が、人いきれに漂う湿気を吸い取って重みを増し、全身の毛穴を覆いつくすようにべったりと肌に吸いついてくる。呼吸をすることすらままならない。目の縁に涙が滲み、次第に視界が狭まっていく。
(気持ち悪い・・・・・・)
 ぼんやりとしてきた意識の中で呟いた時、両の肩を掴んで軽く揺さぶってくる腕があることに気がついた。
「ソフィア?顔色が悪いぞ」
 苦しさに縮こまっていたソフィアの心を、ふわりと包みこんだのは、昔と寸分変わらない優しさに満ちた、ブラッドの声だった。
 うなじを支えられて、自然と見上げる形になった。大きな手に頭の重みを預けて、ソフィアは小さく息を吐き、眉間に皺を寄せて覗き込んでくるサファイア色の瞳に、唇だけで微笑んだ。皺が一層深く刻まれたところを見ると、意図したほどにはうまく笑えなかったらしい。

 ワルツの調べはまだ続いていたけれど、2人の足はとうに止まっていた。
「・・・・・・気分が良くないの」
 乾いた唇から漏れたのは、吐息のような囁きだった。ざわめきの中でも彼の耳はしっかりそれを拾ったようで、思案するように一瞬だけ瞳を眇めたけれど、首から離した手を腰に回して、低く呟いた。
「外に出よう」
 こちらの承諾は不要らしい。有無をいわせない強さがありありと込められていて、ソフィアが反問する間もなかった。気圧されたまま、ブラッドに抱きかかえられるようにして、人の間を縫い、バルコニーへと向かう。
 踊り始めた時はホールの真ん中あたりにいたのに、2人はダンスの輪のはずれの方で足を止めていた。リズムに乗ってステップを踏んではいたけれど、ブラッドにリードされるままに踊っていたから、気づかないうちに見事に誘導されていたらしい。
 バルコニーに近い一帯には、窓ガラスを伝って差し込む冷気を嫌ってか、休憩する人影もまばらだ。誰にも見咎められることなく、2人は庭園を見下ろすバルコニーへと滑り出た。

 ブラッドが後ろ手に窓を閉めると、室内の喧騒から遮断され、喘ぐようなソフィアの呼吸が虚ろに響いた。抱きかかえる力を緩めることなく、ブラッドは庭園に近い端に置かれたテーブルと椅子へソフィアを連れていき、慎重に支えながら座らせる。
 力が上手く入らない。
 がくりとよろけたソフィアの肩を大きな手が受け止め、そのまま支えてくれる。重たい身体を頼もしい腕に預けて、ソフィアは漸くほっと息を継いだ。ぴたりと肌に張りついていた空気の膜が、新鮮な夜気の中に溶けていく。
「落ち着いて。少しずつ息を吸うんだ」
 肩を支える手とは別の手が、背中をそっとさすってくれる。ドレスの後ろは背中が大きく開いているから、手袋の皮が直に肌に触れる。羽のように軽く上下する手の動きは、激しく脈打つ心臓を、ゆっくりと宥めてくれた。上手く酸素を取りこめずにゼイゼイと喘いでいた息が、次第に穏やかになっていく。
「その調子だ」
 耳元で低い声が励ましてくれる。痺れていた頭が徐々にはっきりしてくるにつれて、視界も鮮明になってくる。
 規則正しい呼吸を取り戻したソフィアの唇から、白い靄が零れた。ホールは初夏のような暑さだけれど、一歩外へ出ると、早春の夜に相応しい冷気が全身を包む。ドレスの生地は薄手の繊細なものだから、マントを着けていない今は、身体が震えるような寒さのはずだ。
 しかし、人混みに酔った後では、しんしんと凍るような夜気は、肌に心地よかった。窓から漏れる室内の明かりは、バルコニーの半ばまでしか届かない。ソフィアとブラッドの姿は薄闇に紛れ、影絵のようだった。
「暫くここにいるといい」
 様子が落ち着いたのを見定めたブラッドは、華奢な身体を椅子の背に寄りかからせてから手を離した。背中と肩から温もりが消えた途端、心細さに襲われて、ソフィアは青年伯爵を見上げた。
 ホールから漏れる光はブラッドの身体で遮られ、彼の顔は陰になってはっきりと見えない。けれど、空気の震えで、困ったように微笑んだのを感じた。自分はよほど情けない表情をしていたのだろうか。
「飲み物を取ってくるよ。すぐに戻る」
 安心させるように言い聞かせると、彼の姿はたちまち窓ガラスの向こうに消えた。室内のざわめきが束の間バルコニーに木霊して、その後は再び静寂が落ちた。

 人に酔うなんて、田舎者丸出しだ。
 苦く笑って息を吐くと、白い霧となって暗闇に消えていった。社交界にデビューし、あちこちの夜会に顔を出した5年前でさえ、上手くやれたのに。ブラッドがいてくれなかったら、あそこで倒れていたかもしれない。
 ぎゅ、と膝に置いた両手を握り締めた。手にも足にも力が戻ってきていることを確認して、ソフィアは椅子からそっと立ち上がり、バルコニーの手すりに身体を預けた。大理石造りの表面から、手袋越しにひやりとした冷たさが滲みこんでくる。心を落ち着かせるにはちょうど良かった。
(ブラッドは、呆れたんじゃないかしら)
 冷ややかだった今宵の態度を一変して、親身に介抱してくれたのは、かつての恋人の情けない姿に呆れ、同情したからではないだろうか。昔の知り合い――それも、親しかった相手に、失態を見られるのは恥ずかしい。
 取りとめもなくブラッドへと向かっていきそうな思考を振り払い、ソフィアは暗闇に覆われた庭園へと目をやった。
 オルソープ公爵夫妻自慢の庭園は、豊かな緑に溢れていると評判だが、夜も更けたこの時間は黒のベールにひっそりと沈んでいる。背の高い木々が黒々とした影となって佇立しているのが、薄闇の中に識別できる程度だ。
 姿は見えなくても、土の匂いが夜露を帯びて、しっとりと風に乗ってくる。それを嗅ぐと、荒々しい自然に抱かれたヨークシャーの我が家が恋しくなる。望郷の念に囚われそうになった時、背後からブラッドが呼ぶ声が聞こえた。

「すまない、待たせたね」
「いいえ、そんなことは――」
 いいかけながら振り返ると、長身の体躯は案外すぐ側まで近づいていた。僅かな距離に驚いて見上げると、深い青の瞳に苦しげな光が一瞬煌いたように思った。直後に何食わぬ顔をしてグラスを差し出してきたから、ソフィアの見間違いだったかもしれないが。
 薄暗い中で、グラスには濃い色の液体が揺れているのが見えた。
「気つけ薬の代わりだ。1口でも飲むといい」
 ブランデーだ、とグラスを渡されて、恐る恐る飲み込むと、濃厚な味わいが口の中に広がった。喉を通り抜けて熱いものが臓腑へと落ちていくのがわかる。もう1口だけ啜って、テーブルの上に置いた。
 それから、お礼をいっていなかったことに気づいた。
 介抱してくれた上、飲み物まで取ってきてくれたのだ。ブラッドの真意がどうであれ、世話になったのは間違いない。感謝の気持ちは、素直に伝えておきたかった。タイミングを逃さないうちに。
 アルコールのせいだろう、少し潤んできた双眸を彼の顔に当てて、ソフィアは親しみをこめて微笑んだ。サファイアの瞳と、灰色がかった青い瞳が、薄闇の中でぶつかった。
「ありがとう、ブラッド」

 何が契機になったのか、ソフィアにはわからなかった。見つめた視線がいけなかったのか、感謝の言葉がいけなかったのか、それとも彼の名を口にしたのがいけなかったのか。ソフィアが理解したのは、ブラッドの瞳に再び苦悶の表情が浮かび、次の瞬間には真っ青な炎が、全てを焼き尽くそうとしたことだけだった。
 何が起きたのか把握するには、頭がついていかなかった。ブラッドの手が腰に回ったかと思ったら、彼の胸に引き寄せられていた。鼓動が聞こえるほど、ぴったりと抱き締められていた。
 戸惑ううちに片手で顎を持ち上げられ、気づいた時には唇を塞がれていた。顎から離れた手がうなじに回り、がっしりと姿勢を固定されている。逃げ場を失ったソフィアは、彼の荒々しいキスを、大人しく受け入れることしかできなかった。
 咄嗟のことで身体を固くしたものの、荒っぽさはすぐに消え失せ、宥めるようなキスが唇だけでなく頬にも額にも振ってくる。柔らかな唇に包まれているうちに、ソフィアの身体からは力が抜けていった。
 ブラッドのキスは再びソフィアの口元に移り、唇をそっと挟み込んだ。ぴったりと覆って、彼女をまるで食べ尽くしてしまうかのようだ。すぐにも深いキスが落ちてくると思ったけれど、彼はただ、何かを堪えるようにそれ以上は求めなかった。唇を触れ合わせているだけだった。

 たまらずにソフィアが自分からキスしたままの唇を押しつけると、ブラッドは弾かれたように身体を離した。火傷でもしたかのように、ドン、とソフィアを突き放したのだ。
 彼の豹変に戸惑い、先ほどよりも潤んだ瞳で、ソフィアはかつての恋人を見上げた。薄明かりの中でもはっきりとわかる。ブラッドの顔に浮かぶのは、明らかな驚愕だった。

 やがて彼は眉を寄せ、何かを堪えるように唇を引き結んで、ソフィアから顔を逸らした。両手をぐっと拳にして、かすれた声を喉から絞り出して、彼は告げた。
「――そろそろ中に戻った方がいい。ウィルが君を探しているだろうから」
 ソフィアは形の良い眉を顰めて、苦しそうに歪んだブラッドの顔を見つめた。嘲笑したり、優しかったり、彼の態度がわからない。

「ブラッド?」
 無意識に片手を伸ばして、彼の腕に触れようとした時、

「今のことは忘れてくれ」

 取りつくしまもない氷のような声と、一度だけ向けられた眼差しに浮かぶ拒絶の色に、ソフィアは思わず息を呑んだ。先ほどまでの親密な空気は、とっくに霧散したのだ。冷徹に光るサファイアには、ソフィアの姿はもう映っていなかった。はっきりわかるのは、嫌悪と憎しみ、そして後悔の色。

 行き場のない手を、もう片方の手でぎゅっと握り締め、震えそうになる声を励まして、顔を背けている人に告げた。彼はもう、ソフィアに興味を失ったようだった。無言で佇む、黒い影と化していた。

「――もう行くわ」

 どうにかそれだけを絞り出して背を向けると、それ以上平静さを保ってはいられなかった。こみ上げてくる涙を必死で押し戻し、ソフィアはその場から逃げ出した。この夜何度も欲したように、バルコニーを駆け抜けて、ブラッドの前から姿を消した。ホールに戻って後ろ手に窓を閉めてガラス戸にもたれかかり、やっと胸を撫で下ろす。解放された安堵に包まれるはずなのに、胸に湧き上がったのは惨めな悲しみだった。憎まれるのは仕方がない。けれど、後悔されるのだけは耐えられない。

 目の奥がツンと痛くなり、熱いものが溢れてきそうな気配がする。それを力をこめて押し戻し、深呼吸をして昂ぶった精神を宥めようとしたけれど、なかなか上手くいかなかった。背中をさする手がもたらした甘い温もりが、どうしようもなく恋しかった。

2009/01/11up
2009/01/12改訂

時のかけら2009 藤 ともみ

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