第2章 こころの楔[1]

  日ごとに陽気は春めいてきたとはいえ、午後も遅くなると、暖房は欠かせない。居間の隅に設けられた暖炉の前に座り、外気に冷えた身体を炎の熱にさらしながら、ソフィアは大きなため息をついた。
 お茶会から帰宅し、外出用のドレスから室内用の簡素なものに着替えを終えて、やっと一息といったところだ。
 厳しい気候のヨークシャーと比べれば、首都ロンドンの3月は穏やかに感じられた。時折雪がちらつくけれど、積もることはない。北の荒れ野に慣れた身には、ロンドンの寒さなど、肌を刺すほどでもない。
 定期的に家令から届く報告では、この冬の大雪で難儀している村人がいるという。リンズウッド・パークに貯蔵している食べ物や寝具を惜しみなく分け与えるよう命じた返書は、今頃届いているだろうか。
 椅子の背にもたれて、ソフィアはぼんやりと、踊る炎を眺めた。

 オルソープ公爵家の舞踏会でブラッドと再会してから、1ヶ月以上が過ぎた。唐突な出逢いと別れの後、あちこちの夜会や催しへ顔を出したけれど、2人が鉢合わせることは一度もなかった。
 無意識に指で唇に触れてから我に返り、ソフィアは苦笑した。
 今になってもまざまざと思い出せる感触――彼の唇の柔らかさと、キスの甘さが、あの夜からソフィアを悩ませている。

 日中は、リンズウッド伯爵未亡人として、淑やかに振舞い、アンのために様々な招待を受けて、一緒に外出する生活が続いていた。エミリー大叔母が同席することもあるし、少女の頃に寄宿舎で共に過ごした親友が、加わることがある。
(わたくし、無理にこちらで殿方を捕まえようとは思っていないのだけれど)
 アンが困ったように微笑んで、愚痴めいたことをいったのは、数日前のことだった。彼女の父、ウェルズ大佐は、娘に最上の婿を娶わせたいという意図を隠そうとしないから、相当なストレスになっているようだ。週に1度は手紙が届き、根掘り葉掘り聞いてくるらしい。
(ロンドンは憧れの都会だったけれど、わたくしの性には合わないみたい)
 この空気の不味さは、耐え難いわよね。深呼吸なんてできやしないわ。
 悪戯っぽく笑うアンの横顔には、はっきりと郷愁が浮かんでいた。ロンドン生まれ、ロンドン育ちのソフィアでさえ、荒れ野の澄んだ空気が恋しくなるくらいだから、生まれも育ちもヨークシャーというアンには、都会の喧騒はうっとうしくてたまらないのだろう。
 すすけたロンドンの空気を吸うと、胸の中まで黒く汚れてしまうような気がしてくる。心が汚れてしまうと、身体まで毒に侵された気分になる。

 日ごと夜ごと続く華やかな予定をこなしながら、ソフィアの胸にはある決意が生まれていた。

 今入っている予定を全てこなしたら、ヨークシャーへ帰ろう。

 社交シーズンは初夏まで続くけれど、そんな時期までロンドンの借家に滞在するつもりはなかった。アンの了承さえ取れれば、ウェルズ大佐もうるさいことはいうまい。それに、アンの婿探しなら、ヨークシャーの社交界でしてもいいのだ。ウェルズ大佐とアンは、父1人子1人で暮らしてきたから、アンの嫁ぎ先もヨークシャーならば、何かと安心だろう。勿論、大佐にそう云おうものなら、照れ屋で素直でない彼のこと。「まだそこまで年老いてはおらん!余計な心配だ!!」と憎まれ口を叩くに決まっている。
 何だかんだいいながら、親子とはそういうものだ。ソフィアのように、父と断絶している方が珍しいだろう。
 実家のことを思い出すだけで気分が滅入るのはいつものこと。実家にまつわる嫌な思い出を振り払って、ソフィアは当面の問題へと思考を切り替えた。

 オルソープ家の舞踏会以降、ブラッドは再び社交界から行方をくらましてしまったらしい。最初はソフィアを避けているだけかと思ったが、それとなく周囲に聞いてみても、フォード伯爵の姿を見かけた者はいないようだった。
 エミリー大叔母や、社交界に長く出入りしている親友のウィニーによると、ブラッドレイ・ヒューズは、フォード伯爵家の当主と跡取り息子を襲った不幸な事故の後、祖父であるレイモンド侯爵の希望で、軍隊を退役して伯爵を継いだ。その後は伯爵家の資産健全化のため、社交の催しからは距離を置いて、仕事に打ち込んでいるのだという。
「あの方が夜会に顔を出す方が珍しいのですよ」
とはエミリー大叔母の言葉だが、これほど彼を見かけないとなると、もっともな意見だと思わざるをえない。

 けれど心は理性とは別に動くもので、社交界の行事に参加するたび、ソフィアはこっそりと彼の姿を探してしまうのだ。どうせいるはずがない、と言い聞かせても、目は自然に、長身で黒髪の青年を探してしまう。
 愚かなことだとは思う。不意打ちのあのキス――挙句、彼が「忘れてくれ」といったあのキスのことを、まだうまく受け止めきれていないのだから。逢ってもどういう態度を取ればいいのか決めきれていないのに、彼の姿を求めてしまう。

 ブラッドを見かけない代わりに、ソフィアの前に頻繁に現れるのが、彼の友人だというウィロビー伯爵だった。
 オルソープ家の舞踏会では、結局ダンスの約束をすっぽかしてしまった。気分が悪くなったので別室で休んでいたと頭を下げると、もう具合はいいのですかと、優しく顔を覗きこまれた。その台詞と仕草は、おざなりのものではなく、とても自然に感じられたので、ソフィアは思わず頬を赤らめてしまったものだ。
 あのあとソフィアとアンのもとへは、午前の乗馬や散歩の誘いなどに、グレシャム卿やハガード大尉も訪れるけれど、ウィロビー伯爵が登場すると、気の毒なほど影が霞んでしまうのだ。

「フォード伯爵と人気を2分する花婿候補なのよ」
 そう教えてくれたのは、女子寄宿学校時代の親友・ウィニフレッド――ウィニーだ。没落した名家に生まれた彼女は、イギリス上流社会では「品のない新参者」とみなされるアメリカ人実業家に嫁いでいる。
 彼女の夫、ミスター・ヒューイットは、社交界にとっては「招かれざる客」でありながら、多くの貴族たちと取引をしており、決してないがしろにできない存在である。アメリカ本国でも、ニューヨーク社交界トップに君臨する一族の御曹司だという。そのため、渋々ながら貴族たちは社交界の扉を夫妻に開いており、ウィニーはそこかしこで様々な情報を入手するというわけだ。

 ソフィアの結婚以来、手紙でしか近況を報告できなかった友人に、ロンドンで再会できたことは、思わぬ喜びだった。ウィニーにしても、ソフィアの結婚に関して全てを知っているわけではない。が、馴染みの顔に逢えたことは、素直に嬉しかった。
 そして、男性に対しては辛らつな批評をする彼女が、手放しで認める数少ない男性の1人が、ウィロビー伯爵ウィリアム・ナイトレイだった。ちなみにブラッドについては、「昔よりましになったわ。これから期待できるかもしれないわね」だそうだ。

 ウィロビー伯爵は、容姿も整っているし、爵位もあるし、資産の運用もここ数年の努力によって改善されているという。社交的で人好きもするし、何より、悪い噂を聞いたことがない。
「老若男女問わず、彼の悪口をいう人は見たことがないわ。聖人じゃないのだから、誰にとっても好印象の人っているわけがないと思うの。生来の魅力だけで全ての他人を惹きつけるなんて、とても無理よ。多少の良い悪いはあるはずだわ。
 それなのに、悪い話を聞かないということは、あの方はそこをうまく立ち回っているのね。とても頭の良い方だと思うわ」
 自分が他人に与える良い印象を、巧く使いこなしている。ウィニーの云いたいことは、ソフィアにもよく伝わってきた。

 実際一緒にオペラを観たりしても、彼は実にそつがない。とても自然にエスコートする所作に、大人の男性の落ち着きが漂う。
 様々な集まりに顔を出しても、必ず知り合いがいるらしく、しょっちゅう声をかけられて足を止めている。彼の隣にいると、社交界デビューしたてのお嬢さん方から一斉に嫉妬むき出しの眼差しを向けられるし、ロンドン社交界の人気者だというのは、この1ヶ月ほどで身に沁みてわかった。
 地位も人望もある人なのに、驕ったりせず、気さくに会話に応じてくれる。ソフィアと一緒にいるアンにも、きちんと声をかけたり、ダンスに誘ったりという配慮をしてくれるのだ。
 どのような女性でも手に入れてしまえるだろうに、ウィロビー伯爵はなぜ、未亡人で子供もいる自分に、声をかけてくれるのだろう。理由は、いくら頭を捻っても思い浮かばなかった。

 あまり男性に深入りしない方がいい。

 過去の経験でそれを学んでいるソフィアは、ウィロビー伯爵に対しても、間に一線を引いて、一人前の淑女として適切に振る舞うよう、常に自分に言い聞かせていた。誰かと親密な関係を築き、愛し愛される喜びを味わいたいという気持ちがあるのも事実だ。昔のように自分1人のことだけを考えていればよいなら、新たな恋愛を求めるのもいいと思う。しかし、今のソフィアには、娘のグレースと、忠実な使用人や小作人たちがいる。軽率な行動に歯止めをかけているのは、伯爵未亡人という地位なのだ。
 ウィロビー伯爵だけでなく、熱心に声をかけてくれるハガード大尉など、やってくる男性陣に対して、ソフィアの扉はぴったりと閉じられたままだった。

 ヨークシャーは、ロンドンから簡単に訪ねてこられる距離ではない。以前のように静かで穏やかな日々が、取り戻せるだろう。ウィロビー伯爵のような素敵な人とお近づきになれるのは、魅力的ではあった。離れるのは残念だが、今のように節度をもって接する関係のうちに、物理的な距離を置いてしまうのが、賢いやり方だ。
 やはり、近々ヨークシャーに帰ろう。じきに雪解けも終え、荒れ野は生き生きとした息吹を取り戻す。春の到来を告げる大地の呼び声が、遠くからそろそろ聞こえてくるはずだ。

 ソフィアの物思いを破ったのは、軽いノックの音だった。返事をすると、アンがグレースを抱いて入ってきた。今日の午後、ソフィアと共に、さる貴族のご婦人が主催したお茶会に参加したアンは、やはり外出用のドレスから着替えていた。複雑に編んだ髪を解き、緩くまとめて後頭部で留めている。彼女の赤みがかった金髪は、暖炉の火を受けて、赤い影を揺らめかせていた。
 彼女の緑の瞳は、愛おしげに、腕に抱く幼女に注がれている。
「母さま!」
 アンの腕から母親へと手を伸ばし、ニコニコと笑っているのは、今年4歳になるグレースだ。黒い巻き毛が小さな頭をふわふわと縁取り、ソフィアとそっくりの眼差しが、母親の姿を映し出している。
 降りようとして足を少しばたつかせたグレースを、アンは危なげなく床に降ろして、母親に向けて駆け出す小さな背中を楽しげに見つめた。耳周りのサイドに流れた髪を、大きなリボンで頭の後ろで留めているから、ふわりとした巻き毛と、ピンクのリボンが、なびいて揺れた。

「ただいま、グレース。お留守番ありがとう」
 幼子のむっちりとした手が、椅子を立って身を屈めたソフィアにしがみつく。ふっくらとした赤い頬にキスをして、甘い匂いのする身体をぎゅっと抱きしめると、心の中までほっと温かくなる。
 邪気のない子供の温かな身体は、大人が抱える様々な悩みを消してくれるかのようだ。慣れない土地で1人生きるのに、グレースの存在が、日々の慰めとなった。心細い夜も、自分を信じきった澄んだ瞳に見つめられると、不思議と力がわいてくるのだ。
 ソフィアにとって、グレースはこの世で最上の宝物なのだ。

「今日はいい子にしていたそうよ」
 抱き合う母子の姿を見守るアンが、くだけた口調で報告した。身分の上ではリンズウッド伯爵夫人がはるかに上位のため、出逢った当初はかしこまっていたアンだったが、堅苦しさを嫌うソフィアの希望で、人目を気にしなくていい時は、友人として接している。地元では同世代の者が少なく、2人は年がさほど離れていない貴重な友人なのだ。
 地元の学校への援助など、普段からソフィアの仕事を手伝っているアンは、グレースとも友人だ。1人っ子のグレースは、アンを姉代わりとして慕い、懐いている。アンも1人っ子のせいか、年の離れた妹のようにグレースを可愛がってくれているのだ。

「それはえらかったわね。あなたは母さまの誇りだわ」
 額をこつんと合わせて、真面目くさった口振りでいうと、グレースも(幼いなりに)重々しい口振りで、
「母さまもわたしの誇りだわ」
と、返してくる。そうして部屋中に3人の笑いが弾けるのが、いつものパターンだ。

 気分はたちまち、羽が生えたように軽くなる。室内に笑い声のこだまが残るうちに、再びソフィアは寝椅子に腰を下ろし、アンは近くのソファに座った。グレースが母親の隣に座ろうと、寝椅子によじ登ろうとしている。それを抱え上げ、隣に座らせているうちに、ノックの音がして茶器を持った若いメイドが入ってきた。
 エミリー大叔母の口利きで、適正価格で借り受けたこのタウンハウスは、持ち主が静養で温暖な外国に行っている間、使用人も置いていってくれた。そのため、この家で身の回りにいる使用人のうち、元々ソフィアに仕えているのは、侍女のアリスと、従僕のダン、それにグレースの乳母ぐらいのものだ。他家の使用人といってもレベルは高いので、安心して来客の対応もさせているが、慣れ親しんだ人々のもとに戻りたいという想いが、こういうところでも芽生えてしまう。

 テーブルでメイドがお茶の用意をしている間に、先ほど決めたことを告げておこうと、ソフィアはアンに顔を向けた。疲れたように、暖炉の火をぼんやりと眺めていたアンが、視線に気づいて顔を上げた。
「どうかしたの、ソフィア?」
「あのね、考えてみたのだけれど――」

 ソフィアの言葉を遮ったのは、再びのノックの音だった。扉が開き、執事が銀のトレイに郵便物を乗せて入ってきた。いくつもの封筒が乗っているそこに、アンとソフィアの注意は流れてしまう。アンの表情が浮かないのは、おそらくまた父親から届くだろう手紙のことを思ってに違いない。
 うやうやしく差し出されたトレイの上から、封筒を受け取り、ソフィアはひとまず先にそれらを確認することにした。ウェルズ大佐からの手紙が紛れていれば、それをさっさと「やっつけ」てしまった方が、アンにとっては夕食の収まりもいいはずだ。
 アンの視線が手元に注がれているのを意識しながら、ソフィアは1つ1つの封筒を確認していった。主の邪魔にならないよう、執事は一礼をして、音もなく退室していく。メイドが準備している紅茶の、茶葉が蒸れてから発するすっきりとした香りが、暖炉の前にまで漂ってきた。

 領地の管理を任せている家令からの分厚い封書が、真っ先に目についた。おそらく、共同出資している鉄道事業に関する月例報告の写しや、退職願いを出している村の小学校教師の、後任選出についての資料だろう。帰宅してからすぐに取りかかれるように、資料を送付するよう指示しておいたから、そろそろ届くはずだった。
 家庭内だけでなく、領内全体について、様々な観点から状況を把握し、適切な判断を下せるよう、ロンドンに出てきてからも、ソフィアは伯爵代理としての責務を果たすように心がけてきた。
 アンについて外出するだけの、華やかな社交生活を送っているのではなかった。外出しない夜や午前中の時間は、もっぱら書斎にこもり、家令や代理人、家政婦たちへ手紙を書いた。必要があれば代理人や弁護士を呼んで、速やかに決断を下してきた。
 夫に背中を押され、グレースに支えられて歩んできたソフィアの世界は、大きく広がり、刻一刻と動いているのだ。社交シーズンを途中で切り上げても惜しくないのは、そのためだろう。5年前の彼女なら、地団太を踏んで残念がったに違いないのだから。
 リンズウッド伯爵家に付随する事柄は、いまやソフィア自身の問題でもあるのだ。早く中身を確認したい衝動に駆られたが、アンの視線を感じて手を止めた。領地からの封筒は、逸る心を抑えて開封を後回しにし、ソフィアは手早く残りの封筒を確認していった。

 ロンドン滞在を始めてから見慣れた、癖のある筆記体で『ミス・アン・ウェルズ』と記された宛名書きと、裏に大佐の署名が入った厚みのある封筒は、今回は見当たらない。最後の1通を手にとると、宛名は『リンズウッド伯爵夫人』となっている。
「残念ながら、お父様のお手紙は、今日はなかったわ」
 思わずにやりとしながらアンを見ると、あからさまにほっとした表情を浮かべて、ソファに崩れ落ちたところだった。
「ああ、良かった!今はとてもじゃないけど、パパの長ったらしい質問を読んだり、答えを考えたりする気分になれないんですもの。パパの質問には、懇切丁寧、完璧に答えなくてはいけないし・・・・・・新聞の連載小説を書く方が、よっぽど楽に違いないわ」
 現在上流階級のご婦人方の間で愛読されているのは、某新聞に連載中の、永遠の愛をテーマにした小説である。作者は既婚夫人だという女性作家で、愛に恋する貴族女性が、幾多の障害を乗り越えながら、初恋の男性との絆を深めていくという内容で、連載開始から3年以上が経過している。いつ完結するのか、誰にもわからない。
 とはいえ、アンの言葉もあながち嘘とはいえない。父親の手紙と同じくらい分厚い手紙を書くことを要求されているのだから。
 だから今も、ソフィアは声を立てて笑ってしまった。
「確かに、アン・ウェルズも大作家だと思うわ」
「ええ、いつでもプロデビューできるわよ」
 わざとしかめつらしく言葉を返して、アンはやれやれと立ち上がった。そのままテーブルへ歩いていき、メイドからお茶を受け取った。椅子から滑り降りて、グレースもアンの側へと寄っていく。

 笑いの余韻を唇の端に残しながら、ソフィアは最後に残った封筒へ視線を落とした。上質の紙でできているから、どこかの貴族から届いた招待状か何かだろう。そう見当をつけながら、何気なく封筒を裏返したソフィアは、次の瞬間、突如顔を強張らせた。

 その封筒の裏に施された封蝋は、ソフィアも何度か見かけたことのある、バリー伯爵家の紋章だった。
 バリー伯爵――ブラッドの兄が、ソフィアに何の用があるというのだろう。彼らの祖母であるレイモンド侯爵夫人とは、時折手紙のやり取りをするけれど、アーサー・ヒューズとの交流はないはずだ。
 嫌な予感が、背中を走り抜けていく。
 緊張で、首の後ろが急に冷えていくのを感じながら、そっと封筒を開けた。情けないことに、指先が細かく震えてしまう。
 中から現れた、封筒と揃いの上質の紙で作られたカードを開くと、丁寧に刷られた文字が目に飛び込んできた。内容を追うにつれ、こめかみまでもが、すうっと冷えていく。
「ソフィア?」
 顔色が蒼白になったソフィアに気づいて、アンが声をかけてきたけれど、カードに視線を向けたまま、ソフィアは呆然と立ち尽くしていた。
「ソフィア、どうしたの?」
 アンの声は、今のソフィアの耳には入ってこなかった。ソフィアの意識は、ある1点にのみ向けられていた。

(ブラッド――!)

 舞踏会で見た彼の、皮肉げに口元を歪めた微笑が、脳裏に浮かんだ。このカードをソフィアに送るよう、彼が兄夫婦に働きかけたに違いない。
 それは、バリー伯爵家のカントリーハウスで開かれるハウスパーティーへの招待状だった。そのため、差出人はバリー伯爵夫妻となっている。

 ハンプシャーに広大な敷地を持つ伯爵家のカントリーハウスで開催される、大規模で豪華なハウスパーティーは有名だった。そこに招かれるのは大変名誉なこととされており、誰もが参加したがった。
 ソフィアも一度参加したことがある。5年前、社交界にデビューした春、ブラッドの口利きで招待状を手に入れ、夢のような時間を過ごした思い出の場所だった。
 今回の招待は更に、アンとグレースを連れての参加を歓迎するという1文まで加えられてる。バリー伯爵夫妻と交流のないソフィアと、その娘と友人まで招待するのは、伯爵夫妻の気前がよいとしても、唐突で不自然だった。

 伯爵夫妻とソフィアを繋いだ線の上に浮上するのは、ブラッドしかいない。
 彼のすらりとした後姿が思い浮かべると、視界がぐらりと揺れた気がした。

 目眩がするのも当然だ。ソフィアは刹那的に憤りさえ覚えた。
 キスの意味もわからないままなのに、ハウスパーティーに招くとは、彼は何を企んでいるのだろう。2人の間に存在した時間を、改めて甦らせようとでもいうのだろうか。伯爵家自慢の美しいカントリーハウス――ゴールド・マナーで。
 豊かな自然に囲まれたゴールド・マナーの、どっしりとした歴史ある城館が、瞼の裏に浮かんだ。5年前にただ一度きり訪れただけなのに、光景が鮮やかに甦ってくる。天に向かってそびえる塔、敷地を横切るテスト川、なだらかに続く丘・・・・・・森の中の古びた狩猟小屋、薪がはぜる音、重ね合った身体、サファイアの瞳。

 幸せな時間と、背中合わせに続く試練の記憶が、勢いよく噴き出し、立ち尽くすソフィアに襲いかかる。
 本能的に頭を掠めたのは、(逃げなくては)という警告だった。
 あそこに行ってはいけない。招待を断らなくては。

 思考するのはそこまでが限界だった。両脚が萎えて、全身に力が入らない。くらりと部屋の景色が回り、驚いたアンの顔がちらりと映ったけれど、すぐにソフィアの意識は、霧に飲み込まれるように白濁していった。
 手放した意識のきわ、夢のように境界線が曖昧になる中で、囁きかける声は、誰よりも愛したあの人のものだった。
(ブラッド、どうして――?)
 投げかけようとした声は、暗闇に呑まれ、どこにも届かない。底のない淵に沈んでいきながら、ソフィアは、むなしい問いかけを抱きしめていた。

2009/01/29up

時のかけら2009 藤 ともみ

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