第3章 追憶の館[7]

   ポール・ハガード大尉は、浮かない顔つきで、2階の廊下を1人歩いていた。

 今日の日中は、客人の大部分が敷地内の池で行われる釣り大会に参加している。そのため、広大なゴールド・マナーの中はひっそりと静まり返っており、廊下を歩いていても、時折メイドとすれ違うだけだ。
 館内に残っている客人も、談話室でお茶を楽しんだり、庭をそぞろ歩いたりして、ハンプシャーの春を満喫している。
 穏やかな春の午後だというのに、大尉は冴えない表情で、眉間に皺さえ寄せながら目的地を目指して進んでいく。つい先ほどまで一緒にいたミセス・ヒューイットの言葉が、何度も耳に甦る。

『手遅れになったら、何もかも台無しなのよ』

 まさしくその通り。懸念を同じくするからこそ、大尉は彼女に代わって、手を打つことにしたのだ。オーブリー寄宿学校仕込の淑やかさをかなぐり捨てて、ウィニフレッド・ヒューイットは、すぐにも部屋を飛び出す勢いだった。それほど激怒していたのだ。
 西翼から東翼へと長い廊下を越えていき、ある扉の前で立ち止まると、彼はひとつ深呼吸をした。この部屋を訪れた目的が、無事達成されますようにと、胸の中で秘かに神に祈る。

 これでダメならば、もう、打つ手はない。
 意を決してノックすると、中から返答があった。大尉は静かにドアを開けた。


 うんざりしていた。ソフィアとすれ違ったままの毎日にも、しつこく言い寄ってくる女性たちにも、延々と続くパーティーにも。

 ソファに身を沈めて、ブラッドは深いため息をついた。このままではパーティーも半ばが過ぎてしまう。今の状態では、パーティーが終わっても、結局何も得ないままになってしまいそうだ。

 『楽園』で遭遇して以来、彼女と2人きりで話す機会はなかった。ソフィアはいつも、誰かと一緒だった。ウィルやハガード大尉、グレシャム卿だったり、彼らがいない時は、ミセス・ヒューイットやミス・ウェルズが側にいる。
 ブラッドとは、せいぜい二言三言言葉を交わす程度だ。ウィルたちとは楽しげに談笑しているのに、ブラッドの側にはちっとも近寄ってこない。たまに短い会話をしても、彼女は表情を強張らせて、当たり障りない受け答えを終えると、するりと離れていく。自分からも、満面の笑顔で話しかけることなどしないくせに、彼女のそういった態度に、酷くイラついていた。

「お疲れかな、ブラッド?ミス・テイラーは、君にすっかりお熱のようだが」
 意味深な笑いを浮かべ、向かいのソファに座るケヴィン・ヒューイットが、悪戯っぽく目配せを送ってくる。そうして年齢相応の表情をすると、彼が見に纏う冷たい雰囲気も、どこかに消え失せてしまう。2人の間にあるテーブルには、書類の束が広げられている。先ほどまで熱心に業務拡大についての議論を戦わせていたが、ひと区切りついて休憩を取っているところだった。

 ブラッドの個人用書斎には、彼ら2人の姿しかない。

 日頃は怜悧な実業家で通している彼も、個人的に親しい人間には、意外と豊かな表情を見せる。特に、同年のブラッドには気を許しており、2人は様々な話題を率直に語り合う仲だ。
 しかしブラッドは、親友といっていいケヴィンにも、ソフィアとの過去を打ち明けられずにいた。察しのいいケヴィンは、ブラッドがソフィアに興味を持っているとあっさり見抜いたが、ブラッドが語りたがらないことは詮索しない。彼が口を開く気になるまで、黙って見守っている心積もりのようだった。
 そして新たに現れた、ブラッドの周りを離れようとしない女性との関係についても、意見を押しつけてくるようなことはしない。ケヴィンがこの状況を明らかに面白がっているとわかってはいるが、アーサーのように、忠告をすることが義務だと考えていないのは、ブラッドにとって気楽だった。

 からかうように言葉をかけられても、ブラッドは肩を竦めてみせるだけで、無言を通す。ここでアーサーなら、弟から何かしらの言葉を引き出すまで食い下がるところだが、ケヴィンはいかにも楽しそうに、口の端を釣り上げただけだった。
 いつもならば、すかさずブラッドもやり返すのだ。冷酷と評されることもあるケヴィンが、ウィニーにすっかり夢中になっている様子を、からかわない手はない。けれど今は、ミス・キャサリン・テイラーについて、何か言及することも億劫だった。

 さっさと別の話題に移ってほしいところだが、ケヴィンにその気はないようだ。鳶色の双眸を煌かせ、わざわざブラッドのわき腹をつつくような真似をする。
「我が妻によると、館内では、ウィロビー伯爵とリンズウッド伯爵未亡人、フォード伯爵とミス・テイラーというカップルが誕生したのではないかと、専らの評判らしい。ご婦人方は、何とか挽回しようと目の色を変えているそうだよ。このハウスパーティーが終わるまでに、2人の青年伯爵をモノにしようとね」
「――馬鹿馬鹿しい」
 テーブルに散乱する書類に伸ばした手を止め、ブラッドが吐き捨てた。やり手の実業家だけあって、ケヴィンはこちらの弱点を的確に突く術を心得ている。共同で仕事にあたっている時は心強いが、からかいの対象にされると面倒だ。
 眉を潜めて向き合ったブラッドの表情は憮然としているが、ケヴィンは全く動じない。面白そうに微笑んでいるだけだ。
 観念して、ブラッドは両手を挙げた。降参するしかない。
「ミス・テイラーのことは、美しいとは思うが、結婚を考えたことはない。何しろ、出逢ってまだ1週間も経ってないんだから」
「向こうはそう思ってはいないようだが」
 微笑を消して、ケヴィンは冷静に感想を述べた。

 遅れてハウスパーティーに合流したミス・テイラーを、到着初日の夜会でエスコートしたのは、ブラッドだった。それ以来、何かの催しがあると、彼女はブラッドにべったりくっついて離れようとしない。勿論、ブラッドは全ての時間を社交に捧げているわけではないので、常に一緒にいられるとは限らないのだが、ことあるごとに彼女が現れ、潤んだ瞳で微笑みかけてくる。
 両親に連れられて英国へやってきたキャサリン・テイラーとは、今回が初対面で、それまでは何の面識もなかった。テイラー夫妻がコネを使ってバリー伯爵夫妻に働きかけ、ゴールド・マナーへの招待状を手に入れたと聞いている。特にヒューズ一族とも、親交がある一家ではなかった。

「ミスター・テイラーが経営する企業の将来性を、私に語って聞かせたのはどこの誰だったかな?面識を持つことで有益性があると説いたのは?フォード伯爵家にとって利益があると判断したから、私は彼の娘をエスコートしただけだ。それに、ホストの身内には、滞在している客人をもてなす義務がある」
「確かに君のいう通り、テイラー家と親交を持つことの有益性を語ったのは私だ。だがブラッド、あまり彼女にばかり構っていると、本人も周囲も誤解をするぞ」
 ケヴィンは、やれやれとばかりに眉を上げてみせた。
「それほど彼女の相手ばかりをしているつもりはないが」
「わかってるさ。君が社交にばかり時間を割いていられないのは。私も同じだからね。ただ、君が社交に費やす貴重な時間、ミス・テイラーが側にいることが多いだろう?君が思っていることと、周囲が受け取る印象は、必ずしも一致しない。よくあることだ」
 親友の言葉は実に正しくて、ブラッドはぎゅっと口を引き結ぶしかなかった。ケヴィンの指摘通り、他の誰かと会話をしていても、ミス・テイラーがブラッドの周囲にぴたりと張り付いていることが多い。彼女が上品に微笑んで、ブラッドを見守っていれば、他の人々からは微笑ましい恋人同士の構図に見えるのだろう。

 実際は、ブラッドが気を取られているのは、側にいるミス・テイラーではないというのに。
 その想いを見透かしたように、ケヴィンがにやりと笑った。
「あまり他のことに気を取られていると、その隙をキャサリン・テイラーに突かれるぞ。気を抜かない方がいい。ウィルを見習って、うまくやることだね。そうでなければ、大切な人にも誤解されてしまうぞ」

 一番最初に、テイラー夫妻とキャサリンをヒューズ兄弟に紹介したのは、ケヴィンだった。同じアメリカの東海岸出身で、ニューヨーク社交界でも既知の間柄だから当然だが、彼は特にキャサリンについて、よく知っているようだった。
 初対面の場に居合わせたウィニーは、微笑を浮かべて挨拶をしてはいたが、目は笑っていなかった気がする。それはキャサリンも同様で、2人とも艶やかな微笑みを浮かべているのに、ちっとも和やかではない空気に包まれていて、非常に居心地が悪かった。ちらりと助けを求めてケヴィンを見たが、彼は「仕方ない」という風に、苦笑を返してきただけだった。
 あの時は聞けなかったが、今なら口にしても良さそうだ。
「ケヴィン、君はミス・テイラーと恋人だったのか?」
 ブラッドの問いに、ケヴィンは目を丸くして、それから吹き出した。
「まさか!私が彼女と恋愛関係になったことは1度もないよ。それは妻も知っている。ミス・テイラーに誘われたことはあるけどね」
 過去を思い出したのか、ケヴィンの頬に苦笑が浮かぶ。
「今まで質問されなかったからいわなかったが、彼女はニューヨーク社交界では知らぬ者がないほどの有名人なんだよ。『恋多き女』でね。独身で金持ちの男性とだけ、噂されていた。彼女の条件をクリアした者には、光栄にもお声がかかるっていうわけだ。条件を満たさない者は、話しかけることも許されない」
「君は条件を満たしたってわけか」
「ああ。一応ヒューイット家は、ニューヨーク社交界の王家だといわれているからね。テイラー家にとっても、ヒューイット家と手を組むメリットは大きい。両親からの期待も大きかったんだろう、彼女から、興味があるとはっきり言われたよ。具体的には、ベッドに誘われたがね」
 未婚の女性が、男性をベッドに誘うなど、淑女らしからぬ行為だ。だが、淡々と過去を語るケヴィンは、一片の嫌悪や侮蔑も交えていないことに、ブラッドは気づいた。堕落した女性を嫌悪しているケヴィンだ。露骨に男性をたらしこもうとする女性を、普段の彼ならば軽蔑するだろう。違和感を覚えて、ブラッドは慎重に尋ねた。
「しかし君は、きっぱりと断った?」
「ああ。テイラー家と手を組むメリットは、ヒューイット家にとってはそれほど大きくはなかった。我が家は単独でも、十分アメリカで地盤を固めているからね」
 あっさりとケヴィンは言う。有益なものを選び、無益なものは迷わず切り捨てる。合理的で明快な彼らしい選択だ。

「どちらにしても、私の結婚には、政治的な要素が入り込むことは避けられない。それならば、とことん有益だと思える相手との結婚を望もうと思ったのさ」
 望んだ結果、ケヴィンが得たのは、ウィニーという伴侶だった。ウィニーも、困窮する実家を建て直すために、裕福な花婿を探していた。それが両親から課せられた義務だった。全て納得づくで結婚したと彼はいう。
「仕事でも有益になり、私生活にも利益をもたらす相手を得たい。そういうことか?ミス・テイラーは、その条件に当てはまらなかったわけだな」
「どうしたんだ、ブラッド。今日はやけに突っ込むね」
 否定はせずに、ケヴィンは困ったように笑って、どこか遠い目をした。
「相手の出す条件をこちらが満たしても、こちらの条件を相手が満たすとは限らない。互いに条件が合致する相手とは、そうそう簡単にはお目にかかれない。だが、伴侶選びに妥協はしたくないじゃないか。心底納得できる相手と添い遂げたいと願うのは、傲慢かな?少なくとも君は同意してくれると思っていたが・・・・・・」
 ケヴィンの鳶色の双眸が、真っ直ぐブラッドに向けられる。口振りと同じく、淡々とした眼差しは、ただ純粋に、ブラッドの意見を問うものだ。自分の意見を押しつけたりせず、冷静に相手の意を問うてくる。
「私は――」

 ブラッドが逡巡した時だった。書斎に降りた沈黙を破ったのは、控え目なノックの音だった。
 鳶色とサファイアの眼差しが、入り口の扉に向けられる。ブラッドが誰何する声に答えたのは、客人の1人ものだった。実直な軍人の訪問を、断る理由はない。入室を促され、扉を開けたのは、ポール・ハガード大尉だった。

 後ろ手に扉を閉めた大尉は、随分緊張した面持ちだった。空いている1人がけのソファを勧めると、ブラッドは戸棚に歩み寄り、グラスを取り出してポートワインを注ぐ。
 ソファに座る大尉にグラスを渡すと、それまでじっと見守っていたケヴィンが、声をかけた。
「ハガード大尉、それでも飲んで、少し緊張を解すといい」
 どこから見てもガチガチの大尉は、小さく頷いて、グイとグラスを一気にあけた。ふう、と息を吐く様子は、少しだけ気分がほぐれたようだ。ブラッドと目配せを交わしてから、ケヴィンが改めて大尉に声をかけた。
「何か問題があったのか?君がここに来るなんて、よほど重要な用件なのだろう?」
 グラスを両手で包み込むようにして、やや俯きがちに座っているハガード大尉は、口を開くきっかけを探しあぐねているようだった。

 ケヴィンが指摘した通り、ブラッドの個人用書斎に出入りする人物は限られていて、使用人ですら、許可なくこの部屋に立ち入ることができない。掃除をするため出入りする人間は、ブラッドや執事の信頼を得ている者だけに決められている。全ては、この部屋がブラッドの非常に個人的な部屋であるための配慮なのだが、例えばウィルやケヴィンにとっては、ドアを開けるにも躊躇いがない。彼らは自分の書斎同様にこの部屋を利用することを認められているのだ。
 彼らにとっては敷居の低い部屋なのだが、他の客人にとっては、侵してはならない聖域のようなもの。アーサーやブラッドと親交があるとはいえ、ハガード大尉にとっては、気軽に訪問できる場所ではない。事業に関心があるならともかく、軍人である大尉には、足の向かない場所なのだ。
 それなのに、案内も乞わずひとりきりで訪れるとは、何かただならぬことがあったのだと推察できる。それが、言いにくい用件であることも。

「楽にして、まずは話してくれないか?ここまで来たのだから、もう遠慮はなしだ」
 ケヴィン・ヒューイットという男は、冷静沈着な実業家であるが、相手の警戒心を解かす話術にも長けている。冷徹なほど合理的な判断を下せるが、こうして親切そうに振る舞うこともできる。見るからに有能な男が、自信に溢れて親身に頷いてみせれば、大抵の相手は、この人にならば任せても大丈夫だと安堵するのだ。現に、全身を強張らせていたハガード大尉も、ほっと肩の力を抜いた。
「・・・・・・実は、私は、このパーティーに参加されているあるご婦人の身の安全について、心配をしているのです」
 ハガード大尉が身辺を案じるほど親しい関係にある女性は、赤毛のミス・ウェルズだろうか。意外な話題を切り出され、ブラッドは軽く目を瞠った。ケヴィンも同様で、2人は素早く目配せを交わすと、大尉に続きを促した。1度口火を切ったからか、重かった大尉の口も、次第に滑らかになっていく。

「その方に問題があるわけではないのです。素晴らしい淑女で、このパーティーでも、花形の1人となってらっしゃる。その方とお近づきになりたいと望む男性が多いのは仕方ないことです。もちろん男性の側が、良識と礼儀をわきまえていれば、問題はありません。ですが、残念なことに、醜い欲望の虜となっている方もいるようなのです」
「なるほど。その女性の名誉を汚す行動を取るような男性が、この屋敷にいるということだな」
 ブラッドが確認すると、ハガード大尉は憂鬱そうに頷いた。
「私も、いわれなく他人の名誉を貶めるような発言はいたしません。何度かその男性が、罪なきレディに強引に近づこうとする現場に居合わせてしまったので、心配しているのです」
 根拠なき中傷ではないと、大尉は強調した。軍人とはいえ貴族に家系に連なる彼は、貴族社会が名誉と身分を重んじる世界だということを、熟知している。自分よりも上位の人間を糾弾するなど、許されないことだ。それを承知の上で、大尉はブラッドたちに全て話すことにした。強い懸念を抱いている証拠だろう。

「それで、君はその女性の安全を確保する手段を講じたい、というのだね?」
「はい。私やグレシャム卿では、目の届かないところ、力の及ばないこともありますから。フォード伯爵やバリー伯爵、ミスター・ヒューイットのご協力を仰ぎたいのです」
 大尉は、それまで落としていた顎を上げ、ブラッドとケヴィンを真正面から見つめた。当初のおどおどした様子は、どこかにすっかり消えてしまっていた。強い意志を感じさせる視線を向け、背筋をピンと伸ばした姿は、軍人らしく堂々としている。
 両手を膝の上で組み、ブラッドは身を乗り出すようにして、静かに口を開いた。
「我が家に滞在している客人の安全を守るのは、ホストとしての義務だ。危険を防ぐために、喜んで手を貸そう。ここに来たのは正しい判断だったよ、大尉」
「ありがとうございます!」
「安心するといいですよ、大尉。フォード伯爵がこういうのだから、大船に乗った気持ちでいることだ」
 ぱあっと顔を明るくした大尉に、ケヴィンがからかうような台詞を投げたが、ブラッドはそれを無視して話を先に進めた。

「言い難いとは思うが、大尉、その危険な人物について情報をくれないだろうか?それから、気の毒なその女性のことについても。方策を練る上では、必要な情報なんだ。当然、不必要に他言はしない」
 淡々と諭すようにいわれ、大尉は困惑の色を覗かせたものの、じきに観念したようだった。敵を知らずして戦えない、ということは、軍人である彼自身、十分にわかっているのだ。歯切れの悪い口調で、大尉はある人物の名を挙げた。
「・・・・・・その男性は、ウィッカム男爵です」

 それを聞いて、ケヴィンが額に右手を当てて、小さく舌打ちをした。当然ブラッドに見咎められ、鋭く問い質される。
「ヒューイット、心当たりがあるのか?」
「何てこった。我が妻の心配は、当たってしまったのか?」
 ブラッドには答えずに、ケヴィンは眉を潜めて大尉に尋ねた。
「はい。今、ミセス・ヒューイットは、部屋で付き添ってらっしゃいます」
 そうか、と肩を落としたケヴィンに、ブラッドが再度、小さく苛立ちを交えて問いかけた。

「ヒューイット」
「――ウィッカムが狙っているのは、リンズウッド伯爵夫人だ。随分しつこくつきまとっていると、ウィニーが案じていた。それで、つい最近、バリーとウィロビーに私が相談をして、大尉とグレシャム卿を含め、彼女を守る算段について話し合ったところだった」
「私は聞いていない」
 ブラッドが僅かに口調を荒げたが、ケヴィンはすかさず、波紋のない水面のように落ち着いた口振りで切り返した。先ほどの動揺を見事に収め、いつもの平静さを取り戻しているのはさすがだ。
「君はその場には呼ばれなかった。これは、レディ・リンズウッドと親しいウィニーが、レディ・バリーと協議した上で私に持ち込んだ案件だった。自分の妻が絡んでいることだから、バリーは知る必要があるし、ウィロビーは親身になってレディ・リンズウッドの世話を焼いているから、相談するに相応しいと判断した。レディ・リンズウッドの周辺に張り付くには人手がいるから、大尉とグレシャム卿を巻き込んだ。それでウィッカムをレディに近づけないようにするつもりだったが、不都合があったんだろう」

 冷静に経緯を告げられ、ブラッドは不満そうに口元を歪めたものの、黙り込むしかなかった。見事に気持ちを切り替えたケヴィンが、大尉に向き直る。
「交代でレディ・リンズウッドのエスコートを務め、ウィッカムを近づけない作戦は、上手く機能していると思っていたのだが・・・・・・君がここに来て、我が妻がレディ・リンズウッドに付き添っているということは、何か危険な事態になったのか?」
 弾かれたように顔を上げたブラッドが、大尉に鋭い眼差しを向ける。ケヴィンとブラッド、2人が熱心に見つめる先で、大尉は言い難そうに話し出した。
「昨夜、夜会の後で部屋に戻るレディ・リンズウッドを、ミセス・ヒューイットが送っていきました。部屋の前をウィッカム男爵がウロウロしていて、ミセス・ヒューイットの姿を見て、急ぎで廊下の端に逃げたそうです。今後は部屋に入ったら内側からドアに鍵をかけるよう、レディ・リンズウッドに言い含めたと、ミセス・ヒューイットは話していました。
 今度は今日の昼過ぎ、午餐の後でした。一緒にいたレディ・バリーがメイドに呼ばれて席を外した間に、談話室にウィッカム男爵がやってきたそうです。生憎他に人がおらず、レディ・リンズウッドはすぐに談話室を出ようとしたのですが、腕を取られて、その――」

 大尉が言葉を探して窮している様子を見て、ケヴィンが助け舟を出した。
「誘いかけられたということか」
「はい。そこへレディ・バリーと行き会ったミセス・ヒューイットが、1人にするのは危ないからと駆けつけたのです。私も庭から戻ってきたところを行き会ったので、一緒に行きました。我々を見て、ウィッカム男爵はそそくさと逃げていきました。すぐにレディ・リンズウッドを部屋に連れて行き、ミセス・ヒューイットが付き添い、私はここへ来たのです」
「そうか・・・・・・」
 ケヴィンはため息をついたが、ブラッドは終始無言だった。サファイアの双眸は、射抜くような光を放っている。何やら不穏な空気を発しているこの部屋の主に代わって、ケヴィンは大尉に愛想よく笑いかけた。
「最悪の事態を防いでくれて感謝するよ、大尉。ここから先は、フォードも交えて対策を練るから、安心して欲しい。もちろん、今後もレディ・リンズウッドの周囲に気を配ってあげて欲しいけれどね。彼女に何かあれば、ミス・ウェルズも悲しむだろうから」
「はぁ・・・」
 赤毛の娘の名前を出され、大尉はうっすらと目元を赤くした。応接セットのこちら側とあちら側で、正反対の空気を出されても困る。不機嫌なオーラと、ほんわかとしたオーラの間に挟まれながら、ケヴィンは優雅に立ち上がり、大尉に近づいて右手を差し出した。

「相談にきてくれた君の勇気に感謝するよ。ありがとう」
 大尉も立ち上がり、2人は握手を交わした。実直で気のいい大尉は、ブラッドの様子を窺ったが、ここで下手に爆弾をつつくことはない。ケヴィンが巧みに大尉をドアまで誘導し、書斎の外へと送り出した。

 ドアが閉まってから、ケヴィン・ヒューイットは、やれやれと言いたげな視線を親友に向けた。再びソファに腰を下ろし、長い脚を組む。
「何事もなかったのだから、良しとしないか?彼女も怖い想いはしたかもしれないが、手遅れにならなくて良かったじゃないか」
 むっつりと黙り込んでいたブラッドが、怒りを含んだ眼差しを返してくるが、ケヴィンは軽くそれを受け流し、穏やかに見返しただけだった。2人きりとなった室内なら、歯に衣を着せぬ物言いもできる。
「自分ひとりが知らなかったことが、そんなに気に入らなかったのか?あの時点では、君にまで知らせる必要はないと思った。君はあまりレディ・リンズウッドに関心を示さなかったし、どちらかといえば避けている風に見えたから。知らせたとしても、あまり協力を得られないと思ったんだ」
「だが私には、客人の安全を守る義務がある」
「それはまず、ホストであるアーサーに課される義務だ。当主である彼を差し置いて、君にどうこうできはしないだろう」
 痛いところを指摘され、ブラッドはぐっと唇を噛みしめた。それを眺めながら、はっきりと認めればいいのに、とケヴィンは思った。義務云々ではなく、レディ・リンズウッドが心配なのだと。そのあたりは、ウィルの方がよほど上手く立ち回る。
 しかし、ここで押し問答を重ねても何もならない。

「でも、事情は変わった。ウィッカムは、なかなかレディ・リンズウッドに近づけないものだから、苛立ち始めたんだろう」
「それで実力行使というわけか。単純明快だな」
「彼の頭の中には、思考力なんてものはないだろうさ」
 吐き捨てるように呟いたブラッド以上に、辛らつな台詞を口にして、ケヴィンは首を横に振った。ウィッカムは、精神を豊かにすることより、筋肉を鍛えることに価値を見出す男だ。あの体格で押さえつけられれば、女性に抗う術はない。
「最悪の事態になる前に、手を打たなければならないが・・・・・・」
 うーん、と、ケヴィンが唸った。
「レディ・リンズウッドは、私たちがガードしていることを知らないんだ。知らせても、逆に困惑するばかりだろうから、今まで話してなかったんだが・・・・・・」
「まだ暫く、黙ったままでいい。ウィッカムのせいで、パーティーを楽しむ権利を取り上げられるのは面白くないだろうからな」
 サファイアの瞳に怒りを漲らせながらも、口振りだけは冷静なものに戻って、ブラッドは立ち上がった。そのまま窓辺へと移動する背中を見守りながら、ケヴィンが問いかける。
「けれど、私たちに君を含めた人数では、あの男を監視するにも限界があるぞ?」
「君たちは今まで通り、レディ・リンズウッドの身辺を警戒していればいい。その方が、彼女も気楽だろう。ウィッカムには、うちの忠実な従僕を幾人か見張りにつけて、陰から監視させる。怪しげな行動を取りそうになったら、私に知らせるよう命じておく。今日これから、奴の後を追わせる」
「なるほど。我々は引き続き彼女のケアをし、君がウィッカムをマークするんだな」
「その方が不自然じゃない。私が急に彼女をちやほやし出したら、何かがおかしいと考える人間が出てくるだろうから」
 ブラッドの声には自嘲の色が濃く混じっていたが、窓の外を見つめているため、ケヴィンからは背中しか見えない。何を思っているのか、察するのは難しかった。
「ウィッカムは腕自慢だ。何かあっても君1人で太刀打ちできるのか?」
「これでも一応、軍人だったからね。退役したとはいえ、腕には自信がある」
「これは失礼。では君は引き続き、ミス・テイラーの相手をしているといい。レディ・リンズウッドに関して何か報せが入れば、君にも伝えるようにするよ」
 テーブルの上の書類を手慣れた様子で整理してから、ケヴィンは立ち上がった。そろそろウィニーの様子を見に行った方がいい。ブラッドにも、1人きりで考えさせる時間を与えた方が良さそうだ。

「私からアーサーとウィルにも伝えておく。それじゃあ見張りの手配だけしっかり頼むよ」
「ああ」
 短い返答を受けて、ケヴィンはゆっくりとドアまで歩いていった。ノブに手をかけたところで振り返ったが、ブラッドは変わらずに外を見つめていた。その背中に向かって、ずっと胸に引っかかっていたことを問いかけてみる。

「私は、納得できる相手と結婚できて幸せだと思っているよ。君にもそういう相手が現れればいいと、友人として願っている。経験からいえば、時にはなりふり構わず、ただ1人の相手のために行動することも必要だよ」
 大切なのは、タイミングを逸しないことだ。余計な想いに捕らわれて、がんじがらめにならないように。

 最後に言い添えてから、ケヴィンはドアを開け、静かに書斎を出て行った。

 ウィルやアーサーとは違った意味で、あの友人の言葉には遠慮がない。窓辺に佇むブラッドの胸に、ケヴィンの言葉は微かな痛みを伴いながら、穏やかに降り積もっていく。5年前から、既にがんじがらめになっているこの身は、そう簡単には身軽くなれない。手足に重い枷をつけたままだ。
 それでも、ソフィアに他の男が傷をつけるのは我慢ならない。本当はすぐにでもウィッカムをハンプシャーから放り出したいところだが、さすがに強引過ぎる。あの男の弱みを見つけて、手早く追い出すことに決めて、ブラッドは深いため息をついた。今夜からは、到底眠れそうになかった。
 ガラス越しに見上げた空の青さが眩しくて、やけに目に沁みた。

2009/05/23up

時のかけら2009 藤 ともみ

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